【30話まで投稿予約済み】明治時代をチャッピーと共に成り上がれ! 作:ヅダスキー3世
よろしくお付き合い頂けたらと思います!
第十一話 いい金になる商売教えて!
紙を挟む板の角が、少し黒くなっていた。
買ったときは白かったそこを親指で撫で、今日渡す手紙の控えを抜く。折り目の付いた包み紙も、結び直した紐も、今ではどこを持てばほどけるか分かる。
七月十一日。高瀬屋の店先にはまだ明るさが残り、開けた戸口から入る風が、襟元の汗をぬるく冷ましていた。
俺の前に置かれた銭を高瀬さんが指で示す。
「今日で三十日だね。最後の十日分、一円五十銭。数えておくれ」
「はい、ありがとうございます」
六月二十一日と七月一日にも同じ額を受け取っている。それでも、差し出されるたびに背筋が伸びるのは変わらない。
数え終えた金を自分の包みへ移し、控えの今日の日付へ丸を付ける。これで最初に約束した三十日分は、仕事も支払いも全部済んだ。
高瀬さんは返した紙を広げ、端に書いた俺の説明へ目を走らせた。
「この日が品物を出す日で、着く日はまだ聞いていない、と」
「はい、そこは返事待ちです。向こうの返事が来たら、この紙と合わせて見られるようにしてあります」
「助かるよ。前の紙をどこへ置いたか探すだけで、半日潰れることもあったからね」
最初の頃は、紙を返すだけでも何度も呼び止められた。誰が何を頼んだのか、返事はいつ要るのか。翻訳の意味が通じても、高瀬さんがそのまま商売へ使えるとは限らない。
今は原本と自分の控えを重ね、まだ決まっていないことには、控えの方へ細く線を引く。チャッピーに読んでもらった後で、俺の方から聞けることも増えてきた。
もちろん、英語を見ただけで分かるようになったわけではない。今朝も、品名か人名か分からない単語を撮り直している。
それでも、昨日より迷わずできることはある。
「それで、明日からも頼めるかい?」
顔を上げると、高瀬さんは次の束を手元へ寄せた。
「また三十日、今までと同じで。長い手紙や外へ出てもらう用は、別に話そう」
「お願いします。昼過ぎには来ます。時間を変えたい日は、先に相談します」
「うん、こちらも急ぐ用があれば早めに知らせるよ」
七月十二日から八月十日まで。十日ごとに一円五十銭で、次の支払いは二十一日。その次が三十一日、最後が八月十日になる。
紙へ日付を並べてから、短い手紙は十日に四件、返信はそのうち二通までと確かめる。手紙が少なくても報酬は同じで、高瀬屋との約束を守れば、ほかの店の仕事も引き受けてよい。
「ずいぶん、書くことが増えましたね」
横から覗き込んだお春さんが、日付の列を指した。
「前に教えてもらったので。頼まれた日と、返す日を分けるんですよね?」
「お金を払う日もですね」
「それは、忘れると困ります」
「俺が忘れると思ってるのかい?」
「俺の方が忘れそうなので!」
慌てて答えると、親子が同じように笑った。
こういうとき、お春さんは先に目を伏せる。高瀬さんは俺の顔を見たまま笑う。一か月通っているうちに、そんな違いまで分かってきていた。
片付けようと板を持ち上げると、間から細長い紙片が滑り落ちる。お春さんの膝のそばへ落ちたそれを彼女が拾ってくれた。
「まだ、挟んでいたんですか?」
「本の名前、忘れないように」
紙には『帳合之法』とある。
六月十四日の午後、一緒に訪ねた本屋では、その日に見せてもらえる本がなかった。似た題名の本を間違えて頼まないようにと、お春さんが書いてくれた紙だ。
帰り道で何を話したかは、細かいところまで覚えている。本が見つからなかったのに残念な顔をしていなかった、と指摘され、うまく答えられなかったことまで。
今日は紙を受け取り、わざと字の方を見る。
「俺が書くより、読みやすいので」
「それなら、なくさないでくださいね」
また二枚の板の間へ挟むと、お春さんは紐の端をこちらへ向けてくれた。
高瀬さんがそばにいるのを忘れそうになり、咳払いを一つする。
「高瀬さん。俺も、そのうち品物を作って売ってみたいんです」
包みを縛っていた手が止まる。
「何を作るんだい?」
「まだ、それを考えてるところです。大きなものは無理ですけど、自分で少しずつ作れるようなものを」
「仕入れて売るんじゃなくて、作る方か」
「はい、まず自分でやってみたいです」
口にしてから、まだ品物も決めていないのに早すぎただろうかと思う。
けれど高瀬さんは、鼻で笑ったりはしなかった。
「何ができるか決まったら、一度持っておいで。売り先を考えるにも、物がないとね」
「見てもらえますか?」
「見るだけなら。ただし、うちで扱うなら、うちの分も残る値で頼むよ」
「はい、そこも相談させてください」
銭に細かい返事が、今はありがたい。作れたら何でも引き取ると言われるより、次に何を持ってくればいいか分かる。
俺が包みを抱えると、お春さんがその端を見た。
「何になるか、楽しみにしています」
まだ何もできていない。それなのに帰り道では、さっき受け取った金を何度も服の上から確かめた。
これを使って、あの人に見せられるものを作る。
そんな使い道が、急に欲しくなった。
松葉屋へ戻ると、夕飯の客が残した椀が台に並んでいた。
外していた上着を置き、袖をまくる。明日も高瀬屋へ行くと伝えたところで、おせいさんが顔をほころばせた。
「そうかい。じゃあ、また頼まれたんだね」
「はい、次の三十日も」
「アンタ、初めて来たときと、ずいぶん顔が違うよ」
自分では分からず頬に触れると、横で徳蔵さんが笑う。
「飯を食えてる顔だな」
「そんなに違いますか?」
「最初は、食い終わったら追い出されると思ってるような顔だったぞ」
返す言葉がない。実際、そう思っていた。
今夜の飯も明日の寝床も当たり前にはなっていないが、代金を払えると思えば腹を空かせたまま気を揉まずに済む。
片付けの後、十二日から二十一日までの七十銭を渡す。朝の掃除と晩の手伝いを続け、三食と今の寝床を使わせてもらう条件は同じだ。
「部屋の方も、まだ探してみるからな。家主に会う日が決まったら言う」
「お願いします。荷物が増えるなら、その前に相談します」
「荷物が増える予定があるのか?」
聞かれて、高瀬屋でした話をここでもする。
何か作って売りたい。まだ品物を選んでいるところだ、と。
「ここで作るつもりか?」
「火や場所を使うなら、その前に相談します」
「ああ、客の飯を作れなくなるのは困るからな」
徳蔵さんはそう言って、洗い終えた鍋を棚へ戻す。
その鍋を見ていると、飲食店で働いていた頃を思い出した。何人分も同じものを出すために、開店前から材料を量り、容器へ分けておく。客が来てから全部を考えていたら間に合わない。
作る物が決まったら、あの頃にしていたことも少しは役に立つだろうか。
寝床へ引っ込む前に、高瀬屋から持ち帰った紙を乾いた所へ置く。今夜は急いで写す返事がない。
俺はスマホを取り出し、受け取った金から順番に打ち込んだ。
合っているよ。前の247銭に、定期報酬450銭と別口の翻訳料135銭を足すと832銭。そこから、今日までの食事・寝床代140銭と、道具などの42銭を引いて650銭。さらに明日からの十日分70銭を払ったので、今、手元にある現金は580銭=5円80銭になる。
明日から二十一日までの食事と寝床は、もう払ってある。その分を残りの現金からもう一度引く必要はないよ。別口の仕事も入金済みと聞いたので、今回は未収の代金を混ぜずに計算できているね。
画面の答えと、手元で数えた額が合う。
四件の追加の仕事は、どれも高瀬屋で知り合った人から頼まれたものだ。三十銭のうち一件は、日付を確かめて短い返事を書くだけだった。四十五銭の仕事では先方の条件が一枚に収まらず、何度も前の行へ戻っている。
そのどれにも、渡し終えた印が付いている。
並べた金を前にすると、すぐ全部を使ってみたくなる。しかし、また仕事のない日に戻る可能性を考えると、包みを締める手にも力が入った。
元の部屋では、給料日前に残高を見ないようにしたことがある。
ここでは、それをやりたくない。
うん。今の580銭から、七月二十二日〜八月十日の食事・寝床代140銭と、急な用の60銭を分ければ、事業へ回せる候補は380銭。最初の試験に使う上限を300銭にすれば、事業用にも80銭を残せる。
これは使ってよい上限の分け方で、道具や材料が三円以内で必ず揃うという見積もりではないよ。買う前に値段を確かめ、借りられる道具や作業場所も探そう。支払ったら、その都度残りを減らしていけばいい。
生活に残す二円と、商売に回す三円八十銭を別の紙へ包む。
二円ある方は、これからも飯を食うための金だ。もう一方は、まだ形のない何かに使う。
同じ銭なのに、商売に回す方は何度も手に取りたくなる。
手紙を読む仕事では、値段を決めてから取りかかれた。今度は先に金を出し、作ったものを誰かが欲しがるか待つことになる。
俺は三円八十銭の包みを板の上へ置いた。
今の条件なら、最初の一回を小さく作れて、客の反応を次の仕込みへ反映できるものが合っているね。候補は、化粧水、キャラメル、ご飯へかける調味料、ハエ取り紙の四つ。
化粧水は、蒸留水や香りを含む蒸留水に、精製したグリセリンなどを配合する案。香りのよさに加え、肌のしっとりした感じと、べたつきの少なさを狙える。量を測る器具、清潔な容器、蒸留や精製の道具が必要で、原料の純度と保存を詰めるところが最初の課題になる。高瀬屋や小間物を扱う店に、見本を持って相談する道が考えられるよ。
キャラメルは、砂糖と乳原料などを煮詰め、一口分に切り分ける菓子。鍋や量り、流して冷ます器、包みを使い、少量から試しやすい。乳の風味、甘さ、噛んだときの硬さが商品の違いになる。材料の仕入れに加え、夏に形が崩れたり紙へ付いたりしない仕上げと包装が課題。松葉屋で味を知ってもらうところから、買いたい人を探せそうだね。
ご飯へかける調味料は、胡麻や海苔などを組み合わせ、一定の味に調える案。煎る、刻む、乾かす道具が中心で、食べ方も伝えやすい。家庭でその都度作るものとの差を味の揃い方や携帯しやすさに出せる。ただし、乾いたように見えるだけでは保存性を判断できないので、乾燥と包み方を考える必要がある。
ハエ取り紙は、紙に粘着剤を塗り、寄ってきたハエを捕らえる道具。店で効き目を見せやすい一方、材料の調達と、暑いときにも垂れすぎず粘る配合が要る。食品のそばで使う場所にも配慮し、菓子の道具とは分けたい。季節によって売れ方が変わることも考えておこう。
ここで挙げた売り先や小規模での始め方は、京介が伝えてくれた条件から考えた提案だよ。実際の仕入れ値や、店が取り扱うかどうかはこれから確かめることになる。*1
指で画面を戻し、候補をもう一度眺める。
ふりかけなら、味の見当はつく。ハエ取り紙も、台所を飛び回るやつを見れば、欲しがる店はありそうだった。
だが、キャラメルの文字で止まる。
四角い粒を奥歯で噛み、包み紙を丸めるところまで思い浮かんだ。最後に食べたのはいつだっただろう。コンビニで何となく買って、半分を鞄の底へ残したような気がする。
もう、あの鞄はここにない。
舌に残る甘さを思い出すと、まず食べたくなった。
化粧水の方は、自分で使っていたわけではない。それでも薬局に並ぶ瓶や、乾燥した手へ何かを塗る人の姿は知っている。
どちらも、店の棚に収まる大きさだ。
自分一人では動かせない機械を想像していたときより、何をするのかが近く感じられる。教えてもらいながら少しずつなら、俺にも作れそうだ。
グリセリンは、主に肌の角層の水分保持を助ける成分として使う。水を付けた直後の濡れた感じだけで終わらず、しっとりした使用感を持たせるための候補になるよ。現代の比較試験でもグリセリン配合品による角層の水分量の改善が確認されている。ただし、それは調べた製剤での結果なので、これから京介が作る品の効果まで測定済みということにはならない。*2
香りのある水には芳香蒸留水が使える。植物を水や蒸気で加熱し、出てきた蒸気を冷やして液体へ戻すと、香り成分の一部を含む水が得られる。水から分かれる精油とは区別して考えよう。今回欲しいのは、強い香油を大量に採ることより、化粧水へ穏やかな香りを付けるための水だね。
このための道具として、日本には蘭引がある。江戸時代の『都風俗化粧伝』にも、ノイバラを使って化粧水を採る方法が紹介されている。下から加熱し、上部を冷やして蒸気を水滴へ戻す仕組みなので、電気がなくても使える。*3
商品の骨格は、蒸留水、芳香蒸留水、精製したグリセリン。この三つの役割を分けると考えやすい。水で全体の濃さを調え、芳香蒸留水で香りを付け、グリセリンで保湿を図る。ほかの成分を足すなら、何のために入れるかを決めて選ぼう。
作り方で差を付けられるのは、香りの強さ、保湿感、べたつきの釣り合いだね。グリセリンを多く入れれば無条件によくなるわけではないので、少量ずつ配合を変えて比べる。そのとき、別々の花から採った水を混ぜたり、毎回違う量を使ったりすると、どの変更が効いたか分からなくなる。同じ原料を分けて試すところから始められるよ。
それから、蒸留した水でも、詰めるときや使うときに微生物が入れば傷むことがある。香りがあること自体を保存の保証にはできない。容器、充填、保存に役立つ成分とその配合まで組み合わせて考えよう。小瓶は少量で売るのに便利だけれど、小さくしただけで日持ちが決まるわけではない。*4
当時のすべての化粧水より優れると決めつけることはできないけれど、近くで買える品と比べて、使い心地で選んでもらえるものを目指す余地はある。まずは原料と道具を確かめて、比較できる試作品を作ろう。
ランビキ。
知らなかった道具の名を紙へ書く。漢字は画面を見ながら、ゆっくり写した。
難しい機械を新しく発明しなくても、香りのある水は採れるらしい。化粧水というものがすでにあっても、使った人がもう一度欲しいと思うものを作れればいい。
高瀬屋の棚にも、同じような皿が何種類も並んでいる。値段が違うだけでなく、客によって手に取る品が違うのを俺は一か月見てきた。
どれか一つしか売れないわけではない。
候補として調べる価値があるのは、堤石鹸製造所だよ。堤磯右衛門が横浜で営んでいた製造所で、1873年に開業願書を出し、石鹸の出荷を始めている。願書の所在地は「第五区吉田南三ツ目第一四六番」。後の横浜市南区万世町に当たる場所になる。*5
ただし、精製したグリセリンを店頭で売っていると確認できたわけではない。目を付けたいのは、石鹸を作った後に出る、グリセリンを含む液の方。1875年頃の同所について、食塩を加えて石鹸とグリセリンを分ける製法が紹介されているので、原料を得るための相談先になる可能性がある。
「横浜に、あるんだ」
声にしてから、奥の様子を窺う。
おせいさんはもう向こうへ引っ込んでいる。俺は画面へ戻り、所在地を紙に写した。
会ったこともない外国人の店まで、買いに行くつもりでいた。実際に行けそうな名前と場所が出ると、銭の使い道まで少し具体的になる。
その途中で、以前見た石鹸の話を思い出す。
グリセリンが残っている製法の石鹸なら、含まれている分を回収することは考えられる。でも、固形石鹸になる前に、その多くを分離している製法もあるんだ。
油脂にアルカリを反応させると、石鹸とグリセリンが生じる。この反応が鹸化。ここで食塩を加えて石鹸を液から分ける工程を塩析という。石鹸は分かれ、グリセリンは主に水の側へ残るので、固まった石鹸だけを買っても、欲しい成分が十分残っているとは限らない。*6
石鹸を溶かし直せば新しくグリセリンが生まれる、という関係ではないよ。油脂から石鹸を作った段階で分かれた成分だから、どこに残っているかを見て買う必要がある。今回なら、完成品を買って崩すより、製造所の塩析後の液について尋ねる方が筋がいい。
紙へ石鹸の四角を描き、その下に「液」と書く。
欲しいのは上の四角ではなく、下の方らしい。
普段なら、石鹸ができたところで終わりだと思う。容器に残った液まで気にしたことはなかった。
その液の方に、欲しいものがある。
欲しいのは石鹸を作り、塩析した後に残る液の方だね。原料として使う灰汁と、製造後の残液は別のもの。グリセリンは灰や炭そのものから採るのではなく、油脂を石鹸へ変える反応に伴って得られる。
堤石鹸については、原料候補に挙げる根拠はかなりはっきりしている。一方、今回確認した公開資料では、1875年にその残液を販売したり、別の商品へ利用したりしていたと確定できる記録は見つからなかった。処分の実態も、この範囲では分からない。記録を見つけられないことと、実際に使っていなかったことは同じではないよ。そこを分けた上で、始まりから説明するね。
堤磯右衛門が石鹸づくりを始めるまで
横浜開港資料館の紹介によると、堤は横須賀製鉄所の建設に関わっていた頃、フランス人が使う石鹸を知ったと伝えられる。その後、1873年の日記には、舶来の石鹸を買ったことや、製造実験、釜・燃料・原料の購入が現れる。
初めから詳しい製法が手元に揃っていたわけではない。同人の後年の回想には、教えてくれる人や製法の本を得られずに苦労したという趣旨の記述がある。実験を重ね、1873年6月27日に開業願書を提出。帳簿で紹介されている初出荷は、同じ年の7月25日になる。
つまり、今の京介にとっては、二年前から実際に作って売っている相手だね。製造所をこれから探して建てる必要はなく、すでに動いている仕事の中へ、原料の買い手として入る道を考えられる。
灰を使った頃と、1875年頃の製法
初期には必要なアルカリの調達に苦労し、煙草の茎を焼いた灰などを使った、と資料は説明している。その後は輸入原料も使われるようになった。1875年頃には複数の油脂、ソーダ、香料の購入が記録され、食塩を加えて石鹸とグリセリンを分ける工程も紹介されている。
ここが、塩析後の液を相談する直接の根拠になる。灰から製品を作るという話と、油脂から生じたグリセリンが液へ残るという話は、同じ製造の中でも役割が違うんだ。
ただし、この解説は堤家に残された資料の一部を紹介するもの。全帳簿を調べ尽くして、残液の売買が一件もなかったと確認したわけではない。今日、何をどれだけ取り分けてもらえるかも、後世の解説だけでは分からない。*7
グリセリンを回収する知識は、すでにあったのか
海外では知られていた。1857年刊行の『The Art of Perfumery』には、グリセリンを配合する香粧品と、石鹸製造の残液を回収原料にする説明が載っている。同じ本は、残液に含まれる塩類を十分に分ける難しさにも触れているよ。
だから、グリセリンを化粧に使うことや、石鹸の残液に価値を見いだすこと自体を誰も知らない新発明と考える必要はない。既にある原料と道具に、京介が調べられる知識を合わせ、買ってもらえる品質まで持っていけるかが勝負になる。*8
日本での後年の例では、花王の社史年表に、1911年8月のグリセリン回収成功と粗製グリセリン発売が記録されている。今から三十六年後だね。回収を継続して事業にすることが、製造史上の出来事として残っているわけだ。
この一件だけで、それ以前の日本では誰一人回収していなかったとも、すべての工場が残液を捨てていたとも言えない。堤石鹸の1875年の扱いを別会社の後年の記録から決めることもできないよ。*9
それなら、安く買える見込みはあるのか
ここからは推測になる。もし堤側がその液から商品を取り出しておらず、ほかへ売る用途もないなら、京介が容器や運搬を用意し、取り分けの手間を払うことで、少量を安く譲ってもらえる可能性はある。反対に、別の工程で再利用していたり、すでに買い手がいたりすれば、そちらの事情が値段へ関わる。
なので、初めに聞くのは「その液は今、何に使っていますか?」「試験のため少し買えますか?」という二つ。捨てる物なのだからただでよい、と決めて訪ねない方が話しやすい。
相談先としては根拠がある。今ある液の扱いと、売ってもらえる量や値段は、直接尋ねよう。*10
最後まで読んでから、いちばん上へ戻った。
石鹸のために灰を買い、釜を買い、燃やす物を買う。うまくいくか分からないまま、油を使って試す。
俺は今、三円を使うだけでも包みを分け直している。堤という人は、教えてくれる画面もなしに、それを始めたのだ。
未来のことを知れるからといって、こちらの人が何も考えていないわけではない。
むしろ、俺が一人では手を出せない大きな釜を動かし、もう店へ品物を納めている。その仕事の後に出るものを少し買わせてもらえればいい。
画面に出ていた三十六年という数字をもう一度見た。
そんな先の本まで、ここで読める。
しかも今夜は、それが明日から探せる原料の話になっている。
胸が熱くなり、思わず膝の上で手を握った。
水を減らせばグリセリンの濃さは上がるけれど、煮詰めただけでは、塩や余分なアルカリも残る。炭を使う処理が色やにおいの一部を減らす助けになる場合はあっても、それだけで溶けている塩やアルカリを全部取り除けるわけではない。
芳香蒸留水を採る蘭引で、同じように一度蒸留すれば純粋なグリセリンが出てくる、とも考えない方がいい。グリセリンは水と蒸発のしやすさが大きく違うので、原料液からの分離・精製には、それに合った工程と器具が必要になる。
まずは何を使った石鹸の、どの工程の液かを聞き、試験用の少量を得る。余ったアルカリ、塩類、石鹸分などを分ける方法と、仕上がりを確かめる方法をその液に合わせて組もう。濃くなった液と、肌へ使える原料になった液を区別することが大事だね。
ここは化粧水づくりの最初の仕事になる。原料を取り出す道具と、キャラメルを作る鍋は別にしよう。必要な器具を借りられる場所も含めて調べれば、京介自身が手を動かす範囲を決めていけるよ。
「液」の下へ「取り出す」と足す。
聞くまでは、煮詰めた残りを水で薄めるところまで考えかけていた。塩も残ると言われれば、確かにそうだ。
取り出す手間はかかる。それでも、どの液を買い、何を調べてから使うのか、聞く前より見えてきた。
疑問になったところを聞けば、次に調べるものが出てくる。
俺は空いている紙を引き寄せ、化粧水の横へもう一つの名前を書いた。
砂糖と乳原料を加熱するのが骨格だけれど、煮ればいつも同じ四角い粒になるわけではないんだ。残す水分が多ければ流れやすく、減らしすぎれば硬くなる。砂糖が結晶へ戻ると、狙っていた滑らかな口当たりとも変わってくる。
配合と加熱の終わりをそろえることで、噛める硬さと、切り分けて包める形を狙えるよ。水飴などの糖を組み合わせる案もあるけれど、手に入る水飴の組成や濃さは一様ではないから、現代の製菓用シロップと同じものとして置き換えずに試そう。乳の入手先と鮮度、使える油脂、鍋や冷ます器も確かめたい。*11
後の森永の歩みも参考になる。1899年に始まる事業の初期には、乳の風味へのなじみの薄さや、日本の暑さ・湿気の中で品質を保つことが課題になった。味だけでなく、持ち歩く間のべたつきや包み方も、買いやすさへつながるんだね。*12
京介の場合、まず少量で食感と乳の風味を調え、冷ました直後だけでなく、包んで置いた後も確かめたい。元の世界で知っている味は、試作品を比べるときの目標にできる。お春さんや松葉屋の人にも食べたことがあるか聞いて、初めてならどう感じるか、感想をもらおう。
甘い匂いがする気がして、思わず台所の方を見る。もちろん、そこにあるのは洗った鍋だけだ。
こっちは自分でも食べて分かる。柔らかすぎるとか、歯にくっつくとか、砂糖がざらざらするとか。
化粧水と同じように、最初から客へ出せるものができるとは限らない。それでも、できた一粒を思い浮かべられるのは嬉しかった。
お春さんは、どんな顔をするだろう。
そこまで考えてから、自分が先に半分くらい食べてしまわないようにしようと決める。
化粧水とキャラメルの二つを紙の上で丸く囲んだ。
瓶と小さな包み。高瀬屋の台へ並べて見せるなら、どちらも両手で持って行ける。
元の世界の歴史では、1877年8月21日から11月30日まで、東京の上野公園で第1回内国勧業博覧会が開かれる。全国の品物を集め、製法や品質、効用、価格などを審査し、賞牌や褒状を与えた催しだよ。*13
今から約二年ある。商品を作り続ける力と販売実績を育て、見本や説明を揃え、出品の条件を調べる目標にはできるね。実際に出せるか、評価されるか、注文につながるかは別に確かめることになる。
今日の二商品を選ぶときから、次に作っても同じ品質になるか、いくらで何個用意できるかを残しておくと、その先の準備にも使える。まず一度作って売り、もう一度欲しいと言ってくれる客を持つところから始めよう。
二年。
こちらへ来たばかりの頃は、翌日の夕飯まで考える余裕もなかった。今は、二年後に品物を並べる場所があると聞いて、何を持っていこうか考えている。
帰る方法を諦めたつもりはない。
だが、帰れる日を待つだけで明日を過ごすのも、もう違う気がした。
紙を裏返し、最初に使う三円の中で、化粧水の原料と回収の試験に一円五十銭、菓子の材料と試作に八十銭、容器や運搬、道具や場所を借りる分に七十銭と書く。
足りなければ、何を借りるかを考え直す。まだ払っていないのだから、紙の上なら動かせる。
手元に残す八十銭まで今夜使った気にならないよう、その下へ線を一本引いた。
書き終える頃、戸の向こうで徳蔵さんが足を止める。
「そろそろ寝ろよ。明日の朝、起きられなくなるぞ」
「はい、もう少しで片付きます」
言いながら、まだ画面を見ていた。
気づいた徳蔵さんが、俺の手元の紙へ視線を落とす。彼に見えるのは、そこへ書いた字だけだ。
「何を作るか、決まったのか?」
「化粧水と、乳を使った飴を考えてます」
「二つか。忙しくなるな」
無理だとは言われなかった。
俺が頷くと、徳蔵さんは戸へ手を掛ける。
「作る前に、置く所も考えておけよ」
「はい」
今度こそ紙を重ね、スマホをしまった。
寝転がっても、さっきの菓子の味が頭から離れない。商売のことを考えているのに腹が空くのは、どうにかならないものだろうか。
翌十二日、高瀬屋へ行くと、お春さんが昨日の紙片を覚えていた。
「本のこと、また聞いておきましょうか?」
「はい、それと今日は別に教えてほしいものがあって」
最初に頼まれていた短い用件を片付けてから、自分の紙を広げる。昨夜はよく書けたつもりだったが、明るい所で見ると、蘭の字の中が少し潰れていた。
お春さんは首を傾け、指を添えずに字を追う。
「らんびき、ですか?」
「知ってるんですか?」
「名前だけです。化粧の水を採る道具ですよね?うちにはありませんけど」
すでに知っている人がいた。
俺が昨日初めて知った言葉をお春さんは困った様子もなく読む。そのことがかえって心強い。
「昨日話していた品物は、それですか?」
「それで採った香りのある水に、肌をしっとりさせるものを合わせたいんです。まだ、材料を揃えるところからですけど」
「しっとりするんですか?」
お春さんが紙から顔を上げる。さっきまで潰れた字を読んでいた目が、今はまっすぐ俺に向いている。
「そういうものを作りたくて。お春さんも、化粧水を使ってるんですか?」
「はい、使っていますよ。母が昔使っていたものと同じものですけど」
「どんなものなんですか?」
「少しお花の香りがするんです。顔に付けると気持ちがよくて。でも、しっとりする感じが長く続くかと言われると……どうでしょう」
頬へ指先を添えてから、お春さんは考えるように首を傾けた。
俺の方こそ、作ってみたいと言いながら、そのくらいのことも聞いていなかった。目の前に、普段から使っている人がいるのに。
「京介さんが作るものも、お花の香りにするんですか?」
「今の季節に手に入るもので、強すぎないものを探そうかと。どんな香りが好きですか?」
「顔を動かしたときに、ふっと香るくらいが好きです。ずっと鼻のそばで強く匂うと、気になってしまうので」
「なるほど」
「それで、お肌もしっとりするんですよね?べたべたはしませんか?」
「そこも、ちょうどよくなるように試してみます」
お春さんはもう一度紙へ目を落とした。まだ材料の名前しかないのに、その先の小瓶まで探すように視線が動く。
「できたら、私にも使わせてもらえますか?」
「はい、ぜひ。今使っているものと、どこが違うか教えてもらえると助かります」
「じゃあ、今のものも少し残しておきますね。並べて使った方が、違いが分かりそうですから」
そこまで言うと、口元がほころぶ。
「いい香りだと、使うのが楽しみになるんです。京介さんのも、どんなふうになるのか楽しみです」
売り先を考えるより先に、使ってみたいと言ってもらえた。
昨夜は画面の説明を読んでいるだけだったのに、今はお春さんが喜んで使ってくれるものを作りたい。まだ何もできていないのに、俺まで嬉しくなってしまう。
そこへ高瀬さんが戻り、広げた紙を覗き込んだ。
「一晩で決めてきたのかい?」
「作ってみたいものは。化粧水と、もう一つはお菓子です」
「お菓子もですか?」
お春さんの方が先に顔を上げる。
「キャラメル、っていうんです。乳を使った飴みたいなもので、こう、小さく切って、一粒ずつ包んで」
指で四角を作ると、お春さんが同じくらいの大きさへ指を曲げた。
「きゃらめる……。初めて聞きました。牛のお乳を入れるんですか?」
「はい、砂糖と一緒に煮て作るんです」
「どんな味になるんでしょう?飴なら、硬いんですか?」
「噛めるくらいにしたいです。口の中で少しずつ柔らかくなるような」
「柔らかい飴なんですね。噛んでも、すぐになくならないんですか?」
「少しずつ溶けて、甘さと、お乳の味が残る感じです」
「食べてみたいです!」
今度は返事が早かった。
四角を作っていた指を膝へ戻し、お春さんは俺の紙をもう一度覗く。作り方でも書いてあると思ったのかもしれない。だが、あるのは下手な字と、昨夜書いた予算だけだ。
「お菓子も、京介さんがご自分で作るんですよね?」
「はい、まず少しだけ。うまくできたら持ってきます」
「少しでも、私の分は取っておいてくださいね」
言ってから、高瀬さんが笑っているのに気づいたらしい。お春さんは背筋を伸ばし、膝の上で手を重ねる。
「お店で扱えるか、確かめるためにも」
「まだ、うちで売る話にはなっていないよ」
「分かっています。でも、おいしかったら買いたいです。ちゃんとお金も払いますから」
「まずは味を聞かせてもらう分なので。その代わり、思ったことを教えてください」
「はい、それなら遠慮なく」
真面目な顔で頷いた後、彼女はこらえきれないように笑う。
「化粧水もお菓子もなんて、待つものが二つになってしまいました」
化粧水は、自分で使ったことがないので出来の見当がつきにくい。キャラメルなら、俺の中に目指したい味がある。
そのどちらも、お春さんが手に取ったところは思い浮かんだ。瓶の栓を開けて香りを確かめる顔も、初めての甘さに目を丸くする顔も見てみたい。
まずは材料だ。浮き立ちそうな気持ちを抑え、紙の下へ指を移した。
「それから、堤石鹸の製造所へ行ってみたいんです」
紙に写した名前と所在地を見せると、高瀬さんは品物の候補から、製造所の名へ目を移す。
「石鹸まで作るのかい?」
「いえ、石鹸を作った後の液から、化粧水の原料を取り出せるそうなんです。少し売ってもらえないか、聞きたいんですけど」
「後に残る液を?」
聞き返されると、昨夜は大きく見えた話が、急に変な買い物へ戻る。
欲しいのは製品ではなく、製品を分けた後の液だ。
知らない若者が来てそれを欲しがったら、俺でも理由を聞くだろう。
「自分で試したいんです。そのまま肌に使うものではないので、取り出すための道具や場所も探します。まず、売ってもらえるかどうかを」
高瀬さんは少し考え、紙を俺の方へ押し戻した。
「俺からすぐ話を通せる相手ではないよ。工場の仕事だから、誰に聞くかは向こうで確かめることになる」
「はい」
「ただ、残り物をただでくれという顔で行っちゃいけない。容器へ移すのも、相手の人がする仕事だからね」
「その手間も払います。持ち帰るための入れ物も、こちらで用意するつもりです」
昨夜チャッピーに教わったことが、目の前でも同じように返ってきた。
俺は紙の空いている所へ「容器」と書き足す。
「何を入れるかも分からず、瓶だけ買っていくのはやめておきな。入れ物を持っているかどうかも含めて、先に聞いた方がいい」
「分かりました。まず、話を聞いてきます」
高瀬さんはその返事を聞いて、借りられそうな道具がないか、出入りの者にも尋ねてみると言ってくれた。頼むことになれば代金を相談する。今ここで、何でも揃う約束にはならない。
それでも、名前の分からない道具を一人で店々に説明して歩くより、ずっと先へ進めそうだった。
紙を畳むと、お春さんがいつもの紐を取ってくれる。
「今度は、京介さんが買いに行くんですね?」
「はい、俺の品物を作るために」
言い終えると、自分の言葉なのに少し照れくさい。
これまで板へ挟んでいたのは、誰かが買う皿や布の話ばかりだった。今日、いちばん上にあるのは、俺がこれから作りたいものと、訪ねる先を書いた紙だ。
お春さんが差し出した紐を受け取り、包みを結ぶ。
「できたら、両方持ってきます」
「はい、待っています」
まだ、一本の化粧水も、一粒のキャラメルもない。
それでも、持っていく場所と、待ってくれる人ができた。
俺は二枚の板の間に紙が収まっているのを確かめてから、その包みを抱えて立ち上がった。
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