【30話まで投稿予約済み】明治時代をチャッピーと共に成り上がれ! 作:ヅダスキー3世
薄い琥珀色の液が瓶の中でゆっくり傾く。
一月二十一日の朝、俺は届いた荷の包み紙と中身を説明する書付を交互に見ていた。
水ガラスという名前からは透き通った水を想像するのに、実物はずっと重そうだ。瓶を振って確かめかけたが、目や皮膚につけないようチャッピーに念を押されていたのを思い出して慌ててやめた。
「それが火から守るお薬ですか?」
包みを終えたお春さんが少し離れたところから尋ねる。
俺は栓が閉じていることを確かめ、蓋のある箱へ瓶を戻す。
「材料の一つですね。これだけ塗って終わりじゃなくて、ほかのものと合わせて火が当たると膨らむようにしたいんです」
「膨らむんですか?」
「焼いたお餅みたいに、と言うと少し違いますけど……中に細かい隙間ができて、熱が向こう側へ伝わるのを遅らせるんです」
「お餅なら、膨らんだところが落ちてしまいませんか?」
俺は返事に詰まり、瓶の入った箱へ目を落とした。膨らむところばかり考えて、その先はまだ曖昧なままだ。
「そうですね、ちゃんと残ってくれないと困ります」
「それから、お菓子のそばでは作らないんですよね?」
「もちろん、ここは荷をまとめるだけなので、これは別の場所へ持っていきますよ」
お春さんが安心したように頷いてキャラメルの箱へ視線を戻すのを見て、俺も荷を仕舞う手を早めた。
試作場所については、薬種商を通じて岸本修平さんに相談してある。道具を置ける小屋と、立会いで火の試験をさせてもらえる空き地が見つかり、二月二十日までの一か月を一円二十銭で借りたところだ。
荷を運び終えてから、俺は一人になれる隅でスマホを出した。
今回は、手元の材料で組める水ガラス系の無機膨張塗膜を試しましょう。前に説明した炭の層を作る方式とは別の系統ですが、加熱によって膨らんだ層で熱の伝わりを遅らせる狙いは共通です。
お春さんの指摘は重要です。よく膨らんでも、剥がれて木が露出すれば、その場所を守れません。膨らみの高さだけでなく、残り方と下の木の損傷を見ます。
原料の違いを先に確認します
現代には、水ガラス、カオリン、含水アルミナ、硼砂を組み合わせる防火被覆の公開例があります。ただし、指定された粘度の異なる水ガラスや粒度の揃った工業原料を使う例であり、今ある見本とは同一ではありません。
水ガラスは固形分だけで性質が決まらず、珪酸とアルカリの比率にも左右されます。沈殿させた含水アルミナも、洗浄、乾燥、粉の細かさによって差が出ます。以下は見本に合わせるための出発配合で、性能が保証された処方ではありません。
一回二百グラムの試作配合
水ガラス液:百三十四グラム。今回確認した固形分約四割の見本を使い、粉を結びつける土台にします。
精選カオリン:三十グラム。砂や粗い粒を除いた陶土で、加熱後に残る無機質の層を組み立てます。
含水アルミナ:三十グラム。十分に洗い、強熱せず乾かしたものを使います。結びついている水が加熱時に抜ける過程で熱を受け持ちます。原料を先に強く焼いては、この働きを失います。
硼砂十水和物:六グラム。結晶水を含む状態のものを使います。無水物と同じ重量で置き換えないでください。
一、原料と作業場所
水ガラスは強いアルカリ性なので、目や皮膚への付着を防ぎ、飛沫を生じる作業を避けます。適切な目と手の保護、洗浄用の水を用意し、粉じんも吸い込まないでください。必要な保護が揃わなければ作業を始めず、原料の扱いに慣れた岸本さんへ相談しましょう。食品用の器具、衣服、保管棚とは分けます。
二、混ぜ方
水ガラス液の一部を取り分け、細かくした硼砂を少しずつ加えて均一にします。別の容器で残りの液へカオリンと含水アルミナを少量ずつ練り込み、粉の塊が見えなくなってから両者を合わせます。泡を大量に巻き込むような攪拌は避けてください。
粘りや塗り跡を記録し、扱いにくくても途中で目分量の水を足さないでください。加水を試す場合は別の番号に分け、加えた重量を記録します。
三、塗る量と乾燥
同じ乾いた板から、節や大きな傷を避けて試験片を取ります。表面の汚れと粉を除き、塗る面積を揃え、塗布前後の重量を量ってください。一度に厚く盛るより、薄く分けて塗り、各層が乾くのを待つ方が亀裂を抑えやすくなります。
仕上げた後も雨露の当たらない場所で乾かし、日を置いて重量と状態を確かめます。表面が乾いたというだけで試験を始めないでください。まず乾燥膜が一ミリ前後になる条件を探し、実測した厚さと塗布重量を対にして残しましょう。
四、比較する相手
無塗装、水ガラスだけ、今回の混合塗料の三種類を用意します。水ガラスだけの板も塗布重量と乾燥膜厚を測り、厚さが違えば、配合だけの優劣とは言い切れないことを控えに残してください。同じ条件の組を複数作ります。
火を扱う試験は、管理者の許可と立会いのもと、周囲に燃え移らない場所で行います。消火の備えを置き、風など条件が変われば中止します。小さな見本の比較は、本当の船火災を再現する試験ではありません。
加熱位置、時間、炎の状態を揃え、炎を離した後の燃焼、塗膜の膨張と脱落、冷えた後の木の炭化を記録してください。裏面を手で触れて温度を推測したり、写真だけから正確な温度を読み取ったりはできません。
五、今回の用途
まずは乾いた屋内側の木部を守る試作です。水ガラス系の塗膜は水分に弱く、硬い膜は木の伸び縮みでも傷みます。海水に浸かる船底、雨を受ける外板、錆止めまで一品で引き受ける計画にはしません。
火で膨らんだ層は、焼く前と同じ強さではありません。加熱前の密着と、加熱後に保護層が必要な間その場に残ることを分けて見ましょう。うまくできれば、火の回りと木の損傷を抑え、消火や退避に使える時間を増やす方向へ進めます。
画面から顔を上げると、白い粉の包みと液の入った瓶が目に入る。並べただけなら白粉やクリームの仕込みと大して違って見えない。
俺は配合のページを別の手帳へ写した。*1
材料ごとの下ごしらえは岸本さんに頼み、配合の全部が分かる計量と最後の混合は自分でする。化粧品のときと同じ分担をお願いすると、岸本さんは手帳の中を覗こうともせず、蓋に番号を書いた容器を並べてくれた。
「こちらで揃える粉の具合は毎回同じにする必要がありますな」
「ええ、そこをお願いしたいんです。今回の粉と次の粉で違っていたら、何を直したのか分からなくなるので」
「では、洗った回数も乾かした具合も残しましょう。お預かりする仕事はこちらへ書きます」
岸本さんはさっそく容器を手元へ引き寄せ、底に残る細かな砂を取り除き始めた。俺も手帳を開き、受け取った粉の番号を配合の横へ書き込む。
最初に塗った板を翌朝確かめると、つい厚く載せた白い膜の端が縮み、細いひびが入っていた。
写真と塗った重さを送ると、チャッピーはまず一回に載せる量を減らして比較しようと答える。俺は同じ配合でもう一度作り、今度は薄い層を重ねてみた。
刷毛で往復しすぎて乾きかけた膜を引っ張った板も、厚く塗って割れた板も捨てずに番号をつけて棚へ置く。そうした失敗作で棚が日ごとに埋まっていった。
菓子や化粧品の仕込みと塗料の試作を行き来するには、その都度着替えと手洗いが要る。道具をそれぞれの場所へ置き、仕込みはまとまった時間に終えるようにした。おきぬさんへ切り分けと包みを任せられる日に、俺は板の乾き具合を見に行く。
菊之丞さんの次の注文にも同じ品質の白粉を届けなければならない。新しいことを始めた途端に前の品が悪くなったと言われるのは嫌だった。
源一郎さんには月内に一度知らせると約束していたので、二十五日に小野屋へ寄ったとき、おりんさんに塗った板の簡単な図を見せた。
「乾くのを待っている板があるので、三十一日には見てもらえると思います。お兄さんのご都合はどうでしょう?」
「その頃にはこちらへ戻ると聞いています。私から知らせますね」
おりんさんは図の横にある「燃えない板」という俺の書きかけを指した。
「これはそのまま書いてお渡しするんですか?」
「あ、いや、そこは直します。長く火を当てれば木も傷むので」
「でしたら、最初からそう書いた方がよいと思います。兄は喜ぶと先に大きな声で人を呼びますから」
その姿が簡単に想像できて笑ってしまう。おりんさんも笑っているが、指先はまだ紙の上にあった。
「試した条件やまだ分からないことも書いておきます」
帰ってからチャッピーへやり取りを伝えて説明を直し、配合の控えとは別に、見本と一緒に渡す紙を用意した。
三十一日に小野屋を訪ねると、いつもの離れではなく母屋の座敷へ案内された。
障子の向こうで衣擦れがし、おりんさんに手を添えてもらいながらお登勢さんが敷居をゆっくり越えてくる。片方の足を出してはもう片方を寄せ、自分の足でこちらへ歩いていた。
俺は立ち上がりかけたが、座布団を置く方が先だと気づいて慌てて手前へ寄せる。
「すみません、こちらへ。急がなくて大丈夫ですから」
「ありがとう、今日はこちらでお礼を申し上げたかったの」
腰を下ろして少し息を整えると、お登勢さんは俺の顔をまっすぐ見た。長く立つとまだ脚がつらいというが、こうして座敷で会えるのが嬉しい。
「食べる物で、こんなに身体が違うなんてね。昨日は台所のことが気になって、少し見に行ってしまったんですよ」
「母は見に来るだけと言って、結局あれこれ言うんです」
「お前だって黙って見ている方ではないでしょう?」
おりんさんが返事に詰まり、脇に座っていた源兵衛さんの肩が小さく動く。
似た顔の母娘が同じような目つきで互いを見ていた。
「でも、疲れる前に戻ってくださいね。よくなったからって、お食事も元に戻さないでください」
「ええ、あの汁はもう好きになりました。今日は肉が少ない、と言えるくらいには」
お登勢さんは笑顔を収めて膝の前へ両手をつき、俺が止めるより早く頭を下げた。
「京介さん、ありがとうございました。また店の声を聞きながら暮らせます」
隣で源兵衛さんまで頭を下げるので、俺は両手の置き場が分からなくなる。
「こちらこそ……いえ、俺は聞いてきたことをお伝えしただけで。毎日続けてくださったのは皆さんですから」
「その最初を教えてもらえなければ、続けることもできなかった」
顔を上げた源兵衛さんは、商談のときとは違うゆっくりした口調で言った。
俺も背筋を伸ばして「はい」と答える。*2
廊下で足音がして、低い声が響いた。
「おお、来ていたか!」
振り返ると、源一郎さんが敷居の前で止まり、座敷を見渡していた。
お登勢さんは「まあ」と眉を上げる。
「母親の顔を見る前から、そんな大きな声を出さないでおくれ」
「すまん、つい」
大きな身体が急に小さくなったように見えた。俺の隣へ座ると母親の脚元へ一度目を落とし、それから俺へ向き直る。
「左江内君」
「はい」
「母のこと、本当にありがとう」
声を落とした源一郎さんが膝の上の手を握り直した。俺が小さく頷くと一つ息を吐き、顔を上げる。
「それで、板はどうだ?」
その目はもう職人のものだった。
試作場の棚を見た途端、源一郎さんの口元が大きく開いた。
「これはまた、よく並べたな!全部、塗り方が違うのか?」
「同じものもあります。こちらは一度に厚く塗って割れた板で、こっちは薄く重ねた方です」
「なるほど、乾くと縮むか。木まで引かれてはいないな?」
源一郎さんは持ってもよいか確かめてから板の端へ指を添え、木目の向きや反り、縁の塗り残しまで順に見ていく。
鬼瓦みたいな顔を寄せる姿は脅してひびを塞がせようとしているようにも見えるが、手つきは驚くほど静かだった。
「こちらは触っても粉がそう落ちないな。火に当てるのはこれと同じものか?」
「ええ、乾かした後の重さもほぼ同じところで落ち着いています」
「火を受けた後は元の厚さへ戻るのか?」
「戻りません。一度働いたところは直して塗り直す必要があります」
「よし、それも書こう」
言い終える頃にはもう紙を探していて、岸本さんから受け取ると礼を言い、板の番号の横へ書き込んだ。
次に濡らした布を当てておいた別の試験片を取り上げる。その表面を拭った布には白いものがついていた。
「水にはまだ弱いんだな」
「はい、今のまま雨の当たる場所へ出すつもりはありません。まず乾いた内側で使えないかと」
「そこは大事だ。船の中だって、いつも乾いているとは限らん。場所を選ぶ必要がある」
俺は頷き、今日比べる板を箱から出した。
同じ乾いた杉板から長さ五寸、幅三寸、厚さ三分に切り出したもので、塗った面積も揃えてある。
混合塗料の乾いた膜はおよそ一ミリだが、水ガラスだけの方は少し薄い。その違いも記録の端へ書き添えた。
空き地では持ち主の立会いのもと、周囲の燃える物を遠ざけて水と砂を用意した。岸本さんが消火の備えにつき、源一郎さんは時計と記録、俺は板の取り替えを受け持つ。
風が落ち着くのを待って試験用のランプを据え、板を留める台との位置を決める。まず何も塗っていない板へ炎を当てた。
火が当たる真ん中から木の表面が茶色くなり、やがて黒い筋が走る。
三分で火を離しても黒い部分に小さな炎が残ったので、岸本さんに消し止めてもらった。
「次、二番」
水ガラスだけの板は無塗装のものより表面の変化が遅かったが、途中で膜に割れ目が生じ、その下へ焦げが広がる。
源一郎さんが時計から目を上げ、割れた位置へ指を向ける。
「あそこが開いたぞ。書いておく」
最後に混ぜて作った塗料の板を据えると、火の先が白い表面に触れた。しばらく見ているうちに、そこだけがゆっくり持ち上がってくる。
「おい」
源一郎さんが身を乗り出しかけて止まった。
白い膜に細かな膨らみが生まれ、それが寄り合うように厚みを増していく。煤で表面が黒くなっても、横から見るとその下に灰白色の層が残っていた。
俺の喉が鳴る。
小さな予備試験でも膨らんではいたが、人に見せる今日も同じようになってくれるかは、火を当てるまで分からなかった。
「三分だ」
火を離すと膨らんだ層の端がわずかに欠けたものの、真ん中は落ちずに残り、木から炎が立ち続けることもない。
源一郎さんが口を開けたまま、板と俺を交互に見る。
「膨らんだぞ、本当に!」
「はい、俺も見ました!」
「いや、君が作ったんだろう!」
言い返されて笑った途端に肩の力が抜け、こんなに固くなっていたのかと気づいた。
板が十分に冷えるのを待ち、源一郎さんが細い鋸で切って断面を確かめる。
裸の板には焦げが深く入り、水ガラスだけの板にも黒い層がある。混合塗料の板には火の真下に薄い褐色の跡こそついていたが、その奥には明るい木の色が残っていた。
膨らんだ層の端を指で押すとぽろりと崩れた。それでも俺はしゃがんだまま、三枚の断面から目を離せない。
「これは、差がある」
源一郎さんの声が低くなる。もう一組も順番を入れ替えて試すと同じ傾向が出たので、膜の厚さの違いは控えに残し、小さな炎で比べた結果として焼いた六枚を並べた。
「この板、持って帰ってもよいか?」
俺はすぐ頷きかけたが、焼いた板の端を見て思いとどまる。むき出しで包めばせっかく残った層が崩れてしまう。
「箱を作らせてください。それと、まだ焼いていないものも同じ組で用意します」
「ああ、その方がいい!俺が普段図面と寸法を見てもらっている上役に話す。あの人なら、どこの担当へ持っていくべきかも分かる」
そう言ってから源一郎さんは俺の顔を見直した。
「先に言うが、俺には買うとも使うとも決められん。それは分かってくれ」
「もちろんです。見てもらえるだけで今は十分ありがたいです」
「母のことがなくても、これは持っていくぞ」
源一郎さんは三種類の板を寄せ、箱に必要な大きさを手で測り始めた。
俺も大きく頷き、隣へしゃがんで板の端を揃える。*3
二月四日には戸籍の件で出向くようにと、高瀬さんから伝言が届いた。
去年の十月二十八日から住まいと仕事のことを何度も書き、来浜してから世話になった人にも話を聞いてもらってきた。返事が来るたびに足りない紙を揃えていたので、今度もその続きかと思ってしまう。
ところが高瀬さんによれば、ひとまず話がまとまったらしい。
出かける前にチャッピーへ確認する。
長く続けてきた確認に、区切りがつきそうですね。今日は何が認められ、何が引き続き未確認として扱われるのか、その場で聞いて控えましょう。
名前と家の扱い
左江内京介という姓名に誤記がないか、どの住所で、誰の戸として記載されるのかを確かめてください。高瀬さんが身元の説明を助けたことと、その家の親族になることは別です。
未確認事項と受け取る書類
空欄を埋めるために、存在しない親や出生地を作らないでください。来浜以前について今まで説明した範囲を変えず、係の説明と記載内容が食い違えば尋ねましょう。手元に残す控え、今後の届出先、今回の処理の根拠も確認します。
明治四年の戸籍法と翌年の戸籍編製は確認できますが、京介さんのような事情の人が、明治九年の横浜で必ずこの方法で登録できるとは断定できません。これまでの個別の照会に対し、実際にどのような指示が出たのかを聞くことが大切です。
役所の机を挟んで座ると、膝の上の手が冷たくなった。
係の人は俺が来浜してからの居所と仕事、高瀬さんたちの申立てを順に確かめる。県へ伺っていた件について指示があり、現在の居所をもとに俺を独立した一戸として帳簿へ載せることになったそうだ。
来浜以前の確かめられない部分は事情を記した書類とともに扱い、左江内京介という本人について記載するという。
「名前はこちらで間違いないな?」
見慣れた自分の名前なのに、すぐには返事が出てこなかった。
「左江内京介です。間違いありません」
返事をすると、筆が紙の上を動いた。
俺は説明された内容を控え、今後住まいが変わったときの届出先も確かめる。必要な確認が済んでから頭を下げ、ようやく外へ出た。*4
通りの先では荷車が石に乗り上げ、男の人が掛け声をかけていた。いつもと同じ横浜なのに、懐へ収めた控えのあるところだけが妙にはっきり感じられる。
「長かったな」
高瀬さんの言葉に礼を返そうとしたが、先に息が漏れた。
「ありがとうございました。本当に何度も付き合っていただいて」
「お前さんがここで働いていることを話しただけだ」
その「だけ」のために、どれほど手間をかけてもらったのか。
俺はもう一度頭を下げ、その足で徳蔵さんのところへも報告に向かった。
店の入口で知らせると、徳蔵さんは手を止めて「そうか」と頷く。
「なら、これからも自分の名で働けばいい。腹は減ってないか?」
「減ってます」
「座ってくれ。もうすぐ飯ができる」
いつもの席に座ると、おせいさんが湯飲みを置いた。
「アンタ、今日はやけに顔が緩んでるね」
「そんなにですか?」
「そんなにだよ」
否定できずに笑いながら、出された飯へ箸をつける。十日分ずつ払って食べているいつもの飯が、その日はやたらとうまかった。
見本を揃える間も売る方の仕事は続く。
白粉の注文が前より増え、菊之丞さんへ送った分のほかにも、東京へ回す包みができた。
おりんさんからは、同じ日に渡す品が重なるなら先に数を知らせてほしいと言われ、製造の予定を小野屋へ渡す控えにも写している。
お春さんが店へ回す日と仕込んだ日を別々の欄にした紙を持って来てくれたので、写真をチャッピーへ送って次の仕込み順を相談する。
白粉もクリームも自分が留守でも渡せる状態まで仕上げておけば、横須賀へ呼ばれることになっても慌てずに済む。
二月八日の翻訳を納めた帰りには、四十円を銀行へ預けた。
戻って帳面を締めると、一月二十日から増えた分がはっきりする。
一月二十一日~二月八日の受取
キャラメル六百包、商会受取一包三銭六厘:二十一円六十銭。
薄荷の化粧水九十六本。ガラス瓶三十二本を一本十三銭、陶器瓶六十四本を一本九銭で精算:九円九十二銭。
クリーム小百六十個を一個十一銭、大四十個を一個十九銭で精算:二十五円二十銭。
白粉百八十個、商会受取一個十六銭:二十八円八十銭。東京へ送った分も、この百八十個に含みます。
翻訳は一月二十八日と二月八日、各一円五十銭:三円。
受取合計は八十八円五十二銭です。商品の受取額は販売先の取り分を差し引いた精算額なので、ここから手数料をもう一度引く必要はありません。
同じ期間の支払い
キャラメル:六円八十銭。材料五円二十銭、包み一円、配達六十銭です。
化粧水:六円八十六銭。材料・製造三円八十四銭、荷造り十八銭、返瓶八十四銭、新瓶二円です。
クリーム:九円九十銭。材料五円六十銭、器三円五十銭、荷造り・配達八十銭です。
白粉:九円。材料・下処理四円八十銭、器二円七十銭、荷造り・配達一円五十銭です。
塗料の追加試作費:四円六十銭。別小屋の一か月分一円二十銭、追加原料・調製二円四十銭、手伝い七十銭、試験用の燃料と見本箱の材料三十銭です。前回計上した三円は加え直していません。
食費:一月二十八日と二月七日に各六十銭、合計一円二十銭。二月十六日までの分が支払済みです。
弁天通りの仕事場の二月分家賃:二円。一月三十一日に支払済みです。
連絡・書付などの紙代ほか:十四銭。宿代は前回の支払いで二月十七日まで賄えているため、今回は重ねていません。
支払い合計は四十円五十銭、現金収支の差は四十八円二銭です。仕入れや試作費を含む現金の増減であって、設備なども評価した会計上の利益とは区別してください。
現在の手元と預金
預金:二百二円。現金:三十五円六十二銭二厘。合計:二百三十七円六十二銭二厘です。預けた四十円は資金の移動で、費用ではありません。
返瓶用は十五円六銭から、今回売った瓶の分二円二十四銭を加え、実際に返した八十四銭を引いて、十六円四十六銭を確保します。
返瓶用を除く手元現金は十九円十六銭二厘です。ここから今後の材料代や支払いも出るため、全部を塗料へ回さず、次の仕込み分を残しておきましょう。
二百三十七円余り。
塗料にはまだ一銭の売上もないが、別の小屋を借りて材料を買い、失敗した板を棚へ置いておけた。
初めて翻訳の仕事をもらった頃なら、ひびの入った一枚を見ただけで胃が痛くなっただろう。
今も惜しいことに変わりはないが、次を作れるだけの金はある。俺は帳面を閉じて仕込み用の金と返瓶の金を分け直した。
戸締まりを手伝ってくれたお春さんへ、戸籍のことをもう少し詳しく話す。
父親から聞いていたらしいが、俺の説明に改めて嬉しそうに頷いてくれた。
「よかったですね。ずっと気にしていらしたでしょう?」
「はい、何か始めるたびにそのうち困るんじゃないかと気になっていたんです」
「では、また始められますね」
並んだ商品の箱へ目をやると、その向こうには次の出荷のために空けてある場所が見えた。
「始めたいことは増える一方ですね」
「あまり増えると、またお忙しくなってしまいます」
お春さんは笑っていたけれど、戸口の木に触れた指を止めたまま言葉を続けなかった。俺は鍵を仕舞い、彼女の方へ身体を向ける。
「十二日の午後、少し出かけませんか?」
「お仕事ですか?」
「仕事ではなくて、今度は先に時間を空けておきたいんです」
お春さんが俺を見上げる。
冷たい風が通りを抜け、結び目のそばの髪が揺れた。
「……はい、私も空けておきます」
「じゃあ、十二日ですね」
「忘れないでくださいね」
忘れませんよ、と答えると彼女はようやく戸口から手を離した。並んで歩き出す前に手帳を開き、板を渡す日や注文を納める日とは別の欄へ十二日と書き込む。
その日の夕方、翌朝には横須賀へ戻るからと源一郎さんが見本を受け取りに来た。
試作場で用意しておいた箱には焼いた三種類の板と焼く前の三種類の板が収まり、膨らんだ層へ蓋が触れないよう木の桟で板の端だけを支えている。
別の日に同じ配合で作った板も試し、似た結果が出たことを伝えると、源一郎さんは大きく頷いた。
「よし、その分の控えもくれ。たまたま一枚だけ、という話ではなくなる」
「こちらです。混ぜる量の紙ではなく、塗った日と重さ、乾かした日数と、火に当てた記録だけですが」
「それでよい。作り方を配って歩くつもりはないぞ」
笑ってから、源一郎さんは水に弱いと書いた行を確かめた。
大きな手で板を押さえないようにして、そっと箱へ蓋を合わせる。
「君は呼ばれたら来られるな?」
「はい、段取りをつけます」
「なら、話してくる」
源一郎さんが紐を掛けた箱を持ち上げて立つと、俺も戸を開けて表まで見送った。
「お願いします、源一郎さん」
振り返った鬼瓦がにっと笑う。
「任せろ。向こうで俺だけ大声を出して終わらんよう、ちゃんと板も見せてくる!」
それはぜひ、お願いします。
俺が笑って頭を下げると、源一郎さんは箱が揺れないよう抱え直し、大きな歩幅で歩き出した。