【30話まで投稿予約済み】明治時代をチャッピーと共に成り上がれ! 作:ヅダスキー3世
明治九年の正月は、キャラメルの包み紙を数えているうちに半分近く過ぎた。
菓子を煮る日、薄荷を仕込む日、クリームを渡す日。そこへ白粉が加わり、仕事場の控えは去年より細かくなっている。
チャッピーと仕込みの日を並べ直し、八日にはいつもの翻訳も納めた。
そうして迎えた十三日の朝、小野屋の裏口で俺を待っていたのは、空になった膳を抱えるおりんさんだった。
「今日は残さなかったんです」
挨拶より先にそう言って、椀の中を見せてくれる。
麦の混じった飯も、豚肉と野菜の汁も残っていない。小皿には豆の皮が一つだけついていた。
「お母さんが、全部?」
「ええ、汁のお肉も。明日はもう少し大きく切ってもよいと言っていました」
去年、離れで初めて会ったときのお登勢さんは、食べられずに残した飯を申し訳なさそうに見ていた。
あの人が、明日の肉の大きさを注文している。
空の椀を覗き込んで、俺まで笑ってしまう。
「脚の方はどうですか?」
「まだ長く立つのはつらいそうですけれど、布団の中で脚を動かすのは前より楽だと。昨日は私の帯が曲がっていると言うものですから、そこまで気が回るようになったんですね、と返してしまいました」
「それは、怒られませんでした?」
「直してから言いなさい、と」
おりんさんが肩を揺らす。
いつもなら客の返事を待ってから続ける人が、母親の言葉を次々に聞かせてくれる。
食事を変え始めてから三週間余り。台所で飯を炊き分け、食べた分を書き、母親の好きな味を探してきたのは、この家の人たちだ。
「おりんさんたちが続けてきた甲斐がありましたね」
「京介さんが教えてくださらなかったら、まだ白いお粥ばかりだったと思います」
盆の縁を持つ指に力が入る。
俺が何か返すより先に、おりんさんは少しだけ頭を下げた。
「ありがとうございます。母が食べたいと言ってくれるのが、こんなに嬉しいとは思いませんでした」
うまい返事が見つからず、俺は頷いた。
離れからは、おりん、と呼ぶ声がする。今度は湯が欲しいらしい。
彼女が振り返ったので、俺も持ってきた品を店へ回すことにした。
受渡しを終えて仕事場へ戻ると、忘れないうちに経過をチャッピーへ伝える。
嬉しい話だからこそ、俺の方で勝手に「治った」にしてしまわないようにしたかった。
食べられる量と日常の動作が改善しているのは、嬉しい変化ですね。今の食事を続け、体調がよくなったからと白米の粥だけへ戻さないことが大切です。
控えには「どれだけ食べたか」「脚の重さやしびれ」「立つ・歩く際にどの程度助けが要るか」を残してください。家族が楽になった動作を具体的に書くと、変化が分かりやすくなります。
食欲が戻ることと、脚の力が十分戻ることは同じではありません。まだつらい動作を無理に繰り返させず、体調に合わせて少しずつ生活へ戻しましょう。息苦しさや動悸、急なむくみなどが出れば、その変化は見過ごさないでください。
この時代の医師が栄養不足の原因を解決できるとは限りませんが、呼吸や脈、むくみなどの診察は頼めます。原因に働きかける食事と、身体の状態を診る仕事は分けて考えてください。
まずは食事を続ける。それから、歩けるかどうかを試したくなっても急がせない。
次に寄ったときに伝えることを手帳へ書いた。
家族が知っている元気なお登勢さんが、少しずつ戻ってきているのだろう。*1
昼前、小野屋から使いが来た。
白粉を買いたい客が、作った人に会いたがっているという。
品に何かあったのかと尋ねると、使いの若い衆は首を横に振り、役者さんですよ、と教えてくれた。
「役者?」
慌てて手を洗い、前掛けを外して小野屋へ向かうと、店の奥からよく通る声が聞こえた。
「だから、あたしが見たいのは中の粉だと言ってるじゃないかさ。器の模様なら、もうさっき見たよ」
「お師匠さん、こちらは蓋の閉まりも違いますので」
「あんたは蓋屋にでもなるつもりかい?」
声に笑いが混じる。
おりんさんの前に座っていたのは、細い縞の着物を着た男の人だった。年は三十代半ばくらいだろうか。指の長い手で扇子を持ち、こちらへ顔を向ける。
目が合うと、先に口元が笑った。
傍らには風呂敷包みを抱えた若い男が控えている。
「こちらが、白粉を作っていらっしゃる左江内さんです」
「左江内京介と申します。お待たせしました」
「まあ、お若いこと。あたしはもっと、粉の中から生えてきたようなお爺さんを考えていたよ」
粉の中から生えるお爺さんとは、どんな人だ。
笑ってよいのか迷う俺へ、おりんさんが客の名を教えてくれた。
「花村菊之丞さんです。東京で女形をなさっています」
客が、傍らの若い男へ扇子を向ける。
「こちらは弟子の菊松。まだ粉を塗るより飯を食う方が上手だけれど、どうぞよろしく」
「お師匠さん!」
「違ったかい?」
菊松さんが返事に詰まり、おりんさんまで笑った。
俺もようやく肩の力が抜ける。
座ったまま袖を払う動きにも、何か形があるように見える。
「お使いになって、何か具合の悪いところがありましたか?」
「あったら、とっくに言っているよ。横浜のご贔屓がね、鉛を入れない白粉があるから使ってごらんと送ってくだすったんだ。今日はご挨拶のついでに、ここへ寄らせてもらったのさ」
菊之丞さんが差し出した器には、俺が書いた十二月二十九日の製造日の札がついている。
中の粉は、もう底が見えかけていた。
「鉛がないから薄い白かと思えば、そうでもない。粒が引っかからずにつくし、頬を動かしても嫌な筋になりにくい。落とした後の顔も、あたしには具合がよかった」
「ありがとうございます」
「ただね、小皿に取って、いつものつもりで水を加えたらうまくいかなくてさ」
胸がひやりとする。
菊之丞さんは俺の顔を見て、手をひらひら振る。
「怒っちゃいないよ。後から添え紙が出てきたんだ。菊松が器ばかり先に出すものだから」
「申し訳ありません」
「その顔はもう見たから、今日は紙を忘れないようにおし」
慣れた品のつもりで使えば、新しい品の説明が飛んでしまう。
添え紙だけでは足りないと、俺は器の蓋を見る。ここにも短く書けば、開けるときに目に入る。
おりんさんも同じ場所を指で示した。
「『水で溶かさず』と、蓋の札にも入れましょうか」
「お願いします。今ある分から」
「それなら、あたしにも読めそうだねぇ」
菊之丞さんが笑い、空きかけた器を畳へ置く。
「ちょいと、新しい方も見せておくれよ」
おりんさんが見本用の器を出すと、菊之丞さんは菊松さんに包みを開かせた。
小さな鏡、刷毛、布と、使い込んだ道具が出てくる。
菊之丞さんは手の甲へ少量の油をのばし、その上へ刷毛で粉を置いた。*2
同じ粉なのに、俺が試したときよりずっと薄く、端まで揃ってつく。
「顔につける前に、この辺りを比べていたのさ。油を多くすると寄るね。でも減らすと、今度は白さが足りなくなるところがある」
「薄く重ねる方がよさそうですね」
「そう、ただ重ねりゃよいってものでもない。笑って口元が割れたら、娘が急に婆さんになるだろう?」
菊之丞さんが口をすぼめ、次にふっと笑った。
顔の形は同じなのに、見える年齢が一瞬変わる。
俺が見入っている間にも、刷毛の先は手の甲を確かめている。
「舞台でもお使いになるんですか?」
「それを試したいから、作った人に会いに来たんじゃないかさ。顔を白くして座っているだけなら、ここで済むもの」
白さだけでは足りない。
声を出し、笑い、泣いて、汗もかく。手近な鏡でよくても、客席から顔が見えなければ困る。
「普段の白粉をお使いになるときのことも、教えていただけますか?」
「商売人に化粧を教えることになるとはねぇ」
嫌そうな顔ではない。
菊之丞さんは片袖を押さえ、今度は刷毛を俺に見える向きへ傾けた。
話の途中で、菊之丞さんは先に贔屓の家へ顔を出してくることになった。
帰りに六個買っていく。その間に使い方の書付を整えてほしいという。
おりんさんに受渡しを頼み、俺は仕事場へ戻ってスマホを出した。
まずは処方を変えず、下地と粉の使い方を揃えて比較しましょう。菊之丞さんの指摘は、舞台で使うための具体的な条件を知るよい手掛かりです。
1.下地は薄く、むらなく
使い慣れた下地の種類は変えず、塗る量を少なめにして均一になじませます。粉が寄る部分だけへ次々に粉を足すと、その場所の膜が厚くなります。下地のたまりをなくしてから粉を置く順にしてください。
2.粉は少量ずつ重ねる
清潔で乾いた道具へ少量取り、余分な粉を落としてから薄くつけます。一度で真っ白にしようとせず、足りない場所へ少しずつ足してください。目や鼻の近くで粉を舞わせないことも大切です。
3.動かした顔と、離れて見る顔を確かめる
口を動かし、笑い、表情を作った後の口元や目元を見ます。近くの鏡だけでなく、実際に使う明かりや距離でも見てもらいましょう。舞台で必要な仕上がりは、菊之丞さん自身の経験を頼りに決める部分です。
4.汗をかいた後は、こすらず確かめる
今の粉を防水化粧品として扱うことはできません。汗を吸わせる際の押さえ方、崩れやすい場所、直しやすさを確認してください。下地の量と粉の重ね方を一度に大きく変えず、よかった組合せを控えると次の使用でも再現しやすくなります。
水で練る品へ変えるには別の設計が要ります。今回は「水で溶かさない」「乾いた道具で少量ずつ」「使用後は蓋を閉めて湿気を避ける」を器の札と添え紙の両方に示しましょう。
なるほど、粉を変える前に、使い方の違いを確かめる。
俺は教わった内容から、客へ渡す短い書付と、自分が聞きたいことの控えを別々に作った。粉の配合や混ぜる順番を外へ渡す必要はない。
戻ってきた菊之丞さんへ書付を見せると、彼は読みながら何度か頷いた。
「汗を拭くなとは言わないんだね?」
「こすらずに押さえた後、どこが残って、どこが落ちたか教えていただけると助かります。俺では舞台の汗まで同じにできませんから」
「そりゃそうさ、ここでひと踊りしてもらっても困るよ」
菊松さんが笑い、すぐに口を閉じる。
菊之丞さんは気にせず、下地を拭き直してもう一度粉をつけた。
今度は俺が見ても分かるくらい、油が薄い。
「これなら、こっちの方がよさそうだ。菊松、覚えておきな」
「はい、油を減らして、それから……」
「あたしが塗りすぎそうになったら言うんだよ」
「申し上げてよろしいんですか?」
「教えたことをすぐ忘れる師匠だと思われる方が嫌じゃないか」
菊之丞さんは二つの手の甲を並べ、首を傾げた。
その横から菊松さんが身を乗り出し、ちょうど窓の光を遮る。
「ちょいと、邪魔すんじゃないよ!」
「す、すみません!」
「一緒に見るなら、こっちへおいで。暗くしちゃ白いも黒いも分からないよ」
声は鋭かったが、空いた場所を示す手は迷いがない。
菊松さんが座り直すと、菊之丞さんは自分の手をその前へ差し出した。叱った後も、見る場所と角度まで教えている。
「六つのうち二つは、この子が使うからね」
「お師匠さん、あたしの分まで?」
「あたしの顔だけ綺麗で、あんたが粉だらけで出てきたら困るじゃないかさ」
菊松さんが深く頭を下げる。
おりんさんは六個を一包みにせず、四個と二個に分けて紙を掛けた。それぞれに使い方を添え、最後に器の日付を二人へ見せる。
「お師匠さんの分はこちら、菊松さんはこちらで。お値段は一個十八銭ですので、合わせて一円八銭になります」
「これだけ買えば、少しは負けてくれるのかと思ったよ」
「次も同じ品をきちんとお渡ししたいので、お値段もいつもどおりでお願いいたします」
「嫌なお人だねぇ。そう言われたら、安くしろとは言えないじゃないか」
口ではそう言いながら、菊之丞さんはもう懐へ手を入れている。
俺なら嬉しさで値を下げていたかもしれない。おりんさんの声は柔らかなままだ。
「具合がよければ、東京でも欲しがる者がいるよ。次はどこへ言えばいい?」
「まずはこちらへお知らせください。数と受取の日を伺って、左江内さんと揃えます」
「話が早いねぇ。じゃあ、使ったら知らせるよ」
菊之丞さんが立つと、菊松さんは二つの包みを大切そうに持ち直した。
俺は戸口まで見送り、舞台で困ったことも聞かせてほしいと頼む。
「褒めるだけで済むと思ってるのかい?品物を見る目なら、あたしも少しは持っているからね」
「ぜひお願いします」
「その返事、後から取り消さないでおくれよ」
笑い声と一緒に、二人が通りへ出ていく。
六個分の代金から小野屋の口銭十二銭を引き、俺が受け取るのは九十六銭。
手渡された金をしまってからも、耳にはあの声が残っていた。
翌日の午後、お春さんと茶店へ入った。
今日は見本も注文の控えも持っていない。去年の暮れに、次は私が払いますと言われていた約束だ。
お春さんが二人分四銭を払い、向かいの席へ戻る。
「役者さんがいらしたんですって?」
「もう聞いたんですか?」
「清吉さんが。話し方まで真似しようとして、お父さんに仕事の続きだと言われていました」
想像できて、茶を吹きそうになる。
俺が菊之丞さんの話をすると、お春さんは団子の串を持ったまま目を丸くした。
「東京の舞台で使うかもしれないんですね」
「まだ試してもらうところですけど。化粧って、つける人が上手だと同じ粉でも違うんですね」
「そうですよ。私もおりんさんに教わったところは、前よりつけやすくなりました」
そう言ってから、お春さんが少しだけ顔を上げる。
頬は淡く赤い。どこまでが化粧なのか分からないが、綺麗だと思う。
ただ、目が合うと見続けるのが難しい。
「今日も、その……よく似合ってます」
「白粉が、ですか?」
「いや、全部」
言ってから、自分で困った。
全部とは何だ。着物か、顔か、髪まで含めるのか。
お春さんはしばらく俺を見て、それから串の先へ視線を落とす。
「それなら、よかったです」
茶碗へ手を伸ばす指が、いつもよりゆっくりに見えた。
俺も茶を飲む。熱い。
仕事の話ならいくらでもできるのに、こういうときに限って言葉が出ない。
「京介さん」
「はい?」
「役者さんの分が増えても、お店に来る方の分は残しておいてくださいね。いつものものがあると思って来てくださるので」
「そうですね。別に取り分けます」
「私の分も」
お春さんがこちらを見た。
冗談のようでいて、目は逸らさない。
「それは、ちゃんと」
「では、忘れないでください」
言い切った後で彼女が笑い、ようやく俺も笑えた。
店へ戻る道では、袖がときどき触れる。離れた方がよいのか迷っているうちに、また触れた。
結局、二人とも歩く場所を変えないまま、高瀬屋の角まで来てしまった。
十五日、小野屋に顔を出した源一郎さんは、俺を見るなり大きな手を上げた。
「左江内君!母が飯をおかわりしたぞ!」
「お兄様、通りまで聞こえます」
「おう、それはすまん!」
謝る声も大きい。
店先にいた客が振り返り、源一郎さんの顔を見て一瞬固まる。本人はにこにこと笑っているのだから、なかなか難しい。
奥へ通してもらうと、源一郎さんは膝へ両手を置き、少し声を落とした。
「母が食うところを見ているだけで、父まで飯が進んでな。俺は何をしに帰ったのか分からんほど食わされた」
「それは、お母さんが心配していたんじゃないですか?」
「そうかもしれん。寝ていても、俺がちゃんと食っているか聞くんだ」
源一郎さんが鼻の脇を掻く。
大きな身体を少し丸め、照れたように笑っている。
「君のおかげだ。ありがとうな」
「毎日用意しているのは、皆さんですから」
「それでも、教えてくれた人には礼を言わせてくれ」
俺が頷くと、源一郎さんも大きく頷いた。
その後は母親の話から、店の棚の直し方、年明けの仕事の話へ移る。
源一郎さんは火鉢から少し離してあった木の箱を見て、自分の仕事でも材料の置き場には気を使うと言った。
「船の中だと、火も怖いですか?」
「そりゃあ怖い。木がある、布がある、油を使う場所もある。火を使わずに済めばよいが、そうもいかんからな」
俺が塗料の話を出すと、源一郎さんの背筋が伸びる。
調べ続けていること、火が当たったときに下の材料へ熱を伝えにくくする塗り方を試したいことまで話すと、今度は身を乗り出してきた。
「塗ったものが、火を受け止めるのか?」
「熱で厚く膨らんだ層を作って、その下を守れないかと。まだ、ちゃんとお見せできるところまではできていません」
「ほう!膨らむのか!それなら、普段はどれほどの厚さなんだ?木が少し動いたら剥がれんか?湿ったところへ置いても同じように膨らむのか?」
質問が一気に増えた。
俺は手帳を開いて追いかけるが、最後の言葉を書いているうちに次が来る。
「すみません、木が動くところから、もう一度お願いします」
「おう、すまんすまん!火の前だけよくても、そこへ持っていく前に落ちてしまったら困ると思ってな」
火を向けたときのことばかり考えていた。普段どこに置いて使うかも聞いておかなければ。
おりんさんが茶を置きながら、兄の手元を覗く。
「お兄様、今日は買い付けにいらしたのではないでしょう?」
「分かっている!だが、もしできるなら面白いぞ」
「まずは見本を作って、見ていただけますか?」
「もちろんだ。塗っていない板も一緒に見たい。同じ火を当てて、どれだけ違うか分かるようにしてくれ」
さっきまでは母親の飯の話をしていた人が、もう板の置き方を指で描いている。
俺は今月中に連絡すると約束した。
まずこの人が、誰かに見せたくなるものを持ってこよう。
その晩、手帳を横へ置いてチャッピーに相談する。
最初の見本は、雨や海水が直接かからない屋内の木部を対象にしましょう。船底の防汚や金属の防錆まで同じ塗料へ持たせず、まず木への着火と炎の広がりを抑える働きを確かめます。
膨張する層で熱を伝えにくくする
現代の膨張型防火塗料には、加熱されると厚い炭化層を作り、下地への熱の伝わりを抑えるものがあります。膨らむだけでなく、その層が崩れずに残ることが重要です。これは狙う原理であり、手に入る材料で同じ性能が出るかは試作で確かめます。
比較する板を揃える
同じ材から切り出した、寸法と乾燥状態の近い板を用意してください。無塗装と試作品を分け、塗る前後の重さ、塗った面積、乾かした日数を記録します。薄く塗ったものと厚く塗ったものも区別すると、必要な塗布量を考えられます。
火の前と、火を受けた後を分けて見る
加熱前に粉落ちや剥がれを確認し、湿気を受けた見本も別に用意します。加熱時は火との距離、向き、時間を揃え、炎の広がり、塗膜の膨らみと脱落、木の焦げ方を比べましょう。加熱を止めた後に燃え続けるかも記録します。
小さな板で得た結果は、船全体が何分安全かを示す数字にはできません。まず源一郎さんに見せるのは、条件を揃えた板で生じる違いです。試験は化粧品や食品の作業から離し、屋外の適した場所で、消火の用意を整えて行ってください。
膨らんで終わりではない。そこに残って木を守る層が要る。*3
源一郎さんの質問を写した脇へ、板の寸法、重さ、乾燥した日を記す欄を作る。
続けて材料候補の照会と値段をチャッピーと整理し、十七日に預金から三円を引き出した。見本用の板、専用の器と刷毛、それに少量ずつ取り寄せる試料代へ、その三円を使う。
化粧品を扱う部屋へは持ち込まない。受け取った道具には塗料用と書き、別の箱にまとめた。
その十七日の午後、菊松さんが小野屋を訪ねてきた。
贔屓筋へ届け物をする途中だという。預かってきた紙をおりんさんへ渡すと、俺の顔を見つけて会釈する。
「お師匠さんから、これを」
紙には、白粉の使い心地と次の注文が書かれていた。
くずした字で読みにくいところは、菊松さんが横から教えてくれる。
最後の一行だけは、読める前から声が聞こえた気がした。*4
二十四個。
六個を買っていった客から、四倍の注文が来ている。
「本当に、舞台で?」
「はい、あたしが離れたところから拝見しました。お師匠さんが、白さだけ見ていないで顔が見えるか言え、と」
「顔が見える?」
「笑っているか、悲しんでいるか。粉に目が行くようでは困るんだそうです」
紙の白さと、人の顔の白さ。
俺が板へ塗って比べていた頃には、そんな言葉は出てこなかった。
菊松さんは自分も使っていると言い、少し照れたように頬へ触れる。
「あたしが最初につけたときは、まだ厚いと言われました。でも、昨日は直せとは言われませんでした」
「それは、上手くなったってことですか?」
「そうだとよいのですが」
嬉しさを隠しきれない顔が、答えのように見えた。
俺も同じ顔をしているのかもしれない。
「二十日までに揃えます。お仲間の方も、同じ使い方で試していただけるよう書付を添えます」
「では、お師匠さんへそう伝えます」
菊松さんが帰った後、おりんさんは受取日を控え、別の紙に二十四と書いた。
その隣へ、小野屋の店頭に残す数を書き足す。
「こちらの分もありますからね」
「お春さんにも言われました。いつものお客さんが買えなくならないようにって」
「それなら、二人から言われたので忘れませんね」
おりんさんが笑う。
先に注文を取ってから俺を急かすのではなく、今ある器と次に作れる量を尋ね、受渡しまでの日を指で追っていく。
父親が帳場から呼ぶと、そちらの客の話もすぐに聞き取った。俺との話は、途中に指を置いた紙へ戻れば続けられる。
こうして、店の仕事をいくつも動かしているのだ。
「……何か、私の顔についていますか?」
「いえ、すごいなと思って。お客さんの話を聞きながら、全部覚えているんですね」
「忘れないように書いているんですよ」
紙を示してから、彼女は少し顎を引いた。
さっきまで注文を追っていた目が、まっすぐ俺へ向く。
「顔も見てくださっているなら、嬉しいですけれど」
そこで笑うのは、ずるいと思う。
俺が返事を探している間に、おりんさんは何事もなかったように器の数へ話を戻した。
翌日からは、白粉の仕事を一つずつ分け直した。
岸本修平さんには頼んでいる原料の下処理を増やしてもらい、最後の配合と混ぜ合わせは俺が扱う。量を増やすために手順まで一度に変えず、これまで確かめた一回分を繰り返した。
弁天通の仕事場へ運ぶのは、詰めて蓋を閉じた後の器だ。
おきぬさんには包み紙と箱、お春さんには日付と使い方の札の照合を頼む。頼む半日の数と賃銭は先に話し、菓子や薄荷の仕事へ上乗せしたままにはしない。
蓋には、水で溶かさず、と書いた札もついた。
「これなら、先に器だけ出されても大丈夫ですね」
お春さんが二つの札を見比べる。
俺は頷いて、締めた蓋が緩んでいないかもう一度確かめた。菊松さんが包みを開いたとき、使い方まで一緒に出てくるように。
隣の机では、おきぬさんがいつものキャラメルを包んでいる。
東京へ向かう品ができても、この甘い匂いのする包みを減らすつもりはなかった。
二十日、菊松さんは約束どおり現れた。
二十四個を数え、製造日と添え紙を確かめてから、四円三十二銭をおりんさんへ渡す。
小野屋の口銭四十八銭を引き、俺の受取は三円八十四銭。注文の紙に書かれていた数が、荷物と代金になった。
「お師匠さんが、次は顔を見に来いと」
「顔、ですか?」
「舞台の顔です。粉だけ見に来たら承知しないそうです」
俺は笑って、ぜひ伺いたいと答えた。
菊之丞さんの舞台をまだ一度も見ていない。いつか客席で、粉のつき方を忘れるくらい見入ってみたい。
菊松さんが箱を抱えて立つと、紙の隙間から「左江内の白粉」の札が覗く。
今まで店先で見ていた文字が、今日は少し遠い場所へ出ていくように見えた。
その日のうちに四十円を銀行へ預け、仕事場で帳面を締めた。
年明けから二十日までの受取を商品ごとに分け、十八日に納めた分も含めて翻訳二回の三円を加える。菊之丞さんの最初の六個と今回の二十四個は、白粉百十個の中に入っている。
計算はチャッピーにも見てもらった。
預金の引出しと買い物の支出は分け、返瓶用の金も取り置く。
器と原料の控えを合わせ、渡した数に間違いがないか確かめる。
食費は八日と十八日に十日分ずつ払い、一月二十七日まで。住まいは十八日に払って二月十七日まで、仕事場の一月分は去年のうちに済ませてある。
去年の暮れより、現金と預金は四十二円八十六銭増えていた。
帳面を閉じると、机には白粉の書付と、塗料の試験用の控えが並んでいる。
一方には口元と汗のこと、もう一方には木の板と湿気のことが書いてある。どちらも、俺一人では思いつかなかった問いだ。
スマホを開き、明日確かめる材料の名前を入力しかけて、先に別の言葉を書いた。
送信してから、菊之丞さんの手紙をもう一度広げる。
あたしの顔を綺麗にした責任を取って。
随分な言い方だけれど、その先に「次」があるのが嬉しい。
俺は次に作る白粉の欄を空け、その隣へ、源一郎さんに見せる日を決める、と書き足した。