【30話まで投稿予約済み】明治時代をチャッピーと共に成り上がれ! 作:ヅダスキー3世
八月十日、高瀬屋の帳場で、俺はまだ空の瓶に値札を添えていた。
どの瓶にするかも決めていないのに、紙には「十銭」と書いてある。裏には先に書いた八銭の文字があり、こちらからもうっすら透けて見えた。
「その紙、裏返すんですか?」
お春さんに尋ねられ、慌てて指を離す。
「清書は別の紙にします。まだ少し迷っていて」
「八銭と十銭で?」
「見えました?」
「ずっとそこを撫でていらっしゃるから」
彼女は笑い、箱から小瓶を出して並べてくれた。
青、緑、紫、それからほとんど色のないガラス。その隣に、茶色い釉薬のかかった陶器が一本置かれる。どれも口が細く、掌に収まる大きさだ。
青い瓶を手に取ると、空なのにもう化粧水を売るところがはっきり浮かぶ。
俺の作った液が、この中へ入る。
誰かの家まで行って、その人が朝に栓を開ける。
そこまで考えてから、値札の十銭へまた目が戻った。
「中身より、その二銭の方が気になるかね?」
高瀬さんが、奥から控えを持ってきた。
今日の翻訳の仕事は済んでいる。七月十二日からの三十日分もこれで終わり、最後の一円五十銭はもう俺の懐にある。
八月十一日から次の三十日も、十日につき一円五十銭。朝に受け取る手紙の分量と、急ぎのときの連絡を改めて相談したばかりだ。
「自分で値段を付けると、高く言いすぎている気がするんです」
「幾らかかったかは数えたんだろう?」
「はい、瓶代を入れ直せば揃います」
「なら、その瓶から決めようか」
高瀬さんは瓶の手前へ控えを置く。
先日、販売用の瓶を揃えたいと相談したとき、彼は硝子物と陶器、それぞれの売り手へ聞いてくれると言った。俺が町を歩いて一つずつ探すより、同じ形で次も買えるかを確かめたかったのだ。
今日届いたガラスには、彫った模様も金の飾りもない。それでも並ぶと、白い紙の上へ三つの色が落ちる。色のない一本も、厚い底だけは少し緑がかって見えた。
光へかざすと厚みは均一ではなく、肩の高さもわずかに違う。*1
薬の空き瓶を拾い集めた物ではなく、中身を入れる前の新しい瓶だという。*2
陶器の方には、絵も金の飾りもない。小さな徳利を思わせる形で、口の内側にも釉薬が回っている。先に借りた見本へ試作の液を入れ、薬種商の仕事場で漏れやにおい移りも確かめた物だった。*3
「このガラスは、栓を合わせて一本六銭。こちらの陶器なら二銭で渡せるよ」
「色が違っても六銭ですか?」
「今回揃えた物ならね。次も同じ色合いで揃うかは、先方へ聞いてみないと分からんが」
手の中の瓶を見直す。六銭。中身を入れる前に、松葉屋で一日働いていた頃の手間賃を超えている。
「陶器の方が、ずいぶん抑えられるんですね」
「この無地の物ならね。焼き物でも、凝った品なら話は違う。どちらも揃えて、客に選んでもらったらどうだい?」
「中身は同じ物を同じ量ずつ入れて」
「そう。瓶が違えば、欲しがる客も違うだろう」
俺は十銭の紙を陶器の前へ置き、もう一枚へ十四銭と書いた。初めに迷っていた二銭より、瓶の違いの方が大きい。
これなら、使い心地を気に入った人に、ガラスまで買ってもらわなくてもいい。*4
「ガラスは青、緑、紫を一本ずつと、色の薄い物を三本。陶器は八本お願いします。栓を付けて、合わせて五十二銭ですね。次も同じくらいの物を頼めますか?」
「先方に残りはある。ただ、今日聞いた値段でいつまでも出せるとは約束できんよ。必要な数は早めに知らせてくれ」
「分かりました。それと、ここで売っていただく分ですが」
話を続けながら、お春さんの方を見る。
俺の用が済んだ後も客へ説明するのは、店の人だ。瓶だけ買って、あとはよろしくお願いしますでは済まない。
「一本売れるごとに、一銭をお店へお渡しする形でお願いできませんか?試していただく分は、売る十二本とは別に用意します」
「売れ残りは?」
「俺が引き取ります。置きっぱなしにはしません」
「代金を渡すのは、その日の売れた分を締めてからでいいかね?」
「はい、それでお願いします」
高瀬さんは、瓶の仕入れと売るときの手間を別の行へ書いた。
お春さんが用意してくれる札や、客への説明も店の仕事に入る。その分を含めた一銭だと確かめ、俺の控えにも同じことを写す。
「それで、空いた瓶は戻させるのかね?」
「使い終わった後の瓶ですか?」
「酒の通い徳利と同じさ。中身を使うたびに、瓶まで新しく買ってもらうこともあるまい」
高瀬さんは、まだ何も入っていない瓶を指先で回した。*5
言われてみれば、そのとおりだ。元の時代にも、空き瓶を店へ返す仕組みはあった。俺は新品を何本仕入れるかばかり考えていた。
「ここで売った瓶なら、ガラスは五銭、陶器は一銭で引き取りたいです。欠けやひびがなくて、ほかの物を入れていない瓶を」
「次の分を買う客には?」
「ガラス入りは十四銭、陶器入りは十銭。空き瓶と同じ種類の次の一本を引き換えるなら、どちらも九銭です。瓶だけ返す方には、それぞれの引き取り代をお渡しします」
「ここで中身を詰めるのかね?」
「瓶は俺が引き取って、よく洗ってから煮て使います。栓も替えたいので、お店では用意した一本と交換する形にできませんか?」
「それならできる。品が売れたときの店の取り分は、一銭でいいんだな?」
「はい、そこは変えません。瓶の受け取りも、合わせてお願いしたいです」
買い戻す銭は高瀬屋で立て替え、その日の売上とは行を分けて差し引く。俺が瓶を受け取るときに、種類ごとの本数と支払った額も確かめる約束になった。
新しい瓶と栓が六銭と二銭。瓶だけの買い戻しが五銭と一銭だから、どちらも差は一銭だ。その一銭が丸ごと浮くわけではない。洗うための材料と手間、新しい栓も要る。
それでも、使える瓶が戻れば、次の仕入れを少し減らせる。客は気に入った入れ物を繰り返し使えるのだ。
「色の薄い三本のうち、一本はここで試してもらう分。もう一本は自分の所に残します。中の様子を見比べたいので」
「そうすると、代金をもらえるのは十二本ですね」
「はい、だから十四本分の瓶代を十二本で戻さないといけなくて」
言ってから、陶器の前に置いた十銭の札を見た。
売る分はガラスが四色一本ずつと、陶器が八本。中身にも、火にも、借りた道具にも金を払っている。見本の一本を使った客が必ず買うとは限らない。
頭では分かっているのに、値札へ書くと俺だけが欲張っているように思えてくる。
「私は、ガラス入りが欲しいです。でも……どの色にしよう」
お春さんの指が青い瓶へ伸びて、隣の緑の前で止まる。紫を少し手前へ寄せ、今度は青と並べた。
「紫もきれい。並んでいると、決められなくなりますね」
「中身は全部同じですよ」
「分かっていますよ。だから迷うんです」
少し笑ってから青い瓶を持ち上げると、窓明かりへ向けてくるりと回す。
「やっぱり、これ。青いのをください」
「十四銭ですけど、本当に?」
「この前から、欲しいと言っていますよ」
「いや、値段を聞いたら変わるかと思って」
「ちゃんと聞いて考えましたよ。朝、これに光が入ったらきれいでしょう?中身も好きですけど、この瓶も欲しいんです」
窓の方へ少し傾けてから、彼女は瓶を胸元へ戻す。
「だから、明日はこの青いのを私の分にしてくださいね」
俺を見る目が少しおかしそうだった。
欲しいと言ってくれた本人を俺の方が疑っていたらしい。
頷いて財布を出し、五十二銭を数える。高瀬さんは代金を受け取り、瓶を一本ずつ薄い紙で包み始めた。
「戻る瓶が増えたら、新しい瓶の注文は少なくなりますけど……」
「その分、中身を買いに来てくれれば、うちにも商いになる。新しい客の分には瓶も要るだろう?」
高瀬さんは、受け取った銭を帳場へ置いた。
「瓶も替えの栓も、要る数を知らせてくれ。お前さんの品が続いて売れる方が、うちもありがたいよ」
包みの中で瓶が触れ合わないよう、間へ紙を差し込んでいく。
高瀬屋へ来るときは、いつも手紙を受け取っていた。今日は俺の方が代金を払い、これから売る物の入れ物を受け取っている。
膝の上へ載せた包みが、いつもの書類よりずっと重かった。
蘭引と秤も、明後日まで借り直す。前と同じ二十銭の預け金を別に渡し、こちらは一度家へ瓶を置いてから取りに戻ることにした。
家へ戻ると、畳の端に菓子の包みを試した紙が並んでいた。
普通の紙では一晩置くと粒の角が貼りつき、開いた後に白い毛羽が残った。包みを少し大きくしても、中身に触れる部分は同じだ。
今使っているのは、薄く蜜蝋を引いた紙だった。薬種商で用途を話して蜜蝋を少し分けてもらい、紙へ引く量を変えながら試している。
折り目を強く押し付けず、両端を畳むと、翌朝も菓子を紙から外せた。*6
高瀬屋や松葉屋へ持って歩き、包みを開いて見せた分も、形を保っていた。
指で押して確かめた端の一粒を口へ入れると、少し固くなった表面の奥から、いつもの乳の味がする。
ここへ来る前は、袋を開ければ菓子はきれいに一つずつ包まれていた。誰が紙を選んだかなんて考えたこともない。
今は包みが一枚きれいに開くだけで、机へ並べて見せたくなる。
化粧水の方も、七月に持っていった見本から少し変わっている。
薬種商の仕事場をもう一度借り、チャッピーへ材料と試験の結果を伝えながら、保存を考えて酒精を加える処方へ改めた。薄めた後の酒精の割合は、およそ二割を目安にした物だ。
ただ加えれば済むわけではなく、香りも手触りも変わる。多めに入れた見本は、お春さんにも「初めの方が好きです」と言われた。
俺自身も、手へ伸ばした後の乾き方が気になったので、グリセリンを含む原料と薄荷の水の釣り合いを取り直している。
同じ処方で作った分を分け、栓をしたままの物と、使うときと同じように開け閉めする物を置いて比べた。薬種商の主人にも調べられる範囲を見てもらい、その結果を控えへ加えたが、見た目が変わらないだけでいつまでも置けるとは考えない。
売る分は新しく調製し、作った日を付けて、小さな瓶で渡すことに決めた。*7
その手間も、試した材料も、帳面から消えるわけではない。
七月二十九日の二円二十五銭から始め、三十一日と今日に一円五十銭ずつ受け取った。八月一日から二十日までの食事へ百二十銭を払い、昨日までの追加の試作と暮らしの買い足しには六十銭を使っている。
瓶を買う前の手持ちは、三円四十五銭だった。
六十銭のうちには、薬種商の場所代十五銭、酒精や試薬など十二銭、二回分の試作の牛乳十銭、道具の借り賃六銭、包みの試験材料七銭、燃料六銭、灯りの油と紙四銭が入っている。
使った砂糖や水飴は、前に買った分だ。同じ代金をもう一度財布から引いてはいない。
それでも、売る品へ使う材料がただになるわけではなかった。
新しい紙には、明日から売る分だけを並べた。
菓子は一回の仕込みから形の揃った六十粒を選び、四粒ずつ十五包み。切り落とした端や味を確かめる分は、売る数へ入れない。
化粧水は、どちらの入れ物にも同じ液を二勺ずつ詰める。陶器入りだから薄める、ということはしない。*8
精製原料の十二銭には、残液の代金だけでなく、そこから取り出すために使った物と器具の費用を割り振った。残っていた原料のうち、今回使う分に当たる額だ。
最初の試験でなくなった液まで、今ある瓶の中へ戻ってきたことにはしない。
控えを撮り、寝具から離れた板の上へスマホを置いた。
化粧水は14銭×4本+10銭×8本で売上136銭。高瀬屋へ渡す12銭と製造分94銭を引いて30銭になる。キャラメルは売上30銭から、松葉屋へ渡す3銭と製造分14銭を引いて13銭。今回の二商品の製造と販売では、合わせて43銭が残る計算だね。
見本に使う瓶や中身、菓子の端も含めて仕込みの費用を数えているので、売る個数だけで割ったときより実態に近い。新品入りの化粧水一本を売ったときの入金は、ガラスなら13銭、陶器なら9銭。その全部を使ってしまうと次を作る金がなくなる。先に補充する材料と瓶の分を分けておこう。
この43銭から京介自身の働きに対する取り分も考えることになる。過去の試作で使い切った費用まで回収できた、という計算でもないよ。今ある原料へ割り振った費用と、すでに試験のために使ってなくなった費用は分けておきたい。
空き瓶の五銭と一銭は、瓶が戻ったときに払う買い戻し代だね。売るガラス四本と陶器八本が全部戻っても払えるよう、5銭×4本+1銭×8本=28銭を取り分けておこう。手元の現金を分けるだけで、今ここで支出があったわけではない。戻ったら種類と本数、実際の支払いを記録し、洗浄や新しい栓の費用と合わせて、次にその瓶を使う商品の原価へ入れよう。
同じ種類の次の商品と交換したときも、ガラスなら売上十四銭と買い戻し五銭、陶器なら売上十銭と買い戻し一銭を別々に記録する。客が差額の九銭を出し、店の一銭を引けば、京介への入金はどちらも八銭だよ。すでに差し引いた買い戻し代をそこでもう一度引かないようにしよう。ガラス同士で色を変えるだけなら差額は九銭のまま。ガラスと陶器を替える場合は、選んだ商品の売値から持参した瓶の引き取り額を引くので、九銭とは限らない。
客が同じ瓶を使い続けたい場合は、その人の物として預かり、詰め直し代を九銭にする方法もある。この場合は瓶を買い取らないから、売上九銭と店の一銭を記録し、架空の買い戻し代を付けない。中身、洗浄、新しい栓の費用はかかるので、そちらは実際に使った分を数えよう。
キャラメルの二銭は、初めて食べてもらうための値段なんだね。それなら「初売りの十五包みだけ」と札にも書き、買う前に伝えておこう。今回と同じ製造費十四銭、店の手数料三銭で十五包みを全部売るなら、一包み三銭では二十八銭、四銭では四十三銭が残る。ただし、次に人へ包み仕事を頼めば、その費用も増える。通常の値段は京介自身の手間と、これから頼む仕事の分も考えて決めたい。
化粧水は今回決めた値段での反応を確かめ、キャラメルはお試しの値段で買った人が、その後も欲しいと思うかを見よう。買わなかった人には無理に勧めず、味や量、値段のどこで迷ったかを聞けると、次の判断に役立つね。
四十三銭。
松葉屋で一日働いて五銭をもらっていた頃なら、八日分を超える。
もっとも、明日一日で四十三銭が空から落ちてくるわけではない。ここまで作るのに何日もかけ、明日も鍋の前へ立つ。そのうえ全部売れた場合の話だ。
それでも、その数字の前に自分の品物がある。
瓶の包みへ触れ、もう一度画面へ戻った。
新品でも、そのまま中身を入れてよいとは限らないね。まず洗って汚れを落とし、消毒できる材質かを確かめよう。瓶の口の欠けやひびも点検して、疑わしい物は使わない。ただし、外から見ただけで熱に耐えると判断することはできないので、購入先にも使い方を伝えて確認したい。
陶器も、釉薬があるだけで液体の保存や煮沸に向くとは言えない。焼き方や釉薬の原料、内面の傷み、液との相性を確かめる必要があるよ。鉛を含む釉薬などの問題は、色や漏れの有無だけでは判断できない。素焼きや内側に細かいひびのある物は今回の候補から外し、用途を伝えて選んだ物でも、使うたびに状態を確認しよう。
加熱できる瓶でも、冷たいまま熱湯へ入れたり、熱い瓶を冷水で冷ましたりすると割れることがある。急な温度差や、鍋底へ直接触れること、瓶同士がぶつかることを避けて扱おう。煮沸は汚れを落とす洗浄の代わりにはならないし、すべての微生物をなくす滅菌とも違うよ。
取り出す道具や置き場所も清潔にし、口や内側へ手や使い回しの布を触れさせないことが大事だね。乾かす間もほこりを避け、中身を詰めるときに汚さないようにしよう。コルクは瓶とは別に材質に合った扱いを確認し、戻った栓は再使用しない。新品の栓も、裸で放っておかずに準備しておきたい。
客に家で煮てもらうことを引き取りの条件にせず、受け取ってから京介が同じ手順で扱う方が、処理の確認をしやすいね。手間と燃料も、その都度帳面へ入れておこう。
空き瓶を安く買えると思うと、その先の手間を忘れそうになる。
顔へ使う物を詰めるのだ。瓶の中を覗いて、きれいに見えるからいいか、とは済ませたくない。
借りる鍋と瓶を煮る燃料は、器具借用と燃料の十二銭に含めてある。菓子の鍋とは分けて使うつもりだが、これから戻る瓶の分も毎回数えなければならない。
その出し方なら、客の手が共通の瓶へ触れるのを避けられるね。皿も使う人ごとに洗って乾いた物へ替え、残った液は瓶へ戻さないようにしよう。
買った人には、少量から使うこと、目や傷のある所を避けること、しみたり赤くなったりしたら使用をやめることを短く伝えたい。酒精を含むので、以前の見本とまったく同じではないことも隠さず説明しよう。
瓶は火や日なたを避け、使ったら栓をする。水で薄めて継ぎ足したり、使い残しへ新しい分を足したりはしない。においや見た目の変化に気づいたら使うのをやめて持ってきてもらう。ただし、変化が見えないことだけで品質を保証できるわけではないよ。保存できる期間は材料の名前だけから決めず、処方と容器、実際の確認に合わせて扱おう。
客の前で全部を一度に喋ったら、買う前に疲れさせそうだ。
瓶の扱いは短い書付にして、必要なことを口でも伝える。分からないことがあれば、高瀬屋へ来てもらえば俺につながる。
書付の最後に、自分の名を入れた。
左江内京介。
人の手紙を訳す紙には、こんなに大きく書いたことがなかった。
翌朝、土間へ並べた十四本には、まだ何も入っていなかった。
先にする仕事は、瓶を洗うことだ。
一本ずつ口と底を確かめ、内側まで洗って十分にすすぐ。昨日、道具を取りに戻ったときには、二つの売り手へ加熱の仕方も確かめてもらった。陶器の釉薬について聞いたことも控えへ加え、薬種商の主人と見直している。安い方を選んだ客にも、同じ手間をかけたい。
鍋の底へ敷いた布の上に、瓶がぶつからないよう間を取って沈める。冷たい瓶を熱湯へ投げ込むのではなく、水からゆっくり温めていく。
湯が沸いてから、スマホで時間を確かめた。十五分。軽く湯をかければ終わり、とはいかない。
瓶の首から小さな泡が離れ、湯気が顔へ流れてくる。火を弱めすぎないよう気を付けながら、洗い終えた分と処理を済ませた分の置き場所をもう一度見比べた。
火を落とし、冷ますときも急がない。清潔にした道具で扱い、内側を布で拭かず、ほこりを避けて水を切る。乾かした後は口へ触れず、覆いをしておいた。
コルクの栓は別に手入れを済ませた新品を使う。戻ってきた古い栓は、見た目がよくても使い回さないと控えへ書き足す。*9
これから戻ってくる瓶も、この台を通してから詰め直す。
高瀬屋の帳場で銭と本数を数えたときには、空き瓶が戻れば仕入れが楽になると考えていた。今は、戻る瓶の数だけこうして火の前へ立つ時間も増えるのだと分かる。
だからといって、買ってくれた人へこの仕事を押し付けるつもりはない。
汗を拭き、手を洗い直してから、仕込みの控えを開いた。
鍋を片付け、十分に冷めて乾いた瓶を拭き上げた台へ並べる。
借り直した蘭引から昨日採った薄荷の水を使い、控えに合わせて調製する。注ぐ道具も手入れを済ませて、別に用意してある。
瓶の肩に合わせて注ぐと、中身の量が揃わない。陶器の方は、外から液の高さも見えない。
一本ずつ量って移し、瓶の口へ触れないよう栓をする。十四本目が終わった頃には、背中がまた汗ばんでいた。
色の薄い一本は日付の控えと一緒に家へ残し、十三本を運ぶ箱へ収める。
その箱を抱えて歩く間、荷車が近づくたび道の端へ寄った。空の瓶だった昨日より、腕へ力が入る。
高瀬屋に着くと、お春さんが帳場から顔を上げた。
「できたんですね!」
俺の顔より先に箱を見て、すぐこちらへ戻す。
「はい、お待たせしました」
「本当に待っていましたよ」
笑って言う声に、こちらまで頬がゆるむ。
いつもの手紙を先に受け取り、急ぎの返事がないことを高瀬さんと確かめてから、箱の蓋を開いた。
お春さんが用意してくれた瓶の札には、見慣れた筆跡で「薄荷化粧水」とある。
その下へ、小さく俺の名も入っていた。四色の瓶へ当てても、同じ札だ。中身の香りでなく、好きな瓶の色を選べるようにしてある。
脇には店先へ出す値札もあり、昨日決めた瓶の扱いが添えてある。
薄荷化粧水・ガラス入り 二勺入り 十四銭 薄荷化粧水・陶器入り 二勺入り 十銭 空瓶お引取り ガラス五銭・陶器一銭 同じ種類の瓶とお引換え 二勺入り一本 差額九銭
「横に長く書くより、こうした方が瓶を持っても読めるでしょう?」
彼女は札を青い一本へ当て、俺に持たせてくれた。
たしかに、指を添えても品名が隠れない。棚へ置いたときの向きまで決めてあり、栓の上には別の細い紙を渡して、開けた物とまだ開けていない物が分かるようになっている。
「これ、店へ並んでいる物みたいですね」
「並べるんですもの」
当たり前の返事に、俺は瓶を持ったまま笑ってしまった。
自分が作った物だから、まだ土間の台の上にある気がしていたのだ。
見本の一本だけは大きく印を付けて脇へ分け、残る十二本へ札を付ける。お春さんは最後の一枚の向きを直してから、袖の内側より小さな財布を出した。
「では、これを一本ください」
十四銭が、俺の前へ置かれる。
いよいよだと思ったのに、口から出たのは別の言葉だった。
「もう、ほかの色で迷いませんか?」
「昨日、この青いのをお願いしたでしょう?」
「はい」
「なら、これにします。この札、少し曲がってしまったので」
俺が手に持っている瓶を指している。
慌てて見直すと、札の下がほんの少し斜めだった。お春さんが貼り方を見せてくれた、あの一本だ。
「貼り直せますよ」
「このままがいいです。自分で貼ったので分かりますから」
彼女は両手で瓶を受け取り、顔の前で少し傾けた。
青いガラス越しに液がきらめき、彼女は思わず目を細める。指で札を撫で、今度は包む紙の上へ大事そうに置いた。
「やっと、私のになりました」
その声を聞いてから、俺はまだ代金を受け取っていないと気づいた。
銭へ手を伸ばし、落とさないよう掌へ収める。
「ありがとうございます」
言った途端、妙に喉が詰まった。
高瀬さんから翻訳の報酬をもらうときも嬉しい。けれど、これは誰かに頼まれて取り掛かった仕事ではない。
俺が作ると決め、材料を買い、火へかけて、自分で値段を付けた物だ。
それを欲しい人が、目の前にいる。
「京介さん?」
「すみません。最初の一本なので、少し……」
「私、最初に買えました?」
頷くと、お春さんがぱっと笑った。
「よかった!先にどなたかへ売ってしまったかと思っていました」
「最初に欲しいと言ってくれた人ですから」
返した後で、少し照れくさくなる。
お春さんも包みの角へ目を落とし、折り目を指で丁寧になぞった。
「今晩、使うのが楽しみです」
まだ朝なのに、もう夜の話をしている。
この一本分だけ先に受け取り、十四銭から店の一銭を分ける。控えの最初の行には、ガラス青一本と書いた。
残った十三銭は、手の中で温かくなっていた。
近所の客が来たのは、俺が空いた箱を片付けている最中だった。
「春ちゃん、話していた薄荷の化粧水は、もうあるの?」
暖簾をくぐった女性は、手に小さな風呂敷を提げていた。お春さんよりずっと年上で、俺の顔を見てから棚の瓶へ目を移す。
お春さんがすぐに迎えた。
「はい、今朝届いたところです。こちらが作ってくださった京介さんです」
「まあ、この方なの」
俺が頭を下げる前に、女性は笑顔になった。
「この子がね、手を触ってみてって言うのよ。ちょうどその日も会っていたのに、帰りにもう一度呼び止められて」
「それは、お玉さんが気にしていらしたから……」
「そうだったねえ。私が聞いたんだったね」
お春さんが赤くなり、俺はつられて笑いそうになるのを堪えた。
試したあの日、俺が帰った後にも、自分の手を眺めていたのだろうか。
女性は近所で暮らすお玉さんだと紹介された。隣の店で買い物をするたびに高瀬屋へも寄るという。
今日はその買い物より先に来たらしい。
「へちまの化粧水なら、うちでも採るんだけどね。薄荷の香りというのが気になって」
「手に試していただけます。少しだけでよろしければ」
「ええ、お願い。春ちゃんばかりいい匂いがしていたら、悔しいもの」
顔へ使う物だと一から説明する必要はなかった。お玉さんが知りたいのは、自分が使ってきた物とどう違うのかだ。*10
お玉さんは笑いながら、袖口を少し上げた。
見本から小皿へ出した液を取り、手の甲へそっと伸ばす。初めは俺の説明を聞いていたが、途中から自分の指先を見つめ始めた。
「あら……」
手を顔へ近づけ、香りを確かめる。
もう一度撫でたときには、口元が上がっていた。
「ああ、いい匂い。……これ、うちのへちまのより、指がすっと滑るねえ。もう少し撫でていたくなるよ」
「私もそこが好きなんです」
「なるほど、触らせたくなるわけだ」
お玉さんは、今度は自分の手をお春さんへ差し出した。
二人で顔を見合わせて笑っているところへ、別の女性が表から声をかける。
「何をしてるの?お玉さん、いつまでも出てこないから」
「ちょっとおいでよ。ほら、この手」
呼ばれた人が、お玉さんの手へ指を当てる。
その眉が上がった。
「あら、何を付けたの?」
俺へ尋ねたのではないので、お玉さんが先に瓶を指した。
「春ちゃんが話していた、薄荷の化粧水。私も今、試してもらったところ」
「ずるいじゃない。私にも教えてくれればいいのに」
「だから呼んだんだよ」
お春さんが新しい皿を取りに行き、俺は見本の瓶を手元へ寄せる。
さっきまで、一人に何をどう説明するかと考えていた。今は俺の言葉より先に、試した人の手が次の人へ差し出されている。
香りを嗅いだ二人目の女性は、目を閉じて小さく息を吸った。
「いいねえ。日なたを歩いてきたから、こういう匂いが嬉しい」
手へ使った後も、すぐに袖を下ろさず、光へ透かすように眺めている。
お玉さんは隣から覗き込み、自分の手も並べた。
「あんた、顔まで嬉しそうだよ」
「あなただって、さっきから撫でてばかりいるじゃない」
二人が笑うと、お春さんも肩を揺らした。
俺は瓶を倒さない場所へ置き直してから、ようやく値段を言う。
「陶器入りは十銭、ガラス入りは十四銭です。中身は同じ物が、どちらも二勺入っています」
十四銭と言うところで、声が少し固くなった。
お玉さんは棚を見渡し、陶器の方へ手を伸ばす。
「それなら、私はこっちでいいね。欲しいのは、この手触りだもの」
「はい、中身を減らしたり薄めたりはしていません」
「その四銭で、ほかの買い物もできるからね」
隣の女性は、緑と紫の瓶を手前へ寄せた。片方を手に取っては、もう片方へ目が戻る。
「色が付いているのは瓶なのね。どちらも十四銭?」
「はい、中身も量も同じです」
「じゃあ、紫にしようかしら。うちの鏡の脇へ置いたら、毎朝嬉しくなりそう」
「あら、鏡を見る時間が増えるよ」
「いいでしょう?見るのも私なんだから」
お春さんが、こらえきれずに笑った。
「私も迷って、青にしました。包む前から、何度も眺めてしまって」
「ほら、春ちゃんだってそうだって」
二人とも同じ見本を試して、違う瓶を手に取っている。紫を選んだ人は、もう棚へ戻そうとしない。値札を書いたときには、こんなふうに決まるとは思ってもみなかった。
お玉さんが財布を出し、俺へ少し顔を寄せる。
「二本にしたら、少し負けてくれる?」
聞かれるとは思っていた。
思っていたのに、すぐ八銭という数字が頭へ戻る。
「陶器は十銭、ガラスは十四銭で、どなたにも同じようにお願いしたいです。また同じ物を作ってお届けしたいので」
最後まで言ってから、二人の顔を見た。お玉さんは値札の下の行へ目を戻し、瓶の底を掌に載せる。
「これは、空いた瓶を持ってくればいいんだね?次は中身だけ買えるの?」
「はい、同じ種類の瓶入りと取り替えるなら、どちらも次は九銭です。空き瓶は陶器が一銭、ガラスが五銭で引き取るので、瓶だけお持ちくださっても構いません」
「酒を買うときみたいなものか。それなら分かるよ」
隣の女性も、札へ顔を寄せた。
「次は緑にしても、九銭なの?」
「はい、ガラス同士なら同じです。ただ、そのときある色から選んでいただくことになります」
「緑がなければ、待つかまた考えればいいね。それで、今ある瓶へ、その場で足してもらうの?」
「いったん空にして、お持ちください。こちらでよく洗ってから、湯の中で煮ます。栓も新しい物に替えて使います」
「瓶まで煮るの?」
「はい、顔へ使う物ですから。水で流しただけで次を入れるより、手間をかけたいんです」
お玉さんは、瓶の底から俺の顔へ目を上げた。
「じゃあ、うちでも煮てから持ってきた方がいいかね?」
「そこまではなさらなくて大丈夫です。預かった後で、俺がまとめてやります。すぐに次をお使いになるなら、用意した瓶とお取り替えします」
「ああ、それならいいね。私が煮て割ったら、せっかくの瓶がなくなっちゃう」
隣の女性が笑い、お玉さんも頷いた。
「そこまでしてくれるなら、ちゃんと持ってくるよ。次の分も置いておいておくれ」
握っていた瓶を今度は両手で包んでいる。*11
まだ一本も買っていない人が、もう次の話をしている。
その言い方につられて、俺も声が出しやすくなった。
「ありがとうございます。欠けたり、ほかの物のにおいが付いたりした瓶は使えないので、空いたまま取っておいてください」
「大丈夫よ。こんな小さな瓶へ醤油なんか入れないから」
「あんた、この前の小瓶には油を入れてなかった?」
「これは入れないってば」
二人が顔を見合わせ、お春さんまで吹き出した。
お玉さんは陶器の瓶を台へ戻し、隣の人へ向き直る。
「じゃあ、私は一つ。あんたも買う?」
「買うわよ。明日、あんたの手ばかり触るのは嫌だもの」
その返事に笑ってしまい、今度は俺も堪えられなかった。
陶器と紫のガラスを一本ずつ包み、十銭と十四銭を別々に受け取る。扱いを書いた紙を添えると、お春さんの札を褒められたので、品名が指で隠れないよう彼女が考えてくれたと伝える。
「作った人の名前まで書いてあるのね。これなら、なくなったらまた頼める」
お玉さんが、俺の名を指でなぞった。
高瀬屋へ言っていただければ届けますと答えると、包みがその人の風呂敷へ収まる。
土間で十四本を眺めていたときより、棚から二本減った今の方が、作った実感が強かった。
その後に来た女性は、手へ試してから「今日は小銭が足りないから」と言った。
俺が返事を考えるより先に、お春さんが笑顔で頷く。
「またお買い物のときに寄ってください。香りだけでも覚えていってくださいね」
その人はもう一度手を鼻先へ寄せ、惜しそうに笑って帰っていった。
追いかけて値を下げることはしなかった。
買わなかった人の後ろ姿まで目で追っていると、お春さんが小さな声で言う。
「そんなに見送っていたら、帰りにくくなってしまいますよ」
「顔に出てました?」
「とても」
俺は襟元を引き、少し風を入れた。
暑さだけで汗をかいているわけではないらしい。
昼に受け取った牛乳は、家へ戻ってすぐ菓子の鍋へ入れた。
一本売れたからといって、砂糖が勝手に煮詰まってくれるわけではない。高瀬屋へ化粧水を預け、今度はいつもの浅い器へ向き直る。
仕込みの量は前と同じにした。
売るからといっていきなり倍にすると、鍋の前でまた初めてのことが増える。冷水へ落とした試料を確かめ、火から外すところまで、前の控えと照らし合わせて進めた。
冷ます間に表の用を済ませ、戻ってから粒を切り揃える。四つ並べると小さな包みに収まり、十五組を作っても、大きな箱は要らなかった。
端の細い所は、自分で味を確かめる分と松葉屋の味見に取り分ける。
包みを全部並べて数え終えたところで、肩が軽くなった。
今日、作ると決めた物はできている。
松葉屋へ持っていくと、徳蔵さんが、味見用に分けて包んだ一粒を取り出した。
「今度は紙から取れるな」
「そこは何度も試しました」
「そうだろうな。こないだの紙まで食いそうなやつでは、売りにくい」
笑いながら粒を口へ入れ、ゆっくり噛んでいる。
おせいさんも取り分けた端を一つ食べ、頷いた。
「これなら、お茶の後にも楽しめるね。四つで二銭だったかい?」
「はい、二銭は初売りの十五包みだけにします。まずは味を覚えてもらいたいので。お店へは一包み二厘で、売れた分だけお願いします」
徳蔵さんが、菓子の箱から顔を上げる。
「その次は、幾らにするつもりだ?」
「三銭か四銭を考えています。自分で包んで運ぶ分も取らないと、数を増やせなくなるので」
「なら、初めからそう分かるように出してくれ。二銭がいつもの値だと思って買う客もいる」
「はい、札にも書いておきます」
おせいさんは箱の中を数え、置き場所を少し空けてくれた。
「分かったよ。まず、そこへ置いてごらん」
夕方の客が入る前に、小さな札を添えた。
キャラメル 四粒一包み 二銭 初売りの十五包み限り お試しの値
「きゃらめる」と読んだ徳蔵さんが、もう一度口の中を確かめる。名前を覚えるより先に、味の方を覚えてくれたらしい。
俺もいつもの手伝いに入り、椀と皿を運んだ。代金を数えることばかり考えていたが、客が来れば先に飯を出さないといけない。
「それは何だ?」
最初に札を見つけたのは、食べ終えた椀を寄せた男だった。
松葉屋で何度か顔を見た客で、いつも飯を食べるのが早い。その人が今日は札の文字を指で追っている。
「乳を入れたお菓子です。小さく切った味見がありますが、召し上がりますか?」
「乳の菓子?」
少し首を傾げながらも、男は出した小皿を受け取った。
口へ入れた後、いつもの飯よりずっとゆっくり顎が動く。
急に噛むのをやめたので、歯へ張りついたのかと思った。
「……こりゃ、甘いな」
それから頬が上がる。
「おい、ちょっと食ってみろ。後からいい匂いがするぞ」
隣の連れに勧めようとして、皿が空だと気づいたらしい。
男は自分の指先を見てから、俺へ顔を向けた。
「もう飲み込んじまった。四つで二銭だな?」
「はい、この十五包みは、お試しいただくための値段です。次からは値を改めるつもりです」
「なるほど、それでこの札か。二包みくれ。一つは持って帰る」
四銭が置かれる。
俺は菓子の箱へ手を伸ばし、危うく札まで一緒に渡しかけた。
おせいさんが横から札を押さえ、何も言わずに笑う。
男は受け取った一包みを開き、連れへ一粒、自分にも一粒を取った。もう一つの包みは開けずに懐へ収める。
「うちのにも食わせてやるか。俺ばかり甘い物を食って帰るとうるさいからな」
「本当は、喜ぶ顔が見たいんだろう」
「余計なことを言うなよ」
連れにからかわれた男が笑い、口の中の菓子を頬へ寄せた。
おせいさんの方も楽しそうだ。
「包んだまま大事にしまいすぎず、早めに食べておくれよ。熱い所へ置くと、また紙にくっつくからね」
「今日持って帰るんだから、心配するなって」
菓子を食べている連れが、ようやく口を開いた。
「俺にも一つ。今の一粒だけじゃ足りん」
今度は二銭。
受け取るたびに礼を言っていたら、徳蔵さんから次の椀が来た。
「売れたのは分かった。こっちも運んでくれ」
「はい、すみません!」
椀を受け取ってから、もう一度だけ菓子の箱を見る。
十五包みのうち、三つがなくなっていた。
さっきまで自分で数えていた物が、人に買ってもらえて減っていく。その空いた所が、どうしてこんなに嬉しいのだろう。
忙しさが落ち着くまでに、さらに七包みが売れた。
一粒ずつ連れへ分ける人もいれば、包みを開かず持ち帰る人もいる。牛乳の匂いは苦手だと言った客は買わなかったが、その隣では二包み買った人が、もう一つをいつ開けるか迷っていた。
俺は人によって違う反応を見ながら、箱の位置を少し奥へ移す。竈の近くへ置いたままでは、中身が温まってしまう。
十包み分の売上二十銭から店の二銭を分け、十八銭を受け取った。
残りの五包みは、蓋のある器へ収めて店の日の当たらない所へ置く。明朝に状態を確かめてから出す約束をして、俺はいつもより丁寧に台を拭いた。
十二日の朝、松葉屋の菓子は五包みとも売れた。
昨日買った客とは別の人が、隣で見ていたから一つ欲しいと言ってくれた。おせいさんが箱を空にしてみせ、店の分を引いた九銭を渡してくれる。
「次も、同じ味で頼むよ」
その言葉を胸の中で繰り返しながら、高瀬屋へ向かった。
家へ寄って持ってきた蘭引と秤を返し、二十銭の預け金を受け取る。次は手紙を預かろうと帳場へ向かったはずなのに、目は勝手に棚を探してしまう。
並んでいた瓶は三本になっていた。
「昨日は、私の分を合わせて七本でした」
俺が数え直す前に、お春さんが教えてくれた。
「今朝、二本出ました。お玉さんがお隣にも話してくださって」
「もうですか?」
「今朝使う前から、お話はしていたみたいです」
彼女は笑い、昨日の売れた数を書いた紙を見せた。
昨日は青、紫、緑のガラスが一本ずつと、陶器が四本。売上八十二銭から店の七銭を引いて、手取りは七十五銭になる。朝のお春さんの十三銭と、昨夕の六十二銭で揃っている。今朝は陶器が二本売れたので、残りはほぼ無色のガラス一本と陶器二本だ。
十二本も用意して余るかもしれないと思ったのは、一昨日だった。
「お春さんは、昨夜使ってみてどうでした?」
聞くと、彼女は少し声を落とした。
「使う前に、何度も包みを開いてしまいました」
「使う前に?」
「棚へ置いてみて、また出して……札のところも見てしまって」
自分で言っておかしくなったのか、口元へ手を添える。
「手に使った感じも、やっぱり好きです。今朝、支度をしていてもまだ瓶があるのが嬉しくて。お父さんに、割る前にしまっておけって言われました」
俺まで笑ってしまった。
試したときの感想を聞いたつもりが、瓶を家へ持って帰った後の時間まで見えた気がする。
中身だけを気にしていた俺には、札を眺めて嬉しくなることも、まだ家にあるのが楽しみになることも、値段へ入れて考えられなかった。
「使い終わったら、私の瓶も取り替えてしまうんですよね?」
お春さんが、小さく首を傾ける。
「あの瓶がいいですか?」
「はい、最初に選んだ青い瓶ですから。あの、札が少し曲がった瓶がいいんです」
「それなら、預かって同じ瓶へ詰め直します。洗って煮る前に札は剥がすので、新しく貼らないといけませんけど」
「札は私が書きます。次はまっすぐ貼れると思います」
今度は少し得意そうな顔になった。
ほかの瓶と混ぜないよう名前を付けて預かり、次に仕込むときに渡す。同じ量を九銭で、と伝えると、お春さんは嬉しそうに頷く。
「それなら、空になるのも楽しみです」
新しい物が欲しいのだとばかり思っていた。
何度も使いたい瓶になるのも、作った俺には嬉しかった。
「あの、次は違う香りも作れますか?」
「花の香りとかですか?」
「はい、これも好きですけど、瓶を並べたらきれいだろうなと思って」
彼女の目が、残る三本へ向く。
俺も同じ棚を見た。
「秋の花でも試してみたいです。花の香りを二種類作れたら、薄荷と並べて選んでもらえますね」
「そのときも、早めに教えてください」
「まだ何も作ってませんよ」
「待つ楽しみが増えるでしょう?」
言い方が、見本を持ってくる前の日と少し似ていた。
俺は頷き、先に今日の手紙へ取り掛かる。次の香りを考えられるのも、今の品を買ってくれる人がいたからだ。
昼を過ぎて残りの三本も売れ、夕方には見本の一本だけが棚へ残った。
最後の客は、昨日小銭が足りないと言って帰った女性だったという。今日は十銭を用意して来たと聞き、俺はお春さんの顔を見た。
「昨日、追いかけなくてよかったですね」
「はい、本当に」
自分が作った物より、自分の顔の方を上手に扱ってもらった気がする。
高瀬さんから今日の五本分の四十九銭を受け取り、二日分を控えと照らし合わせた。
化粧水の売上は、ガラス四本と陶器八本で百三十六銭。キャラメルは三十銭。
どちらも、誰かが払ってくれた代金だ。
使い終わった瓶が戻るのは、もう少し先になる。次を待つ人の分には、また新しい瓶が要る。
「次の瓶も、ガラス六本と陶器八本でお願いします」
自分からそう言うと、高瀬さんが帳面を開いた。
「同じ物でいいかね?」
「はい、色も今回と同じ数で。どの色がよく出るか、まだ一度では分からないので。明後日までに揃えば助かります」
「先方へ聞いておこう」
五十二銭を前金として渡し、控えを受け取る。
今度は翻訳の報酬の包みを開かず、今日売った分から払えた。
高瀬さんが銭を収め、その横でお春さんが新しい札に使う紙を揃える。
一度終わったと思った仕事が、もう次へ続いていた。
夜、家へ帰って帳面を開く。
売上の欄へ百六十六銭と書き、店へ渡した十五銭をその下へ置いた。財布へ入ったのは百五十一銭だ。
初売りの仕込みにかかった百八銭には、前に買った材料と道具を使う分が十七銭二厘含まれている。今回新しく払ったのは九十銭八厘だった。
瓶を買う前の三百四十五銭からその額を引き、受け取った百五十一銭を足す。次の瓶代五十二銭も引くと、手元の銭と合った。
道具の預け金二十銭は今日返ってきているので、支出と返却が差し引き零になる。
ガラス四本と陶器八本が戻ってきたときのために、二十八銭を別の紙へ包む。これはまだ財布から出ていった金ではないので、手持ちの合計からは引かない。
包みには「空瓶」と書いた。明日また使い道を思い付いても、ここからは取らないつもりだ。
帳面を撮り、売れた数と一緒に送った。
初売り、おめでとう。伝えてくれた現金の計算も、345銭−90.8銭+151銭−52銭=353.2銭で合っているよ。次の瓶の前払いは、今回売れた分の原価へ重ねて入れず、次の仕込みのための金として控えておこう。
今回は、試して気に入った人が買い、話を聞いた人が店へ来て、その売上で次の瓶を頼めた。最初に考えていた商売が、一巡したね。食事は二十日まで、家賃は十七日まで支払い済みなので、次の家賃を確保しながら、足りなくなる原料も順に補充しよう。
次は、今日と同じ物を欲しいと言ってくれた人へ届ける番だね。
スマホを置き、控え用に残した一本を手に取った。
こちらの札は俺が書いたので、高瀬屋へ並べた物より字が少し頼りない。瓶の中身だけなら、売れた十二本と同じだ。
それが今、別々の家にある。
お玉さんは誰に手を差し出しているだろう。松葉屋の客が持ち帰ったキャラメルは、もう家の人の口へ入っただろうか。
お春さんは、今晩も包みを開いてくれるかもしれない。
想像すると、瓶を持つ手がなかなか下りなかった。
帳面の次の頁へ、新しい仕込みに要る物を書く。
薄荷、酒精、牛乳。砂糖と水飴の残りも、今度は量り直しておこう。
最後に、受け取った瓶の前金の控えを挟んだ。
菓子の欄には、三銭と四銭を並べて書く。味を覚えてもらうための二銭と、これから作り続ける値段は分けて考えよう。
次に受け取る十四本の瓶も、こうして自分の品物にして並べたい。
俺はそれを空のままにはしない。