呪霊を祓ったのは、昼前だった。
古い事務所の三階。使われなくなった会議室に溜まっていたものを、三輪は窓や壁を傷つけずに斬った。
刀を納めたときには、同行した術師が、隣の部屋を確認しているところだった。
そのあと、建物をひととおり調べた。
管理者へ説明し、補助監督へ報告し、鍵を返す相手を待った。
近くに、もう一件、調査の必要な場所があるという話になったのは、その待ち時間だった。
「三輪さん、次の予定は?」
「今日は、このあと学校に戻るだけです」
答えると、相手は少し安心した顔になった。
「こちらから学校へ確認するから、時間が取れれば、もう一か所付き合ってもらえるかな。今の現場から近いんだ」
三輪は頷いた。
近いなら、その方が早いだろう。
調査が済めば、不安に思っている人も安心できる。
学校からの許可を待って、次の場所へ向かった。
帰りの車で窓の外が暗くなっていたときも、三輪は戦闘で疲れたとは感じていなかった。
ただ、鞄の中の教科書は、朝に入れたまま、一度も開いていなかった。
*
それから数日のあいだに、似たことが重なった。
午前中に終わるはずだった調査が、聞き取りの相手を待つうちに午後へ延びる。
戻ってから書く予定だった記録を、夕食のあとに回す。
受けられなかった授業の資料を読み、分からないところを確かめていると、いつの間にか日付が変わりそうになっていた。
三輪は、机の上の紙を二つに分けた。
明日、提出するもの。
明日のうちに、見ておきたいもの。
どちらも、思ったより多かった。
携帯電話を開く。
昼間、メカ丸が送ってくれた板書の写真を、もう一度確かめたかった。
写真の一部が、三輪の教科書とつながらない。
『ここ、先生は何て説明してた? 明日でいいので、分かったら教えてください』
画像へ印をつけ、送る。
すぐに返事が来た。
『今、やっているのか』
三輪は時計を見た。
もう、こんな時間だったのか。
『うん。帰ってから、少し遅くなっちゃって』
返事を打ち、鉛筆を持ち直す。
携帯電話が、また鳴った。
『明日の出発は何時だ』
『七時。準備はできてるよ』
少し間があった。
『なら、もう閉じろ。続きは帰ってからだ』
三輪は画面を見つめた。
質問したところより先に、そちらを返されるとは思わなかった。
『あと一つだけなんだけど』
『昨日も、そう言っていなかったか』
言っていた。
昨日は教室で、そのあと資料を持ち帰った。
三輪は教科書の端へ目印を挟んだ。
『分かった。今日はやめるね。ありがとう』
送ってから、少し考える。
『メカ丸も、遅くまで起きてるんだね』
今度の返事は、少し遅かった。
『こちらのことはいい。お前は明日、出るんだろう』
三輪は小さく笑った。
何となく、教室で言われているときの声で読めた。
『はい。おやすみなさい』
携帯電話を置く。
閉じた教科書の下から、手帳の端が出ていた。
週末の欄に、自分で書いた小さな文字がある。
弟の誕生日。
何か送ろうと思っていたことを、そのとき思い出した。
*
翌日の任務は、午後の早い時間に終わった。
三輪が学校へ戻ると、歌姫が職員室から顔を出した。
「お疲れさま。荷物を置いたら、少し話せる?」
「はい」
何か報告に抜けがあっただろうか。
思い返しながら席へ着くと、歌姫は机の上へ、ここ数日の予定を並べた。
その横には、三輪が現場から戻った時刻も書かれていた。
「昨日、何時に寝た?」
三輪の視線が、紙から上がる。
「えっと……十一時を、少し過ぎたくらいです」
「その前は?」
「もう少し、遅かったです」
歌姫は叱るような顔ではなかった。
それがかえって、答えにくかった。
「授業の資料を、夜に読んでいるのね」
「はい。でも、分からないところはメカ丸が教えてくれますし、今のところは――」
「追いつけてる?」
三輪は、言いかけた言葉を止めた。
読んでいない紙が、部屋の机に残っている。
「……まだ、少し」
歌姫が頷いた。
「明日の午後の同行は、外します。午前は予定どおり授業を受けて。午後は、空けておいていいわ」
「何か、確認ですか?」
「休む時間にして」
三輪は、すぐには返事をしなかった。
明日の予定を、頭の中で確かめる。
現場の資料は、すでにもらっていた。遠くはない。調査のあとの護衛に一人欲しいと、頼まれている。
「でも、明日は、私が行くことになってますよね」
「別の人へ引き継げます。そのための連絡は、こちらでします」
「私、戦うのは大丈夫です。怪我もしてません」
「ええ。昨日の報告も、そう聞いてる」
歌姫は、紙の一か所を指した。
「でも、移動と待機で、これだけ時間がかかってるわね。学校へ戻ってからの分は、この予定に入っていない」
三輪は、その時刻を見た。
任務先へ向かう時間。
現地にいる時間。
戻る時間。
自分でも、何時にどこへ行くかは知っていた。
けれど、それを一週間分並べて見たことはなかった。
「現場が延びたときに、次の予定を動かすところまで、こちらが拾えていなかったわ。そこは見直します」
「先生のせいじゃ――」
「私の仕事の話をしているの」
声は穏やかだった。
三輪は口を閉じた。
歌姫は、次の紙を重ねた。
「それから、追加で頼まれたとき。『このあと学校へ戻るだけ』と答えたそうね」
「はい」
「授業の続きをする時間も、あるでしょう。食事も、刀の手入れも。予定がないわけではないのよ」
三輪は手元へ目を落とした。
帰るだけ、と言ったときの自分を思い出す。
実際には、帰ってからやることがあった。
それを、空いている時間として答えていた。
「……頼まれると、行った方がいいかなって、思ってしまって」
「どうして?」
三輪は少し考えた。
相手が困っていたから。
自分なら、危険があっても対処できるから。
それと。
「お仕事ができれば、家にも、少し多く送れるので」
歌姫が顔を上げた。
三輪は、慌てて続ける。
「それだけじゃないんですけど。私が行けば早く終わるなら、その方がいいと思って。現地で待ってる方も、いるし」
「うん」
歌姫は最後まで聞いた。
「家のことを考えて働きたい、というのは分かりました。だから、そのためにも、続けられる予定にしましょう」
三輪が目を上げる。
「同行できる回数と、学校で受ける授業。戻る予定が延びたときに、何を翌日へ回すか。そこまで決めてから引き受けます」
歌姫が、明日の午後の欄へ線を引いた。
「断るときは、私が日程を調整していると言っていい。三輪さんが一件ずつ、相手を納得させなくても大丈夫」
紙の上に、空いた場所ができた。
三輪はその欄を見てから、頷いた。
「……はい」
「明日、何かしたいことはある?」
少し考えてから、三輪は答えた。
「弟に送る物を、見に行きたいです」
「それなら、行ってきなさい」
歌姫はそこで、ようやく笑った。
*
「で、明日は休めるの?」
寮へ戻る道で、西宮が尋ねた。
歌姫との話を終え、教室へ戻ろうとしたところを呼び止められたのだった。
「午後だけですけど」
「十分。私もちょうど出る予定があるから、途中まで一緒に行こ」
三輪は頷きかけて、立ち止まった。
「あの、先生から聞いたんですか」
「予定を直したってことはね。その前から、最近、三輪ちゃんをあんまり見ないとは思ってた」
「朝と、夜は……」
「朝はもう出てるし、夜は戻ってからずっと何かしてるじゃない」
西宮が足を緩めた。
「この前、廊下で会ったとき、何の話したか覚えてる?」
三輪は考えた。
洗濯機の話ではない。
あれはもっと前だ。
「……えっと」
「私が、買い物へ行くけど何か要るって聞いたの。そしたら、あとで考えますって」
「あ」
「そのままだったから、忙しいんだなと思ってた」
「すみません。忘れてました」
「いいよ。明日、自分で選べるんだから」
西宮はそう言って、先に歩き出した。
三輪も隣へ並ぶ。
明日の午後の予定を、何時までに終わらせるかではなく、何をしたいかで考える。
それだけのことに、少し時間がかかった。
*
翌日、三輪は午前の授業を最初から最後まで受けた。
途中で呼び出されることもなく、教科書を閉じるところまで、教室にいた。
「今日は、これから出るのか」
メカ丸が尋ねる。
「買い物。西宮先輩と」
「任務は?」
「先生が、別の方にお願いしてくれた」
三輪が答えると、メカ丸は短く頷いた。
「そうか」
それだけだった。
三輪は鞄を持ってから、隣の席を見た。
「この前は、ありがとう。寝ろって言ってくれて」
「寝ろとは、書いていない」
「教科書を閉じろ、だったね」
「……同じことだ」
三輪は笑った。
メカ丸は端末へ視線を戻す。
「資料が足りなければ、あとでまとめて渡す。夜中に一枚ずつ確かめるな」
「うん。でも、先生にも補習してもらえることになったから。全部、お願いしなくても大丈夫」
「なら、そのときに聞け」
「分かった」
真依が席を立ち、三輪の机へ一枚、紙を置いた。
「昨日の小テストの範囲。次、変わるって」
「ありがとう。……あ、ここから先なんだ」
「だから、前のとこばっかりやってないで、ちゃんと聞きなさいよ」
三輪は紙を受け取った。
鞄の中へ、すぐしまう。
あとで、と机へ置きっぱなしにしないように。
*
西宮は、買い物のあいだ、何かを急かすことはなかった。
弟はいくつなのか。何が好きなのか。
聞かれて答えるうちに、三輪もだんだん、売り場を見る方へ気持ちが向いた。
「筆箱、もうボロボロなんです。でも、まだ使えるって言ってて」
「三輪ちゃんみたい」
「……そうですかね」
「うん」
西宮は笑いながら、棚から一つ取った。
「こういうのは?」
三輪は受け取り、留め具を開けてみる。
弟が使う鉛筆や消しゴムを思い浮かべた。
前に欲しがっていた形とは少し違うけれど、こっちの方が、本人の好きな色だった。
値段を確かめる。
それから、棚のほかの商品も見る。
「こっちも、見ていいですか」
「もちろん」
何種類かを比べて、三輪は最初に取ったものを選んだ。
会計のあとで、誕生日の贈り物だと伝える。
包装された小さな箱を受け取ると、ようやく、ちゃんと間に合うと思えた。
店を出たところで、携帯電話が鳴った。
画面に表示された名前を見て、三輪の背筋が伸びる。
歌姫からだった。
「はい、三輪です」
『今、少し話して大丈夫?』
「はい」
何かあったのだろうか。
三輪は買い物袋を持ち替えた。
『来週の合同訓練の連絡です。東京校へ行くことになったから、戻ったら日程を受け取ってね』
「東京、ですか?」
『ええ。三人とも参加します。詳しい話は明日、教室で』
返事をし、電話を切る。
隣で待っていた西宮が、こちらを見る。
「何だって?」
「来週、東京校へ行くそうです。合同訓練で」
「ああ、その話。日程、決まったんだね」
三輪は頷いた。
東京の学校には、日下部がいる。
それから、師から何度か名前を聞いた、あの人も。
少し考えたところで、西宮が三輪の顔を覗き込んだ。
「今、誰のこと考えてた?」
「えっ。いえ、その、東京の先生方って、どなたがいらっしゃるのかなと」
「日下部さんには会ったよね」
「はい」
「ふうん」
西宮はそれ以上聞かず、笑って歩き出した。
三輪は少し遅れて、あとを追った。
*
翌朝、歌姫は職員室で、翌週の予定を確かめていた。
三輪への同行依頼は、まだ届いていた。
前回も短時間で終えたから。
近くへ来るなら、こちらにも寄ってもらえないか。
一つずつなら、どれも無茶な頼みには見えない。
歌姫はそれを日程表へ並べ、重なった時間を確かめた。
先行の調査を別の班へ回せば、三輪は必要な場所へ直接向かえる。
現地の聞き取りを先に済ませてもらえば、同行する術師も、情報の少ないまま建物へ入らずに済む。
逆に、急がない調査を三輪へ足し続ければ、緊急の救援を頼める時間がなくなる。
受話器を取り、担当者へ連絡を入れる。
「その調査は、明日の別班へお願いします。三輪の午後は空けておきます」
相手の返事を聞いてから、予定を書き直した。
*
三輪は昼休みに、弟への荷物を発送した。
小さな箱の中へ、短い手紙も入れた。
帰り道、携帯電話に届いた連絡を開く。
今日の午後は、変更なし。
授業のあと、歌姫に見てもらいながら、取りこぼしていた範囲を確かめることになっている。
三輪は手帳へ書き込んだ。
その下に、家へ電話をする時間も入れる。
来週は、東京。
知らない人たちと会う前に、まだ準備することがある。
けれど、今日は、夜まで全部を詰めなくてよかった。
三輪は手帳を閉じ、教室へ戻った。