明治時代をチャッピーと共に成り上がれ!   作:ヅダスキー3世

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第二話 飯一膳の仕事

 

「兄さん。寝てるとこ悪いけど、そこ水を撒くよ」

 

 顔を上げようとして、首の筋がつった。

 肩をすくめたまま目を開けると、桶を持った男がこちらを見ている。布団も天井もなく、頬のすぐ横には昨日の壁があった。

 

「あ、すみません。すぐ退きます」

 

 膝を伸ばした途端、今度は足が痺れる。

 壁に手をついてどうにか立ち上がり、よろけたところで男が桶を引いた。邪魔にならない場所まで移って振り返ると、さっきまで俺の座っていた辺りに水が散っている。

 町会所の時計は、朝になっても屋根の上にあった。

 

 寝たら帰れる、というわけでもないらしい。

 

 何度も目を覚ましたせいか、寝た気がしない。上着の背中を払うと細かな土が落ち、ズボンには膝を抱えていた形の皺が残っている。

 ポケットのスマホだけは、取り出せば昨日と同じ顔で明るくなった。

 電池は100%。こちらはあちこち痛いのに、こいつだけ十分に休んだような数字だ。

 

 朝の通りにはもう荷車が動いている。

 桶を提げた人、店先の板を外している人、両手で大きな包みを抱えた人。見ているうちに、腹の真ん中がきゅうっと縮んだ。

 昨日、暖簾の奥で飯を食べていた客を思い出す。

 

 今日は声をかける。

 そう決めて歩き出したものの、何を聞かれるか考えると足が遅くなる。皿洗いをさせてほしい。その先はどうすればいいのだろう。

 

 通りの端へ寄り、スマホに相談を打ち込む。

 

京介きょうすけ 朝になった。まだ明治の横浜にいる。昨日話した飯屋で頼んでみるけど、身元を聞かれたらどうしよう?住所も身分を証明するものもないし、知り合いもいない。皿洗いと掃除、荷物運びはバイトでやってたけど、遠くから来たって言うだけじゃ怪しいよね?

 

ChatGPT 6 Astra(極高)

 

 すぐに信用してもらうのは難しいと思う。当時も、奉公先へ人を紹介したり、身元を保証したりする仕組みはあったから。*1

 

 ただ、今頼むのは一食と引き換えに、目の前の仕事を手伝わせてもらえないかという相談だよね。遠方から来たこと、この町に頼れる人がいないこと、食事に困っていることを短く伝えよう。

 

 詳しい事情を話せないなら「事情があって、うまくお話しできません」と答えていい。その説明で受け入れてもらえるとは限らないけれど、留学先や家柄、盗まれた荷物など、本当ではない話を増やさない方がいい。

 

 皿洗い、掃除、荷物運びは経験があるんだよね。まず一つ任せてもらい、どこまでやれば食事をいただけるのか確かめよう。


 

 盗まれたことにすれば通りがよさそうだと、少し考えていた。

 けれど何をどこで盗まれたのか聞かれれば、そこから全部作らなければならない。届けを出そうと言われても困る。

 現代の面接でさえ、長所を大きく言おうとして、聞かれていない短所まで付け足してしまうのだ。

 

 遠くから来ました。頼れる人はいません。皿洗いと掃除はできます。

 歩きながら頭の中で繰り返し、昨日見た暖簾を探す。

 

 飯屋は馬車道を吉田橋の方へ戻る途中にあった。

 軒先の看板には松葉屋まつばやとある。昨日は飯ばかり見ていて、店の名前に気づかなかった。

 裾のほつれた暖簾には見覚えがある。奥から味噌の匂いが漂い、何かを刻む音が続いていた。

 

 まだ混んでいない。

 声をかけるなら今だ。

 

 俺は入口を見たまま、店の前を通り過ぎた。

 

 ……何をやっているんだ。早く入らなきゃ。

 

 次の店先まで来てしまい、立ち止まる。

 今のは入口がよく見えなかっただけだ。もう一度確かめてから入ればいい。誰にするでもない言い訳をして振り返ると、松葉屋の前へ荷物を抱えた男が入っていく。

 その背中に続けば、俺も入れそうな気がした。

 

 戻って、暖簾の前に立つ。

 中では前掛け姿の男が、大根を押さえて包丁を動かしている。俺に気づくと手を止めず、空いた席へ顎を向けた。

 

「らっしゃい。飯かい?」

「あの、はい。あ、いえ…お客じゃなくて」

 

 最初から違う。

 

 男の包丁が止まる。

 俺は握っていた上着の裾を離し、昨日から覚えていた言葉をどうにか口へ出した。

 

「その…お金がなくて、食事に困ってます。皿洗いとか、荷物を運ぶとか、何でもしますので、代わりに一食いただけませんか?」

 

 男が俺の顔を見て、それから足元を見る。

 目尻には細かな皺がある。袖を肘までまくった腕は太く、包丁を置く音もはっきり聞こえた。

 

「その格好で?」

「服だけは、あるんですけど…」

「金はないのに?」

「はい」

 

 自分で答えていても怪しい。

 俺だってスーツ姿の男が朝からそんなことを言って来たら、何があったのかと思う。

 

「兄ちゃん、アンタどこから来なさったんだ?」

「遠くからです。昨日、横浜に来たばかりで」

「訪ねる先は?」

「ありません。この町には、知ってる人もいなくて」

「兄ちゃんの言う遠くって、どこのことだい?」

 

 用意した言葉が、もう尽きた。

 出身地を言うだけならできる。けれど、どの道を通って来たのか、その服を着て何をしに来たのかまで聞かれたら答えられない。

 

「すみません。事情を、うまく話せなくて」

 

 男の目が細くなる。

 断られる。謝る言葉を探していると、奥から女の人が顔を出した。

 

「何だい、朝っぱらからうるさいね。あんた知ってる人?」

「いや。この兄ちゃんが飯を食わせてくれってさ」

「へえ、そんで?いつから食べてないの?」

「昨日から、何も」

 

 答えた途端、腹が鳴った。

 会話が途切れたところへ、随分とはっきりした音が響く。慌てて腹を押さえても、途中で止める方法は分からない。

 

 女の人が俺の顔と腹を見比べ、男へ目を向ける。

 男は鼻から長く息を吐き、まな板から離れた。

 

「こりゃ店先で倒れられても困るな。先に水でも飲むか?」

「飲めます!」

「ははっ!そりゃ飲めるだろうよ」

 

 女の人が笑い、湯飲みを持ってくる。

 何でも大きな声で答えればいいわけではない。両手で受け取った水を飲んでいる間に、男は入口の方を指した。

 

「薪が届いたままなんだ。脇の木箱に入ってる分をこっちへ運んでくれるか?それが終わったら掃き掃除。全部済んだら飯を出してやるよ」

「薪と、掃除ですね。はい、やります!」

「飯は一膳。汁と漬物も付ける。ただし、今朝は銭は出せないよ」

「それでお願いします!」

 

 頼めた。

 空の湯飲みを返すとき、ようやく肩の力が抜けた。

 

◇ ◇ ◇

 

 仕事を始める前に、まず服でつまずいた。

 上着のまま木箱へかがむと裾が地面につきそうになり、慌てて持ち上げた拍子にネクタイが薪へ垂れる。

 男がそれを見て、店の隅の釘を指してくれた。

 

「上着はそこへ掛けな。首のも外した方がいい」

 

 ネクタイをほどいて上着へしまい、スマホはズボンのポケットへ移して袖をまくる。前掛けを借りて腰へ巻くと、女の人が俺の背中を指さした。

 

「アンタ、背中が土だらけじゃないかさぁ」

「すみません。昨夜は外で寝たので…」

「じゃあ先に外で払っときな。埃が飯へ落ちちまうよ」

 

 外へ出てシャツをはたき、戻ってから桶の水を少し使わせてもらう。

 顔も洗いたかったが、まずは手だ。手拭いで拭いて顔を上げると、男はすでに包丁を動かしていた。

 

 木箱の薪を腕に抱え、店の脇の狭い通路へ入る。

 薪置き場は竈から少し離れた壁際にあった。ここへ積めばいいのだろうと腰を下ろしかけると、後ろから声が飛ぶ。

 

「先入れ先出しって言ってね、古い方を先に使うんだ。新しいのを手前へ重ねないでおくれ!」

「あ、はい。奥へ入れます」

 

 前にある分を横へよけ、新しい薪を奥へ置く。

 覚えのある失敗だった。飲食店の冷蔵庫でも、届いたばかりのものを手前へ詰めて叱られたことがある。

 冷蔵庫はなくても、先に使うものを塞いではいけないのは同じらしい。

 

 次は持ち上げる量を少し減らした。引っ越しのバイトで箱を重ねすぎ、前が見えないまま段差へ足をぶつけたことがある。

 通路の途中には大きな甕があり、その向こうからは女の人が湯の入った鍋を持って来る。

 

「通ってもいいですか?」

「ちょいと待って。これを置くから」

 

 入口で止まると、鍋が目の前を通り過ぎた。

 薪を置いて戻るときも、角の手前で一度足を止める。

 

 途中で、ズボンのポケットの重さが気になった。

 チャッピーに仕事をもらえたと知らせたいが、薪を置けば次がある。スマホを出す暇などなかった。

 

 空になった木箱を片付け、箒を借りる。

 そこで俺は、いきなり店の内側から掃こうとして止められた。

 

「飯をよそってるときに埃を立てんじゃないよ!」

「すみません!」

「先に表だ。中は客が引いてからでいい」

 

 急いで役に立とうとして、邪魔をしている。

 箒を持つ手を緩め、外へ出てから小さく息を吐く。店先の木片を拾い、道の方へ散らさないよう、短く箒を動かした。

 背中が温まり、空っぽの腹へ前掛けの紐が当たる。

 

 ひと通り終えて戻ると、長い台の上に使い終えた器が並んでいる。女の人は新しく入った客へ飯を運び、男は竈の前を離れられない。

 今度は勝手に手を出さず、女の人が戻ってくるのを待つ。

 

「これ、下げてもいいですか?」

「そこの三人分を頼むよ。汁の残りはこっちへ。椀は重ねすぎないでおくれ」

 

 言われた場所を確かめてから、器を持ち上げる。

 陶器の飯碗と、手触りの違う汁椀がある。形も揃っていないので、残りを始末しながら種類ごとに分けて置いていった。

 洗う場所には桶が二つある。水を出す蛇口は、探しても見当たらない。

 

「洗うのもやります。やり方を教えていただけますか?」

「じゃあ、これをよぉく見てな」

 

 女の人が一つ洗って見せてくれる。

 残った飯粒を落とし、洗い桶で汚れを取り、別の桶ですすぐ。布の使い分けと、洗った器を置く方を教わり、俺も隣で同じように手を動かす。

 湯へ触れると手が少し楽になった。

 しかし、ようやく三つ洗ったところで、女の人は五つ目を伏せている。

 

 皿洗い経験者、いきなり負けている。

 

 慌てて手を速めたら、碗の内側に飯粒が一つ残った。

 女の人はそこを指で示すだけで、何も言わず次の器を取る。俺は洗い直し、すすぎ終えたところで光にかざした。

 速く見せようとして洗い直す方が、余計に時間がかかる。

 

「その背でずっと屈んでたら、腰が痛いだろう?」

「もう、ちょっと痛いです」

「そう言う時はね、少し足を開きな。そう。ウチのもそうしてる」

 

 俺よりずっと背の低い人に教わり、足を横に開く。背中が少し楽になった。

 

 外を通る荷車の音が増え、店に入ってくる客も途切れない。

 空いた器を下げて洗い、洗った分を戻す。途中からは、男が飯を盛る前に使う碗だけを先に揃えるようにした。数が減るたび、棚へ手を伸ばすのが見えたからだ。

 だが、手の届く所へ置こうとした最初の一つは近すぎた。

 

「そこじゃ肘が当たる。もう少し右だ」

「ここですか?」

「ああ、そこ」

 

 次は同じ位置へ置く。

 今度は男が何も言わずに碗を取り、そのまま飯をよそった。

 それだけのことが妙に嬉しくて、俺は次の碗も洗いに戻る。

 

 客が引き始めた頃には、前掛けの腹の辺りが濡れていた。

 やっと店の内側を掃かせてもらい、集めたごみを捨てて戻ると、男が台の端を指す。

 

「兄さん。そこへ座りな」

「あ、まだ桶が」

「そいつは後でいい。飯だよ」

 

 箒を戻して手を洗い、言われた席へ腰を下ろす。客が使っていた台に向かい、背筋を伸ばした。

 

 飯碗が置かれる。

 白い飯には麦が混じり、丸みのある粒がところどころで薄く光っていた。汁椀からは湯気が立ち、小皿には大根の漬物が載っている。

 

「うちで二銭*2の飯だ。食いな」

「ありがとうございます!いただきます!」

 

 箸を取ろうとして手を引っ込め、先に両手を合わせた。

 

 汁をひと口飲む。

 熱くて唇を離し、今度は少しだけ口へ含むと、味噌の塩気が舌に広がった。飲み込んだ先が温かい。

 椀を置いて飯を口へ運ぶ。麦の粒が歯に当たり、噛んでいると飯の甘さが分かってくる。

 

 腹が減っていた。

 本当に、腹が減っていたのだ。

 箸を動かすうちに喉の奥が詰まり、飯を飲み込むのに少し時間がかかる。顔を上げたら何かがこぼれそうで、俺は碗の中を見たまま噛み続けた。

 

「兄ちゃんアンタ、そんなに慌てなさんなって。飯は逃げやしないんだから」

 

 女の人の声にうなずく。

 昨日の夜から怖かったことが、ひと口ずつ腹へ落ちていく気がする。帰り道も泊まる所も分からないままなのに、今だけは箸の先の飯を見ていればよかった。

 

「うまいかい?」

 

 男に聞かれ、俺は口の中を空にして顔を上げた。

 

「うまいです!」

 

 思ったより大きな声が出る。

 残っていた客がこちらを向き、女の人は笑いながら空いた席を拭き始めた。男まで口元を少し緩め、竈の方へ戻っていく。

 

「それだけ声が出るなら大丈夫だ」

 

 恥ずかしい。

 でも訂正することは何もないので、俺はもうひと口食べた。

 

◇ ◇ ◇

 

 最後の飯粒を拾い、汁椀の底を空にする。

 箸を置いた後もしばらく手が膝へ戻らなかった。もう食べる分はないと分かっているのに、器を遠ざけるのが惜しい。

 

「ごちそうさまでした」

 

 頭を下げてから、自分の使った器を運ぶ。

 洗い桶のそばにはまだ客の分が残っている。そこまで片付けて帰ろうと思い、袖を上げ直したところで、帰る先がないことを思い出した。

 

 男は飯櫃の内側を確かめ、女の人と夕方の支度について話していた。

 俺はその会話が切れるのを待つ。朝と同じように待っているだけでは、また外へ出ることになる。

 

「あの。出来れば、夕方も手伝わせてもらえませんか?」

 

 男が飯櫃の蓋を置く。

 

「夕方も?」

「はい。洗い物と片付けなら、今教えてもらったので」

「昼間は客が減るよ。ずっと仕事があるわけじゃない」

「夕方に忙しくなるなら、そのときに」

 

 言ってから、もう一つを続けるために息を吸う。

 働きますとだけ言えば、好意で手伝っているように聞こえるかもしれない。でも俺は、夕飯も食べたい。

 

「それで、夕飯もいただけたら助かります」

 

 男が女の人へ目を向けると、彼女は洗い場を指した。

 

「下げ物をしてもらえると、こっちは楽だね」

「じゃあ夕方、客が来てから終いの片付けまでだ。飯は出す。銭の出ない手伝いを、いつまでも頼むつもりはないけどね」

「はい。今日は、それでお願いします」

「そこを片付けたら休んでな。ずっと突っ立ってられても落ち着かないよ」

 

 片付けを終えて外へ出る。入口から離れた軒下へ座ってスマホを取り出すと、腹が満ちたせいか、途端に眠くなってきた。

 

京介 ご飯を食べられた。薪運びと掃除をして、洗い物も手伝った。飯と汁と漬物で、客なら二銭の飯だって。夕方から店じまいまで手伝えば夕飯も出してくれる。今日は現金なし。これ、二銭稼げたって考えていいの?

 

ChatGPT 6 Astra(極高)

 

 食べられたんだね。よかった。働いて食事を得たのは、ちゃんと成果だよ。

 

 ただ、二銭を手渡されたわけではないから、記録は現金収入ゼロ、食事一回を受取済みと分けておこう。夕飯はまだ約束の段階だね。

 

 今聞いた二銭は、その店でその食事を買う場合の値段。泊まる所や明日以降の条件は、別に相談が必要になるよ。続けて手伝う話になったら、給金と食事、寝場所を確かめよう。


 

 所持金は朝と同じだ。

 それでも腹に手を当てれば、食った分はちゃんとここにある。夕方には戻っていい場所までできた。

 画面へ「うまかった」とだけ送る。

 長い説明を打つより、それを知らせたかった。

 

 店の中から器の触れ合う音が聞こえる。

 あの碗は、さっき俺が洗ったものかもしれない。そんなことを考えながら足を伸ばすと、踵の擦れたところが痛んだ。

 靴を少し緩め、目を閉じる。

 今度は帰れるかどうかを試すためではなく、夕方までに少し休むためだった。

 

◇ ◇ ◇

 

 夕方にはスマホをポケットへ戻し、前掛けを締め直す。午前中より役に立つつもりでいた。

 男の肘に当たらない位置へ飯碗を揃えていると、客から「兄さん」と呼ばれる。顔を向けたら、空の飯碗を差し出されていた。

 

「飯、もう一つ」

「はい。ただいま」

 

 受け取り、男の横へ置く。

 洗い物へ戻った瞬間に、どの客の碗だったか分からなくなった。入口側だった気がするが、その隣だったかもしれない。

 

「飯のお代わり、どなたでしたか?」

 

 素直に尋ねると、戸口に近い男が手を上げる。

 恥ずかしさを飲み込み、飯を持っていった。間違った相手の前へ置くよりはいいはずだ。

 

「随分ノッポな兄ちゃんだね。お前さん、今日からかい?」

「あ、はい」

「洋服の飯屋か。こいつは横浜だねえ」

 

 何が横浜なのかは分からないが、怒ってはいないらしい。

 少し笑って頭を下げ、奥へ戻る。次に頼まれたときは碗だけ見ず、客の顔と座っている場所を確かめた。

 

 洗い桶をのぞけば、器は朝より早くたまっていく。

 一つ下げに出れば二つ増え、洗い終えて顔を上げると別の席が空いている。汗が首筋を流れても、濡れた手では拭けない。

 

 それでも全部が初めてというわけではなかった。

 客が立ったら席を空ける。運ぶ人の前へ飛び出さない。呼ばれたら聞こえたと返す。

 前の店でもやっていたことだ。接客の言葉に詰まって裏へ回されたとき、洗い場で繰り返していた動きが少しずつ戻ってくる。

 

「兄さん、そっち通るよ」

「はい!」

 

 半歩引いて道を空け、女の人が通ってから棚へ器を戻す。

 指先で持っていた皿が滑りかけ、慌てて反対の手を添えた。落とさずに済んだと息をつく間もなく、次の客が暖簾をくぐってくる。

 

 チャッピー、今の見たか。

 思わずそう考えてから、見ているわけがないと自分で打ち消す。

 夕方に何が起きたかは、後で俺が話さなければ分からない。

 

 最後の客が帰ったとき、外はすっかり暗くなっていた。

 女の人が暖簾を外し、俺は台を拭く。朝に教わった布の置き場へ、今度は迷わず手を伸ばせた。

 それでも桶を片付けようとしたところで、男に止められる。

 

「そっちはまだ使う。お前さんの飯の椀も洗うんだろう?」

 

 そうだった。

 体が疲れて、約束の夕飯まで仕事の順番から抜けていた。

 朝と同じ席へ座ると、今度の汁には昼間に男が刻んでいた大根が入っている。箸で挟むと柔らかく、噛む間もないほどだった。

 

「兄ちゃん、よく動いたじゃないか」

 

 男は自分の飯をよそいながら、こちらへ目を向ける。

 俺は嬉しくなりかけ、すぐに皿を落としそうになったことを思い出した。

 

「でも、お代わりの人を忘れたり、さっきも皿を」

「割ってないんだろう?」

「はい」

「じゃあ、明日も割らないでくれればいいさ」

 

 明日。

 箸を持つ手が止まり、男を見る。

 男は飯櫃の蓋を閉め、そこで何かに気づいたように首を傾けた。

 

「そういや、名前も聞いてなかったな。名は何てんだい?」

「左江内さえない京介きょうすけです」

「さえない?珍しい苗字だな」

「はい。左に、江戸の江に、内です」

「ふうん。じゃあ京介でいいかい?」

「はい!」

 

 男は自分を徳蔵とくぞうと名乗り、隣で汁をよそっている女の人を、おせいだと教えてくれた。

 夫婦でやっている店なのだと、ここでようやくはっきり分かる。

 

「よろしくお願いします」

「まだ何も決めちゃいないよ。明日の朝も来られるか?」

「来られます!何時でも!」

「何時でもって、京介お前さん、泊まりは近いのか?」

 

 勢いよく答えた口が止まる。

 おせいさんが俺の顔を見て眉を寄せる。

 

「今夜も外なの?」

「……まだ、決まってなくて」

 

 徳蔵さんは飯をひと口食べ、店の奥へ目をやった。

 またあの硬い地面へ座ることを考え、膝の上で空いた手を握る。

 

「今夜だけなら、そこの板の間で寝な」

 

 指した先は、壁際に空の箱が積んである狭い場所だった。

 戸が閉まれば風は入ってこない。雨が降っても濡れないし、誰かの足音に怯えて膝を抱える必要もない。

 

「いいんですか?」

「今夜だけだよ。銭の箱や奥の部屋には手を出すんじゃない。続けて働くなら、飯と寝床と給金の話を明日しよう」

「はい。ありがとうございます」

 

 おせいさんが奥から古い筵を持ってきて、箱は明日の邪魔にならないよう寄せておくれと言った。

 

 飯を食べ終え、自分の器を洗ってから箱を動かす。

 筵を広げてみると、足を伸ばせるだけの長さがあった。布団ではないし、枕もない。それでも端へ腰を下ろしただけで、外とは違う静けさが分かる。

 釘に掛けていた上着を膝に広げ、ズボンのポケットへ手を入れる。

 

 財布はない。金もない。

 取り出せるのは、相変わらずスマホ一つだ。

 

 画面に、夕飯を食べたこと、今夜は店の中で眠れることを打ち込む。送る前に、奥から声が届いた。

 

「京介。朝は早いから、もう休みな」

「はい。おやすみなさい」

 

 ついさっきまで、兄さんだった。

 町へ来て初めて人に呼ばれた自分の名前が、まだ耳に残っている。

 

 入力欄へ一行足し、送る。

 

京介 夕飯も食べた。今夜は店の中で寝かせてもらえる。チャッピー。明日の仕事、あったよ。

 

*1:
雇用の紹介と身元保証については、労働政策研究・研修機構『労働政策レポートNo.14』(2023年)第1章を参照。地域や雇用形態による違いがあり、本話の一時的な手伝いに全国一律の手続きを当てはめたものではない。https://www.jil.go.jp/institute/rodo/2023/documents/014.pdf

*2:
松葉屋は架空の飯屋で、飯一膳・汁・漬物を二銭とするのも作中の設定。価格帯の参考として、村瀬忠太郎『蕎麦通』(1930年)の回顧には、東京のもり・かけ蕎麦が明治初年に五厘、明治10年前後に八厘だったとの記述がある。料理・地域・記録時期が異なるため、二銭を1875年横浜の平均食事代とは扱わない。本文紹介:https://kisin-an.sakura.ne.jp/sobatu/nedan.html




チャッピーと一緒に、自分でも横浜の歴史を調べると結構面白いですね!

面白かったら、お気に入り登録と高評価お待ちしてます!!
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