【40話まで投稿予約済み】明治時代をチャッピーと共に成り上がれ! 作:ヅダスキー3世
「ここを通れるようにしていただけますか?」
おつねさんが指さしたのは、俺が机を置こうとしていた場所だった。
四月十六日、弁天通から歩いて来られる裏通りで、空いた仕事場を見ている。板敷きの部屋に、水仕事のできる土間もある。これまで借りていた薬種商の場所より広く、明かりも十分だ。
俺は入口から順に机を置くつもりでいたが、おつねさんは手を洗って戻る道を辿っている。
「濡れた器を抱えて、粉の横を通ることになりませんか?」
「……なりますね」
「こちらへ置けば、洗ったものを先に乾かせます」
部屋の奥へ行った庄吉さんは、床板へ片足ずつ体重をかけていた。
「秤の台は、こっちがよいでしょう。戸口で人が動くたびに揺れたら、量る方が困ります」
「そこまで考えていませんでした」
「前の仕事で、箱の底板を直しても荷台が傾いていたことがありまして」
彼が床へしゃがむ。おつねさんも隣から覗き、ここなら明るくて針が見やすいと言った。
二人の話を聞くと、ここで働く様子がはっきりしてくる。
貸主には化粧品の製造に使うと伝え、粉と液体を扱う部屋も分けるつもりだ。菓子と塗料は従来の別々の場所で続け、道具も混ぜない。弁天通には受注と包装、出荷の仕事を残す。
おりんさんが手元の控えを開いた。
「二十一日から来月二十日までで二円四十銭。お預けする分も二円四十銭で、お話は変わりませんね?」
貸主が頷く。小野屋からの紹介に加え、これまで商売を続けてきたことも聞いてくれていた。
今はどこへ品を納め、どの店が代金を払っているか話せる。それが嬉しくてすぐ決めかけると、おりんさんに修繕の控えも見せられた。
床と戸の手直し、掃除のできる作業台などを合わせて四円八十銭。秤や器具、覆い、洗い物の道具に八円六十銭を見込んでいる。
手元の自由になる十円余りでは足りない。
「借りるお金より、中へ入れる物の方が高いですね」
「ええ、京介さんがお住まいになるわけではありませんもの」
「住めと言われたら、住めそうですけど」
「それでは、お仕事が終わらなくなります」
おりんさんは笑いながらも、その案だけは控えへ書いてくれなかった。
おつねさんには帰り道も歩いて確かめてもらう。姉の家へ子供を迎えに行くなら、午後四時に出られれば間に合うという。
俺は時刻へ丸をつけ、銀行から下ろす金を四十円と決めた。
給金の相談は、昨夜の松葉屋から続いていた。
徳蔵さんに紹介された乾物屋と荷造りを請ける店で、通いの働き手に何を頼み、何時から何時まで働いてもらっているか聞いて回った。朝八時から午後四時ほどまでで二十銭という口があり、昼飯は自分で用意する条件だという。
経験や賄いの欄も足してみると、同じ二十銭でも条件は違う。
俺は二人へ一日二十二銭を出したいと考え、書面の下書きと一緒にチャッピーへ送った。
給金と暮らしの見通し
二十二銭は、聞き取った二十銭より一割高い額です。昼食も別に出すので、二十六日働く月なら一人の給金は五円七十二銭、商会が負担する昼食代は七十八銭。二人分を合わせて十三円です。
京介さん自身の条件では、三十日分の食費一円八十銭と住まい八十銭を合わせて二円六十銭です。五円七十二銭から引くと三円十二銭が残ります。ただし、おつねさんには子供の食事や姉への負担もあり、京介さん一人の暮らしをそのまま家計へ当てはめることはできません。
今回の聞取りは数軒の個別条件であり、横浜全体や女性全体の平均賃金ではありません。二人とも製造を覚える段階から同じ日当とし、慣れた後は担当する仕事や技能を確かめて見直せます。
休みと病気への支え
日曜は所定の休みとし、日当の対象日から外します。商会の都合で予定の仕事を急に休みにするときは、一日分を支払う約束にすると収入を見通しやすくなります。注文が少ない日にも、清掃や訓練など仕事を用意する前提で予算を組みましょう。
本人の病気による欠勤は、月に三日の所定勤務日まで、日当の半分である十一銭を補助する案があります。二人が上限まで使っても月六十六銭です。長引く場合は別途相談とし、初めから際限なく支給する約束にはしません。
仕事中のけがは、必要な治療費を商会が実費で持つ方針にできます。まず十円を預金の中で取り置き、使ったら補充します。十円を治療打切りの上限にはせず、超える見込みなら追加資金を確保してください。受診を遅らせないことと、危険な作業を教えることは、費用の約束と併せて必要です。
既存の人と、守れる予算
おきぬさんたちにも、頼んでいる時間と仕事を確かめてから改定を伝えましょう。半日の仕事と一日の仕事、職種と経験の差を説明できるようにします。病気の際の補助や業務上のけがへの対応も、対象者を決めて書き残してください。
二人の給金・食事と、今ある場所の賃料などへ、当面一か月二十五円の運転予算を確保できます。これは原料代や新設費、返瓶の取り置きとは別です。支払日を定めて、その日まで使わない分を帳面で分けてください。
二人で十三円。自分の飯代だけを数えていた頃なら、画面を閉じてしまいそうな額だ。今は毎月の支払いを並べても余裕が残る。
ただ、高く払うから裏切らないはずだという期待は、チャッピーにまた指摘された。秘密の管理を続け、俺自身も支払いの約束を守っていこうと思う。
お春さんは今も高瀬屋で父親の仕事を手伝っている。俺が包装や注文の整理を頼むのは、その合間の空いている時間だ。去年の秋から本人と高瀬さんに都合を確かめてお願いし、半日六銭の手間賃を渡してきた。
翌朝、おきぬさんには半日十銭から十二銭、清吉さんとお春さんには六銭から八銭へ上げたいと伝えた。十五日以降を数え直し、従来どおり仕事の終わりに払う。半日を越える分は別に頼み、仕事中のけがは同じように費用を持つ。決まっていた仕事を病気で休む場合も、月三回まで半日分の半額を助けることにした。
おきぬさんは金額より先に、新しく来る人が菓子も作るのかと聞いた。
「まずは化粧品からです。菓子は今までの場所で続けますし、おきぬさんの包み方も教えていただきたいです」
「それなら、最初から紙を揃えておこうかね。慣れないと、切るだけで半日終わるから」
清吉さんとは一度に運べる数も決め、増える荷の予定を書き直す。
お春さんへ八銭の話をすると、彼女は少し目を丸くした。
「私も、よいんですか?」
「もちろんです。お願いしている仕事ですから」
「では、今日の分も数え直しますね」
彼女は途中まで書いた包みの数を確かめ、俺へ控えを返す。その指が離れる前に、小さな声が添えられた。
「でも、お仕事でない日に会う約束は、別にしてくださいね」
「はい、そちらも忘れません」
返事が少し大きくなり、隣のおきぬさんが紙を揃えながら笑っていた。
十九日には、おつねさんと庄吉さんへ雇入れの書付を見てもらった。
徳蔵さんと高瀬さんに確かめてもらった下書きへ、仕事の説明も添える。双方が持てるよう、同じ内容を二通ずつ用意してある。
住所と名を書き入れる欄の手前で、一度読むのを止めた。
おつねさんは指で条文を辿り、昼飯のところへ戻っている。庄吉さんは秘密の条文を読み返してから顔を上げた。
「道具の直し方まで、外で話してはいけませんか?」
「いえ、普段の大工仕事まで縛るつもりはありません。守ってほしい書付と材料は、渡すときにはっきりお伝えします」
「では、それも書いていただけますか?」
俺は頷き、一般の技能や本人の給金について話すことは妨げないと、両方の書付へ添えた。
質問されて初めて気づいた。俺は違反を勝手に罰する書面ではないと説明し、問題があれば起きたことを確かめて対応すると伝える。
徳蔵さんたちには職歴も確かめたが、紹介者へ何でも責任を負わせる書面にはしていない。*1
おつねさんが書付を机へ置いた。
「子供が熱を出して、姉にも預けられないときは、こちらへ来る前に人を頼んで知らせてもよいですか?」
「はい、無理に連れて来ないでください。ここで預かる場所はまだありませんから、その日の仕事はこちらで組み直します」
「それなら、姉にも話せます」
彼女はそこまで確かめてから、お願いしますと頭を下げた。庄吉さんも勤めたいと言い、自分の分の書付を手元へ引き寄せる。
二人が印を押す前に、俺も雇主の欄へ自分の名を書いた。
左江内京介。筆先を離しても、その名前が妙に大きく見える。
翌二十日、初回の塗料代百八円を受け取った。
相良さんと相談して決めた横浜での受渡しだ。納入の控えと金額を照らし、受取の書付へ印を押す。
百円はその日のうちに銀行へ預け、帳面の入金待ちの欄へ済みの印を入れた。
仕事場へ戻る途中で、新しい部屋の鍵を握り直した。頼んだ修繕は今日で終わる。明日の朝には、俺以外の人がここへ働きに来る。
「混ぜるところも、あたしがするんですか?」
二十一日の朝、おつねさんは渡された匙を見て言った。
秤の使い方と手洗い、道具を乾かして戻す場所を確かめ、白粉の仕事へ入ったところだ。庄吉さんは机の反対側で、器へ番号を書いた札を添えている。
「はい、今日は俺も横で見ています。最後に出来上がりを確かめるところまで、一緒にお願いします」
「包む仕事からだと思っておりました」
「そちらもあります。でも、作っていただかないと俺の手が空きませんから」
正直に言うと、おつねさんは少し笑い、袖を留め直した。
渡すのは俺が先に調合した粉と、別に揃えた米の澱粉だ。製法を全部教えようとして、チャッピーに止められた晩を思い出す。
今回は先に分け方を考え、岸本さんと小さい見本を作って従来の手順と比べてある。
前夜の画面には、俺だけが読む配合と、二人へ渡す手順が別々に並んでいた。
京介さんが準備する中間原料
従来の己の配合を三百グラムへ換算すると、次の量です。
酸化亜鉛:百五グラム。
ステアリン酸マグネシウム:十五グラム。
甘扁桃油:六グラム。
以上を従来の下処理と混合の条件で均一にした百二十六グラムが、京介さんの管理する中間原料です。油が一部へ偏った塊を残さず、原料の番号と調製日を控えます。
残りは、確認済みの米澱粉百七十四グラムです。従来処方の比率を変えるものではありません。
担当者へ渡す作業
中間原料と澱粉を指定量ずつ量り、別の人が数字と材料の札を確かめます。最初は少量の澱粉を中間原料へなじませ、残りも分けて加えてください。容器の底や隅まで返し、粉を高く舞い上げる混ぜ方は避けます。
使う器具、容器の大きさ、一回の量、混ぜる順番は比較に使った条件へ揃えます。塊が残る、油の筋が見える、量が合わないときは止めて呼ぶところまで教えてください。見た目が白いだけで、均一になった証拠にはなりません。
混合後は場所を変えて複数の見本を取り、京介さんが従来品とのつき方や筋の有無などを確かめます。充填は空の器の重さを一つずつ差し引き、四匁又は二十匁の正味量を合わせます。保存見本、器具へ残った分、こぼした分も控え、材料の量と出来た量を照合しましょう。
まとめて準備する際の境目
中間原料は、確認できた保存条件の範囲で短期間に使う分を用意します。最終の混合を任せても、中間原料の調製日を消してよいわけではありません。今日混ぜ直したことを理由に期限を延ばさないでください。
複数回分を用意することで、京介さんは充填や一回ごとの最終混合から離れられます。ただし、量を増やした中間原料自体が均一かも別に確認します。担当者が知るのは中間原料を使う手順であって、秘密が絶対に解析できなくなる仕組みではありません。配合の控えと保管の管理は続けましょう。
説明を聞いた二人へ、現場用の秤で量れる単位も併記した紙を渡した。三百グラムは八十匁で、中間原料は三十三匁六分、澱粉は四十六匁四分になる。
おつねさんは空の器を載せ、針が静まるのを待ってから粉を足す。匙の腹を縁へ打ちつけず、手首を返して少しずつ落としていた。
次を渡そうとすると、彼女が手を止める。
「底の方に、まだ筋がございます」
覗くと、容器の隅へ薄く残っている。俺の側からは匙に隠れて見えなかった部分だ。
おつねさんは底から返し、残ったところをほぐしてから、もう一度見てほしいと言った。
最初の一回はずいぶん時間がかかった。けれど次の量へ進むとき、俺が言う前に庄吉さんが札を読み、おつねさんが数字を答える。二人の声を聞きながら、俺は次に準備する中間原料の容器を手に取れた。
これまでは俺が動けば、前の仕事が止まっていたのだ。
昼は粉の部屋から離れ、松葉屋から届いた飯を食べた。
おつねさんは初め、膳の横へ財布を置いたので、給金からも引かないともう一度伝える。
「先日のお話は、覚えております。ただ、本当に出していただくと……」
「明日も出ます。来ない日は早めに教えていただければ、それで」
庄吉さんは味噌汁を飲み、毎日この刻限に食えるなら腹が覚えそうだと言う。
教えながら自分の仕事を進めるのは忙しい。それでも、午後に任せられる仕事は朝より増えている。
四時が近づくと、おつねさんの目が戸口へ向くようになった。まだ洗っていない器が二つ残っている。
「そちらは俺が引き受けます。今日はここまでにしましょう」
「あと二つでしたら」
「明日の置き場所が分かるようにして、上がってください。お迎えに遅れます」
彼女は少し迷ってから手を拭いて帰り、庄吉さんも明日の秤の位置を確かめて出ていく。俺が洗った最後の器は、二人の揃えた棚へ伏せておいた。
二十四日、俺はどうしても手が出そうになっていた。
おつねさんが粉を量るたび、こちらから匙を足したくなる。庄吉さんが蓋の組を揃えていると、次の器まで渡そうとしてしまう。
しまいに庄吉さんが二つ持ったまま俺を見た。
「旦那、今どちらまで量りました?」
「……俺が渡さなかった方です」
「では、そちらへ戻していただけますか?」
俺の手伝いで、かえって順番が分からなくなっていた。
昨夜のチャッピーにも、取り上げてばかりでは本人が覚えられないと言われている。
俺は一歩下がり、見本を確かめる机へ戻った。
しばらくすると、庄吉さんが薄い板を持ってくる。器の置き場所へ浅い枠をつけ、その横に蓋を置ける形にしてあった。
「この組で動かせば、途中で誰かが持ち上げても混ざりません。粉へ触れる板ではないので、外側だけ支えるようにしました」
「ありがとうございます。これは、二人で考えたんですか?」
「おつねさんが、蓋だけ先へ行くと追いかけるのが大変だと」
おつねさんは器を置いて見せ、これなら急がされても取り違えにくいと言った。俺の方を見るので、聞こえなかったふりもできない。
枠の角を滑らかに直し、掃除できるか確かめてから使うことにする。俺がスマホへ写真を送る間にも、二人は次に並べる数を相談していた。
二人で同じ秤へ手を出すのをやめ、量る人と確かめて記録する人に分けると、詰める仕事も途切れにくくなる。午後には俺が翌日の原料を見に行っている間に、小容器の充填が一組終わっていた。
帰って確かめた見本は、いつものつき方と白さに揃っている。出荷してよいと伝えると、おつねさんが小さく息を吐いた。
「売り物になるんですね」
「はい、高瀬屋さんでお待ちのお客様の分です」
おつねさんは蓋を閉めた器をもう一度見てから、包装する場所へそっと移した。
日曜の休みを挟んでも、仕込みが前夜までずれ込まなくなる。化粧水の充填も教え始めたが、クリームの加熱と冷却はまだ立ち会う。こちらは使う日に合わせて作り、春の見本を確かめても七日の期限を延ばさずに届けている。
菓子は別の場所で作り続けている。キャラメルを切る手が空く時間が早くなると、おきぬさんに今日は顔色がましだと言われた。
自分では、そんなところまで変わったつもりはなかった。*2
塗料の使い心地については、二十日に受け取った控えへ、職人の言葉が添えてあった。
塗った間仕切りには、今のところ目立つ浮きはない。ただ、刷毛へ時々細かい塊が引っかかる。広い面を続けて塗ると、その筋を拾い直す手間があるという。
二十二日には小野屋へ戻った源一郎さんからも、その話を聞けた。
「使えるとは言っていたぞ!ただ、あの連中は刷毛で稼いでいるからな。君が一枚塗るより、引っかかりも気になるんだ」
「水を足したくなるようなら、まずいですね」
「そうなる前に聞いてきたんだ。直せるか?」
俺は見本と製造記録を取り出した。今の品を薄めればいいという話ではない。チャッピーに入力すると、先に粉の凝集と練り込みを切り分けて調べようと返ってくる。
最初は材料比を動かさない
写真だけでは塊の原因は断定できません。粉の段階で凝集しているのか、液へ一度に加えすぎた部分が残ったのか、岸本さんと現物で確かめてください。各原料を下処理した後の状態と、投入順、加えた一回分の量を比較します。
完成した塗料を濾して塊だけ捨てると、必要な成分も一緒に除くおそれがあります。粗い部分を減らすなら、原料ごとの準備と分散を整え、採用した材料の正味量を揃えてから混ぜます。
教える工程と比較する条件
京介さんが原料を選び、核心の配合を含む中間の練り物や調整液を組にして用意します。庄吉さんには、その組を使う順序、一度に加える量、底や隅を残さず練る扱い、重量の確認を教えられます。液のアルカリ性や飛沫への備えは秘密にせず、必要な保護具と洗う水も用意してください。
まず従来と同じ少量で比較し、使った材料比を維持して塗りやすさが変わるか見ます。塗った重量と乾燥後の厚さを揃え、ひび、密着、火に当てた後の層の残り方も再確認します。刷毛が軽く動くだけでは、性能を保てたとは判断できません。
注文が倍になっても、一度に倍の量を練る必要はありません。混ぜられると確認した一回分を繰り返し、記録と見本を残します。用途も、今回確認している雨露のかからない屋内木部に留めて相談しましょう。
岸本さんと確かめると、粉の凝集が残ったまま液へ入っている部分があった。各原料の下処理を揃え、少量ずつなじませ直した見本は、刷毛に残る筋が減っている。
庄吉さんには塗料専用の前掛けと道具、目と手の保護を用意し、最初は俺が手順を見せた。化粧品の部屋へ戻る日は、着替えと洗い物を済ませてからにする。
彼は練る匙を握ると、深い器の隅へ届く形の方がよいと言った。そこで先を削り直した道具を試し、洗い残しがないかも確かめる。
俺が用意した中間原料を庄吉さんが決めた分ずつ練り込む。最後の重量まで任せられ、俺も次の調合へ回れるようになった。
四月末も乾燥した板を見続け、五月四日には横浜へ来た先方の職人と相良さんに見本を確かめてもらえた。火の比較は岸本さんの立会いで行い、元の品と同じ厚さにした板を並べる。
燃え広がりを抑える層は残り、塗る際の細かな筋も減っている。職人は火の試験が終わってから、もう一度刷毛を取った。
「これなら、塗り直す手が減ります」
相良さんがその言葉を聞き、持ってきた紙を開く。
次は四十貫。初回の倍になるが、同じ場所へ一度に運び、最初から施工を教える時間も減る。俺はおりんさんと確かめておいた見積もりを差し出した。
塗料四十貫(一貫四円八十銭):百九十二円
運搬・納入時の立会い:六円
合計:百九十八円
「一貫につき二十銭、下げられましたか?」
「はい、この量をまとめて納める条件での値段です。小分けで別の日に運ぶ場合は、改めて相談させてください」
原料と器に二十四円、運搬と同行の費用に四円。岸本さんの手間賃は原料確認一日と同行三日の二円で、試作の材料と立会いには別に二円を使っている。庄吉さんの給金や小屋代を払っても、次の試作へ回す余裕はある。
値段を読み上げる声も、前ほど揺れなかった。
八日に納めて検分を受け、代金は二十日払いという話がまとまる。取り寄せ済みの材料で、五日と六日に小分けで製造する予定も示した。
相良さんは見積もりの控えを取り、今度も使った職人の話を返すと言ってくれた。*3
七日に荷船へ塗料を積んだとき、前回とは違う不安があった。
翌日からは、俺の留守中に白粉の製造が進む。二人に調合済みの原料と予定を渡し、九日に俺が確認するまで、出来た品は出荷せず待ってもらう。
八日分の翻訳も六日までに届けておいたので、帰ったら報酬を受け取りに寄るつもりだ。
岸本さんが荷を見ている隣で、おりんさんが俺へ控えを渡す。
「留守の間の御注文は、こちらで受けておきます。お春さんにも数をお伝えしてあります」
「ありがとうございます。何かあれば――」
「京介さんがお戻りになってから、順に伺います」
そこへお春さんも包みを持ってきた。道中で食べられるようにと、松葉屋で用意してもらった飯だ。
受け取ると、お春さんは俺の顔を見上げる。
「今度は、帰った晩にそのまま作り始めないでくださいね」
「はい、出来ている分を見るだけにします」
「それで遅くなるのでしたら、見るのも翌朝です」
おりんさんが隣で頷いている。
先月のあの夕飯から、二人は時々こうして話を揃えてくる。助けを求めようにも、視線の先で同じ顔をされてしまう。
「帰ってから、少しお会いできますか?」
俺がお春さんに尋ねると、彼女は嬉しそうに頷いた。その脇で、おりんさんが控えを袋へしまう。
「では、商売のお話は翌日ですね。私も、お土産のお話を楽しみにしています」
「お土産、ですか?」
「横須賀で、何があったかのお話です。何か買っていただくのでしたら、私の好みを先に覚えていただきませんと」
笑って言う彼女の目が、こちらから離れない。
冗談にはしないと答えた日のことが浮かび、俺は曖昧に笑って流すのをやめた。帰ったら聞かせてくださいと言うと、おりんさんは満足したように小さく頷く。
お春さんが袋の紐を結び直して渡してくれたので、俺は二人へ礼を言って船へ向かった。
八日の納入は、二貫入りの器が二十個になった。
職人が番号と重さを確認し、先に見せた板と照らして塗り始める。相良さんから受取の控えをもらった後も、俺は刷毛の先を見ていた。
途中で塊を拾い上げる手が、前より少ない。
岸本さんへ目を向けると、向こうも気づいていたらしく、顎へ手をやりながら頷いた。
使う人の話を聞いて直した品をもう一度納められた。早く横浜で話したくて、受取の控えをしまう手が急ぐ。
九日に戻った仕事場では、おつねさんが見本の札を俺へ向けて待っていた。
「こちらは午前に混ぜた分です。こちらは午後で、器へ残った量が少し違いました」
どちらも材料と出来た量が照合できるよう控えてある。庄吉さんは別の箱から、まだ出してはいけない品だけ選んで見せた。蓋が合わずに取り分けた三個だという。
俺はまず見本を確かめ、次に記録へ目を通す。
粉の具合は揃っている。器の問題も出荷前に見つかっていた。明日、小野屋と高瀬屋へ渡せる数を数え直すと、頼まれた分が全部ある。
「ありがとうございます。これで、納められます」
そう言うと、庄吉さんが大きく息をついた。平気そうな顔で待っていても、気にはなっていたらしい。
おつねさんは、途中で俺を呼べないのが落ち着かず、三度も帳面を見返したと言う。
俺が留守の間に二人が作った品を見渡し、出かけられたのはこの人たちのおかげだと、ようやく実感が湧いてくる。
夕方、お春さんと少し歩いたときにも、ついその話が出た。
彼女は笑って聞いてくれたが、次の仕事の予定を話しかけたところで、俺の手へ自分の手を添える。
「今日は、こちらのお話も聞いてください」
「すみません。何がありました?」
「お客様に、京介さんはどんな方かと聞かれたんです」
「何と答えたんですか?」
「それは……あまり、御本人には」
こちらが聞く番になった途端、彼女は少し赤くなって前を向いた。俺は繋いだ手を離さないまま、続きを待つ。
待っていられるだけの時間があることも、昨日までとは少し違っていた。
五月十日、初めて二人へ給金を渡す日が来た。
楽屋用の再注文に加え、役者が使う品と聞いた女性客も増えている。店頭の分を確保してなお、小野屋へ渡せる数が伸びていた。
納品と受取を済ませ、給金と返瓶の金を取り分けてから銀行へ百九十円を預けに行く。
四月十五日からの帳面は、昨夜からチャッピーと照合してある。
今回の受取
キャラメル千八十包:三十八円八十八銭。
化粧水百四十四本。ガラス四十八本と陶器九十六本:十四円八十八銭。
クリーム小二百四十個、大六十個:三十七円八十銭。
白粉の小容器九百六十個:百五十三円六十銭。楽屋用八十個:六十一円六十銭。
以上は店の口銭を除いた受取です。四月十八日・二十八日、五月八日の翻訳料計四円五十銭と、初回の塗料代百八円を加え、合計四百十九円二十六銭になります。
商品と製造への支払い
キャラメル十八回分の原料九円三十六銭。おきぬさん十八半日の給金二円十六銭、清吉さん十八半日の給金一円四十四銭。
化粧水の原料・製造五円七十六銭、返瓶一円二十六銭、新瓶三円。お春さんの包装九半日は七十二銭です。返ったガラス十八本・陶器三十六本と、新しいガラス三十本・陶器六十本を今回の百四十四本に使っています。
クリームは原料八円四十銭、器五円二十五銭。白粉は大小を合わせて原料・下処理三十六円七十二銭、器十八円です。保存見本と製造時の残りなども、仕込記録と購入分に含めて照合しています。
化粧品の包材と別途頼んだ荷運びは計五円四十銭。新しい二人が担った混合・充填等の労賃は、従来の一個当たりの作業代を重ねず、下記の給金にまとめています。
再納入した塗料の原料・器・運搬・岸本さんへの手間賃は三十円、改良の比較に二円。今回の初回代金百八円に対応する二十一円は、前回までに支払済みです。
働き手と場所への支払い
四月二十一日から五月十日は、日曜三日を除いて各十七日。おつねさんと庄吉さんへ一人三円七十四銭、合計七円四十八銭。昼食は延べ三十四食で一円二銭です。今回は病欠補助や負傷の治療費は発生していません。
新しい製造場は賃料二円四十銭、預け金二円四十銭、修繕四円八十銭、器具八円六十銭。塗料の小屋は四月二十一日から五月二十日まで一円二十銭です。
住まいの家賃八十銭、弁天通の五月分賃料二円。四月十七日・二十七日と五月七日の食費計一円八十銭。書面の用紙と連絡に四十八銭を支払っています。
給金の支払いまで含めた今回の現金支出は、合計百六十二円四十五銭です。預け金と器具購入も含む資金の出入りであり、この全額が同じ意味の当期費用ではありません。
支払いと預け入れ後
開始時の現預金四百五十九円九十五銭二厘に、受取四百十九円二十六銭を足し、支払百六十二円四十五銭を引くと、七百十六円七十六銭二厘です。
預金は六百七十七円、手元現金は三十九円七十六銭二厘。返瓶用は二十二円七十六銭に新しい販売分三円三十六銭を加え、返した一円二十六銭を引いて二十四円八十六銭。手元からそれを除いた分は十四円九十銭二厘になります。
五月二十日受取予定の百九十八円は、納入済みの債権として別に残します。従来と新しい製造場の預け金は合計五円二十銭で、現預金とは別です。運転予算二十五円と治療への備え十円も、預金の中で確保したままにできます。
銀行から戻ると、庄吉さんが戸の掛け金へ油を差していた。
作業を終えた二人と机を囲み、日ごとの控えを一緒に数える。習った初日も、塗料の練り方を覚えた日も、同じ一日として並んでいる。
「十七日分で、三円七十四銭です。確かめてください」*4
二人の前へ、それぞれの給金を置いた。
おつねさんは一度数え、控えと見比べてからもう一度数える。庄吉さんは早く数え終えたが、しまわずに彼女を待っていた。
「合っております」
「こちらも、いただきました」
受取の印をもらい、俺も自分の帳面へ済みと書く。
おつねさんは財布を閉じた後、使った匙と見本の並ぶ棚へ目を向けた。
「あたしが混ぜた分も、もうお使いになった方がいるんですね」
「はい、今日、高瀬屋さんで買っていかれた方もいます」
「そうですか」
彼女は少しだけ姿勢を伸ばし、膝の上の手を握った。
「姉には、いつからいつまで働けばいくらになるか、先に話せました。今までは、仕事を頼まれた後でないと何も言えなくて」
俺は返事をしようとして、先に喉を鳴らしてしまう。
高く払えば喜んでもらえるだろうと思っていた。けれど彼女は、今日の金が入る前に姉と話せたことを教えてくれている。
庄吉さんも財布をしまい、明日は塗料の器の置き台を見直したいと言った。
「二貫入りを抱えてから、どこへ置くか探すのは骨です。先に場所を作れば、もっと楽にできます」
「お願いします。図を描いていただければ、材料も見ておきます」
「では、朝に」
二人を送り出した後、棚には明日の原料が残った。
俺が準備する分の隣に、おつねさんの秤と、庄吉さんが直した器の枠がある。今日中に全部一人で片付けようとせず、明日使う順に置いて戸を閉めた。
松葉屋へ着くと、おせいさんが膳を出しながら給金は渡せたのかと聞く。
「はい、お二人とも確かめてくれました」
「そうかい。じゃあ、アンタも冷めないうちにお食べ」
徳蔵さんは奥から俺の顔を見て、次も遅らせるなよと言った。
俺は頷き、まだ湯気の立つ飯へ箸をつける。
明日の朝は、二人が来る前に開けておかなければならない。
そう思っても今夜は、飯を急いでかき込む必要がなかった。