【30話まで投稿予約済み】明治時代をチャッピーと共に成り上がれ! 作:ヅダスキー3世
十一月五日の朝、仕事場の三軒隣に人が集まっていた。
荷車でも道を塞いだのかと思ったが、そうではない。店先に立つ主人が、戸の脇へ付いた傷を指で示している。
「裏から入ったんだと。留守の間に引き出しを開けられてな」
隣で見ていた男に教えられ、俺は足を止めた。
「盗まれたんですか?」
「銭と、仕舞ってあった物を少し。人に怪我がなかっただけよかったが」
主人の手が戸を離れ、また同じ傷へ戻る。
俺はそこへ近づいて詳しく尋ねる気になれず、頭を下げて自分の仕事場へ向かった。
昨日閉めた戸は、今朝も閉まっている。
それでも、鍵を開けて入った途端、棚の奥の箱が気になった。
売上を一時置く、ただの木箱だ。
夜には部屋へ持ち帰るが、その部屋にも金庫はない。全部懐へ入れて出かければ、今度は自分が転んだり、落としたり、誰かに奪われたりする。
昨日までは、五十四円もあると思っていた。
今朝は、五十四円をどこへ置けばいいのか分からない。
おきぬさんが来てから、俺は近所で聞いた話を伝えた。
「ああ、あちらだったのかい。さっき、通りでも話していたよ」
「一人になるときは、無理に開けておかなくていいです。怪しいと思ったら、先に外へ出て人を呼んでください」
「分かったよ。京介さんも、お金を数えるときは戸口から見えないところでね」
言われて、箱を抱えたままだったことに気づく。
俺は棚の陰へ下がり、今日使う分だけを財布へ移した。
おきぬさんに菓子の包装を頼み、奥の机へ向かう。今朝も菓子は六十包み分を煮てきている。怖いからと座り込んでいたら、その菓子まで売れなくなってしまう。
預け先の候補はあるよ。
横浜では、横浜為替会社を引き継いだ第二国立銀行が1874年に開業している。まず、そこの預金の扱いを尋ねるのが候補になる。
ただし、君のように戸籍の確認中にある人へ、1875年の同行がどのような書付や紹介を求めたかまでは、今回確認した資料では分からない。
現代の本人確認書類をそのまま当てはめず、今の住まい、仕事場、取引の実績、事情を説明できる人について、銀行へ正直に相談しよう。
預ける前に、残す分を分けよう。
・返瓶の買い取り用:6円80銭。
・近々払う原料代、賃銭、食費や家賃:支払日ごとに別にする。
・その残り:預け入れを検討する。
今の残高から35円を預ける案なら、現金は19円31銭2厘。返瓶用を除けば12円51銭2厘だね。これからの入金は、受け取るまでは足さずに考えよう。
原料の見積もりが大きければ預ける額を調整する。すぐ使う資金なので、引き出せる日や手続き、利息・費用の条件を確かめる方が、利率の高さより先だよ。
銀行へ預けても、管理は続く。
預け入れは買い物ではなく、現金から預金への移動。帳面も二つの残高を分けて残そう。銀行へ渡した35円を経費として引いてしまわないようにね。
普段は、預けた証拠と、払戻しに使う印などは一緒に持ち歩かない。銀行にも信用や休業のリスクはあるから、全額を預けて日々の支払いができなくなる形は避けよう。
銀行。
そんな当たり前の行き先を今朝まで考えもしなかった。
元の世界では、財布の金と銀行にある金を当たり前に分けて考えていた。
こちらでは、自分で分けなければ誰も分けてくれない。
俺は帳面の空いた頁へ、手元と預け先の二つの欄を引いた。
小野屋でその話をすると、おりんさんは、まず怪我人がいなかったことに安堵した。
「三軒隣でしたら、気になりますね」
「はい、帰るたびに戸を確かめそうで」
「でしたら父にお話しになって。銀行へは、うちでも用がありますから」
奥から出てきた主人は、俺の話を聞いて頷く。
「今まで全部、自分のところへ置いていたのか?」
「置いておくのも心配で、持って出ることもありました」
「荷物も持って、金も持ってか。それでは何かあったとき、どちらへ手を出すつもりだ?」
答えを考えるほど、どちらも落としそうだった。
主人は俺を責めず、次に銀行へ行くときに事情を話してみようと言ってくれた。
ただし、預けるのは俺の名前だ。
「うちの預けへ混ぜたら、俺の金と区別がつかなくなる。商売の帳面を分けているんだから、そこも分けておけ」
「はい、そうしたいです」
今の住まいと、弁天通の仕事場。戸長へ申し出ていること。
高瀬さんにも説明を頼めるよう、俺は相談する順序を紙へ書く。
印は先月作ったものがある。必要だと言われてから慌てないよう、それも確かめておくことにした。
「京介さん」
帰ろうとしたところで、おりんさんに呼び止められた。
「戸締まりも、お金を預けたらおしまいではありませんよ。大事なお道具もございますでしょう?」
「そうですね。あと、帳面も」
「でしたら、お昼に留守になる日も教えてください。前を通りましたら、少し気を付けて見ますから」
では俺も、と答えると、おりんさんは笑う。
互いに見張り番になる約束ではない。それでも、自分の戸を知っている人が近くにいることが、今朝より心強かった。
その足で薬種商へ行き、新しい原料の紙を渡した。
こちらは一度に金を払わず、品を確かめてからにする。用事を済ませるたび、いつもより早足で弁天通へ戻ってしまう自分に、少し呆れた。
六日の午後、お春さんは高瀬屋の前で待っていた。
いつもの前掛けを外し、髪の脇をきちんと整えている。俺が近づくと、先に手元へ目を向けた。
「今日は、お荷物が少ないですね」
「手拭いはあります」
「見本は?」
「置いてきました」
お春さんの笑顔を見て、これで正解だったと分かる。
材料の調達も、八日に決まった銀行の用事も気にはなる。でも、今日は仕事の話で埋めるつもりはなかった。
入った茶店は、二人で歩く道から少し脇へ寄ったところにあった。
焼けた団子の匂いが戸口まで漂い、奥で湯の沸く音がする。お春さんは品書きを眺め、俺が何を選ぶか待っている。
「お春さんは、どれにします?」
「今日は、こちらを食べてみたいんです」
指したのは、あんの載った団子だった。
俺も同じものを頼むと、彼女は少し安心したように腰を下ろす。
「違うものでも、よかったんですよ?」
「でも、お春さんがおいしそうに見ていたので」
「そんなに、見ていましたか?」
「はい」
頬を赤くして品書きを置くので、それ以上からかわず、運ばれてきた茶を受け取った。
湯呑みの熱が指へ伝わる。先に息を吹いていたお春さんが、向こうの客の話し声にちらりと目を上げ、俺へ顔を近づけた。
「髪を分けるようになったでしょう?」
「はい」
「お店のお客様にも、言われたんです」
「何をですか?」
「……あの方、どちらのお店の方ですかって」
仕事場に札を出した話かと思い、答えかけてやめる。
お春さんは茶を見ている。
「それで、何と?」
「お菓子を作る方ですと。それから、お手紙もお読みになると」
「ずいぶん働いている人みたいですね」
「働いていらっしゃいますよ」
今度は、はっきりこちらを見る。
俺は団子を取ろうとしていた手を止めた。
「ただ、お休みもしていただかないと」
「今日は休んでます」
「はい、それはよかったです」
その言い方が嬉しくて、俺はようやく団子へ手を伸ばす。
柔らかいところと、焼けて少し硬くなったところがある。あんは甘いが、お茶と一緒ならもう一本食べたくなる味だ。
「おいしいですね」
そう言うと、お春さんは、自分の選んだものを褒められたように笑った。
いつもなら、これをいくらで作れるのだろうと考えるところだ。今日は、目の前の人が次のひと口を小さく齧るのを見ているだけで、時間が過ぎていく。
店を出る際、俺が懐へ手を入れるより早く、お春さんが財布を開いた。
「二人分で四銭ですね?」
銭を置く手つきは、俺より慣れている。
代わりに払おうとした手を戻すと、お春さんが横目でこちらを見た。
「お約束でしたから」
「はい、ご馳走さまでした。おいしかったです」
ちゃんと言って頭を下げる。
お春さんは財布をしまい、さっきより弾む足取りで戸口へ向かった。
帰りは少し遠回りをした。
道の端で立ち止まり、店に並ぶ柄の違う布を眺める。お春さんが好きなのは、小さな模様が散ったものらしい。買うつもりはなくても、見ていると顔が明るくなる。
「お春さんは、そういうのが好きなんですね」
「派手なものも綺麗ですけれど、私は、こちらの方が」
「似合いそうです」
お春さんは布から目を離し、俺を見上げる。
「……京介さんも、そう思われますか?」
「はい」
彼女はもう一度布を見て、小さく頷いた。
その顔を覚えておこうと思う。
戻る道では、二人の歩幅が少しずつ揃っていた。次も誘おうと思いながら、その隣を歩く。
八日の銀行へは、小野屋の主人と一緒に出向いた。
本町の第二国立銀行。通りから眺めていた建物に、自分の用事で入るのは初めてだ。*1
入口で足を止めそうになった俺へ、主人が少し振り向く。
「借りに来たわけじゃないんだから、そんな顔をするな」
「それは、そうなんですけど」
主人の冗談へうまく返せず、懐の包みを押さえた。
案内された先で名を告げると、係の人が用意した紙へ目を落とした。
先に主人から話を通してもらい、住まいと仕事場、扱う商品については書付を出してある。高瀬さんにも、取引と戸長への申し出について説明してもらった。
「お住まいはこちら、お店はこちらで相違ございませんか?」
「はい、弁天通には住んでいません。荷物の受け渡しと、包装に使っています」
戸籍の話になったところでは、勝手な生まれ故郷を足さなかった。
これまでに申し出た内容と、今確認してもらっていることを分けて伝える。
係の人は答えを控え、いったん奥へ引っ込む。
待っている間、俺は膝の上で手を組んだり、ほどいたりしていた。
戻ってきた人は、俺自身の名で預けを受けること、届出の事情に変更があれば知らせることを説明した。
主人の名にぶら下がるのではない。
帳面に書かれるのは、左江内京介だ。
「今日は、三十五円をお願いします」
包みを出すとき、指が紙の端へ引っかかった。
係の人は急かさず、開いたところから金を数え、もう一度確かめる。俺も金額を声に出して確認した。
払い戻しには本人が書付と印を持参するという今回の取り決めを聞き、受け渡しをする時間も控える。利息を求めて長く置く契約ではなく、日々の商売に使う当座の預けだ。*2
受け取った証書の名前と金額を俺は何度も見た。
口座というものができても、戸籍の手続きまで済んだわけではない。そちらは引き続き高瀬さんと確かめていく。
それでも、自分の金を預けた記録に、自分の名前が載っている。
「ありがとうございました」
外へ出て主人へ礼を言うと、今度は一人で来られるなと返された。
「はい、道も手続きも覚えました」
「なら、それでいい」
懐へ触れる。
懐の金は減ったのに、ほっとしていた。
今日の残りの用事をようやく普通の速さで考えられる。
銀行へ行くまでの間に、家主へ頼んで仕事場の戸の掛かりも直してもらった。金具と手間で十二銭。これで絶対に入られないわけではないが、戸を閉めるたびに引っかかっていた部分は、きちんと収まるようになっている。
証書は印と別にしまい、その晩の帳面には三十五円を支出ではなく、預金へ移したと書いた。
続いて、今日受け取った翻訳の一円五十銭を収入へ入れる。
守る場所ができても、稼ぐ方を休むつもりはなかった。
銀行の用事を終えた翌日、薬種商の奥で新しい材料を並べた。
白い脂肪酸の欠片、甘扁桃油、グリセリン。別の盆には、主人に濃さを確かめてもらったアルカリの液と、小さな透明な瓶がある。
商館へ照会してもらった原料は、どれも名前だけでは買わなかった。蝋燭に使うものをそのまま削ればよいのではないし、グリセリンも瓶の中の全部が純粋なグリセリンとは限らない。
説明の紙をチャッピーに読んでもらい、主人へまた尋ねる。その往復で、紙の余白が狭くなった。
「この小瓶は、ずいぶん探させたね」
主人が示したのは、ベンジルアルコールという液だった。
ハリスさんへ原料の照会も頼み、紹介された商人の持つ薬品の見本から、必要な分を分けてもらえたものだ。
酒に入っているアルコールと同じように扱わないことは、先にチャッピーから念を押されている。
「名前を書いていただけて、助かりました」
「これも油へ入れるのか?」
「合わせるものとの具合を確かめてからです。保存の方にも使えないかと」
試し買いと原料の確認に二円二十銭。今後の試作で使う場所や道具の分は、使った日に別に払う。
主人へ礼を言い、材料の帳面には買ったものと、前から持っていたものを分けて書いた。*3
配合の相談は、前の晩に済ませてある。作業の前に、その画面を読み返した。
油を固める配合から、水の中へ分散させる配合へ変えよう。
前の甲・乙は油性成分が合計70%だったね。今回は脂肪酸と甘扁桃油の合計を20%から試し、グリセリンを保湿の役割へ回す。
ステアリン酸などの脂肪酸の一部を苛性加里、つまり水酸化カリウムで中和する。できたカリウム石けんと、残った脂肪酸の構造を利用する案だよ。
鈴木一成の1975年の研究では、脂肪酸・石けん・多価アルコールを含むクリームの構造や流動性が検討されている。ただし、研究で使われた原料や装置と君の条件は違う。
以下は、その研究の処方の転載ではなく、君が送った材料の情報から組む未検証の比較試作案。数値を合わせれば必ず販売できる製品になる、という意味ではないよ。
丙・100グラムの設計値
・確認したステアリン酸系原料:15グラム。
・甘扁桃油:5グラム。
・グリセリン:純分で5グラム。
・水酸化カリウム:純分で0.70グラム。
・ベンジルアルコール:1グラム。
・水:原料に含まれる分を合わせて73.30グラム。
100グラムなので、それぞれの数字は重量百分率にもなる。香り付けの精油や色素は入れず、材料自体の匂いも確認しよう。
水酸化カリウムは全脂肪酸を石けんにする量ではない。送ってくれた酸の量の確認結果を前提に、一部だけを中和する設計だ。別の仕入れの品へ、そのまま同じ量を使い回さないでね。
10%の水酸化カリウム水溶液を使うなら7グラム。その中の水6.30グラムは、上の水の量に含まれる。
グリセリンが水を含む場合も、必要な純分を濃度で割って量り、その水を差し引く。原料の液の重さをそのまま純物質の重さと思わないことが大事だよ。
一、作業を分ける
食品とは別の場所と器具を使い、容器・へらを洗浄して乾かす。アルカリの原液の調製は扱いを知る主人に頼み、飛沫が目や皮膚へ付かないよう保護して扱おう。
アルカリは原液のまま肌へ使わない。万一付いたときに、酸を掛けて中和しようとせず、すぐ大量の流水で洗える段取りを先に作ってね。
配合の控え、空の器の重さ、原料の仕入れの印を記録する。中身へ貼る番号と、後で見る記録の番号を揃えよう。
二、油側と水側を温める
脂肪酸と甘扁桃油を一つの容器へ入れ、湯煎で温める。別の容器には、計算した水、グリセリン、所定量のアルカリ水溶液を用意する。
比較の出発条件は両方を75〜80℃程度に揃え、油側の固形物が完全に溶けていることを確かめる。温度だけを見て、粒が残ったまま次へ進まないでね。
この温度は今回の試作条件で、参照した論文の工程をそのまま引用した数値ではない。蒸発で減る量を見られるよう、加熱前後の重さも控える。
三、混ぜる順番と冷まし方を揃える
温めた水側を攪拌しながら、溶かした油側を少しずつ加える。途中でかき混ぜ方を急に変えず、底と側面に残るものも混ぜ込む。
中和と分散が進み、均一になったところで湯煎から外す。泡を巻き込みすぎず、冷却中も混ぜて、器の周囲だけ固まらせないようにする。
ベンジルアルコールは40℃以下になってから加え、全体へ均一に行き渡らせる。蒸発分は、別に用意した清潔な水で最終重量へ補い、再びよく混ぜる。
へらだけで粗い粒や分離が残る場合は、器具や混合条件も変更する。材料の比率だけを何度も動かすと、原因が分からなくなるからね。
四、容器へ分け、翌日以降も確かめる
清潔な小容器へ取り分け、外から水滴や異物が入らないようにして蓋をする。作った直後、翌日、その後で硬さや粒、にじみを比べよう。
石けんを含むので、できたものは弱酸性とは限らない。アルカリの残りや刺激を触った感覚だけで判定しないこと。酸を足して弱酸性へ変えるだけでは、構造が壊れることもある。
すべりが重い場合の比較案・丁
脂肪酸が多いと、塗る途中で白く筋が残ったり、引っかかる感じになったりする場合がある。そうなったら、次の組み方と比べよう。
・ステアリン酸系原料:12グラム。
・甘扁桃油:8グラム。
・グリセリン:純分で5グラム。
・水酸化カリウム:純分で0.55グラム。
・ベンジルアルコール:1グラム。
・水:原料に含まれる分を合わせて73.45グラム。
脂肪酸を減らしたので、アルカリも調整している。油を増やしても、甲・乙のように全体の七割を油性成分へ戻すわけではないよ。
100グラムで違いを見てから、器に余裕を持たせた300グラムで再現を確かめる。その場合は各量を三倍にするが、加熱時間まで機械的に三倍にはしない。
比較では塗る量、手を洗ってからの条件、紙へ触れるまでの時間を揃える。多く取ればどんな品でも残りやすいから、少量で広がるかを見よう。
保存は、別に確かめる必要がある。
ベンジルアルコールには防腐に使われる性質があるけれど、1%入れたというだけで、あらゆる菌やカビを抑えられるとは判断できない。
原料、器具、容器、使う人が開け閉めする条件も含めて確かめる。見た目と匂いだけでは分からない汚染があるし、「冬だから」「小さい器だから」だけでも期限の根拠にはならない。
現地でできる検査と、できない検査を切り分けよう。保存効力や刺激を評価できる手段が足りなければ、そこを整えることも開発費の一部になる。
目標は病気やひび割れを治す薬ではなく、日常の手入れに使いやすいクリーム。甲・乙より軽くなったことと、販売できる状態になったことは、別々に確認して進もう。
数字を写した紙を自分のすぐ前に置いた。
最初の試作では、水を油へ入れた。今度は温めた水の側へ、溶けた油の側を少しずつ加えていく。
覚えている手順で進めそうになるたび、紙へ戻る。
白い筋が広がり、へらを引く抵抗が変わった。
その日の丙は、見た目だけなら、前のものよりずっと馴染みのあるクリームになった。
冷えた翌日にも、水が溜まった様子はない。
けれど、取り分けた少量をのばすと、途中で白く筋が残る。薄く広がるまで擦る回数が、思ったより多かった。
油っぽいのとは違う。滑ってほしいところで、指が止まる感じだ。
「こっちも、少し違うな」
写真だけで伝わらない部分を言葉にして送る。
チャッピーは、指の動きを写すだけでなく、取った重さと、広げた範囲も揃えて比べようと返した。
俺は前の紙を捨てず、次の丁の控えを隣へ置く。
十二日の朝、丁を指へ取ったときは、思わず手が止まった。
軽い。
白いものがすっと薄くなり、手の甲の光り方が、甲や乙とは明らかに違っている。
もう一度すくいたくなるのをこらえ、決めた量だけをのばす。少し置いて紙を押さえると、前のような油の跡が目立たなかった。
「……これだ」
声が漏れた。
元の世界のチューブから出したものと、まったく同じではない。
それでも、手の上にいつまでも重い膜が残らず、塗った後のしっとりした感じは残っている。
白いものを作れた、ではなかった。
使いたかったものへ、やっと近づいた。
もちろん、菓子の鍋も止められない。朝に煮た分をおきぬさんと清吉さんへ託してから薬種商へ向かい、薄荷の仕込みと重なる日は時間をずらす。
八日、十八日、二十八日の翻訳も、約束どおりに渡した。
丁は量を増やして何度か作り直し、記録をチャッピーに見てもらった。冷えた朝の硬さも、日を置いた後の粒も確かめる。
薬種商から紹介された調剤の心得のある人にも協力してもらい、原料と残ったアルカリを確かめ、保管や開け閉めを模した試料の汚染を調べる手段を整えた。配合の核心は渡さず、必要な試料と条件だけを伝える。
検査用は手へ塗る分から離して扱う。容器の洗浄と乾燥まで揃えると、売る前に使う金と手間もよく分かった。
おりんさんが見つけてくれた器も、その間に届いた。
四匁入りは浅く、底の隅へへらが届く。八匁入りは口の広さを保ったまま、少しだけ深い。
蓋を持ち上げるとき、指を掛けるところがあるのも助かる。
「前のものより、こぼしにくそうですね」
「爪を立てずに開けられますでしょう?お使いになる方に、そこも見ていただきたいのです」
中身を考えていた俺へ、おりんさんは蓋を閉じて差し出す。
冬の保管と短い使用期間に絞って確認を重ね、俺はまず少量ずつ売ることにした。
作った日と、使い切る日を器に付ける。最初の販売分は製造から七日以内とし、店で長く寝かせず、受け取る日を決めて少量を渡す。
夏の持ちや、遠くへ船で送る話は、まだ別だ。
売れ残った分を新しい仕込みへ混ぜることもしない。*4
値段を決めるときには、おりんさんからもう一度聞かれた。
「お客様が買い続ける分と、京介さんが作り続ける分、両方残りますか?」
器と中身だけを数えた紙へ、包む手間と、試しに使った分を書き足す。
新しい品になると、どうしても嬉しさが先に立ってしまう。
チャッピーと数量を照合してから、俺は紙を差し出した。
「今回は、器を買い取る約束は付けないんですね?」
「はい、使い終わったら小物に使っていただいても。こちらで詰め直す扱いは、まだ始めません」
「でしたら、そのこともお伝えしましょう」
おりんさんが頷いた。
試作品に付けた甲や乙という札ではなく、値段のある品書きが、目の前に置かれていた。
二十五日の午後、クリームの見本を持って小野屋へ行くと、店の奥から大きな男が出てきた。
鴨居をくぐって身を起こすと、背は百八十センチほどもある。張った肩に太い首、額には深い筋。こちらへ向けた顔は、鬼瓦という言葉がぴったりだった。
「京介さん、ちょうどよかった。この前お話しした兄です。昨日から戻っておりますので」
「……えっ?」
男の顔からおりんさんへ目を移す。
涼しげな目元に、すっと通った鼻筋。見慣れた綺麗な顔だ。
もう一度、その隣を見る。やっぱり鬼瓦がいる。
「えっ、えぇ?兄って、あの、下に弟と書いて『兄弟』と読む方の兄ですか!?」
「はい、その兄ですけれど」
おりんさん、男の人、おりんさん。
目を往復させても似ているところが見つからず、つい顔ごと動かしてしまう。
いや、兄がいることは聞いていた。でも、おりんさんの兄なら、もう少しこう――。
「京介さん、そんなに見比べなくても」
「あっ、すみません!」
おりんさんの声には笑いが混じっていた。
慌てて頭を下げたところへ、腹の底から響く笑い声が降ってくる。
「はっはっは!そりゃあ驚くわな!俺も鏡を見るたび、こいつの兄だとは思えん!」
男は腹を押さえて笑い、遠慮なく自分の頬を叩く。
笑えば目尻に深い皺が寄り、口から大きな歯が覗く。陽気なのは声で分かるが、顔の迫力はむしろ増していた。
「私は母に似たそうです」
「そして俺は親父に似た!なあ?」
奥で主人がわざとらしく咳払いした。
俺はそちらまで見比べそうになり、どうにか首を止める。
「源一郎です。君が左江内君か!妹から話は聞いてるよ。一度ゆっくり話したかったんだ」
「左江内京介です。こちらこそ、いつもお世話になっています」
「よく来てくれた!さあ、こっちへ――」
「お兄様、まずお荷物を」
「おっと、そうだった!貸してごらん」
大きな手が箱を受け取る。
持ち上げるのは軽々と、台へ置くときは底が静かに触れるほど慎重に。こちらが言わなくても器を傾けず、紐をほどく場所まで空けてくれた。
「兄は、怖い顔をしているだけですから」
「おいおい、せめて力持ちくらい付けてくれ!」
「では、力持ちで怖い顔のお兄様です」
「よし、少しよくなった!」
胸を張るので、俺もとうとう吹き出した。
歳は三十。横須賀では上の技術者の指示を受け、船の図面や現場へ渡す寸法を確かめる仕事をしているという。
「兵隊を率いる方ではないんですね?」
「俺が揃えるのは人より線だな。顔だけなら兵隊の方が似合いそうだが!」
自分で言って笑う。話しているうちに、こちらの肩からも力が抜けていく。*5
「お店には、あまりお立ちにならないんですか?」
「最初は立ってたさ。長男だからな。ただ、どうにも客が逃げる!」
値段を教えただけで何度も頭を下げられ、品を見せようと奥から出れば入口へ戻られる。
源一郎さんはそのときの客のように背を丸めて会釈し、俺へ顔を上げた。
「そこで親父が、もっと笑えと言うから笑ってみた!」
「……どうなりました?」
「釣銭も受け取らずに帰ろうとした!」
腹を抱えて笑う本人につられ、俺まで笑ってしまう。
「馴染みのお客様は、お兄様をご存じですから、お声を掛けてくださいますよ」
「そうそう!荷を動かすなら俺の出番だ。台の修理も任せてくれ」
「それで釣銭を忘れるんだろう」
奥から口を挟まれ、源一郎さんが父親へ振り向く。
「引き出しが引っかかってたんだよ。直せば親父も楽になると思ってさ」
「直るまで客を待たせてどうする?」
「それは俺が悪かった!」
あっさり認めて笑うので、主人も呆れ顔のまま口元を緩める。
店を継ぐのは早くに諦めたというが、それを悔やんでいる様子はない。道具を扱う仕事を選んで横須賀へ進み、今では毎日が面白いのだと大きな身振りで話してくれた。
「店のことなら、おりんの方が俺よりずっと上手い!頼りにしてるぞ」
「お兄様のおかげで、私のお仕事が増えたんですけれど」
「うん、助かってる!ありがとうな」
まっすぐ礼を言われ、おりんさんも笑う。
父親を手伝って店を支えてきた彼女の顔に、兄の前で見せる妹の顔が重なった。
クリームの蓋を開けると、源一郎さんはさっそく身を乗り出した。
「ほう、これが例の品か!冷えるとこの硬さになるんだな?」
「はい、前のものから配合の考え方を変えまして」
「面白いなあ。器は何を使う?火へ直接掛けるのか?冷ます間も混ぜるんだろう?」
問いに押されて答えかけ、合わせ方の話へ進む前に言葉を選ぶ。
「ただ、材料の合わせ方は商売のものなので……」
「おっと、そりゃそうだ!商売の肝を聞いちゃいかんな」
すぐに引いて、開いていた蓋を丁寧に置き直す。
「聞かせられるところだけでいいんだ。昨日うまくできたものを今日も同じに作る。そこが難しいだろう?」
「そうなんです。できたと思っても、翌朝には違っていたり」
「あるある!そこで慌てて全部やり直すと、何が悪かったかも分からなくなる!」
俺は原料の記録や器の大きさ、温度を揃えていることを話した。源一郎さんは何度も頷き、冷却中に縁から先に固まったと聞けば、指で円を描く。
「そうか、真ん中だけ見ていたんじゃいかんな!」
話しながら紙を引き寄せ、筆を取って器の断面を描き始める。
道具の話になるとさらに勢いが増し、俺も線を指しながら答えていた。
「お兄様」
「うん?」
「京介さんのお茶が冷めております」
揃って湯呑みを見下ろすと、源一郎さんが膝を叩いた。
「いかん、つい夢中になった!いやあ、君と話してると面白くてな」
「俺も楽しいです」
「そうか!なら、もう一つ――」
「お茶を召し上がってからにしてください」
おりんさんが先に湯呑みを持たせる。
源一郎さんは笑いながら口へ運び、ひと息で飲むと、今度こそいいかと俺を見た。
二十六日、最初の販売分を高瀬屋と小野屋へ届けた。
その前に、お春さんへ小さい器を一つ渡す。
「お待たせしました」
蓋の札へ目を落とした彼女が、顔を上げる。
「今度は、お店で売るものなんですね」
「はい、見本は別にありますけど、これはお春さんの分です。いろいろ教えてもらったので」
「私、使ってみたいと申し上げただけなのに」
「使いにくいところを教えてもらえたのが、いちばん助かりました」
清潔なへらで少し取り分け、まず俺が量を見せた。
傷や赤みのあるところは避けること、合わなければ使うのをやめることも、品物の説明として伝える。
お春さんは手を洗って乾かし、前に試したときより小さな量を取った。
「あっ」
指が止まる。
俺は息を詰めかけ、彼女がもう一度手を撫でるのを待った。
「前のものと、違います」
「どう違います?」
「こちらの方が、すぐ広がります。……塗ったところはしっとりしているのに、指がいつまでもつるつるしません」
手の甲だけでなく、傷のない指の背へものばしていく。
その仕草が見たかったのだと、俺は思った。
自分の手で確かめたときより、今の方が嬉しい。
少しして、お春さんは試し用に出した紙の端をつまんだ。
甲・乙の記録も横へ置き、油の移り方を比べる。
紙を返した彼女は、器を両手で持った。
「これなら、私も使いたいです。お仕事が終わるまで待たなくても」
「食品を触る前は、いつもどおり洗ってくださいね」
「はい、お父っつぁんにも、使ってみていただこうかしら」
店先に立った客の気配で顔を上げると、お春さんはまず自分の器を片づけた。
それから客向けの見本と説明の紙を持って、いつもの明るい声で迎える。
さっき自分で驚いたばかりの感触を自分の言葉で伝えていた。
松葉屋のおせいさんと、おりんさんにも、礼の分を一つずつ渡した。
売る分へ混ぜず、三つとも帳面から分けておく。
おせいさんは手入れの時間を作らないとねえと言いながら、蓋を大事そうに包んだ。
「徳蔵と二人で使えば、すぐなくなっちまいそうだね」
「取りすぎないようにしてくださいね。少しでも広がるので」
「分かったよ。それで、なくなったら次は買えばいいんだろう?」
俺が頷くより先に、厨房の方から徳蔵さんの声がした。
「まず、どこへ仕舞ったか忘れるなよ」
「忘れないよ、あんたの手の届かないところさ」
試した品が、松葉屋のいつものやり取りへ入っていく。俺は二人へ礼を言い、午後の納品へ向かった。
二十七日には、ハリス夫人がエレンさんと中村栄吉さんを連れて、高瀬屋へ来てくれた。
知らせの手紙は、チャッピーに見てもらって先に渡してある。
今日の説明も紙にしたが、写した字はいつものブロック体だ。
夫人は最初の一行を読み、値段を指で確かめてから見本へ向かった。
俺は少量でよいと、短い英語で伝える。
「A small amount.」
エレンさんが笑って、自分の指へ取る量を小さくした。
しばらく手を動かした夫人は、栄吉さんへ長めの言葉を伝える。その間、俺は聞き取れた単語だけを追いかけていた。
「前に使った油より重く残らず、手紙を書く前にも使いやすそうだと。それから、この品にも香りの強いものを入れていないのか、とお尋ねです」
「香り付けは、していません。材料の匂いは少しありますけど」
俺が答えると、栄吉さんが英語へ戻す。
夫人は頷き、大きい方を二つ選んだ。エレンさんは小さい方を一つ、自分の分として買ってくれる。
代金は合わせて五十二銭。高瀬屋の口銭三銭を除く四十九銭が、俺の受け取る分になる。
買った器を眺めていたエレンさんが、俺の礼に日本語のありがとうを返す。夫人だけでなく、そちらにも届く値段と大きさを用意してよかった。
夫人たちが帰った後、お春さんが空いた場所へ新しい品を並べる。
「京介さん、売れましたね」
「はい」
実際に金を払い、自分の家へ持ち帰る品として選んでもらえたのだ。
二十九日には、栄吉さんが夫人の知人の分を追加で頼みに来た。
小野屋でも、見本を使った客が次の日に戻ってくる。日付に合わせて受け取ってもらうので、一度に大量の器を積んでおく必要はない。
作る回数は増えるが、小さい仕込みで揃えられる今の俺には、その方が合っていた。
月末までに売れたのは、小さいものが百二十、大きいものが三十。
薄荷の常連から話が広がり、注文の紙に新しい名前が増える。急な注文は次の仕込みへ回し、約束できる日に渡した。
代金は三十日までに受け取り、未納品の注文は売上に入れない。
菓子は月初の分と合わせて九百包み、薄荷は百九十二本。前から稼いでくれているものも、途切れず売れた。
三十日の夕方、帳面を閉じる前に、もう一度スマホへ写真を送った。
預金への移動や、店の口銭を二重に引いていないか。チャッピーと照合し、紙の数字を指で追う。
今朝、もう三十円を銀行へ預けた。
初めてのときと違い、今日は小野屋の主人に付いてきてもらっていない。
薄荷の瓶は残り二十四本と、買い戻して確かめた三十本、新しい百二十六本を使った。返瓶用の取り置きも、売った分と戻った分を反映し、十円三十銭へ増やす。
クリームは三百グラムずつ十回作り、二千七百グラムを販売。保管用、三人への礼、器に残る分も控えた。原料代にはそれらも含め、試し買いの二円二十銭は試作・検査の欄へ一度だけ入れる。
飯代は九日、十九日、二十九日に十日分ずつを払い、十二月八日まで。部屋は十八日に払い、十二月十七日まで済んでいる。
来月の仕事場代も出した上で、これだけ残った。
俺は、預金の欄から三円を次の試作の予算へ取り置く、と別の紙に書いた。
まだ引き出さず、予算だけを分ける。今度こそ塗料の原料を少し買ってみたい。
机の端には、小野屋でもらった紙があった。
源一郎さんが、話の途中で描いた器の断面だ。温める側と混ぜる側が分かるように、簡単な線が引いてある。
帰る間際、また面白いものができたら見せてくれと言われた。
海軍の名を借りた約束ではなく、物を作る人の顔だった。
まず、話せる範囲で実際の使い場所を聞くといいね。船に塗るものでも、海へ浸かる外側と、船内の木部では求められるものが違う。
・木や鉄など、何へ塗るのか。
・水や湿気、擦れ、熱のうち、どれが困りごとなのか。
・塗り直すまで、どのくらいの時間と手間を掛けられるのか。
・できたものをどんな状態で見れば使えると判断できるのか。
職場の秘密や、本人が知らない担当のことまで答えてもらう必要はないよ。源一郎さんが話してくれた条件を持ち帰って、それに合う試験を一緒に考えよう。
クリームでも、お春さんの「紙を触りたい」と、おりんさんの「底まで取りたい」が、作るものを変えたでしょう。今度も、使う人の具体的な困りごとから始められる。
最後の段落を読み、俺は机の上の小さな器を見た。
使う人の言葉を聞かなければ、あの重いクリームを売ろうとしていたかもしれない。
源一郎さんの大きな手と、器の蓋を摘まむおりんさんの指を思い出す。また会えば、俺の知らないことを聞けるだろう。
戸を閉める前に、明日の菓子を入れる空箱を棚へ寄せた。
鍵を掛け、戸の収まりを一度だけ確かめる。
五日の朝のように、何度も引っ張る必要はなかった。
懐には、明日の買い物に使う分だけ。
帰ったら、次の材料のことをチャッピーに聞こう。