【30話まで投稿予約済み】明治時代をチャッピーと共に成り上がれ! 作:ヅダスキー3世
「Good morning, Mr. Saenai.」
声をかけられた途端、昨日から繰り返していた挨拶が半分ほど頭から抜けた。
十月二十五日の午前、高瀬屋の店先に三人の客が立っている。
先頭の女性は落ち着いた色の洋服を着て、手袋をした手に小さな鞄を持っていた。その後ろに、白い肌と明るい色の髪をした若い女性。もう一人は洋服姿の日本人男性で、道の端へ寄ってから二人に店の中を示している。
写真の中にいたような人たちが、俺の化粧水を買いに来た。
そう考えてしまったせいで、ますます口が動かない。
「グッド、モーニング。ミセス・ハリス」
どうにか言い終え、頭を下げる。
夫人が微笑んだので、次の言葉を探す前に横の男性へ目が向いた。
「ハリス家で執事をしております、中村栄吉と申します。こちらは奥様にお仕えしているエレンです」
「左江内京介です。あの、ハリスさんには、いつもお世話になっています」
栄吉さんが英語で添えると、夫人は頷き、俺へ何か話しかけた。
ハズバンド。レター。それから、カインド。
聞き取れた単語が、頭の中で飛び石になって並ぶ。
「旦那様から、手紙のことで助けてもらったと伺っているそうです」
「ああ……ありがとうございます。サンキュー」
自分でも、今の返事はもう少し何とかなると思う。
だが、手紙の英語なら行を戻って読み直せる。目の前の人が話す英語は、聞き慣れない音のまま次へ進んでしまう。
ハリスさんは英国人で、奥さんも同じ国の生まれだという。昨日届いた手紙に、そのことと、化粧水を見たいという希望が書かれていた。
いつも英国製の食器の話をしていたから、何となくそうだろうとは思っていた。本人の国のことまで、俺はちゃんと尋ねていなかったらしい。
「いらっしゃいませ。どうぞ、こちらへ」
お春さんが棚の前を空け、見本の瓶を三つ並べる。
夫人の目が青いガラスへ向いたところで、俺は用意した紙を差し出した。
昨夜、チャッピーと作った品書きだ。
夫人は上から順に読み、金木犀の見本を指さした。
お春さんが栓を抜き、相手の手袋へ液が触れないよう、小皿ごと差し出す。夫人は瓶へ顔を近づけ、香りを確かめてからエレンさんにも勧めた。
二人の間で英語が行き来する。
分かったのは、スイートという一語だけだった。
「こちらは、お庭に咲く木の花の香りでございます」
お春さんの説明を栄吉さんが伝える。
夫人は嬉しそうに頷き、今度は銀木犀へ手を伸ばした。そちらは少し長く嗅いでから、小さく何か言う。
「金木犀はお好きだが、こちらは寝起きにもよさそうだと」
「あ、それなら……お春さんも」
言いかけると、お春さんが俺を見た。
使っている人の話なら、俺が代わりに言うよりいい。
「私も、銀木犀を使っております。朝、栓を開けるのが楽しみで」
そう答えたお春さんは、瓶の中へ目を落とし、少し笑った。
売るためだけに言っていないことは、俺にも分かる。
夫人は訳を聞くと、銀木犀を自分の前へ置いた。
「これは私に、とおっしゃっています」
栄吉さんの言葉に、お春さんの顔が明るくなる。
俺が考えた説明をいくら並べるより、今のひと言の方がずっとよかった。
続いて夫人が尋ねたのは、金木犀を冬にも買えるかということだった。
これは、昨夜の品書きに入れていない。
小野屋から頼まれた二十四本は、十六日に引き受けると返事をして、十八日と二十四日に十二本ずつ渡してある。残していた花の香りの原料から仕上げられたのは、高瀬屋の分と合わせて四十八本。二十三日の仕込みで使い切った。
高瀬屋に残る秋の化粧水も、目の前の六本が最後だ。
「こちらのお店では、この六本が今年の最後になります」
栄吉さんが伝えると、夫人は少し残念そうに瓶を見る。
俺は手元の紙の端を空けた。
借りていた蘭引も、十五日には返している。冬に咲かない花から、同じ香りをいくらでも取り出せるふりはできない。
先に英語で答えようとして、シーズンの後がつながらなくなった。
「One moment, please.」
今度は、ちゃんと口から出た。
夫人が頷く間に帳場の端へ寄り、紙を置いてスマホを開く。俺以外には見えない画面へ、短く打ち込む。
こう書けば伝わるよ。次の秋の製造まで確約せず、今分かっていることを説明しよう。
These are the last bottles of our osmanthus lotions available at this shop. We have used all the flower extract prepared for them. Our mint lotion will remain available.
「この店で買える木犀の化粧水は、これが最後です。用意した花の抽出液をすべて使い切りました。薄荷の化粧水は引き続き販売します」という意味だよ。
書き写す途中で、エキストラクトの綴りをもう一度見る。
机の上にないものへ何度も視線を向けないよう、画面は紙のすぐ横へ置いた。栄吉さんは夫人と話しており、お春さんが薄荷の見本を開けている。
書き終えた紙を差し出すと、夫人はそれを読み、俺の顔を見た。
「You write very clearly.」
これは分かった。
褒められたのだと気づいた途端、さっきより顔が熱くなる。
チャッピーに直してもらっているのだから、俺一人の手柄みたいに受け取ると落ち着かない。
「Thank you. Speaking is……difficult for me.」
難しいです。
そう言い終えると、夫人はふっと笑った。馬鹿にするような顔ではなく、急がなくてよいと言うように、ゆっくり頷いてくれる。
それから紙の下へ、短い質問を書き足した。
使い終わった瓶へ、同じ品を入れてもらえるか。
今度は、俺にも読める。
「Yes. Mint……nine sen.」
俺は薄荷を示し、九銭と数字を書いた。
お春さんがすぐに、栓や瓶の状態を見てお預かりするのだと補う。栄吉さんの訳を聞いた夫人は、自分で瓶を回して底まで眺めた。
ガラスの色を選ぶ時間が、思いのほか長い。
服と同じように合わせるのだろうかと思っていると、金木犀の四本は贈り物で、二人の友人へ渡したいのだと教えてくれた。
「別々のお包みにいたしましょうか?」
お春さんが二本ずつ並べて見せる。
夫人は嬉しそうに手を合わせ、頷いた。
金木犀が四本、銀木犀が二本、薄荷が二本。夫人はすべてガラスを選び、代金は一円二十四銭になる。
包みを作るお春さんの手元を見ていたエレンさんも、遠慮がちに薄荷の陶器を指さした。
「私にも一つ、と申しております。こちらは本人が払います」
栄吉さんの声に、俺は急いで頷く。
エレンさんが小さな財布から十銭を出した。夫人の買い物に付いてきた人が、自分のお金で欲しいと思ってくれた。
それだけのことが、やけに嬉しい。
「Thank you, Ellen.」
名前を呼ぶと、彼女は少し驚いた顔をしてから笑った。
夫人の会計とは分けて受け取り、お春さんが陶器の瓶を包む。
最後に夫人は手袋を外し、指の付け根をさすりながら、もう一つ質問した。
今度はほとんど聞き取れず、栄吉さんへ顔を向ける。
「寒くなったときの、手の荒れに使える品はないかと」
「今は、まだありません。けど、作りたいと思っています」
冬のクリーム。
チャッピーと相談しようと思いながら、秋の花と毎日の納品に追われて、手をつけられずにいたものだ。
お春さんの指先へ、つい目が向く。冷たい水がつらくなる季節は、もうすぐだ。
「試して、ちゃんと品物になったら、お知らせしてもいいでしょうか?」
栄吉さんが伝えると、夫人はすぐに頷いた。
今度は俺を見て、ゆっくりと言う。
「Please do.」
短い言葉だから、取り違えようがない。
俺は頷き返し、新しい紙へ、冬に使う品と書き留めた。
「どうでした、異人さんのお客様は?」
その日の午後、小野屋へ顔を出すと、おりんさんが待っていたように尋ねた。
高瀬屋で夫人を迎えることは、前日に話してある。
九本売れたと答えると、おりんさんは目を細め、次に、誰が何を選んだのか聞いてきた。
「奥様はガラスで、お付きの方は陶器ですか?」
「はい、陶器の方は、ご自分のお金で」
「では、あちらのお家へ売るからといって、ガラスばかり揃えることもありませんね」
言われてから気づく。
外国人の客が増えるなら、綺麗なガラスを多くしよう。俺は早くもそんなことを考えていた。
家に出入りする人が、皆同じ財布を持っているわけではない。
「そこまで考えてませんでした」
「これから聞けばよいでしょう。京介さんなら、ご挨拶もできるのですから」
「挨拶ぐらいですよ。あとは、書いたり、助けてもらったりで」
「それで買っていただけたのなら、立派なものです」
さらりと言われ、俺は持っていた納品の控えを畳み直した。
こういうとき、おりんさんは相手が困るほど持ち上げたりしない。褒めるところだけ褒めて、もう次の話へ進んでいる。
「それで、荷を置く場所のことですけれど」
おりんさんが出してきた紙には、三軒分の書き付けがあった。
一つは今の部屋から近いが、通りから奥へ入りすぎる。一つは表に面しているものの、家賃が月に三円五十銭。そして最後が、弁天通の端へ寄った、小さな空き場所だった。
「月二円。預けるお金も二円です。広くはありませんけれど、荷を持ってくる人が入りやすいと思います」
「表通りで、それぐらいなんですか?」
「奥のお仕事場を家主さんが使いますから。その手前だけです。全部お借りする値ではありませんよ」
それなら納得できる。
通りに面した立派な一軒を今の俺が丸ごと借りるのは無理だ。
「前は、ここまで選べる感じじゃなかったですよね」
「以前は、これから何を売るかというお話でしたもの。今は、高瀬屋さんにも、うちにも、松葉屋さんにも、京介さんの品があります」
おりんさんが、自分の店の棚へ視線を向ける。
十八日と二十四日に届けた金木犀は、もう残りが少ない。棚の下には、丸の中に左の字を入れた札が貼ってある。
「貸してよい相手か聞かれたら、売れている品と、お支払いのことを話せます。私だけが、よい方ですと言うより確かでしょう?」
この人が間に入ってくれたから話が来る。
けれど、間に入ったこの人が困らないだけのことも、少しはできていたらしい。
「見に行ってもいいですか?」
「ええ。私も、一緒に参ります」
弁天通へ出ると、荷を運ぶ人の声と、車の音が重なった。
店先の品物に目を止める人がいる一方で、用事のある店へ真っすぐ入っていく人もいる。ここなら、配達に来た清吉さんが細い路地で荷を抱え直すことも減るだろう。
目当ての場所は、弁天橋の方へ寄った側にあった。*1
間口は二間ほど、奥行きは三間ほど。奥との間に仕切りがあり、入口は通りから別に取れる。
戸を開けると、乾いた木の匂いがした。
俺はまず床を見て、それから天井を見上げる。家主が雨漏りの跡はないと言い、隅の板を足で軽く踏んでみせた。
「火は、こちらでお使いにならないように願いたいんです」
「はい、瓶や包み紙を置いて、包んだり、荷を出したりする場所にします」
キャラメルを煮る場所まで、一度に移せるわけではない。
それでも、寝床の横から空瓶と紙の山がなくなる。仕上がった品と、これから使う瓶の置き場も分けられる。
壁際へ棚を置くつもりで腕を伸ばすと、おりんさんが反対側へ立った。
「そこへ机を出すと、荷を抱えて通るには狭くなりませんか?」
「ああ……確かに」
「机はこちらへ寄せて、戸の近くを空けておいた方が。雨の日は、濡れた荷をすぐ棚へ載せたくありませんし」
何もない部屋なのに、話すうち、人が働いている様子が見えてくる。
俺が図面のつもりで指を動かすと、おりんさんは笑って、その指の少し横を示した。
「京介さんの立つ場所も、残してくださいね」
「そこは一番大事ですね」
「お部屋でも、箱に追い出されかけているのでしょう?」
返す言葉がない。
家主まで笑い、二十七日に返事をくれれば、十一月分の家賃で月末から荷を入れてよいと言ってくれた。
俺は礼を言い、戸を出てからもう一度振り返る。
今は何の札もないその場所に、自分の商会の名前が掛かるところを想像した。
その晩、机へ帳面を広げ、家賃と預け金を書き出した。
二円と二円で四円。古い机と棚を手に入れる分が六十銭。
四円六十銭という数字は、書くだけで指が止まる。
初めて貰った給金は、一日五銭だった。その頃の俺へ見せたら、何を借りるつもりだと聞き返すと思う。
ただ、今は毎日の売上がある。
未払いの分と、これから売れるつもりの分を分けて、帳面の写真をチャッピーへ送る。空瓶を買い取るために残す金も引き、次の材料代と、家賃と飯代を順番に確かめた。
チャッピーに計算を見直してもらうと、四円六十銭を払っても次の仕込みを止めずに済む。
むしろ、部屋がいっぱいだからと仕込みや包装を遅らせる方が、今は困る。
買うときにはずいぶん悩んだ鍋も、使い始めてからは、なければどうしていたか分からない。
今度は場所なのだろう。
もう一つ、机へ載せておかなければならないことがあった。
借りる場所が増えて、取引する相手も増える。俺のことを知っている人は増えたが、それだけで済む話ではない。
まず、徳蔵さんと高瀬さんに事情を相談して、今の居住地を扱う戸長のもとで、どこへ何を申し出るべきか確かめよう。
明治四年に全国共通の戸籍法が制定され、翌年に壬申戸籍が作られている。各区の戸長が戸籍の事務を担当する仕組みだから、1875年は「まだ戸籍制度がないから、名乗れば済む」という時代ではないよ。
ただし、未来から来た人の登録方法が定められているわけではない。手元の制度資料だけで、横浜で君の申し出がどう処理されるか、誰の承認まで必要になるかは確定できない。証人が二人いれば必ず登録できる、何日で片づく、とも言えない。
準備するなら、氏名、今の住まい、五月以降の仕事、取引先、その期間を実際に知っている人を整理しよう。二人には、本人が見聞きした範囲だけを説明してもらう。来る前の戸籍や親族について、確認できないことまで保証してもらわないようにね。
以前の記録を出せない理由は難しい問題だけれど、存在しない親族や本籍地を作ったり、持っていなかった証書を火事で失ったことにしたりすると、後でその説明が君を苦しめる。窓口で確認を求められることを前提に、証明できることと、できないことを分けて相談しよう。
読んで、息を吐く。
字の書かれた紙を一枚貰えば、それで片づく。そんな便利な話ではないらしい。
かといって、ずっと気づかないふりをしているわけにもいかない。
俺は五月からの出来事を書き始めた。
松葉屋で働いたこと。高瀬屋の手紙を読んだこと。住まいを借り、キャラメルを作り、今は三軒の店に品を置いてもらっていること。
自分の来歴を書こうとして、こちらへ来てからのことばかりが紙を埋めていく。
二十五年分の人生に比べれば、ほんの数か月だ。
それなのに、書き損じては申し訳ない人の名前が、こんなにあった。
翌二十六日、高瀬屋で高瀬宗兵衛さんへ相談すると、すぐに話を終えず、帳場へ座らせてくれた。
「前にいたところへ、書付を頼むこともできないんだね?」
「はい、誰に頼めば届くかも、分からないんです」
それは、嘘ではなかった。
住所を覚えていても、この時代のそこに俺の家はない。母さんの名前を言っても、まだ生まれてさえいない人へ手紙は届けられない。
高瀬さんは少し黙り、俺が持ってきた紙へ目を落とした。
「五月からのことなら、うちも松葉屋さんも話せる。今まで商売をしてきた分の書付もある。まず、それを持って、どなたに伺えばいいか聞こう」
「ご迷惑になりませんか?」
「知らないことまで請け合うなら困るよ。知っていることを話すのなら、できる」
その言い方に、肩の力が少し抜ける。
何もかも任せていいと言われるより、ずっとありがたかった。
その日の包装が済み、お春さんへ半日分の六銭を渡した後、店を出ようとすると呼び止められた。
「京介さん。明日の午後は、お忙しいですか?」
「明日ですか?午前中に、借りる場所の話を決めるつもりですけど」
「午後は……」
お春さんは手元の布を畳み直している。
さっきから同じ端を揃えていることに気づき、俺は店の入口から戻った。
「何か、手伝うことがありますか?」
「いえ、そうではなくて」
顔を上げたお春さんが、こちらを見る。
「伊勢山へ、お参りに行きませんか?お天気がよければ、少し歩いて」
「お春さんと?」
「……はい」
返事が小さくなり、俺は急に、自分が何を聞き返したか分かった。
ほかの誰と行くというのか。
「行きます。午後は空けます」
「あの、お仕事があるなら」
「午前中に済ませます。二人で、行きましょう」
言ってから、二人という言葉が少し強かった気もした。
お春さんは俯き、畳んでいた布をようやく棚へ戻す。
「では、お昼の片付けが済んだら。お父っつぁんには、話してあります」
そこまで話してから誘ってくれたのか。
俺は高瀬さんのいる帳場を見ないようにして、もう一度頷いた。
帰り道で家主へ返す言葉を考えるつもりだったのに、頭に残ったのは、午後は空けますと答えた自分の声ばかりだった。
二十七日の午前、家賃二円と預け金二円を払い、借りる範囲と使い方を記した書付を受け取った。
家賃は十一月一日からの一か月分。月末までは、掃除と荷入れのために入ってよい。
古い机と棚の代金、合わせて六十銭も渡す。受け取りの紙を懐へ収めると、財布がはっきり軽くなった。
おりんさんは家主との話が済むまで付き合い、空いた戸口へ立って通りを見た。
「ここへお客様が来たら、どうなさいます?」
「品を受け取る場所にはしたいです。でも、高瀬屋さんや小野屋さんより安く売るつもりはありません」
「同じ値でも、どちらで受けた注文か分からなくなると困りますね」
「注文を受けた店を控えに残します。紹介してもらった分の取り決めも、先に相談します」
今まで売ってくれた店の横で、自分だけ得をするような真似はしたくない。
ここはまず、品を整えて送り出す場所だ。店先を飾ることより、箱を間違えずに渡せることの方が大事になる。
「看板は、ゆっくりでいいですね」
「ええ。けれど、名前の札ぐらいはお出しになったら?せっかく借りたのですから」
おりんさんが戸の脇を指す。
俺がそこへ紙を当てていると、通りがかった荷運びの人が一度こちらを見た。
それだけで、ちゃんと字を書かなければと思う。
おりんさんは、その様子を面白そうに眺めていた。
「次は、もっと広いところを探すことになるかもしれませんね」
「まだ、借りたばかりですよ」
「ですから、次のお話です」
この人には、俺が今使う場所より先の景色も見えているのだろうか。
俺は紙を外し、折れないよう机へ置いた。
「そのときも、相談していいですか?」
「もちろん。お声をかけてください」
返事に迷いはなかった。
昼を少し過ぎ、高瀬屋へ戻ると、お春さんはいつもの前掛けを外して待っていた。
見慣れた着物なのに、襟元がきちんと整えられ、髪もいつもより丁寧に結ってある。手には小さな包みが一つだけ。
俺の顔を見つけると、立ち上がりかけて、いったん座り直した。
「お仕事、済みましたか?」
「はい、無事に借りられました」
「よかった……。おめでとうございます」
笑顔に見とれて、返事が少し遅れる。
俺も朝、いつもより長く鏡を見てきた。分けた髪を触りすぎて崩すなと、自分に言い聞かせたところだ。
「それじゃ、行ってきます」
お春さんが帳場へ声をかける。
高瀬さんは俺と娘を順に見て、暗くなる前に帰っておいでと言った。
その一言が、荷を届けるときの、頼んだよとは違って聞こえる。
俺は妙にきちんと頭を下げてから、お春さんの後を追った。
店を離れ、しばらく歩いても、二人とも商売の話をしなかった。
荷物を抱えていないので、手が落ち着かない。
お春さんの歩く速さに合わせようとして遅くなると、向こうも少し遅くなる。これではいつまでたっても着かないと思い、思わず笑ってしまう。
「どうしました?」
「いや、俺、歩くの遅すぎましたか?」
「京介さんがお疲れなのかと思って……」
「お春さんに合わせたつもりでした」
二人で顔を見合わせた後、今度はお春さんも笑った。
それで、やっと普通に歩けるようになる。
通りの先から、どこかの家の煮物の匂いがした。店の中なら昼の片付けや夕方の支度が気になる時刻だが、今日は通り過ぎるだけでいい。
「こんなふうに出てくるの、久しぶりです」
「買い物のときとは、違いますね」
「はい、帰りに何を持つか、考えなくてよいので」
お春さんが両手で小さな包みを持ち直す。
何が入っているのか気になったが、聞くほどのことでもない気がして、俺は坂の方へ目を向けた。
伊勢山皇大神宮は、港を見渡せる丘の上にあるという。明治三年にできたお宮だと教わり、こちらへ来てからの自分より、五年ほど先輩なのかと変なことを考えた。*3
坂を上がるうちに話す息が少し弾み、お春さんが袖口から手拭いを出した。
「京介さん、どうぞ」
「いや、自分のがあります」
懐を探ってから、朝の机に置いてきたことを思い出す。
お春さんは俺の止まった手を見て、口元を押さえた。
「……ないでしょう?」
「部屋にはあります」
「それでは、今は使えませんね」
差し出された手拭いをありがたく借りる。
きれいに洗われた布から、かすかに匂いがした。銀木犀だろうか。鼻を近づけて確かめるわけにもいかず、額だけ拭いて畳み直す。
「洗って返します」
「急がなくて大丈夫です」
お春さんはそう言い、俺の手にある布を一度見てから前を向いた。
返す用事ができたことが、なぜか少し嬉しい。
おかしい。店へ行けば、明日にでも会えるのに。
お参りを済ませた後、木々の間から港の方を眺めた。
屋根が重なり、その向こうに水面が広がっている。船の位置はここからでも分かるが、そこで働く人の顔までは見えない。
俺が毎日走り回っているところも、上から見れば町のほんの一部だ。
「あの辺りでしょうか、新しいお仕事場は?」
お春さんが指を上げ、途中で下ろした。
「すみません。今日は、お仕事のお話ばかりにしないつもりだったのに」
「ばかりじゃないです。今、初めてしましたよ」
「そうでしたか?」
真面目に振り返ろうとするので、笑って頷く。
お春さんも、少し安心したように肩を下げた。
「何をお話しすればよいのか、考えていたんです。でも、いつもお店でお話ししているのに、今日はうまく出てこなくて」
「俺も、そうです」
答えた後、二人で黙った。
だが、さっきの店先の沈黙ほど困らない。
風が少し冷たく、お春さんの髪の端が頬へかかる。本人が指で戻すまで、俺はその細い動きを見ていた。
「……京介さんは、もっと遠くでも、お商売をなさるんでしょうか?」
「遠く?」
「異人さんのお客様も増えたら、海の向こうにも」
港へ向いた横顔は、いつもの売り場の顔より静かだった。
俺は水面を見る。
外国へ品物を売る。こちらへ来たばかりの頃なら、そんなことは考えなかった。
だが、一昨日、外国の人が俺の作った瓶を持って帰った。いつか海を渡ることも、あるのかもしれない。
「品物は、遠くまで売ってみたいです」
「はい」
「でも、俺がどこへ行くかは、まだ分かりません。今は、ここで作るので手いっぱいですし」
そこまで言ってから、ふと、帰りたい場所のことを思い出す。
電車の音も、夜に明るい道も、家の玄関も、忘れたわけではない。
母さんが俺の帰りを待っているなら、何も伝えられないままでいることは、今でも苦しい。
けれど、この町で明日会う約束をした人たちもいる。
隣の人に、どこへも行かないと簡単に言い切ることはできなかった。言わなければならないことを隠したまま、安心させるための約束だけしたくない。
「今日みたいに出かける時間は、また作りたいです」
俺はお春さんの方を向いた。
それなら、今の俺が言える。
「誘ってもらって、嬉しかったので」
お春さんの目が、ゆっくりこちらへ戻る。
風で冷えたのかと思っていた頬に、さっきより色が差した。
「私も……来てくださって、嬉しいです」
聞き逃すほど小さくはなかった。
だから、何も聞き返さずに頷いた。
帰りに寄った茶店で、お茶と団子を二人分頼んだ。
合わせて四銭を払おうとすると、お春さんが小さな包みを開く。出てきたのは、銭を入れた袋だった。
「私がお誘いしたので」
「ここは俺に払わせてください。今日、借りる場所も決まりましたし」
「それなら、お祝いは私が」
そう来るのか。
店の人が待っているので、俺は先に四銭を渡し、お春さんへ向き直る。
「じゃあ、次はお願いします」
言った途端、お春さんの手が止まった。
袋を戻してから、少しだけ顔を伏せる。
「……はい、次は、私が」
それで話が決まり、隣へ腰を下ろした。
出てきた団子を一口食べると、お春さんが横から俺を見ている。
「何ですか?」
「お菓子をお作りになると、ほかのお菓子を召し上がるときも、難しいお顔になるのかと思って」
「今、なってました?」
「いいえ。安心しました」
笑いながら、自分も団子を口へ運ぶ。
俺は、どう作るのだろうと考えかけていたことを黙っておいた。
今日は、美味しいと思いながら食べるだけでいい。
湯呑みを両手で包むお春さんの指を見て、冬のクリームのことを思い出しかける。だが、それも今は口にせず、甘いものが好きになったのはいつからか聞いた。
お春さんは子供の頃の話をし、俺は、昔から食べる方は得意だったと答える。
帰り道は、来るときより短く感じた。
二十八日の朝、俺は高瀬さんと一緒に、戸長のもとへ事情を尋ねに行った。
松葉屋の徳蔵さんにも前もって相談し、働き始めた頃のことは、自分が聞かれたら話すと言ってもらっている。
窓口では、以前の戸籍のある場所と、親族のことを尋ねられた。
出せる書付がないと答えるたびに、話が少しずつ止まる。来たばかりの頃は、食うことと寝ることで精いっぱいだった。その先を曖昧にしたまま暮らしてきた分が、今まとめて目の前へ出てくる。
俺は、分からないことに別の答えを作らず、五月からの仕事と住まいを順に説明した。
高瀬さんも、自分が手紙を頼んだこと、今は品物を預かって売っていることを話す。
今日の申し出だけで、すべてが認められることはなかった。
書き付けを預かり、扱いを確かめるので、今の住まいを変えるなら知らせるようにと言われる。追加で尋ねることがあれば、高瀬屋にも連絡するという話になった。
外へ出たときには、用意してきた言葉を全部使ってしまったような疲れがあった。
「すみません。まだ、何も決まらなくて」
「初めにどこへ伺うかも分からなかったんだ。今日は、話を聞いてもらえたろう」
高瀬さんはそう言い、俺の持つ控えを見た。
戸籍ができたわけでも、以前のことが解決したわけでもない。
それでも、次に聞かれたら答える相手と、持っていく紙ができた。
折り目を伸ばして、懐へしまう。
その午後、新しい仕事場へ最初の荷を入れた。
清吉さんが空箱を下ろし、入口から奥までを眺める。
「これなら、肩の荷を下ろしてから向きを変えられますね」
「前は、すみませんでした」
「いえ。瓶へぶつけたらと思うと、そっちが怖かっただけで」
おきぬさんは机の前へ座り、包み紙を広げる幅を手で確かめた。
キャラメルは今までの場所で俺が煮て、十分に冷ましてから運ぶ。ここで切り分けと包装をしてもらい、箱へ詰めたものを清吉さんに渡す段取りだ。
使う刃物や台は菓子用にまとめ、化粧水の瓶や道具は別の棚へ置く。まだ手狭ではあるが、寝具をどけなければ紙も広げられなかった部屋より、ずっと仕事がしやすい。
「京介さん、包み終わったものはこちらへ?」
「はい、松葉屋さんが四十、小野屋さんが二十です」
いつもと同じ数を答える。
新しい部屋になったからといって、一度に何倍も作るわけではない。まず、約束した分をいつもどおり届ける。
おきぬさんが紙を折る音を聞きながら、俺は空箱に店の名を書いた札を付けた。
翌二十九日には、薬種商のところで借りられる器具と場所を使い、薄荷の化粧水を三十六本仕上げた。
今月後半の薄荷は、それまでの二十四本と合わせて六十本。秋の二種類が終わっても、欲しいと言ってくれる客がいる。
ハリス夫人からは、二十六日に早くも紹介の注文が届いていた。友人たちの分を合わせて薄荷が十二本、うちガラスが四本、陶器が八本だ。
注文を受けた高瀬屋から控えを渡され、三十日に揃えると返してある。
ガラスばかり用意しなくてよかった。
おりんさんの言葉を思い出しながら、俺は瓶の数をもう一度確かめた。
三十日、お春さんに半日手伝ってもらい、瓶の包みと注文の書き付けを合わせる。
栄吉さんが受け取りに来たのは、最後の箱を閉じて間もなくだった。
代金は一円三十六銭。高瀬屋の口銭十二銭を除いた、一円二十四銭が俺の取り分になる。
夫人からの言伝を聞く間、栄吉さんがこちらの荷札を見た。
「左江内商会。お仕事場も、お借りになったそうですね」
「はい、まだ、荷を置くところですけど」
「お名前があると、お尋ねになる方へお伝えしやすくなります」
栄吉さんは読み方を確かめ、控えにも左江内と書き入れる。
俺はその字を見て、つい頬を緩めた。
自分の名前が広がっていくというのは、こういうことなのかもしれない。
「それから、ハリスさんへお渡ししたい紙があるんです」
用意しておいた封書を出す。
二十九日に翻訳の仕事を渡した帰り、商館の荷の話をしていて、輸入の塗料のことを聞いた。食器だけを見ていた俺の横を別の用途の品物が毎日行き来している。
帰ってチャッピーへ尋ねるうちに、ただ色を塗る以外の使い道が気になり始めていた。
封書には、塗料の品書きや価格が分かるものを見せてもらえるか、扱う商人を紹介してもらえるかというお願いを書いた。
買う数も作る品も決まっていないので、注文書にはしていない。
「お渡ししておきます」
栄吉さんが封書を受け取る。
それを見送った後、お春さんが小さく首を傾げた。
「今度は、何をお作りになるんですか?」
「まだ、できるか調べるところです。火が広がりにくくなるような、塗るものを」
「火を?」
「はい、でも、その前に、冬のお化粧品です。今度、手の荒れのことで困っていることも、聞かせてください」
お春さんは自分の手を見てから、俺へ向き直った。
「それなら、おりんさんにも伺うとよいと思います。お店にいらっしゃる方のお話をよくご存じですから」
「二人に聞きたいです。使う人の話は、俺だけじゃ分からないので」
お春さんは頷いた後、ほんの少し口元を緩める。
「では、私が先に。水を使った後のことから、お話ししてもよいですか?」
俺は新しい紙を一枚出した。
十月三十一日の晩、最後の売上を帳面へ入れた。
後半に作ったキャラメルは、六十包みを八度で四百八十包み。月の前半と合わせると、九百包みになる。
一包みに四粒だから、三千六百粒だ。
帳面の端で四を掛けた後、もう一度チャッピーにも確かめてもらった。自分で煮ていたのに、全部を一度に並べるところは想像しにくい。
おきぬさんが切り、包み、清吉さんが運んだ分だ。俺一人で鍋から売り場まで抱えていたら、ここまでは届かなかったと思う。
お春さんが手伝ってくれた日も、今月は五度になった。高瀬屋の売り場の口銭とは分け、注文を整えたり包んだりしてもらった分として、一度六銭ずつ払っている。
みんなへの支払いを済ませ、材料と容器の代金も数え終えた。
この三十円十銭には、翻訳で受け取った四円五十銭を入れていない。
自分の働いた時間の賃銭や暮らしの費用も、ここではまだ引いていない。だから、そのまま全部が使ってよい小遣いになるわけではない。
それでも、キャラメルと化粧水が、一か月でこれだけの金を残した。
俺は最後の行を見て、しばらく筆を置いたままでいた。
売れるかどうかを心配して持ち込んだ最初の包みが、急に遠くなる。
今日の昼、松葉屋へ清算に行くと、徳蔵さんが、今月はよく売れたなと言ってくれた。
おせいさんはその隣で、次からも菓子を忘れるんじゃないよと笑った。
「アンタのところが大きくなったって、これを目当てに来るお客はいるんだからね」
「もちろん、続けます」
「ならいいんだよ。こっちも、いつもの場所を空けて待ってるからさ」
たった一か月で、大きくなったと言われるほどではない。
そう思ったが、徳蔵さんは、借りる場所ができたなら次も忙しくなるだろうと言い、受け取りの控えを押し返してくれた。
次に渡す分は、もう明日の仕込みに入っている。
何を新しく始めても、それをやめるつもりはなかった。
手元の現金は、新しい場所へ払った金も、次の空瓶三十六本を買った一円二十銭も、全部引いて数えた。
五十一円。
声に出してみても、あまり実感がなかった。
空瓶のための六円五十二銭は別にしておく。戻ってきた瓶を買い取ると約束した分まで、次の試作に使うわけにはいかない。
金を数え直して包むと、ようやく掌へ重さが残る。
困るたびに借りることを考えていた俺が、次の仕込みと新しい仕事を自分の金で始められる。
嬉しいと思った後で、少し怖くなった。
ここから何を選ぶかで、この金は減りもする。
俺はスマホを手に取り、昨日お春さんから聞いたことと、おりんさんへ相談したいことを打った。
うん。今の売上を支える品を作り続けながら、性質の違う二つの開発を進めることになるね。
冬のクリームは、まずお春さんとおりんさんの話から、使う時刻や量、香り、手に残る感触を整理しよう。水仕事の合間に使う品と、寝る前に使う品では、好まれる仕上がりが違うかもしれない。原料と容器を調べて、少量から試作できる形に落とし込めるよ。
防火塗料は、大きな仕事に育てられる候補だよ。現代の技術には、熱を受けて塗膜が膨らみ、炭化した層などで熱の伝わりを抑えるものがある。塗ったものを何に対して、どれくらいの時間守るのかを決めれば、比較する試験も組み立てられる。
ただ、現代の完成品の原料をそのまま今の商館へ注文できるとは限らない。まず入手できる薬品と顔料、結合材、器具を確かめ、作れる配合を選ぼう。船内の木部と鉄の部分、水に浸かる船底は条件が違うので、最初は用途を絞ると進めやすい。乾いた塗膜の燃え方だけでなく、煙、密着、水分の影響も確かめたい。
海軍などへ話を持っていくなら、先に小さな比較試験で、従来品との違いを見せられるものを作ろう。今すぐ大量の材料を買う必要はない。届く品書きと価格を見て、試作費から決めていこう。
海軍。
その二文字を見て、無意識に背筋が伸びる。
今までの客と比べて、必要とされる数も金額も違うだろう。納める品が役に立たなければ、困る人の数も増える。
でも、チャッピーが知っている作り方をこの時代に形にできるなら。
品書きを頼む手紙は、もう渡した。
明日はまず、いつものキャラメルを煮る。その後で、冬のクリームの原料について聞きに行こう。
白い紙に次の用事を書き足していると、お春さんから借りた手拭いが目に入った。洗って乾かし、明日返せるよう畳んである。
それを品物の控えとは別のところへ置き、俺は少し笑った。
仕事の予定だけではない約束も、忘れないようにしなければ。
新しい仕事場に掛ける札は、今夜、書き直した。
丸の中の左の印を押し、その横へ、商会の名を入れる。
まだ小さな紙一枚だが、明日はそれを自分で借りた戸口へ出せる。
俺は墨が乾いたのを確かめ、札を持ち上げた。
十一月の最初の日も、甘い匂いから始めよう。
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これで、第二章 明治起業編は終了となります。
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明日からは、第三章 明治成長編が始まりますので、引き続き宜しくお願いします!!