【30話まで投稿予約済み】明治時代をチャッピーと共に成り上がれ! 作:ヅダスキー3世
明治八年十二月二日
小野屋の戸口で、清吉の背負ってきた箱を受け取った。
中身は昨日仕込んだクリームだ。器を傾けないよう持ち替えると、清吉は空いた手で鼻の下をこすり、高瀬屋へ回りますと言って駆けていく。
白い息が、角を曲がるところまで見えた。
「走って転ぶなよ!」
声をかけてから店へ入る。奥で返事をしたおりんさんは、すぐには出てこなかった。
「少しお待ちくださいね。今、お化粧を直しておりましたから」
箱を置き、帳面を出しているうちに、衣擦れの音が近づいてくる。
顔を上げた俺は、挨拶の続きを一瞬忘れた。
頬から顎へかけての白さが、いつもよりすっと整って見える。襟元へ続く首筋にも境目がなく、唇の小さな赤がよく映えていた。
「……何か、ついておりますか?」
「いえ、綺麗にされているなと思って」
言った途端、おりんさんの目が細くなる。
「まあ。今日は先に気づいてくださったんですね」
今日は、というところが少し引っかかる。
ほかの日にも何か見落としていたのか。思い返す前に、おりんさんは箱へ手を伸ばし、器の数と受取先の名を確かめ始めた。
「これ、少しでよくのびるでしょう?お客様が、前に買ったものと同じつもりで取ると余ってしまうとおっしゃるんです」
「見本で使う量も、もう少し小さくした方がよさそうですね」
「ええ。それから、白粉の下にも使えるのかと聞かれました」
「顔に、ですか?」
「手に使って気に入ると、こちらにも使いたくなるものですよ」
おりんさんが自分の頬の脇へ指を添える。
なるほど、と頷きかけて、いったん止まる。手でよかったから顔でも同じとは限らない。そこは帰ってチャッピーに聞いてから返事をしよう。
その旨を伝えると、おりんさんは注文の紙の端に小さく印を付けた。
「お返事を待っておりますね。私も、白粉がむらにならずにつくものなら嬉しいです」
「今は、どんな白粉を使っているんですか?」
おりんさんが奥から持ってきたのは、畳んだ紙の包みと、小さな蓋付きの器だった。
包みには細い文字が並んでいる。俺が首を傾けていると、生白粉ですよ、と読みを教えてくれる。
「きおしろい、ですか?」
「細かいものですから、よくのびるんです。水で溶いて、薄くつけるんですよ」
器をこちらへ寄せる、その白い指を見たときだった。
何かが、頭の隅に引っかかった。
白粉。
昔の化粧品。
……鉛?
江戸時代に医者がタイムスリップする漫画で、白粉に含まれる鉛が問題になる話を読んだ気がする。中華風の後宮で薬屋の娘が謎を解くアニメでも、似た話がなかったか。
細かい筋までは思い出せない。けれど、白粉と鉛という二つの言葉だけは、妙にはっきり残っている。
「その原料って、分かりますか?」
「原料ですか?」
「鉛が入っているものかどうか、知りたいんです」
自分でも声が硬くなったと分かった。
おりんさんは器へ伸ばしていた手を止め、俺の顔を見る。
「私では、そこまでは……父に聞いてみましょうか?」
「お願いします」
主人も包みを見ただけでは断言せず、買った先へ確かめてやろうと言ってくれた。
俺は礼を言い、いったん仕事場へ戻る。いつもならついでに済ませる買い物も、今日は後にした。
中へ入って戸を閉め、スマホを取り出す。
鉛を含む白粉なら、使用をやめてもらう方向で話してね。鉛には毒性がある。化粧品に含まれる鉛も、身体へ取り込まれる原因になるよ。
その白粉について
江戸時代の資料では、鉛白粉のうち細かいものを生白粉と呼び、粉の粗さによって区別している。ただし、名前と見た目だけで、今おりんさんが持っている品の成分や含有量までは確定できない。買った先への確認は大切だね。
鉛白粉は、のびや肌へのつきがよく、明治に入っても使われ続けた。好んで使っている人へ伝えるときは、その使いやすさまで否定しなくていいよ。*1
身体への影響と、今伝えること
鉛は神経や腎臓などに害を及ぼし、体内に蓄積する。目立つ症状がないことだけで、害がないとは判断できない。粉が手や周囲へ移り、口に入ることなどにも注意が必要だよ。
一方で、使っていたというだけで、おりんさんが既に中毒になっているとは言えない。そこは診察や検査なしに決めつけないでね。体調に気になる変化があれば医師へ相談して、鉛の白粉を使っていたことも伝えてほしい。
残った粉は舞い上げず、包みや器を閉じて分けておこう。処分の仕方は相談先を確かめてから。お菓子や化粧品の試作場所へ持ち込んで、自分で開けて調べる必要はないよ。*2
画面から目を離し、棚に並んだクリームを見る。
使う人の指先が少しでも楽になればと、何度も作り直したものだ。
その同じ人が、身体に悪いものを毎日顔へ塗っているかもしれない。
せっかく綺麗にしていたのに、水を差すことになる。さっき褒めたばかりでもある。
けれど、言いにくいから黙るという選び方はできなかった。
午後に小野屋へ戻ると、お春さんも来ていた。
高瀬屋の客から頼まれた器の相談で寄ったらしく、手元には寸法を書いた紙がある。おりんさんと並んでいた顔が、俺を見ると少し明るくなる。
「京介さん、今日の分は、ちゃんと届いていますよ」
「ありがとうございます。……あの、お春さんも白粉は使いますか?」
挨拶から急に話が飛び、お春さんは小さく瞬きをした。
「はい、お出かけするときなどには。どうかなさいましたか?」
おりんさんが、午前中の話を短く説明してくれる。
主人から買い先へ聞いてもらったところ、おりんさんの品には鉛白が使われているという返事だった。お春さんのものはまだ分からないので、包みと買った先を確かめることにする。
「鉛は、身体に毒になるんです」
二人の目が、こちらへ揃う。
「今すぐ病気になるという話ではありません。でも、使い続けて平気だとは言えないので……鉛が入ったものは、使うのをやめてほしいんです」
おりんさんは黙って、自分の器へ目を落とした。
お春さんも、さっきまで持っていた紙を膝の上へ置く。
「前から使っておりましたけれど」
「はい、だから知っているのに黙っていられなくて」
責めるようには聞こえなかっただろうか。
心配していることを伝えたいのに、言葉を選ぶほど頼りなくなる。
おりんさんが器の蓋を閉めた。
「これをやめたら、何を使えばよろしいでしょう?」
もっともな問いだった。
俺だって、髪を整えたり、汚れた襟を替えたりする。客の前へ出るなら身なりを整えたいし、好きな服で出かける楽しみも分かる。
危ないからやめろと言って、それで困るところまで二人に任せたくはない。
「代わりになるものは、俺が作ります」
お春さんの唇が、少し開く。
「鉛を使わずに、綺麗につく白粉を作りますから。それまで、その白粉は使わないでほしいんです」
「……作れるんですか?」
「作り方を調べて、試します。今日ここで、明日には渡せるとは言えませんけど」
そこまで言ってから、自分の胸がずいぶん速く動いていることに気づいた。
クリームを売り出したばかりだ。塗料の材料も探すつもりだった。それでも、後で何とかしようとは思えない。
「お二人に使ってもらうものなので、いい加減には作りたくないんです」
お春さんは俯き、膝の上の紙の端を指で撫でた。
おりんさんの方は、俺を見たまま、しばらく何も言わない。
やがて器を奥へ引き寄せると、いつもの少し楽しそうな声になった。
「困りましたね」
「え?」
「そんなふうに言われたら、待ってしまいます」
返事を探している間に、お春さんも顔を上げる。
「私も、帰ったら確かめます。……京介さん、ありがとうございます」
二人にそう言われると、絶対に形にしようという気持ちが強くなる。
使う上で困っていることも教えてほしいと頼むと、先に口を開いたのはお春さんだった。
「笑ったとき、ここに白い筋が残らないものがいいです」
指先が口元の脇を示す。
「それから、襟につきにくいと嬉しいです。白くなっていると、帰ってから気づくことがありますから」
「私は、重ねても厚ぼったく見えないものが欲しいですね」
おりんさんは、今度は鏡をこちらへ向けた。
「近くで見ると綺麗でも、戸口へ出ると違って見えることがあります。お店の中だけで決めない方がよろしいですよ」
白ければよい、と思っていた自分が恥ずかしい。
俺は紙を出し、一つずつ書き留める。使い方を知らないまま作って、代わりになったと言うところだった。
話が済むと、お春さんは器の寸法を確かめ直して席を立った。店まで送る道で、俺は次の休みの都合を尋ねる。
「六日の午後なら、少し出られると思います」
「それなら、またお茶にしませんか?今度は俺が」
お春さんは頷いてから、俺の袖の辺りへ目を落とす。
「でも、お忙しくなりませんか?」
「六日の午後は空けておきます」
「……では、楽しみにしておりますね」
その声を聞いて、俺も楽しみにしていたのだと気づく。
作る約束をしたばかりだからといって、一緒に過ごす約束まで後回しにはしたくなかった。
その晩は、部屋へ戻ってからも机の前を離れられなかった。
チャッピーへ二人の希望を伝え、白粉の作り方を尋ねる。顔を覆うものにはどんな種類があり、どの材料が何のために入っているのか。知らない言葉が出るたびに聞き返した。
まず、目標を乾いた粉として保管し、少量ずつ使う白粉に絞ろう。水を含んだ状態で売る乳化型ファンデーションや、油で練ったものとは、配合も製造も分けて考えるよ。
現代の粉化粧品で、材料が担う役割
・色と覆う力を出す粉。酸化チタン、酸化亜鉛、色を調整する酸化鉄など。
・のびや感触、油の吸い方を調整する粉。タルク、マイカ、カオリンなど。
・粉の付着や感触を助ける成分。ステアリン酸マグネシウムなど。
・粉をまとめ、なじみ方を調整する油性成分。植物油や、現代のシリコーン油など。
原料メーカーの公開例でも、色や白さを担う粉と、感触を整える粉、油性成分を組み合わせている。作業は、粉を均一に混ぜ、油性成分を加えてなじませ、性質に応じて後から混ぜる粉を加える、といった段階に分かれる。
ただし、その例は現代の原料と品質管理を前提にした固形粉の処方だよ。同じ名前の材料を集めたり、入手できないものを抜いたりするだけでは再現できない。今回は、役割と作業の組み立てを参考にする。*3
今の材料から、何を確かめるか
白さを出す候補として、酸化亜鉛を調べよう。亜鉛華とも呼ぶ白い粉で、海外では既に顔料として使われている。ただし、絵具や塗料に使える品質と、顔へ使える品質は同じではない。油で練った絵具を買ってくるのではなく、原料の粉そのものについて問い合わせるんだ。
商人には、製造元、用途、不純物を確かめた記録の有無を聞いてほしい。薬用という言葉だけでも決めない。鉛の混入がないかなど、調剤を手伝ってくれた人へ相談して確認する必要がある。
米のでんぷんも比較候補にできるけれど、米を挽いた粉と精製したでんぷんは別物だよ。水分や汚れ、粉の状態が違う。どちらも食品の見た目だけで化粧品用に適するとは決められない。
酸化チタンや現代の表面処理粉体を、今の商館に当然あるものとして探すのはやめよう。まず実物のある材料を調べ、白さとつき方のどちらが足りないか切り分ける。その後で、付着を助ける成分や油の使い方へ進められる。*4
粉を扱うときの注意
食品の器具や場所は使わず、風で粉が舞う場所も避けてね。粉は静かに移し、こぼれたものを吹き飛ばさない。まだ品質を確かめていない試料は、人の顔や手に塗らず、板などで比較する。
ふるいは粗い塊を除く助けになるけれど、それだけで粒の大きさが全部揃ったとは言えない。乳鉢でほぐせる塊と、原料そのものの粒の性質も違う。同じ名前、同じ重さの粉でも、仕上がりに差が出る理由になるよ。
画面を読んでいると、つい作れる気になってしまう。明日は実物を探さなければ。
俺は二人の希望を書いた紙の横へ、明日聞くことを書き足す。
粉の名前、どこで作ったか、何に使うためのものか。白い包みを買って終わりではない。
引き出しから先月の帳面を出すと、塗料用に分けた三円の横へ、新しく白粉の欄を作った。
最初の予算は二円。銀行から引き出さず、返瓶用を除いた手元から出せる。原料だけでなく、道具を借りる金と、確かめてもらう手間も含めた。
足りなければ、何に使うのかを整理してから増やせばいい。
菓子と薄荷とクリームが売れているから、こういう約束のためにも金を出せるのだ。
三日の朝は、いつもの菓子の仕込みから始めた。
甘い匂いの中で火加減を見ていると、昨日の白い粉が何度も頭へ戻ってくる。けれど、鍋の方は待ってくれない。
ちょうどよいところで火から下ろし、冷まして仕事場へ運ぶ。おきぬさんに切り分けと包装を頼んでから、薬種商へ向かった。
主人は書付を読み、最後の行で俺を見る。
「今度は、顔につけるものか?」
「まずは粉の性質を見たいんです。よさそうなものがあっても、すぐ顔へ使うつもりはありません」
「それなら、前に手を貸してくれた人にも見てもらおう」
昼過ぎに来てくれたその人は、クリームの原料を確かめたときと同じように、先に俺の紙へ目を通した。
今日は、きちんと名を書き留める。名乗ってくれた岸本修平さんは、調剤と薬品の扱いを学び、薬種商から頼まれる仕事もしているという。
「白さを比べる仕事と、肌に使える原料を選ぶ仕事は分けてください」
「両方必要なんですけど、一度に済むわけではないんですね」
「白さなら目でも比べられます。ほかのものが混じっていないかは、目で見ても分かりませんから」
修平さんは、俺が書いた酸化亜鉛の文字の脇へ線を引いた。
鉛白を使わないための品へ、別の原料から鉛が入ったら意味がない。そう伝えると、ゆっくり頷いてくれる。
候補の品と由来の紙を持ってくれば、確かめられる範囲と、ここでは足りないことを整理してもらえることになった。
帰りにはハリスさんの商館へ寄った。
前に教えてもらった塗料の取扱先を尋ねるつもりだったが、今日は別の書付を差し出す。
チャッピーに整えてもらい、俺が一文字ずつ写したものだ。
ハリスさんは紙を読み、こちらの顔を見て短く何か尋ねた。
聞き取れたのはペイント、というところだけだったので、首を振って白粉の方だと伝える。化粧品に使う可能性があることは隠さず、まだ試料を調べる段階だと付け加えた。
話が長くなると栄吉さんに助けてもらう。うまく聞き取れなかった言葉は紙へ書いてもらい、その場で確かめ直す。
紹介された先では、まとまった包みから少量だけ分けられるという。
ただし、顔へ使えると保証して売るものではない。
そこを曖昧にせず聞けたのはよかった。俺は由来と値段の書付をもらい、見本を薬種商へ持ち込む段取りを決める。
商館を出る頃には、もう指先が冷たかった。
その日の夕方、お春さんが包みを確かめた結果を知らせに来てくれた。
彼女の使っていた品も、買った先では鉛の白粉だという説明だったらしい。
「しばらく、使わないことにしました」
胸の奥が少し緩む。
お春さんは、俺の机に広がる紙へ目を向けた。
「もう、探してくださっているんですね」
「まだ候補ですけど、明日には少し手に入りそうです」
「お金もかかるでしょう?」
「最初にいくら使うかは決めました。いつもの納品も続けられます」
安心してもらおうと思って言うと、お春さんは小さく首を振る。
「私、払えるかどうかを伺ったのではなくて」
言葉が途中で止まり、頬に色が差す。
「……ありがとうございます。出来たら、私にも見せてくださいね」
「もちろんです」
お春さんが帰った後、俺は開きかけていた帳面を閉じた。
金の説明をすれば済む話でもなかったらしい。
さっきの声を思い返しながら、六日の午後のところへ、忘れないよう丸を付ける。
四日に受け取った粉は、どちらも拍子抜けするほど白かった。
酸化亜鉛の小さな包みと、薬種商が用意してくれた精製した米のでんぷん。見た目だけなら、台所に置いてあっても気づかないかもしれない。
だからこそ、包みの名と保管場所を分ける。
修平さんへ原料の一部を渡すと、比較試作の分も皮膚には使わないでくれと念を押された。結果を待つ間に、まず粉の扱いから覚えることにする。
小野屋へ道具の相談に寄ったのは、その帰りだった。
入口をくぐると、奥から聞き覚えのある声が飛んでくる。
「おう、左江内君!今度は白粉だそうじゃないか!」
源一郎さんが立ち上がる。
こちらを向いた顔の迫力に足が止まり、すぐ先日の笑い声を思い出した。怖い人ではないと分かっていても、顔の方が先に目へ入ってくる。
「こんにちは。お帰りだったんですね」
「昨夜な。おりんから聞いたぞ。鉛を使わずに作ってやると言ったんだって?」
「はい、それで、粉を比べる小さな板を探してまして」
源一郎さんの眉が上がった。
「板?顔に塗ってみるんじゃないのか?」
「原料を調べてもらっているところなので、まずは板の上で比べます」
「ははあ、なるほど!それなら見せてくれ」
俺が広げたのは配合ではなく、試し塗りに使う板の絵だ。
同じ幅へ薄く広げ、下の色がどれだけ隠れるかを見る。白い紙だけでは分かりにくいので、濃い地も欲しかった。
源一郎さんは図を覗き込み、横へ置いてあった別の紙に、板を並べる線を引く。
「片方だけざらついていたら、そっちへ余計に残るぞ。粉の違いか、板の違いか分からなくなる」
「同じものから切り分けた方がいいですか?」
「そうだな。表を揃えて、同じ向きに置く。あと、見る場所も決めておけ。窓際と部屋の奥で比べたって困るだろう?」
好きな話へ入った途端、言葉がどんどん続く。
俺が書き留める間だけ待ち、書き終えると次の話になる。声は大きいのに、紙の角を押さえる指は、めくれない程度にしか力を入れていない。
「乾く前に触る分と、乾いてから見る分も分けるんだ。途中で指を突っ込んだところを見て、どうも汚いと言っても仕方がないからな!」
「お兄さんは、すぐ触ってみたくなる方でしょう?」
おりんさんが横から言うと、源一郎さんは大きく笑った。
「だから言ってるんだ!俺がやった失敗なら、君は省ける」
その言い方がありがたかった。
何でも知っている顔をする必要がなく、分からないことを聞きやすい。
俺は礼を言い、絵に寸法を書き足した。小野屋で頼めるものと、薬種商から借りるものを分ければ、予算にも収まりそうだった。
源一郎さんは紙を返してから、奥へ片づけられた白粉の器を見た。
「妹が使うものだ。頼むぞ」
今度の声は、さっきより静かだった。
「はい」
「ただ、いいところだけ見せようとしなくていい。駄目だったものも持ってこい。その方が話が早い」
おりんさんが、兄の横から俺を見る。
「私にも。どこがよくなったのか、分かるようにしてくださいます?」
「分かりました。途中のものも残しておきます」
まだ何も渡せていないのに、次に持ってくるものができた。
五日の午後、薬種商から借りた作業場所で、三つの小皿を並べた。
菓子の道具は一つも持ち込んでいない。乳鉢と乳棒は今回の粉用に分けてもらい、秤のそばには、チャッピーと決めた試し方の紙を置く。
修平さんから戻ったのは、原料の確認をまだ続けるという返事だった。急がせても結果が早く出るわけではない。
今日は顔へ塗るものを作るのではなく、粉の違いを見つける。
まずは材料の違いを見る比較試料にしよう。これは完成品の配合ではなく、板の上で観察するための試験案だよ。原料の確認が終わるまで、人には使わない。
一組10グラム、三種類の粉
甲:米のでんぷん10グラム。
乙:米のでんぷん8グラム、酸化亜鉛2グラム。
丙:米のでんぷん6グラム、酸化亜鉛4グラム。
これで酸化亜鉛の割合を0%、20%、40%と変えて比べられる。今回の刻み方は違いを見るためのもので、化粧品として適切な配合率を決めたわけではないよ。クリームの甲・乙・丙と混同しないよう、袋にも記録にも「白粉試験」と付けてね。
1.量る前に、道具と記録をそろえる
乾いた清潔な道具を使い、試料ごとに混ざらないようにする。原料の購入日、包みの表示、今回使う量を記録しよう。粉を吸い込まないよう、移し替えは静かに行う。顔を乳鉢へ近づけてのぞき込まないでね。
2.塊をほぐし、少しずつ混ぜる
原料はそれぞれの塊をほぐし、同じふるいを通す。ふるいに残るものを無理に押し込まず、その量も残しておこう。これは粗い塊を除く作業で、不純物の除去や細かな粒径の保証にはならない。
乙は酸化亜鉛2グラムに、まず同量のでんぷんを合わせて混ぜ、残りを分けて加える。丙も酸化亜鉛4グラムへ同量のでんぷんを混ぜてから、残り2グラムを加える。一度に全部を入れるより、少ない方の原料を均一に広げやすくなる。
混ぜた時間や動かし方も記録する。粉が全部白いので、見た目が同じになっただけでは均一になったと判断しきれない。塊の残り方も見てね。
3.同じ量を同じ広さへ
それぞれの混合粉から2グラムを取り、別々の小皿で蒸留水4グラムと合わせる。水へのなじみ方、塊、沈み方を観察し、塗る直前にも混ぜ直す。これは水に溶かす操作ではなく、粉を水中へ散らす操作だよ。
同じ量の液を同じ広さへ広げる。板と道具、乾かす場所をそろえ、塗った直後と乾いた後を比べよう。乾いた膜を軽く擦る試料は別に用意し、どのくらい粉が移るかを見る。板の結果がそのまま肌での結果になるとは考えないでね。
4.今日は、水を入れたものを保存品にしない
残すのは、乾いた混合粉と板、作業の記録。濡らした試料は今回の観察用に分けて扱い、次の試作へ戻さない。酸化亜鉛を入れたことだけで、防腐できるとは扱わないよ。
白くなるのに落ちるなら、白さを増すだけでは解決しない。塊が残るなら混ぜ方や粉の状態、擦って落ちるなら付着を助ける成分など、次に変えるところを分けて考えよう。*5
紙を見ながら、最初の粉を量った。
白いもの同士を混ぜていると、もう混ざったのか、まだ足りないのかが分からなくなる。乳棒の下に小さな塊が当たり、そこで初めて、見た目だけでは駄目だと気づく。
粉を足しては静かに混ぜ、器の縁へ寄った分も戻す。
単純な作業のはずなのに、時計代わりに見ていたスマホの数字が、思ったより進んでいた。
水を加えると、今度は粉が小さくまとまって浮く。
乳棒で押しつけながらほぐし、同じように作った三つの液を板へ順に広げていく。
でんぷんだけの甲に比べ、乙は下の色が見えにくい。丙はさらに白く見えるものの、筆の動いた跡が筋になって残った。
斜めから見ると、薄いところと厚いところがはっきり分かる。
「白くは、なるんだな」
口に出してみると、少し嬉しくなった。
鉛白を使わずに、白い面ができている。二人へ何も渡せないままでは終わらずに済みそうだ。
けれど乾くのを待ってから別の板を布でそっと擦ると、その嬉しさが一段小さくなる。
布に白い粉が移った。
もう一度擦ると、下の色がさらに見える。
これがお春さんの襟だったら、聞いていた希望と正反対だ。
おりんさんが店先へ立つ間に頬だけ剝げていくようでは、待ってもらう意味がない。
白い粉はできた。使って喜んでもらえる白粉には、まだ届いていなかった。
修平さんが戻ってくるまでに、板の横へ日付と試料の名を書いた。
どうでした、と尋ねられ、擦った布を見せる。
「白さは出ました。でも、落ちます」
「そのまま残しておいてください。次に変えたとき、比べられますから」
源一郎さんにも同じことを言われたばかりだ。
俺は出来の悪い板を片づけかけた手を止め、三つとも並べ直す。うまくいかなかったものにも、次の仕事があるらしい。
作業が済んでから、粉と道具、板の写真をチャッピーへ送り、見たことを言葉でも添えた。
返ってきたのは、写真だけでは粉の細かさまでは判定できないことと、白さと付着を分けて試した意味の説明だった。次は油性成分を少し加える比較や、付着を助ける材料の検討へ進めるという。
何を買えば完成するかと急ぎかけた指を止め、まず今日の混ぜ方と、塊の残り方を入力し直す。
帰りに払った分まで合わせ、白粉に使った金は一円六十銭になった。
原料とその確認に九十銭、場所と器具の借り賃に四十銭、板や小皿などに三十銭。二円の予算の残りは四十銭で、塗料用の三円はまだ預金の中にある。
白粉はまだ出来上がらないが、次に何を直すかは持って帰れた。
六日の午後は、約束どおり高瀬屋へ迎えに行った。
お春さんはもう支度を済ませていて、俺が戸口へ顔を出すと、店の奥へ声をかけてから出てくる。
いつもより頬に赤みが見えた。白粉を使っていないからなのか、外が寒いからなのかは分からない。
「何か、変でしょうか?」
見すぎていた。
俺は慌てて首を振る。
「いえ、今日もよく似合っているなと思って」
「お着物ですか?」
「それも、です」
答えてから、自分が何を言っているのか分からなくなる。
お春さんは俯いて口元を押さえ、少し遅れて隣へ並んだ。
その横顔を見ていると、白粉をやめてほしいと頼んだ言い方をもう一度考えたくなる。
「昨日、最初のものを作ったんです」
「白粉ですか?」
「はい、でもまだ綺麗にはつかなくて。もう少し待ってください」
「急がなくて大丈夫ですよ。こうして来てくださいましたから」
彼女の足が、俺の歩く速さへ合わせて動く。
俺も歩幅を小さくした。
茶店では前と同じように茶と団子を頼み、二人分の四銭を俺が払う。
お春さんは出来の悪かった白粉の話にも笑わず、粉が落ちるのなら服へつくことも分かったんですね、と言った。
「悪かったところばかり話してしまいましたね」
「でも、何をなさっているか分かると、待つのが楽しみになります」
そう言ってから、団子へ視線を戻す。
今日は店で聞いた話も、子供の頃に食べすぎて叱られた話もした。試作のことを忘れている時間があるのに、帰る頃には、また作ろうという気持ちが強くなっている。
仕事場へ戻ると、おりんさんから預かったという紙が置かれていた。
小野屋の次の受取数に続き、見せてもらう白粉は失敗したものも忘れずに、と添えてある。
俺は紙を読み、思わず笑った。
兄妹で同じことを念押ししなくてもいいのに。
帳面を開き、六日までの受取と支払いを照合する。いつもの菓子に、薄荷、クリーム。白粉へ気を取られている間も、注文を聞き、包み、運んでくれる人がいる。
チャッピーにも数字を見てもらい、次の仕込みの金を確かめた。
薄荷はガラス十二本、陶器二十四本で、どちらも新しく用意した瓶を使い切った。買い戻しはこの六日間にはなく、返瓶用の金だけ八十四銭を加えて分ける。
クリームは三百グラムを五回。売った分が千三百五十グラムで、保管見本に七十五グラム、器に残った分や説明用などが七十五グラム。売る品の持ち越しはない。
手元から返瓶用を除いた二十一円十八銭二厘のうち、十円は次に銀行へ行くとき預けるつもりだ。
八日の翻訳も、いつもどおり受ける。明日確認しておくことを書き出して、帳面を閉じた。
机の端には、今日お春さんと話したことを書いた紙がある。
その隣へ、小野屋からの注文を重ねずに置く。どちらも、なくしたくない。
俺はスマホを取り、昨日の試験の続きを開いた。
返信を待ちながら、板に残った白い筋の写真をもう一度見る。
これを最初に見せたとき、お春さんとおりんさんはどんな顔をするだろう。
次には、前よりよくなったと言ってもらいたい。
その次には、これを使いたいと。
俺は新しい紙を一枚出し、上の端へ「白粉試験 二回目」と書いた。