「……本当に、俺が相手をするんですか」
稽古場の入り口で、日下部篤也はそう言った。
約束の日になった。
東京から来た一級術師は、長身の、少し気怠そうな男だった。肩に掛けた刀袋と、歌姫の持つ書類を交互に見ている。
「そのために来ていただいたんですが」
「東堂に勝った子でしょう。俺じゃなくて、もっと張り切る相手に頼めばいいじゃないですか」
「同じ流派の方に見てもらいたいんです。勝ち負けだけでなく、使っている技術も」
歌姫が答える。
少し離れたところで聞いていた三輪は、木刀を持ち直した。
手合わせが嫌なのだろうか。
だったら、無理にお願いするのも悪い気がする。
そう考えていたところで、日下部と目が合った。
「お前が三輪?」
「はい。三輪霞です。今日は、よろしくお願いします」
頭を下げると、日下部は短く頷いた。
「日下部だ。まあ、怪我のないようにやろう」
「はい」
「俺が止めたら止まること。お前も、何かあったら言え。続けられなくなってから我慢するなよ」
三輪はもう一度、頷いた。
隣で真依が、小さく息を吐く。
「今度こそ、ちゃんと終わるといいわね」
「うん」
三輪が答えると、前にいた日下部が振り返った。
「俺もそう思う」
*
楽巌寺が立ち会うことになり、確認は校内の広い稽古場で行われた。
真依とメカ丸は、歌姫とともに端へ下がっている。二年生たちは別の実習があり、今日はここにはいなかった。
最初は、構えと呪力の流し方だった。
日下部に言われたとおり、三輪は木刀へ呪力を通す。
「一度抜いて、もう一回。今度は握る前から」
「はい」
手を緩めて、持ち直す。
日下部は、三輪の腕ではなく、木刀の先を見ていた。
「……なるほどな」
「何か、違いますか?」
「いや。じゃあ、簡易領域は使えるな」
「使えます」
「見せてくれ」
三輪は木刀を下ろし、一度、歌姫へ視線を向けた。
歌姫が頷く。
次に、周囲を確かめた。
誰も近くにはいない。
三輪の足元から、呪力の境が広がった。
土に線が引かれたわけではない。けれど、その内と外では、空気に触れたときの感触が違っていた。
日下部の目が、少し細くなる。
「そのまま、一歩右へ」
三輪は右足を出した。
左足を寄せる。
境も一緒に動いた。
「もう一歩」
同じように動く。
「止めなくていい。前、左、後ろ」
指示に合わせて、三輪が歩く。
領域は消えなかった。
日下部はしばらく、その足元を見ていた。
「足を離したら解除、という縛りは?」
「最初は、そう教わりました。今は、つけていません」
「移動させるのも、教わったのか」
「歩いたときに、何がずれるのかは。あとは、ずれないように練習しました」
返事をしてから、三輪は相手の顔を見た。
日下部は、何か言いたそうに口を開き、閉じた。
「……そうか」
歌姫が、用紙へ何かを書き込む。
日下部はそれを見て、言い添えた。
「歩けるだけじゃないですよ。今、動く前と後で、ほとんど乱れてない」
そう言ってから、三輪へ向き直った。
「いったん解いていい。次は刀を使おう」
*
離れた場所に立てた細い標的を、三輪が抜刀で切った。
一本。
二本。
同じ位置から、踏み込む距離だけを変える。
抜くときも、戻すときも、鞘を握る手は大きく動かなかった。
最後の標的が倒れたところで、日下部が三輪の刀へ手を差し出した。
「見ていいか」
「はい」
受け取った刀を、日下部が確かめる。
「特殊な呪具じゃないんだな」
「普通の刀です。先生に、これを使うようにと」
「手入れは、自分で?」
「普段のは。研ぎは、お願いしています」
「そのまま続けろ。まだ替える必要はない」
三輪は少し安心して、刀を受け取った。
買い替えになったら、いくらかかるのか。
来る前に師から言われたこともあって、少し気にしていた。
鞘へ戻そうとしたとき、日下部が声をかける。
「手」
「はい?」
「左の甲。血が出てるぞ」
三輪は左手を返した。
薄い線が一本、走っていた。標的の切れ端を片づけたとき、木のささくれを引っかけたらしい。
「あ、本当だ。すみません」
刀を納めてから、指先で傷の周りを拭う。
ごく短く、呪力の流れが変わった。
細く開いていた皮膚が、閉じる。
歌姫が、用意しかけていた救急箱へ手を置いたまま止まった。
「三輪さん。今、何をしたの?」
「傷を塞ぎました」
「反転術式か」
日下部が尋ねる。
「はい。でも、自分だけです。人には使えません」
三輪は手を下ろした。
日下部が額へ指を当てる。
「そっちも、先に言ってくれ」
「すみません。聞かれたら、答えるつもりだったんですけど」
歌姫と日下部が顔を見合わせた。
端で見ていた真依が、低く呟く。
「……聞くこと、まだありそうね」
*
日下部が刀を腰へ差したとき、三輪も姿勢を正した。
周囲の確認が済み、歌姫が二人の間から離れる。
ここからは、手合わせだった。
互いに刃は止める。どちらかが続行を求めなければ、その時点で終わり。
先ほど日下部が説明した条件を、三輪は頭の中でもう一度確かめた。
「無理に付き合わなくていいからな」
日下部が言う。
「付き合う、ですか?」
「俺のやり方に。できることを見たいんだ。手順を踏むために、わざと遅くするな」
「……分かりました」
三輪は鞘へ左手を添えた。
日下部も同じように構える。
足元に、簡易領域が展開された。
三輪のものより、広い。
向かい合うだけで、どこへ踏み込めば刃が来るのか分かった。
正面だけではない。
右へ回っても、左へ動いても、そこには迎撃の準備があった。
三輪は相手の手元を見た。
日下部の右手は、まだ柄を握り込んではいない。
「始め」
歌姫の声がした。
三輪が、一歩前へ出る。
その足が日下部の間合いへ入るより先に、領域の境が広がった。
刃が来た。
三輪は抜刀し、最初の一撃を斜めに受け流した。
金属の鳴る音。
押し返そうとはしない。刀身を沿わせ、通ってくる刃の向きを変える。
日下部の切っ先が流れる。
けれど、次はもう戻っていた。
速い。
間に考える時間を置かず、次の攻撃へ移っている。
三輪は足を止めなかった。
もう半歩、中へ。
日下部の刃が低く走る。
三輪は自分の刀を引きつけ、鍔元でそれを外側へ逃がした。
日下部の左手が動く。
鞘が、三輪の手元へ入ってきた。
その接触より少し早く、三輪は腰を回した。
鞘の口が空を通る。
回った身体に沿って、三輪の刀が相手の肩口へ向かった。
日下部が受ける。
三輪は触れたところで刀を滑らせ、そのまま刃の下へ入った。
腕が交差する。
近すぎる距離。
日下部は間合いを取り直そうと足を引いた。
三輪の足が、それより先に動く。
逃げる先へ追いかけるのではなく、刀を戻すために必要な場所を塞いだ。
刃がもう一度、触れた。
日下部の手が上がる。
その下から三輪の左手が入り、鞘で彼の刀の根元を押さえた。
右手の刀は、脇腹の手前で止まっていた。
日下部が、息を止めた。
三輪は動かない。
日下部の刀も、そこから先へは進まなかった。
「……止めだ」
短い声がした。
三輪はすぐに刃を引き、二歩下がった。
「ありがとうございました」
頭を下げる。
顔を上げたとき、日下部はまだ、その場に立っていた。
自分の刀と、三輪の鞘を見ている。
「もう一本、やりますか?」
尋ねると、日下部は顔を上げた。
「……今のを踏まえて、少し変える」
「はい」
「だから、ちゃんと止めろよ」
三輪は、真面目に頷いた。
*
二本目では、日下部は待たなかった。
間合いの外から近づき、領域の広がる速さを変える。刀を出す角度も、一度目とは違った。
三輪も同じ入り方はしなかった。
自分の簡易領域を展開し、相手の攻撃を捉える。
刀を合わせる。
横へ動きながら、そのまま、領域も動く。
日下部が退いた先へ、三輪の間合いが届いた。
再び、金属が鳴った。
今度は、続けて三度。
日下部が三輪の切っ先を外へ押した直後、その押す力が消えた。
三輪の刀が手元へ戻る。
日下部が次の一撃を出すより早く、彼女は空いた側へ足を運んでいた。
今度、刃が止まったのは、胸元だった。
「止め」
日下部が言った。
三輪は刀を下ろした。
静かになってから、足元の土が思ったより乱れていることに気づく。
日下部は深く息を吐き、刀を納めた。
「もういい。ここまで」
三輪も納刀する。
鯉口が小さく鳴った。
日下部はその音を聞いてから、歌姫へ顔を向けた。
「俺より上です」
歌姫が、書類を持つ手を止めた。
「剣術と、今見せた結界の扱いについては。少なくとも、俺が稽古をつけて確かめる段階じゃない」
楽巌寺が、三輪を見る。
日下部は続けた。
「俺の領域が消されたわけじゃありません。迎撃も動いてた。そのうえで、中へ入られてる」
彼は自分の左手を見下ろした。
「次の刀を戻せる場所が、なくなってたんです」
*
短い休憩を挟み、日下部は三輪へいくつか質問をした。
領域を広げたときに、何を見ていたのか。
動きながら維持する際、どこへ呪力を配っているのか。
どうして二本目で、最後の角度を変えたのか。
三輪は言葉を探しながら答えた。
説明しにくいところでは、刀を抜かず、柄と足の位置で示した。
日下部は途中で何度か止め、同じ動きを自分でなぞった。
「ここで、もう戻せないわけか」
「先生の足がこっちへ向いていたので。そのまま引くより、反対の方が速いと思って」
「速いだけじゃないだろ。反対へ出られると、こっちの腕が邪魔になる」
「はい」
通じた。
三輪は少しだけ、嬉しくなった。
自分の動いたことを、最初から全部見失わずに話してくれる人は、多くなかった。
「お前、自分をどのくらい強いと思ってる」
話が一段落したところで、日下部が尋ねた。
三輪は顔を上げた。
歌姫も楽巌寺も、こちらを見ている。
「剣で戦うなら、負けるつもりはありません」
「相手が誰でも?」
「はい」
言ってから、三輪は自分の刀へ目を落とした。
昨日も、その前も、何度も握った柄だった。
できると思っていることを聞かれたから、そう答えた。
ただ、口にすると、少し大きなことを言いすぎたようにも聞こえる。
「でも、任務のことは、まだ教わってるところです。この前も、二人に助けてもらったので」
「そっちは、これからも教われ」
日下部が言った。
「一人で勝てることと、一人で出ていいことは別だ。そこの判断は先生に任せろ」
「はい」
日下部は頷き、楽巌寺へ向き直った。
「推薦の話は、俺からも上げます。ただし、等級の手続きと現場経験は、省かない方がいい」
「無論じゃ」
楽巌寺が答えた。
「実力に見合う評価はする。だが、それを理由に指導を終えるつもりはない」
歌姫が、そこで初めて記録用紙を閉じた。
「ひとまず、実技の確認はここまでにします。お疲れさま、三輪さん」
三輪は、ほっと息を吐いた。
*
道具を片づけていると、真依が隣へ来た。
「終わった?」
「うん。たぶん」
「たぶんじゃ困るんだけど」
「終わりって、言ってもらえたから」
答えると、真依は納得したように鼻を鳴らした。
メカ丸も、記録に使った端末を持って歩いてくる。
「二本目の最後、映像は残っている」
「本当? あとで見たい」
「お前が戻ってからでいい」
ちょうど、そのとき歌姫に名前を呼ばれた。
三輪は二人へ頷いてから、教師たちの方へ戻る。
真依は、その背中を見送った。
東京の一級術師に勝った。
自分より上だと、相手が認めた。
それだけのことがあっても、三輪は、さっきまでと同じように話していた。
分かっているのか、いないのか。
たぶん、分かっているのだろう。
真依は手元の道具を片づけ、三輪の鞄の横へ、自分の鞄を置いた。
*
「呪力の使い方だけは、今後も気にしておけ」
日下部が三輪へ言った。
「傷を塞げても、使った呪力は戻らん。反転術式を使えるからって、怪我を無視して動くな」
「はい」
「人には使えないと言ってたな」
「試したことはありますけど、うまくいきませんでした」
「できるようになると約束するなよ。治療を待つ側が、そのつもりになる」
三輪は頷いた。
日下部は、彼女の返事を聞いてから肩の力を抜いた。
「まあ、刀について俺が言うことは、あんまりない。今の手入れを続けること。それと、刃が傷んだら、ちゃんと見せろ」
「分かりました。今日は、ありがとうございました」
三輪が頭を下げる。
日下部は刀袋を持ち、歌姫と話しながら稽古場を出ていった。
三輪はその姿を見送り、自分の刀を袋へ戻した。
木刀も、借りた場所へ掛け直す。
振り返ると、真依とメカ丸が入り口にいた。
「あれ。先、戻っててよかったのに」
「あんた、鍵かける当番でしょ。私たちが残ってると面倒じゃない」
「あ、そうだった」
鞄から鍵を取り出す。
窓と、道具置き場と、奥の扉。
歌姫に言われたところを確かめてから、三輪は外へ出た。
「待たせてごめん」
「時間内だ」
メカ丸が言った。
その言い方が帰りの車のときと同じで、三輪は少し笑った。
三人で校舎へ向かう。
今度の実技では、もう、自分の強さを確かめてもらうために待つ必要はなさそうだった。
「あとで、先生にも連絡しないと」
三輪が言うと、真依が顔を向けた。
「剣を教えた人?」
「うん。今日のこと、気にしてると思うから」
「何て言うの」
三輪は少し考えた。
勝ったことも話す。反転術式を先に申告していなかったことは、また注意されるかもしれない。
それより先に、伝えたいことがあった。
「教わったこと、日下部先生にも分かってもらえたって」
答えると、真依は短く頷いた。
メカ丸が教室の戸を開ける。
三輪は刀袋を持ち直し、二人と一緒に中へ入った。