【40話まで投稿予約済み】明治時代をチャッピーと共に成り上がれ! 作:ヅダスキー3世
「上海へ、ですか?」
六月十二日、ハリスさんの商館で聞き返すと、向かいの男が両手を少し広げた。
机の端の手紙には、読みにくい筆記体で行先が書かれている。知っている地名でも、目の前の白粉と結びつくまでには時間がかかった。
「You remember me, Mr. Saenai?」
「Yes, Mr. Morris. Of course.」
英国人のモリスさんには去年、届いた荷の不足を日本の取引先へ伝える書状の翻訳を頼まれた。訳文の意味を一つずつ確かめてきた人だ。
あのときも会話にはついていけず、紙へ書いてもらっている。今回もチャッピーと用意した質問の控えを手元に置いた。
隣のおりんさんが白粉の器を開くと、ハリスさんは妻が使っているものだと紹介してくれる。
そこから説明が速くなり、俺は早々に待ってもらうことになった。
「Sorry. A little more slowly, please.」
ハリス家の中村栄吉さんが、俺の紙へ目を落としてから不足するところを補ってくれる。
モリスさんの上海の取引先が、横浜で評判を聞いた化粧品を仕入れたいという。普段から雑貨を届ける外国人家庭へ勧めるつもりで、品も数もまだ相談の途中だった。
「まずは顔に薄く使う粉が御希望です。強い香りを好まれない方もいらっしゃるそうですよ」
栄吉さんの説明を聞き、おりんさんが俺へ顔を向ける。
「それでしたら、こちらは香りを足していませんね。白さは、どの程度をお望みでしょう?」
「確かめてみます」
薄くつけるのかと英語で尋ねると、モリスさんは小さな匙を持ち、使う粉の量を示してくれた。芝居の舞台のように顔を覆いたいわけではないらしい。
菊之丞さんたちが喜んだ白さをそのまま売り文句にするところだった。見本を紙へ薄く引くと、モリスさんも指先で伸ばし、細かさを確かめてから次の器へ目を移す。
「こちらの紅も送れるかとお尋ねです」
栄吉さんに言われ、俺は持参した説明を開いた。
紅と眉墨は五月に発売したばかりだ。横浜の近くで、作った日から十四日以内に使ってもらう条件で売っている。長い船旅の後でも同じように使えるとは、まだ答えられない。
では粉から始めようという返答にほっとしたところへ、おりんさんが問いを重ねる。
「箱を横浜でお渡ししてから、使う方の手に届くまでには、どれほどかかるのでしょう?」
モリスさんは指を折りかけ、ハリスさんと短く話した。
船に乗っている間だけでなく、荷を受け付けてから出港するまで、上海で受け取って店へ運ぶまでにも日が要る。今度の手配なら横浜を出てから先方の店まで十日ほどを見込みたいが、天候で遅れることもあるという。
「店へ着いた日に、全部売れるわけではございませんものね」
「はい、そこまで考えます」
白粉ならいけるだろうと承知しかけていた俺は、控えに線を足した。先方は七月の船を考えているというので、まず容器と保存を確かめ、進み具合を知らせることにする。
商館を出ると、昼の光が濡れた道へ反射していた。
おりんさんは軒先で控えをしまい、見本の箱を持ち直す。
「お引き受けになる前に、届くまでの日数を伺えてよかったです」
「助かりました。俺は船に乗せることばかり考えていました」
「私も海の向こうの荷は初めてです。売れずに残ったときに困るのは、いつもの品と同じかと思いまして」
彼女は小野屋へ戻って仕入先の者と会い、器の問屋にも寄るという。俺は自分の用事まで頼みかけて口を閉じた。
「器の方は俺が聞いてきます。おりんさん、今日はまだお昼を召し上がっていませんよね?」
「京介さんもでしょう?」
言われて腹が鳴った。
おりんさんは笑いをこらえるように唇を結び、それなら帰り道で何か頂きましょうと、先に歩き出す。
その晩、栄吉さんと確かめた商談の内容と白粉の処方をチャッピーへ入力した。
【中身と容器を一緒に確かめましょう】
まず、同じ配合でも保管と容器が変われば状態が変わります。粉の中には澱粉が多く、油も含まれています。湿気による固まり、油の変質、原料や道具からの汚染をそれぞれ見てください。水を加えていないことだけで長持ちすると判断はできません。
最初の比較では配合を動かさず、原料を乾いた状態で扱う工程と、詰めた後に湿気を入れにくくする容器を改めます。既存の処方と同じ感触を保てるか確かめやすく、違いが出たときの原因も追いやすくなります。
【今回比べる工程】
一回三百グラムなら、これまでどおり中間原料百二十六グラムと米澱粉百七十四グラムです。乾燥の前後で重さが変わるので、計量する状態を揃え、乾燥で減った分へ後から適当に油や粉を足さないでください。
米澱粉は清潔な浅い器へ薄く広げ、焦がしたり性質を変えたりしない条件を小量で探します。一定の条件で追加乾燥し、覆いのある清潔な場所で冷まして量ることを繰り返せば、重さの減り方を比較できます。ただし、重量の変化だけで微生物が利用できる水分まで正確に測れたとはいえません。
乾燥した粉を湿った部屋へ開けたまま置けば、また湿気を吸います。冷却、計量、混合、充填の間に放置する時間も記録してください。油を含む中間原料や完成品をそのまま強く加熱して乾かす方法は避け、原料ごとに確認します。乾燥は滅菌と同じ処理ではありません。
瓶と栓も、洗った後の水分を残さず、乾いた清潔な場所で保管します。瓶口の傷や栓の緩みを確かめ、同じ種類でも一組ずつ適合を見てください。外側の封は、口の合わない瓶を密閉容器へ変える代わりにはなりません。
【比較に残すもの】
従来の器、新しい瓶、さらに外箱へ詰めた瓶を分け、同じ製造分で比べます。日付、原料の組、容器、保管した場所を対応させ、途中で開ける見本と、最後まで開けない見本を別に取っておきましょう。
粉の固まり、色やにおい、取り出しやすさ、塗ったときの広がりに加え、封や瓶の損傷も見ます。外観やにおいだけでは分からない汚染もあるので、岸本さんと原料・製造時の衛生や保存見本の確認を続けてください。私が写真を見るだけで使用可能と保証することもできません。
【輸送と使用の期限】
製造から出港まで、航海と荷渡し、店で待つ期間、開封後に使う期間をつなげて考えます。開封した日から無条件に日数を足したり、詰め直した日を新しい製造日にしたりしないでください。
上海で一か月分まとめて売りたいのか、届いたら予約客へ渡せるのかでも必要な期間が変わります。最初は買手と販売量を絞り、遅れた場合の扱いまで相談すると進めやすくなります。
今までの器にも、選び直せるところがありそうだ。紙へ瓶と箱の絵を描き、今度は航路について尋ねる。
はい、岩崎弥太郎の三菱につながります。三菱は一八七五年二月三日に横浜―上海航路を開き、同年九月には郵便汽船三菱会社へ改称しています。横浜から神戸、下関、長崎を経て上海へ向かう航路でした。
京介さんが知る巨大な企業集団が、そのまま今の姿で存在するわけではありません。海運を軸に事業を広げている時期です。外国との競争や政府との関係も、その後の発展へつながっていきます。
ただし、過去の航路の記録から、今度の荷を載せる便の出港日や到着日までは確定できません。モリスさんが手配した便と荷の受渡し予定を確認してください。
歴史の授業で聞いた人の会社へ、自分の箱を預けようとしている。年号を聞いたときより、この時代にいる実感が湧いた。
先のことは気になるが、今夜は瓶の絵を仕上げる。丸い胴へ四角い栓を描いたので、そこから直した。
翌日から岸本さんと原料の扱いを確かめ、商館で見せてもらった形の瓶を取り寄せて並べた。
口が広めで、粉を小さな匙へ取れる硝子瓶だ。形がよくても栓を挿すとぐらつくものがあり、おつねさんは一本ずつ組を分けて札をつけてくれる。
俺が別の栓へ手を伸ばすと、すぐに声がかかった。
「そちらは、まだ合わせていない方です」
「あ、すみません。また混ぜるところでした」
彼女に組を合わせてもらい、俺は粉の棚と洗い物の棚を離す。湿った手拭いも、粉の台へ持ち込まないよう置き場を決め直した。
岸本さんには乾燥の具合と原料、保存見本の確認を頼み、俺は同じ配合の白粉を少量ずつ用意する。六月十四日に最初の比較分を詰め、十五日にも別に作って同じ種類の瓶へ収めた。
中間原料にはいつもの記号をつけ、製法の控えをしまってから、おつねさんへ作業の変更点を伝えた。
「小野屋へ出す分も、こちらへ替えますか?」
「まだ比べている途中です。こちらの札がついた分は見本として残してください」
「では、店へ出すものと棚を分けておきますね」
普段の注文分も小刻みに作り、暑い日の見本を岸本さんと確かめる。クリームは少量ずつ受渡しの日を決め、紅と眉墨も店へ長く置かない数を相談した。
キャラメルの方へ顔を出すと、おきぬさんが包み紙を手に待っていた。
「今日は、まだこちらを包まない方がよさそうですよ」
固まり具合を俺より先に見てくれている。前に貼りついた日の控えをチャッピーと見直し、置く場所も変えた。清吉さんは日が高くなる前に回る分を先に持っていく。
ただ、頼みごとの行先がおりんさんへ偏るのは、なかなか直らない。
仕入先への返事や商談の日の調整を持ち込むうち、昼に付けるはずの帳面が夕方まで手つかずになっていた。
「こちら、午前中に済ませるお仕事だったんですか?」
「ええ、父へ見せる控えです。少し押してしまいましたけれど」
役割を相談したいと言ったまま、また後回しにしてしまうところだった。
十八日、源兵衛さんにも同席してもらい、小野屋の奥で話すことになった。
日曜の昼過ぎ、おりんさんが小野屋の用事と商会の用事に分けた控えを見る。俺が頼んだ分の厚さに、畳へ手をついた。
「お願いする量が増えているのに、その都度きちんと相談せず申し訳ありませんでした。今後は仕事として頼める範囲と、報酬を決めさせてください」
源兵衛さんは控えを一枚めくり、娘の方を見る。
「おりん、お前から話しておくことは?」
「はい、私も京介さんのお仕事に、決まった時間を取れるようにしたいと思っておりました」
思いがけない返事に顔を上げる。
「次に何を作り、いつまでに幾つ必要なのか、先に御相談いただければ、まとめて交渉できます。足りなくなってからですと、どうしても無理をお願いすることになりますから」
「そこからお願いしてよいんですか?」
「はい、小野屋を空ける日は、父とも相談しなければなりませんが」
源兵衛さんがそこで俺へ向き直った。
「うちの仕事もある。来てもらえばいつでも空いていると思われちゃ困るが、先に日が決まっていれば、こちらも手を回せる」
「はい、今のように俺の都合だけで伺わないようにします」
「それと、この子が商会のために働く分まで、うちへ払うことはない。店で品を売った口銭とは別の話だ」
俺は頷き、前の晩にチャッピーと整理した案を出した。
まず一か月、半日を八回。仕入れ交渉と注文・納期の取りまとめ、商談の準備を頼み、報酬は二円四十銭。交通費や商会の買い物代は別にする。
小野屋の都合とすり合わせて日を決め、増やす必要が出たら改めて相談する。
「値段を決めるところまで、私がしてよろしいのでしょうか?」
「こちらから条件をお伝えした範囲ならお願いします。大きな値引きや新しい約束は、一度持ち帰っていただけますか?」
「でしたら、先方へお返事をする日も最初に決めておきましょう。いつまでもお待たせしては、次のお話が来なくなりますから」
俺は日を書き足し、初めての相手との取引は持ち帰って相談してもらうことにした。
源兵衛さんは一通り聞くと、娘へ茶を勧めた。
「金の話になって、急に遠慮していないだろうな?」
「しておりません。頼まれる仕事を増やしていただくお話をしているんですから」
「ならいい」
源兵衛さんの口元が少し緩む。俺から正式にお願いすると、おりんさんは姿勢を正した。
「では、京介さんも気になることは後に残さずおっしゃってくださいませ」
約束は二通に清書して互いに持ち、初めの一か月は六月十九日から七月十八日までとした。報酬は七月十八日に払い、先に決めた仕事が俺の都合でなくなったときも減らさない。病気や家の急用は、その都度仕事を組み直す。
書付をしまうところへ、お登勢さんがお代わりの茶を持ってきてくれた。
「この子、昨日から紙を何度も書き直していたのですよ」
「そのお話はもうよいでしょう?」
お登勢さんは何も聞こえなかったように湯呑を置いた。おりんさんは小さく息を吐き、すぐ俺へ向き直る。
「早速ですが、明後日までに瓶が何本必要か教えてくださいませ。京介さんのお返事がないと頼めませんので」
六月二十五日の日曜は俺一人で保存見本を確かめ、帰りに小野屋へ向かった。源一郎さんはもう話を聞いていたらしい。
「おう、上海へ出すそうじゃないか!」
近くの客が振り向き、源一郎さんの顔を見て少し道を空けた。
おりんさんが声を落としてほしいと言うと、源一郎さんは笑って俺を奥へ招く。
「妹が口を出すなら、君もぼんやりしていられんな。俺も道具を買う前によく捕まった」
「お兄様は、同じようなものを幾つもお求めになるからです」
「同じじゃない。刃の入り方が違うんだ」
早くも道具の話になりかけたので、俺は庄吉さんに箱を頼んでいると伝えた。
源一郎さんは見本の瓶を持ち上げ、大きな指を底へ添えた。
「これを横倒しにしても、粉は出ないか?」
「そこも比べています。今のところ、この組は緩みません」
「箱へ入れて揺すった後も見ておくといい。庄吉なら、その辺は考えるだろうが」
栓を抜かずに返してもらい、塗料を使った木部の近況も聞く。六月二十日には前回の代金を受け取り、次は七月初めに納める約束だった。
翌日、庄吉さんが作った試しの箱へ瓶を収めた。
外箱の中には十二本入りの小箱が六つ並び、それぞれに仕切りがある。瓶の底や横に当たるところには紙が詰めてあった。触るとまだ動くものがあり、俺が紙を押し込もうとすると、庄吉さんが手を止めた。
「そこへ詰めると瓶が浮いて、蓋が栓を押しますよ」
栓の上に薄い紙を挟んで蓋を置くと、そこだけ紙が引き抜けない。庄吉さんに底の紙の厚みを調整してもらい、栓と蓋の間に隙間を取る。
試しの箱は、清吉さんの配達に載せてもらう。戻ってから開けると、一本だけ栓の周りへ白い粉がついていた。
「割れてはいませんね。こちらの栓、さっきより動きます」
おつねさんが瓶を紙の上へ置いた。
俺は瓶の間の紙を増やそうとしたが、庄吉さんは仕切りを確かめ、先に瓶口と栓の合い方を見たいと言う。
その晩、写真と運んだ時間をチャッピーへ送り、箱の詰め方と栓の適合を別々に確かめる手順を相談した。
瓶口の合わない一本を外し、同じ大きさの瓶で再び運ぶ。今度は紙へ粉がつかず、蓋を開けた庄吉さんがようやく息を吐いた。
「割れていなくても粉は漏れるんですね。栓の緩みも見ておかないと」
「ええ、船に乗せる前に気づいてよかったですね」
封を開けるための切れ目を設け、箱の上下を示す印もつけていく。
おりんさんは試しの箱の寸法を控え、モリスさんへ運び賃を確かめに行ってくれた。
七月に入ってからも、見本を開ける日には岸本さんに来てもらった。
見本の状態がよくても、決めた日までは待たなければならない。その間に塗料を納め、帰ってから薄荷と紅の出荷を確かめる。十日には二人へ給金を渡した。
おつねさんは帰り際、包みをしまってから試しの外箱を見る。
「この箱が、海の向こうの店へ着くんですね」
「はい、着いたら感想も知らせていただくつもりです」
「向こうで開けた方にも、取りやすいといいですね」
七月十六日の午後、お春さんと出かける約束をしていた。
俺も午前中に控えを片づけるつもりだったが、英文を書き写す手が止まる。ブロック体でも急ぐと文字がくっつくのだ。そこへおりんさんが顔を出した。
「その紙は明日でも間に合いますよ。今日はお春さんとのお約束がおありでしょう?」
「あと、ここだけ直してもいいですか?」
「その『ここだけ』は何度も伺った気がいたします」
言い返せず、俺は筆を置いた。
今日は彼女に頼んだ仕事の日でもない。紙を預けかけた手を引っ込めると、頷いてくれた。
「明日、私にも見せてくださいませ。戸を閉めるお手伝いだけいたします」
高瀬屋の前で待っていたお春さんは、俺の手が空いていることに気づいて笑った。
歩き出すと、今日は薄い方の紅ですねと俺から声をかける。彼女は少し目を丸くしてから頷いた。
「よくお分かりになりましたね」
「前に見せていただいてから、気になってしまって」
「では、お仕事のお話をしている間もですか?」
「それは、見すぎてしまうので困るかもしれません」
口にしてから顔が熱くなる。
お春さんは歩く速さを緩め、俺の袖へ指をかけた。
「おりんさんにも、そうおっしゃるんですか?」
「いえ、今のはお春さんに」
「そうですか」
その声が少し嬉しそうだったので、俺もようやく肩の力を抜いた。
店先の風車が回り、お春さんが青いものへ目を向ける。子供の頃、あれを持って走って転んだという。俺にも覚えはあるが、走った道や家の話までは口にできない。
「俺も、前を見ずに走って叱られました」
「今も、お考え事をしていると危ないですよ」
袖を引かれ、荷を担ぐ人とぶつからずに済んだ。俺は道の端へ寄って彼女の手を取る。
「二十六日の船に積めそうなんです。予定どおりに出せたら、見送りに来られますか?」
「父に聞いてみます。ただ、その日は店に来る方との約束がございますから」
「無理はなさらないでください。帰ったら俺からお話しします」
お春さんは頷いた後、俺を見上げる。
「おりんさんには、ちゃんと一緒に見ていただいてくださいね。お父様のお店のお仕事もなさりながら、ずいぶん走ってくださったのでしょう?」
「はい、俺だけではまとまらなかったと思います」
「でしたら、その場でお礼を」
茶店では二人分四銭を払い、今度は彼女が覚えた縫い方の話を聞いた。袖の縫い目を示されても違いが分からずに尋ねると、前より詳しく教えてくれる。
十八日、おりんさんへ報酬を渡した。
約束した八回の仕事を終えたことを確かめ、次の一か月も同じ条件でお願いする。七月十九日から八月十八日までの予定には、商談と見送りも入れた。彼女は包みをいつもより長く見つめている。
「何か、足りませんでしたか?」
「いいえ、小野屋とは別に、私の働いた分をこうして頂くのだと思いまして」
俺が次の紙を出しかけると、彼女は顔を上げた。
「ありがとうございます。次も頼んでよかったと思っていただけるよう、励みます」
真っ直ぐ言われて背筋が伸びる。俺も返事を待たせていた控えを渡した。
二十日にはモリスさんと、保存の確認が揃うことを条件に受渡しを決めた。
新しい瓶の白粉は、国内の小さい器と同じ四匁入り。七十二本を一箱へまとめる。一瓶三十銭、二十一円六十銭に外箱と荷造り一円四十銭を加え、横浜の商館で渡すまでの合計は二十三円とした。
瓶や確認の手間が増えるので、以前と同じ値段にはしていない。船賃とその先の荷渡し、税関への届けなどはモリスさん側で手配し、そこで必要な費用も先方が持つ。
先方は上海の客へ先に知らせ、届いた分から渡したいという。おりんさんは支払日も確かめた。
「こちらが品をお渡しした後、上海で売れるまで御代を待つというお話ではございませんね?」
俺が訳すと、買い取るのだと返事があった。売れ残りと製品の不備は分け、こちらに不備があれば到着時の状態と番号を知らせてもらって対応する。
その晩、取引の英文をチャッピーと読み直し、日本語の控えも作った。使い方の説明書も先に整え、栄吉さんに紹介された書き手へ七十二枚の写しを頼む。製造日と期限の欄は空けておいてもらった。
七月二十四日、六月十四日の見本は製造から四十日を迎えた。
未開封の瓶から小皿へ取ると、粉は塊にならずに落ちる。途中で開けた別の見本も確かめ、岸本さんへ預けていた分の記録と合わせた。
従来の器には湿気で固まったものがあるが、新しい瓶の粉はさらりと広がった。翌日は十五日製造の分を確かめ、それもよければ出荷する手はずだ。
これまでの見本と衛生上の確認から、初便には新しい容器の未開封品で製造から四十日、開封後は十日以内、ただし全体の期限を越えない条件を採る。期限と確認した範囲は、モリスさんにも説明した。*1
おつねさんと庄吉さんには、二十四日の新しい製造分を詰めてもらった。封を確かめ、瓶の底と包みに同じ記号をつける。
俺はチャッピーへ、実際に決めた条件を入力した。
七月二十四日を製造日とし、八月三十一日を最終期限にする表示は、今回決めた四十日以内の範囲に収まります。ただし、輸送や保管が確認した条件を外れた品まで、その日付で使用可能になるわけではありません。到着時の確認と、遅延時に販売を止める扱いも先方へ伝えてください。
日付を入れた全文は次のとおりです。「開封後十日」と「八月三十一日」のうち、先に来る方までという意味です。容器へ直接ぬれた道具を入れない説明も添えます。
Saenai Face Powder.
Made on 24 July 1876. Use by 31 August 1876.
Once opened, use within ten days, or by the date above, whichever comes first.
Keep tightly closed in a cool, dry place, away from sunlight.
Take a small amount into a clean, dry dish and apply lightly. Keep wet brushes out of the bottle.
Do not use if the seal is damaged or the powder has changed.
No white lead is used in its preparation.
最後の文は「製造に鉛白を使わない」という説明です。微量の不純物まで完全に存在しない、あるいは誰にも刺激が起きないという保証にはしていません。異常があれば使用をやめ、販売店へ知らせてもらう旨も、渡す際の説明へ加えてください。
栄吉さんにも日付を確かめてもらい、用意していた札と説明書へ書き込んだ。見比べると一枚だけ数字が違っている。俺の書き間違いだ。
背中が冷え、ほかの紙も一枚ずつ確かめ直した。
お春さんは高瀬屋の用事を終えてから、いつもの手間賃で包装を手伝いに来てくれる。
「こちらへ入れる紙は、この向きですね?」
「はい、箱を開けたら先に読めるようにお願いします」
おりんさんが向こう側から控えを渡し、お春さんはそれを受け取る前に俺を見る。
「京介さん、おりんさんへ確認していただくお話が残っているのではありませんか?」
「ええ、明日どの順番で検分していただくか、まだ確かめていなくて」
「では、こちらが終わるまでにお願いします。包んでからほどくのは、もったいないですから」
俺が慌てて紙を広げると、おりんさんは隣へ椅子を寄せた。
お春さんは口元を緩めて包みへ戻る。二人の顔色を気にしていた俺だけが、話し始めるのに遅れた。
翌二十五日、残る見本の確認を終えて商館へ向かった。モリスさんの前で十二本ずつの数を確かめ、封と札も見てもらう。
製造見本も小皿へ出すと、モリスさんは粉を見て頷き、書付へ署名した。二十三円を受け取り、俺も受取の書付を渡す。
代金の包みをしまい、品を使った上海の客の感想を知らせてほしいと頼んだ。
「Please tell me what your customers think. Even if they do not like it.」
最後のところで少しつかえたが、言い直して伝える。
モリスさんは笑い、よい話も悪い話も書こうと答えた。
七月二十六日、俺とおりんさんは港で荷の積み込みを待っていた。
上海行きの汽船は沖にあり、まずは岸から小さな荷船で運ぶ。栄吉さんに聞いておいた場所に立ち、積み込みを見守った。
三菱の航路は去年から動いている。それでも、ここを離れる自分の品を見るのは今日が初めてだ。*2
荷運びの男が、庄吉さんの作った箱を抱えてきた。
板の上には俺が書いた商会名と行先、先方から指定された荷印がある。見慣れた字が他人の荷の間へ入っていく。仕事場で何度も開け閉めした箱が、海へ運び出されようとしていた。
「あの箱です」
言わなくても分かっていたはずだが、俺は指さしてしまった。
おりんさんも視線で追い、荷船の中へ箱が収まるまで黙って見ている。
お春さんは高瀬屋の約束で来られず、帰ってから船の話を聞かせてほしいと言っていた。
俺は隣へ向き直る。
「おりんさん、ありがとうございました。今日、御一緒できてよかったです」
「向こうの方が開けるところも、見てみたいですね」
「ええ、次は使った方の話を聞きたいです。それでまた作れたら」
途中まで言うと、おりんさんがこちらを見た。
「次も、私に御相談くださいますか?」
「もちろんです。仕入れも売り方も、俺の知らないところを一緒に考えていただきたいので」
彼女はすぐに返事をせず、風で動いた袖を押さえた。
商館で相手の答えを待っていたときとは違い、目が合うと俺の方へ少し身体を寄せてくる。
「では、商売の御相談以外でも、たまにはお誘いくださいませ」
返す言葉を探しているうちに、荷船が岸を離れた。
おりんさんは俺の顔を見て微笑み、返事を急がせる代わりに船の方へ向き直る。唇には、あの紅の淡い色が乗っている。
俺はすぐ仕事の話へ逃げず、少し考えてから口を開いた。
「帰りに、少し歩いていきませんか?」
「はい、喜んで」
おりんさんはまた、荷船へ目を向けた。
俺たちは荷船が沖の汽船へ着くまで見送った。もう箱は見分けられず、他の荷とともに引き上げられるところへ目を凝らす。
やがて煙を吐く船がゆっくり動き出した。船から目を離すと、おりんさんも歩き出す。
今度は急がず、彼女と並んで港を離れた。