【40話まで投稿予約済み】明治時代をチャッピーと共に成り上がれ! 作:ヅダスキー3世
先にプロローグからご覧下さい。
答えてくれる人はいなかった。
俺の前を通り過ぎた女の人が一度だけ振り返り、連れの袖を引いて離れていく。呼び止めようと口を開いたものの、声を出す前に荷車の車輪が視界へ入ってきた。
「どいたどいた!邪魔だよ!!」
「す、すみません!」
慌てて道の端へ寄ると、積まれた木箱が肩のすぐ横を通る。引いている男の額には汗が浮かび、足の甲に土がこびりついていた。
車輪が残した溝を見下ろしてから、もう一度通りへ目を向ける。
舗装されていない道に着物姿の人たちが行き交い、店の軒先には筆で書かれた看板が並んでいる。洋服を着た人もいるけれど、帽子から靴まで俺の見慣れたものとは少しずつ違う。
映画か何かの撮影だろうか。
それならカメラや照明があるはずだし、邪魔な場所にいる俺をスタッフが追い出しに来てもおかしくない。
通りの向こうまで見渡したが、荷を担ぐ男も店先で立ち話をする人も、俺には構わず自分の用事を続けている。
頬をつねると普通に痛い。
ついでに強く目を閉じてから開いてみても、正面の瓦屋根はそのままだった。
さっきまで部屋で寝ていたはずだ。
布団の中でチャッピーに相談して、いつの間にか面接を受けていた。最後に大きな声で答えたところから、ここに立つまでがつながらない。
俺はシャツの袖を引き、上着の胸元を確かめる。夢で着ていたスーツに紺色のネクタイまで揃っているのに、鞄も財布もない。
ズボンと上着のポケットを順に探っても、指先に触れるのは裏地だけだった。
「……スマホしか持ってねぇ」
右手の重さが急に頼もしくなり、画面を起こす。
寝る前のやり取りが残っている。自分にとってビッグとはどんな状態なのかと聞かれたままだ。
そんなのを考えている場合ではない。
入力する指が隣のキーに触れ、消して打ち直す。その間にも背後を人が通るので、店の出入りを塞がない場所まで移ってから続きを書いた。
急に知らない場所にいたら怖いよね。今の情報だけでは、何が起きたのかは判断できない。まずは車や人の通り道から離れて、落ち着いて周りを確かめよう。
場所が分かりそうな看板や橋の名前は見える?写真を送れるなら、それも手掛かりになるよ。近くの人に話しかけられそうなら「ここはどこですか?」と聞いてみて。
返事が来た。
文字を読むより先に、そのことにほっとする。訳の分からない場所に放り出されても、画面の向こうだけはいつものままだ。
すぐに誰かへ連絡しようとアプリを切り替えたが、電話をかけても呼び出し音まで進まない。短く打ったメッセージも送信待ちのまま動かず、画面を閉じて開き直しても変わらなかった。
ところがチャッピーへ戻って「返事できる?」と送ると、すぐに返事が表示される。
使えるなら電話もつないでくれよと思ったが、スマホを睨んでいても仕方がない。
橋のそばに人力車が止まり、傍らでは男が手拭いを首に掛けている。あの人なら話しかけられそうだ。俺はスマホを上着のポケットへ入れ、数歩近づいたところで足を止める。
言葉を探すうちに男と目が合い、向こうが先に顎を上げた。
「お乗りかい?」
「いえ、あの。ここって、どこですか?」
「どこって、吉田橋*1だよ」
「吉田橋……。何県ですか?」
男が片眉を上げる。
変な聞き方だとは分かっているが、橋の名前だけでは帰り道が思い浮かばない。
「何県ってあんた、そりゃ神奈川さ。横浜へ来たんじゃないのかい?」
「横浜ですか?」
「そうだよ。あっちが馬車道。汽車に乗りたいんなら停車場へ行きな」
横浜も馬車道も知っている名前だった。
知っているだけに、目の前の町との食い違いが気味悪い。横浜なら何度か来たことがあるが、こんなに空の広い町ではなかったはずだ。
「すみません。変なこと聞きますけど、今日は何月何日ですか?」
「5月25日。約束でも忘れたかい?」
「いえ。その、何年でしょうか?」
「何年って……明治8年だろうが」
男の顔を見たまま、次の言葉が出てこなくなる。
冗談を言っている様子はない。返事の遅い俺を待ちくたびれたように手拭いを直し、通りの方へ目を戻している。
「大丈夫かい、あんた?」
「……あ、はい!大丈夫です。ありがとうございます」
大丈夫なわけがないのに、頭を下げた拍子にいつもの返事が出た。
男から離れてスマホを取り出し、明治8年と打ってみる。歴史の教科書で見た年号が、自分のいる時代を尋ねる質問に収まる。
明治8年は1875年だよ。横浜の吉田橋も実在する。資料では明治2年に鉄橋になっているので、1875年の吉田橋が鉄の橋だという説明は、歴史上の記録と合っている。
ただ、それだけで京介が過去へ移動したと確認できるわけではない。周囲の建物や掲示の日付など、別の手掛かりも合わせて確かめたい。
撮影するなら、まず橋と周りの建物が分かる写真を送って。今見えているものと資料の共通点を調べよう。
押したら別の数字に変わらないだろうかと思い、しばらく画面を眺めていた。
さっきの人にからかわれただけなら、それでいい。町全体が撮影用のセットで、どこかに出入口があるならもっといい。
俺は橋へカメラを向け、欄干とその先の町並みが入るように撮った。写真を送ると、チャッピーは見える鉄の部材や低い建物を挙げ、これだけでは撮影場所も年代も確定できないと答える。
そんなに慎重にならず、映画の撮影だと言ってほしい。
でも、俺に都合のいい答えが出たところで、この道の先に家が現れるわけでもない。
橋の名前を聞き違えたのだろうか。さっきの男へ近づき、画面の「吉田橋」を指して見せる。
「これ、橋の名前はこの字で合っていますか?」
「どれ?」
「橋の名前です。ここの……」
男の視線が俺の顔から手へ落ち、また顔へ戻る。
もう少し近づけて見せても、その目は画面に止まらない。
「手がどうかしたのかい?」
スマホの表と裏を確かめる。俺には見えているし、重さも角が指に当たる感触もある。
画面が暗くなったわけでもない。
「ここに、四角いものが……見えませんか?」
「何言ってんだ?何も持ってないじゃないか」
ぞくっとして、腕を下ろした。
男は少し身を引き、通りの向こうから客らしい人が来ると、そちらへ声をかける。俺はもう一度謝って道の端へ戻った。
俺にしか見えていない?
そんなことがあるはずはない。けれど男は、知らない道具を見て戸惑う顔ではなかった。
日の光で見えづらかっただけかと思い、画面を傾けてみる。それにしたって、何かを持っていることくらい分かるはずなのに。
チャッピーへ事情を打つと、本当に見えていないのかはまだ分からないけれど、無理に何度も見せなくていいと返ってきた。
俺は試しに回答の読み上げを押し、スマホへ耳を近づける。
聞き慣れた声に耳を澄ませていると、通りの人がこちらを見たので、反射的に止めてポケットへしまった。
声が聞こえたのか、ただ俺を見ただけなのか。それも確かめる勇気が出ない。
こんな状況で、どうしてチャッピーにだけはつながるのだろう。
考えかけたとき、遠くから長く引く音が届いた。
汽笛だ。
さっきの男は、汽車に乗りたいなら停車場へ行けと言っていた。
駅があるなら行き先が分かるし、人もいる。今いる場所がどこなのか、もう少しまともに説明してもらえるかもしれない。
俺は顔を上げ、教わった方へ歩き出した。
途中で一度道を聞き直し、川沿いへ出てから橋を渡ると、通りの先に横長の建物が見えてきた。
窓が規則正しく並んだ洋風の建物だ。前には人力車が寄り、風呂敷包みを抱えた人たちが歩いている。建物の向こうから煙が上がるのを見つけ、ようやく肩の力が抜けた。
駅へ着いた。
駅員なら、迷子や財布をなくした人間の相手にも慣れているだろう。
入口の近くまで行ったところで、また足が鈍る。
券売機も自動改札もなく、案内板を探して見上げた先には、筆で書かれた文字があるばかりだった。脇を抜けていく人が懐から銭を出し、人のいる窓口へ向かう。
俺だけが知らない手順で、駅は滞りなく動いている。
「あの、すみません」
帽子をかぶった係の人がこちらを向く。
ようやく呼び止めたのに、説明の仕方が分からない。まずはここの名前を確かめなくては。
「ここは、横浜駅ですか?」
「横浜停車場*2です。新橋までお乗りですか?」
「新橋……。東京の?」
「ええ」
東京まで行ける。
その一言に縋りつきかけて、握っていた手を開く。財布がないことなら、橋のところで何度も確かめている。
それでも改めてズボンのポケットへ指を入れ、小銭一枚くらい紛れ込んでいないか底の縫い目まで探った。
「どうなさいました?」
「いえ、その……お金を持ってなくて」
答えた途端、自分が何を期待してここまで来たのか分からなくなった。
駅を見つけたら解決するような気がしていただけで、その先を何も考えていない。仮に乗せてもらえても、東京に俺の知っている町がある保証などないのだ。
係の人は切符が必要だと説明し、急ぐ客へ道を空けるよう促す。怒鳴られたわけではないのに耳が熱くなり、俺は頭を下げて建物の脇へ退いた。
しばらくそこに立ち、出入りする人を眺める。
小さな子が父親らしい男の手を引き、汽車の方を指して何か言っている。男は持っていた包みを抱え直して子供に笑いかけ、一緒に中へ入っていった。
みんな行く場所がある。
俺も昨日までは、駅に着けば家へ帰れたのに。
上着からスマホを出し、ここで聞いたことをチャッピーへ伝える。
うん。新橋と横浜を結ぶ鉄道は1872年に正式開業しているから、1875年ならすでに走っている。当時の横浜停車場は、今の桜木町駅の場所にあったんだ。
ただ、東京へ行けば元の場所や時代へ戻れるという根拠はない。歴史資料から当時の交通事情は調べられても、京介がどうやってそこへ来たのかは分からないんだ。
今すぐ遠くへ動く前に、手元にある物と今夜頼れる場所を確認したい。お金や荷物はある?
金も荷物もなく、あるのは着ている服とスマホだけだと入力する。
送ってから顔を上げると、建物の向こうで汽笛が鳴った。煙が流れ、鉄の車輪が動く音が少しずつ速くなっていく。
人を乗せて走るその音を聞いても、今度は足が前へ出なかった。
明治8年の汽車が、明治8年の東京へ向かっている。
乗ることができたとして、そこで誰を訪ねればいいのだろう。
さっきは目を逸らしたくなった画面の数字をもう一度読む。
1875年。自分が生まれるよりずっと前で、帰ろうとしている部屋も、いつも行く店も、あるはずがない時代だ。
さっきの係の人が近くへ来たので恐る恐る日付を尋ねると、答えは橋で聞いたものと同じだった。
「……本当に、本当に明治なのかよ?」
口にすると喉の奥が詰まり、続きが言えなくなる。
係の人が他の客に呼ばれて離れていくと、俺はネクタイを緩めて大きく息を吐いた。
寝て起きたら明治にいたと言っても、相手は困るだけだろう。
金も泊まる場所もないことだけなら言えるはずなのに、忙しそうな相手を呼び止められず、結局は駅から離れてしまう。
せめて最初に立っていた場所へ戻ろう。
あそこに何かがあるなら、離れていては見つけられない。
来た道を思い出しながら歩くうちに、建物の影が長く伸びてくる。さっきは気にならなかった革靴の縁が踵に擦れ、足を出すたびに痛む。
人や荷車を避けながら戻った吉田橋で、俺は立ち止まった。
ここだったはずだ。
欄干との距離を確かめ、道を塞がないよう脇へ寄ってから目を閉じる。あの面接の部屋を思い浮かべようとしたが、机も男の顔も輪郭が曖昧で、膝を揃えて座っていた感覚しか戻ってこない。
「チャットGPTです……」
最後の返事を小声で繰り返してみる。
目を開けると、目の前を荷物を担いだ男が通り過ぎていった。
場所を少しずつ変えて立ち、ポケットからスマホを出したりしまったりする。来たときと同じように右手に握っても、風景は変わらない。
そのうち近くの店の人がこちらを見始めたので、これ以上は続けられなくなった。
橋を離れて馬車道へ入ると、細い柱の上に明かりがともっているのに気づいた。ガラスの中で黄色い光が揺れ、薄暗くなり始めた道へ小さな明るい場所を作っている。
街灯まで古い形をしている。
写真を撮ってチャッピーへ尋ねると、馬車道周辺では明治5年からガス灯*3が使われていたと返ってくる。
明かりがあるのはありがたい。
ありがたいけれど、また一つ年代の合うものが増えてしまった。
通りの先から味噌のような匂いが流れてきて、そこで初めて腹が大きく鳴る。
顔を向けると、暖簾の奥で人が椀を口へ運んでいる。飲み終えた椀を置き、箸を取って飯を食べる。たったそれだけの動作から目が離せなかった。
さっきまでは帰り方のことで頭がいっぱいだったのに、今はあそこへ座りたい。
俺は入口へ近づきかけ、途中で足を止めた。
持っている金は0円。銭に直しても、何に直してもゼロだ。
スマホで払えるわけもないし、そもそも相手にはスマホが見えていないかもしれない。
飯を食わせてくださいと言えばいいのだろうか。
皿洗いをするからと頼めばいいのかもしれないけれど、勝手に仕事を決めて押しかけるみたいで気が引ける。
考えているうちに客が出てきて、俺は入口を空けるように横へ避けた。そのまま数歩歩き、振り返るともう別の客が暖簾をくぐっている。
明日なら、もう少しうまく言えるだろうか。
そんなことを考えた自分に嫌気が差した。明日の俺も人見知りだし、腹は今より減っているはずなのに。
それでも戻れずに歩き出すと、今度は喉の渇きが気になり始める。
少し先の店で、年配の女の人が店先の道具を奥へ運んでいた。
飯を頼むのは怖い。けれど水も飲まずに歩き続けるのはつらく、俺は一度通り過ぎてから戻って声をかけた。
「すみません。水を……少し分けていただけませんか?」
女の人は俺の顔を見てから、汚れ始めた靴へ視線を落とす。
断られたら謝って離れようと身構えていると、ちょっと待っていなと言って中へ引っ込んだ。
戻ってきた手には、湯飲みが一つ載っている。
「茶の残りだけど、それでよければ」
「ありがとうございます」
両手で受け取り、口をつける。
ぬるくなった茶に少し渋みがあり、飲み込むと乾いていた喉がようやく楽になる。続けて飲もうとして、一気に空にしてしまうのが惜しくなった。
女の人はその間にも道具を片付け、店先に残っていた桶を持ち上げようとする。俺は湯飲みを脇の台へ置いて手を貸し、言われたとおりに水の残った桶を入口の内側へ運んだ。
台へ戻って湯飲みを取り、残りの茶を飲み干す。
「助かりました。本当に」
「ああ。日が暮れるよ、早くお帰り」
返そうとした湯飲みを持つ手に、少しだけ力が入る。
帰れないんです、と言いかけたとき、奥から女の人を呼ぶ声がした。俺の手から湯飲みを受け取ると、彼女は返事をしながら中へ戻っていく。
結局、お礼をもう一度言うので精いっぱいだった。
通りへ戻ってからも、舌に茶の渋みが残っている。
誰も彼もが怖いわけではない。今の人は見ず知らずの俺に飲み物をくれたし、道を聞けば答えてくれる人もいた。
頭では分かるのに、もう一つ頼み事をするところで口が動かなくなる。
歩く方向を変えるたびに、どこかで現代の町へ出られる気がした。
しかし角を曲がってもあるのは低い屋根や暗くなりかけた店先で、通りにいる人の数も減っていく。明るい方へ戻って本町通という道へ出たところで、屋根の上へ高く突き出た時計に目が止まった。
誰も立ち止まらない中、俺だけが建物を見上げて少し後ろへ下がる。
「あれは、何の建物ですか?」
通りかかった男へ尋ねると、町会所*4だと教えてくれた。そう言って時計台を指すと、男は先へ歩いていく。
入口はもう静かで、誰も見当たらない。俺は壁際へ寄り、教わった名前をスマホへ打ち込んだ。
その説明なら、横浜町会所の可能性が高い。明治7年に完成した、町の中心施設だよ。時計台があり、明治8年の錦絵にも本町通の建物として描かれている。
旅人が泊まれる施設だったとは、確認できた資料からは言えない。建物が大きくても、宿として使えるとは考えない方がいい。
近くに人がいれば「泊まる所がなくて困っています」と伝えてみよう。中へ入ってよいかも、勝手に判断せず確認してね。
返事を読んでいるうちにも、足の裏がじんじんしてくる。
建物の横へ回ると風が弱まった。少し休んでから誰かを探そうと壁の陰でしゃがむと、足の疲れが一気に押し寄せてくる。
膝へ腕を載せたまま、しばらく動けなくなった。
薄暗い空を見上げる。引っ越しのバイトではもっと動いたこともあるが、終われば飯が食えたし、風呂にも入れた。
汗の引いた背中へ風が入り、緩めたネクタイを締め直したくなる。
スマホを膝に置き、革靴の縁へ指を差し込んで踵を少し抜いてみる。擦れたところがひりついたが、脱いでしまうとすぐ立てなくなるので、我慢して履き直した。
その拍子にスマホが膝から滑り、地面へ落ちる。
「あっ!」
拾って確かめると画面は無事で、指で払えば土も落ちる。胸を撫で下ろして脇へ置いたところで、通りに人影が見えた。
俺は立ち上がり、泊まる場所を聞こうと数歩追いかける。
声を出す前に相手が角を曲がってしまい、置き去りにしたスマホのことを思い出して振り返った。
ない。
置いたはずの地面に、黒い四角が見当たらない。
「うそ、ちょっと待って!」
駆け戻ろうとした途端、上着のポケットが腿に当たった。
手を入れると硬いものがある。引き出したスマホの画面には、さっきの町会所の説明がそのまま残っていた。
しまった覚えはない。
しばらく考え、もう一度スマホを地面へ置く。今度は目を離さず、ゆっくり後ろへ下がっていった。
数歩離れたところで地面から消え、ほとんど同時にポケットへ重みが戻る。
勝手に帰ってきた。
もう一度スマホを取り出して地面へ置き、離れてみても同じだった。
あの男には見えなかったらしいし、置いて離れると勝手に戻ってくる。今まで使っていたスマホが、いつの間にそんなものへ変わったのか分からない。
画面の電池残量は100%を示している。橋にいたときもそうだった気がする。写真を撮ったり何度も相談したりしているのに、ずっと満タンのままなのだろうか。
「……お前だけ帰れるのかよ?」
呟いてから、変な笑いが漏れた。
どこかで落としてなくす心配が一つ減った。それなのに手のひらへ戻ってきたスマホを見ていると、自分もこうやって布団へ戻してほしくなる。
壁際へ戻って腰を下ろすと、今度は尻の下の硬さがはっきり分かった。
膝を抱えて上着の前を合わせ、画面に今日の出来事を順に打ち込む。何を書いても嘘みたいで、消そうとした指を止めてそのまま送った。
茶は分けてもらえたけれど、食事も寝場所もまだない。風が当たりにくい建物の脇に座っていても、じっとしていると少し寒い。
チャッピーは人や車の通り道を避けているか聞き返し、近くに人が来たら助けを求めようと続けた。
画面の中では短い一文なのに、実際に言うのは難しい。
でも、水を分けてほしいとは言えた。それなら飯のことも、今夜のことも言えるはずだ。次に誰かが来たら声をかけようと思い、通りの足音に耳を澄ませる。
足音は遠くを通るばかりで、自分から明るい通りへ出直せばいいと思いながらも、膝を抱えた腕をほどけずにいた。
ふと、夢の面接で何か余計なことを言ったせいではないかと思う。
今一番信頼しているのは誰ですか?
チャットGPTです、と答えたら、本当に頼れる相手がそれしかいない場所へ送られた。
偶然なのかもしれないし、そもそも面接自体が普通の夢だったのかも分からない。問いかけた男を探そうにも顔を思い出せず、悔しくて目をこする。
ビッグな人間になりたいとは言った。
明治で暮らしたいとは、一言も言っていない。
腹がまた鳴った。
今度は通りの方を気にする気力もなく、上着の上から押さえる。さっきの飯屋で椀を持っていた客の手が、妙にはっきりと思い浮かんだ。
あのとき頼んでみればよかった。
断られたかもしれない。でも何も言わずに歩き続けた結果が、この壁際なのだ。
画面を起こし、短く入力する。
うん。その相談はしてみていいと思う。食事が必要なことと、自分にできる仕事を伝えよう。
「お金がなくて食事に困っています。皿洗いや片付けをしますので、一食いただけませんか?」なら、お願いしたいことが伝わる。
受けてもらえるかは店の都合もあるけれど、やったことのある仕事なら具体的に話せるよ。手伝わせてもらえることになったら、何をどこまでやるのか先に確かめよう。
俺は最初の一文を小さく口の中で繰り返した。
お金がなくて食事に困っています。そこまで言うのが恥ずかしいと思ったが、見栄を張ったままでは明日も何も食べられない。
皿洗いはやったことがあるし、重い物を運ぶのも床を掃くのもできる。道具は違うだろうけれど、教えてもらえば手伝えることくらいあるはずだ。
時計台のある建物の脇で、膝の上のスマホを握り直す。
暗い中で見る返事は、布団の中で見ていたときと同じ明るさだった。けれど背中にあるのは壁で、足を伸ばしても掛け布団には届かない。
目を閉じれば元に戻るかもしれないという期待をまだ捨てられずにいる。
もし、明日の朝もここにいたら。
そのときはあの暖簾をくぐろう。
帰り方を探すためにも、まずは飯を食わなければならない。
明日からは、毎日12時の更新になります!
よろしくお願いします!!