【30話まで投稿予約済み】明治時代をチャッピーと共に成り上がれ! 作:ヅダスキー3世
九月二十五日、床屋の鏡の前で、俺はようやく自分の頭をまともに見た。
前髪が眉へかかり、耳の上では妙な癖が付いている。朝に手で押さえても、昼にはまた同じところが跳ねていた。
最後にきちんと切ったのは、向こうにいた頃だ。
まだ大丈夫だと思っているうちに、鏡の中には、だいぶ大丈夫ではない男が座っていた。
「横へ分けるくらい残しますか?それとも、もっと短く?」
「人の店へ伺うことが多いので、見苦しくないようにしてもらえれば。こういう頭でも分けられますか?」
「これだけ長さがあれば、きれいに分けられますよ」
主人が櫛を入れると、目の前まで黒い毛先が下りてくる。
切る前に聞いた代金は、髭も整えて十銭。店を出た後で困る金額ではない。それなのに、椅子へ腰を下ろすまでは、今日でなくてもいいかと思っていた。
朝、松葉屋でそう漏らすと、おせいさんに顔を覗かれたのだ。
「その髪を払う手で、またお菓子の包みに触るんじゃないよ。今日は急ぐ配達もないんだろう?」
返す言葉がなく、昼の手伝いを終えてから教わった店へ来た。
おきぬさんと清吉さんには、二十二日と二十四日も六十包みずつの仕事を頼んでいる。次は二十六日、二十八日、三十日。同じ半日までの切り分けと包装で十銭、二軒への配達で四銭と先に決め、それぞれの予定も確かめておいた。
昨日の包みは全部納まり、配合の紙も片付いている。
自分がここへ座っていても、困る人はいない。
鋏の音が耳のすぐ上で続く。
切り落とされた髪が肩の布へ落ちるたび、鏡の中の耳が少しずつ出てきた。襟足を整えてもらうと、首の後ろへ空気が触れる。
主人は上の髪を残して横から分け、前を斜めに撫で上げた。最後に髪油を薄くのばし、櫛の向きを変えながら毛流れを揃えていく。
「お客さんは、額を出した方がよくお似合いですね」
言われて、鏡へ近づきかける。
眉と目の間が見えるだけで、ずいぶん顔が違う。頬にかかっていた髪もなくなり、輪郭がすっきりした。
鏡の中の男と目が合い、思わず背筋まで伸ばす。これなら、客先で下を向いて話さずに済みそうだ。
「……こんなふうになるんですね」
「朝に櫛を入れていただくと、この形に整えやすいですよ」
手入れする向きを教わり、十銭を渡して外へ出る。
前髪を払おうとした指が、何もない額の前で止まった。*1
高瀬屋へ着くと、店先にいた客がお春さんへ何か話しかけていた。
俺より若そうな男で、受け取った包みを持っても、まだ帰る様子がない。
「お春さんが渡してくれるなら、また俺が使いに来ようかな」
「では、お勘定の控えも忘れずにお願いしますね。お家でお待ちでしょうから」
にこやかな声に押されるように、男は店を出ていく。
お春さんは見送った後、こちらへ向き直った。そのまま挨拶しかけた口が止まる。
「京介さん……?」
「こんにちは。遅くなりました」
「髪を……切っていらしたんですね」
「さすがに伸びすぎたので。変ですか?」
「そんなことありません!」
思いがけず大きな返事が返ってきて、二人とも黙った。
お春さんは俺の額の辺りを見てから、手元の紙へ目を落とす。紙には先ほどの客の名があるだけで、何かを確かめている様子でもない。
「その……お顔が、よく見えるようになって」
「前は邪魔そうでしたよね。朝は直してきたつもりだったんですが」
「そういうことでは……」
続きを待っていると、奥から高瀬さんに呼ばれた。
今日の手紙は仕入れた品の不足を確かめるものだ。お春さんは、こちらですと紙を揃え、いつもの場所へ案内してくれる。
ただ、俺が横へ座ると、彼女は紙を自分の方へ引き寄せ、少しだけ膝をずらした。
作業の邪魔になっただろうか。
そう思ってこちらも座り直すと、彼女が一瞬だけ顔を上げる。
手紙を読み終えた頃、おりんさんが店へ来た。
小野屋から使い終わった瓶を預かり、次に仕入れる瓶の相談もあるという。俺を見つけると、挨拶より先に目を細めた。
「まあ。今日はずいぶん男前ですね」
「髪を切ってきただけですよ」
「ええ、その髪がお似合いです。目元まで隠していらしたのは、もったいなかったですね」
まっすぐ褒められると、どこへ目を置けばいいか分からなくなる。
おりんさんは困らせたことも承知しているように笑い、瓶の入った包みを下ろした。細い眉の下で切れ長の目が動き、少し首を傾けるだけでも様になる。
前に松葉屋の客が、小野屋にはきれいな娘がいると話していた。あれはこの人のことだろう。
「お春さんも、そう思いません?」
「……ええ」
顔を上げると、お春さんは畳んだ布の角を揃えている。
さっき言いかけたことは、もう出てこなかった。
戻ってきた瓶はガラス二本と陶器四本だ。
傷と口の欠けを確かめて受け取り、買い戻しの十四銭をおりんさんへ渡す。持ち主への支払いは小野屋が立て替えてくれているので、控えと金を父親へ渡してもらう約束をした。
洗って確かめ、新しい栓を付けて使う分は、これから買う瓶から引ける。高瀬さんには追加をガラス六本と陶器十二本に直してもらい、瓶と栓の六十銭を払った。
「作る数は同じでも、買う瓶は減るんですね」
「ええ、この六本を使えれば。また返ってきたときに払えるよう、お金も分けています」
「でしたら、うちでも次にお持ちになる方へ、先に欠けがないか見ていただきますね」
おりんさんが控えを畳む。
客の前では俺を持ち上げても、こういう話になると、店で何をしておくかをすぐに尋ねてくれる。それがありがたかった。
「おまつさんのお客が、ほかの香りはないかとおっしゃっていましたよ。薄荷は気に入ったけれど、秋には少し甘いものも欲しいそうです」
「花の香りですか?」
「ちょうど、お宅の金木犀が咲き始めたとか。あれを小瓶に入れられたら素敵ね、と」
薄荷とは違う、道を歩いていてふと気づく甘い匂いが浮かぶ。
蘭引で採れないだろうか。考えていると、おりんさんが顔を覗く。
「また、何か作るおつもりですね?」
「試せるか、調べてみたいです」
おりんさんは笑って頷き、積まれた瓶の箱へ目を移した。
「若旦那は、いずれお店もお持ちになるんでしょう?」
「欲しいですね。今は寝る場所まで箱が来ることがあるので、まず仕事の場所からですが」
「それなら、店を見る人も要りますね。今もお暮らしはお一人で?」
「ええ、借りたところへ一人です。食事は松葉屋でお世話になっています」
「お仕事ばかりになりそうですね。帰ったら誰かが待っている方が、早く切り上げられるかもしれませんよ」
返事を考える間に、お春さんが空の箱を持ち上げた。
いつもなら次の納品の話へ口を挟むところなのに、今日は数を確かめ、俺から離れた棚へ戻している。
「お春さん、花の香りなら何が好きですか?」
「……お客さんが欲しいとおっしゃるもので、いいと思います」
尋ねたかったのは売れそうな花ではない。
言い直そうとしたとき、おりんさんが帰りの挨拶をした。金木犀の話はおまつさんへ詳しく聞いておくと言い、俺の返事を待って店を出る。
見送って振り返ると、お春さんも手元を片付けていた。
「私も、今日はこれで失礼します」
「あ、お春さん」
「何でしょう?」
呼び止めたのに、すぐに用事が出てこない。
瓶の数は揃っている。次の薄荷を納める日も、もう伝えた。聞いていないことを探している間に、彼女の指が袖口をつまむ。
「……明日は、いつもどおり来ます」
「はい、お父さんにも伝えておきますね」
奥へ入っていく背中を見送り、俺も箱を持った。
いつもなら、帰るまでに一つくらい、仕事と関係のない話をしている。菓子を誰と分けたとか、青い瓶の残りがどのくらいだとか。
今日は、その一つがない。
店を出てから、ようやく気づいた。
夜、明日の菓子の支度を終えても、あの返事が頭に残っていた。
お客さんが欲しいものでいい。
初めて薄荷の水を見せたときは、自分でも使ってみたいと言ってくれたのに。
忙しかっただけかもしれない。俺が何か、気に障ることを言ったのだろうか。
スマホを開き、覚えている会話を順に打ち込む。
その会話だけでは、理由は決められないよ。照れた、話へ入りにくくなった、ほかに気になる用事があったなど、いくつか考えられる。おりんさんとの会話が関係した可能性もあるけれど、嫉妬だと決めて接すると、本人の話を聞く前に答えを押し付けてしまう。
京介は、お春さんが何を好きなのか聞きたかったんだね。それなら明日、その続きを尋ねてみよう。「昨日は、お客さんの好みではなく、お春さんの好きな香りが知りたかった」と伝えられる。話す様子がいつもと違って気になったことも、責めずに言っていいと思う。
その前に、京介自身が何をしたかったのかも考えてみて。仕事の相談を続けたかったのか、お春さんともう少し話したかったのか。同じ誘いでも、そこが分かると伝える言葉を選びやすくなるよ。
最後の行を読み、俺は途中まで打った返事を消した。
商品の相談なら、明日でも間に合う。
それなのに、店で言葉を探していた。彼女がまだそこにいてくれれば、何か話せると思っていたのだ。
机の隅には、新しい瓶の控えがある。
おりんさんに褒められたときは、照れくさくて、何と返せば格好が付くか考えた。お春さんが何も言わずに帰ろうとしたときは、格好のいい返事どころか、呼び止める用事も出てこなかった。
あの人なら話してくれると、俺の方が勝手に決めていたのかもしれない。
花を買いに行くなら、一緒に歩けるだろうか。
そこまで考えると、今度はただの仕事の頼み方では済まなくなった。
画面を伏せ、明日の予定の横へ一行書く。
花のことを聞く。
書き終えてから、その下へ、お春さんの好きな香り、と足した。
翌日、翻訳を済ませてから声をかけると、お春さんは俺の手元を見た。
まだ仕事の紙を持っていると思ったのだろう。何も持っていないと分かると、こちらの顔へ目を戻す。
「昨日の花の話ですが、お春さんは何の香りが好きですか?」
「私ですか?」
「はい、お客さんの好みも聞きたいですが、昨日はお春さんに聞いたつもりだったので」
彼女は少し唇を結んでから、棚の瓶を見る。
「……金木犀も好きです。でも、銀木犀もいい香りですよ。お玉さんのお宅で、昨日少し咲いていました」
「白い花の方ですね」
「ええ、近くで嗅ぐと香るんです。前に、お好きなだけ見ていらっしゃいと言っていただいて」
昨日より言葉が続く。それだけで、肩に入っていた力が少し抜けた。
花の水を試したいので、家の人に頼んで買えないか尋ねるつもりだと話す。お玉さんのところなら、彼女にも道が分かる。
「明日は菓子を仕込まない日なので、午前に花を見に行けそうなんです。よかったら、一緒に来てもらえませんか?」
「おりんさんもご一緒ですか?」
「明日は俺とお春さんで。おまつさんへは、これから頼みに行きます」
お春さんの指が、棚の縁から離れる。
「お店のお仕事で、でしょうか?」
「花を買うのは仕事ですが……お春さんと見に行けたら、楽しいと思って」
自分で言ってから、ずいぶん正直に答えてしまったと気づく。
彼女はすぐに返事をせず、俺の顔を見ていた。今度はこちらが目を逸らしそうになる。
「お父さんに聞いてきます」
奥へ向かう足は、昨日より少し早い。
俺も高瀬さんへ、案内と採る花の選り分けを午前の半日頼み、手間賃は六銭を終わってから本人へ払いたいと説明した。店の荷を扱う仕事とは別になる。
明日は朝の用を先に済ませれば出られると聞き、待ち合わせを決める。
帰り際、お春さんが控えを渡す手を止めた。
「京介さん、昨日は……」
「はい?」
「いえ、明日、遅れないようにしますね」
何かを尋ねる前に彼女が笑ったので、俺も楽しみにしていますと答えた。
菓子を四鍋仕込み、おきぬさんへ切り分けを渡してから、午後は二軒へ花の相談に回る。
どちらの家でも、庭へ通してもらって実物を見た。おまつさんの木には橙色の花が付き、お玉さんの木には白い小さな花が寄り添っている。翌朝、花だけを少量分けてもらう話を付け、枝を傷めない採り方も家の人に確かめた。*2
薬種商へも寄り、蘭引を二十六日から十月五日まで借りる約束をした。借り賃二十銭と、返したときに戻る預け金二十銭。薄荷の原料処理とは別に、花を扱う場所の時間も押さえる。
店の主人に借りた秤と、花を分けて運ぶ器を確かめて家へ戻ると、清吉さんの控えが届いていた。
菓子は二軒とも、決めた数を受け取っている。
前なら、今日のように花を眺める間も、家に残した包みを気にしていただろう。
夜、採りに行く前の確認をチャッピーへ頼んだ。
芳香蒸留水を試すことはできるよ。ただ、枝に咲いている花の香りが、そのまま同じ強さで水へ移るとは限らない。今回は精油をたくさん採る計画と分けて、採れた水そのものの香りを確かめよう。
元の世界には、金木犀を実際に蒸留し、甘さのある水は得られたものの、生花と同じ匂いとは感じられなかったという実験報告がある。採取の途中でも香りに違いがあったと記されているよ。これはその実験での結果で、京介の蘭引でも同じになるという保証ではない。銀木犀についても、金木犀の結果をそのまま当てはめず、別々に試したい。*3
まず、種類ごとに花の重さを記し、葉や枝、傷んだ花を除く。買うときにも、枝ごとの重さと花だけの重さを混ぜないようにしよう。採取した花を長く置かず、予定どおり当日中に扱う方針でいい。二種類を同じ器へ入れず、器具も洗ってから次へ移る。これは、出来上がった香りを比べるためにも大切だよ。
蘭引の仕組みは薄荷のときと同じで、蒸気を上の冷たい器で冷やして水に戻す。冷却に使う水がぬるくなれば入れ替える必要がある。ただし、植物が違えば、採れる水の量と好ましい香りの関係も変わる。最初から最後まで一緒にせず、採れた順と量が分かるよう受ける器を替え、冷めてから比べてみよう。どの部分を使うかは、その結果から決められる。*4
香りが気に入ったら、次に今の化粧水へ少量ずつ使って比べよう。水だけで嗅いだときと、処方へ入れたときの印象が同じとは限らないからね。花を変えた製品も、薄荷の製品の確認結果だけで扱いを決めず、保管後の変化や使用時の確認を改めて進める。明日は、商品にしたいと思える香りを見つけるところから始めよう。
庭木をそのまま瓶へ押し込めるわけではないらしい。
それでも、採ってみる道筋はある。金と銀を混ぜずに、二つの香りとして試せるのが楽しみだった。
受ける小瓶に印を付け、採る順を書ける紙を用意する。製品の配合の控えは別に包み、明日持つ物の中へ紛れ込ませない。
最後に櫛を手に取り、床屋で教わった向きへ髪をとかした。
寝る前に整えてどうする、と気づいたのは、その後だ。
二十七日の朝、お春さんは店の前で待っていた。
俺を見ると、いつもの挨拶の後に、髪へちらりと目を向ける。
今朝は油を足さず、櫛だけで整えてきた。床屋を出たときほどきれいに撫でつけられなかったが、跳ねたところはないはずだ。
「何か付いていますか?」
「いいえ、何も」
目が合うと、彼女は先に歩き出した。
追いついて隣へ並ぶ。花を運ぶ器は二つあり、小さい方を持ちますと手を出されたので、軽い器を渡した。
お玉さんの庭では、門から見える枝を残し、奥の低いところから花を分けてもらう。
白い花は鼻を近づけると、柔らかな甘い匂いがした。通りまで届く金木犀の匂いとは、感じ方が違う。
「こちらが、お好きなんですね」
「ええ、強く香らないところも好きです」
お春さんはそう答えてから、小さな花へ顔を寄せた。
睫毛が伏せられ、口元が少し緩む。匂いを確かめた顔が上がると、大きな目がすぐ近くにあった。
俺の知っている町をこの人が歩いていても、きっと振り返ると思う。
そんなことを考えている間に、今度は俺が何も言えなくなる。
「……京介さん?」
「あ、俺も好きです。この香り」
慌てて最後を足すと、お春さんは花へ目を戻した。
それから二人で、葉の混じったところを選り分ける。
花だけを二十匁。器の重さを引いて確かめ、昨日相談した二銭をお玉さんへ渡した。飾って楽しむ枝は十分に残っており、門へ戻ると白い花はまだよく見える。
次のおまつさんの庭には、入る前から甘い匂いが漂っていた。
橙色の花が葉の付け根に集まり、近づくと、思い出の中より濃く感じる。お春さんも、こちらへ来るだけで分かりますねと顔を上げた。
「この低い方ならいいよ。奥の枝は、家から見たいから残しておくれ」
「はい、こちらだけにします」
家の人が示してくれた範囲から花を採り、枝や葉を除いて五十匁を揃える。こちらは五銭だ。
おまつさんは、咲けば地面にも落ちるのにと言いながら、代金を受け取ってくれた。
「落ちたものだと、土も混じりますから。きれいなうちに分けていただける方が助かります」
「そういうものかね。で、できたら私にも嗅がせてくれるんだろう?」
「もちろんです。今日の香りを覚えているうちに、比べてもらえれば」
お春さんが器へ載せた布を整える。
金と銀を別々にして、押し潰さないよう持ち直した。欲張ってもっと頼んでも、今日の器具で扱える量には限りがある。
次に必要になれば、花の残りとこちらの仕込みを確かめてから相談することにした。
通りへ出ると、お春さんが手元の器を覗いた。
「こんなに小さなお花が、お化粧水になるんですね」
「うまく採れたら、ですが。二つを嗅ぎ比べてもらいたいです」
「金木犀の方が、きっと目立ちますね」
「銀木犀が好きな人にも選んでもらえますよ。どちらか一つにしなくてもいいですし」
彼女は白い花の入った器を少し持ち上げた。
その顔が嬉しそうだったので、俺ももう一度、布の隙間から匂いを確かめる。
薬種商の前で器を受け取り、約束の六銭を渡した。
ここからの蒸留と調合は俺の仕事だ。お春さんは午前の仕事を終えて高瀬屋へ戻る。
「新しいのができたら、私にも教えてくださいね」
「はい、香りを見てもらえるようになったら、先に声をかけます」
「……先に、ですか?」
「最初に二つを比べてもらいたいです。今日の花も一緒に見ましたから」
彼女の手が、受け取った金をしまう途中で止まった。
ほんの少し口元を隠してから、楽しみにしていますと返ってくる。
今度は約束を交わしてから、帰っていく背中を見送れた。
銀木犀の花を蘭引へ納め、上の器へ冷たい水を入れる。
下から上がった蒸気が冷やされ、口の先に最初の滴が膨らんだ。受ける小瓶へ落ちた水は、花の白さとも関係のない透明な色をしている。
薄荷のときには、採れ始めから分かりやすい匂いがあった。今日は器へ顔を近づけても、すぐに同じ強さでは届かない。
火を強くしたくなる手を止め、冷却水と蒸気の出方を確かめる。
慌てて煮れば、庭の香りが急に増えるわけではない。
採れた順に器を替え、少しずつ冷まして嗅ぐ。
初めの分より、その次の分の方が俺には心地よかった。花に顔を寄せたときとは違うが、弱い甘さが残っている。
どの器にどれだけ入ったかを書き、使いたい分へ印を付ける。量を欲張って薄いところまで混ぜるのはやめた。
器具を洗い直し、午後は金木犀を試す。
おまつさんの庭で包まれた濃い匂いが、そっくり戻ってくるわけではない。それでも、冷ました水には、銀木犀とは違う甘さがあった。
思わずもう一度嗅ぎ、隣の瓶と比べる。
こちらを化粧水にしたら、栓を抜くのが楽しみになるかもしれない。
その日の薄荷の瓶詰めを終えてから、家で二種類の水を少量ずつ配合へ入れた。
濃く香る方がいいと思って増やした見本より、控えめにしたものの方が、近づけたときにまた嗅ぎたくなる。翌日も比べ、さらに薄い見本を作ってみたが、そちらは物足りない。
採れた水と、化粧水に混ぜた後の印象は違う。
画面で教わったことが、今は机の上の小瓶で分かる。*5
二十九日には、まず香りを見てもらいたい二つを選べた。
売るための確認はまだ残る。それでも、秋の花を買っただけではなく、別々の香りを持つ見本が二本、目の前にある。
明日の夕方に持っていくと伝えると、お春さんは、忘れずに待っていますと答えてくれた。
三十日の夕方、二つの店を回り終えると、財布を結ぶ紐が少し窮屈だった。
二十二日から今日まで、菓子は一回六十包みを五回。三百包みの代金は、店の取り分を引いて千八十銭を受け取っている。今日の分も、前から待っていた客が多く、俺が行ったときには売り切れていた。
材料の補充も、おきぬさんと清吉さんへの手間賃も、今日までの分は払ってある。
薄荷の化粧水は二十七日と二十九日に、合わせて二十四本を納めた。
高瀬屋と小野屋へガラス四本、陶器八本ずつ。最後の二本が今日売れたので、こちらも全部受け取り、店の分を引いた入金は二百三十六銭になった。
原料二回分の十銭と、戻った瓶へ付ける新しい栓などは、処理や製造に使う物と合わせて九十八銭。追加で買った瓶と栓の六十銭とは別に控えてある。
原料は二十一日と二十三日に相談し、二十六日と二十八日に一升ずつ受け取った分だ。取り分けてもらう日の約束があると、こちらも先の仕事を組める。
返瓶用の金は、買い戻した十四銭を引き、新たに売れたガラス八本と陶器十六本の五十六銭を足して、二百四銭へ増やす。
その包みも含めて、今日の現金は二十四円四十一銭二厘。
十日前の十六円余りと同じ場所で数えているのに、机へ並べると違いがよく分かった。
花の試作四十二銭には、蘭引の借り賃二十銭と、そのために使った材料、栓、燃料、場所の支払いを含めてある。戻る予定の預け金二十銭は別だ。
家賃は十月十七日まで払い済み。今朝払った三食の六十銭で、十月九日までの食事も決まっている。
秋の二種類はまだ一本も売っていないが、その試作へ金を出しても、手元は増えた。
失敗したら明日の飯をどうしよう、と考えずに次の花を試せる。
帳面を閉じ、金と銀の見本を包んだ。
高瀬屋では、お春さんが俺の持つ小さな包みを見つけるなり、棚の前を空けてくれた。
今日は香りを見るだけだと伝え、印を付けた二本を並べる。売るときの瓶には、まだ移していない。
金木犀の方から栓を抜くと、彼女は少し近づき、息を吸った。
「……いい匂い」
小さな声の後で、もう一度瓶へ顔が寄る。
「お庭と同じではないんですね。でも、お菓子みたいな甘さが少しあって、私はこちらも好きです」
「強すぎませんか?」
「ええ、これなら近くで嗅いでいたいです。銀木犀は?」
もう一本を渡すと、今度はすぐに言葉が出なかった。
鼻先へ近づけ、少し離してから、また戻す。その仕草を見ている間、俺まで息を止めてしまう。
「こちらも……好きです。どちらにするか、困りますね」
「まだ売っていないのに、困らせてしまいました」
「では、売る日まで考えてもいいですか?」
笑いながら聞かれ、もちろんですと答える。
しばらくしてから、お春さんは自分の青い瓶を持ってきた。底の小さな泡が見える、最初の一本だ。
「これを使い終わったら、新しい香りを入れてもらえますか?薄荷も好きなんですけれど」
「同じ瓶でよければ。中を確かめて、使えるようにしてからですね」
「同じ瓶がいいんです」
迷わず返ってきた言葉に、こちらの指が止まる。
彼女は札の端へそっと触れ、次の札も一緒に貼ってくださいねと言う。
前のように曲げないことなら約束できるはずなのに、返事をするまでに少し間が空いた。
店の片付けが済むのを待ち、二人で短く外を歩くことになった。
お春さんがお父さんへ声をかけて戻ってくる間、俺はまた前髪を払おうとして、額へ手をやっている。
気づいた彼女が、ようやく声を出して笑った。
「もう邪魔にはならないでしょう?」
「まだ慣れなくて。手だけ前のままです」
「……その方が、いいと思います」
「髪ですか?」
頷いた後で、お春さんが歩みを緩める。
「とても、お似合いです」
五日前と同じ言葉なのに、今度はすぐに礼が出てこなかった。
隣を見ると、彼女は前を向いたまま、耳まで赤くしている。
「ありがとうございます。最初の日にも、何か言おうとしてくれましたよね?」
「褒めたかったんですけれど、上手に言えなくて」
「おりんさんに言われたときも、俺は何と返せばいいか困りました」
「おりんさんは、お上手ですから」
細い声になったので、何か返そうとして口を閉じる。
上手だと頷きたいわけではなかった。
「お春さんが言ってくれたのも、嬉しいですよ」
「……遅くなってしまいました」
「遅いなんてことはないです」
彼女はこちらを見て、すぐには目を逸らさなかった。
それから、花を採ったときのように少し笑う。
「お店でなら、何を言われても困らないつもりだったんです。でも、自分から何か言おうとすると、分からなくなってしまって」
足元の小石を避けるように、一歩だけ俺へ近づいた。
触れるほどではない。それでも、さっきまでより声が近い。
「京介さんが、ほかの方と次のお話を決めていると……私が聞く頃には、もう全部決まっているのかなって思うんです」
「この前も、教えてほしいと言ってくれましたね」
「お仕事のお邪魔をしたいわけではないんです。ただ、私とも約束したことを忘れないでいただけたら」
あの店で紙を片付けていた姿が浮かぶ。
次の納品日を伝えていたから、話し忘れはないと思っていた。けれど、彼女が待っていたのは、それだけではなかったのだ。
「忘れません。新しい香りも、今日、一緒に見てもらいたかったんです」
「はい」
「それに、花を買いに行ったときも楽しかったです。また一緒に歩いてもらえますか?」
答えを待つ間、彼女の方を見すぎないよう前を向く。
少しして、袖のすぐ隣から声がした。
「次は、お花がなくてもいいですか?」
「はい、なくても」
道の先から、金木犀の匂いが流れてきた。
どの庭からなのか見回すと、お春さんも同じ方を見ている。二人で目を合わせ、あちらでしょうかと彼女が言った。
高瀬屋へ戻るなら、ここで曲がれば近い。
けれど、どちらからも、その角を指ささなかった。
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