明治時代をチャッピーと共に成り上がれ! 作:ヅダスキー3世
「京介、起きてるかい?」
返事をするより先に体を起こし、肩の痛みに顔をしかめた。
昨日は薪を運んでいる間も、器を洗っている間も、どうにか動けていた。その分を今になってまとめて請求されているらしい。
戸の隙間が細く明るい。すぐそばに立っていたおせいさんは、俺の足元を指した。
「おはようのところ悪いんだけどね。そこの箱、ちょいと出したいんだ。足をどけてくれる?」
「あ、はい、すみません!」
「そんなに跳ね起きなくたっていいよ。まだお客は来ないんだからさ」
上着を畳んで膝に載せ、足を引っ込める。
昨日の朝は道端でどいてくれと言われ、今日は店の中で足をどけてくれと言われた。言われていることは似ているが、今朝は立った後に出ていく必要がない。
筵を巻いて壁際へ寄せていると、奥から徳蔵さんも出てくる。
「どうだ、眠れたか?」
「はい、おかげさまで」
「そいつはよかった。じゃ、顔を洗ったら早速手伝ってくれ」
寝床の片付けが済む頃には、もう竈の方で火の気配がしている。
顔を洗う水を分けてもらい、手拭いを返そうとすると、おせいさんが首を振った。
「それはしばらくアンタが使いな。洗ったらあっちへ干しておくんだよ」
「ありがとうございます。これ、洗い場の布とは別にしておくんですよね?」
「そうそう。顔を拭いたので椀まで拭かれちまったら敵わないからね」
言われた端へ手拭いを掛け、ギュッと前掛けを締める。
昨日の濡れたところは乾いていた。紐を結ぶときだけ、腰の同じ場所が少し痛い。
朝の最初の仕事は、水を移すことだった。
おせいさんが甕の蓋を開け、柄杓で桶へ汲む。俺も代わって汲もうとすると、桶の内側にある木目を指された。
「水を入れるのはその辺まででいいよ」
「もっと入りますけど」
「入るけどねえ。京介さん、アンタそれを抱えて運ぶんだろう?」
試しに持ち上げてみたら、思った以上に腕へ重さがかかった。
まだ桶の縁まで随分と空いているのに、これ以上入れていたら、運び始める前にやめたくなっていたと思う。
「うっ……ここまでにします」
「うん、横着したって良いことなんか一つもないんだからね。残りはまた運べばいいのさ」
重たい桶を両手で抱え、洗い場まで運ぶ。
歩くたびに水がチャプチャプと揺れるので、足を止めてからゆっくり下ろした。昨日は何気なく手を突っ込んでいた桶だが、たったこれだけを満たすのにも腕を使う。
蛇口をひねって洗い桶へ水を流していた頃のことを思い出す。今では、それが随分と贅沢に思えた。
「この甕の水って、どこから運ぶんですか?」
「水屋*1が持ってくるんだよ。アンタが来たときには、もう入れてあったからね」
「ああ、買ってるんですね」
「そりゃそうさ。だからって汚い水で洗えって話じゃないよ。飯粒を先に落とせば、桶の水もそんなに汚れないだろう?」
おせいさんは、昨日も教えてくれた置き場へ残りを集めて見せる。
水が濁ったら取り替える。その水を替えるために、また誰かが運ぶ。
器の汚れを落とす手間と水を運ぶ手間が、ようやく頭の中でつながった。
朝の客が入り始めると、考え込んでいる暇はなくなる。
昨日覚えた場所へ飯碗を並べ、空いた器を下げに出る。お代わりを頼まれたら、今度は客の顔を見てから受け取った。
「そこの端の方、お代わり一つです」
「端は左右二つあるよ、京介」
「入口に近い方です!」
「はいよ」
徳蔵さんから飯碗を受け取り、真っすぐ客のところへ持っていく。
今日は聞き直さずに済んだ。そのまま帰りに隣の席の器も下げると、おせいさんが空いた台をさっと拭いてくれる。
何をするにも声をかけていた昨日と違い、二人の間へ少しだけ入れた気がした。
朝の客が引き、俺たちも飯を食べ終えたところで、徳蔵さんが箸を置いた。
「さて、昨日の話だけどな、京介」
「はい」
「お前さん、ウチでしばらく働く気はあるか?」
「あります!」
「うん、あるのは分かったから、先に話を聞きな」
膝の上で手を揃える。
椀を下げかけていたおせいさんも、隣へ腰を下ろした。
「まず五日、今日から手伝ってもらおうと思ってる。朝の支度から、晩の片付けまで。洗い物と掃除、それに荷を運ぶ仕事だ」
「はい」
「昼間の客が引いたら、支度の切りがついたところで休みな。用があって外へ出るときは、黙って出ていかないこと。それで、給金は一日に五銭*2」
五銭。
昨日教わった二銭の飯を二回食べても一銭残る。
そこまではすぐ計算できたが、寝る場所の分はいくらになるのだろう。
「その五銭から、ご飯代をお払いするんですか?」
「いや、飯は賄いを出すから、朝、昼、晩、うちで食いな。寝るのも昨日のところでよければ使っていい。その分を引いたりはしねえよ」
「五銭は、そのままいただけるんですか?」
「最初からそう言ってるんだけどな」
おせいさんが笑い、俺は慌てて頭を下げた。
話が嬉しい方へ進むと、それだけで聞き間違えている気がしてくる。
「すみません。それで、いついただけるんでしょうか?」
「当座の銭もないんだろう?まずは毎晩、片付けが済んだら渡すよ。五日やって、この先も続けられそうなら、また話そう」
「お願いします!」
「銭の箱は触らない。家の奥へ入るときは声をかける。そこは昨日と同じだ」
「はい」
徳蔵さんは俺の顔を見て、声を少し落とす。
「身の上のことは、話せるようになったら聞かせてくれ。うちで働くことと、それは別の話だからな」
「……はい、ありがとうございます」
何もかも分かってもらえたわけではない。
それでも五日間は、明日の仕事を毎晩頼まなくて済む。寝床から起き上がった後にすることも決まった。
「その代わり、アンタも困ったら言いなよ」
おせいさんが立ち上がり、空いた椀を重ねる。
「黙ってぼうっとされると、眠いのか腹が痛いのか、こっちも分からないからさ」
「分かりました」
「今はどっち?」
「……肩が痛いです」
「ははっ、そっちか。昨日張り切って運んだからねえ」
徳蔵さんまで笑い、俺も少し笑ってから立ち上がった。
腕はまだ重い。それでも、運ぶものを探すために店の中を見回す気になれた。
「こんにちは。おせいさん、頼まれてたお茶碗、持ってきましたよ」
声がしたとき、俺は棚の上へ器を戻していた。
振り向くと、暖簾の下で若い女の人が木箱を抱えている。着物の袖はたすきでまとめられ、腕に沿わせた箱の角へ、指がしっかり掛かっていた。
顔にはまだあどけなさが残っている。髪をきちんと結い上げ、箱を抱え直しながら店の奥をのぞいていた。
目が合ったので頭を下げると、相手は俺を見上げ、それから前掛けへ視線を下ろす。
「あら、新しい人?」
「あ、はい、今日から……いえ、昨日もいたんですけど、ちゃんと働くのは今日からで」
「そうなんですね。おせいさんはいらっしゃいます?」
「います。すぐ呼びます!」
奥へ声をかけようとしたところで、おせいさんが自分から出てきた。
「あらぁお春ちゃん、ちょうどよかった。ここへ置いておくれ」
「はい、六つ揃いました。今開けますね」
箱を下ろす場所を空けようと、俺は台の端の盆を持ち上げる。
お春さんはそこへ箱を置き、礼を言ってから、被せていた布を外した。藁の間から出てきたのは、縁の内側に細い青い線の入った飯碗だった。
「前のより少し深いんです。大きさ、これでどうでしょう?」
「どれどれ?うん、持ちやすそうだね。ほら、あんたも見とくれよ」
呼ばれた徳蔵さんが一つ取り上げ、手の中で回す。
俺は昨日から使っている碗を一つ持ってきて、隣へ置いた。おせいさんが二つを見比べながら、うなずく。
「ああ、こう並べると分かるね。飯をよそうのにはこっちの方がよさそうだ」
「口はあんまり変わらないな。確かに、これなら重ねて置けそうだ」
「全部お確かめください。欠けがないか、底もお願いします」
お春さんが碗を一つずつ取り出すので、俺は箱を押さえながら藁をまとめた。
彼女は俺の袖口をちらりと見て、小さく笑う。
「そのお洋服、汚しちゃいません?」
「あ、これしかないので。別に、きちんとした仕事をしてたわけじゃないんです」
「仕事?」
「この服で働いてたわけじゃなくて。仕事を探すときに着る服で……」
口を開くほど、説明が必要なことが増えていく。
お春さんは碗を持ったまま、俺の胸元を見る。
「じゃあ、働き口が見つかったんですね」
「……はい」
「よかったですね」
そこで話がきれいに終わった。
俺はまだ続けるつもりだった説明を飲み込み、手の中の藁を揃える。ちゃんとした仕事とは何だ。飯屋で働く人の前で、何を言っているんだろう。
もう服の話は自分からしない。
「京介っていうんだよ。この人」
おせいさんに紹介され、改めて背筋を伸ばす。
「左江内京介です。よろしくお願いします」
「高瀬春です。こちらこそ」
「高瀬さん」
「はい、本町通の方にある高瀬屋がうちの店なんです。父がお茶碗とか、お皿とか、ほかにも細々したものを扱っていて」
言いながら彼女は、最後の碗を台へ置いた。
指を離したところで、縁が僅かに揺れる。お春さんはもう一度置き直し、底へ指を当てた。
「あれ?すみません、これ一つ替えてきます」
「そのぐらいなら、別に使えないことはないけどねえ」
「汁気のあるものを入れたとき、たぶん気になっちゃいますから。店にあるのを見てきます」
彼女は碗を手元へよけてから、持ってきた書付を開く。
俺には横からだと、筆の線がつながって見えるだけだった。おせいさんはそれを指先で押さえ、一つ返す分をどうするか確認している。
「これも入れて六つの勘定だから、取り替えた分を持ってきてからでいいかい?」
「ええ、全部揃ってからでお願いします」
「じゃあ、そうしとこう。お春ちゃん、無理して今日もう一度来なくてもいいからね」
「明日の朝でも?」
「今ある分で充分足りるよ。ほかの用もあるんだろう?」
お春さんはうなずき、返す一つを藁で包み直した。
店の人が使えると言っても、そのまま置いていかない。残す五つと持ち帰る一つを確かめてから布を掛ける、その手が随分と慣れて見えた。
「箱、外まで持ちますよ」
「ありがとうございます。もう軽くなったんですけどね」
それでも何かしたくて、箱を持って入口へ向かう。
外で渡そうとすると、お春さんが先に、俺の前掛けの紐を指さした。
「そこ、ほどけかけてますよ」
「え?」
「後ろ。ほら、片方が長くなってる」
箱を受け取ってもらい、背中へ手を回す。
言われたとおり、結び目が緩んでいた。碗を並べて少しは役に立ったつもりなのに、服のことを二度も気にかけられている。
「ありがとうございます!」
「こちらこそ。じゃあ、また明日」
お春さんは店の中にも声をかけ、人の流れを見てから通りへ出ていった。
箱を抱えるとき、袖口から細い手首が見える。俺はそれを目で追いかけ、暖簾の下に立ったままだったことに気づいた。
「京介。お春ちゃん見送ったら、こっちも頼むよ」
「はい!」
振り返ると、おせいさんが空いた桶を持っている。
受け取りながら、さっきの碗のやり取りを思い出した。
「高瀬さん、しっかりしてますね」
「お春ちゃんかい?まだ十六なんだけどねえ。店のことはよぉく分かってるよ」
「十六ですか?」
「そうだよ。アンタはいくつだっけ?」
「二十五です」
「へぇ、アンタ二十五だったんだね」
九つも下なのか。
さっきは俺の方が、返事にも服にも気を配ってもらっていた。年だけは余計に取っていると思われないよう、せめて頼まれた仕事を片付けよう。
桶へ水を汲み、今朝教わったように両手で抱える。
その晩、最後の桶を伏せて戻ると、徳蔵さんが台に銭を並べていた。
赤茶色の丸い硬貨が五枚ある。
「ほら、今日の分だ。きっちり数えてくれ」
俺は前掛けで拭きかけた手を止め、乾いた手拭いを使った。
一枚、二枚と手のひらへ載せる。十円玉よりも大きく感じる銅貨には、細かな模様と、見慣れない形の文字が刻まれていた。
ひっくり返すと、竜がいる。
「これ、一枚で一銭ですか?」
「そうだよ。その一銭を五枚。合わせて五銭だ」
最後の一枚を重ねて、指を閉じる。
朝は言葉だった五銭が、今はちゃんと手の中にある。
「ありがとうございます!」
「おっと、近い近い。そんなにデカい声出さないでも聞こえてるよ」
徳蔵さんが顔を引き、少し離れたところでおせいさんが笑った。
俺は声を抑えてもう一度礼を言い、握った銭をどこへしまうか考える。財布はない。ポケットへ入れるしかないが、そのままでは、座った拍子にこぼれそうだった。
「包むものもないのか?」
「はい、何か、紙でもあれば」
「布の方がいいよ。ちょいと待ってな」
おせいさんが持ってきてくれた端切れに、五枚を重ねて包む。
端切れはもらえると言われたので、その分も礼を言うと、彼女はもう休みなと手を振った。
借りた筵へ座り、銭の包みを膝へ置く。
ポケットからスマホを出すと、昼間から送りたかったことが一度に浮かんできた。順番を考え、まず金の話から打ち込む。
初めての給金だね。三十日働けば一円五十銭、計算は合っているよ。今の約束は五日間だから、まずは五日で二十五銭。そのうち五銭を受け取ったところだね。
米の量で比べる粗い目安なら、五銭は令和2年(2020年)の約460円相当。明治8年の東京の米相場と、2020年の東京の小売価格を比べた概算で、現代の日給そのものに置き換えられる数字ではないよ。
京介の場合は、五銭とは別に三食と寝床が付いている。松葉屋で一食二銭の飯を二回買えば四銭かかるけれど、今回はその飯代を給金から払う必要がない。必要な買い物に使った残りを手元へ置いておける条件になったんだね。
四百六十円。
その数字だけなら、一日働いた金だと言われても困る。けれど、三食と寝るところを自分で払わずに済むのなら、全部が消えてしまうわけではない。
五日働いて二十五銭。
そこから何かを買えば減る。当たり前だが、ここでは足りなくなっても、別の口座から移すことはできない。
布を開き、一枚をつまんで画面の光へかざす。
俺が洗った器も、運んだ水も、これをもらえるだけの仕事にはなったらしい。
もう一枚を隣へ並べかけ、数はさっき確かめたのだからと包み直した。
続けて昼のことを打つ。
何て返ってきたの?
その返事なら、明日わざわざ説明し直さなくてもよさそうだね。会ったら挨拶しよう。次の会話まで、その失敗の続きにしなくて大丈夫だよ。
説明し直そうとしていた。
仕事のことを悪く言うつもりではなくて、と始めて、何の話かと聞かれたら、また服の話からやり直すところだった。
スマホを膝へ伏せ、上着のポケットを確かめる。
ネクタイを取り出して皺を伸ばし、シャツの襟を指でつまんだ。汗が乾いても、着たときのようには戻らない。これもどうにかしなければいけない。
家なら、脱いで洗濯機へ入れるだけだった。
洗剤が残っているかを見て、ボタンを押す。回っている間に風呂へ入れば、上がる頃には終わっている。
狭い部屋の、床へ置いたままの洗濯籠を思い出した。最後に入れた靴下も、そのままだろうか。
スマホを持ち直し、元の世界へ帰る方法、と入力する。
ここへ来た日に聞いたことだ。今日、帰れる手掛かりを新しく見つけたわけでもない。
それでも文字を消せずにいたが、奥で戸が閉まる音がして、ようやく指を動かした。
入力した言葉を一文字ずつ消す。代わりに打ったのは、もっと短い文だった。
うん、働けたことが嬉しくても、帰りたいよね。今日は帰る方法まで答えを出さなくていい。明日のために、少し休もう。
手拭いを洗って干し、戻ってから銭の包みを上着の内ポケットへ入れる。その口を一度押さえた。
上着を腹へ掛けて横になると、筵の匂いがした。壁の向こうにはまだ人の気配があり、通りの音も戸を隔てるだけで遠い。
目を閉じてから、明日の朝には手拭いが乾いているだろうかと考えた。
翌朝、お春さんは飯碗を一つ抱えてやってきた。
入口へ顔を向けた俺に気づき、昨日より先に会釈をくれる。
「おはようございます」
「おはようございます。おせいさんは、今奥にいますよ」
「ありがとう。ここにこれ、置いてもいいですか?」
「はい、どうぞ」
台の上を空けると、彼女は布をほどいた。
同じ青い線のある碗を昨日置いた場所へ載せる。縁へ軽く指を当てても、今度は動かなかった。
「今日は大丈夫ですね」
「ええ、店でも見たんですけど念のため」
俺も横からのぞいていると、おせいさんが出てきた。
二人が品物と勘定を確かめている間に、俺は洗い場へ戻る。さっきの挨拶は、後から説明し直さなくてもよさそうだった。
昼の片付けが済んでから、シャツをどう洗えばいいか、おせいさんに聞いてみた。
彼女は俺の襟と袖を順に見て、困った顔をする。
「うーん、洗うのはいいけどねぇ。乾くまで何を着るつもりだい?」
「……そうですよね」
「上着だけで出てこられても、お客がびっくりするよ」
「それは、俺もちょっと……」
結局、徳蔵さんの古い単衣を借りられることになった。
シャツを脱いで袖を通すと手首が大きく出るが、帯を締めれば動くのに困るほどではない。結び方まで教わってから、ようやく脱いだシャツを洗えた。
「何から何まで、本当にすみません」
「何、気にするんなら、返すときに洗って返しな。それでいいよ」
干したシャツを見上げ、俺は頭を下げた。
風で袖が膨らむのを眺めていると、おせいさんがこちらの首元へ目を留める。
「そういや京介。アンタ、湯には行ったのかい?」
「お風呂ですか?」
「そうだよ。ちょっと臭うよ。こっちへ来てから入ってる?」
「いえ、まだ。顔とかは洗ってるんですけど……」
「顔だけ洗ってたってねえ。首の後ろ、触ってごらん?」
言われて手をやると、指先がべたついた。
野宿をして、薪を運んで、水を運んでいる。シャツの襟が汚れるぐらいなのだから、それを着ている俺も相当汚れているはずだ。
昨夜思い出した家の風呂が、急に恋しくなる。
「この辺に、入れるところってあるんですか?」
「あるよ。うちもみんな湯屋へ行くのさ」
「京介、湯屋へ行くのか?」
干し場を通りかかった徳蔵さんが、手にしていた空箱を壁際へ寄せる。
「俺もちょうど行こうと思ってたところだ。どうだ京介、一緒に来るか?」
「いいんですか?まだ明るいですけど」
「明るいうちに入っちゃいけないってこともないだろう。夕方になりゃ、また忙しくなるんだから」
「そうですよね。あの、お金はいくらですか?」
「あそこは一人一銭*3だよ。今日は俺が出すから」
「あ、自分で払えます。昨日いただいたのがあるので」
「そりゃ知ってるよ。俺が渡したんだからな」
徳蔵さんは笑いながら、台に置いてあった手拭いを取る。
「働き始めた祝いだ。今日ぐらいおごらせてくれ」
「……ありがとうございます。じゃあ、次からは自分で払います」
「ああ、そうしな。ついでに道も覚えておくんだな」
俺も手拭いを取りに戻ると、おせいさんから小さな布袋を渡された。口を紐で縛ってあり、指で押すと中身が柔らかくへこむ。
「それも持っていきなよ」
「何が入ってるんですか?」
「糠だよ。湯で濡らして、それで体を洗うんだ。使い終わったら、ちゃんと持って帰っておいで」
糠袋*4を手拭いと一緒に持ち、借りた下駄で徳蔵さんの後を追う。
歩くたびに鼻緒が足の指の間へ当たるので、いつもより歩幅が小さい。角を曲がるところで待ってくれた徳蔵さんが、少し先の建物を指した。
「あそこだよ。近いだろう?」
暖簾をくぐると、奥から桶を置く音がする。
徳蔵さんは自分の財布から一銭銅貨を二枚出し、番台へ置いた。
「二人ね。こっちの若いのは、今ウチを手伝ってもらってるんだよ」
「ああ、そうかい。いらっしゃい」
「こんにちは」
隣で帯を解き始めた徳蔵さんを見ながら、俺も結び目に指をかける。
脱いだ服をまとめ、手拭いと糠袋を持って洗い場へ入ると、足の裏へ濡れた板の感触が伝わってきた。湯気と木の匂いがする。タイルの床もシャワーもなく、奥の湯船の前には低い口が開いている。
人が一人、腰をかがめてそこから出てきたので、慌てて脇へよけた。
「頭、ぶつけなさんなよ。そこはかがんで入るんだ」
「はい、ありがとうございます」
徳蔵さんに湯の汲み場を教わり、桶を持って空いているところへ腰を下ろす。
濡らした糠袋で腕をこすると、石鹸のような泡は立たなかった。それでも首筋や胸を洗って流すうちに、肌に貼りついていた汗の感じが薄れていく。足の指の間まで洗い、絞った手拭いを背中へ回した。
髪にも湯をかけ、指で地肌を揉んでから流す。額を伝った湯を手拭いで拭い、徳蔵さんの後から低い口をくぐった。
中は薄暗く、湯気の向こうに肩と頭がいくつか浮かんでいた。踏み板を越えて片足を湯へ入れた途端、思わず引っ込める。
「あっつ!」
「ははっ、熱いか?」
「熱いです!これ、皆さん普通に入ってるんですか?」
「見りゃ分かるだろう。俺だって入ってるよ」
確かに、徳蔵さんは胸まで浸かっている。こっちは足先だけで騒いでしまった。
「無理して急に入らなくていいよ。もう少し湯をかけてみな」
いったん洗い場へ戻り、脚へ何度か湯をかけてから入り直す。
今度は膝まで入れた。そこで少し待ち、腰を落としていくと、背中に触れる湯の熱さに息が止まりそうになる。それでも動かずにいるうち、握り締めていた湯船の縁から指を離せるようになった。
「どうだ?」
「……気持ちいいです」
「さっきと声が違うじゃねえか」
笑って返そうとしたら、口からは長い息が漏れた。
湯の中で手を開き、腕をそっと動かしてみる。肩の痛みはまだあるが、筵の上で背中を丸めていたときより、ずっと楽だった。
うっかり目を閉じると顎までゆっくり下がってきて、慌てて顔を上げる。
「おいおい、寝るんなら店へ戻ってからにしてくれよ」
「起きてますよ」
「ならいいけどよ。返事までのんびりしてきたからさ」
今度は俺も笑えた。
背中を伸ばすだけで、湯が肩へ寄せてくる。熱いのに、さっきのように逃げ出したくはない。もう少しここにいたかったが、顔が火照ってきたところで徳蔵さんより先に上がることにした。
体を拭いて単衣に袖を通すと、肌へ触れる布の感じまで違っていた。
帯の結び方を思い出している俺の隣で、徳蔵さんはもう着替え終えている。
「できるか?」
「もう少しです。さっき教わったので」
「おう、待っててやるからやってみな」
一度やり直してから結び、糠袋を忘れていないか確かめる。
外へ出ると、まだ濡れた髪へ風が通った。帰り道でも下駄には慣れなかったが、首の後ろへ風が当たるのが気持ちよくて、つい顎が上がる。
「徳蔵さん。ごちそうさまでした」
「ああ、また行こう」
店へ戻ると、おせいさんが俺たちの顔を見比べて笑った。
「あらら、すっかりさっぱりした顔になったねえ」
「はい、生き返りました」
「そりゃよかったね。まだ少し休めるから座っときなよ。あんたもだよ」
徳蔵さんにも同じことを言い、彼女は奥へ引っ込む。
俺は使ったものを片付けてから、干してあるシャツを見に行った。袖の端はもう乾き始めている。夕方には、洗ったこれを着て仕事ができそうだ。
借りているものが増えていく。前掛け、筵、手拭いに、今着ているもの。今日は下駄まで借りて、湯銭も出してもらった。
給金をもらったからといって、急に自分だけで暮らせるようにはならないらしい。
少なくとも次に着る服は、自分で金を出して買いたい。
その日の夕方には、シャツもまた着られるようになった。
教わった順に動き、昼間に足しておいた水を使って洗い物を進める。徳蔵さんが飯碗を探して振り向く前に、洗ったものをいつもの位置へ置けた。
「お、助かるよ」
次の器を下げに行く足が、少し軽くなる。
閉店後にもらった一銭銅貨五枚は、昨日の五枚と同じ包みへ入れた。二日分で十銭。使っていないので、全部ここにある。
十枚を確かめていると、徳蔵さんが奥から皿を持ってきた。
「京介。明日、朝の片付けが済んだら、高瀬屋へ行ってきてくれるか?」
「お春さんの?」
「そう、これを持っていって、同じくらいの大きさの皿があるか、聞いてきてほしいんだ。煮魚を載せるのに使いたい」
差し出された皿の縁が、一か所欠けている。
指を当てないよう底を持つと、徳蔵さんはその隣へ布を置いた。
「六枚欲しい。どんなものがあるかと、値段を聞いてきてくれ。まず聞くだけでいい。買うのは話を聞いてからだ」
「六枚で、値段を聞くんですね。分かりました」
「場所はおせいに教わりな。高瀬さんにソイツを見せれば分かるよ。お春ちゃんの親父さんだ。朝のうちならいんだろう」
おせいさんに道を聞き、曲がるところを声に出して繰り返す。
途中までは覚えがあった。明治に来た日、何も分からず歩いた方だ。その先に高瀬屋という店があり、明日はそこの人に会いに行く。
「分からなくなったら人に聞きな。どこまでも歩いていくんじゃないよ」
「はい、ちゃんと戻ってきます」
「戻ってこないと、昼の飯が冷めちまうからな」
布で皿を包み、朝に忘れないよう筵のそばへ置く。
銭の包みは上着へしまった。皿を買う金ではないし、今のところは使う予定もない。明日も働けば、ここへまた五銭を足せる。
スマホの画面を開き、今日も五銭受け取って、所持金が十銭になったことを伝える。
続けて、明日の用事を書いた。
送り終えてから、包んだ皿をもう一度見る。
用件は三つ。それくらいなら覚えられるはずだが、途中で誰かに話しかけられたら、一つぐらい飛んでしまうかもしれない。
画面の文を読み直し、スマホをしまう。
「京介、もう寝るよ」
「はい、おやすみなさい」
明日は朝の仕事が終わったら、上着を着て出かけよう。
ネクタイまで締めるか少し迷い、それは起きてから考えることにした。
今回は、京介が暮らす明治8年(1875年)前後の物価を少しご紹介します。当時は1円=100銭、1銭=10厘。数字だけ見ると安そうですが、今のお金とは価値が違います。
食べ物では、明治7年のあんパンに5厘という価格の記録があります。翌8年頃の牛乳は1合、約180ミリリットルで5銭。小さなコップ一杯ほどで、作中の京介が一日働いて受け取る現金と同じ額です。今では身近な牛乳も、気軽に毎日飲めるものではありません。(crd.ndl.go.jp, zck.or.jp)
日用品では、横浜の堤磯右衛門が明治6年に売り出した洗濯石鹸が1個10銭。京介なら二日分の給金です。また、明治8年の写真撮影料には3〜7円という記録があり、日給5銭なら60〜140日分。記念写真一つにも、なかなか思い切りが必要ですね。(edo-tokyo-museum.or.jp, crd.ndl.go.jp)
同年1月の外国郵便料金は、15グラムまでの手紙で上海宛て6銭、アメリカ宛て15銭。遠くへ知らせを送ることにも、相応のお金がかかりました。(crd.ndl.go.jp)
これらは年代や地域、販売条件の異なる価格例で、すべてが明治8年の横浜の統一相場というわけではありません。京介の給金は三食と寝床付きなので、現金だけで暮らし向きを比べられない点も、当時のお金を考える面白いところです。
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