【30話まで投稿予約済み】明治時代をチャッピーと共に成り上がれ! 作:ヅダスキー3世
「こちらを二本いただけますか?」
十月十日の朝、高瀬屋の客が指さしたのは、今しがた棚へ並べた金木犀だった。
隣にいた連れの女性も、開けてある見本へ顔を寄せる。ひと息吸ってから目を細め、もう一度、今度は少し離して香りを確かめた。
「お庭で嗅ぐのとは違うけれど、甘くていい匂い。これも、あの薄荷のお化粧水と同じように使うの?」
「ええ、こちらも初めは少しでお試しくださいね」
お春さんが答え、見本の栓を戻す。
俺は納品の箱を抱えたまま、二本という言葉を聞き直しそうになった。
「一つは妹へ。うちへ来るたびに、薄荷の瓶を開けているものですから」
「では、別々にお包みしますね。瓶はこちらから選んでいただけます」
青と緑のガラス、紫とほぼ無色、それに陶器。
中身の量はどれも同じだと添えて、お春さんが値札を示す。
秋の二種類は、薄荷より二銭高い。
花の買い付けと蒸留の手間も数え、店と相談して決めた値だ。
女性はガラス一本と陶器一本を選び、二十八銭を出した。連れの女性も金木犀の陶器を頼む。
お春さんが瓶を包む間、俺は棚から補う分をそっと前へ出す。
「銀木犀も嗅いでみていいかしら?」
次の客に尋ねられ、今度は俺が見本を開けた。
若い女性は瓶を鼻先へ寄せ、しばらく黙っている。
弱すぎただろうか。返事を待つうち、こちらの指に力が入る。
「……私は、こちらが好きです」
女性は銀木犀を指さし、柔らかく笑った。
「金木犀もいいけれど、毎朝なら、これくらいが嬉しいわ」
「ありがとうございます」
「こちらも陶器でお願いします」
隣でお春さんが、ほんの少し俺を見る。
どちらか一つにしなくてもいい。
花を買った帰りに話したことが、目の前でそのまま客の選ぶ言葉になっていた。
棚の隅には、いつもの薄荷も残してある。
秋の花が出たからといって、取り替えてしまったわけではない。顔を拭いた後のあの香りがいいと言う客には、お春さんが薄荷を渡していた。
三つ並ぶと、好きな匂いを選ぶために、店先で話す時間まで少し長くなる。
俺は箱を下ろし、棚の下へ貼った細い札を見た。
まだ、声に出すと照れくさい。
自分の苗字なのに、店へ貼られると別のものに見える。
屋号の話が出たのは、その三日前だった。
高瀬さんへ新しい瓶の相談をしていると、控えの空いたところへ筆先を向けられたのである。
「そろそろ、品へ付ける名も決めてはどうだ?」
「金木犀と銀木犀だけでは足りませんか?」
「香りの名ではなく、作っている方の名だよ。店で誰が売っても、次に客が同じ品を頼めるようにしておいた方がいい」
今までは、京介の作る化粧水で通じていた。
ところが小野屋には、もらった瓶を見せて同じものが欲しいと言う客も来るらしい。その客は俺の顔も名前も知らない。
「菓子も、同じ名前にしたいです」
「なら、これから何を売るかも考えて付けることだな」
帰ってから紙へ書いてみると、ずいぶん大きな字になった。
横浜、文明、開化。
続けて並べているうちに、何を売る店なのか自分でも分からなくなる。
横に置いたスマホを開き、チャッピーへ尋ねた。
自分の苗字を使う案は、商品が増えても使い続けやすいね。「左江内」は初めて見た人には読みが難しいので、最初の札や取引の紙では、読みも添えると伝わりやすい。近隣や取扱店で紛らわしい名前が使われていないかも、決める前に聞いておこう。
ただし、屋号を名乗ることと、登録した商標の権利を得ることは別だよ。元の世界の日本では、最初の商標条例は明治17年、1884年に制定されている。いまの1875年に、後年の商標登録制度を使えるとは考えないでほしい。以前話した発明の保護とは、制度の対象も違う。*1
今できることとしては、瓶の札、菓子の外包み、納品の控えへ同じ名を付け、どの店で買っても京介の品だと分かるようにする方法がある。取扱店と品物の記録を揃えておけば、問い合わせが来たときにも確かめやすい。ただし、同じ印を押すだけで模倣を防げるわけではないから、製法の管理は引き続き必要だよ。
屋号が客に覚えられれば、京介が店頭にいない日にも、同じ品を頼んでもらえる。名前に信用が付くかどうかは、次に買った品も気に入ってもらえるか、約束した数を届けられるかで決まっていく。最初から立派に聞こえる言葉を重ねるより、自分で引き受けたい名を選んでいいと思う。
紙の一番下へ、左江内商会と書き直す。
苗字で困ったことがなかったわけではない。初めて読む人には、大抵、一度聞き返される。
それでも、ここへ来てから名乗ってきた名前だ。
松葉屋で手を貸したのも、手紙を読んだのも、最初の瓶を抱えて高瀬屋へ行ったのも、全部この名でやっている。
翌朝、高瀬さんと小野屋の主人へ尋ねると、少なくとも付き合いのある近隣の店では、同じ屋号に心当たりはないという。
その上で、この名を品へ付けたいと伝えた。
お春さんは、俺の書いた紙を両手で持ち、声に出して読んでくれる。
「左江内商会。……京介さんのお店ですね」
「商会と言うほど、人はいませんけれど」
「おきぬさんも、清吉さんもいらっしゃるでしょう?」
「あの二人がいなかったら、今の注文も受けられませんね」
言ってから、紙へもう一度目を落とす。
名前だけ先走ったと思っていたが、その名前で頼む仕事はもうある。
「私は、覚えやすいと思います」
「読みづらくありませんか?」
「初めてなら、少し。でも、一度聞いたら忘れません」
そう言って、お春さんが俺を見る。
名前を覚えてもらった日のことが、こちらにも浮かぶ。
大きな看板を作るのは、まだ先だ。
まずは札と控えへ書く。包みに押せる小さな印も頼むことにして、版を彫る職人へ丸の中に「左」を入れた図を渡した。木の印一つで十八銭、十二日の受け取りで話が付く。
下へ屋号を書き添えれば、菓子にも化粧水にも使える。
家へ戻り、試し書きの紙を配達に使う箱の上へ載せる。
箱まで、新しく買ったもののように見えた。
十日の昼前、高瀬屋の金木犀は残り二本になった。
最初に納めた秋の十二本は、金木犀が九本、銀木犀が三本。ガラス四本、陶器八本の中から、香りと容器を選んでもらっている。
「あと何本、作れますか?」
お春さんに聞かれ、原料の残りと瓶詰めの日を頭で合わせる。
「次は十二日に十八本です。金木犀十五本、銀木犀三本。それで足りますか?」
「今日のお客さんの分を書いておきますね。瓶のお色まで伺っていいですか?」
「お願いします。入れ物はこれから揃えられますから」
彼女が控えを開く。
客の名、香り、瓶、受取日が、欄ごとに埋まっていく。
店で売るための控えは、高瀬屋の仕事だ。化粧水一本につき一銭を渡す約束も、今回の二種類で変えていない。
俺は、その紙を見ながら、別の頼みを口にした。
「今日の午後と十四日に、小野屋や菓子の分も一緒に整理してもらえませんか?札を揃えて箱へ付けるところまで、お願いしたいんです」
「こちらの帳面とは別に、ですか?」
「はい、店ごとの控えを俺のところで揃えてほしいんです。半日まで六銭ずつでお願いできますか?」
お春さんは頷く前に、奥の仕事を確かめてきますと言って立った。
戻ってきた高瀬さんも交えて、出られる時間を決める。十日は昼の用が済んでから、十四日は朝の手紙を読み終えた後。六銭はそれぞれ終わった日に本人へ払うことになった。
「上手に人へ頼むようになったな」
高瀬さんに言われ、思わず笑う。
抱え込まなければ、もっと引き受けられると分かってきたのだ。
小野屋へ回ると、入口にいたおりんさんがこちらを見つけ、すぐに手招きした。
「若旦那、金木犀、もう少し頂けます?」
「こちらもですか?」
「ええ、見本を嗅いだ方がお友達を連れて戻っていらして。二本買った方が、帰る前にもう一本お取り置きになったんですよ」
小野屋へも今朝、金木犀九本、銀木犀三本を納めている。
おりんさんは控えを開き、欲しいと言われた数と、迷っている人の分を分けて示す。
「『いい香りね』とおっしゃった方まで数えると、後で困りますから。お持ちになる日まで決まった方はこちらです」
「助かります。十二日は、こちらにも十八本なら」
「金木犀を十五、銀木犀を三でお願いできます?」
「高瀬屋と同じですね。それなら、両方へその数で揃えます」
言い終えると、おりんさんが控えの頭へ何かを書いた。
これまで京介様となっていたところに、左江内商会と入る。
「これで、よろしいでしょう?」
紙を向けられ、すぐには返事ができなかった。
自分で札へ書くのとは違う。
人が、俺の商売の名を書いている。
「……はい、それでお願いします」
「お名前だけで、そんなお顔をなさるんですね」
「初めてですから」
おりんさんは笑ったが、紙を畳む手つきは丁寧だった。
主人にも確かめてもらい、これまでどおり売れた分から一本二銭を店へ渡す条件で、十二日の分を受ける。注文が来たことと、金を受け取ったことは、まだ別だ。
「十四日のご希望も、明日までにまとめますね。作れる数を伺ってから、お客さんへお返事します」
「助かります。花の方にも限りがありますから」
その辺りを先に揃えてくれるから、おりんさんと話すと仕事が早い。
俺は、今月に入って採った花のことを話した。
一日、三日、五日、七日。お玉さんやおまつさん、それに紹介してもらった家を回り、咲いたばかりの花を分けてもらっている。金木犀は合わせて三百六十匁、銀木犀は百二十匁。花代は全部で四十八銭だ。
庭の木を一度に裸へはしない。それぞれの家で残す枝を確かめ、必要な日に採って、その日のうちに蘭引へ納めた。*2
「来年は、咲く前に頼んでおけるとよさそうですね」
「そうですね。今年の分がこんなに売れるなら」
「では、私もお客さんに伺っておきます。お庭に木のある方は、ほかにもいらっしゃいますから」
来年。
今の注文と同じ調子で言われ、少し返事が遅れた。
おりんさんは、俺がこの先もここへ納めるつもりで話している。
「お願いします。俺も、来年はもっと用意できるようにします」
答えると、彼女は少しだけ声を落とした。
「そのお話、私もご一緒に考えさせてくださいね」
仕事の相談なのだと頷きかけ、こちらを見る目に気づく。
おりんさんはそれ以上言わず、菓子の注文もありますよと、もう一枚の控えを差し出した。
その日の午後、俺の部屋には、座る場所より先に箱の置き場が決まった。
菓子は松葉屋へ四十包み、小野屋へ二十包み。
朝のうちに煮て冷ましておいた菓子をおきぬさんが切り分けて包む。その隣で、お春さんが納め先の札を揃えている。栓をして包んだ化粧水は、別の箱だ。
「これが、今日からの店の名かい?」
おきぬさんが札を持ち上げる。
そうだと答えると、彼女は左江内の字を指で追い、なるほどねと頷いた。
「じゃあ、この包みを見せて、同じのをくれって言えるね」
「高瀬さんにも、そう言われました」
「包みは同じ人間がやってるんだから、今日だけ立派にはできないよ」
「今までどおりでお願いします。それがいいので」
笑って答えると、おきぬさんも口元を緩める。
端を折り込む手は、もう俺より迷いがない。切り分けた粒も四つずつ揃い、売り物にしない細かな端は別の皿へ分けてある。
鍋を任せなくても、その先を頼めるだけで、次に作る時間は増えた。
今月は二日、四日、六日、八日と、六十包みずつ作っている。今日に加えて十二日と十四日も、初めに予定を聞いて頼んでおいた。
一回はいつもの量を四鍋。材料の分量と火から下ろす判断は俺が受け持ち、冷まして切れるところからおきぬさんへ渡す。
切り分けと包装は半日まで十銭。その日の六十包みを確かめてから、毎回払う約束だ。
お春さんが、松葉屋の札へ四十、小野屋の札へ二十と書く。
受け取る側の欄も作り、俺の控えと並べて確かめていた。
「清吉さんには、この二枚を持っていっていただきましょう。次の注文の紙とは分けておきますね」
「ありがとうございます」
出来上がった紙を俺へ渡してから、彼女は空いた箱の蓋へ目を向ける。
そこにも、小さく左江内商会と書いてあった。
「どれにも、同じお名前が付くんですね」
「そうですね。俺が忘れても、箱を見れば分かります」
「ご自分のお店のお名前は、忘れないでください」
真面目な顔で言われたので、今度はおきぬさんまで笑った。
お春さんもつられて笑い、筆を置く。
仕事の場所に彼女の笑い声がある。それだけで、窮屈な部屋が少し違って感じられる。
清吉さんが来ると、お春さんは自分から札を見せて説明した。
今日から三回は、菓子の二軒に加えて高瀬屋へも化粧水の荷がある。重さと往復が増えるので、半日まで六銭。二軒で四銭だった先の四回とは分け、三人で道順も確かめる。
今日の高瀬屋向けは、七日に仕込んだ薄荷十二本のうち、受取日を指定された二本だ。
「瓶の箱は、先にこちらからですね?」
「はい、菓子と無理に重ねずに分けてお願いします」
清吉さんは箱の底と紐を確かめ、控えを受け取る。
前なら何か言い足さなければ落ち着かなかった俺も、今日は、いってらっしゃいと送り出せた。
片付けが済んでから、おきぬさんへ十銭、お春さんへ六銭を渡す。
お春さんは手間賃をしまい、俺の手元に残した控えをもう一度指で押さえた。
「これで、次の分も同じように揃えられますね」
「十四日も助けてください。今度は今日より瓶が多いので」
「はい、お菓子は同じ六十包みですね?」
「ええ、それでお願いします」
返事をした後、彼女の視線が机の隅へ移る。
洗って口と底を確かめ、伏せておいた青い瓶が一つある。九日に預かった、底へ小さな泡の入った瓶だ。
「それも、十四日にはお返しできます」
「……覚えていてくださったんですね」
「次の札は、一緒に貼る約束ですから」
お春さんは、声に出す前に笑った。
それから、今度の香りはもう決めましたと教えてくれる。
「銀木犀をお願いします」
「金木犀も気に入ってくれていましたよね?」
「ええ、でも今度は、あのお庭で最初に嗅いだ方を使ってみたいんです」
白い花へ顔を寄せていた横顔が浮かぶ。
売れている金木犀より、あの日の銀木犀を選んでくれたことが妙に嬉しい。
瓶へ付ける札の紙を一枚、ほかと分けて置いた。
十一日は、朝から薬種商の仕事場へ入った。
九月末の試作から、保存に関わる配合や栓の扱いをチャッピーと詰め直し、試用と保管後の確認も進めてきている。香りや見た目だけで決めず、花を使う二種類で確かめた分から、九日に最初の販売用を仕上げた。
今日は、その次の三十六本だ。
花から採った水は、種類と採った日を分け、小さな器へ取り分けて保管してある。使う前には記録と状態を確かめ、開けた器の残りを次の仕込みへ継ぎ足す扱いにはしない。
使える原料の量から、これから作る本数も決められる。*3
慣れた量ずつ調合し、出来を確かめてから瓶へ移す。
注文の数が増えても、この一回ずつを揃えていけばいい。
手元の控えには、細かな分量が並んでいる。
外へ持っていく納品の紙とは、入れる包みも分けた。
精製に使う原料は、一日、五日、九日に二升ずつ受け取っている。
堤石鹸と先に受渡日を決め、引き取るたびに払った。一升五銭の条件で、六升三十銭。原料の来る日が決まると、こちらも処理のために場所と手を空けておける。*4
昼過ぎ、蓋をした瓶が順に並ぶ。
金木犀三十本、銀木犀六本。控えの見本にも、最初に選んだ香りがきちんとある。
これだけ並べても、庭の花の色は付いていない。
けれど、栓を開けた客の顔なら思い浮かぶ。
翌十二日、受け取ってきた印を外包みの札へ押した。
紙の下へ当てるものを変え、力を入れすぎないよう試す。最初の一枚は丸が半分かすれ、二枚目には「左」の字がはっきり出る。
「もう少し、墨を薄く付けた方がいいね」
おきぬさんが隣から教えてくれた。
言われたとおりにすると、紙へにじまず、小さな印が揃い始める。
札へ押す分も今の半日十銭で頼めるか尋ねると、紙を切っておけば間に合うという。その支度は俺が引き受けた。
六十包みの外側に、同じ丸い印が並んだ。
化粧水の箱には、店ごとに十八本。
高瀬屋も小野屋も、数を確かめた控えを返してくれた。夕方にはおりんさんから、金木犀は取り置き分を除くと二本だけだという知らせが来る。
高瀬屋でも、金木犀が先に出ている。
先月末の薄荷は、四日間で二十四本売れた。
今回は、発売から三日で金木犀だけを四十八本納め、それがもう足りないと言われているのだ。
紙の上で四十八と書いてから、俺は筆を置いた。
花を採るために五銭を渡した日のことが、まだつい先日のように思える。
十四日の分は、二店へ十二本ずつにした。
それぞれ金木犀六本と銀木犀六本。まず、この分まで同じ出来で届ける。
十三日に仕込みを終えると、空になった容器と、次に使える香りの原料を分けて片付けた。
薄荷も合わせて十二本を用意する。
花の品が売れた日にも、いつもの客が欲しいものを欠かしたくなかった。
十四日の午後、二度目の整理を終えたお春さんへ、青い瓶を渡した。
銀木犀を詰め、新しい栓を合わせてある。最後の札だけが、まだ机の上だ。
「ここを持っていれば、いいですか?」
お春さんが瓶の首へ指を添える。
前は俺が持って、彼女が札を貼った。今日は入れ替わることになり、俺の方が紙の角を気にしている。
「曲がっていたら、言ってください」
「……もう少し、右でしょうか?」
「これくらい?」
「はい、そこです」
糊の付いた札を押さえ、指を離す。
銀木犀の字の下には、小さな屋号がある。底へ光を通すと、前からある泡が同じところに見えた。
「新しい瓶みたいですね」
「でも、同じ一本です」
「ええ、それがいいんです」
お春さんは両手で持ち直し、札をこちらへ向けた。
窓から入る光が、青いガラスの縁へ集まっている。
同じ瓶へ秋の香りを詰め直す代金は十一銭。
高瀬屋の分一銭を含めて店へ払ってもらい、俺の受け取りは十銭になる。
今日の仕事の六銭を渡すと、彼女は別にして持ってきた代金を取り出した。
「お店へ戻ったら、こちらをお父さんへ渡しますね」
「ありがとうございます。使ってみて、また教えてください」
「朝、栓を開けるのが楽しみになりそうです」
そう言って瓶をしまう手が、ひどく大切そうだった。
俺はそこから目を離し、次の仕込みの控えを重ねる。
もう少し話したかったが、清吉さんが箱を戻しに来たので、先に支払いを済ませる。
松葉屋では、菓子の包みを見た客が印の意味を尋ねたらしい。
徳蔵さんが、作っている男の店の名だと説明すると、包みを広げて左江内と読み直していたという。
「次はこの名で頼むと言ってましたよ」
清吉さんが笑って教えてくれる。
六銭を渡す手が、少し止まった。
俺のいないところで、俺の商売の話がされている。
「ありがとうございます。次も同じものを届けます」
受け取った紙を今度はお春さんにも見せる。
彼女は屋号のところへ目を留め、よかったですねと言う。
その声を聞くと、もう一度、今日の包みを最初から並べて見たくなった。
十五日の夕方、小野屋の主人が帳面をこちらへ向けた。
秋の二種類は、十日からの三回で四十二本。ガラス十四本、陶器二十八本が、今日までに全部売れている。
売上五百六十銭から店の分を引き、俺へ四百七十六銭。
「四十二本、全部ですか?」
「そうだ。薄荷の今月分も、これで全部で百十二銭。それと昨日の菓子が七十二銭。合わせて六百六十銭、確かめてくれ」
「はい、頂戴します」
金を受け取り、控えと一つずつ照らす。
秋の発売から、まだ六日だ。
それなのに、新しい香りだけで四円を超える金が、この店から俺の手へ戻ってくる。
おりんさんは横で控えを閉じ、棚の空いたところを見た。
「ここ、もう別の物では埋められませんね」
「またお持ちします。ただ、次の数は原料も確かめてからで」
「分かっています。ですから、まず欲しいとおっしゃった数だけお渡ししますね」
差し出された紙の頭にも、左江内商会とある。
金木犀二十四本。
受け取る日と瓶の内訳は、こちらの返事を待つ欄が空いていた。
受けられる分を確かめて、明日返事をすると約束する。
高瀬屋の秋の四十二本も、今日で全部売り切れた。
店の分を引いた五百十八銭に、薄荷の百二十四銭とお春さんの詰め直しの十銭を加え、六百五十二銭を受け取る。
松葉屋では十四日の菓子の残りも売れ、俺の分百四十四銭が揃っていた。
店を回るたび、納めた数と受け取る金の欄が埋まっていく。
十日から十五日までに売れた秋の化粧水は、合わせて八十四本。
金木犀六十本、銀木犀二十四本。
薄荷もガラス八本、陶器十六本が売れ、次の取り置きを尋ねられている。
金木犀を買った客が銀木犀を人へ勧め、薄荷を使い切った客が秋の香りを選ぶ。
一度の物珍しさだけで終わる感じが、もうしなかった。
その帰り、高瀬さんへ次の瓶と栓を頼んだ。
ガラス十二本、陶器二十四本で百二十銭。揃えてあった分を受け取り、ここまでの仕込みに使った瓶とは別に帳面へ記す。
次も花の品だけで全部を埋めるとは決めず、薄荷の分も含めて使うつもりだ。
「今月だけで、ずいぶん瓶を買ったな」
「売ってもらえたおかげです」
「売れる品を持ってきたからだよ。次の数も、早めに知らせてくれ」
初めは色違いのガラス四本で胸が躍った。今日はその三倍を頼んでいる。
代金を払うと、高瀬さんが次の取引の紙を出してくれた。
家へ戻り、机に金を並べる。
菓子は七回で四百二十包み。店の取り分を引いた入金は、千五百十二銭になる。
手間賃を払っても金は残る。二人へ頼んでよかったと、帳面でも分かる。
三日に買い戻したガラス四本と陶器八本も、処理して今回の百八本へ使った。買い戻しは二十八銭、新しいガラス三十二本と陶器六十四本の瓶・栓代は三百二十銭。今日買った次の分と混ぜず、帳面へ記す。
化粧水の原料と製造などの四百十銭には、六升の原料、戻った瓶や見本用の栓、燃料、場所代も含む。蘭引を六日から十五日まで延長した借り賃二十銭もここへ入れた。
蘭引は今日返し、先月の預け金二十銭を受け取ったので、売上とは別の欄へ書く。
返瓶のための包みには、九月末の二百四銭から買い戻しの二十八銭を引き、新しく客へ渡った百八本分の二百五十二銭を加えた。
食事は十日に六十銭を払い、十九日まで済んでいる。家賃は十七日までなので、次の八十銭は別にしておいた。
全部合わせて、三十八円七十一銭二厘。
まだ月は半分だが、次の瓶を買い、人へ払う分を済ませても、先月末より十四円三十銭増えていた。
翻訳料や先に買った物もあるので、商品でいくら儲けたかは月末に整理する。
今は、明日の仕入れに使える金が増えたことが嬉しかった。
帳面を閉じようとすると、下から小さな紙が出てきた。
十四日に、お春さんと札の位置を決めたときの試し書きだ。
銀木犀。
その下に、左江内商会とある。
今は同じ札が、あの青い瓶に付いているはずだ。
俺は試し書きを捨てずに、最初の屋号を書いた紙と重ねた。
明日の仕事の一番上には、おりんさんから受け取った注文の控えを置く。
金木犀二十四本。
作る日を決め、瓶を選び、人へ頼む。この一枚から、また次の仕事が始まる。
箱をよけて寝床を敷こうとし、また立ち止まる。
今日は次の空瓶まで持ち帰ったので、足を置く場所が一つ減っていた。
そろそろ本当に、仕事の場所を広げなければならない。
灯りを落とす前に、注文の頭をもう一度見る。
左江内商会。
店の名で届いた注文を端が折れないよう帳面の上へ置いた。