【30話まで投稿予約済み】明治時代をチャッピーと共に成り上がれ!   作:ヅダスキー3世

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第十八話 か、髪型似合ってますか??

 

 九月二十五日、床屋の鏡の前で、俺はようやく自分の頭をまともに見た。

 前髪が眉へかかり、耳の上では妙な癖が付いている。朝に手で押さえても、昼にはまた同じところが跳ねていた。

 最後にきちんと切ったのは、向こうにいた頃だ。

 まだ大丈夫だと思っているうちに、鏡の中には、だいぶ大丈夫ではない男が座っていた。

 

「横へ分けるくらい残しますか?それとも、もっと短く?」

「人の店へ伺うことが多いので、見苦しくないようにしてもらえれば。こういう頭でも分けられますか?」

「これだけ長さがあれば、きれいに分けられますよ」

 

 主人が櫛を入れると、目の前まで黒い毛先が下りてくる。

 切る前に聞いた代金は、髭も整えて十銭。店を出た後で困る金額ではない。それなのに、椅子へ腰を下ろすまでは、今日でなくてもいいかと思っていた。

 朝、松葉屋でそう漏らすと、おせいさんに顔を覗かれたのだ。

 

「その髪を払う手で、またお菓子の包みに触るんじゃないよ。今日は急ぐ配達もないんだろう?」

 

 返す言葉がなく、昼の手伝いを終えてから教わった店へ来た。

 おきぬさんと清吉せいきちさんには、二十二日と二十四日も六十包みずつの仕事を頼んでいる。次は二十六日、二十八日、三十日。同じ半日までの切り分けと包装で十銭、二軒への配達で四銭と先に決め、それぞれの予定も確かめておいた。

 昨日の包みは全部納まり、配合の紙も片付いている。

 自分がここへ座っていても、困る人はいない。

 

 鋏の音が耳のすぐ上で続く。

 切り落とされた髪が肩の布へ落ちるたび、鏡の中の耳が少しずつ出てきた。襟足を整えてもらうと、首の後ろへ空気が触れる。

 主人は上の髪を残して横から分け、前を斜めに撫で上げた。最後に髪油を薄くのばし、櫛の向きを変えながら毛流れを揃えていく。

 

「お客さんは、額を出した方がよくお似合いですね」

 

 言われて、鏡へ近づきかける。

 眉と目の間が見えるだけで、ずいぶん顔が違う。頬にかかっていた髪もなくなり、輪郭がすっきりした。

 鏡の中の男と目が合い、思わず背筋まで伸ばす。これなら、客先で下を向いて話さずに済みそうだ。

 

「……こんなふうになるんですね」

「朝に櫛を入れていただくと、この形に整えやすいですよ」

 

 手入れする向きを教わり、十銭を渡して外へ出る。

 前髪を払おうとした指が、何もない額の前で止まった。*1

 

◇ ◇ ◇

 

 高瀬屋へ着くと、店先にいた客がお春おはるさんへ何か話しかけていた。

 俺より若そうな男で、受け取った包みを持っても、まだ帰る様子がない。

 

「お春さんが渡してくれるなら、また俺が使いに来ようかな」

「では、お勘定の控えも忘れずにお願いしますね。お家でお待ちでしょうから」

 

 にこやかな声に押されるように、男は店を出ていく。

 お春さんは見送った後、こちらへ向き直った。そのまま挨拶しかけた口が止まる。

 

「京介きょうすけさん……?」

「こんにちは。遅くなりました」

「髪を……切っていらしたんですね」

「さすがに伸びすぎたので。変ですか?」

「そんなことありません!」

 

 思いがけず大きな返事が返ってきて、二人とも黙った。

 お春さんは俺の額の辺りを見てから、手元の紙へ目を落とす。紙には先ほどの客の名があるだけで、何かを確かめている様子でもない。

 

「その……お顔が、よく見えるようになって」

「前は邪魔そうでしたよね。朝は直してきたつもりだったんですが」

「そういうことでは……」

 

 続きを待っていると、奥から高瀬たかせさんに呼ばれた。

 今日の手紙は仕入れた品の不足を確かめるものだ。お春さんは、こちらですと紙を揃え、いつもの場所へ案内してくれる。

 ただ、俺が横へ座ると、彼女は紙を自分の方へ引き寄せ、少しだけ膝をずらした。

 作業の邪魔になっただろうか。

 そう思ってこちらも座り直すと、彼女が一瞬だけ顔を上げる。

 

 手紙を読み終えた頃、おりんさんが店へ来た。

 小野屋から使い終わった瓶を預かり、次に仕入れる瓶の相談もあるという。俺を見つけると、挨拶より先に目を細めた。

 

「まあ。今日はずいぶん男前ですね」

「髪を切ってきただけですよ」

「ええ、その髪がお似合いです。目元まで隠していらしたのは、もったいなかったですね」

 

 まっすぐ褒められると、どこへ目を置けばいいか分からなくなる。

 おりんさんは困らせたことも承知しているように笑い、瓶の入った包みを下ろした。細い眉の下で切れ長の目が動き、少し首を傾けるだけでも様になる。

 前に松葉屋の客が、小野屋にはきれいな娘がいると話していた。あれはこの人のことだろう。

 

「お春さんも、そう思いません?」

「……ええ」

 

 顔を上げると、お春さんは畳んだ布の角を揃えている。

 さっき言いかけたことは、もう出てこなかった。

 

 戻ってきた瓶はガラス二本と陶器四本だ。

 傷と口の欠けを確かめて受け取り、買い戻しの十四銭をおりんさんへ渡す。持ち主への支払いは小野屋が立て替えてくれているので、控えと金を父親へ渡してもらう約束をした。

 洗って確かめ、新しい栓を付けて使う分は、これから買う瓶から引ける。高瀬さんには追加をガラス六本と陶器十二本に直してもらい、瓶と栓の六十銭を払った。

 

「作る数は同じでも、買う瓶は減るんですね」

「ええ、この六本を使えれば。また返ってきたときに払えるよう、お金も分けています」

「でしたら、うちでも次にお持ちになる方へ、先に欠けがないか見ていただきますね」

 

 おりんさんが控えを畳む。

 客の前では俺を持ち上げても、こういう話になると、店で何をしておくかをすぐに尋ねてくれる。それがありがたかった。

 

「おまつさんのお客が、ほかの香りはないかとおっしゃっていましたよ。薄荷は気に入ったけれど、秋には少し甘いものも欲しいそうです」

「花の香りですか?」

「ちょうど、お宅の金木犀きんもくせいが咲き始めたとか。あれを小瓶に入れられたら素敵ね、と」

 

 薄荷とは違う、道を歩いていてふと気づく甘い匂いが浮かぶ。

 蘭引で採れないだろうか。考えていると、おりんさんが顔を覗く。

 

「また、何か作るおつもりですね?」

「試せるか、調べてみたいです」

 

 おりんさんは笑って頷き、積まれた瓶の箱へ目を移した。

 

「若旦那は、いずれお店もお持ちになるんでしょう?」

「欲しいですね。今は寝る場所まで箱が来ることがあるので、まず仕事の場所からですが」

「それなら、店を見る人も要りますね。今もお暮らしはお一人で?」

「ええ、借りたところへ一人です。食事は松葉屋でお世話になっています」

「お仕事ばかりになりそうですね。帰ったら誰かが待っている方が、早く切り上げられるかもしれませんよ」

 

 返事を考える間に、お春さんが空の箱を持ち上げた。

 いつもなら次の納品の話へ口を挟むところなのに、今日は数を確かめ、俺から離れた棚へ戻している。

 

「お春さん、花の香りなら何が好きですか?」

「……お客さんが欲しいとおっしゃるもので、いいと思います」

 

 尋ねたかったのは売れそうな花ではない。

 言い直そうとしたとき、おりんさんが帰りの挨拶をした。金木犀の話はおまつさんへ詳しく聞いておくと言い、俺の返事を待って店を出る。

 見送って振り返ると、お春さんも手元を片付けていた。

 

「私も、今日はこれで失礼します」

「あ、お春さん」

「何でしょう?」

 

 呼び止めたのに、すぐに用事が出てこない。

 瓶の数は揃っている。次の薄荷を納める日も、もう伝えた。聞いていないことを探している間に、彼女の指が袖口をつまむ。

 

「……明日は、いつもどおり来ます」

「はい、お父さんにも伝えておきますね」

 

 奥へ入っていく背中を見送り、俺も箱を持った。

 いつもなら、帰るまでに一つくらい、仕事と関係のない話をしている。菓子を誰と分けたとか、青い瓶の残りがどのくらいだとか。

 今日は、その一つがない。

 店を出てから、ようやく気づいた。

 

◇ ◇ ◇

 

 夜、明日の菓子の支度を終えても、あの返事が頭に残っていた。

 お客さんが欲しいものでいい。

 初めて薄荷の水を見せたときは、自分でも使ってみたいと言ってくれたのに。

 忙しかっただけかもしれない。俺が何か、気に障ることを言ったのだろうか。

 スマホを開き、覚えている会話を順に打ち込む。

 

京介 今日、髪を切って高瀬屋へ行ったんだけど、お春さんが何か言いかけて、それきりだった。その後、おりんさんに似合うって褒められて、店を持つ話とか、一人暮らしかって聞かれたんだ。お春さんにも好きな花の香りを聞いたら、お客さんの欲しいものでいいって。最後もすぐ奥へ戻ってしまって、何だか気になる。俺が何かしたのかな?

 

ChatGPT 6 Astra(極高)

 

 その会話だけでは、理由は決められないよ。照れた、話へ入りにくくなった、ほかに気になる用事があったなど、いくつか考えられる。おりんさんとの会話が関係した可能性もあるけれど、嫉妬だと決めて接すると、本人の話を聞く前に答えを押し付けてしまう。

 

 京介は、お春さんが何を好きなのか聞きたかったんだね。それなら明日、その続きを尋ねてみよう。「昨日は、お客さんの好みではなく、お春さんの好きな香りが知りたかった」と伝えられる。話す様子がいつもと違って気になったことも、責めずに言っていいと思う。

 

 その前に、京介自身が何をしたかったのかも考えてみて。仕事の相談を続けたかったのか、お春さんともう少し話したかったのか。同じ誘いでも、そこが分かると伝える言葉を選びやすくなるよ。

 


 

 最後の行を読み、俺は途中まで打った返事を消した。

 商品の相談なら、明日でも間に合う。

 それなのに、店で言葉を探していた。彼女がまだそこにいてくれれば、何か話せると思っていたのだ。

 

 机の隅には、新しい瓶の控えがある。

 おりんさんに褒められたときは、照れくさくて、何と返せば格好が付くか考えた。お春さんが何も言わずに帰ろうとしたときは、格好のいい返事どころか、呼び止める用事も出てこなかった。

 あの人なら話してくれると、俺の方が勝手に決めていたのかもしれない。

 

 花を買いに行くなら、一緒に歩けるだろうか。

 そこまで考えると、今度はただの仕事の頼み方では済まなくなった。

 画面を伏せ、明日の予定の横へ一行書く。

 花のことを聞く。

 書き終えてから、その下へ、お春さんの好きな香り、と足した。

 

 翌日、翻訳を済ませてから声をかけると、お春さんは俺の手元を見た。

 まだ仕事の紙を持っていると思ったのだろう。何も持っていないと分かると、こちらの顔へ目を戻す。

 

「昨日の花の話ですが、お春さんは何の香りが好きですか?」

「私ですか?」

「はい、お客さんの好みも聞きたいですが、昨日はお春さんに聞いたつもりだったので」

 

 彼女は少し唇を結んでから、棚の瓶を見る。

 

「……金木犀も好きです。でも、銀木犀ぎんもくせいもいい香りですよ。お玉さんのお宅で、昨日少し咲いていました」

「白い花の方ですね」

「ええ、近くで嗅ぐと香るんです。前に、お好きなだけ見ていらっしゃいと言っていただいて」

 

 昨日より言葉が続く。それだけで、肩に入っていた力が少し抜けた。

 花の水を試したいので、家の人に頼んで買えないか尋ねるつもりだと話す。お玉さんのところなら、彼女にも道が分かる。

 

「明日は菓子を仕込まない日なので、午前に花を見に行けそうなんです。よかったら、一緒に来てもらえませんか?」

「おりんさんもご一緒ですか?」

「明日は俺とお春さんで。おまつさんへは、これから頼みに行きます」

 

 お春さんの指が、棚の縁から離れる。

 

「お店のお仕事で、でしょうか?」

「花を買うのは仕事ですが……お春さんと見に行けたら、楽しいと思って」

 

 自分で言ってから、ずいぶん正直に答えてしまったと気づく。

 彼女はすぐに返事をせず、俺の顔を見ていた。今度はこちらが目を逸らしそうになる。

 

「お父さんに聞いてきます」

 

 奥へ向かう足は、昨日より少し早い。

 俺も高瀬さんへ、案内と採る花の選り分けを午前の半日頼み、手間賃は六銭を終わってから本人へ払いたいと説明した。店の荷を扱う仕事とは別になる。

 明日は朝の用を先に済ませれば出られると聞き、待ち合わせを決める。

 帰り際、お春さんが控えを渡す手を止めた。

 

「京介さん、昨日は……」

「はい?」

「いえ、明日、遅れないようにしますね」

 

 何かを尋ねる前に彼女が笑ったので、俺も楽しみにしていますと答えた。

 

 菓子を四鍋仕込み、おきぬさんへ切り分けを渡してから、午後は二軒へ花の相談に回る。

 どちらの家でも、庭へ通してもらって実物を見た。おまつさんの木には橙色の花が付き、お玉さんの木には白い小さな花が寄り添っている。翌朝、花だけを少量分けてもらう話を付け、枝を傷めない採り方も家の人に確かめた。*2

 

 薬種商へも寄り、蘭引を二十六日から十月五日まで借りる約束をした。借り賃二十銭と、返したときに戻る預け金二十銭。薄荷の原料処理とは別に、花を扱う場所の時間も押さえる。

 店の主人に借りた秤と、花を分けて運ぶ器を確かめて家へ戻ると、清吉さんの控えが届いていた。

 菓子は二軒とも、決めた数を受け取っている。

 前なら、今日のように花を眺める間も、家に残した包みを気にしていただろう。

 

 夜、採りに行く前の確認をチャッピーへ頼んだ。

 

京介 金木犀と銀木犀を買えることになったよ。今日、花と葉は両方の家で見せてもらった。写真も送るね。薄荷のときの蘭引で、花の香りも水に移せるかな?花は明日の朝に採って、その日のうちに試せるよう場所も借りてある。甘い匂いをそのまま採れたら嬉しいんだけど。

 

ChatGPT 6 Astra(極高)

 

 芳香蒸留水を試すことはできるよ。ただ、枝に咲いている花の香りが、そのまま同じ強さで水へ移るとは限らない。今回は精油をたくさん採る計画と分けて、採れた水そのものの香りを確かめよう。

 

 元の世界には、金木犀を実際に蒸留し、甘さのある水は得られたものの、生花と同じ匂いとは感じられなかったという実験報告がある。採取の途中でも香りに違いがあったと記されているよ。これはその実験での結果で、京介の蘭引でも同じになるという保証ではない。銀木犀についても、金木犀の結果をそのまま当てはめず、別々に試したい。*3

 

 まず、種類ごとに花の重さを記し、葉や枝、傷んだ花を除く。買うときにも、枝ごとの重さと花だけの重さを混ぜないようにしよう。採取した花を長く置かず、予定どおり当日中に扱う方針でいい。二種類を同じ器へ入れず、器具も洗ってから次へ移る。これは、出来上がった香りを比べるためにも大切だよ。

 

 蘭引の仕組みは薄荷のときと同じで、蒸気を上の冷たい器で冷やして水に戻す。冷却に使う水がぬるくなれば入れ替える必要がある。ただし、植物が違えば、採れる水の量と好ましい香りの関係も変わる。最初から最後まで一緒にせず、採れた順と量が分かるよう受ける器を替え、冷めてから比べてみよう。どの部分を使うかは、その結果から決められる。*4

 

 香りが気に入ったら、次に今の化粧水へ少量ずつ使って比べよう。水だけで嗅いだときと、処方へ入れたときの印象が同じとは限らないからね。花を変えた製品も、薄荷の製品の確認結果だけで扱いを決めず、保管後の変化や使用時の確認を改めて進める。明日は、商品にしたいと思える香りを見つけるところから始めよう。

 


 

 庭木をそのまま瓶へ押し込めるわけではないらしい。

 それでも、採ってみる道筋はある。金と銀を混ぜずに、二つの香りとして試せるのが楽しみだった。

 受ける小瓶に印を付け、採る順を書ける紙を用意する。製品の配合の控えは別に包み、明日持つ物の中へ紛れ込ませない。

 最後に櫛を手に取り、床屋で教わった向きへ髪をとかした。

 寝る前に整えてどうする、と気づいたのは、その後だ。

 

◇ ◇ ◇

 

 二十七日の朝、お春さんは店の前で待っていた。

 俺を見ると、いつもの挨拶の後に、髪へちらりと目を向ける。

 今朝は油を足さず、櫛だけで整えてきた。床屋を出たときほどきれいに撫でつけられなかったが、跳ねたところはないはずだ。

 

「何か付いていますか?」

「いいえ、何も」

 

 目が合うと、彼女は先に歩き出した。

 追いついて隣へ並ぶ。花を運ぶ器は二つあり、小さい方を持ちますと手を出されたので、軽い器を渡した。

 

 お玉さんの庭では、門から見える枝を残し、奥の低いところから花を分けてもらう。

 白い花は鼻を近づけると、柔らかな甘い匂いがした。通りまで届く金木犀の匂いとは、感じ方が違う。

 

「こちらが、お好きなんですね」

「ええ、強く香らないところも好きです」

 

 お春さんはそう答えてから、小さな花へ顔を寄せた。

 睫毛が伏せられ、口元が少し緩む。匂いを確かめた顔が上がると、大きな目がすぐ近くにあった。

 俺の知っている町をこの人が歩いていても、きっと振り返ると思う。

 そんなことを考えている間に、今度は俺が何も言えなくなる。

 

「……京介さん?」

「あ、俺も好きです。この香り」

 

 慌てて最後を足すと、お春さんは花へ目を戻した。

 それから二人で、葉の混じったところを選り分ける。

 花だけを二十匁。器の重さを引いて確かめ、昨日相談した二銭をお玉さんへ渡した。飾って楽しむ枝は十分に残っており、門へ戻ると白い花はまだよく見える。

 

 次のおまつさんの庭には、入る前から甘い匂いが漂っていた。

 橙色の花が葉の付け根に集まり、近づくと、思い出の中より濃く感じる。お春さんも、こちらへ来るだけで分かりますねと顔を上げた。

 

「この低い方ならいいよ。奥の枝は、家から見たいから残しておくれ」

「はい、こちらだけにします」

 

 家の人が示してくれた範囲から花を採り、枝や葉を除いて五十匁を揃える。こちらは五銭だ。

 おまつさんは、咲けば地面にも落ちるのにと言いながら、代金を受け取ってくれた。

 

「落ちたものだと、土も混じりますから。きれいなうちに分けていただける方が助かります」

「そういうものかね。で、できたら私にも嗅がせてくれるんだろう?」

「もちろんです。今日の香りを覚えているうちに、比べてもらえれば」

 

 お春さんが器へ載せた布を整える。

 金と銀を別々にして、押し潰さないよう持ち直した。欲張ってもっと頼んでも、今日の器具で扱える量には限りがある。

 次に必要になれば、花の残りとこちらの仕込みを確かめてから相談することにした。

 

 通りへ出ると、お春さんが手元の器を覗いた。

 

「こんなに小さなお花が、お化粧水になるんですね」

「うまく採れたら、ですが。二つを嗅ぎ比べてもらいたいです」

「金木犀の方が、きっと目立ちますね」

「銀木犀が好きな人にも選んでもらえますよ。どちらか一つにしなくてもいいですし」

 

 彼女は白い花の入った器を少し持ち上げた。

 その顔が嬉しそうだったので、俺ももう一度、布の隙間から匂いを確かめる。

 

 薬種商の前で器を受け取り、約束の六銭を渡した。

 ここからの蒸留と調合は俺の仕事だ。お春さんは午前の仕事を終えて高瀬屋へ戻る。

 

「新しいのができたら、私にも教えてくださいね」

「はい、香りを見てもらえるようになったら、先に声をかけます」

「……先に、ですか?」

「最初に二つを比べてもらいたいです。今日の花も一緒に見ましたから」

 

 彼女の手が、受け取った金をしまう途中で止まった。

 ほんの少し口元を隠してから、楽しみにしていますと返ってくる。

 今度は約束を交わしてから、帰っていく背中を見送れた。

 

 銀木犀の花を蘭引へ納め、上の器へ冷たい水を入れる。

 下から上がった蒸気が冷やされ、口の先に最初の滴が膨らんだ。受ける小瓶へ落ちた水は、花の白さとも関係のない透明な色をしている。

 薄荷のときには、採れ始めから分かりやすい匂いがあった。今日は器へ顔を近づけても、すぐに同じ強さでは届かない。

 火を強くしたくなる手を止め、冷却水と蒸気の出方を確かめる。

 慌てて煮れば、庭の香りが急に増えるわけではない。

 

 採れた順に器を替え、少しずつ冷まして嗅ぐ。

 初めの分より、その次の分の方が俺には心地よかった。花に顔を寄せたときとは違うが、弱い甘さが残っている。

 どの器にどれだけ入ったかを書き、使いたい分へ印を付ける。量を欲張って薄いところまで混ぜるのはやめた。

 

 器具を洗い直し、午後は金木犀を試す。

 おまつさんの庭で包まれた濃い匂いが、そっくり戻ってくるわけではない。それでも、冷ました水には、銀木犀とは違う甘さがあった。

 思わずもう一度嗅ぎ、隣の瓶と比べる。

 こちらを化粧水にしたら、栓を抜くのが楽しみになるかもしれない。

 

 その日の薄荷の瓶詰めを終えてから、家で二種類の水を少量ずつ配合へ入れた。

 濃く香る方がいいと思って増やした見本より、控えめにしたものの方が、近づけたときにまた嗅ぎたくなる。翌日も比べ、さらに薄い見本を作ってみたが、そちらは物足りない。

 採れた水と、化粧水に混ぜた後の印象は違う。

 画面で教わったことが、今は机の上の小瓶で分かる。*5

 

 二十九日には、まず香りを見てもらいたい二つを選べた。

 売るための確認はまだ残る。それでも、秋の花を買っただけではなく、別々の香りを持つ見本が二本、目の前にある。

 明日の夕方に持っていくと伝えると、お春さんは、忘れずに待っていますと答えてくれた。

 

◇ ◇ ◇

 

 三十日の夕方、二つの店を回り終えると、財布を結ぶ紐が少し窮屈だった。

 二十二日から今日まで、菓子は一回六十包みを五回。三百包みの代金は、店の取り分を引いて千八十銭を受け取っている。今日の分も、前から待っていた客が多く、俺が行ったときには売り切れていた。

 材料の補充も、おきぬさんと清吉さんへの手間賃も、今日までの分は払ってある。

 

 薄荷の化粧水は二十七日と二十九日に、合わせて二十四本を納めた。

 高瀬屋と小野屋へガラス四本、陶器八本ずつ。最後の二本が今日売れたので、こちらも全部受け取り、店の分を引いた入金は二百三十六銭になった。

 原料二回分の十銭と、戻った瓶へ付ける新しい栓などは、処理や製造に使う物と合わせて九十八銭。追加で買った瓶と栓の六十銭とは別に控えてある。

 原料は二十一日と二十三日に相談し、二十六日と二十八日に一升ずつ受け取った分だ。取り分けてもらう日の約束があると、こちらも先の仕事を組める。

 

 返瓶用の金は、買い戻した十四銭を引き、新たに売れたガラス八本と陶器十六本の五十六銭を足して、二百四銭へ増やす。

 その包みも含めて、今日の現金は二十四円四十一銭二厘。

 十日前の十六円余りと同じ場所で数えているのに、机へ並べると違いがよく分かった。

 

九月二十一日〜三十日

二十日夜の現金 千六百二十八銭二厘

入金 菓子千八十銭/薄荷二百三十六銭/二十九日の翻訳百五十銭

支払 菓子の補充二百六十銭/おきぬ五十銭/清吉二十銭

支払 薄荷の瓶・栓六十銭/原料・処理・製造など九十八銭/返瓶十四銭

支払 花七銭/採花の手間六銭/花の試作四十二銭/蘭引の預け金二十銭

支払 床屋十銭/三食十日分六十銭/灯油と紙六銭

三十日夕の現金 二千四百四十一銭二厘(うち返瓶用二百四銭)

 

 花の試作四十二銭には、蘭引の借り賃二十銭と、そのために使った材料、栓、燃料、場所の支払いを含めてある。戻る予定の預け金二十銭は別だ。

 家賃は十月十七日まで払い済み。今朝払った三食の六十銭で、十月九日までの食事も決まっている。

 秋の二種類はまだ一本も売っていないが、その試作へ金を出しても、手元は増えた。

 失敗したら明日の飯をどうしよう、と考えずに次の花を試せる。

 帳面を閉じ、金と銀の見本を包んだ。

 

 高瀬屋では、お春さんが俺の持つ小さな包みを見つけるなり、棚の前を空けてくれた。

 今日は香りを見るだけだと伝え、印を付けた二本を並べる。売るときの瓶には、まだ移していない。

 金木犀の方から栓を抜くと、彼女は少し近づき、息を吸った。

 

「……いい匂い」

 

 小さな声の後で、もう一度瓶へ顔が寄る。

 

「お庭と同じではないんですね。でも、お菓子みたいな甘さが少しあって、私はこちらも好きです」

「強すぎませんか?」

「ええ、これなら近くで嗅いでいたいです。銀木犀は?」

 

 もう一本を渡すと、今度はすぐに言葉が出なかった。

 鼻先へ近づけ、少し離してから、また戻す。その仕草を見ている間、俺まで息を止めてしまう。

 

「こちらも……好きです。どちらにするか、困りますね」

「まだ売っていないのに、困らせてしまいました」

「では、売る日まで考えてもいいですか?」

 

 笑いながら聞かれ、もちろんですと答える。

 しばらくしてから、お春さんは自分の青い瓶を持ってきた。底の小さな泡が見える、最初の一本だ。

 

「これを使い終わったら、新しい香りを入れてもらえますか?薄荷も好きなんですけれど」

「同じ瓶でよければ。中を確かめて、使えるようにしてからですね」

「同じ瓶がいいんです」

 

 迷わず返ってきた言葉に、こちらの指が止まる。

 彼女は札の端へそっと触れ、次の札も一緒に貼ってくださいねと言う。

 前のように曲げないことなら約束できるはずなのに、返事をするまでに少し間が空いた。

 

 店の片付けが済むのを待ち、二人で短く外を歩くことになった。

 お春さんがお父さんへ声をかけて戻ってくる間、俺はまた前髪を払おうとして、額へ手をやっている。

 気づいた彼女が、ようやく声を出して笑った。

 

「もう邪魔にはならないでしょう?」

「まだ慣れなくて。手だけ前のままです」

「……その方が、いいと思います」

「髪ですか?」

 

 頷いた後で、お春さんが歩みを緩める。

 

「とても、お似合いです」

 

 五日前と同じ言葉なのに、今度はすぐに礼が出てこなかった。

 隣を見ると、彼女は前を向いたまま、耳まで赤くしている。

 

「ありがとうございます。最初の日にも、何か言おうとしてくれましたよね?」

「褒めたかったんですけれど、上手に言えなくて」

「おりんさんに言われたときも、俺は何と返せばいいか困りました」

「おりんさんは、お上手ですから」

 

 細い声になったので、何か返そうとして口を閉じる。

 上手だと頷きたいわけではなかった。

 

「お春さんが言ってくれたのも、嬉しいですよ」

「……遅くなってしまいました」

「遅いなんてことはないです」

 

 彼女はこちらを見て、すぐには目を逸らさなかった。

 それから、花を採ったときのように少し笑う。

 

「お店でなら、何を言われても困らないつもりだったんです。でも、自分から何か言おうとすると、分からなくなってしまって」

 

 足元の小石を避けるように、一歩だけ俺へ近づいた。

 触れるほどではない。それでも、さっきまでより声が近い。

 

「京介さんが、ほかの方と次のお話を決めていると……私が聞く頃には、もう全部決まっているのかなって思うんです」

「この前も、教えてほしいと言ってくれましたね」

「お仕事のお邪魔をしたいわけではないんです。ただ、私とも約束したことを忘れないでいただけたら」

 

 あの店で紙を片付けていた姿が浮かぶ。

 次の納品日を伝えていたから、話し忘れはないと思っていた。けれど、彼女が待っていたのは、それだけではなかったのだ。

 

「忘れません。新しい香りも、今日、一緒に見てもらいたかったんです」

「はい」

「それに、花を買いに行ったときも楽しかったです。また一緒に歩いてもらえますか?」

 

 答えを待つ間、彼女の方を見すぎないよう前を向く。

 少しして、袖のすぐ隣から声がした。

 

「次は、お花がなくてもいいですか?」

「はい、なくても」

 

 道の先から、金木犀の匂いが流れてきた。

 どの庭からなのか見回すと、お春さんも同じ方を見ている。二人で目を合わせ、あちらでしょうかと彼女が言った。

 高瀬屋へ戻るなら、ここで曲がれば近い。

 けれど、どちらからも、その角を指ささなかった。

 

*1:
全理連「近代理容業のあけぼの~西洋理髪技術は最新技術として輸入~」は、横浜での明治初年の西洋理髪と、明治6年からの松江の理髪事情を記した回顧録にある分け髪などを紹介している。本場面の切り方はそれらを参考に組み立てた創作で、明治8年の横浜の流行を順位付けしたものではない。髪油の利用は柳屋本店の沿革も参照したが、この架空の店の油の成分・銘柄は設定していない。https://www.riyo.or.jp/近代理容業のあけぼの~西洋理髪技術は最新技術/ https://www.yanagiya-cosme.co.jp/400th/history/section1.html

*2:
金木犀の花期は東邦大学薬学部付属薬用植物園の解説で9〜10月、横浜市こども植物園では9月末〜10月初めが紹介されている。銀木犀は板橋区立赤塚植物園の花暦で9月下旬〜10月上旬。これらは現代の植物資料であり、1875年の横浜における特定の庭木の開花記録ではない。本話の開花日と庭木の配置は、花期を参考にした創作である。https://www.lab.toho-u.ac.jp/phar/yakusou/kinnmokusei.html https://www.hama-midorinokyokai.or.jp/kodomo/plant/office/kodomo36/ https://www.city.itabashi.tokyo.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/006/611/hanagoyomi79new.pdf

*3:
ハーブマイスターセンター「金木犀の蒸留実験」(2023年11月2日)を参照。同店の蒸留実験の観察であり、銀木犀の実験結果や、明治期の器具での収量を示す資料ではない。https://www.herb-meister.jp/?mode=f258

*4:
蘭引の構造と上段の冷却水の交換は、ポーラ文化研究所「どうやって使うもの?化粧水をつくる『蘭引』」を参照。同記事が紹介する江戸期の材料はノイバラであり、金木犀・銀木犀への応用と採取分の比較は、本作で組み立てた試作である。https://www.cosmetic-culture.po-holdings.co.jp/culture/history/35.html

*5:
本場面の二種類の芳香蒸留水の出来、採取順による好み、化粧水への配合と比較結果は、現代の蒸留実験と蘭引の構造を参考に組み立てた創作である。明治8年の横浜でこの製品が作られた史実や、同じ操作で同じ香り・保存性が得られる実証例を示すものではない。参照資料は前掲のハーブマイスターセンターとポーラ文化研究所。香りの評価と、肌へ使う製品としての確認は区別している。




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