【30話まで投稿予約済み】明治時代をチャッピーと共に成り上がれ! 作:ヅダスキー3世
七月二十七日の朝、俺は小さな瓶を持って土間にしゃがんでいた。
蘭引の口に膨らんだ水滴が、なかなか落ちてこない。もう少し瓶を寄せようとしたところで落ち、底に小さな丸が広がる。
今度はちゃんと入った。
昨日まで何も入れていなかった中段には、洗った薄荷の葉が収まっている。上の器の水に手を近づけると、さっきより温かい。汲んでおいた水と取り替え、もう一度口の先へ目を戻す。
竈の前は暑いのに、鼻の奥には涼しい匂いがする。
葉を揉んだときの青臭さより柔らかく、松葉屋の煮物とも、堤さんの工場に残っていた脂の匂いとも違う。
少し溜まったところで受ける瓶を替え、最初の瓶を顔へ近づけた。
「……ちゃんとする」
誰もいない土間で、もう一度嗅ぐ。
水なのに、葉の香りがする。
説明を読んで知っていたことが、鼻から入ってきた。瓶を持ったまま笑ってしまい、慌てて竈の方へ顔を戻す。喜んでいる間も火はついているのだ。
足元の燃料を確かめ、手の届く所へ次の瓶を置く。
畳の上には今朝畳んだ寝具と、翻訳を終えた紙の包みが並んでいる。寝具は五十五銭で買った薄い敷布団と敷物で、最初の晩は自分の肩が畳からどれだけ離れているかばかり気になった。
それでも二十二日から、俺はこの部屋で寝起きしている。
松葉屋へ朝の手伝いに出て飯を食い、高瀬屋の用を済ませて帰ってくる。路地の奥で戸を開ければ、昨日置いた道具が昨日の場所にある。
その暮らしに、今日は匂いまで付いた。
薄荷は二銭で分けてもらったものだ。
どんな花を蒸そうかと考えてチャッピーへ尋ねたら、今の季節に手に入り、種類を確かめられる植物から選ぼうと返ってきた。薔薇の名前を眺めているうちに、花屋へ行けばいつでも買える気になっていたらしい。
薬種を扱う店で聞くと、取引のある作り手から薄荷の葉を少し取り寄せられるという。香りだけで自分が見分けた草を使うより、何の葉か分かる物を買いたかった。*1
届いた束には虫の食った葉も混じっていて、選り分けるだけで思ったより時間がかかる。画面に出てくる「原料を用意する」の一行には、そういう仕事も入っている。
傷んだ葉を除き、道具を洗い、水を替える。水だけで使った初日には、上の器の水を替え忘れ、受け口から落ちる量が減った。
今回は、その前に手が動く。
採れた水の瓶に順番の札を付け、火を落としてからスマホを取り出した。
芳香蒸留水を採る目的なら、精油が目に見えるほど集まらなくてもおかしくないよ。香りの成分の一部が蒸気とともに運ばれ、冷えて水へ戻る。その水に香りが感じられるんだ。精油を瓶いっぱいに作る仕事とは、狙っている物が違うね。
採る順番で香りが変わることはあるけれど、「最初が必ず上等」とは決めず、今回の瓶を同じ条件で比べよう。まだ温かい瓶と冷えた瓶では感じ方も変わるので、冷ましてから確かめると比べやすい。葉の状態や量、水の量、採った順番も控えておくと、気に入った香りへ次も近づけられる。
蘭引で植物を蒸して化粧水を作る方法は、江戸時代の資料にもあるよ。ただ、そこで紹介される植物や処方が、京介の薄荷と同じという意味ではない。今できた香りは、京介の材料と道具で得た結果として見ていこう。*2
瓶を二つ並べ、同じくらい冷めるまで待つ。
待っている間に、戸口へ干してあった布を取り込んだ。こういう時間に別のことをできるのは便利だが、仕事を増やしすぎると何を待っていたのか忘れそうになる。
戻って嗅ぎ比べると、先の瓶の方が俺には爽やかに感じられた。
札の横に「先、すっきり」と書く。
もっと立派な言葉は思い付かなかった。
香りの水の隣へ、昨日持ち帰った小瓶を置いた。
こちらの液は少し重たそうに動く。瓶を傾けると内側をゆっくり伝い、底に集まる。
堤石鹸で買った液から取り出した、グリセリンを含む液だ。
元の容器には一升入っていたのに、仕上がった分を量ると十四匁しかない。*3
何度も器から器へ移し、試験のために取り分け、濾す物にも少しずつ残った。それでも瓶の底に透けて見える液を眺めていると、少ないから失敗だとは思えない。
これを持ち帰るまでには、長屋以外の仕事場が必要だった。
二十三日、俺は高瀬さんに教わった薬種商へ、使いたい道具を書いた紙を持っていった。
洋薬も扱うという主人は、紙を上から読み、途中で俺の顔を見る。
「道具を買う話か、それとも作ってくれという話か?」
「できれば自分でやりたいんです。ただ、家にあるのが焼き物の器と布くらいなので、足りない物を借りられないかと思って」
「何から何を取りたい?」
「石鹸を塩で分けた後の液から、グリセリンを取り出したいんです」
主人は紙を脇へ置き、持ってきた見本の蓋を指で示した。
開けてよいかと尋ねられて頷く。この色を見ただけで断られなくてよかったと思う。
主人は少量を別の器へ移し、俺の説明を最後まで聞いた。
「書いてあることは分かるが、これは菓子の鍋で始める仕事じゃないぞ」
「その鍋とは分けてあります。火の使い方も、こちらで教えていただけると助かります」
「うちの品を触るなら、分からないまま手を出さんことだな」
裏には調製に使う小さな仕事場があり、棚へ硝子の器や秤が収まっていた。小さな蒸留器もあるが、つないだ管の向き一つ、勝手に変えてよい物ではないらしい。主人が空けられる時間に限り、器具を外へ持ち出さず使わせてもらう話になった。
場所と器具、それに扱い方を見てもらう手間で、半日十五銭。最初から何日も借りる約束にはせず、その日の結果を見て次を頼む。
安いとは思わない。三回通えば、買った残液の九倍になる。
けれど、並んでいる物を全部自分で買うと言ったら、十五銭では済まないはずだ。
借りる日を決め、先に家へ戻ってチャッピーへ伝えた。*4
そうだね。今度の出発点は、グリセリンに水、塩類、余ったアルカリ、石鹸や脂肪由来の成分などが混じった液だよ。見える濁りだけを取り除いても、溶けている成分は残る。だから最初に少量を調べて、酸やアルカリの偏りと、塩や石鹸分がどの程度残っているかを把握したい。
回収では、石鹸分などを分ける処理と、水を減らして塩類を分ける処理を組み合わせる。その後も残る塩については、液の組成に合わせてさらに分離する必要がある。グリセリンはエタノールにも溶けるので、溶け方の違いを利用する方法も検討できる。ただし、水の多いままでは塩が残りやすく、「酒精を加えれば完成」という方法ではないよ。途中で取り分けた試料を調べながら進めることになる。
古い文献には鉛の化合物を使う方法もあるけれど、今回の原料を作るために採る方法にはしない。薬品そのものから不純物を持ち込むこともあるので、何に使うかを主人へ説明し、出所の分かる物を選ぼう。酒精を扱う工程は、菓子を作る竈から離し、借りる場所で扱える設備と手順を確かめてからだね。
最後に欲しいのは、見た目が透明になった液ではなく、用途を考えられるところまで不純物を抑えた原料だよ。液の酸性・アルカリ性、残った塩類や金属類、脂肪由来の不純物などを確認し、必要なら前の工程へ戻る。透明さや粘り、指に付けた感触だけで純度を決めないようにしよう。検査に使った分を製品側へ戻すこともしない。
この段階で水分を含む原料が得られても、それだけで失敗ではない。化粧水へ使うなら水分込みで扱うことはできる。ただし、原料全体の重さを純グリセリンの重さとして数えず、含水量や残留物を考慮して配合する必要がある。今回確かめられた範囲も記録して、売る品に使う判断と分けておこう。*5
画面の説明を読んで、俺は紙の順番を書き直した。
最初に「煮る」とだけ書いていたのが恥ずかしい。
何を減らし、何を残すのか。そのためにどの器を使うのかまで考えないと、火の前へ立ってから困る。
翌日、借りた場所で主人に紙を見せると、一つずつ確かめながら器具を出してくれた。
秤の皿へ載せる量が少なすぎて何度も手を止める。主人に言われたとおり机の端を押すのをやめると、揺れていた針がようやく落ち着いた。
「書く方の手まで台へ載せるからだ」
「すみません、量るのを待ってるつもりでした」
「待つ間も動かしてるぞ」
紙を別の板へ移す。
学校の実験で秤を使った記憶はあるが、班の誰かが量ってくれた物を受け取っていた気もする。思い出せることより、今教えてもらうことの方が役に立った。
小さく分けた液を調べ、石鹸分を離し、濁りが収まるのを待つ。その日の終わりには、元の液と途中の液を別々の器に残し、それぞれへ札を付けて帰ることになった。
夜、松葉屋で手伝っていても、あの器が倒れていないかと気になる。
次に行ったとき、置いたままの札を見てようやく安心した。
その後は水分を減らして塩類を分け、さらに酒精を使う段階へ進む。主人に扱いを確かめた器具を使い、溶けた側と分かれた側を取り違えないよう紙の上にも矢印を付ける。
白い物が底へ現れたときは、これを除けば終わると思ってしまった。
けれど、取り分けた液の試験ではまだ塩の残りが目立った。主人から渡された硝子の器を透かすと、見本よりはっきり濁っている。
「さっきの白いのを取っても、まだ残ってるんですね」
「全部が同じように出てくるなら楽なんだがな」
俺は結果を書き、手の空いたときに外でチャッピーへ伝えた。
紙の上では一つだった工程をもう一度行う。液の量だけ見れば減ってしまうので惜しいが、残したい物だけ都合よく増えるわけでもない。
酒精を分けて回収する間は、匂いがしたから終わりだと決めず、主人にも器具の状態を見てもらう。色を薄くする処理を終えてからも、別に取った試料を順に調べた。
最初の褐色が消え、瓶の中で光が通るようになっても、それで手を止めるところではなかった。
主人が試験の控えを俺の紙と並べる。
「塩と灰汁は、最初とは随分違うところまで落ちたな。調べた分では金物から来る汚れも目立たん」
「これなら、合わせて試すところまで進められそうですか?」
「まずはお前が考えている見本からだ。売るつもりなら、次も同じ物を出せるようにしておけ」
頷いてから、もう一度瓶を見た。
小さな器を持つ手に力が入りすぎて、指の付け根までだるい。肩を回すと、首の後ろも同じくらい固まっていた。
それでも、自分で量って自分で移した液が目の前にある。
三回の場所代と器具代で四十五銭。購入して使った酒精や試薬、濾材などで三十六銭。何にいくら払ったかを書き足すと、原料を安く買えた喜びだけでは済まない金額になった。
代わりに、次に何を頼むかは初めよりよく分かる。
俺は空の容器を片付け、使った場所を拭いてから、試料を戻していない方の瓶へ栓をした。
その瓶が今、羽衣町の板の上にある。
畳へ上がる前に手を洗い、配合に使う小さな秤を置く。これは高瀬屋を通して二十九日まで借りた物で、借り賃四銭。見本を入れる小瓶と栓には、別に八銭かかった。
小瓶よりずっと場所を取るのに、少し手が当たるだけで針が動く。うちで一番気を使う道具になりそうだ。
まず採った水だけを少し残す。それから同じ原料の瓶を使い、グリセリンを含む液の量を変えて二つの見本を作る。
昨日までの試験結果と重さはチャッピーへ伝えてあり、水分を含むことも考えて量を決めている。瓶の底に残るのが惜しくて余計に足しそうになり、その手を止めた。
多い方が良いなら、比べる必要はない。
そうだね。まず香りの条件を揃えて、原料を加える量の違いを比べよう。グリセリンは水分を保つために使われるけれど、多くするほど気持ちよくなるとは限らない。塗った直後だけでなく、少し時間が経ってからのべたつきや、物を触ったときの感じも見たいね。
使い心地の候補が決まったら、次に薄荷の水の割合を変えて香りを比べられる。強い香りや清涼感を求めて精油を直接足す必要はないよ。今回の原料で実際に得られた香りから考えよう。
今日は少量の試作品として扱って、顔全体へ使う段階を急がないでね。事前の原料確認に加えて、京介自身が狭い範囲で様子を見る。刺激がないという一人の結果だけで、誰にでも使えるとは判断しないこと。手を清潔にすることと、試験に使った道具を配合用へ戻さないことも続けよう。
保存は別の課題だよ。水に薄めた後は、元の原料と同じ性質ではなくなる。蒸留した水でも詰め替えや使用中に汚染されることがあり、薄荷の香りがあることも保存の保証にはならない。見本の感想を聞く段階と、保存条件を決めて販売する段階を分けて進めよう。
水だけの物、原料を少なく加えた物、多く加えた物。
全部透明なので、札がなければもう見分けられない。先に書いておいてよかった。
少量ずつ試したときの感触を控え、合間に昼の用事を済ませる。
高瀬屋で紙を受け取ったとき、多く加えた方を試した手が少し気になった。洗ってから出たのに思い出すくらい、さっきの指の滑り方には違いがあったのだ。
しっとりする方が上等だと考え、つい多い方へ期待していた。けれど、手で紙や器を扱う人には、その後の触り心地もある。
帰ってから書き加えたのは、やはり短い言葉だった。
これなら、お春さんにも伝えられる。
書付を瓶のそばへ置き、今度は菓子の材料を箱から出した。こちらも随分待ってもらっている。
二十八日の朝、牛乳を入れた容器を抱えて帰ってきた。
一合で五銭。昨日のうちに頼んでおき、松葉屋の朝の手伝いが終わってから受け取った。*6
土間の奥の原料類には蓋があり、その前にも布を掛けてある。薬品を使う仕事は借りた場所で済ませたので、今から洗って据えるのは菓子専用の鍋だ。
台を拭き、食べ物用の木匙と浅い器を出す。これから乳の匂いがすると思うだけで、同じ土間が厨房に見えてくる。
秤には食品用の器を載せ、空の重さを先に確かめる。買っておいた砂糖と水飴をその器へ小分けにして量った。
砂糖は二十四匁、水飴は十二匁。秤を載せた台へ腕を置かないよう気を付けるのは、もう薬種商の主人に言われなくてもできる。*7
スマホは、火へ向かう前に手の届く乾いた場所へ置いた。
乳脂肪の多いクリームやバターを使う物とは、こくや口当たりが変わるけれど、牛乳を使った噛める乳の菓子を試すことはできるよ。最初から現代の特定の商品と同じ味を目指すより、今の乳と砂糖でおいしく仕上がるところを探そう。
水飴を加えるのは甘くするためだけではなく、砂糖が大きな結晶になってざらつくのを抑える助けにもなる。乳を入れた菓子の褐色には糖と乳の成分の反応も関わるので、砂糖だけを濃く焦がす作業と同じには考えないでね。色が付いたことと、冷めて一粒にまとまることは別だよ。*8
温度計がない場合は、少し取り分けた物を冷たい水で十分に冷やし、丸まり方や押したときの硬さを見る方法がある。水から取り出すとすぐ広がる段階と、形を保ちながら指で押せる段階では、冷めた仕上がりが違う。ただ、冷水での試験にも慣れが要るので、今回の様子を書き留めよう。熱い糖液へ指を入れず、冷ました試料で確かめてね。量を増やして売る段階では、温度も測れるようにしたい。*9
読んでいたときは、一粒にするところまで頭の中で見えていた。
実際に鍋を置くと、最初に気になるのは火の偏りだった。
木匙を動かす手と、燃料を見る目が忙しい。鍋の縁に乳が上がってきたときは、もう溢れるかと思って肩が固まる。
火を加減し、底を確かめながら混ぜるうちに、白かった中身へ薄く色が差してきた。
甘い乳の匂いがする。
それが嬉しくて顔を寄せかけ、熱さに目を細めた。
現代で買っていた菓子の包みを開けたときより、ずっと生々しい匂いだった。湯気と一緒に目の前から立ち上ってくる。
そろそろだろうか。
少し取って水へ落とすと、底に柔らかい塊ができる。冷めたところへ指を入れ、集めようとすると崩れた。
もう少し。
そう思って鍋へ戻るが、縁に付いた色が先ほどより濃い。焦がすのが怖くなり、二度目の試験では塊らしくなったところで火から外してしまった。
薄く食用の油を塗った浅い器へ流すと、つやのある面がゆっくり広がる。
見た目だけなら、立派なお菓子だ。
冷めるまでの間に鍋を洗い、残った材料へ蓋をする。器の周りを片付けてもまだ温かく、翻訳の紙に戻ろうとして二度も振り返った。
ようやく触れられる温かさになって、端へ包丁を入れる。
切れ目はできた。
その切れ目が、包丁を持ち上げる後ろからゆっくり閉じていく。
「……戻るのかよ」
少しすくって口へ運ぶと、味は悪くない。甘い中に乳の匂いがあり、舌の上へねっとり残る。
ただ、これを一粒ずつ紙に包むのは無理だ。
包んだところで、開けた客が紙ごと舐めることになる。
浅い器を撮ってから、チャッピーへ状況を打ち込んだ。
話してくれた状態からは、一粒にするにはまだ水分が多かった可能性が高いね。写真だけで含水量は測れないけれど、冷水から出した試料が平たくなったという観察は、次の判断に使える。
次は色だけで止めず、十分に冷えた試料が水から出しても形を保ち、押せば変形するところを見よう。火を強くして急ぐより、底を焦がさず状態を追う方が大事だね。同じ配合で終わりの判断を変えれば、何が違ったか比べられる。
今回も味の見本にはなっているよ。全量を無理に商品へ直そうとせず、取り分けて今日のうちに味を確かめる分にしよう。売る一粒は、硬さを確かめた次の仕込みから考えればいい。
火から下ろしたときの様子を紙へ書く。
「怖くなって止めた」とまで書いてから、そこを指で隠したくなった。けれど、次の俺が同じことをするなら必要な記録だろう。
残った菓子を見て、失敗した分の砂糖代を考える。
考えた後でも、匙をもう一度入れたくなる味ではあった。
少しだけ食品用の蓋付きの器へ取り、高瀬屋へ向かう。松葉屋の昼の片付けの後なら、味を見てもらえる。
高瀬屋では仕事を終えてから、お春さんに、明日は見本を持ってこられそうだと話した。何ができたかは来てからのお楽しみですと言うと、彼女は「今聞いた方が、一日長く楽しめますよ」と笑った。
「これが、言ってた菓子か?」
徳蔵さんは、差し出した器と俺の顔を交互に見た。
昼の客が引いた松葉屋で、洗い終えた椀がいつもの棚へ伏せてある。ここへ戻ると、さっきまで一人で鍋を眺めていたことが妙に長い時間に感じられる。
「本当は切って渡したかったんですが、柔らかくしすぎました。おいしいかだけでも聞かせてもらえますか?」
「まず味を見ればいいんだな。どれ、食ってみよう」
おせいさんが小さな匙を持ってきて、徳蔵さんの分を取る。
二人が口へ入れるのを見ながら、俺は空いた手で膝を押さえた。
自分で味見したときより落ち着かない。俺には知っている味に近づいた嬉しさがあるが、二人にはそれがない。
徳蔵さんの眉が少し上がる。
「甘いな。後から乳の匂いがする」
「苦くはないですか?」
「焦げた苦さは感じん。だが、これを仕事の合間に手でつまむのは難しいぞ」
「そこを直したいんです」
おせいさんは匙の先を見つめていた。
「口に入れると、ゆっくりなくなるんだねえ。アンタ、売るときもこんなにたくさん一度に食べさせるのかい?」
「もう少し小さくするつもりです」
「そうしな。甘い物は好きだけど、今の半分でも楽しめるよ」
もう少し大きくしておけば、得をした気持ちになると思っていた。
味見でさえ、俺の思う一口とおせいさんの一口は違う。
聞いたことを書こうとして、徳蔵さんに器を押さえてもらう。急いで紙へ書く姿を見て、おせいさんが笑った。
「そんな顔しなくても、おいしかったってば」
「それも書いておこうと思って」
「都合のいい方ばかり大きく書くんじゃないよ」
今度は三人で笑った。
器を空にしてもらってから、明日はもう一度作ると伝える。
徳蔵さんは頷き、俺が使った匙を洗い桶へ入れた。
「明日は手でつまめるのを持ってこい」
「はい、今度は切ってきます」
言ってしまってから、少しだけ胸が跳ねた。
それでも朝に書いた「怖くなって止めた」の続きが、もう決まっている。
二十九日の午前中、浅い器の上には切れ目が残った。
包丁を持ち上げても、戻らない。
端の一つを指で押すと少しへこみ、離せばそこで形を保つ。昨日より固いのに、飴のようにぱりんと割れる感じではなかった。
今朝も牛乳を一合買い、砂糖と水飴は同じ量にした。変えたのは、最後に火から下ろすところだ。
途中の試料を何度か冷まし、水の中から出しても形が残るのを待った。昨日より長く鍋の前に立った気がするが、時計を睨む代わりに手元を見た。
切った端を一つ口へ入れる。
歯を入れると少し抵抗があり、ゆっくり噛むと乳の味が広がる。昨日のように舌へ塗りつく柔らかさとは違う。
「できた!」
自分の声が土間に跳ね返り、思わず戸口を見る。
表を歩いていた人が一度こちらを向いたので、何でもない顔で頭を下げた。向こうは不思議そうに通り過ぎていく。
俺は顔が熱いまま、もう一粒を眺めた。
知っている菓子そのもの、とまでは言えない。もっと乳のこくがあって、もっと滑らかだった気もする。
けれど、これは確かにキャラメルだ。
買って食べるだけだった菓子が、俺の鍋から出てきた。
包丁を置いて、まずそのことを少しの間喜んだ。
粒の幅を揃えようとすると、端の方がどうしても細くなる。全部を大きく切ってしまう前に、おせいさんの言葉を思い出した。
最初の列を半分の幅に切り直す。
小さくなると少し頼りなく見えるが、一つ食べてみれば味はちゃんとある。皿へ並べたところを撮り、今度は成功した方をチャッピーへ見せた。
切り分けられるところまでできたんだね。昨日の観察を次の仕込みへ使えたのが大きいよ。小さくした一粒も、実際に食べた人の感想から変えた点だね。
今日は味と大きさに加えて、持っていった後も形が残るか見ておこう。鍋の前で冷めた状態と、包んで歩いた後では違うことがある。気に入ってもらえたら、今度は材料費に燃料と包み、店に置いてもらう分まで足して値段を考えられるよ。
そうだった。まだこの部屋から一歩も出していない。
紙を敷いて一粒包んでみると、折り返した所へ軽くくっつく。開くことはできるが、長く包んだらどうなるだろう。
今日は味見用だから、まずは浅い器へ間を空けて並べて持っていく。包みの候補は別に試すことにした。
台を片付けた後、化粧水の見本も用意する。
原料を合わせた物は自分で少量ずつ確かめ、翌日まで赤みや痒みが出ていないことも書き残してある。今日は新しく合わせた少量を使い、手元の控えと同じ札を結びつけた。
その隣へ、念のため香りの水だけの瓶も置く。
食べ物の器とは別に包むと、持っていく荷は思ったより多い。
蘭引と秤まで一度に運ぶのは無理なので、借り物だけ先に返すことにした。洗って乾かした器を布で包み、借りたときの傷と控えを確かめる。
借りた日には、これを運ぶだけでも緊張していた。今はその道具で作った物が、別の包みに入っている。
高瀬屋で蘭引と秤を返すと、受け取りの控えに印を付けてもらえた。預けていた二十銭も戻り、包みへしまう。
道具を割らずに返せたことにほっとして、もう一度長屋へ戻った。今度は見本と翻訳の紙を持って出る。
高瀬屋へ着いても、品を広げる前にいつもの仕事を済ませた。
今日渡したのは届いた荷の数量を確かめる返事で、新しい商売を始めたからといって、書く数字が勝手に減るわけではない。
高瀬さんが紙を受け取り、読み終えるまで待つ。その間にお春さんが俺の横の包みへ目を向けた。
目が合うと、すぐ紙の方へ戻す。
どうも気づかないふりをしているらしい。
高瀬さんは紙を畳んでから、ようやく俺へ尋ねた。
「今日は何ができたんだね?」
「二つとも、少し持ってきました」
「両方ですか?」
お春さんが声を上げ、すぐ口元へ手を寄せる。
高瀬さんは、聞こえなかったことにはしてくれなかった。
「朝から何度も表を見に行ってたのは、そのせいか」
「お客様がいらっしゃるかと思って」
「今日もお客は来るからね。用が済んだら店へ戻っておくれ」
彼女は返事をして、俺の荷を広げる場所を空けてくれた。
ようやく見本の包みを開く。
「先にお菓子を見てもいいですか?」
「どうぞ。今日はちゃんと切れました」
「今日は?」
「昨日は切っても戻ったんです」
指で広がる真似をすると、彼女は笑いながら器を覗いた。
並んだ茶色の粒へ顔を近づけ、そっと一つつまみ上げる。鼻先へ寄せたときから口元がゆるんでいて、俺までつられて笑いそうになる。
口へ入れたお春さんは、一度噛んだところで目を丸くした。
どうだろう。固すぎただろうか。
尋ねかけた俺の前で、彼女がもう一度噛む。口元へ手を添えると、今度は目尻がふわりと下がった。
「……おいしい!」
思っていたより大きな声に、お春さん自身も驚いたらしい。ちらりと父親を見てから俺へ向き直るが、頬はゆるんだままだ。
「甘くて……すごくいい匂いがします」
言い終えると口を閉じ、ゆっくり噛んでいる。俺は聞こうと思っていたことをいったん飲み込み、その顔を眺めた。
彼女は飲み下した後も唇を軽く合わせ、まだ口の中を確かめるようにしている。
「もうなくなってしまいました」
惜しそうな声が出てから、自分でおかしくなったのか笑う。
その目が器へ戻り、次の一粒の上で止まった。
「飴みたいなのに、噛むと柔らかいんですね。あの、牛乳が入っていますか?」
「はい、今朝の分を使いました」
「やっぱり!後から乳の味がして……でも、飲むときよりずっと甘い匂いがするんです」
初めの一粒を持っていた指で、器の縁に触れる。
次を勧めたい。そう思う一方で、作る前に気にしていたことも聞いておきたかった。
「歯にくっつきすぎませんか?」
「少し付きますけど、ちゃんと噛めますよ。このくらいなら私は好きです。ゆっくり食べられますし」
彼女はそう答えながら、また器へ目を落とす。
「もう一つ食べますか?」
「いいんですか?」
手が伸びかけたところで、高瀬さんが横から器を覗く。
「春、俺にも一つ残してくれるか?」
「そんなに食べません!」
慌てて手を引っ込めた彼女に、俺も笑ってしまった。器にはまだ十分にある。
先に父親へ向け直すと、高瀬さんは小さな粒を取り、口の中で確かめるように噛んだ。
「これを何と呼ぶんだ?」
「キャラメルです」
「きゃらめる」
彼がゆっくり繰り返す横で、お春さんも小さく同じ言葉を言う。今度は遠慮がちに一粒を取り、俺と目が合うと嬉しそうに笑った。
さっきより少し大きな粒だったことには、気づかないふりをしておく。
「売るなら幾らにする?」
「それは包みも含めて決めたいです。今の一回分だと、砂糖と水飴と牛乳だけで九銭を少し超えます」
「鍋と薪まで勘定してるか?」
「薪はこれから分けて数えます。鍋は毎回買わないので、使った分をどう入れるかも考えないと」
「そうだね。材料九銭の菓子を十銭で全部売っても、それで一銭残るとは限らないからな」
高瀬さんはそう言って、もう一つ取りかけた手を止める。
「味見でなくなったら困るか?」
「今日はそのために持ってきたので、食べてもらえた方が嬉しいです」
「なら、一つもらおう」
父親が二つ目を取ると、お春さんが俺を見た。何も言わないけれど、さっき自分だけ注意されたことを訴えるような顔だ。
俺が笑うと、彼女も口元を隠して笑う。二つ目の菓子も、大事そうに少しずつ噛んでいる。
今朝、俺が鍋の底から掻き出した物が、こんな顔をさせている。
作っている間に何度も味を見たはずなのに、今ここで俺も一粒食べたくなった。
高瀬さんは残りを奥の棚へ置いて、帳面の仕事へ戻った。
化粧水は、菓子の器を片付けてから見てもらう。
手を洗って戻ったお春さんへ、まず香りの水だけの瓶を開ける。彼女は顔を寄せて目を細め、もう一度そっと香りを吸い込んだ。
「ああ、いい匂い。お花とは違うんですね」
「薄荷にしました。今の時季に葉を分けてもらえたので」
「涼しそうな匂いがしますね。さっきまで口の中が甘かったのに」
鼻先から少し離しても、視線は瓶を追っている。
次に配合した二つの見本を出し、まだ売る物ではなく使い心地を比べていると説明した。まず小さな範囲で、嫌な感じがあればすぐ洗ってほしいと伝える。
お春さんは頷くと、左手の甲をこちらへ向けた。
「こちらから試してもいいですか?」
「お願いします。こっちが少なく入れた方です」
お春さんは小さな器へ取り分けた液を指先に取り、手の甲の一部へ薄く伸ばしていく。指を滑らせていた彼女が、ふと手を止めた。
「あれ……」
同じ所をもう一度撫で、何も付けていない所にも触れる。それから顔を上げたときには、目がきらきらしていた。
「ここ、しっとりしています!」
俺へ見せようと、手がぐっと近づく。
「水を付けたところは、乾くといつもの手に戻るでしょう?これは、ほら……」
言いながら自分の手を撫で、そこでようやく俺の顔を見た。
「……京介さんは、もうご存じでしたね」
「知ってますけど、その顔は初めて見ました」
お春さんは少し恥ずかしそうに笑い、差し出していた手を引く。それでも膝へ戻しきる前に、また指先で確かめた。
「だって、気持ちがいいんですもの。油を塗ったみたいにぬるぬるしないのに、すべすべして」
手の甲を眺める顔が嬉しそうで、俺も瓶を置いたまま見入ってしまう。
見たところは、さっきと同じ透明な水だ。それを使って彼女がこんなふうに笑っている。
あの濁った液から塩を分け、鍋の前で蒸気を待った時間が、ようやく報われた気がした。
「もう一つは、どんなふうになるんでしょう?」
お春さんの方から尋ねられ、慌ててもう一方の器を寄せる。
こちらは右手の甲の一部へ使ってもらった。しばらく待って両方を触り比べると、彼女は右手に触れた指を上げ下げし、少し考える顔になる。
「こちらの方が、後まで指に残るんですね」
「たくさん入れた方です。どちらが好きですか?」
「私はこっちです。初めに使った方」
彼女は迷わず左手を上げた。
「どう違いますか?」
「こっちはしっとりするのに、指を離すとさらっとしているんです。もう一つは少しぺたぺたするから……紙を持つときに気になるかもしれません」
確かめるために触れた指が、そのまま左手をもう一度撫でる。
「あ、また触ってしまいました」
お春さんは笑って両手を膝へ置き、俺もつられて笑ってしまう。
「そんなに気に入りました?」
「はい、とても。これがお店にあったら、きっと欲しくなります」
まだ値段の相談もしていない瓶へ、彼女の目が向く。
俺は控えの紙を出し、少なく加えた方を好んだことと、指を離した後の違いを書き留めた。自分も同じ方が好きだったと伝えると、お春さんはぱっと顔を明るくする。
「それなら、こちらを作ってくださるんですか?」
「そのつもりです。瓶に入れて置いた後のことも、もう少し確かめないといけませんけど」
「できたら教えてくださいね。私、これを使いたいです」
真っすぐに言ってから、彼女は少しだけ声を落とした。
「お菓子もいただいてしまいましたし、今度はちゃんと買いますから」
「そんな、今日の分は気にしないでください」
「お返しだからではありませんよ。本当に欲しいんです」
念を押すように言われ、俺は返事をする前に彼女の顔を見た。
お春さんは笑っているけれど、瓶へ向ける目は真剣だ。
使い心地を聞くために持ってきた水が、彼女自身の欲しい物になっている。胸が熱くなって、書きかけの控えへ目を戻すのに少し時間がかかった。
「ちゃんと仕上げます」
「楽しみにしています。忘れないでくださいね」
すぐに何でも約束するなと、あとで自分へ言いたくなるかもしれない。
今は、その言葉が一番自然に出た。
瓶の口を拭いて栓をし、日付の札を結び直す。その間にも左手へ目を落とした彼女に、少し経った後の感触を尋ねた。嫌な感じはなく、まだしっとりしているというので、それも控えへ加える。
表から客の声がすると、お春さんは顔を上げて返事をした。立ち上がりかけたところで奥の棚を見て、俺へ小さく笑う。
「残りのキャラメル、お父さんが全部食べてしまわないようにしておきますね」
「春、聞こえてるぞ」
奥から高瀬さんの声がして、彼女は笑いながら表へ出ていった。
松葉屋にも切れたキャラメルを届け、晩の手伝いを済ませて帰る。
徳蔵さんは一粒を持ち上げて「今日は持てるな」と言い、おせいさんは昨日より小さくなったことにすぐ気づいた。二つの感想を帰ってから紙へ足した。
荷を置いた土間は、蘭引がなくなった分だけ広い。
同じ場所へ立っても、もう初日に戻った感じはしなかった。
畳の上の板に銭と控えを広げ、二十一日からの支払いを順に見直す。買った物が増えた分、記憶だけで数えると抜けそうになる。
作業の途中で買い足した物も、払い済みの控えと合っている。
二十一日にもらった一円五十銭は、七月十二日から二十一日までの十日分だった。次の報酬は三十一日なので、まだここには入れない。
敷金の八十銭は家主の所にあり、砂糖と水飴は使い残しが箱にある。金が減っただけだと思いそうになるたび、今ある物も確かめるようになった。
控えを撮り、チャッピーへ送る。
控えでは、299銭+150銭+20銭−244銭=225銭で合っているよ。蘭引から戻った20銭は預け金の返却で、売上ではない。今日はまだ商品を売っていないので、商品事業の売上は0銭のままだね。
三十一日までの食事と八月十七日までの家賃は支払い済み。今ある225銭から、八月一日から十日までの食事60銭と、急な用の60銭を引き続き確保すると、残りは105銭。ここから販売準備に使う物を選べるね。次の家賃や、その後の生活費は、今後の実際の入金に合わせて別に確保しよう。
次は瓶と栓、菓子の包み、保存の確認に必要な物を優先して、値段と販売量を決めたい。今日好かれた味と使い心地を同じように作れることも大切だよ。手元に残っている材料はもう支払った分だから、買い足さない限り現金から二度引かない。ただ、売る品の原価には、使った量に応じた材料代を入れて考えよう。
「買いたい」と「もう一つ」は、嬉しい反応だったね。どちらも京介が実際に作った物への感想だよ。今日の控えにはまだ載らないけれど、次の仕込みを考える手掛かりにはなる。
売上は零。
そう書かれると少しおかしい。今日の俺は、金をもらった日のような気分で帰ってきたからだ。
でも、たしかに誰からも代金は受け取っていない。
戻った二十銭を元の包みに収め、控えの横へ新しい紙を置く。最初の行へ「瓶」と書き、その下へ「包み」と続けた。
ただの水に見える物を使ってみたいと思ってもらうにはどう渡すか。
茶色の小さな粒を紙からきれいに外して食べてもらうには何が要るか。
考えることはあるが、今日はどちらも目の前の現物を見ながら考えられる。
瓶には薄荷の香りがあり、器の端には自分の分に残したキャラメルが一つあった。
それを口へ入れてから、もう一行書き足す。
幾らなら、もう一度買ってもらえるか。
文字を書き終えても、まだ乳の甘さが口に残っていた。
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