【40話まで投稿予約済み】明治時代をチャッピーと共に成り上がれ! 作:ヅダスキー3世
「では、紅はどちらにございますか?」
その質問に、お春さんと俺は揃って棚を見た。
五月十一日の高瀬屋には、届いたばかりの白粉が並んでいる。その隣に手入れ用のクリーム、少し離して薄荷の化粧水。目で追った先は棚板の端で、そこから先には何もない。
客の女性は俺たちの顔を順に見て、口元へ手を添えた。
「こちらの白粉を使うようになってから、娘にも肌の具合がよさそうだと言われまして。それなら紅もと思ったのですけれど」
「申し訳ありません。まだ作っていないんです」
「まあ、そうでしたか。では、出来ましたら教えてくださいな」
女性は白粉を一つ買って帰った。
見送ったお春さんが店へ戻り、空いた棚板を指で撫でる。
「眉墨も尋ねられましたよ。濃くしすぎず、眉尻へ少し足せるものはないかと」
「何人くらいですか?」
「紅のお話は今の方で三人目です。私も、京介さんの作ったものでしたら使ってみたいです」
商品を勧めるときの声より、最後のところだけ少し弾んだ。
俺は頷きかけてから、彼女の顔を改めて見る。白粉を作る際は頬のつき方ばかり確かめていたが、眉や唇にもそれぞれ手をかけているのだ。
ただ、じっと見たせいでお春さんに袖口で口元を隠されてしまう。
「何かついていますか?」
「いえ、いつもと色が違うのかなと思いまして」
「今日は、まだ紅を差していません」
「……すみません」
分かったような顔をしなくてよかった。いや、半分はしていた気がする。
お春さんは怒るでもなく、今度は差しているところから見ていただきましょうかと言った。なぜか俺の方が落ち着かなくなる。
新しい仕事場で製造を始めてから、日中にこうして客の話を聞ける時間が増えた。おつねさんと庄吉さんは今日も白粉を作ってくれている。俺が戻るまでに次の見本が揃うはずだ。
その足で小野屋へ向かうと、おりんさんにも同じことを言われた。
「紅もあればとおっしゃる方、こちらにもいらっしゃいます。白粉と一緒にお見せできれば、選んでいただけますもの」
「おりんさんご自身は、どんなものがお好きですか?」
「覚えてくださるんですか?」
彼女は帳面を閉じ、俺へ身体を向ける。前に好みを聞かせてほしいと言ったことを忘れていないらしい。
今日は紅の話で、と言いかけたが、それではまた逃げたようになる。俺はそのまま頷いた。
「ええ、色でも使い心地でも。今使っているものを見せていただけますか?」
「それでしたら、お春さんも御一緒に。私とあの方では似合う色も違いますから」
引き出しから出てきた小さな紅の器には、内側へ薄く色が引いてある。
おりんさんは水を含ませた筆を使い、紙へ少し取って見せてくれた。器の中で見た色と、筆先に移った色が違う。俺が顔を近づけると、彼女は面白そうに器を傾けた。
「そんなに不思議ですか?」
「はい、てっきり赤いものが入っているのかと」
「使うところまで御覧にならないと、私の好みは分かりませんよ」
彼女の目が一度だけ俺の口元へ向き、すぐに戻る。
こちらまで紅を差されるのかと思ったが、さすがにそこまでは言われなかった。
夜、俺は今日聞いた希望と、見せてもらった紅のことをチャッピーへ送った。
現代の口紅なら何度も見ている。蓋を取って下を回すと、斜めに切られた棒が出てくるものだ。
だが、その中身となると全然分からない。白粉へ赤い色を混ぜるのか、クリームへ混ぜるのかさえ怪しい。
油と蝋へ、色を細かく分散させる
最初は、蓋付きの小さな器に入れる練り紅と練り眉墨が作りやすいと思います。口紅は水を含まない油性の形にし、油でのびを調整し、蝋で硬さを整え、顔料で色をつけます。回して繰り出す容器の製作は、中身が出来てから別の仕事として考えられます。
現代の公開例では、Koboの口紅処方KLP-122Bに、ヒマシ油、赤色酸化鉄の表面処理品、蜜蝋、カルナウバ蝋などが使われています。顔料を油へ均一に分散させ、蝋を加熱して溶かし、成形する設計です。眉用のKMU-046も、黒・黄・赤の酸化鉄で色を組み、油と蝋、感触を整える粉体を合わせています。
これらの処方には現代特有の表面処理や原料が含まれます。材料名を古い油へ置き換えるだけで同じ性能になるわけではありません。手元の原料で、色粉のぬれ方、粒の細かさ、筆への取れ方を改めて調整しましょう。
当時にもある技術と、今回改良するところ
一八五七年のPiesseの調香・化粧品の本には、油と蝋を合わせた唇用の品や、カルミンを使う紅が載っています。既にある油性の品を出発点に、粒の粗さや塗りにくさを減らしていけます。
日本で使われてきた紅花の紅も、それ自体が鉛白と同じ品というわけではありません。既存の紅をまとめて危険なものとして売り替えさせず、今回の品では水を用意せず使えること、薄づきから重ねられること、色と仕上がりを選べることを長所にできます。
眉は真っ黒に面を埋めるより、薄い部分へ少しずつ足せるものから試しましょう。明治にはお歯黒や眉剃りをやめる動きも広がっていますが、明治六年を境に全員の習慣が一斉に変わったわけではありません。目の前のお客さんがどう使いたいかを優先してください。
原料商へ尋ねる品
油はヒマシ油と、既に使っている甘扁桃油を候補にします。ヒマシ油は色粉を練り込む油として有用ですが、多ければ粘りも出るので使い心地を比べます。蝋は白色の蜜蝋。和蝋燭などに使う木蝋とは区別し、名前だけで同じものと扱わないでください。
紅の色はカルミンと赤色酸化鉄、眉墨は黒・赤・黄の酸化鉄を候補にします。カルミンはコチニールに由来する顔料で、水性のコチニール抽出液とは別です。今回は乾いた顔料を使う設計にします。
化粧品、とりわけ唇や目に近い部分へ使う原料には、色だけでなく不純物の確認が必要です。絵具用や塗料用として手に入った粉は、そのまま流用せず用途に合う品質を確かめます。カルミンなどに反応する人もいるため、鉛を加えないことを「誰にも害がない」という説明にはできません。
画面を閉じ、明日の買い物の控えを作る。
棚へ並べる品が二つ増えるつもりでいたのに、探す材料だけでもずいぶん増えた。けれど白粉のときと違い、相談できる相手も、試す場所も既にある。
翌日、岸本さんへ話すと、ヒマシ油はすぐに見せてもらえた。色粉は原料商と商館に分けて尋ね、由来の分からないものを外していく。
岸本さんは赤い粉を一つ戻し、同じ名でも混ぜ物の違う品があると言った。
「こちらは赤いからというだけでは、口へ持っていけませんね」
「白粉の材料と同じように、確かめるところからお願いします」
黒と黄の粉も、採用する品を絞るまで待った。買った見本の量と、岸本さんへ頼んだ確認の手間を別に控える。色を扱う乳鉢やへらも新しく揃え、白粉の道具とは置き場所を分けた。*1
十四日は仕事場を休みにして、午後に小野屋へ集まった。
お春さんは高瀬屋の用事を済ませてから来ている。今日は包装を頼んだ日ではなく、二人の化粧を教えてもらう約束だ。
おりんさんは小さな鏡を明るい場所へ置き、お春さんへ座布団を勧めた。
「まずは、いつもの紅を見ていただきましょうか」
「でも、つけるところからですか?」
「先ほど、見たいとおっしゃいましたよ」
二人に見られ、俺は背筋を伸ばす。化粧の実演を見るだけで、どうして面接を受けるような気分になるのだろう。
お春さんが鏡を覗き、筆先を下唇へそっと当てた。
普段は話す相手の目を見る。今は口元を見ていていいはずなのに、そう思うほど視線の置き場に困る。唇を軽く合わせた彼女がこちらを向くと、さっきより顔全体が明るく見えた。
「どうでしょう?」
「似合っています。少し差すだけで、こんなに変わるんですね」
「では、次は新しい紅でも褒めてくださいね」
お春さんは笑ってから、自分で言ったことに照れたように鏡へ目を戻す。
おりんさんは筆の持ち方を見せ、器の縁で量を調整するところも教えてくれた。彼女は少し濃く差すが、唇全部へ同じように塗るわけではない。俺が考えていた塗り絵とは大違いだ。
「濃い色の方がお好きなんですか?」
「出かけるところにもよります。けれど、選んだ色がきちんと見えるのは好きです」
「おりんさんでしたら、こちらの少し深い色も似合いそうです」
お春さんが器を一つ寄せる。おりんさんはそれを頬の横へ持ってきて、どうかしらと俺に尋ねた。
まだ材料を揃えたばかりなのに、作りたい色が二つになった。
十五日には材料の確認が済み、いよいよ少量試作に取りかかる。
チャッピーには手に入った品と秤の目盛りを伝え、配合を百グラムずつで出してもらう。現場では岸本さんと量れる単位へ直し、細かい量はそのまま目分量にしない。
最初の紅は蝋を多めにしたので、器の中ではきれいに固まっても筆へ取りにくかった。手の甲へ引いた線の端に粒が残り、擦るとそこだけ濃くなる。
俺は写真と試した順番を送って、もう一度尋ねた。
粒の問題と、硬さの問題を分ける
蝋を減らすだけでは色の粒は消えません。先に顔料を少量の油で十分に練り、薄く引いたときに筋や粒が残らないかを確かめます。その分散が揃ったものを使い、蝋の割合を比べましょう。以下は、手元の材料に合わせて試す配合案です。市販品で性能が確かめられた処方の転載ではありません。
練り紅・百グラムの比較案
ヒマシ油:六十五グラム。
甘扁桃油:十五グラム。
白色蜜蝋:十六グラム。
カルミン:三・五グラム。
赤色酸化鉄:〇・五グラム。
合計百グラムです。初回より蝋を四グラム減らし、ヒマシ油を三グラム、甘扁桃油を一グラム増やします。まずこの配合で薄づきの赤を試してください。
もう一色は、色粉四グラムの内訳をカルミン二グラム、赤色酸化鉄二グラムへ変えて比較します。同じ原料でも粒度と色の強さで仕上がりが変わるため、深い落ち着いた赤になるかは実物で確かめます。色を濃くしたい場合も、その場で粉だけ継ぎ足さず、次の試作として全量を組み直してください。
練り眉墨・百グラムの比較案
ヒマシ油:二十八グラム。
甘扁桃油:二十五グラム。
白色蜜蝋:十六グラム。
黒色酸化鉄:十八グラム。
赤色酸化鉄:三グラム。
黄色酸化鉄:三グラム。
確認済みの米澱粉:七グラム。
こちらも合計百グラムです。澱粉はつやと油の感触を調整するために加えます。黒だけで塗りつぶす色にせず、細い線を引いてぼかしたときの色を見てください。比較する茶色寄りの案では、三色の粉を黒十二、赤六、黄六グラムへ変え、合計二十四グラムを保ちます。
眉墨と紅は原料の確認も道具も分けます。眉用の品をまつげや目の内側にも使えるとは案内しないでください。
一、色粉を油で練る
洗浄して十分乾かした器具を用意し、色粉を量ります。紅は四グラムの色粉へ、配合内のヒマシ油からまず同量ほどを加え、へらと乳鉢で均一な練り物にします。硬すぎるときは配合内の油を少しずつ足します。油を配合外から増やさないでください。
眉墨も三色を揃え、配合内の油で少しずつ練ります。澱粉は別にほぐしておき、粗い塊を混ぜ込まないようにします。練った色をガラスの上へ薄く広げ、濃い筋や硬い粒が残るなら、その段階で練り直します。一定の時間を過ぎたことだけで完了としません。
二、蝋を溶かして合わせる
残りの油と蜜蝋を別の乾いた容器へ量り取り、湯煎で蝋を溶かします。今回の蜜蝋では七十〜七十五度を試作の出発点とし、実物が均一に溶けることを確かめてください。湯を中へ入れず、直火で局所的に焦がさないようにします。
先に色の練り物へ溶かした油・蝋の少量をなじませ、戻し入れやすくしてから本体へ少しずつ加えます。底と壁に色が残らないように混ぜます。眉墨では澱粉も分けて加え、粉の塊や油だけの筋が残らないようになじませてください。上・中・下から取った見本を並べ、色の偏りを確かめます。
三、冷ましながら器へ詰める
熱源から外し、静かに混ぜながら粘りの変化を見ます。熱くさらさらなうちに放置すると顔料が沈み、冷やしすぎれば均一に詰められません。まず六十度前後を候補に、今回の器へ流せる温度を探して記録します。器の中で静置した見本も切り分け、上と底の色が違わないか確認してください。
器は内側も蓋も乾いたものを使い、正味量で揃えます。清潔な覆いの下で冷まし、十分冷えてから閉じてください。筆を取るたびに削れるほど硬い、持ち歩くと油がにじむ、底だけ色が濃いといった品は、工程又は配合を見直します。
保存と、人へ任せる工程
水を入れなくても、原料や濡れた筆から汚れが入ること、油の酸化、暑さによる軟化は考える必要があります。香料で異臭を隠したり、酸化を抑える成分を入れただけで防腐まで済んだと考えたりしないでください。今回は無香料で比較を始め、容器、温度、使い方を揃えた保存見本から販売条件を決めます。
京介さんが各色の顔料を練った中間原料と、別に調合した油・蝋の組を用意すれば、担当者には組ごとの全量、合わせる順序、加熱と充填の条件を教えられます。本人が作業の異常を見分けられるよう、完成見本と、止めて知らせる状態も共有しましょう。初めは京介さんの立会いで製造します。
十六日は色粉を練るところからやり直した。
赤い点を潰したつもりでも、ガラスへ引くと線の端に一粒だけ残る。そこを岸本さんに示され、へらを取り直す。ようやく色が揃ってから蝋の割合を変えると、今度は手の甲へ滑らかにのびた。
後から混ぜれば消えるだろうと、最初の練りを切り上げていたのがよくなかったらしい。
出来た紅は、薄く引けば唇の色が透けそうな赤で、重ねるとしっかり色が見える。俺の記憶にある口紅の感触へ、ぐっと近づいていた。
眉墨はわずかな量でも濃く出る。試しに自分の眉尻へつけてみると、片方だけ妙に威勢がよくなった。
そこへ保存見本を取りに来たおつねさんが、戸口でぴたりと止まる。
「旦那、お顔に……」
「やっぱり濃いですよね?」
「少々、お怒りのように見えます」
少々で済ませてくれた心遣いが痛い。
彼女は渡した細い筆で紙へ線を引き、先に器の縁で少し落とすとよいのではないかと言う。次に試すと、眉のあるところへ足した線がずっと自然になった。
使う量まで分からなければ、よい品でも俺の顔になる。
俺は説明用の筆を置き、初めて買う人には必ず塗り方を見せようと控えへ書いた。*2
保存見本を確かめる間も、いつもの注文は続いている。
薄荷の化粧水は店頭へ出す数が増え、おつねさんが充填を済ませた瓶は、俺の確認を経て包装へ回るようになった。
キャラメルはおきぬさんに、昼を過ぎると紙から離しにくい日があると言われる。チャッピーへ気温と仕込記録を送り、煮詰めの終わりを確認するとともに、冷まして包む時間と保管場所を見直した。
品物を窓のそばへ積むのをやめ、日を避けて小さく分けて届ける。清吉さんには、その分だけ配達の半日を増やして頼んだ。四粒四銭の包みは変わらず松葉屋と小野屋へ並んでいる。
クリームは暖かい日の保存見本を改めて岸本さんと見て、受取日に合わせた近所への小口販売を続けた。白粉も作り置きを増やさず、確認した条件で回せる分を順に出す。大きな楽屋用の器が増えたので、庄吉さんの作った枠が毎日使われていた。
五月二十日には、前に納めた塗料の百九十八円を受け取った。入金待ちの欄を一つ消し、百九十円をその日のうちに銀行へ預ける。
二十二日に小野屋へ戻った源一郎さんは、俺の顔を見るなり大きく頷いた。
「今度は刷毛が止まらんそうだ!あの職人が、自分からそう言ってきたぞ」
「前の塊は減りましたか?」
「それを拾う手間が減ったんだ。今使っている屋内のところでは、乾いた後もよさそうだと言っていた。ただ、湿気の強い別の場所も同じに扱ってよいかは、まだ聞いているところだ」
俺は確認できた場所と、これから調べる場所を分けて控えた。
二十四日の午後、俺は試した紅と眉墨を小野屋へ持っていった。
同じ配合で作り直した品の色も揃い、岸本さんと確かめてから、二人には使い心地を見てもらう。持ち歩いた器の蓋には油がつかず、底と表面の色にも目立った違いはなかった。
おりんさんが蓋を開けると、お春さんも隣から覗き込む。
「今日は、赤いものが入っていますね」
「俺にも分かりやすくなりました」
お春さんは笑い、別々に用意した筆の一本を取った。
先に眉尻へ少し足してから、薄い方の紅を試す。おりんさんがもっと明るい場所へ鏡を寄せると、彼女の顔が窓の光を受けた。
頬の白さの中で、唇だけが浮いてはいない。笑おうとして少し開いた口元に目が止まり、そのまま彼女と目が合った。
「京介さん?」
「……はい、似合っています」
「この前と同じですよ」
「すみません。今のは、言う方を忘れていました」
お春さんの筆が止まる。
俺まで黙ると、おりんさんが鏡の向きを直しながら、十分なお返事ではありませんかと言った。お春さんは何も答えず、下を向いて筆を置く。耳まで赤い。
おりんさんはもう一つの深い赤を選んだ。
こちらは同じように薄くつけても、口元の印象がはっきりする。顎を少し引いて俺を見上げた彼女は、自分がどう見えるか分かっている顔だ。
「私はこちらにしようかと思いますけれど、どうでしょう?」
「そちらの色は、おりんさんが笑うとよく映えますね」
「真顔ではいけませんか?」
「いえ、そういうことではなくて」
困っていると、おりんさんが先に笑った。
さっきより唇の端が上がり、俺はやっぱりそちらの方がと思う。目を逸らす前に彼女に気づかれたらしく、視線を合わせたまま少しだけ首を傾けられた。
お春さんが隣から、薄い色の器をおりんさんへ寄せる。
「こちらも、少し試してみませんか?いつもより柔らかいお顔になりそうです」
「では、お春さんも次は深い方を。お出かけの日なら、きっと素敵ですよ」
二人は一度紅を落としてから、互いに選んだ色を試し始めた。
俺はもう、材料の配合を確かめる目では見ていなかった。化粧で顔が変わるというより、知っている人のまだ見ていなかった表情が次々に出てくる。
お春さんが深い赤を差すと、急にいつもより大人びて見えた。彼女自身も慣れないらしく、鏡を見るたび口元を結び直している。
「変ではありませんか?」
「変ではないです。ただ、少し緊張します」
「京介さんが?」
「俺の方が緊張するんです」
おりんさんが笑いをこらえ、お春さんは鏡の後ろへ顔を隠してしまった。
女の人は化粧をしてから人前へ出るものだと思っていたが、出来上がるまでを見せてもらう方も、なかなか大変なことらしい。
しばらくして、二人は売り場の話へ戻った。お春さんは水を足さずに使えるところを喜び、おりんさんは器の縁で筆を扱いやすいと言う。
「器が深すぎないのがよいですね。最後の方まで取れそうです」
「ただ、最初にこれだけ取ってしまう方もいらっしゃるかもしれません」
お春さんが筆へ多めに取って見せたので、俺は先日の眉の失敗を話した。
二人とも声を上げて笑い、おりんさんには見たかったと言われる。お春さんまで頷いているので、失敗作の実演だけは勘弁してもらった。
帰り道、お春さんは薄い色へ戻していた。
小野屋を出る際、おりんさんが片付けはこちらでと送り出してくれたので、二人で少し歩いてから帰ることにしたのだ。
「先ほどの濃い方、お嫌いでしたか?」
「いえ、とても似合っていましたよ。戻してしまって、もったいないくらいです」
「では、今度お出かけするときにします」
彼女は少し先を歩いてから振り返る。
「そのときは、ほかのことばかり考えていないでくださいね」
俺は歩幅を広げ、隣へ並んだ。
「はい、お春さんと出かけるための時間にします。三十一日の売り出しが落ち着いたら、夕方に少し歩きませんか?」
「父に、その日は早めに用事を済ませると話しておきます」
差し出された手を取ると、彼女の指がすぐに絡んでくる。
今日は使い心地を尋ねる約束だった。次は売れそうかどうかを聞かずに、彼女の顔をちゃんと見ていようと思う。
塗料の次の注文が決まったのは二十八日だった。源一郎さんとの相談を先方へ戻し、相良さんと前回と同じ条件の屋内木部へ四十貫を納める話をまとめる。塗料代百九十二円に運搬と立会い六円で、今回も百九十八円だ。
三十日と六月一日に庄吉さんと製造し、二日に荷船へ積む予定を組んだ。その間に紅の発売を入れられるのは、毎日の白粉を二人へ任せられるからでもある。
五月三十一日、高瀬屋と小野屋へ新しい品を並べた。
十六日から保管していた見本も岸本さんと確かめ、今回の近隣販売では製造から十四日以内に使うことと、日と熱を避けて保管し、乾いた筆で取ることを札へ添えた。真夏や長い船旅へ、そのまま持ち出せるとはまだ言っていない。
紅は一匁入り十八銭、眉墨は一匁入り十二銭。一匁は三・七五グラムで、少しずつ使うにはこれでも十分な量がある。どちらも蓋付きの器代を含み、筆は客がそれぞれ用意する。店の口銭は一個二銭で揃えた。
今回の製造分で、紅は原料と器などを一個当たり四銭六厘、眉墨は二銭八厘と見込んでいる。ここから別に給金や家賃も払うが、小さな器だからと安売りするつもりはなかった。
おりんさんと値段を決める前には、チャッピーにも試作費と販売数を伝えて確かめてある。
二人へも出来上がった紅と眉墨を一つずつ渡し、店頭の品書きには色の名前を添えた。見本を並べると、お春さんは早速、並び順を変えながら眺めている。
最初に紅を尋ねた女性が来たのは、昼前だった。
お春さんが新しい器を見せると、女性は約束を覚えていたのですねと俺に笑いかける。娘へも見せたいと言ったが、自分に似合う色を先に確かめ始めた。
試す分は清潔な小皿へ取り分け、筆も共用しない。お春さんが自分の筆でつけ方を見せ、女性には別に用意した筆を渡す。
薄い色を一度引いたところで、女性は鏡へ顔を近づけた。
「これでしたら、朝から濃くなりすぎませんね」
「少しずつ足せます。こちらの器で一匁入っています」
「では、こちらを一つ。娘の分は、本人に選ばせましょう」
十八銭が台へ置かれた。
お春さんが包みへ製造日と期限の札を添え、使い方も伝えて渡す。俺は横で見ているだけなのに、客が器をしまうまで肩が下りなかった。
外へ出た女性がもう一度小さな鏡を覗いたのを見て、ようやく息を吐く。
「買っていただけましたね」
「はい、お春さんに教わっていなければ、使い方も説明できませんでした」
「では、次の方にもお見せしましょう。京介さんの眉では、驚かれてしまいますから」
もう二度と自分で雑につけるまいと思った。
小野屋では深い紅も売れ、茶色の眉墨を選んだ客からは、眉だけが黒く目立たずよいと聞けた。おりんさんは売れた色と一緒に、迷って買わなかった人の話も控えてくれる。
新しい色をすぐに増やしたくなったが、まず四種類の出来を揃える仕事がある。
おつねさんには、俺が用意した色の練り物と油・蝋の組を渡し、立ち会いながら加熱と充填を任せた。彼女は小さな器へ同じ量を詰めるのに苦労したものの、筆を取る側の縁を汚さずに揃えていく。
白粉のときには必要なかった、色の取り違えを防ぐ札も増えた。
夕方になり、約束どおりお春さんと二人で出かける。
出てきた彼女に今日は深い方ですねと言うと、嬉しそうに笑ってくれた。
茶店で二人分四銭を払い、仕事の控えは袋へ入れたままにする。お春さんは買い物の途中で見かけた反物の話から、自分ならどの柄を選びたいか話してくれた。
今日は顔を見ていても、何かついていますかとは聞かれなかった。
六月三日の横須賀では、前日に横浜から荷船で運んだ四十貫の塗料が検分を待っている。
岸本さんと荷を開け、受取検分に立ち会う。庄吉さんは横浜に残り、おつねさんと二日、三日の白粉を作ってくれた。俺は四日に帰り、二人の休みが明ける五日に最終確認を済ませてから、その分も店へ出す。
塗料は今度も同じ条件の木部で使われ、代金は六月二十日の払いになった。五月二十日に受け取った百九十八円とは、帳面の行を分けてある。*3
小野屋では白粉の注文も増えている。楽屋から使い心地を聞いて買いに来る客があり、今まで取り寄せていた別の白粉から、こちらへ切り替えるという話も届くようになった。
おりんさんは嬉しそうに注文を書きながら、少しだけ筆を止める。
「余った品の引き取り先を探している問屋もあるそうです。こちらにも話が来ました」
「うちでは使えませんね」
「父もそうお返事しました。ですから、こちらはお待ちのお客様へきちんと届けましょう」
彼女が控えを渡し、俺は製造する順番を確認した。
六月十日までの三十一日間で、白粉は小が千五百個、楽屋用が百六十個売れた。眉墨は六十個、紅は百個。新商品の箱が白粉の横へ並ぶ様子を見ると、空いていた棚の端を思い出す。
薄荷は二百四十本、クリームは小二百個と大四十個、キャラメルは千二百包み。翻訳も五月十八日、二十八日、六月七日の分を納め、それぞれ一円五十銭を受け取った。
十日の給金を渡す前に、俺はチャッピーへ帳面を入力した。
五月十一日から六月十日の受取
キャラメル千二百包:四十三円二十銭。
薄荷の化粧水はガラス八十本、陶器百六十本:二十四円八十銭。
クリーム小二百個、大四十個:二十九円六十銭。
白粉小千五百個:二百四十円。楽屋用百六十個:百二十三円二十銭。
眉墨六十個:六円。紅百個:十六円。
以上は店の口銭を除いた金額です。翻訳三回の四円五十銭、五月分の塗料代百九十八円を加え、今回の受取は六百八十五円三十銭です。
製品と開発への支払い
キャラメル二十回分の原料十円四十銭。おきぬさん二十半日の二円四十銭、清吉さん三十半日の二円四十銭。暑さに合わせて配達を分けた分も、この回数へ含めています。
化粧水の原料・製造九円六十銭。返瓶はガラス三十本、陶器六十本で二円十銭。新品はガラス五十本、陶器百本で五円です。合わせた二百四十本を今回の販売分へ使い、お春さんの包装・注文整理十四半日には一円十二銭を払っています。
クリームは原料六円七十二銭と器四円十銭。白粉は原料・下処理六十二円十銭、器二十九円七十銭です。保存見本と器具に残る分も、仕込量と対応する原料支払に含めて照合しています。
眉墨の原料・器などは一円六十八銭、紅は四円六十銭。販売分と製造見本、お春さんとおりんさんへ渡した分を含みます。これとは別に、新商品の初期試作と原料・保存の確認、岸本さんの手間へ四円八十銭、新しい専用器具へ二円六十銭を支出しています。
化粧品の包材と別途の荷運びに八円四十銭。六月三日に納めた塗料の原料・器、運搬、岸本さんの確認と同行には三十円です。五月二十日の入金に対応する塗料の三十円は前回支払済みなので、重ねて引きません。
給金と、続けて払うもの
今回の三十一日間には日曜が四日あり、おつねさんと庄吉さんは各二十七日分。一人五円九十四銭、二人で十一円八十八銭です。昼食は延べ五十四食で一円六十二銭。今回は病欠補助や仕事中の負傷費は発生していません。
五月二十一日から六月二十日までの化粧品製造場二円四十銭と塗料小屋一円二十銭。五月末に払った弁天通の六月分二円。五月十八日払いの住まい八十銭は六月十七日までです。
食費は五月十七日、二十七日、六月六日に十日分ずつ計一円八十銭。紙、灯油と連絡に五十二銭、二人で出かけた日の茶代四銭を払っています。給金まで含めた今回の現金支出は、合計二百九円九十八銭です。
支払後の残高
前回の現預金七百十六円七十六銭二厘に受取を足し、支払を引くと、千百九十二円八銭二厘です。
預金は六百七十七円に今回の預入れ計四百七十円を加え、千百四十七円。手元は四十五円八銭二厘になります。
返瓶用は前回二十四円八十六銭に今回の新規販売分五円六十銭を足し、買戻し二円十銭を引いて二十八円三十六銭。手元からこれを除くと十六円七十二銭二厘です。
六月二十日払いの塗料代百九十八円は、納入済みの未収分として別に残ります。借家の預け金五円二十銭も現預金とは別です。銀行内の運転予算二十五円と治療予算十円は引き続き確保できます。
今回の現預金の増加は四百七十五円三十二銭ですが、前の納入分の回収や器具の購入、私的な支出も含むため、そのまま期間の純利益とは呼びません。
千円を越えた数字を見て、俺は一度画面から目を離した。
五十四円を抱えて歩くのが怖くなり、初めて銀行へ行ったのは去年の十一月だ。あのときなら、この帳面を見せられても桁を間違えたと思ったかもしれない。
戸口で庄吉さんに声をかけられ、俺は慌てて給金の包みを手前へ寄せる。
二人と勤めた日を数え、一人五円九十四銭を渡した。おつねさんは受取を済ませると、昨日詰めた紅はもう小野屋へ届いたかと尋ねる。
「はい、今日の分として納めました」
「この前、帰りに前を通りましたら、あの小さな器を見ている方がいて。あたしが詰めたものかしらと思ってしまいました」
「次に御覧になったら、どんなお顔をしていたか教えてください」
おつねさんは頷き、給金をしまって帰っていった。
その後に来たおりんさんは、再注文の控えと一緒に、ハリスさんからの言伝を持っていた。居留地で品を見せた先に、海外へ少し送って扱いを試したいという相手がいるらしい。
行先や数量、船の中での日数も聞かなければならない。俺が紙を出すと、彼女も隣へ腰を下ろした。
「お話を伺う日を決めましょう。父にも、小野屋の用事と重ならないか確かめてまいります」
「ありがとうございます。おりんさんにお願いしていることも、そろそろきちんと相談させてください」
「そのお話なら、私からも御相談したいことがございます」
帳面を開く指が止まり、彼女が俺を見る。
俺が身構えると、おりんさんは何を想像なさったのですかと笑った。商売の話だと分かっても、すぐには顔を戻せない。
そこへ高瀬屋の用事を終えたお春さんが、空いた箱を返しに来た。
おりんさんが顔を上げ、お春さんの持つ小さな包みを見つける。
「今日は、どちらの色になさるの?」
「こちらです。京介さんが、前に少し緊張するとおっしゃった方」
俺は書きかけの数字を間違えた。
二人の笑い声を聞きながら紙を脇へ寄せ、まずは顔を上げる。お春さんが包みを開く隣で、おりんさんも深い赤の器を取り出していた。
どうやら今夜も、二人から感想を求められるらしい。