【30話まで投稿予約済み】明治時代をチャッピーと共に成り上がれ! 作:ヅダスキー3世
「部屋が見つかったぞ」
七月十八日の朝、洗った椀を伏せていると徳蔵さんが言った。
手の中で椀が滑りかけ、慌てて両手で挟む。
「本当ですか?」
「家主に話をしてきた。見るなら昼の片付けが済んでから連れていく」
「行きます!」
返事をしてから、まだ値段を聞いていないことに気づく。
部屋を探してもらい始めてから、もうひと月ほどになる。遠い所ならある、空くはずの家が空かなかった、と聞くうちに、自分の部屋というものがだんだん先の話になっていた。
それが急に、今日見に行けると言われたのだ。
「家賃はいくらなんですか?」
「ひと月八十銭だ。六畳に土間が付いてる。古いが竈も使えるそうだぞ」
「その土間で何か作っても大丈夫そうですか?」
「菓子の試し作りをしたいとは言ってある。詳しいことはお前から話せ」
八十銭。
頭の中で五円八十銭から引いてみると、ちょうど五円残る。
俺が黙っている間に、徳蔵さんは続けた。
「それと敷金も八十銭だ。最初に払うのは一円六十銭になる」
「あ、もう八十銭……」
「見る前から全部使う算段をするなよ」
包みの中身を見透かされたようで、思わず顔を上げる。徳蔵さんはもう別の椀を取っていた。
向こうでおせいさんが笑っている。
「アンタ、まだどんな家かも見てないだろう。気に入らなけりゃ帰ってくればいいんだからね」
「そうですよね」
「その椀を置いてから考えな。さっきから同じのを持ってるよ」
言われて初めて手元へ目を落とす。
布巾で水気を拭き、今度こそ棚へ戻した。
今日は昼の客が帰るまで長そうだ。
高瀬屋へ寄って午後の訪問が少し遅れると伝えてから、徳蔵さんの後を追った。
吉田橋を渡り、伊勢佐木町の通りへ入る。歩くにつれて、店先から呼びかける声や荷を下ろす音が重なってくる。徳蔵さんは俺が遅れていないか一度振り返り、羽衣町の弁天社へ向かう道へ折れた。*1
目印を覚えようと首を動かしていると、前から来た人と肩がぶつかりそうになる。
「帰りにもう一度通れば覚える。今は前を見て歩け」
「すみません」
弁天社の近くで、さらに細い路地へ入る。
軒先には桶が伏せてあり、上には洗った着物が掛かっている。通りの人声はまだ聞こえるが、ここでは隣の家で水を注ぐ音の方が近かった。
路地の奥に続く長屋の端で、小柄な男の人が待っている。家主だと紹介されて頭を下げると、相手は俺の顔から服へ目を移した。
「徳蔵さんのところで手伝ってる人か?」
「左江内京介です。今日はありがとうございます」
「背の高い人だね。そこは頭を下げて入っておくれ」
戸を開けてもらい、敷居をまたぐ。
中は外より暗かった。目が慣れると、土間の奥に竈があり、その横に小さな窓が見えてくる。焚き口の周りは黒く、上の壁にも煤が残る。
上がり口の向こうには六枚の畳が敷かれていた。縁は擦れ、戸口に近い一枚は色も違う。それでも、布団を敷いた自分の姿がすぐに浮かんだ。
朝になったら畳めばいい。そうすれば、今見えている広さをまた全部使える。
「上がって見てもいいですか?」
「いいよ。奥の畳は踏むと少し鳴るが、床が抜けるわけじゃない」
履物を脱いで上がると、言われた所で足元が小さく鳴った。
部屋の端から端まで歩いてみる。六畳の部屋でこんなに足を動かしたのは初めてかもしれない。
誰かが通るたびに寝具を寄せなくていい。紙を広げても、飯の膳を置くために片付けなくていい。
壁際に座り、目の前へ板を置く真似をしてみた。
「そこで書き物か?」
「はい、窓に近い方なら字も見えそうです」
「冬は寒いぞ」
徳蔵さんに言われ、窓枠へ目をやる。隙間は確かにあった。
今は七月なので、つい風が入る方を喜んでしまう。寒くなってから考えればいいと言いかけ、口を閉じた。
ずっとここに住めるかどうかも、まだ分からない。
家主に尋ねると、雨漏りは先の雨の後に屋根を直したという。今見える天井の染みはその前のものらしい。次に降ったときも確かめようと、染みの場所を覚えておく。
土間へ降りて奥の戸を開けると、建物の脇へ細く空が見えた。そこから風が通り、煤の匂いが少し薄まる。
竈と反対側の壁際には、腰より低い棚が残されていた。
「これは使ってもいいんですか?」
「前の人が置いていった物だよ。要らなければ片付けるが」
「使いたいです。ここへ道具を置けそうなので」
手で押してみると少し揺れた。脚の下に薄い木を噛ませれば落ち着きそうだが、重い物を載せる前に確かめたい。
竈の前へしゃがみ、鍋を置いたときの高さを見る。
飲食店の厨房とは比べものにならない。それでも、一人で鍋を見ながら隣の台へ手を伸ばすところを想像すると、仕事場に見えてきた。
「菓子を作ると聞いてるけど、店を開くつもりかね?」
「最初は少し作って、扱ってくれる店へ持っていきたいんです。ここへお客さんを呼ぶ予定はありません」
「ほかにも何かするのか?」
「化粧水の試し作りもしたくて。水を蒸したり、原料を少しずつ分けて調べたりします」
家主の目が竈へ動く。
「ひどい煙や臭いが出る仕事は困るよ。隣も人が住んでるんだから」
「今ある竈でできない作業は別に場所を探します。勝手に炉を増やしたりはしません」
「それならいい。井戸と便所は共同だから、あとで場所を見ておくれ」
水を使う量も考えておかなければならない。
井戸を見せてもらいながら、桶を持って戻る道の段差を確かめる。両手が塞がると、戸を開けるだけでも一度は下ろすことになる。
部屋へ戻ると、家主から家賃の区切りと敷金について説明があった。今日からひと月分で、敷金は出るときに未払いと壊した分を引いて返すという。
隣の人に呼ばれて家主が表へ出たので、徳蔵さんと二人で戸口に立った。
「どうだ?」
「借りたいです」
思ったより簡単に言葉が出た。
口にすると、もう一度土間へ入りたくなる。
けれど一円六十銭を払った後で困るのは俺だ。徳蔵さんに少し待ってもらい、部屋の隅でスマホを取り出した。
支払い後の現金は4円20銭になるね。内訳は、今日からひと月分の家賃80銭と、家主に預ける敷金80銭。どちらも今は手元から出るけれど、敷金は約束に従って返る可能性のある預け金だから、家賃と同じ費用として全部使い切った扱いにはしない。ただ、返してもらうまでは材料を買うお金には使えないよ。
高瀬屋の定期報酬は30日で4円50銭なので、家賃80銭はその約18%。継続して受け取れれば家賃を払う土台にはなる。ただし、食費や燃料、紙、寝具の支出もあるので、残りを全部商売へ使うのは避けたい。
二十一日までの松葉屋の代金はすでに支払っている。寝起きはそこを使い、借家では掃除と道具の配置から始めればいいね。今日から四日間は場所の支払いが重なるけれど、試作の準備に使うなら、そのために払う期間と考えられる。二十二日からの食事代を徳蔵さんに確かめてから、試作の上限を組み直そう。前に決めた3円は、借家の契約前に置いた予算だからね。
契約では、家賃がいつまでの分か、次に払う日、敷金を返す条件、家主が直す所と京介が負担する所を確認しておこう。家主が認めた仕事の範囲も大事だよ。土間があるだけで、どんな製造作業でもできるとは限らない。写真と寸法が分かれば、器具を置く順番も一緒に考えられる。
全部使える四円二十銭ではない。それでも、借りられない額ではなかった。
画面を閉じ、土間の幅を足で見当をつける。今度来たら紐で長さを測り、写真も撮ろう。
外で待つ徳蔵さんへ、二十二日からも食事をお願いできるかと尋ねた。
「朝の掃除と晩の手伝いを続けるなら、三食で一日六銭にする。それでいいか?」
「お願いします。寝る方はこちらへ移ろうと思います」
「じゃあ二十二日に十日分だな。寝具は持ってるのか?」
「まだなので、二十一日に次の報酬をもらってから揃えます。それまでは今の寝床を使わせてください」
「ああ。借りたからって今夜から床に寝なくてもいい」
言われて笑うと、肩から力が抜けた。
今日から自分の場所になることと、今夜ここで寝ることは別でいい。
家主が戻るのを待ち、次の家賃は八月十八日に払うと確認した。屋根の修繕は家主へ頼めるが、うっかり障子の桟を割れば自分で直す。壁の釘穴や古い畳の擦れも、その場で見てもらう。
借家の書付に名前を書く手は、翻訳の清書をするときより遅くなる。徳蔵さんも請人として名を連ねてくれた。
自分の出身について説明し切れていないことは、借家が決まっても変わらない。今ここで働いている俺を見て、徳蔵さんが引き受けてくれている。
渡す一円六十銭を数え直し、家主の前へ置いた。
「よろしくお願いします」
受け取りをもらってから部屋を振り返る。
さっきと同じ畳と棚だ。それなのに、何を置いていいのか、どこを使っていいのかと人の顔をうかがう必要がなくなった。
ここへ持って帰ってくればいい。
そのことが、八十銭という数字よりはっきり胸に残った。
高瀬屋で頼まれていた返事の清書を渡すと、お春さんが顔を上げた。
「お部屋はどうでしたか?」
「借りることにしました。羽衣町の弁天社に近い所です」
「あの辺りなら私も分かります。広いんですか?」
「六畳です。それと土間があって、鍋を置ける竈もありました」
「じゃあ、お菓子を作れるんですね?」
俺が何に使うか説明するより早い。
「その前に掃除ですけどね」
「化粧水の道具も置けますか?」
「土間の端に棚がありました。お菓子の物とは分けて置けそうです」
彼女は小さく頷き、奥から包んだ品を運んできた。
布が開かれると、青い模様の入った丸い焼き物が現れる。一つではない。大きさの違う器が重ねられていて、横へ細い口が突き出していた。
「これが蘭引です。お父さんが聞いてくれて」
「借りられる物があったんですか?」
「はい、まだお使いになる物なので、お借りする形ならと」
上の器を持ち上げようとして、俺は手を止めた。
「触ってもいいですか?」
「どうぞ。でも、そこは口が細いので気を付けてくださいね」
両手で持つと、見た目よりずっしりしている。
画面では仕組みを見ていたが、実物には指を掛ける所や、持ちにくい向きまである。空の器でもこの重さなら、水を入れたまま動かすのは大変そうだ。
上の器の内側を覗き込んでいると、高瀬さんが店先から戻った。
「二十日から二十九日までで二十銭。ほかに預けが二十銭だよ。欠けたり割ったりせず返せば預けは戻る」
「四十銭を先に払うんですね?」
「そうだよ。借り主はお前さんの名で頼むから、受け取りに来たときに払っておくれ。日数が足りなければ、勝手に延ばさず相談だ」
紙へ金額と返す日を書いた。
これで香りのある水を採れる。買うのを先に延ばしても、手を動かすところまでは進められるのだ。
お春さんは下の器へ目を落とし、少し考える顔になった。
「お花はもう決めたんですか?」
「それはこれからです。最初は水だけで使い方を覚えようと思って」
「そうなんですね……すぐにいい香りがするのかと思ってしまいました」
残念そうに言ってから、自分でも可笑しくなったらしい。器を包む布の端へ目を落として笑っている。
「でも、どんな香りになったかは教えてくださいね。お菓子の方も忘れていませんから」
「そっちも鍋を揃えてからなので、待っていてもらう物ばかり増えますね」
「待っている間も楽しみですよ。何も聞いていなかったら、こんな道具もただの変わった焼き物ですもの」
突き出した口を指で示し、彼女はもう一度こちらを見た。
俺も一週間前まで名前すら知らなかった。二人で眺めていると、借りるための四十銭が惜しくなくなる。
もちろん払う前には、包みの中身を数え直すつもりだ。
蘭引を置いて帰るとき、高瀬さんに翌朝の訪問予定も伝えた。堤石鹸へ行くが、昼過ぎにはこちらへ来る。返す紙がある日は、それを済ませてからだ。
新しい仕事が楽しみでも、家賃の元になる翻訳まで疎かにはできない。
夜の手伝いを終えてから、借家の間取りを紙へ描いた。
畳の方へ翻訳の紙、竈のそばへ菓子の鍋。原料の液は奥の隅に蓋をして置く。棚の上へ全部並べようとすると、思ったほど余裕はない。
土間の絵を撮り、チャッピーに見せた。
家が決まったんだね、おめでとう。道具を広げたままにできる場所があると、翻訳と試作の切り替えもしやすくなるね。
ただ、今回の蘭引は蒸留水や芳香蒸留水を採るための道具として考えよう。水と一緒に出てくる香りを集めることと、塩析後の液からグリセリンを取り出すことは同じではない。水を蒸留するとき、塩やグリセリンの多くは加熱する側に残る。口から出た透明な水をそのままグリセリンだと思わないようにね。
塩析後の液には、グリセリンだけでなく水、塩類、残ったアルカリや石鹸などが混じる。布で濾して取れるのは主に浮遊している物で、溶けた塩まで取れるわけではない。だから、濾す、濃縮する、塩類を分ける、原料としての品質を確かめる、という役割を区別して工程を考える必要がある。
この難しさは、今の京介だけの問題ではないよ。1857年の海外の香粧品製造書にも、石鹸工場の残液からグリセリンを得る方法と、塩類を十分に除く難しさが書かれている。石鹸工場の残液を原料にする考えには先例がある。ただし、その本の方法を読めたことだけで、手元の道具で同じ品質まで仕上げられるとは決まらない。*2
明日の買い付けでは、石鹸を塩で分けたときの液なのか、それとも掃除などの水まで一緒になった物なのかを確かめたい。使った油や、香料を加える前の液かどうかも、教えてもらえる範囲で聞こう。必要なのは石鹸の作り方を全部聞き出すことではなく、買う原料がどんな物かを知ることだよ。
最初は一升程度の小口で相談して、冷ました液を蓋の合う容器で運ぶ形が考えられる。*3濃さはまだ分からないから、一升から何本の化粧水ができるかは約束しない。見本を少量ずつ取り分けて回収方法を決め、必要な薬品や追加器具はその段階で選ぼう。菓子の道具へ使い回さず、家主と約束した範囲を超える加熱や設備が必要なら、その工程の場所も別に考える。
予算は、4円20銭から八月十日までの二十日分の食事代1円20銭と、急な用の60銭を確保すると、残り2円40銭。蘭引の借り賃と預け金40銭を払えば、ほかの道具や材料へ回せるのは2円だね。二十一日の報酬をまだ受け取っていないうちは、その入金を混ぜずに買う物を選ぼう。
蘭引の口から出てくるのは水の方で、グリセリンは元の器に残る。
急須みたいな道具から透明な液が出るところを想像して、危うくそれで全部できる気になっていた。
明日聞くことを紙へ書く。使った油、残った液の分け方、量、入れ物。長い質問を丸写しすると、相手の前で紙を読んでいるだけになりそうなので、思い出せる言葉だけ残した。
最後に「何に使うか」と書き足す。
これは向こうから聞かれることだ。
化粧水の原料を取り出したい。まだ取り出したことはないので、まず少しだけ試したい。
口の中で言ってみると、随分頼りない。
けれど、できると言い切って液を買っても、家へ戻ればできたことにはならない。紙を畳み、明日着る上着のそばへ置いた。
翌朝、製造所へ近づくにつれて、風に混じる匂いが変わった。
熱した脂に似ている。そこへ、何かを洗った後のような匂いが重なっていた。湯屋で使う石鹸を鼻へ近づけたときとも違う。
昨日、高瀬さんに道を確かめてもらった紙を開く。
堤石鹸製造所。チャッピーが調べた開業願書の所在地は、第五区吉田南三ツ目第一四六番だ。*4
出入りする人の邪魔にならない所で止まり、荷を置き終えた人へ声をかけた。
「すみません。こちらで石鹸を作った後の液を少し売っていただけないか、相談したいんですが」
「石鹸じゃなくてか?」
「塩を入れて石鹸を分けた後に残る液です」
相手は俺の手元を見た。容器はまだ持っていない。
今日は売ってもらえるかと、何に入れるかを先に聞く。高瀬さんに言われたとおりだ。
「何に使うんだ?」
「化粧水に使う原料を取り出す試験をしたいんです。どなたにお願いすればいいでしょうか?」
少し待つように言われ、入口の端へ寄る。
中から桶を持った人が来たので、さらに半歩下がった。自分では邪魔にならないつもりでも、働く人の通り道は外から見ただけでは分からない。
奥には釜が見え、長い柄を両手で握った人がその縁へ体を寄せている。
大きな釜で作ることはチャッピーから聞いていた。そのそばに立つ人の暑さまでは考えていなかったが、働く人の背中は汗で色が変わっている。
軒の下で待っている俺でも、首筋に汗が流れてくる。
しばらくすると、先ほどの人が男の人を連れて戻ってきた。
「残りの液が欲しいというのはあんたか?」
「はい、左江内京介と申します」
「堤磯右衛門だ。話を聞こう」*5
本人が出てくるとは思っていなかった。
この人が堤さんなのかと顔を見つめかけ、慌ててもう一度頭を下げる。
堤さんは俺を脇へ招いた。中を見て回るような案内ではなく、荷の動く所から外して話すためらしい。
「化粧に使うと聞いたが、あのまま顔へ付けるつもりじゃないだろうな?」
「そのままは使いません。中に残っているグリセリンを取り出して、香りのある水と合わせたいんです」
「グリセリンか」
初めて耳にした言葉を聞き返すような様子ではない。
堤さんは俺の紙を一度見てから、顔へ目を戻す。
「どこで知った?」
「外国の本で読みました。石鹸を分けた後の液から取り出せるとあったので」
「やったことはあるのか?」
「まだありません。だから最初は少しだけ分けていただいて、自分で試したいんです」
言い終えてから、唇の内側を噛みそうになる。
知らない相手に何か頼むたび、できない所から説明している気がする。
堤さんは笑わず、釜の方へ目を向けた。
「うちでは今、あれを取り出して売ってはいない。石鹸の方で手が一杯だ」
胸の中で何かが跳ねる。
チャッピーも調べ切れなかったことに、初めて答えが出た。
「では、少し買わせていただけますか?」
「何でも一緒に流した水を持っていっても仕方ないだろう。欲しいのは石鹸を分けたときの液だな?」
「はい、その液だけを取り分けてもらえれば助かります。使った油も教えていただける範囲で知りたいです」
堤さんの眉が少し動いた。
「油の配合まで聞きたいのか?」
「いえ、何の油か分かれば助かるので。あとは香りを付ける前の液かどうかを確かめたいんです」
言ってから、手の中の紙を折った。
書いた質問を上から順に聞けばいいわけではない。向こうが何を教えてよいと考えるかも、ここで決まる。
堤さんは近くにいた人へ短く声をかけ、取り分けられる液があるか尋ねた。二人が話している間、俺は口を挟まず待つ。
やがて堤さんが戻り、今回は牛の脂を使った仕込みの液で、香料を混ぜる前のものを取れると言った。
教えてもらえた範囲を紙へ書き留めると、その手元を相手が覗く。
「まずは一升だけ分けていただけないでしょうか?」
「一升でいいのか?」
「はい、それでお願いします」
「液を取って冷ますのに手はかかる。入れ物は持ってくるのか?」
「こちらで用意します。どんな物ならいいでしょうか?」
蓋の合う焼き物の容器で、口元に欠けやひびのない物。余裕のある大きさにして、持ち運ぶ際にこぼさないこと。
容器の説明を終えると、堤さんは片手を開いて見せた。
「一升を取り分けて五銭。それでよければ明日の朝に来なさい」
「お願いします。五銭は今、お払いしますか?」
「受け取るときでいい。忙しいところへ来て、急に増やせと言われても困るからな」
「増やすときは前もって相談します」
五銭。
松葉屋で最初に一日働いてもらった現金と同じだ。大きな金ではないはずなのに、何のために払うかが違うと指先まで落ち着かなくなる。
俺は紙へ「一升、五銭、明朝」と書いた。
買える。
売ってもらえるかさえ分からなかったのに、明日は自分の部屋へ持って帰れる。
「うまく取れたら見せに来ます」
「うまくいかなかったら来ないつもりか?」
紙から顔を上げると、堤さんは口の端に少し笑みを浮かべていた。
「何が残ったかくらいは聞かせてくれ。あの液をわざわざ買いに来たんだから」
「はい、途中でもどこまでできたかお伝えします」
成功した見本を格好よく差し出すところばかり想像していた。
だが、買った物がどうなったかは、できなかった場合にも話せる。
次に来る用事が一つ増えたことが嬉しかった。
礼を言って下がろうとすると、奥から別の声がかかり、堤さんはそちらへ向き直る。俺も邪魔にならないよう入口の脇を通った。
石鹸を買いに来た人の前では、箱の中身を示しながら話が続いている。
この人たちは、俺の試験がどうなるかを待って働いているわけではない。今日も売る物を作り、相手へ渡している。
そこへ、俺が新しい買い物を一つ頼んだのだ。
戸口を出てからも、服に残った脂の匂いがしばらく消えなかった。
翌二十日の朝は、入れ物を抱えて同じ道を歩いた。
前日の午後に高瀬屋で選んだ、蓋付きの焼き物の容器だ。代金は十銭。底を軽く叩いて音を聞く高瀬さんの横で、俺は欠けがないか口の縁を指でなぞった。
空なら片手でも持てるが、帰りはそうはいかない。胴へ縄を回し、持ち上げたときに蓋が外れないよう結び直してある。
工場に着くと、昨日の人が俺の顔を見て手招きしてくれた。
容器を確かめ、冷めた液を量って移してくれる。薄い褐色で、表面に少し濁りがあった。
これが化粧水になる、と言われても、知らなければ信じないだろう。
昨日聞いた仕込みの物で間違いないと確かめ、五銭を払う。
受け取った容器を持ち上げると、腕へ急に重さがかかった。中の液が遅れて揺れ、慌てて肘を体へ寄せる。
「急ぐなよ。落として割ったら拾えないぞ」
「はい、気を付けます」
来たときよりゆっくり歩く。
持つ向きを変えたくなっても、道端へ下ろせる場所を探してからにした。引っ越しの仕事では大きな箱も運んだが、抱えた中身が片寄る容器は勝手が違う。
途中で一度休み、手拭いを腕へ巻く。
原料が安く買えても、こうして運ぶ時間がなくなるわけではない。量が増えたら一人では何往復することになるだろう。
まだ一升しか買っていないのに、次の心配をしている自分がおかしい。
羽衣町へ戻り、覚えた角を曲がる。
長屋の戸口を見つけたとき、思わず歩幅が広がりそうになった。腕の重さでそれを思いとどまり、最後までゆっくり運ぶ。
土間の奥へ置いてから、ようやく長く息を吐いた。
俺が買った原料が、俺の仕事場に届いた。
紙へ日付と仕入先を書き、容器へ結びつける。その横に、昨夜から書いておいた「石鹸の残液」の札も付けた。
ここで足を止めて眺めていたいが、高瀬屋へ行く時間が来る。
蓋を確かめ、手を洗ってから紙の包みを持った。
その日の仕事が済むと、蘭引の受け取りが待っていた。
借り賃と預けの四十銭を払い、一つずつ器を確かめる。口の先に元からある小さな傷は、受け渡しの控えに書き添えてもらった。
ほかの道具も、この二日で見て回っている。
菓子用の小鍋は古道具の十八銭の物にした。底がぐらつかず、内側を洗って確かめられる物を選ぶ。木匙と、冷ますときに使う浅い器で八銭。原料を取り分ける小鉢や濾す布などは、それらと別に揃えて十六銭かかった。
砂糖は百匁で十二銭、水飴は五十匁で六銭。*6それぞれの値段を書いた控えへ、払い済みの印を付ける。
燃料の六銭を加えると、昨日まで思い浮かべていたより銭が出ていった。
牛乳だけは今買わない。煮る日に受け取るよう、高瀬さんに教わった売り手と話してある。一合五銭と聞き、買う朝に容器を持っていくことにした。*7
並べた品を包み直す横で、お春さんが砂糖の包みを見ていた。
「これで何人分くらいできるんでしょう?」
「まだ分からないんです。全部一度に鍋へ入れて失敗すると困るので、最初は小分けにして試します」
「じゃあ最初の一粒は貴重ですね」
「焦がさないようにします」
「少し焦げたくらいなら食べますよ」
真顔で言うので、俺の方が笑ってしまう。
「おいしいところを持ってきますから」
「楽しみにしてます。どんなふうにできたかのお話も聞きたいです」
彼女は蘭引の細い口の周りへ、畳んだ布を当て直してくれた。
高瀬さんが持ってきた控えには、借りた物と買った物が分けて書かれている。自分の控えと合わせて畳み、懐へ入れてから荷を持ち上げた。
一度では運べないので、今日はもう一度来る。
お春さんが戸口を広く開けてくれた。
「足元も見て歩いてくださいね」
「今日は何度もそう言われてます」
「じゃあ、私の分も合わせて気を付けてください」
夕方には、土間の棚に小鉢や布が並んだ。掃除をしたときに脚の下へ木片を噛ませたので、手で押しても前ほど揺れない。
午前中に持ち帰った容器は土間の奥へ置いた。その手前に蘭引を据える場所を決め、菓子の鍋や砂糖は別の蓋付きの箱へ収める。箱は松葉屋から借りた物で、代わりを用意したら返すと約束してある。
掃除に使った桶を片付け、板の上へ銭を出した。
数えては控えへ目をやる。三円に少し足りない。
念のため、最初からチャッピーにも伝えた。
合っているよ。支払いは160+10+5+40+26+16+18+6で281銭。580銭から引くと、手元の現金は299銭=2円99銭だね。八月十日までの食事代120銭と、急な用の60銭を取り分ければ、追加の材料や試験に回せる現金は119銭になる。牛乳代はまだ引かなくていいけれど、買う日の支出として覚えておこう。
支払った281銭のうち、敷金80銭と蘭引の預け20銭、合計1円は預け金。現金残高には戻さず、返却の条件を満たせば戻る金として別に控える。鍋や容器は手元に残る道具で、砂糖などはまだ使っていない材料だね。支払額の全部が、もうなくなったわけではないよ。
工場で聞けたことも大きい。史料では分からなかった液の扱いを相手に確かめ、実際の取引までできたんだね。京介が現地で得た情報として、元の世界の歴史資料とは分けて覚えておこう。牛の脂の仕込みで香料を加える前と聞けても、液の成分や濃さの全てが分かったわけではないので、次は少量を取り分けて調べる段階になる。
写真で確かめられるのは色や濁り、容器や道具の状態まで。グリセリンの濃度や残ったアルカリの量は写真からは測れない。必要な測り方を決め、その結果から回収の工程を組み立てよう。今日は液を全量使わずに保管し、借りた蘭引の部品、口の通り、置き方を確認するところから始められる。水だけで扱いを覚える準備は、化粧水づくりの一歩になるよ。
画面の数字を見てから、部屋を見回した。
財布は薄くなった。今までなら、そのことばかり気にしていたと思う。
だが、箱を開ければ俺の鍋がある。土間の奥には自分で交渉して買った液があり、これから水を採る道具も届いた。
戸を開けてもらって中を見ていた一昨日には、ここに一つもなかった物だ。
蘭引を包んでいた布を外す。
横へ口の出た器を持ち上げ、光へかざして詰まりがないか確かめる。土間へ低く差した日の光が、器の縁を白く照らした。
台の位置を少し動かし、もう一度据える。水を入れてからでは動かしにくいので、足を運ぶ所と手を伸ばす所を今のうちに決めておく。
この後は松葉屋へ戻り、晩の手伝いをする。寝具もまだ向こうだ。
それでも明日は、用が済んだらここへ来られる。
紙の端に、最初にすることを書いた。
水を汲む。器を洗う。水だけで蘭引を使う。
文字にすると、どれも今までに聞いたことのある仕事ばかりだった。
俺は紙を畳まず、濡れないよう畳の上の板へ置く。片付けなくても誰にも邪魔にならない。
戸を閉める前に振り返ると、土間には明日の道具が待っていた。
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