【30話まで投稿予約済み】明治時代をチャッピーと共に成り上がれ! 作:ヅダスキー3世
九月五日、小野屋の戸口で箱を抱え直すと、奥から女の人が出てきた。
細い縞の着物に、暗い色の帯を締めている。俺を見つけると足を止めずに脇へ寄り、箱の下へ手を差し出した。
「こちらへどうぞ。重いでしょう?」
「いえ、五本だけですから」
「では、置くところを空けますね」
台の上の紙包みを片付ける手が早い。礼を言って箱を下ろし、顔を上げたところで、用意していた挨拶が少し遅れた。
綺麗な人だった。
すっと通った鼻筋の上に、目尻の上がった切れ長の目がある。細い眉もその形に沿っていて、黙ってこちらを見る顔は、きりっとして近寄り難いほどだ。まとめた黒髪から耳の下が覗き、襟元へ続く首筋も白い。
年は俺とそう変わらないだろうか。着物の袖から覗く手首は細く、物を渡すときにも背筋がすっと伸びている。
「お待ちしておりました。化粧水の方ですよね?」
「はい、左江内といいます。今日の分をお届けに」
「父から聞いています。私は娘のりんです」
そう言って笑うと、凛とした目元が柔らかくなった。口の端にできる小さなくぼみまで目に入り、俺は慌てて箱の蓋へ視線を戻す。
近寄り難いと思ったばかりなのに、今度は目を合わせる方が落ち着かない。
「左江内京介です。よろしくお願いします」
「では、京介さんとお呼びしても?」
「あ、はい」
最初に名字を名乗ったのに、名前の方になった。
俺も、おりんさん、と呼んでいいか尋ねる。彼女は頷き、包みから出した陶器瓶を一本、指先で回した。
「これ、父に言われて試したんです。薄荷の匂いが強すぎなくて、使った後も手が気持ちよかった」
「べたつきませんでしたか?」
「初めは付けすぎたみたい。でも、少しでいいと聞いてからは、ちょうどよくなりました」
手の甲へもう片方の指を滑らせる。爪の短く整った手だった。細い指なのに、瓶を持つときには迷いがない。
「顔へ付ける物だから、匂いがいつまでも強いのは苦手なんです。その点、これは好きですよ」
言いながら、俺の顔を見る。
化粧水の話だ。分かっているのに、好きですよ、と言われたところだけ耳に残る。
台に並べる間隔を直していると、店の主人が奥から出てきて、娘の手元を覗いた。
「四本、確かに。ここへ並べよう」
「ありがとうございます。今日は新しい見本も持ってきました」
「りん、見本の方はこっちへ。売る物と一緒にしまわないでくれ」
おりんさんは返事をして、札の違う瓶を脇へ置く。
親子で品数を確かめるところを見て、ようやく俺も普段の調子に戻った。
八月末に残っていた化粧水は、高瀬屋の五本も小野屋の二本も売れた。おきぬさんには二十八日に菓子の完売を知らせ、その後も三十包みずつ二度、包みを頼んでいる。
今度は俺が初めから四粒ずつ用意したので、前より早く終わった。それでも約束した四銭を渡すと、おきぬさんは笑って、次も先に日を知らせておくれと言う。
松葉屋の箱が空になるたび、また誰かの手を借りて菓子を作る。俺が一人で考えていた商売が、少しずつ人の予定の中へ入っていた。
今回の化粧水は、二度に分けて十六本を仕込んだ。
売る十二本はガラス四本と陶器八本。見本二本と手元に残す控え二本には、ほぼ無色のガラスを使っている。高瀬屋へ八本、小野屋へ四本。瓶と栓に六十四銭、材料の補充や作業場などに四十八銭を払うと、百銭を超える仕込みになった。
初めてなら手が止まった額だが、今は前に売れた分の代金を次へ回せる。
「高瀬屋さんでも、よく出ているそうですね」
主人が帳面を閉じると、おりんさんが口を開く。
「はい、お使いになった方が、別の方へ勧めてくださって」
「うちへ来るお客にも聞かれましたよ。あの若い人が作っているのかって」
「俺のことですか?」
「ほかにどなたが?」
おりんさんの目が笑う。
「それに、お菓子も作っていらっしゃるでしょう?松葉屋さんにある、乳の入った」
「キャラメルです。食べてくださったんですか?」
「まだです。買って帰ろうと思った日に、もう売れてしまっていて」
今度は少し残念そうな顔になった。
化粧水を扱う店の人に、菓子のことまで知られている。俺が自分から説明しなくても、別の店でしている仕事が伝わってくるのだ。
「次は、少し多く作ろうと思っています」
「では、私の分も一包み取っておいてくださいな。四銭でしたね?」
「はい、次に作る日が決まったらお知らせします」
「化粧水にお菓子に、忙しい若旦那ですね」
若旦那。
思わず主人の方を見た。こちらへ言っているのは分かるが、ほかにふさわしい人がいる気がしたのだ。
「まだ、そんなものじゃないですよ。自分の店もありませんし」
「でも、ご自分で作った品をご自分のお金で届けにいらしたんでしょう?」
「それは、そうですけど」
「なら、もう少し胸を張ってもいいんじゃありません?」
主人まで口元を緩めている。
頭を下げようとして背を丸めかけ、途中で止めると、おりんさんが声を立てずに笑った。
「あの、そんなに見ていらしたら、余計に背中が丸まってしまいます」
「失礼しました。つい」
謝る顔も、少しも困っていない。
空いた箱へ手を伸ばすと、彼女は店先へ目を向けてから、もう一つ話があると言った。
「髪結いのおまつさんをご存じですか?」
「いえ、まだ」
「私が小さい頃から知っている方なんです。こちらの化粧水を話したら、試してみたいとおっしゃって。ほかにも二人、欲しがっている方がいるそうですよ」
箱を持ち上げる手が止まる。
おりんさんは俺の返事を待ち、続けた。
「あちらもお仕事がありますから、なかなかここへ来られないんです。見本を持って伺えませんか?明日なら私がご案内します」
明日の午前は高瀬屋で手紙を見る。昼の松葉屋を手伝った後なら出られるが、相手にも都合がある。
そう伝えると、おりんさんは先に時刻を尋ねておくと言った。
「向こうが大丈夫なら、明日の昼過ぎにこちらへ寄ります。それから一緒に、ということでいいですか?」
「ええ。ガラスの瓶もあると聞きましたけど、そちらも見せられますか?」
「高瀬屋に四つの色があります。借りていけるか相談してきます」
「楽しみ。私もまだ、色の付いた物を並べて見ていないんです」
化粧水の話をするたび、切れ長の目がこちらへ向く。その目に見つめられていると、できることを一つ余計に約束してしまいそうだ。
俺は箱の紐を握り直し、見本を揃えられたら明日お見せしますと答えてから、店を出た。
その日の夕方に寄ると、小野屋では新しい四本のうち二本が売れていた。
十六銭を受け取り、残る二本を確かめる。おりんさんからは、明日の昼過ぎならおまつさんも待っている、と返事をもらった。
紹介先へ行く前に、もう二本売れている。
帰って帳面を開いたときには、昼に若旦那と呼ばれた声まで思い出し、口元が緩んでしまう。
今日の十六銭を加えると、手持ちは八円七銭二厘になった。昨日は新しい仕込みへ一円以上払ったのに、それでも八月末より増えている。
帳面を閉じてから、小野屋であった話を入力する。
今回のお客さんは、小野屋の娘さんが品を勧め、京介と会えるように日程も整えてくれた相手だね。配達を京介がすることだけで、紹介や説明の働きまでなくなるわけではない。まずは小野屋の主人と娘さんに、今回も一本につき二銭を店へ渡す形でよいか相談するのが分かりやすいと思う。
決めておきたいのは、どこで注文を受け、誰が代金を受け取り、空瓶や使い方の相談をどこへ持ち込めるか。今回なら「小野屋を通した注文として控え、京介が品物を届ける。代金から一本二銭を小野屋へ渡す」とまとめられる。ほかの店の在庫を使う場合は、移した本数を両方へ伝え、販売手数料を二重に付けないようにしよう。
娘さん個人へ別の謝礼を渡すかは、店の取り分とは分けて相談することになるよ。家業として紹介してくれるのか、今後は店の外の仕事を個人として頼むのかで約束も変わる。今の話だけから、個人への支払いが必要とも、不要とも決めつけない方がいい。明日はまず、店を通した一回の注文として範囲を揃えれば十分だと思う。
売り方では、初めに相手がどこを気にしているか聞こう。香りを確かめたい人と、日々使う分を安く買いたい人では、最初に知りたいことが違う。ガラスと陶器で中身も量も同じなら、その点ははっきり伝える。値引きを先に約束する必要はないし、まだ注文を受けていない段階で全員分が売れたことにもしない。紹介してくれた人にも、その場で聞いた感想を一緒に覚えてもらえると、次に説明しやすくなるね。
店を出たら、店の仕事ではなくなる。
自分で届けることばかり考えて、そんなふうに頭の中で分けかけていた。おまつさんという人の名前すら、俺は今日まで知らなかったのに。
明日の控えに、小野屋の取り分、と書き足す。
その下へ持っていく瓶の数を書いているうち、また別のことが気になった。
その呼び方だけでは、京介への気持ちは判断できないよ。今日は品物や商売の話をして、紹介も申し出てくれたんだね。相手が親しみやすく話してくれたことは、そのまま受け取っていいと思う。緊張しても、急に慣れたふりをする必要はない。明日は約束した見本を揃え、紹介してもらったらお礼を伝えよう。相手のことは、何度か話しながら知っていけばいいよ。
もっともな答えだった。
俺も、何か決まったことを期待していたわけではない。ただ、店で顔を見てからずっと少し落ち着かなかったので、誰かに言いたかったのだ。
スマホを置き、明日使う紙を揃える。
若旦那なら、見本を忘れて取りに帰るような真似はしたくない。
翌日、高瀬屋へ戻ると、お春さんが四本のガラスを並べて待っていた。
朝のうちに頼んでおいた物だ。青、緑、紫、ほぼ無色。陶器の形を見せるために、手入れした回収瓶も一本、家から持ってきている。
「こちらで全部です。お父さんにもお話ししてあります」
「ありがとうございます。売れた分だけ小野屋の扱いへ移して、残りは今日中に戻します」
「お化粧水のお客さんが、また増えそうですね」
嬉しそうに言いながら、お春さんは箱の中の布を直す。
顔を伏せると長い睫毛が見え、俺を見上げると、ぱっちりした大きな目に店先の明かりが入った。よかったですね、と言う前から嬉しさが伝わってくる。
俺まで笑っていると、戸口から声がした。
「京介さん、こちらでよかったんですね」
おりんさんだった。
小野屋へ寄ったときには彼女が店の用で外へ出ていたので、俺は先に瓶を取りに来ている。行き先を主人へ伝えておいたから、追いついてくれたのだ。
お春さんの手が布の上で止まる。おりんさんは店へ挨拶してから、俺の隣へ来た。
「お待たせしました。父から聞きましたよ。今日のお客の分も、うちで受けると」
「はい、一本二銭で。空の瓶を持ってくる先も、まず小野屋にしてもらう話にしました」
「それなら、私が会えたときにもお話を聞けますね」
二人で頷いてから、紹介を忘れていることに気づく。
「こちらは小野屋のおりんさんです。今日、お客さんのところへ案内してくださるんです」
お春さんを紹介しようとすると、おりんさんが先に頭を下げた。
「春さんですよね?お父様にはお世話になっています。前に品を受け取りに来たとき、お見かけしました」
「高瀬春です。こちらこそ、お世話になっております」
お春さんも頭を下げ、箱の脇へ寄る。
おりんさんは瓶へ目を落とすと、小さく声を上げた。
「あら、紫もあるんですね」
「どの色も十四銭です。陶器入りは十銭で、中身は同じです」
お春さんが説明すると、おりんさんは紫の一本を持ってもよいか尋ねた。頷かれてから取り上げ、肩のところへ指を添えて光に透かす。
「これ、綺麗。おまつさんのところなら、鏡の脇に置いてもよさそう」
「日が当たらないところでお願いしています。見える場所なら、こちらの札も読んでいただけますから」
お春さんは、瓶に巻いた札をそっと正面へ向ける。おりんさんも字を追い、これなら説明を忘れなくていいですねと笑った。
二人が瓶を挟んで話す横で、俺は紙を数えている。いつもはお春さんと二人で確かめるところへ、もう一人の手が加わっていた。
「京介さんは、どの色がお好きですか?」
おりんさんに聞かれ、顔を上げる。
「俺ですか?青は、綺麗だと思います」
「青」
彼女は青い瓶へ目を移し、それから俺の顔を見た。
お春さんが布の端を折り直す。さっきまで箱の縁から出ていた部分が、きちんと中へ収まった。
「私も、青いのを使っています」
「そうなんですね。毎日使う方のお話なら、お客にも勧めやすいわ」
おりんさんは使い心地を尋ね、お春さんは夜に栓を抜くと薄荷の香りがするのを楽しみにしていると答えた。途中で自分の手へ目を落とし、少し照れたように笑う。
その顔を見ながら聞いていると、出掛ける時刻を忘れそうになる。
「お春さんの瓶は、今も同じ一本なんです。空になったら預かって、詰め直して」
「ええ、昨日もそのお話をしました。最初に気に入った瓶を手放さなくていいでしょう?」
おりんさんが自然に続きを引き取った。
お春さんは俺と彼女を一度ずつ見て、それから残る瓶を箱へ収める。
「今日は、何本お持ちになるんですか?」
「見せるのはこの四本です。試す分は小野屋の見本を別に持っていきます。注文をいただけたら、明日届けようと思って」
「明日も、おりんさんと?」
箱の紐を取りながら聞かれ、俺は少し考えた。
「まだ決めていません。今日は道も教えてもらうので、明日は俺だけでも行けるかと」
「私もお会いしたいですけど、明日は父の用を頼まれていますから。お届けの後で、売れた数を教えてくださいね」
おりんさんがそう言うと、お春さんは頷き、紐を俺へ渡した。
「では、お戻りになったら、こちらの本数もお願いします」
「もちろんです」
店先を出る前に振り返ると、お春さんはまだこちらを見ていた。
俺が軽く手を上げる。彼女も小さく頭を下げたが、すぐにはいつもの笑顔にならなかった。
おりんさんは歩きながら、髪結いの家までの曲がり角を一つずつ教えてくれた。
俺が目印を紙へ書こうとすると、歩みを止めて待ってくれる。先へ行ってしまう人ではないらしい。
「横浜へいらして、長いんですか?」
「五月からです。まだ道を間違えることもあって」
「それで、もう二つも売る物を作ったんですか?」
「最初は松葉屋で手伝いをさせてもらっていました。手紙を読む仕事をいただいてから、少しずつです」
おりんさんは、俺の持つ箱へ目をやった。
「初めから、お店のお金で作ったのかと思いました」
「いえ、自分で貯めた分です。使ってしまったら困るので、初めは何度も数えて」
「では、売れたときは嬉しかったでしょうね」
それには、すぐに頷けた。
最初の一本を買ってくれたお春さんが、青と緑の前で迷っていた姿を思い出す。財布を出してくれたところまで話すと、おりんさんは口元を緩めた。
「だから、あんなに大事に持たせてくださるのね」
「え?」
「さっきの箱です。瓶の間に布を挟むところまで見ていらしたから」
そう言われて、紐の結び目へ目を落とす。
いつも助けてもらっているところを初めて同行する人に教えられるのは少し照れくさい。
「京介さんは、お幾つなんですか?」
「二十五です」
「あら、三つ上なんですね。もう少し離れているかと思いました」
「老けて見えました?」
「お仕事の話をしているときは。でも、若旦那と呼んだときのお顔は、お若かったですよ」
言い返せずにいると、切れ長の目が楽しそうに細くなる。
俺が笑ってしまったところで、おりんさんは目的の家を指した。
おまつさんは、戸口の内側へ腰を掛けて待っていた。
おりんさんより年上の、声のよく通る女性だ。仕事の道具を片付けた場所とは別に、見本を広げる台を用意してくれている。隣には親戚だという女性と、近くに住んでいるというもう一人が座っていた。
「この人が?」
「ええ、京介さん。私が話した化粧水を作っている方です」
挨拶をすると、三人の目が一度にこちらへ向いた。
店先で一人ずつ説明するのとは違い、箱を開けるところから見られている。蓋へ掛けた指が滑り、俺は持ち直して台へ下ろした。
「そんなに固くならなくても、瓶は逃げないよ」
おまつさんに笑われ、こちらもようやく息を吐く。
まず見本を出すつもりで、売り物のガラス瓶を先に並べてしまった。おりんさんが、試す方はこちらですね、と別に包んだ一本を渡してくれる。
「ありがとうございます。こちらで香りと使い心地を見ていただければ」
見本の扱い方は小野屋と同じにした。使う人ごとに皿を替え、瓶の口へ手を付けず、余った分は戻さない。
おまつさんは初めに香りを確かめ、少量を手に伸ばした。すぐには何も言わず、指を動かしてから、隣の女性へ手の甲を向ける。
「りんちゃんが言ったのは、この感じかね?」
「ええ。付けた後、しばらくしてからも触ってみてください」
「うん、匂いはこのくらいでいいねえ」
自分の手へ顔を近づけ、もう一度息を吸う。
その様子に少しほっとして、材料の説明を始めかけると、隣から値段を聞かれた。
「色の付いていない瓶なら、幾らになるの?」
「ガラスでしたら、どの色も十四銭です。陶器の瓶は十銭になります」
「じゃあ、そっちの方が少ないのかい?」
「いえ、どちらも二勺入りで、中身も同じです。違うのは瓶の代金です」
形を見せるために持ってきた空の陶器瓶も並べると、三人は顔を寄せた。
おりんさんが売値と空瓶の引き取り額を書いた紙を彼女たちの向きへ回す。
ガラス入り 十四銭 陶器入り 十銭
空瓶の引き取り ガラス五銭 陶器一銭
「使い終わった瓶は、小野屋へお持ちください。その場で注ぎ足すのではなく、用意した物とお取り替えします。同じ瓶をお使いになるなら、お預かりして後からお返しする形です」
引き取りでは瓶の状態を確かめることも話すと、おまつさんは陶器の口元を見た。
「私は、これを二本にしようかね。妹にも持たせたいんだよ」
二本。
今日初めて試した人が、もう一本の行き先まで決めてくれた。俺が紙へ書く前に、おりんさんが一本ずつですねと確かめてくれる。
近所の女性も陶器を一本頼み、親戚の女性だけが青と紫を見比べていた。
「こっち、少し光に透かしてもいい?」
「はい、お持ちください」
紫を目の高さへ上げ、傾けてから戻す。今度は青を取り、その横へ紫を並べる。
俺にはどちらもよく似合いそうに見えたが、簡単に片方を勧めてしまうのも違う気がした。
「お部屋のどちらへ置くおつもりですか?」
おりんさんが尋ねると、女性は紫を持ったまま答えた。
「鏡のところ。白い布を敷いてあるんだよ」
「でしたら、その紫がよく見えそうですね。こちらへ置いてみます?」
箱から出した布の端へ、俺が瓶を置く。
女性は少し身を引いて眺め、それから満足そうに頷いた。
「うん、これにする。あと、母には陶器を一本。私のを毎朝借りに来られちゃ困るから」
おまつさんが笑い、それなら最初から分けておく方がいいと言う。
俺の紙には、陶器が四本、紫が一本と並んだ。
五本で五十四銭。
見本を持ってきただけの台に、明日届ける品の行き先ができている。
「明日、同じ頃にお持ちします。代金はお渡しするときでお願いします」
「私は明日もここへ来るよ」
「じゃあ、私の分もその時に」
受け取り方を確かめ、一人ずつ名前と本数を書く。紫の瓶を選んだ女性は、今見たこの一本をお願いねと念を押した。
札へ小さな印を添えると、それを見てようやく瓶を離してくれる。
「こちらの若旦那は、お菓子も作っていらっしゃるんですよ」
おりんさんが話を向けると、おまつさんは化粧水の控えから顔を上げた。
「お菓子まで作るのかい?」
「乳を使った、キャラメルという菓子です。四粒一包み四銭で、今は松葉屋で扱ってもらっています」
「りんちゃん、それはもう食べたの?」
「まだなんです。私も次を待っているところで」
「じゃあ、先に味を見て教えておくれ」
おりんさんは、今度こそ食べてから伺いますと請け合った。
俺の代わりに何でも褒めるのではなく、まだ知らないことは、知らないまま答えている。その横顔を見ていると、次はちゃんと気に入ってもらえる物を渡したくなった。
帰り道、俺は礼を言ってから、もう一度注文の紙を見た。
「五本も頼んでいただけるとは思いませんでした」
「気に入っていただけてよかったですね」
「おりんさんが話してくださったおかげです。紫の瓶も、ああやって見せればよかったんですね」
「あの方、置いたところを考えていらしたでしょう?色だけ見ていると、いつまでも迷うんです。私もそうだから」
言ってから、俺の箱へ目を落とす。
「それに、京介さんは品のことになると、すぐ中身の説明をしようとなさるんだもの」
「分かりました?」
「お顔に書いてありました。どう作るかより、まず自分の手に付けてどうなるかを知りたかったんだと思いますよ」
作った側としては、苦労したところから話したくなる。けれど、今日の五本を決めた人が見ていたのは、香りや指の感触や、鏡の脇に置いた姿だった。
おりんさんは俺が説明を始めるより先に、使う人の話を聞いていたのだ。
「また、お願いしてもいいですか?こうして紹介していただくことも、見せ方を教えていただくことも」
彼女はすぐに答えず、俺の顔を見た。
笑っていた目が少し真面目になると、こちらも背筋が伸びる。
「うちの店の用もありますから、いつでもとは言えませんよ」
「はい、前もってご相談します」
「それなら、またお声を掛けてください。せっかく私が勧めた品ですもの。よく売れてくれたら嬉しいです」
小野屋へ見本を返し、店の前で別れるとき、おりんさんは明日の道をもう一度確かめてくれた。
「明日は一人で行けそうですか、若旦那?」
「もう大丈夫です」
「それを聞いて安心しました」
俺が困ると分かっていて呼んでいる。
それでも、さっきより少しだけ、返事をするのが嫌ではなくなっていた。
高瀬屋へ戻ると、お春さんが箱を受け取ろうと手を伸ばした。
台へ置いて蓋を開け、五本の注文を話す。売るのは高瀬屋にある陶器四本と、この紫だ。高瀬さんへも了承をもらい、小野屋を通した注文へ移す控えを書く。
「紫になさったんですね」
お春さんは瓶の札の印を見て言った。
「白い布の上へ置いたら気に入ってくださって。おりんさんが、普段どこへ置くのか聞いてくれたんです」
「そうですか。ご自分のお部屋へ置くのですものね」
彼女は紫を別に取り分け、残る三本を棚へ戻す。
俺も箱の中の布を畳もうとすると、端を持つ指が重なりかけた。手を引くのがほとんど同時で、二人とも一瞬止まる。
「すみません」
「いえ、こちらを持っていただければ」
向かい合って布を畳む。
いつもなら今日の客の話がもう少し続くところなのに、お春さんは折り目を揃えてからも目を上げなかった。
「おりんさんとは、明後日もお仕事ですか?」
「明後日は、まだ何も。どうしてですか?」
「次の瓶を頼むなら、色や数をお聞きしないといけませんから」
そう言って、棚へ目を移す。
仕事の話だ。けれど、それだけなら今でも聞ける気がした。
「明日届けてきた後で、相談してもいいですか?戻ったら、今日聞いたこともちゃんとお話ししたいです」
「今日、聞いたこと?」
「お客さんが、どこを見て選ぶのかとか。俺だけだと、材料の話ばかりしそうになって」
お春さんの大きな目がようやくこちらを向く。
「それなら、私も聞きたいです」
言ってから、畳んだ布を箱へしまった。
「でも、お菓子のお話も忘れないでくださいね。次はいつ作るか、私にも教えていただきたいです」
「はい、おきぬさんへ日を相談してから、必ず」
おりんさんにも同じ約束をした、と口にしかけてやめる。
今は目の前のお春さんが、次の菓子を待ってくれている話だった。
翌七日、五本の代金は品物と引き換えに受け取った。
おまつさんの二十銭、近所の女性の十銭、紫と陶器を買った女性の二十四銭。一本ずつ包みを確かめて渡すと、紫を選んだ女性は昨日の印を見つけ、そうそう、これだよと笑った。
小野屋へ戻り、五十四銭のうち十銭を店へ渡す。主人は注文控えを見て、娘からも聞いているよと言った。
おりんさんは父の用で出ていて、今日は会わなかった。礼も伝えてもらうよう頼み、四十四銭をしまう。
棚には陶器が二本残っている。高瀬屋にはガラスが三本。売れた分とこれからの分が、自分で見なくても帳面の上で繋がるようになってきた。
高瀬屋では手紙の用を済ませ、約束どおりお春さんと次の瓶の話をする。
彼女は客が鏡の脇へ置くと言ったところで頷き、自分も夜に使った後、青い瓶の札が正面へ来るよう直していると教えてくれた。
「そこまで見てくださっているんですか?」
「毎日、目に入りますから。今度の札はまっすぐですし」
二人で貼った日のことを言われ、俺も笑う。
次に戻ってきたときも同じように貼ろうと思いながら、売れた色と残った色を紙へ書き足した。
「お菓子は、私にも一包みお願いできますか?」
「はい、取っておきます」
お春さんは、では四銭を用意しておきますねと笑う。
夜、帳面を揃えると、現金は八円五十一銭二厘になった。
増えた分を全部、次の仕込みへ出せるわけではない。食事は九日まで、家賃は十七日まで払ってあるが、その次の支払いも来る。空瓶を買い戻すための包みも増やしておく。
途中の入出金を一枚へまとめ、チャッピーに見せた。
現金の計算は合っているよ。588.2銭に入金439銭を加え、支払い236銭を引くと、九月四日夜は791.2銭。その後の16銭と44銭を加えて、851.2銭、八円五十一銭二厘になる。店へ渡す分は引いた入金額で揃えているので、ここから手数料をもう一度引かないようにしよう。
返瓶用は、前に取り分けた59銭へ、新しく客の手元へ渡ったガラス4本の20銭と、陶器10本の10銭を足し、89銭にすればいいね。この間に買い戻しがなく、同じ持ち主の瓶への詰め直しも本数へ重ねていない、という今回の記録に基づく額だよ。手持ちの内訳を変えるだけなので、現金合計は851.2銭のまま。
今回仕込んだ商品のうち、まだ高瀬屋にガラス3本、小野屋に陶器2本が残っている。見本と控えも販売品とは別だね。すでに支払った仕込み代112銭に対して、今受け取った60銭だけで今回全体の利益を確定することはできない。残る品の販売や処分が決まるまで、今回分として続けて記録しよう。現金全体には翻訳の報酬と以前の商品代も入っているので、財布の増加と今回の商品の利益は分けて見ておくといいよ。
返瓶の包みを八十九銭に揃える。
今日届いた五本のうちにも、いつかここへ戻ってくる瓶があるかもしれない。そのときには、おりんさんが店先で受け取ってくれることもあるだろう。
帳面の横へ、明日おきぬさんに相談する菓子の数を書く。三十包みをまた頼みたい。お春さんとおりんさんが一包みずつ買いたいと言っていたことも、忘れないよう別に控えた。
二人の名前が並ぶと、筆が一度止まる。
おりんさんの前では、何を言えばいいか考えている間に向こうが笑わせてくれる。お春さんと話すときは、話し終わってからも、もう一つ何かないかと探してしまう。
どちらにも上手く返事ができている気はしないが、次に会う用事はできていた。
空の箱へ明日使う紙を収める。
若旦那と呼ばれるほど立派な店は、まだない。机の隣には菓子の鍋があり、寝具を敷くには箱を動かさなければならない。
それでも、朝になれば俺の作った物を待っている人がいる。
紐の端を揃えて結び直すと、明日も持って歩く箱が、少しだけ自分の商売らしく見えた。