補助監督の藤村が三輪霞の名前を覚えたのは、本人と会うより先だった。
東京の一級術師が推薦に関わっている一年生。
京都校の東堂を、稽古で二度制した。
同行者の欄へ書く名前を確かめるつもりで開いた資料には、そういうことが記されていた。
日下部篤也の所見は、短かった。
剣術および簡易領域の運用について、自分を上回る。
藤村は一度、前のページへ戻った。
学年を確かめ、もう一度読む。
書き間違いではないらしい。
ただ、それをどう受け取ればよいのかは、まだ分からなかった。
*
日下部が京都校を訪れてから、一月余りが過ぎていた。
三輪は何度か、上級生や教師の同行する現場へ出た。
調査をして、位置を伝え、必要なら刀を抜く。戻ってから、記録に分からないところがあれば説明する。
少しずつ慣れたこともある。
同級生と一緒に受けられなかった授業を、あとから埋めることも増えた。
その日、三輪は二年生の加茂、西宮とともに、山間の観光施設へ向かっていた。
同行する歌姫の携帯電話が鳴ったのは、山道へ入ってしばらくしてからだった。
「……停止したのは、どちら側ですか」
歌姫が窓の外を見る。
斜面の向こうに、索道の支柱が見えていた。
「乗客は六人。係員とは連絡が取れるんですね。分かりました。扉を開けずに待つよう、伝えてください」
電話が切れる。
運転席の藤村が、道の先へ目を向けたまま尋ねた。
「故障では、ないんですか」
「車両の上で何かが動いたと、係員が確認したそうです」
車内が静かになった。
最初に連絡があったのは、山麓駅の周辺で続いていた異音と、従業員の体調不良だった。
調査では二級程度の呪霊が疑われていたが、姿を捉えきれていなかった。学校側が現場へ向かう間に、運行を止め、客を下ろす手配が進んでいた。
ところが、最後に山を下りていた車両が、途中で動かなくなった。
初めは設備の故障だと思われていたという。
歌姫が三人へ向き直る。
「到着したら、まず乗客と呪霊の位置を確認します。救助を優先。構内の人たちを外へ出すのは、係員と私が対応するから」
加茂が頷いた。
西宮は、座席の脇に置いた箒へ手を伸ばす。
三輪は、膝の上の刀袋を持ち直した。
*
山麓駅の待合室には、客と従業員が集まっていた。
窓の外を見ている人。携帯電話で話している人。係員へ何度も質問する人。
藤村は歌姫とともに責任者へ声をかけ、待合室から人を移す経路を確かめた。
その横を、三輪たちが通り過ぎていく。
細い少女だった。
挨拶の際には、名乗ってから頭を下げていた。荷物を下ろすときも、人の足元へぶつけないよう持ち替えていた。
刀袋を外しても、その印象は変わらない。
「西宮。風は?」
加茂が尋ねる。
「上で確かめる。今のところ、強くはない」
箒に乗った西宮が、駅の屋根を越えた。
加茂と三輪は、係員に案内されて乗降場へ向かう。
藤村も、無線機を持ってあとに続いた。
屋外へ出ると、湿った山の匂いがした。
空は白く曇っている。
止まった車両は、乗降場から数十メートル離れた場所にあった。斜面が落ち込む手前で、宙にぶら下がっている。
その屋根に、黒い塊があった。
初めは、大きな布が引っかかっているように見えた。
塊の端が、ゆっくり持ち上がる。
薄い膜が開いた。
その下に、節のある脚がいくつも折り畳まれていた。
「……おかしいな」
藤村の声が漏れた。
資料にあった残穢の規模と、目の前にいるものが合わない。
車両の窓の内側で、人影が動く。
呪霊の脚が、窓のそばへ下りた。
「三輪、まだ出るな」
加茂が言った。
三輪は頷き、乗降場の端で止まった。
頭上から、西宮の声が届く。
「六人とも車内。屋根に一体。脚が、上の設備に絡んでる」
加茂が弓を取った。
「窓へ伸びているものを落とす。西宮、上へ逃がさないでくれ」
「分かった」
矢が放たれた。
窓へかかりかけていた脚が、弾かれる。
黒い塊が顔を上げた。
膜が、開く。
屋根に張りついていた身体が、起き上がった。
大きかった。
身体の半分が屋根の端からはみ出し、長い脚が車両を挟む。
顔に当たる場所には、丸い穴が並んでいた。
穴の一つから、係員に似た声がした。
『お降りください』
車内の人影が、扉の方へ動いた。
「開けないで!」
西宮が叫ぶ。
藤村は無線機を口へ寄せた。
「係員からもう一度、乗客へ連絡を。外の声には従わないように!」
黒い脚が、扉の縁へかかった。
三輪が、加茂を見る。
「先輩。私、車両へ行きます。乗客のいる側の脚を、押さえてもらえますか」
加茂の視線が、一瞬、彼女の足元へ下りた。
乗降場の先には、空間がある。
車両までは、歩くための道などなかった。
「渡れるのか」
「はい」
返答は短かった。
無線の向こうで状況を聞いていた歌姫が、指示を出す。
『三輪さんが接近。加茂君と西宮は援護を。藤村さんは、その位置から車内を見ていてください。追加の応援も要請しています』
三輪が刀の柄へ手を置いた。
「行きます」
*
藤村には、最初の一歩がよく見えなかった。
少女が乗降場の端へ出た。
次には、斜め上を走る鋼索のそばにいた。
一度、足が触れる。
身体が沈むより先に、次の足が出る。
藤村が息を呑んだときには、三輪は車両の屋根へ降りていた。
呪霊の脚が、彼女へ振り下ろされる。
刀が光った。
一本、落ちる。
藤村は思わず車両へ目を凝らした。
落ちたのは、黒い脚だけだった。
すぐ隣を走る鋼索には、傷一つついていない。
三輪は足を広げすぎず、屋根の中央へ立った。
足元が揺れる。
彼女も同じ分だけ、膝を緩めた。
「動かないで、そのままでいてください」
車内へ向けて言う。
呪霊の顔が、三輪へ寄った。
丸い穴が、いっせいに開く。
『お降りください』
「三輪ちゃん、上!」
西宮の声がした。
膜が風を打ち、屋根の上へ影がかぶさる。
三輪の身体が低くなった。
脚の一本が、彼女のいた場所を通る。
金属の屋根が、浅くへこんだ。
三輪は振り返らず、刀を返した。
脚の先が切れて飛ぶ。
その動きとほとんど同時に、乗客のいる側へ伸びた別の脚を、加茂の矢が逸らした。
「左は見ている。前へ集中しろ」
加茂の声が届く。
「はい」
三輪が答えた。
藤村は、自分の無線機を握り直した。
刀を振る場所として、あの屋根は狭すぎる。
相手は大きい。脚も多い。下には一般人がいる。
けれど、三輪は大きく振りかぶらなかった。
伸びてくる脚の、その関節へ。
身体を支えている一本の、少し内側へ。
刃が通るたび、呪霊の姿勢が変わった。
車両を揺らすほど大きな動きをする前に、支えが一つずつ失われていく。
黒い塊が、屋根から浮いた。
膜を広げ、空へ逃れようとする。
西宮の箒が、その上へ回った。
打ち下ろされた風に、薄い膜が煽られる。
呪霊の身体が傾いた。
「三輪ちゃん、右!」
三輪はすでに、そちらへ向いていた。
屋根の縁へ踏み込む。
黒い脚が、頭の上へ迫る。
刀が、下から上へ通った。
硬そうな外殻が開き、その奥へ刃が入る。
呪霊の身体が、ひどく小さく折れたように見えた。
大きなものが、山の斜面へ落ちていく。
いや、落ちきる前に、形が崩れていた。
まだ一筋、車両の上へ絡みついていた脚を、三輪が切り離す。
車両が揺れた。
三輪は片膝をつき、屋根の枠へ手をかけた。
揺れが、少しずつ収まる。
西宮が周囲を大きく回った。
加茂は弓を下ろさないまま、落下した方角を見ていた。
しばらくして、三輪が顔を上げた。
「中の方、怪我はありませんか」
窓越しに、何人かが頷いたらしい。
三輪はそれを見てから、こちらへ片手を上げた。
藤村は、無線機の通話ボタンを押した。
何を、どこから報告するべきか。
考えるより先に、声が出た。
「車両の上から、対象が消えました。乗客六名、全員、車内にいます」
*
救助がすべて終わるまでには、さらに時間がかかった。
呪霊がいなくなったからといって、すぐ運転を再開できるわけではない。
係員が設備の状態を確かめ、歌姫が受け入れ場所を整えた。加茂は駅と車両の間を見守り、西宮は上空から、残る異常がないか調べ続けた。
三輪は車両の上に残った。
係員の声が届いたかを、窓から中へ確認する。待っているあいだに不安になった人へ、もう少しここにいてほしいと伝える。
藤村が三輪と話したのは、六人全員が待避所へ移されたあとだった。
彼女は乗降場の隅で、靴についた汚れを落としていた。
「三輪さん」
「はい」
「その……身体の方は」
「大丈夫です。制服、少し汚れましたけど」
そう言って、膝の辺りを見る。
確かに、黒い筋がついていた。
藤村は、自分でも妙な質問だと思いながら尋ねた。
「怖くは、なかったですか」
「足場は、気になりました」
三輪は、止まった索道を見た。
「揺らすと中の人が転びそうだったので。最初から全部、落とすわけにはいかなくて」
藤村は黙った。
彼女は、勝てるかどうかの話をしていなかった。
どの脚から斬るか。
どちらへ身体を落とすか。
あの場所で、そこまで考えて動いていたらしい。
「先輩たちが見てくれて、助かりました」
三輪が言う。
その視線の先で、加茂が西宮と話していた。
声をかけられたのに気づき、二人がこちらを見る。
「三輪。怪我がなければ、先生へ報告に行くぞ」
「はい」
三輪は刀袋を持ち上げ、藤村へ頭を下げた。
藤村はその背中を見ながら、日下部の所見を思い出した。
短い文章だった。
あれ以上、書きようがなかったのかもしれない。
*
その日の報告書は、一度、確認のために差し戻された。
呪霊の規模と、一年生が担った範囲が一致しない。
討伐の経過を、もう少し詳しく記してほしい。
連絡を受けた藤村は、添付した資料を開き直した。
乗客の人数。位置。各術師の配置。
現場で残した映像には、三輪が車両へ渡るところから、姿勢を低くして刀を振るところまでが映っている。
ただ、刀の動き自体は、ほとんど追えていなかった。
藤村は、加茂と西宮の説明を追記した。
西宮は上から見た脚の位置と、三輪が斬った順番を覚えていた。
加茂は、三輪が動いた瞬間と、自分が矢を放った時機を分けて話した。
二人とも、少女が一人で全部をやったとは言わなかった。
自分たちが何をして、その間に三輪が何を済ませたのかを、具体的に説明した。
書き足した報告を送信し、藤村は椅子へ背中を預けた。
しばらくして、別の問い合わせが入る。
今度は、三輪の同行可能な日程についてだった。
*
数日後、三輪は歌姫から、等級に関する通知を受け取った。
これまでの実績と、複数の術師による確認を経て、二級として登録されることになったという。
一級への推薦も進んでいるが、そちらは別の手順があるらしい。
「すぐに一人で行く任務が増える、という意味ではないからね」
歌姫が、先に念を押した。
「はい」
三輪は通知の紙を両手で持った。
正式な等級が上がったことより先に、頭へ浮かんだものがある。
「あの、先生」
「何?」
「任務の手当って、変わりますか」
歌姫は一度、三輪の顔を見た。
それから、別の用紙を取り出す。
「担当する内容と、実際に出た任務によります。ここは事務の方からも説明してもらいましょう。分からないまま予定を立てないようにね」
「はい。ありがとうございます」
話を聞き終えてから、三輪は廊下の窓際で携帯電話を開いた。
家へ送る文面を、少し考える。
多く送れそうだと、先に言ってしまっていいのだろうか。
まだ、実際の額は分からない。
三輪は一度、打ちかけた文を消した。
『学校で、等級が上がりました』
そこから書き直す。
弟たちに説明しても、何のことか分からないかもしれない。
それでも、まずは、決まったことだけを知らせたかった。
送信して、画面を閉じる。
「三輪」
背後から、加茂の声がした。
「通知を受け取ったか」
「はい。先日は、ありがとうございました」
頭を下げると、加茂は首を振った。
「あの現場の話なら、お前が乗客のところへ着いてくれてよかった」
三輪は顔を上げた。
「こちらこそ、矢があったので、前を見ていられました」
「ああ」
加茂は短く頷いた。
「ただ、次も同じように組めるとは限らない。同行する相手には、できることを先に伝えておけ。先方が知っていると思うな」
「……はい」
日下部にも、似たことを言われた。
強さを隠しているつもりはない。
けれど、自分が何をできるのかを、相手に分かるように話すのは難しかった。
加茂が手に持っていた書類を見て、三輪は尋ねた。
「先輩も、これから任務ですか?」
「下調べだ。明日の配置を確認してくる」
「お気をつけて」
加茂は軽く手を上げ、職員室の方へ歩いていった。
*
教室へ戻ると、真依が三輪の席を指した。
「予定、追加されてるわよ」
机の上に、新しい連絡用紙が置かれていた。
翌日の出発時刻と、担当する場所。
別の術師に同行し、建物の調査へ出るらしい。
「朝、早いね……」
三輪が呟く。
「授業は?」
メカ丸が尋ねた。
「戻ってから、資料をもらうことになってる」
「今日の続きだぞ」
「うん。今のうちに見ておく」
三輪は鞄を下ろし、教科書を出した。
通知をもらって、家へ連絡して。
少し落ち着いたところだったが、明日の荷物も、あとで確かめなければならない。
真依が連絡用紙の端を押さえた。
「帰る時間、書いてないけど」
「終わり次第、だって」
「ふうん」
真依は手を離した。
三輪は紙を手帳へ挟み、今日の授業で開いていたページを探した。
携帯電話が鳴る。
家からの返事だった。
おめでとう、のあとに、無理をしないようにと書いてある。
三輪は少し笑って、短く返した。
『大丈夫。明日も、先生たちと一緒だから』
送ってから、携帯電話を机の隅へ置く。
その隣に、明日の予定が挟まった手帳があった。
この前までは空いていた欄に、任務先の名前が一つ増えていた。