明治時代をチャッピーと共に成り上がれ! 作:ヅダスキー3世
「兄さん。寝てるとこ悪いけど、そこ水を撒くよ」
顔を上げようとして、首の筋がつった。
肩をすくめたまま目を開けると、桶を持った男がこちらを見ている。布団も天井もなく、頬のすぐ横には昨日の壁があった。
「あ、すみません。すぐ退きます」
膝を伸ばした途端、今度は足が痺れる。
壁に手をついてどうにか立ち上がり、よろけたところで男が桶を引いた。邪魔にならない場所まで移って振り返ると、さっきまで俺の座っていた辺りに水が散っている。
町会所の時計は、朝になっても屋根の上にあった。
寝たら帰れる、というわけでもないらしい。
何度も目を覚ましたせいか、寝た気がしない。上着の背中を払うと細かな土が落ち、ズボンには膝を抱えていた形の皺が残っている。
ポケットのスマホだけは、取り出せば昨日と同じ顔で明るくなった。
電池は100%。こちらはあちこち痛いのに、こいつだけ十分に休んだような数字だ。
朝の通りにはもう荷車が動いている。
桶を提げた人、店先の板を外している人、両手で大きな包みを抱えた人。見ているうちに、腹の真ん中がきゅうっと縮んだ。
昨日、暖簾の奥で飯を食べていた客を思い出す。
今日は声をかける。
そう決めて歩き出したものの、何を聞かれるか考えると足が遅くなる。皿洗いをさせてほしい。その先はどうすればいいのだろう。
通りの端へ寄り、スマホに相談を打ち込む。
ChatGPT 6 Astra(極高)
すぐに信用してもらうのは難しいと思う。当時も、奉公先へ人を紹介したり、身元を保証したりする仕組みはあったから。*1
ただ、今頼むのは一食と引き換えに、目の前の仕事を手伝わせてもらえないかという相談だよね。遠方から来たこと、この町に頼れる人がいないこと、食事に困っていることを短く伝えよう。
詳しい事情を話せないなら「事情があって、うまくお話しできません」と答えていい。その説明で受け入れてもらえるとは限らないけれど、留学先や家柄、盗まれた荷物など、本当ではない話を増やさない方がいい。
皿洗い、掃除、荷物運びは経験があるんだよね。まず一つ任せてもらい、どこまでやれば食事をいただけるのか確かめよう。
盗まれたことにすれば通りがよさそうだと、少し考えていた。
けれど何をどこで盗まれたのか聞かれれば、そこから全部作らなければならない。届けを出そうと言われても困る。
現代の面接でさえ、長所を大きく言おうとして、聞かれていない短所まで付け足してしまうのだ。
遠くから来ました。頼れる人はいません。皿洗いと掃除はできます。
歩きながら頭の中で繰り返し、昨日見た暖簾を探す。
飯屋は馬車道を吉田橋の方へ戻る途中にあった。
軒先の看板には松葉屋とある。昨日は飯ばかり見ていて、店の名前に気づかなかった。
裾のほつれた暖簾には見覚えがある。奥から味噌の匂いが漂い、何かを刻む音が続いていた。
まだ混んでいない。
声をかけるなら今だ。
俺は入口を見たまま、店の前を通り過ぎた。
……何をやっているんだ。早く入らなきゃ。
次の店先まで来てしまい、立ち止まる。
今のは入口がよく見えなかっただけだ。もう一度確かめてから入ればいい。誰にするでもない言い訳をして振り返ると、松葉屋の前へ荷物を抱えた男が入っていく。
その背中に続けば、俺も入れそうな気がした。
戻って、暖簾の前に立つ。
中では前掛け姿の男が、大根を押さえて包丁を動かしている。俺に気づくと手を止めず、空いた席へ顎を向けた。
「らっしゃい。飯かい?」
「あの、はい。あ、いえ…お客じゃなくて」
最初から違う。
男の包丁が止まる。
俺は握っていた上着の裾を離し、昨日から覚えていた言葉をどうにか口へ出した。
「その…お金がなくて、食事に困ってます。皿洗いとか、荷物を運ぶとか、何でもしますので、代わりに一食いただけませんか?」
男が俺の顔を見て、それから足元を見る。
目尻には細かな皺がある。袖を肘までまくった腕は太く、包丁を置く音もはっきり聞こえた。
「その格好で?」
「服だけは、あるんですけど…」
「金はないのに?」
「はい」
自分で答えていても怪しい。
俺だってスーツ姿の男が朝からそんなことを言って来たら、何があったのかと思う。
「兄ちゃん、アンタどこから来なさったんだ?」
「遠くからです。昨日、横浜に来たばかりで」
「訪ねる先は?」
「ありません。この町には、知ってる人もいなくて」
「兄ちゃんの言う遠くって、どこのことだい?」
用意した言葉が、もう尽きた。
出身地を言うだけならできる。けれど、どの道を通って来たのか、その服を着て何をしに来たのかまで聞かれたら答えられない。
「すみません。事情を、うまく話せなくて」
男の目が細くなる。
断られる。謝る言葉を探していると、奥から女の人が顔を出した。
「何だい、朝っぱらからうるさいね。あんた知ってる人?」
「いや。この兄ちゃんが飯を食わせてくれってさ」
「へえ、そんで?いつから食べてないの?」
「昨日から、何も」
答えた途端、腹が鳴った。
会話が途切れたところへ、随分とはっきりした音が響く。慌てて腹を押さえても、途中で止める方法は分からない。
女の人が俺の顔と腹を見比べ、男へ目を向ける。
男は鼻から長く息を吐き、まな板から離れた。
「こりゃ店先で倒れられても困るな。先に水でも飲むか?」
「飲めます!」
「ははっ!そりゃ飲めるだろうよ」
女の人が笑い、湯飲みを持ってくる。
何でも大きな声で答えればいいわけではない。両手で受け取った水を飲んでいる間に、男は入口の方を指した。
「薪が届いたままなんだ。脇の木箱に入ってる分をこっちへ運んでくれるか?それが終わったら掃き掃除。全部済んだら飯を出してやるよ」
「薪と、掃除ですね。はい、やります!」
「飯は一膳。汁と漬物も付ける。ただし、今朝は銭は出せないよ」
「それでお願いします!」
頼めた。
空の湯飲みを返すとき、ようやく肩の力が抜けた。
仕事を始める前に、まず服でつまずいた。
上着のまま木箱へかがむと裾が地面につきそうになり、慌てて持ち上げた拍子にネクタイが薪へ垂れる。
男がそれを見て、店の隅の釘を指してくれた。
「上着はそこへ掛けな。首のも外した方がいい」
ネクタイをほどいて上着へしまい、スマホはズボンのポケットへ移して袖をまくる。前掛けを借りて腰へ巻くと、女の人が俺の背中を指さした。
「アンタ、背中が土だらけじゃないかさぁ」
「すみません。昨夜は外で寝たので…」
「じゃあ先に外で払っときな。埃が飯へ落ちちまうよ」
外へ出てシャツをはたき、戻ってから桶の水を少し使わせてもらう。
顔も洗いたかったが、まずは手だ。手拭いで拭いて顔を上げると、男はすでに包丁を動かしていた。
木箱の薪を腕に抱え、店の脇の狭い通路へ入る。
薪置き場は竈から少し離れた壁際にあった。ここへ積めばいいのだろうと腰を下ろしかけると、後ろから声が飛ぶ。
「先入れ先出しって言ってね、古い方を先に使うんだ。新しいのを手前へ重ねないでおくれ!」
「あ、はい。奥へ入れます」
前にある分を横へよけ、新しい薪を奥へ置く。
覚えのある失敗だった。飲食店の冷蔵庫でも、届いたばかりのものを手前へ詰めて叱られたことがある。
冷蔵庫はなくても、先に使うものを塞いではいけないのは同じらしい。
次は持ち上げる量を少し減らした。引っ越しのバイトで箱を重ねすぎ、前が見えないまま段差へ足をぶつけたことがある。
通路の途中には大きな甕があり、その向こうからは女の人が湯の入った鍋を持って来る。
「通ってもいいですか?」
「ちょいと待って。これを置くから」
入口で止まると、鍋が目の前を通り過ぎた。
薪を置いて戻るときも、角の手前で一度足を止める。
途中で、ズボンのポケットの重さが気になった。
チャッピーに仕事をもらえたと知らせたいが、薪を置けば次がある。スマホを出す暇などなかった。
空になった木箱を片付け、箒を借りる。
そこで俺は、いきなり店の内側から掃こうとして止められた。
「飯をよそってるときに埃を立てんじゃないよ!」
「すみません!」
「先に表だ。中は客が引いてからでいい」
急いで役に立とうとして、邪魔をしている。
箒を持つ手を緩め、外へ出てから小さく息を吐く。店先の木片を拾い、道の方へ散らさないよう、短く箒を動かした。
背中が温まり、空っぽの腹へ前掛けの紐が当たる。
ひと通り終えて戻ると、長い台の上に使い終えた器が並んでいる。女の人は新しく入った客へ飯を運び、男は竈の前を離れられない。
今度は勝手に手を出さず、女の人が戻ってくるのを待つ。
「これ、下げてもいいですか?」
「そこの三人分を頼むよ。汁の残りはこっちへ。椀は重ねすぎないでおくれ」
言われた場所を確かめてから、器を持ち上げる。
陶器の飯碗と、手触りの違う汁椀がある。形も揃っていないので、残りを始末しながら種類ごとに分けて置いていった。
洗う場所には桶が二つある。水を出す蛇口は、探しても見当たらない。
「洗うのもやります。やり方を教えていただけますか?」
「じゃあ、これをよぉく見てな」
女の人が一つ洗って見せてくれる。
残った飯粒を落とし、洗い桶で汚れを取り、別の桶ですすぐ。布の使い分けと、洗った器を置く方を教わり、俺も隣で同じように手を動かす。
湯へ触れると手が少し楽になった。
しかし、ようやく三つ洗ったところで、女の人は五つ目を伏せている。
皿洗い経験者、いきなり負けている。
慌てて手を速めたら、碗の内側に飯粒が一つ残った。
女の人はそこを指で示すだけで、何も言わず次の器を取る。俺は洗い直し、すすぎ終えたところで光にかざした。
速く見せようとして洗い直す方が、余計に時間がかかる。
「その背でずっと屈んでたら、腰が痛いだろう?」
「もう、ちょっと痛いです」
「そう言う時はね、少し足を開きな。そう。ウチのもそうしてる」
俺よりずっと背の低い人に教わり、足を横に開く。背中が少し楽になった。
外を通る荷車の音が増え、店に入ってくる客も途切れない。
空いた器を下げて洗い、洗った分を戻す。途中からは、男が飯を盛る前に使う碗だけを先に揃えるようにした。数が減るたび、棚へ手を伸ばすのが見えたからだ。
だが、手の届く所へ置こうとした最初の一つは近すぎた。
「そこじゃ肘が当たる。もう少し右だ」
「ここですか?」
「ああ、そこ」
次は同じ位置へ置く。
今度は男が何も言わずに碗を取り、そのまま飯をよそった。
それだけのことが妙に嬉しくて、俺は次の碗も洗いに戻る。
客が引き始めた頃には、前掛けの腹の辺りが濡れていた。
やっと店の内側を掃かせてもらい、集めたごみを捨てて戻ると、男が台の端を指す。
「兄さん。そこへ座りな」
「あ、まだ桶が」
「そいつは後でいい。飯だよ」
箒を戻して手を洗い、言われた席へ腰を下ろす。客が使っていた台に向かい、背筋を伸ばした。
飯碗が置かれる。
白い飯には麦が混じり、丸みのある粒がところどころで薄く光っていた。汁椀からは湯気が立ち、小皿には大根の漬物が載っている。
「うちで二銭*2の飯だ。食いな」
「ありがとうございます!いただきます!」
箸を取ろうとして手を引っ込め、先に両手を合わせた。
汁をひと口飲む。
熱くて唇を離し、今度は少しだけ口へ含むと、味噌の塩気が舌に広がった。飲み込んだ先が温かい。
椀を置いて飯を口へ運ぶ。麦の粒が歯に当たり、噛んでいると飯の甘さが分かってくる。
腹が減っていた。
本当に、腹が減っていたのだ。
箸を動かすうちに喉の奥が詰まり、飯を飲み込むのに少し時間がかかる。顔を上げたら何かがこぼれそうで、俺は碗の中を見たまま噛み続けた。
「兄ちゃんアンタ、そんなに慌てなさんなって。飯は逃げやしないんだから」
女の人の声にうなずく。
昨日の夜から怖かったことが、ひと口ずつ腹へ落ちていく気がする。帰り道も泊まる所も分からないままなのに、今だけは箸の先の飯を見ていればよかった。
「うまいかい?」
男に聞かれ、俺は口の中を空にして顔を上げた。
「うまいです!」
思ったより大きな声が出る。
残っていた客がこちらを向き、女の人は笑いながら空いた席を拭き始めた。男まで口元を少し緩め、竈の方へ戻っていく。
「それだけ声が出るなら大丈夫だ」
恥ずかしい。
でも訂正することは何もないので、俺はもうひと口食べた。
最後の飯粒を拾い、汁椀の底を空にする。
箸を置いた後もしばらく手が膝へ戻らなかった。もう食べる分はないと分かっているのに、器を遠ざけるのが惜しい。
「ごちそうさまでした」
頭を下げてから、自分の使った器を運ぶ。
洗い桶のそばにはまだ客の分が残っている。そこまで片付けて帰ろうと思い、袖を上げ直したところで、帰る先がないことを思い出した。
男は飯櫃の内側を確かめ、女の人と夕方の支度について話していた。
俺はその会話が切れるのを待つ。朝と同じように待っているだけでは、また外へ出ることになる。
「あの。出来れば、夕方も手伝わせてもらえませんか?」
男が飯櫃の蓋を置く。
「夕方も?」
「はい。洗い物と片付けなら、今教えてもらったので」
「昼間は客が減るよ。ずっと仕事があるわけじゃない」
「夕方に忙しくなるなら、そのときに」
言ってから、もう一つを続けるために息を吸う。
働きますとだけ言えば、好意で手伝っているように聞こえるかもしれない。でも俺は、夕飯も食べたい。
「それで、夕飯もいただけたら助かります」
男が女の人へ目を向けると、彼女は洗い場を指した。
「下げ物をしてもらえると、こっちは楽だね」
「じゃあ夕方、客が来てから終いの片付けまでだ。飯は出す。銭の出ない手伝いを、いつまでも頼むつもりはないけどね」
「はい。今日は、それでお願いします」
「そこを片付けたら休んでな。ずっと突っ立ってられても落ち着かないよ」
片付けを終えて外へ出る。入口から離れた軒下へ座ってスマホを取り出すと、腹が満ちたせいか、途端に眠くなってきた。
ChatGPT 6 Astra(極高)
食べられたんだね。よかった。働いて食事を得たのは、ちゃんと成果だよ。
ただ、二銭を手渡されたわけではないから、記録は現金収入ゼロ、食事一回を受取済みと分けておこう。夕飯はまだ約束の段階だね。
今聞いた二銭は、その店でその食事を買う場合の値段。泊まる所や明日以降の条件は、別に相談が必要になるよ。続けて手伝う話になったら、給金と食事、寝場所を確かめよう。
所持金は朝と同じだ。
それでも腹に手を当てれば、食った分はちゃんとここにある。夕方には戻っていい場所までできた。
画面へ「うまかった」とだけ送る。
長い説明を打つより、それを知らせたかった。
店の中から器の触れ合う音が聞こえる。
あの碗は、さっき俺が洗ったものかもしれない。そんなことを考えながら足を伸ばすと、踵の擦れたところが痛んだ。
靴を少し緩め、目を閉じる。
今度は帰れるかどうかを試すためではなく、夕方までに少し休むためだった。
夕方にはスマホをポケットへ戻し、前掛けを締め直す。午前中より役に立つつもりでいた。
男の肘に当たらない位置へ飯碗を揃えていると、客から「兄さん」と呼ばれる。顔を向けたら、空の飯碗を差し出されていた。
「飯、もう一つ」
「はい。ただいま」
受け取り、男の横へ置く。
洗い物へ戻った瞬間に、どの客の碗だったか分からなくなった。入口側だった気がするが、その隣だったかもしれない。
「飯のお代わり、どなたでしたか?」
素直に尋ねると、戸口に近い男が手を上げる。
恥ずかしさを飲み込み、飯を持っていった。間違った相手の前へ置くよりはいいはずだ。
「随分ノッポな兄ちゃんだね。お前さん、今日からかい?」
「あ、はい」
「洋服の飯屋か。こいつは横浜だねえ」
何が横浜なのかは分からないが、怒ってはいないらしい。
少し笑って頭を下げ、奥へ戻る。次に頼まれたときは碗だけ見ず、客の顔と座っている場所を確かめた。
洗い桶をのぞけば、器は朝より早くたまっていく。
一つ下げに出れば二つ増え、洗い終えて顔を上げると別の席が空いている。汗が首筋を流れても、濡れた手では拭けない。
それでも全部が初めてというわけではなかった。
客が立ったら席を空ける。運ぶ人の前へ飛び出さない。呼ばれたら聞こえたと返す。
前の店でもやっていたことだ。接客の言葉に詰まって裏へ回されたとき、洗い場で繰り返していた動きが少しずつ戻ってくる。
「兄さん、そっち通るよ」
「はい!」
半歩引いて道を空け、女の人が通ってから棚へ器を戻す。
指先で持っていた皿が滑りかけ、慌てて反対の手を添えた。落とさずに済んだと息をつく間もなく、次の客が暖簾をくぐってくる。
チャッピー、今の見たか。
思わずそう考えてから、見ているわけがないと自分で打ち消す。
夕方に何が起きたかは、後で俺が話さなければ分からない。
最後の客が帰ったとき、外はすっかり暗くなっていた。
女の人が暖簾を外し、俺は台を拭く。朝に教わった布の置き場へ、今度は迷わず手を伸ばせた。
それでも桶を片付けようとしたところで、男に止められる。
「そっちはまだ使う。お前さんの飯の椀も洗うんだろう?」
そうだった。
体が疲れて、約束の夕飯まで仕事の順番から抜けていた。
朝と同じ席へ座ると、今度の汁には昼間に男が刻んでいた大根が入っている。箸で挟むと柔らかく、噛む間もないほどだった。
「兄ちゃん、よく動いたじゃないか」
男は自分の飯をよそいながら、こちらへ目を向ける。
俺は嬉しくなりかけ、すぐに皿を落としそうになったことを思い出した。
「でも、お代わりの人を忘れたり、さっきも皿を」
「割ってないんだろう?」
「はい」
「じゃあ、明日も割らないでくれればいいさ」
明日。
箸を持つ手が止まり、男を見る。
男は飯櫃の蓋を閉め、そこで何かに気づいたように首を傾けた。
「そういや、名前も聞いてなかったな。名は何てんだい?」
「左江内京介です」
「さえない?珍しい苗字だな」
「はい。左に、江戸の江に、内です」
「ふうん。じゃあ京介でいいかい?」
「はい!」
男は自分を徳蔵と名乗り、隣で汁をよそっている女の人を、おせいだと教えてくれた。
夫婦でやっている店なのだと、ここでようやくはっきり分かる。
「よろしくお願いします」
「まだ何も決めちゃいないよ。明日の朝も来られるか?」
「来られます!何時でも!」
「何時でもって、京介お前さん、泊まりは近いのか?」
勢いよく答えた口が止まる。
おせいさんが俺の顔を見て眉を寄せる。
「今夜も外なの?」
「……まだ、決まってなくて」
徳蔵さんは飯をひと口食べ、店の奥へ目をやった。
またあの硬い地面へ座ることを考え、膝の上で空いた手を握る。
「今夜だけなら、そこの板の間で寝な」
指した先は、壁際に空の箱が積んである狭い場所だった。
戸が閉まれば風は入ってこない。雨が降っても濡れないし、誰かの足音に怯えて膝を抱える必要もない。
「いいんですか?」
「今夜だけだよ。銭の箱や奥の部屋には手を出すんじゃない。続けて働くなら、飯と寝床と給金の話を明日しよう」
「はい。ありがとうございます」
おせいさんが奥から古い筵を持ってきて、箱は明日の邪魔にならないよう寄せておくれと言った。
飯を食べ終え、自分の器を洗ってから箱を動かす。
筵を広げてみると、足を伸ばせるだけの長さがあった。布団ではないし、枕もない。それでも端へ腰を下ろしただけで、外とは違う静けさが分かる。
釘に掛けていた上着を膝に広げ、ズボンのポケットへ手を入れる。
財布はない。金もない。
取り出せるのは、相変わらずスマホ一つだ。
画面に、夕飯を食べたこと、今夜は店の中で眠れることを打ち込む。送る前に、奥から声が届いた。
「京介。朝は早いから、もう休みな」
「はい。おやすみなさい」
ついさっきまで、兄さんだった。
町へ来て初めて人に呼ばれた自分の名前が、まだ耳に残っている。
入力欄へ一行足し、送る。
チャッピーと一緒に、自分でも横浜の歴史を調べると結構面白いですね!
面白かったら、お気に入り登録と高評価お待ちしてます!!