【40話まで投稿予約済み】明治時代をチャッピーと共に成り上がれ! 作:ヅダスキー3世
九枚の板を納める箱は、菓子の箱よりずっと重かった。
三月十四日の朝、俺は底に敷いた木屑の上へ仕切りを差し込み、塗った面に何も触れないことを確かめている。隣では岸本さんが札の番号を読み上げ、俺の手元の控えと照らし合わせていた。
横須賀での試験は明後日だ。船が遅れて慌てないよう明日には向こうへ入り、岸本さんにも三日間同行してもらう。手間賃は一日五十銭、道中の費用はこちら持ちでお願いしてある。
このひと月近く、塗った日を控えては毎日重さを量り、チャッピーに乾き具合の記録を見てもらってきた。材料が届く日はハリスさんに確かめ、小屋も四月二十日まで使えるよう借り直している。
途中でキャラメルの火を止めたり、化粧水の仕込みへ戻ったりするので、帳面を開いたまま別の場所へ置いてこないよう気をつけるだけでも忙しい。
それでも試験片を並べ直すと、持っていく物はこれだけなのかと思ってしまう。
「この組だけ、湿気に当てた方でしたな?」
「ええ、札の裏にも印をつけました。こちらの二組とは分けてあります」
無塗装、水ガラスだけ、俺の混合塗料。その三種類を一組にして、全部で三組ある。
三月一日に塗り終え、同じ小屋で乾かしたうちの一組だけは、先方と決めた方法で二日間湿気に当て、今朝取り出した。水へ沈めたものではないが、水ガラスだけの板は端の艶が変わり、俺の塗料にも小さなひびが見える。
乾いた方だけ持っていけば、もう少し気楽だったかもしれない。
岸本さんが別の箱を見に行った間に、俺はそのひびと記録を撮ってスマホへ送った。
ひびのある板も、処理の記録と一緒に持参しましょう。使う場所を相談するための材料になります。
明後日の試験で説明できること
同じ材から取った板で、寸法、塗った面積、乾燥日数、塗膜厚と重量を示します。炎を当てる位置や時間も揃え、火を離した後の燃焼、膨らんだ層の残り方、冷えた後の木の損傷を比較してください。塗膜厚を近づけても成分や密度は違うので、何を同じにした比較かを控えに残します。
水ガラス系では、加熱で生じる気体と無機質の骨組みによって隙間の多い層を作り、下地へ熱が伝わるのを遅らせる設計ができます。今回の原料と仕上げでそれが働いたかは、実物の結果から説明しましょう。
湿気を受けた板は別の組として扱います
写真だけでは付着の強さや防火性能を判定できません。ひびの位置を図へ写し、加熱後にその場所から剥がれたか、下の木へ損傷が集中したかを記録してください。湿気に当てた時間だけでなく、方法と試験までの置き方も伝えます。
水ガラス系は水分の影響を受け、硬い塗膜と動く木材との組み合わせにも課題があります。最初の使用場所として、雨や飛沫を受けにくい屋内の木部を提案できます。船の振動や結露の中で長く持つかは、今回の小さな板とは別に確かめる必要があります。
答えを用意する順番
まず「どの下地で、どの条件なら効果を確認したか」。次に塗り方、乾燥に必要な日数、傷んだときの扱い。数量と価格は、塗る面積と施工を誰が受け持つかを聞いてから見積もりましょう。配合の全量を渡すことと、相手が施工・点検に必要な情報を渡すことは分けられます。
ひびの位置へ丸をつけると、岸本さんが戻ってきて紙を覗き込んだ。
「そこは私も気になっていました。こちらの角も書いておきましょう」
短く削った鉛筆が、俺の見落とした端を指す。
俺は余白に図を足し、紙を箱の蓋へ挟んだ。取り出して説明する順番が決まると、板より先に口が動いてしまいそうな落ち着かなさも、少し収まってくる。
午後に弁天通へ戻ると、おりんさんが納め物の控えを広げて待っていた。
十六日のキャラメルは十五日の朝に作り、おきぬさんに包んでもらって清吉さんへ渡す。クリームは出発前に余分を作り置きせず、帰ってから受渡日に合わせて仕込む。小野屋で受けた注文も、その予定で揃えてくれている。
「十八日のこちらは、帰ってすぐに間に合いますか?」
「朝から取りかかれば大丈夫です」
「では、この二つは十九日にしておきます。お客様も急いでいないそうですから」
俺が大丈夫だと言った欄へ、おりんさんはもう一日足した。
船が遅れるかもしれないし、戻った日に疲れているかもしれない。その説明を聞く前に、自分が帰宅後まで予定を詰めていたことに気づく。
「助かります。つい、着いたらすぐ動けるつもりになっていました」
「ええ、京介さんはそうおっしゃると思いました」
細い指が紙をこちらへ返し、そのまま俺の袖についていた糸屑をつまんだ。
顔が近くなったので思わず姿勢を正すと、おりんさんは何事もなかったように手を引く。
「お春さんにも、お帰りになる日をお話ししておいてくださいね」
「はい、今晩寄るつもりです」
「それならよかった。お二人で出かけるお約束もあるのでしょう?」
先月、交際を始めたことは自分から伝えた。おりんさんはそのときも、今と同じように俺の顔を見て話を聞いていた。
団子の話まで知られているとは思わず答えに詰まると、彼女は控えを畳みながら笑う。
「お春さんが楽しみにしていらしたので、分かりますよ」
三月十六日、俺は横須賀造船所の入口で、箱を抱え直していた。
昨日は横須賀へ荷を運ぶ船に岸本さんと乗せてもらい、着いてから宿へ入った。夜にはチャッピーと想定問答をして、こちらの説明が長すぎると何度か直されている。
朝になれば短く言えるつもりだったが、門の向こうから聞こえる槌の音で、その順番を半分ほど忘れた。
石炭の匂いがする。人の呼び声に金属を打つ響きが重なり、道を行く荷の大きさも、いつもの店先とはまるで違って見える。
「左江内君!」
人の間から源一郎さんの顔が現れた。
俺がほっとした横で、通りかかった男が源一郎さんの顔を見て少し道を空ける。その人にまで源一郎さんが陽気に会釈したので、俺はようやく笑えた。
「よく来たな!船では揺れなかったか?」
「少し揺れましたが、箱は無事です」
「箱は見れば分かる。君の方だ」
「俺も大丈夫です。岸本さんにも来てもらいました」
挨拶を交わして名前と用向きを確認してもらうと、源一郎さんは箱の片側へ手を添えた。歩き出すとすぐに、あの建物で何をするか、この音がどこから聞こえるかと話し始める。
途中で石を積んだ大きな船渠が見え、俺はそちらへ首を向けた。
港で船を見上げるのとは違う。水を抜いて船を支えるために、地面の方を深く掘り下げてある。その縁を人が歩いているのを見ると、広さが急に実感できる。
「あれは後で、通れるところまで見よう。今日は先に用を済ませるぞ」
「すみません、つい見てしまって」
「初めてならそうなるさ。俺も最初はあれで一日潰した」
笑い声に背を押されてついていく。*1
通された部屋では、髭を短く整えた四十がらみの男が待っていた。
源一郎さんの上役で、現場へ回す材料や修理の相談にも当たる相良直之さんという。机には先月渡した見本と、源一郎さんの書いた控えが置いてある。
「左江内京介です。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
「相良です。こちらこそ、遠いところを。まず品物を見せてもらえますか?」
岸本さんと箱を置き、蓋を外す。
相良さんは板へ触れる前に、俺の差し出した紙の屋号を確かめた。
「普段は、菓子と化粧の品を?」
「はい、横浜の店へ納めています。商館から頼まれた書状を訳す仕事もしています」
「その商売から、火を防ぐ塗料ですか?」
声に責める調子はない。ただ、俺が何を知っているのか、その答えを待つ目だった。
俺は白粉に使う粉の下処理や、液へ均一に混ぜる仕事を続けてきたことを話す。塗料に関心を持ってからは資料を読み、岸本さんにも原料を揃えてもらい、見本を作って確かめてきた。
その途中で源一郎さんが何か言いかけ、相良さんに目で止められた。
「君の話は聞いた。今日は左江内さんから聞こう」
源一郎さんが口を閉じてこちらを見る。
俺は開きかけていた手帳を置き、塗った板を一枚持ち上げた。
「熱が当たると、この表面が膨らみます。できた層で、下の木へ熱が伝わるのを遅らせるものです。こちらで比べた範囲では、火を離した後の燃え方と木の傷みに差が出ました」
「その層は、火を当てている間に落ちませんか?」
「これまでの試験では、中央の層は残りました。ただ、湿気に当てた組には端にひびが出ています。今日はそれも見ていただきたいです」
相良さんはひびのある板へ手を伸ばし、札の番号を控えへ写す。
そこへ作業着の男が来て、試験の用意ができたと知らせた。
「では、火の前で聞きましょう」
相良さんが立ち上がると、俺も説明の紙を揃えて後に続いた。
試験場所には小さな炉と板を支える台が用意してあり、近くに水桶と砂が置かれていた。
塗装を受け持つ職人と記録を取る人に加え、軍服姿の男も一人いる。源一郎さんは挨拶を済ませると時計を出し、岸本さんは持参した板の札を読み上げた。
俺が説明の紙を開く間に、相良さんが最初の板を選ぶ。
「この組からにしましょう。次は札を見てこちらで選びます」
「はい、お願いします」
前に源一郎さんへ見せたときより、人の手が多い。
板が台へ据えられてからも、火との距離を職人が確かめ、別の人が紙へ数字を書く。誰かが動くたびに自分も手を出したくなるので、俺は説明の紙を両手で持っていた。
最初は無塗装の杉板だった。
火が当たる部分の色が変わり、煙が立ち上る。やがて表面に小さな炎が走り、木目に沿って黒い範囲が広がっていった。
「三分!」
源一郎さんの声で火から外しても炎が残り、用意していた水で消される。
次の水ガラスだけの板は、初めのうちこそ表面の変化が遅い。けれど膨れた膜の一部が割れ、そこから黒い筋が覗き始めた。
混合塗料の板が置かれる頃には、俺の口の中も乾いている。
何度も試し、箱へ入れる前にも記録を確かめてある。それでも、ここへ来た途端にうまくいかなくなる気がして、炎の先が揺れるだけで胸が詰まった。
白かった面が鈍い色へ変わり、中央がゆっくり持ち上がる。
固まった塗料の下から、細かな気泡が押し上げてくるように見える。膨らみは左右へ広がり、表面にできた裂け目の奥にも厚みが残っていた。
軍服の男が一歩前へ出かけ、職人に腕で制されて止まる。
「まだ火がついています」
「分かっている。あれは、板が膨らんでいるのか?」
「表面の塗膜です」
俺が答えると、その人は今度は台の横へ回り、下の木と盛り上がった層を見比べた。
相良さんは時計の方を見ている。
「三分!」
火から外された板の中央には、凹凸のある層が留まっていた。端の小片が落ちたものの、裸の板で見えたような炎は続いていない。
誰かが短く息を吐き、俺もそこで初めて、ずっと肩に力を入れていたと気づく。
相良さんは褒める代わりに、箱へ残る板を指した。
「もう一組、同じようにお願いします」
二組目では少し落ち着いて見ていられた。火の位置と時間を確かめ、塗膜の端が崩れた箇所を紙へ書く。
結果は一組目とよく似ている。混合塗料の板を火から外すと、記録を取っていた人が先ほどの紙を引き寄せ、二つの結果を並べた。
湿気を受けた三組目は、俺が丸をつけた端から膜が持ち上がった。
そこに炎が回る。中央は残っているが、乾いた組より剥がれた範囲が広い。相良さんは火から外された板と持参した図を交互に見て、紙の丸印を指した。
「これは、湿らせる前にはなかったひびですね?」
「はい、乾かしていた間の控えはこちらです」
紙を渡しながら、声がちゃんと出ることにほっとする。
試験を終え、板が十分に冷えるまで待つ間、職人から塗る回数を聞かれた。俺が数回に分けると答えると、その人は乾くまで置ける場所が要るなと言い、相良さんもそちらへ顔を向ける。
さっきまでの「何が起きるか」という問いが、実際の作業の話へ変わり始めていた。
冷えた板の一枚へ、職人が刃を入れた。
無塗装の方は黒く脆くなった部分が厚く、刃先へ崩れた炭がついてくる。水ガラスだけの方は場所による差が大きく、膜の割れたところで木の傷みが深い。
俺の塗料も、下の木が全く変わらなかったわけではなかった。熱の当たった中央には褐色の跡がある。それでも削っていくと、黒く崩れる部分の浅いうちに硬い木が現れた。
職人が刃を置き、切った面を相良さんへ向ける。
相良さんは腰を屈め、三枚を端から順に見た後、二組目も同じように調べさせた。
俺はその肩越しに、まだ残っている木目を見ていた。
「火を消すまで、こちらの方が木が持つ」
軍服の男の言葉に、相良さんは初めて大きく頷いた。
「この試験では、明らかに差がありますね」
そう言って立ち上がり、俺の顔を見る。
「左江内さん、これはどれだけ作れますか?」
昨日の想定問答にもあった質問だった。
けれど口にするのが目の前の人だと、紙へ書いた答えとは重さが違う。俺は控えを一枚めくって、揃えられる原料の量を確かめた。
「まず、どれくらいの面積に使うお話でしょうか?」
源一郎さんが俺の後ろで笑った気配がした。*2
話は、造船所の建物内にある木の間仕切りへ移った。
雨に当たらず、使った後も近くで様子を見られる場所だという。相良さんはその一部を塗り、ひびや剥がれ、作業の手間を確かめたいと話した。船へ使う相談は、その結果を見てから続けることになる。
広さは塗る面の合計で八坪ほど。下地の掃除と塗る仕事は造船所の職人が受け持つと聞き、俺はそこでようやく値段を考えられるようになった。
「最初は立ち会って、塗り方を伝えてもらえますか?」
「はい、そのつもりです。場所を見せてもらってから、必要な量と日数を書いてお返事します」
「二十四日までに見積もりを。代金は納めた品を確認し、立会いも済んでからの支払いで相談します」
今日ここで金を受け取れるわけではない。それでも、相手が支払日の話をしていることだけで顔が緩みそうになる。
俺は塗る面の図を見せてもらい、窓と出入口、水を使う場所を確かめた。持参した小さな刷毛で施工を説明すると、職人が受け取り、自分なら端からこう回すと手を動かしてくれる。
その手際に見入っているうち、相良さんからもう一つ質問が出た。
「作り方も、こちらへ渡せるものですか?」
俺は刷毛を追っていた目を戻した。
ここまでよくしてもらったのだから、少しくらいはという言葉が喉まで出かかる。けれど、その先を曖昧にしたまま頷くことはできなかった。
「申し訳ありませんが、配合と作る手順は商会の方で持たせてください。塗る量と乾燥の目安、扱うときの注意は書いてお渡しします。同じ品を納められたか確かめる見本も残します」
相良さんは少し考え、先ほどの紙へ目を落とした。
「こちらで塗る者が困らない説明は必要です。そこは省かずにお願いします」
「はい、分かりました」
その返事をしてから、俺は自分が紙の端を強くつかんでいたことに気づいた。
源一郎さんは脇から口を挟まず、決まったことを自分の控えにも書きつけている。
部屋を出たところで礼を言うと、大きな手が俺の肩へ載った。
「見ただろう、あの顔を!」
「相良さんですか?」
「最初は、俺が妹の知り合いを褒めすぎていると思っていたんだ。あの人が次の仕事の話を始めたら、本気だぞ」
源一郎さんが笑い、岸本さんまでつられて口元を緩める。
俺もようやく笑えた。横須賀へ持ってきた九枚の板が、あの人たちを机での相談に戻らせたのだと思うと嬉しい。
「紹介していただいて、本当にありがとうございました」
「俺は取り次いだだけさ。あの板を作ったのは君だ」
「でも、ここへ来るまでは俺だけでは無理でした」
源一郎さんは肩から手を離し、持って帰る板の箱を覗いた。
「では、礼の続きは使ってみてからにしよう。俺も塗ったところを見たい。しばらく経ってどうなるか、その話にも付き合ってくれよ」
「もちろんです」
岸本さんと持ち上げる箱は、行きより軽くなっている。試験した板の一部は番号の控えとともに向こうへ残してきた。
源一郎さんは約束どおり船渠の見えるところまで案内してくれたが、説明の途中でも塗料の話へ戻るので、俺たちは何度も立ち止まることになった。
十七日に横浜へ戻り、弁天通で荷を下ろしてから小野屋へ寄った。
おりんさんは俺を見ると帳面を閉じ、奥へ声をかけて茶を持ってこさせる。結果を話すつもりで来たのに、先に座るところまで用意されてしまった。
「お帰りなさい。お顔を見ると、よいお話だったようですね」
「分かりますか?」
「戸口で、こちらに気づく前から笑っていらっしゃいました」
俺は湯飲みを持つ前に頬へ手を当てた。
試験の様子を話し、見積もりを求められたと伝えると、おりんさんの目が明るくなる。奥から来た源兵衛さんも話を聞き、相手へ渡す書付はよく控えておくようにと教えてくれた。
必要な器の数を相談し始めると、源兵衛さんは店先の客に呼ばれて席を立つ。
おりんさんは手元へ帳面を寄せたが、すぐには開かなかった。
「私、京介さんなら、きっと話を先へ進めてお帰りになると思っていました」
「俺は、火を当てる直前まで心配でしたよ」
「そうでしょうね。それでも、ご自分で確かめた品を持っていかれたのでしょう?」
目が合うと、彼女は俺の返事を待つように微笑んだ。
人から見込まれると、こんなに落ち着かなくなるとは思わなかった。俺は少し冷めた茶を飲み、頼みたい器の形を紙へ描く。
おりんさんは隣へ座り直して、その紙を覗き込む。前より遠慮しているようには見えず、袖が触れそうな近さに、俺の方が置いた肘を引っ込めた。
「この蓋なら、こちらのお店に聞けます。十個揃う日を確かめておきましょう」
十九日の午後は、お春さんと団子を食べに行った。
俺の仕事場での手伝いを終えてからではなく、初めから外出の約束をして店へ迎えに行く。戸口へ出てきた彼女は、先月見せてくれた青い花の巾着を持っている。
茶店では前と同じ並びの席が空いていて、お春さんがそちらを指した。
「今日は、大きい方を京介さんが召し上がってください」
「俺がいただいてしまってよいんですか?」
「はい、前は私がいただきましたから」
言われてすぐに一つ食べると、お春さんが笑った。
試験の話は十七日の晩に聞いてもらっている。今日は船の中で岸本さんが平気で居眠りをしていた話や、源一郎さんが船渠の説明を始めたら帰れなくなった話をした。
お春さんは相槌を打ちながら、ときどき俺の方を見ている。
「何かついていますか?」
「いえ、京介さん、楽しそうだなと思って」
「楽しいですよ。お春さんと来られましたし」
言ってから自分で照れた。
彼女は串を皿へ置き、巾着の花を指で撫でている。俺も茶を飲もうとして、湯飲みが空だったことに気づいた。
「またお忙しくなりますか?」
「注文になれば、しばらくは。ただ、次に横須賀へ行く日も先にお伝えします」
「はい、お願いします。……今日、来られてよかったです」
小さな声が聞こえて、俺は湯飲みを置いた。
店を出るとまだ日は高い。急いで仕事場へ戻る用は作ってこなかったので、二人で少し遠回りをする。
人を避けて道の端へ寄ったとき、お春さんの手が俺の手の甲へ触れた。今度はこちらから指を取ると、彼女も握り返して、隣を歩く間隔が狭くなった。
二十日までに原料と器の値段が揃い、俺は見積もりの控えをチャッピーへ送った。
横須賀での記録と塗る場所の図は、帰った晩に見てもらっている。今回は金額と日程を合わせる相談だ。
数量と見積もり
一坪に二貫二百匁なら、八坪で十七貫六百匁。二十貫との差は二貫四百匁です。見本を含めた余裕として計上し、実際の使用量は施工時に量りましょう。容器の重さは品物の二十貫へ含めません。
一貫五円で二十貫なら品代は百円。運搬・初回立会い八円を加え、総額百八円です。原価表で確認できる直接支出二十一円との差額は八十七円で、売上の約80.6%に当たります。ただし、あなた自身の作業、試作費、家賃、追加の訪問や手直しを差し引く前の金額で、純利益率ではありません。
値付けには、試作を重ねて得た性能と、それを揃えて納めるための仕事も含められます。今回は少量の初回納入です。確認できた下地の保護効果に加え、施工説明、納入見本、初回の立会いまで、代金に含む範囲を示しましょう。原料が比較的安くても、開発や確認の手間まで安く引き受ける必要はありません。
先方が百八円を受け入れるかは、交渉して確かめる必要があります。継続して大量に納める段階では、まとめ仕入れや製造・運送の効率が変わるため、費用を計算し直して単価を下げる余地があります。今回は初回の条件として提示し、次の数量や納め方が決まってから改めて相談する形にしましょう。
製造と納期
提出された一回量と作業時間なら、原料の受入確認を先に済ませ、四月二日から四日に小分けで製造する案が組めます。一度に二十貫を練ると、混ざり方が試作と変わります。確認済みの一回量を守り、各回の重さと状態を記録してください。
五日を容器ごとの状態確認と荷造りに充て、六日納入を候補にします。保存見本で確認済みの期間を超えて作り置きせず、増粘、沈殿、固まりがあれば出荷を止める予定も必要です。先方には納入直後から順次塗り進められるか、作業の予定を確かめましょう。
渡す説明には、一度に厚く盛らず数回に分けること、実測した塗布量、今回の試験片で必要だった乾燥期間、換気、目や皮膚への付着防止、洗浄、残った品の扱いを含めます。容器には食品ではないことが分かる表示をしてください。配合を伏せる場合でも、作業者が身を守るための情報は伝えます。
受取時期
材料を先に払い、四月六日に納めるなら、数量と品の受取検分、初回立会いを終えた後、四月二十日払いを希望として出せます。長期の経過観察をどこまで支払いの条件へ含めるのかも、事前に切り分けてください。
官側が必ずこの日に払うという意味ではなく、今回あなたから出す交渉案です。先方が実際に約束できる日を発注内容と併せて確認しましょう。
百八円という数字は、書いてみるとやはり大きい。
俺は見積もりを持ってもう一度小野屋へ行き、おりんさんと原料が届く日を突き合わせた。ハリスさんの返事と岸本さんの作業日を一枚の紙へ並べると、三月中に前もって進められる下処理も見えてくる。
見積書を届ける手配をし、二十四日には先方へ渡ったと知らせを受けた。
二十六日に届いた返事には、二十貫、百八円の文字がある。
スマホで撮って読んでもらい、数字だけでなく条件まで確かめた。四月六日の納入と初回立会い、受取検分を済ませた後の二十日払い。その後の使用経過は向こうから知らせてもらえる。
俺は紙と画面をもう一度見比べた。
「決まりましたか?」
荷造りの手を止めて待っていたおりんさんへ、頷いてみせる。
「はい、注文になりました」
「おめでとうございます、京介さん」
おりんさんが両手を合わせ、俺の顔を見て笑った。
俺も声を上げかけたが、外へ聞こえそうで慌てて飲み込む。彼女には分かったらしく、今度は袖で口元を隠して笑われた。
「あんなふうに試して、買うと言ってもらえると……嬉しいですね」
「ええ、兄にもお返事をなさってください。きっと喜びます」
まだ筆を入れていない紙を一枚出した。
源一郎さんへ何を書こうか迷い、まず、注文を確かに受け取りましたと自分の字で記す。続きを書くうちに、あの人の笑い声がまた聞こえた気がした。
二十八日には原料の先払いに十円を渡し、弁天通の仕事場も四月分まで賃料を納めた。
二月十七日からの帳面をまとめて確かめると、塗料へ取りかかってからも、いつもの品が途切れず売れている。返ってきた器と出した数を照らし、済んだ仕事だけに印をつけていった。
銀行への追加預け入れは十四日と今日の二度で、六十円ずつ。帳面と控えを撮り、まとまった期間の計算を頼む。
二月十七日~三月二十八日の受取
キャラメル千二百六十包。一包三銭六厘で、四十五円三十六銭。
薄荷の化粧水二百八十八本。ガラス九十六本を十三銭、陶器百九十二本を九銭で精算し、二十九円七十六銭。
クリーム小四百個を十一銭、大百個を十九銭で、六十三円。
白粉六百個を十六銭で、九十六円。
翻訳の定期報酬は二月十八日・二十八日、三月八日・十八日・二十八日の五回。一回一円五十銭で、七円五十銭。
以上はいずれも納品・作業と代金受取が済んだ分で、受取合計は二百四十一円六十二銭です。塗料の受注額百八円は含めません。
商品のための支払い
キャラメル二十一回分は、材料十円九十二銭、包装二円十銭、配達一円二十六銭。計十四円二十八銭。
化粧水は材料・製造十一円五十二銭、荷造り五十四銭、返瓶二円五十二銭、新瓶六円。計二十円五十八銭。返瓶はガラス三十六本と陶器七十二本、新たに買った瓶はガラス六十本と陶器百二十本で、今回出荷した本数と一致します。
クリームは材料十四円、器八円七十五銭、荷造り・配達二円。計二十四円七十五銭。
白粉は材料・下処理十六円二十銭、器九円、荷造り・配達四円八十銭。計三十円。
ここまでの商品関係の支払いは、八十九円六十一銭です。
その他の支払い
食費は十日分六十銭を五回払い、三円。二月十七日~二十六日、二十七日~三月七日、三月八日~十七日、十八日~二十七日、二十八日~四月六日の分です。明治九年の二月は二十九日まであります。
宿代は二月十八日~三月十七日と、三月十八日~四月十七日の二回で、一円六十銭。
弁天通の仕事場は三月分と四月分で四円。試作小屋は二月二十一日~三月二十日と、三月二十一日~四月二十日の二回で二円四十銭。食費・宿代・賃料の合計は十一円です。
横須賀の試験準備は原料・下処理一円八十銭、板と箱一円二十銭、燃料六十銭。岸本さんの同行三日分が一円五十銭、二人分の船・宿・道中の食事・荷運びが二円四十銭で、合計七円五十銭。宿と普段の食費の前払いは、留守にした三日分も払い戻しなしとして扱っています。
紙と連絡に二十銭、十九日の私的な外出に四銭。今回受注した塗料用の原料へ先払いした十円も加えると、全支払いは百十八円三十五銭です。この十円は納入前の材料のための支出なので、現金は減りますが、そのまま今期の利益を十円減らす費用とは扱いません。
残高と取り置き
現金収支は百二十三円二十七銭の増加。前回の二百六十一円五十八銭二厘と合わせ、預金・現金の合計は三百八十四円八十五銭二厘です。
預金は二百二十七円に百二十円を加えて三百四十七円。手元現金は三十七円八十五銭二厘。預け入れは資金の移動で、支出合計へは含めていません。
返瓶用は、前回十七円十六銭に今回販売分の六円七十二銭を加え、返した二円五十二銭を引き、二十一円三十六銭です。
手元現金から返瓶用を除くと、十六円四十九銭二厘。塗料の直接支出見込み二十一円のうち十円を先払い済みなので、残り十一円も今後の支払予定へ入れましょう。受注代金はまだ現金ではなく、この残高は資産全体や純利益を表す数字でもありません。
俺は返瓶用の金を分け、塗料の残り十一円は預金の方へ印をつけた。普段の仕込み代まで使い切らずに済みそうだ。
そのとき小野屋から届け物が来て、荷に添えた手紙を受け取った。
差出人の花村菊之丞という名を見て、俺は封を開く。一枚の紙へ、細い字が続いている。
写真を撮ってチャッピーに読んでもらうと、楽屋で使うには器が小さいので、大きく詰めた品を相談したいという便りだった。
俺は棚の小さな白粉入れを一つ持ち上げる。これを次々に空けるところを想像すると、菊之丞さんが器を並べて文句を言う顔まで浮かんできた。
値段を決める前に、まず一日どれだけ使うのか聞きたい。
届いた手紙の横へ返信用の紙を置き、俺は菊之丞さんに尋ねることを書き始めた。