【40話まで投稿予約済み】明治時代をチャッピーと共に成り上がれ! 作:ヅダスキー3世
実際のチャッピーも長いチャットを行っているとコロコロ変わったりするので、仕様か…とでも思っていただけたら幸いです。
十二日の午後だけ、仕事の予定が入っていない。
俺は帳面を開くたびにその欄を見て、もう分かっているのだからと隣の数字へ目を戻していた。
二月十一日の朝も同じことをしていると、戸口からおりんさんが顔を覗かせる。いつもの注文の控えに加え、今日は細長く畳んだ手紙を持っていた。
「兄からです。こちらへ渡してほしいと」
差し出された紙に源一郎さんの名を見つけ、俺は椅子から腰を浮かせた。
あの箱を渡してから三日しか経っていない。手が濡れていないか確かめてから受け取り、折り目に沿って広げる。
本人から話を聞きたい。
そこまでは読めたので顔を上げると、おりんさんが俺の表情を見て笑った。
「最後の方は、日取りと持っていく物が決まったらまた知らせる、とあります」
「会ってもらえるんですね」
「ええ、兄だけでは説明しきれなかったようです。別の紙には、早く知らせてやれと書いてありました」
「本当に早かったですね」
「帰った翌日に見せたのでしょうね。あの人が箱を置いたまま待てるとは思えませんから」
俺は笑いながらもう一度手紙に目を落とした。
目の前で板が膨らんだときの声を思い出す。あれを職場でもやったのだろうか。見せる相手が増えるたび同じ勢いで驚かれたら、話を聞く方もさぞ忙しいだろう。
「京介さん、三月の納め物はまだ増やせますか?」
おりんさんが注文の控えを広げ、白粉の欄へ指を添える。
「お役所へ行く日に、お店の荷が揃わないと困りますから。今のうちに、こちらで受けてよい数を決めておきたいんです」
「そうですね。行く前に仕上げておける物と、その日に近くなってから作る物を分けます。クリームは早く作りすぎてもいけないので」
「でしたら、お引き受けする日はここへ。お客さんには先に話しておきます」
俺が書き込む間、おりんさんは紙の端をそっと押さえてくれた。細い指が引き受けた数を追い、抜けていた日付で止まる。
そこを埋めて顔を上げると、すぐ近くで目が合った。微笑まれてつい見入ってしまい、俺は慌てて控えへ視線を戻す。
「ありがとうございます。頼りにしています」
「それなら、困る前に知らせてくださいね。終わってから聞くのでは間に合いませんから」
帰り際におりんさんは手紙を俺の側へ寄せた。
「兄も喜ぶと思います。横須賀へ持っていってよかった、と」
礼を言って見送った後、俺は戸口から奥へ戻り、手紙を撮ってチャッピーへ送る。
見本を見た人から、京介さんの説明を聞きたいという返事が来たのですね。手紙は次のような内容です。
手紙の意味
先日預かった塗装した板を上役へ見せたところ、下地の焼け方に違いがあるので、作った本人から話を聞きたいと言われました。
三月中旬を目安に、立会いのもとでもう一度試験する相談をしています。塗る前後の重量、乾燥にかけた日数、湿気を受けた際の様子などを記した控えを用意してください。日取りと持参品は改めて知らせます。
返事と準備
まず、説明に伺う意思と三月中旬の都合を返しましょう。日取りが決まった後に慌てないよう、誰を訪ねるか、どこで落ち合うか、同行者を連れてよいかも確認すると安心です。
記録は試験片の番号から追える形にまとめます。板の種類と寸法、塗った面積、塗布前後の重量、乾燥日数、乾いた膜の厚さ、加熱条件と観察結果を対応させてください。前回は水ガラスだけの膜が少し薄かった点も、そのまま記載します。
今回の手紙には購入量や代金の約束はありません。材料を大量に仕入れる前に、向こうが必要とする見本の数と試験条件を確かめましょう。配合の控えは手元に保管し、説明用の記録と分けておけます。
俺は机に残っていた控えを揃え、紙の角へ板と同じ番号を書き込んだ。厚さの数字を写したところで、次に持っていく箱は今のものより大きくなるかもしれないと気づく。
今なら材料代も払える。けれど先に数を聞くよう言われたばかりなので、箱の寸法を考えるのはやめて返事を仕上げた。
三月中旬なら伺えること、日取りが決まれば仕事を調整すること。その紙を夕方に小野屋へ届け、帰り道では説明の練習を始めてしまう。
人に聞かれたら独り言の多い男だと思われそうで、途中からは口を閉じた。*1
その晩、仕事の帳面を閉じても寝る気になれず、俺は膝の上にスマホを置いていた。
明日はお春さんと出かける。
八日に自分から誘ったときには、十二日までに考えておけばいいと思っていたのに、もう明日だ。行き先は決めたし、午後の荷も午前中に渡せるよう揃えてある。それでも一番大事なことだけが手つかずで残っている。
画面へ打ち込んでは消し、三度目でようやく送信した。
元の暮らしを懐かしく思うことと、お春さんを好きになることは両立します。どちらかが嘘になるわけではありません。
ただ、帰る方法や条件は今も分かっていません。「絶対に離れない」「何があっても大丈夫」とまで約束しようとすると、京介さん自身が言葉に困ってしまうでしょう。
明日は、今どんな気持ちで誘ったのか、これから二人でどう過ごしたいのかを話してみてはどうでしょう。お春さんの返事を聞き、先の暮らしについては二人で考えていけます。私には彼女の気持ちは分からないので、今までの様子だけから返事を決めつけずに聞いてください。
身の上について話せることが限られているなら、無理に別の来歴を作る必要はありません。答えられないことは、今はうまく説明できないと伝えられます。彼女が不安に思うことも尋ねながら、話せるところから進めましょう。
暗くなりかけた画面に触れると、入力欄がまた明るくなる。
向こうへ帰れたら、と考えることは今でもある。コンビニの明かりも電車の音も、何も買わずに出てきた店の暖かささえ懐かしい。元の暮らしを思い出すたび、こんなに離れると知っていたら誰かにもう少し話をしておけばよかったと思う。
だからといって明日も曖昧に笑って帰ったら、お春さんと会える日はこのまま続くと勝手に当てにしているだけだ。
八日の戸口で言葉を止めた顔が浮かび、俺はスマホを握り直した。
ええ、その気持ちを伝えてみましょう。途中で言葉に詰まっても構いません。今夜は少し眠って、明日ちゃんと顔を見て話せるようにしておきましょう。
最後の一文でようやく布団へ入る気になった。
スマホを仕舞って明かりを落とすと、さっきまで隠れていた外の音が耳に届く。遠くで誰かが戸を閉め、やがて足音も聞こえなくなる。
俺は暗がりで一度だけ「好きです」と言ってみたが、それだけで妙に顔が熱くなり、布団を鼻の下まで引き上げた。
翌日の昼前には、キャラメルを包み終えたおきぬさんと納め先を確かめ、清吉さんへ箱を渡すところまで済んでいた。
もう一度数えようと箱へ手を出しかけると、おきぬさんに笑われる。
「京介さん、今さっき揃っているとおっしゃいましたよ」
「そうでしたね。すみません、お願いします」
手を引っ込めて戸を出たものの、懐の手帳が気になってまた開いた。
十二日の欄には何も増えていない。確認することがなくなったので、俺は松葉屋で飯を食べてから着替えることにした。
食べ終えた椀を返すと、おせいさんが俺の襟元へ目をやる。
「今日はお春ちゃんと出かけるんだって?」
「ええ、そうです」
「じゃあ、その襟だけ直しておいで。片方が中へ入ってるよ」
慌てて指を差し込むと、調理場から徳蔵さんの声がした。
「鏡を見た方が早いぞ」
「今、見てきます」
部屋へ戻って櫛を通し、襟を整え直す。二度も触ったせいで今度は反対側が浮いてしまい、諦めて一度脱ぎ、最初から着直した。
窓から差す光はまだ明るい。遅れるほどの時間ではないのに、戸を閉める指まで落ち着かなかった。
高瀬屋の前では、お春さんが店先の品を奥へ寄せているところだった。
声をかけようとして、いつもの紺色とは違う袖に気づく。薄い紅の混じった着物に落ち着いた色の帯を合わせ、髪の横には小さな飾りが留めてあった。俯いていた顔がこちらへ向くと、俺は用意していた挨拶を忘れる。
「お待たせしましたか?」
「いえ、今来たところです。その……お似合いですね」
お春さんは一度自分の袖を見てから、口元を緩めた。
「ありがとうございます。今日はこれにしようと思って」
普段から可愛いと思っているのに、出かけるために支度をして待っていてくれたと知ると、まともに顔を見ているのが難しい。
店の中から高瀬さんに声をかけられ、俺は今度こそ挨拶をする。
「お春さんと少し出かけてきます。暗くなる前にはお送りします」
「ああ、春もそう言っていた。風が冷たいから気をつけてな」
「行ってまいります、お父さん」
お春さんが肩へ掛ける布を整えて隣へ来た。
歩き出してすぐに荷車を避けることになり、俺が先に脇へ寄ると彼女も同じ方へ動く。互いに行き先を譲りかけてまた重なり、結局二人とも笑ってしまった。
「今日は道を塞いでしまいそうですね」
「すみません。先にどうぞ」
「では、こちらへ」
お春さんが俺の袖を軽く引き、荷車の通り道から外れた。
握られたのは布だけなのに、その場所がしばらく気になる。俺は隣の歩幅に合わせながら、伊勢山へ行く前に少し店を覗きませんかと尋ねた。
彼女には買いたい糸があるという。案内してもらった小さな店で、俺は色糸の並ぶ箱を一緒に覗き込むことになった。
「この二つだと、どちらがよいと思いますか?」
お春さんが出したのは同じ青に見える二束で、片方を窓の近くへ寄せると、そちらだけ少し緑がかって見えた。
何に使うか聞けば、手持ちの巾着を繕うのに、ついでに小さな模様を足すらしい。
「俺はこちらが好きです。お春さんはどうですか?」
「私も迷っていたんです。明るい方にすると、そこだけ目立ちすぎる気もして」
巾着の布へ重ねて確かめる彼女の横顔を見ているうちに、俺が返事をするより先に店の人が頷いた。こちらなら馴染むだろうという。
お春さんは自分の財布から二銭を払い、包んでもらった糸を袖へ収める。その途中で、何か思い出したように俺を見上げた。
「お菓子の包みなら、もう少し明るい方がよいのでしょうね」
「そうかもしれませんけど、今日はお春さんの巾着なので」
「ええ、そうでした」
店を出てからも彼女は包みを一度取り出し、端から色を覗かせていた。
俺がそれを見ていると気づくと少し照れたように仕舞ったが、何を縫うのか尋ねると、小さな花を一つ付けたいのだと話してくれる。
母親が使っていた物には細かな縫い目が並んでいて、自分で真似をすると、どうしても同じようにはいかないらしい。
「お母様に教わったんですか?」
「少しだけです。そばで見ていると、すぐにできそうだったのですけれど」
そう言いながら指で小さな丸を作る。
俺はその大きさを覚えておこうとした。次に見せてもらうときに、何の話だったか聞き返したくなかった。
伊勢山へ向かう途中で茶店に入り、二人分の茶と団子を頼む。代金の四銭は俺が出した。
お春さんが財布へ手を伸ばしかけたので、今日は俺から誘ったのですからと言うと、ではご馳走になりますと笑ってくれた。
湯飲みを両手で包みながら、お春さんは店の奥を眺めている。炭火の近くでは団子の焼ける匂いがして、外を歩いていたときより頬が少し赤く見えた。
「横須賀から、お返事があったそうですね」
「ええ、俺からも話を聞いてくれるそうです。三月の半ばになると思います」
「お父さんが、今朝お聞きしたと話していました。よかったですね」
「ありがとうございます。まだ行く前なのに、聞かれそうなことを考えてしまって」
「では、今日は私が先に伺ってもよいですか?」
「はい、何でしょう?」
思わず背筋を伸ばすと、お春さんは運ばれてきた皿へ目を落とした。
「その大きい方は、京介さんが召し上がりますか?」
団子だった。
俺は思わず笑ってしまい、お春さんの方へ皿を少し寄せる。
「よければどうぞ。俺はこちらをいただきます」
「では、お言葉に甘えて」
嬉しそうに串を取る姿を見て、ようやく肩から力が抜けた。
その後は糸の色や通りで見かけた犬の話をし、俺が茶を飲む間にお春さんが団子を食べる。話すことがなくなっても彼女は困った顔をせず、外から入ってくる人を避けるように膝を少し寄せた。
俺も湯飲みを置き、もう一度誘ってよかったと思いながら窓の向こうを眺める。
昨夜考えた言葉は、まだ一つも口に出せていなかった。
伊勢山へ上る道は、秋に来たときより空が広く見えた。
枝の先を風が抜け、着物の裾が足元へ寄ってくる。お春さんと並んで坂を上り、社殿の前で手を合わせると、俺は願い事より先に隣の人の気配を意識してしまった。
参拝を終えて振り返れば、屋根の重なりの向こうに港が見える。冬の日差しを受けた海はところどころ白く光り、船の帆柱が細い線になって並んでいた。*2
通りから聞こえていた呼び声もここまでははっきり届かない。
風の弱い方へ少し移ると、お春さんが肩の布を直しながら俺を見た。
「京介さん、今日は何かお考えですか?」
「え?」
「お茶のときも、何かおっしゃりかけていたようでしたから」
気づかれていた。
船のことでも考えていたように笑えば、たぶんこの場は過ぎる。口がそちらへ動きかけたが、俺は一度息を吸い、持ち上げかけた手を下ろした。
「お春さんに、お話ししたいことがあります」
彼女の指が肩のところで止まる。
自分から言い出したくせに、目を合わせた途端、胸のあたりがうるさくなった。去年から何度も顔を見て話しているのに、今日に限って名前をもう一度呼ぶのさえ難しい。
「俺は、お春さんのことが好きです」
言えた。
その先まで用意していたはずなのに、彼女が目を見開いた瞬間に続きが飛んでしまう。
俺は返事を急かすのが怖くて、手元へ目を落としてからもう一度顔を上げた。
「店で会うと嬉しいですし、帰ってからも次はいつ話せるだろうと考えます。今日みたいに二人で出かけたいのは、お春さんだからで……これからも、そういうつもりでお会いしたいんです」
お春さんは俯き、肩の布から離した手を胸の前で重ねた。
耳まで赤くなっているのを見て、少し期待しかける。けれど返事を聞くまでは分からないので、俺は黙って待った。
彼女は一度唇を開いて閉じ、息を整えると顔を上げる。
「私も、京介さんが好きです」
風の音に紛れそうな声だったのに、その言葉だけは間違えようがなかった。
俺は頷こうとして、なぜか先に息を吐いてしまう。
「……よかった」
それしか出てこず、お春さんが困ったように笑った。
「私も、よかったです」
「すみません。もっとちゃんとお返事するつもりだったんですけど」
「私も同じですから」
目が合うたびにどちらかが逸らし、少しするとまた相手を見ている。俺たちはしばらくそんなことを繰り返していた。
先に話し始めたのはお春さんだった。
「男の方に声をかけていただくことは、前にもありました。でも、京介さんには何を言えばよいか分からなくなってしまって」
重ねた手の指先を見つめながら、少しずつ言葉を続ける。
「お店へいらっしゃらない日は、今日は来ないのかしらと思うんです。来てくださると、今度は変なことを言わないか気になって。帰られた後になってから、あれも話したかったと考えてしまいます」
「俺もあります。帰り道で、さっきこう言えばよかったって」
「本当ですか?」
「はい、今日もここへ来るまで、何を話そうかと考えていました」
お春さんが口元を押さえて笑う。
少し安心した俺へ、彼女はようやく真っすぐ目を向けてくれた。
「前に髪をお切りになったときも、お似合いだと思っていたんですよ」
「そうだったんですか?」
「ええ、でもうまく言えなくて。おりんさんはすぐにおっしゃったのに」
そこだけ声が小さくなる。
俺はあの頃のお春さんの顔を思い出そうとしたが、今の顔の方がずっと気になった。
「今日、聞けて嬉しいです」
「今さらと思われませんか?」
「思いません。今だって褒めてもらえたら嬉しいですよ」
お春さんは笑ったまま目を伏せ、少ししてから「よくお似合いです」と言ってくれた。
たったそれだけで、朝に櫛を通した甲斐があったと思ってしまう。単純すぎるけれど仕方がない。
俺が礼を言うと、彼女は肩へ掛けた布の端を指で撫でながら尋ねた。
「これからは、お仕事がなくても会いたいと申し上げてよいんですよね?」
「もちろんです。俺からも言います」
「では、あまりお待たせしないでくださいね」
「気をつけます」
お春さんが少しだけ眉を寄せたので、俺は慌てて言い足した。
「今のは、その、忙しくても会うつもりです。忘れないように気をつけるという意味ではなくて」
「分かっています」
そう言う顔が今までより近くにある。
俺は手を出しかけて止めたが、お春さんはそれを見て、袖から指先を少しだけ出した。
指が触れたところで彼女も俺も動かなくなり、やがて俺からそっと握る。外を歩いて冷えていたはずの手が、しばらくすると同じ温かさになった。
前を人が通るとお春さんは手を引いたものの、離れた指はそのまま俺の袖口に留まっている。
「あの、お父さんには……」
「俺からお話ししてもよいですか?」
「私も一緒にお話ししたいです」
彼女が顔を上げたので、俺は頷いた。
「では、帰ったらお時間をいただきましょうか?」
「今日ですか?」
「別の日の方がよければ、そうしますけど」
「いえ、今日でよいんです。ただ、京介さんがお父さんを前にすると、またお仕事の話ばかりなさらないかと思って」
それは確かにありそうだった。
俺が答えに詰まると、お春さんは袖をつかむ指へ少し力を込める。
「そのときは私から申し上げますね」
「いえ、言います。ちゃんと俺からも」
坂を下り始める頃には、港の方から来る風が冷たくなっていた。
行きには肩が触れないよう少し空けていたのに、帰りは袖が擦れる距離で歩いている。俺は何度も下を向きそうになり、そのたびに顔を上げて前を見た。
足元を見ているふりをしても、お春さんにはたぶん分かってしまう。
彼女も時々こちらを見て、そのたびに小さく笑っていた。
高瀬屋へ戻ると、店にはまだ客がいた。
俺たちは何でもない顔で待とうとしたが、お春さんと目が合うとそれだけで笑いそうになってしまう。棚の品へ顔を向け、書かれた値段を意味もなく読んでいるうちに客が帰った。
高瀬さんは見送りを終えてから俺たちを眺め、手に持っていた帳面を机へ置いた。
「何か話があるようだな」
「はい、少しお時間をいただけますか?」
奥へ通してもらって座ると、今度は膝の置き方まで分からなくなる。お春さんが隣へ腰を下ろしたので、俺は彼女を見て一度頷き、高瀬さんに向き直った。
「お春さんを好きになりました。今日、俺からお伝えして、お春さんからも同じ気持ちだとお返事をいただきました。これから真面目にお付き合いしたいと思っています」
高瀬さんはすぐには答えず、俺の隣へ視線を移す。
「春はどう思っている?」
「私も京介さんが好きです。これからも一緒にいたいと思っています」
外ではあんなに小さかった声が、ここでははっきり聞こえた。
高瀬さんはしばらく娘の顔を見てから、膝に置いていた手を緩める。
「そうか。春が自分で決めたことなら、俺から駄目だとは言わない」
俺が頭を下げかけると、ただし、と言葉が続いた。
「京介さん、仕事が忙しい日はそう言ってくれ。行くと言ったまま待たせるのは困る」
「はい、先にお知らせします」
「お父さん、京介さんはちゃんと来てくださいました」
「今日のことを言っているんじゃない。これからの話だ」
お春さんが口を閉じると、高瀬さんは少し困ったように鼻の脇へ指を当てた。
娘を預けられる男かどうか、これからもこの人は見ているだろう。お春さんの隣で背筋を伸ばし、俺は改めて礼を言った。
「ありがとうございます。お春さんとちゃんと話し合っていきます」
「そうしてくれ。春も、言いたいことを我慢して後から膨れるなよ」
「お父さん」
思わず笑いそうになって俯くと、お春さんの視線が横から飛んできた。
俺は慌てて顔を上げたが、高瀬さんには見えていたらしい。口元だけで笑って、茶を持ってくると立ち上がる。
二人だけになったところでお春さんが小さく息を吐いた。
「私、そんなに膨れていましたか?」
「今のお話ですか?」
「……答えなくてよいです」
彼女が袖で口元を隠し、俺もつられて笑ってしまう。
今日から付き合うことになったのに、急に何でもうまく話せるようにはならないらしい。さっき聞けた返事を胸の中で確かめながら、俺は戻ってきた高瀬さんの湯飲みを受け取った。
店を出る頃には通りの明かりが目立ち始めていた。
戸口まで送ってくれたお春さんへ明日の納品の話をしかけ、言葉を選び直す。
「明日も、少しお話ししていってよいですか?」
「はい、お待ちしています」
別れてから振り返ると、彼女はまだ戸口にいた。
軽く頭を下げると向こうも同じようにして、そのあと二人とも笑ってしまった。今度こそ歩き出した俺は、曲がり角まで行ってからようやく大きく息を吐く。
帰ったらチャッピーへ何から話せばいいのか、今夜は迷う必要がなかった。
十六日には源一郎さんから次の知らせが届き、三月十六日に横須賀へ行くことが決まった。
まず源一郎さんと落ち合い、上役への説明と立会い試験に臨む。同行する岸本さんの名もあらかじめ知らせ、板は三種類を三枚ずつ、計九枚用意することになった。試験の進め方は先方と書付で詰めていく。
俺はチャッピーと持参品の控えを作り直し、岸本さんに乾燥の日数から逆算した予定を見てもらう。商売の品を揃える日も動かし、おりんさんへは納められる数と日取りを返した。
その合間に八日以降の帳面を締め、銀行へ二十五円を追加で預ける。戻ってから支払いの控えを撮り、今度は金の計算を頼んだ。
二月九日~十六日の受取
キャラメル二百四十包を一包三銭六厘で精算:八円六十四銭。
薄荷の化粧水四十八本。ガラス十六本を一本十三銭、陶器三十二本を一本九銭で精算:四円九十六銭。
クリーム小八十個を十一銭、大二十個を十九銭で精算:十二円六十銭。
白粉百個を一個十六銭で精算:十六円。ここまでは全て納品と代金受取が済んだ分で、受取合計は四十二円二十銭です。翻訳の次の定期報酬は十八日なので、この期間には含めません。
支払いと残高
キャラメルは材料二円八銭、包装四十銭、配達二十四銭で二円七十二銭。四回分の仕込み・包装・配達に対応しています。
化粧水は材料・製造一円九十二銭、荷造り九銭、返瓶四十二銭、新瓶一円で三円四十三銭。
クリームは材料二円八十銭、器一円七十五銭、荷造り・配達四十銭で四円九十五銭。
白粉は材料・下処理二円七十銭、器一円五十銭、荷造り・配達八十銭で五円。
塗料の追加原料・下処理・試験板の準備に二円、紙と連絡の費用に十銭、私的な外出に四銭。支払い合計は十八円二十四銭で、現金収支は二十三円九十六銭の増加です。
食費は十六日まで、宿代は十七日まで前払い済み。仕事場の二月分と試作小屋の二十日までの賃料も支払済みなので、今回の支払いへ重ねません。小屋をその後も使う場合は、更新の相談と支払いが必要です。
預金は二百二十七円、手元現金は三十四円五十八銭二厘。合計二百六十一円五十八銭二厘です。
返瓶用は前回の十六円四十六銭に今回販売分の一円十二銭を加え、買い戻した四十二銭を引いて十七円十六銭。手元からこれを除くと十七円四十二銭二厘です。次の食費、宿代、試作小屋の更新分も、ここから払う予定にしておきましょう。
更新の相談は明日、岸本さんを通じて持ち主へ頼むことにし、俺は支払いの予定へ印をつけた。
戸口で声がして顔を上げると、店の用を終えたお春さんが立っている。
「もうお帰りになりますか?」
「はい、片づけたら帰れます」
俺が帳面を仕舞うと、彼女は袖から小さな巾着を出した。
隅に青い花が一つ縫ってある。あの日選んだ糸だとすぐに分かり、手を洗ってから見せてもらった。
花びらの一つが少し長い。お春さんはそこが気になるようだったが、俺には揃いすぎていない形が可愛く見える。
「もうできたんですね。きれいです」
「まだ直そうかと思っていたのですけれど」
「俺はこのままが好きです」
そう答えると、お春さんは巾着を両手で受け取って眺め、ほどくのはやめますと笑った。
戸締まりを済ませて外へ出る。手を差し出すにはまだ人が多く、俺たちは並んで道の端を歩き始めた。
「京介さん、横須賀からお帰りになったら、またあのお店へ行きませんか?」
「糸のお店ですか?」
「いえ、お団子の方です」
今度は俺も迷わず頷けた。
「はい、行きましょう」
人通りが途切れたところでお春さんの指が袖に触れ、俺は歩幅を少し緩めてその手を取った。