【20話まで投稿予約済み】明治時代をチャッピーと共に成り上がれ! 作:ヅダスキー3世
朝の支度を終えると、徳蔵さんは竈のそばをおせいさんに任せ、まだ客のいない台へ帳面を広げた。
厚い帳面の間から小さな紙を抜き、隣の薄い帳面をめくる。片方に指を挟んだまま算盤へ手を伸ばすので、落としそうになった紙を俺が押さえた。
紙の上には、米屋の名前らしい文字と、四十という数字がある。
「これ、昨日の分ですか?」
「そうだ、ゆうべはお前さんに皿を頼んで、そのまま閉じちまったからな。こっちへ写しておこうと思ってさ」
隣から覗くと、縦に並んだ文字の中に『飯代』が見えた。
別の紙にも飯代十銭。どれをどこへ写すのか、徳蔵さんの指を目で追うだけでは分からない。
「これ見にくくないですか?」
算盤を弾く音が止まる。
しまった。毎日使っているものを横から来て見にくいとは。
「あ、いや、俺にはどっちも同じ飯代に見えたので。その、二度書いてあるのかと思って」
「ああ、なんだそういうことか。そりゃ二度も払ってくれるんなら、ありがたいんだがな。こっちは昨日食った分。こっちは前に食った分を昨日払ってくれたんだ」
「同じ人がですか?」
「車屋*1の衆さ。食った者の名はこっちにある。ほら、これが払ってもらった印だ」
教えられたところを見直すと、確かに日付が違う。
徳蔵さんは俺の顔を見てから、厚い帳面を少しこちらへ寄せてくれた。
「京介、大福帳っていうのは見たことないのか?」
「名前くらいなら。時代劇とか……いえ、実物は初めてです」
「じゃあ、見にくいのも仕方ないな。俺はお前さんの服の仕立て方を見ても、さっぱりだしな」
そう言って笑い、抜き出した紙を揃える。
俺は昨日洗ったシャツの袖口を引いた。仕立て方どころか、洗うのにも人を頼ったばかりだ。
受け取った金と、売った分は違う。
こういうのを整理するのが、たしか複式簿記だった。仕事探しのときに名前を見かけただけで、何を二つにするのかも知らないが。
帳面を閉じる徳蔵さんへ、もう一度聞く。
「後で、昨日の分だけ別の紙へまとめてみてもいいですか?銭の残りとか、払う分とかを一緒に見られるように」
「お?お前さんそういうのができるのか?」
「まだ、できるか分からないんですけど」
「ははっ、ずいぶん正直だな。いいぞ、手が空いてからなら。帳面の方はいじらないでくれよ」
「はい、別の紙に書きます」
「それと、皿の用事も忘れないでくれ」
忘れていませんと答えたところで最初の客が入り、俺は袖を上げた。
朝の客が引いてから、空いた桶を洗って伏せる。
おせいさんに次の仕事がないか聞くと、今のうちに休んでおいでと言われた。店の脇へ回り、壁を背にしてスマホを出す。
うん、複式簿記では、一つの取引を二つの面から記録する。例えば食材四十銭分を掛けで買えば、食材が四十銭分増えたことと、後で払う代金が四十銭増えたことを一緒に残すんだ。
そして、1875年の日本にはすでに紹介されているよ。福沢諭吉の『帳合之法』は、初編が明治6年、複式を扱う二編が明治7年に刊行されている。*2東京の三田にある慶應義塾の先生だね。
徳蔵さんの帳面を使うなら、まず何をどう記録しているか教えてもらおう。前の掛けを回収した十銭は、昨日の売上へ重ねて足さない。そこは徳蔵さんの説明どおりだよ。
福沢諭吉。
俺の知っている名前が出た。教科書の中にいる人が、ここでは去年、本を出している。
東京なら、海の向こうでもない。今、どこかで飯を食ったり本を読んだりしているのか。
店へ戻ると、徳蔵さんが約束の帳面を出してくれた。
読めない字を教わり、前日の控えと照らし合わせる。
「こっちは人数。銭はその隣だ」
「あ、五十人分で百銭ですね」
「そうそう、まぁ五十銭じゃ、飯だけだったとしても出せねえな」
徳蔵さんが仕込みへ戻ったところで、帳面と控えを撮影する。
台の陰へスマホを下ろし、撮った写真に教わった読み方を添える。
送信してから、開いた帳面へ目を戻す。しばらくして出てきた文字は、元の記録と見比べられるよう、同じ順番に並んでいた。
帳面・控えの読み下し
一、前日より繰越の銭 五十銭
一、飯代その場で受取り 五十人分 百銭
一、飯代掛け 車屋の衆五人分 十銭
一、車屋の衆より前の掛け受取り 十銭
一、米屋より米麦ほか受取り 代四十銭、掛け
一、薪代払い 三銭
一、京介へ本日の給金払い 五銭
一、米屋へ前の掛け払い 二十銭
一、家の用へ取り分け 十銭
閉店後、銭箱の中 一円二十二銭
昨日もらった五銭が、俺の名前の隣にある。店の方から見れば、払った五銭だ。
読み下しを元の帳面と見比べ、教わった数字を確かめてから続きを打つ。
ところが返事には、先に確かめたいことが並んだ。
食材を四十銭分買ったことは分かるけれど、その日に何銭分使ったかは、これだけでは決められないね。朝にあった分と、閉店時に残った分を仕入れ値で確かめられる?
あわせて、朝の掛けの残り、薪三銭分をその日に使い切ったか、「家の用」の十銭が何の支払いかも聞いてほしい。賄いと家族の食事がどこに含まれるかも、先に揃えておこう。
そうか。今朝炊いた米だって、昨日から残っていた分だ。
スマホをしまい、徳蔵さんが包丁を置くのを待つ。
「また聞いてもいいですか?」
「今度はどこだ?」
「昨日の朝と、店を閉めたときに、食べ物がどのくらい残っていたかなんですけど」
「それなら……あったあった、こっちの控えだぜ。昨日は米の残りも見たからな」
朝に三十銭分あって、四十銭分が届き、終いには二十銭分。
徳蔵さんは指を折り、米や麦だけではなく、味噌なども含めた数字だと教えてくれる。俺の賄いもそこから出しており、夫婦が家で食べる分は別に分けているという。
薪は昨日買って使った三銭分。米屋への二十銭は前から残っていた払いで、車屋から受け取った十銭も、それまで残っていた掛けの全部だった。
「家の用っていう十銭は、何を買ったんですか?」
「まだ何も。店の銭から、うちの暮らしの分へ移したんだ」
「じゃあ、仕入れとは別なんですね」
「そりゃそうだ。何でもかんでも飯の勘定に混ぜたら、おせいに叱られちまう」
「私が叱る前に、あんたが気づいとくれよ」
奥から返ってきた声に、徳蔵さんが肩をすくめる。
笑って礼を言い、確認した数字を借りた紙へ書き足す。
店の端へ戻り、聞いたばかりのことを紙と見比べながら入力する。朝にあった分と、終わりに残った分。そこを取り違えたら、聞き直した意味がない。
五月二十八日の分だけになっているか読み返してから送信すると、左右に分かれた表が出てきた。
確認できた範囲を現代の科目名で整理するね。単位はすべて銭。借方は左、貸方は右の欄の名前で、毎回「借金した」「金を貸した」という意味になるわけではないよ。
まず朝の残高は、現金50、売掛金10、食材30。これに対して買掛金20がある。この範囲の差額70を開始時点の元入金として置く。店全体の財産や開業資金を表す数字ではないよ。
| 開始残高の借方 | 貸方 |
|---|---|
| 現金50、売掛金10、食材30 | 買掛金20、元入金70 |
| 五月二十八日・借方 | 貸方 |
|---|---|
| 現金100 | 売上100 |
| 売掛金10 | 売上10 |
| 現金10 | 売掛金10 |
| 食材40 | 買掛金40 |
| 燃料費3 | 現金3 |
| 給料5 | 現金5 |
| 買掛金20 | 現金20 |
| 事業主貸10 | 現金10 |
| 食材費50 | 食材50 |
最後の食材費は、朝30+仕入れ40-残り20=50。京介の賄いも含むので、食事の売値をもう一度費用に足さない。「事業主貸」は店から家計へ移した十銭で、店の営業費用には入れていないよ。
各項目を集計すると、現金122、売掛金10、食材20、買掛金40。売上は110、今回数えた費用は58だから、差引52銭。家賃などを引く前の数字だね。
取引の三行目を指でなぞる。
前の飯代をもらったところには、売上という文字がない。代わりに、もらえるはずの金が減って、その分だけ現金が増えている。
米屋へ払った二十銭のところも同じだった。払うはずの金が減り、現金も減る。
二度書く方が面倒に見えたが、後から金の動きを辿れるようになっているらしい。
「京介、そこの器だけ下げておくれ」
「はい!」
おせいさんの声にスマホを伏せ、客の立った席へ向かう。
戻って洗い物を済ませてから、ようやく筆を取った。毛先へ墨を含ませすぎ、最初の『現』が真っ黒になる。
裏返しても、滲みが透けている。
「もう少し、ここで落としな」
通りかかったおせいさんが、硯の縁を示してくれた。
習字の授業で大きな『山』を書いたときとは、勝手が違う。
数字は徳蔵さんの帳面にならい、漢数字に直して写すことにした。
『122』を『一円二十二銭』と書き、もう一枚には項目ごとの結果をまとめていく。
徳蔵さんを呼ぶ前に、百と十をもう一度足した。
現金の計算も辿り直す。俺の五銭も、一回だけ引かれている。
「できました。見てもらえますか?」
「どれどれ、お?こっちは字が大きいな」
「細かい方から、こっちへまとめたんです」
徳蔵さんは紙を受け取ると、先に元の控えを脇へ置いた。
一円二十二銭を見て頷き、四十銭のところへ指を下ろす。それから売った飯代へ戻り、算盤を二、三度弾いた。
俺は濡れた筆を持ったまま、その手元を見ている。
「うん、合ってる。……おお、確かにこいつは見やすいな」
「本当ですか?」
「売れた分と銭箱にあった分、払いに取っておく分が一緒に見える。こっちの紙をめくって、あっちを探してってしなくていい」
徳蔵さんは俺の書いた一枚を開いた帳面の間へ挟んだ。
俺の書いたものが、人の帳面に挟まっている。まだ持っていた筆を置き、空いた指を一度握った。
「何ですか?それ」
入口から声がして、顔を上げた。
お春さんが小さな包みを抱えて立っている。頼まれていた布巾をおせいさんへ渡すと、徳蔵さんの手元を覗き込んだ。
「京介が、ウチの勘定をまとめてくれたんだ」
「へえ、少し見てもいいですか?」
「はい、まだ字がちょっと汚いんですけど」
「大丈夫、ちゃんと読めますよ。ここは米屋さんへ払う分なんですね。うちみたいに、月の終わりにまとめてもらう代も書けるんですか?」
「書けると思います。納めたときに、まだ受け取ってない分として残して、お金をもらったら、こっちへ……」
口だけでは怪しくなり、細かい方の紙を寄せる。
飯代の十銭を指すと、お春さんも隣の欄へ目を動かした。
「なるほど、納めた日といただいた日が違っても、両方残るんですね」
「そうです。俺、最初は同じ飯代を二度足しそうになって」
「京介、お前さんこういうのはどこで覚えたんだ?」
徳蔵さんの問いに、口を開きかけて止まる。
チャッピーに聞きました、と答えて済むなら、それが一番早い。代わりに、さっき画面で見た名前を思い出した。
「西洋の帳面のつけ方なんです。東京の三田にある慶應義塾の福沢諭吉という先生が、『帳合之法』っていう本にしているそうで」
「福沢先生?あの学問の本の?」
「はい、そちらも書いている先生です」
「へええ、偉い先生が、米屋への払いまで教えてくれるのか?」
「京介さん、その福沢先生に教わったんですか?」
お春さんまで顔を上げるので、俺はすぐ首を振る。
「いえ!直接お会いしたことはないです。俺もやり方を教わりながらで、今日まとめられたのは、徳蔵さんが元の帳面を読んでくれたからです」
「そうか、それにしたって、こうして出てくると面白いな」
「その本、私にも読めるでしょうか?」
本そのものは、俺も読んでない。
名前を言ったら、中身の話になる。当然だった。
「本の難しさまでは、まだ分からなくて。でも、掛けのところはお春さんの方が俺より早く分かりましたよね?」
「それは、うちでも同じような払いがありますから」
「俺はそこから教わったんです。やり方なら、一緒に確かめられると思います」
「じゃあ今度、うちの取引でもやってみたいです。父にも見せたいわ」
また今度、と言われた。
頷いてから、そこへつけ足す言葉を探していると、おせいさんが皿の包みを持ってくる。
「今度もいいけど、今日の用はどうするんだい?」
「あっ、ちょっと行ってきます!」
「そんなに慌てなくていいよ。昼の前に戻ればいいんだから。お春ちゃん、一緒なら道も分かるね」
前掛けを外して上着を着る。ネクタイは結ばず、欠けた皿の包みを両手で受け取った。
徳蔵さんに紙の扱いを尋ねると、集計の一枚は置いて、細かい方は高瀬さんへ見せていいと言われた。墨の乾きを確かめて畳み、皿とは別に持つ。
店を出ると、お春さんが歩幅を少し緩めて待っていてくれた。
本町通の方へ進むにつれ、荷を運ぶ人が増えてきた。
お春さんは向かいから来る荷車を見て、俺の袖へ軽く触れる。端へ寄ると、積まれた俵がすぐ脇を通り過ぎていった。
「その包み、ぶつけないでくださいね」
「はい、これ以上欠けたら見本にもならないので」
「ふふ、大きさだけならまだ分かりますけど」
彼女は俺の胸元に挟んだ紙を見る。
「父、きっと気に入りますよ。ああいう帳面」
「そうでしょうか?」
「お金の話なら、いつまでも聞いてますから」
連れていかれた店には、入口から奥まで器が並んでいた。
伏せた飯碗、重ねた皿、口を紙で覆った壺。木箱の間には人が一人通れるだけの道があり、俺は皿の包みを腹へ寄せて入る。
奥にいた男が顔を上げると、お春さんが先に声をかけた。
「ただいま。こちらは松葉屋さんの京介さん。お皿のことでいらしたの」
「おう、お帰り。……ああ、お前さんが京介か。春から聞いてるよ」
男は笑みを浮かべ、俺の顔から洋服、皿の包みへと目を動かした。
「高瀬宗兵衛といいます。うちの娘が世話になってるね」
「左江内京介です。こちらこそ、お世話になっています」
「それで、皿を何枚ご入り用だい?」
包みを開くと、高瀬さんは挨拶の続きを待たず、皿を持ち上げた。
底を返し、縁の欠けへ指を添えて、お春さんに棚の場所を言う。
「同じくらいの大きさで六枚、煮魚に使いたいそうです。今日は品物と値段を聞いてくるようにと」
「煮魚なら、少し縁があった方がいいな。春、そっちの深い方も出しておくれ」
台に二種類の皿が並ぶ。
青い柄の細かいものと、縁に線を引いただけのもの。俺が柄の方へ目を向けると、高瀬さんはもう一方を手前へ出した。
「店で毎日使うなら、俺はこっちを勧めるね。揃えて置けるし、また足すときにも探しやすい。こっちは一枚三銭五厘だ」
「六枚で……」
「二十一銭ですね」
俺が五厘を六つ集めている間に、お春さんの算盤は止まっていた。
首を縦に振ってから、用意してもらった紙へ金額を書く。
「柄のある方は、一枚五銭。六枚なら三十銭だ。どっちも見本は貸すから、徳蔵さんに選んでもらいな」
「ありがとうございます。ちなみになんですけど、まとめて買えば少し安くなったりは……しますか?」
尋ねると、高瀬さんの口元がもう少し上がる。
「ちゃんと聞くじゃないか。じゃあ、安い方を六枚で二十銭*3。松葉屋さんへの値段だよ。これより先は、徳蔵さんと話させておくれ」
「はい、そう伝えます」
「春、紙も二十銭に直しといて。後で違う額を持たせちゃいけない」
お春さんが俺の書いた二十一銭を一本の線で消し、その横へ二十銭と書き入れる。
手慣れた字を見ていると、彼女は隣の書付もこちらへ向けた。
「これは、枚数を確かめてもらえますか?私が出しますから」
「ええと、この字は何ですか?」
「小皿です。ここから下が小鉢」
小皿と言われればそう見えるが、最初は小の次が読めなかった。
一枚ずつ出してもらい、現物を数えて頷く。足し算はできても、書いてある品物が分からないと始まらない。
六枚を揃えたところで、お春さんが父親へ、松葉屋の帳面の話をした。
「掛けの分も銭の残りも、一緒に確かめられるんですって。京介さん、その紙、見せてもいいですか?」
「徳蔵さんには、見せてもいいと言っていただいてます」
紙を広げると、高瀬さんは皿の値を話していたときより身を乗り出した。
右と左の欄を順に見て、食材四十銭の行へ爪を当てる。
「買った分をこっちにも残すのか。支払う日と、相手の名前はどこへ書くんだい?」
「今回は米屋さんの分だけなので、名前は別に……あ、何軒もあったら、これだけじゃ分かりませんね」
「そうだろう?全部でいくら払うか分かっても、誰にいつ払うかが抜けたら困る」
「うちの掛け帳と、見比べられるようにすれば?」
「うん、それならいい。春、そこを覚えときな。払う日を間違えたら、次に品を回してもらえなくなる」
高瀬さんは紙から顔を上げ、今度は俺を見る。
「これを毎日つけるなら、どのくらい手がかかる?」
「今日は、何度も聞き直したので。慣れたらどのくらいかは……流石にまだ」
「そうか、それで銭の取り違えが減るんなら、紙代くらい惜しくないね。春、お前もちょっとやってみるかい?」
「はい、京介さんと、今度教わりながらやってみようって」
高瀬さんの指が止まった。
紙を畳む手つきが急に丁寧になり、俺へ返す前にもう一度、顔を見られる。
「お前さん、年はいくつだい?」
「二十五です」
「所帯は?」
「いえ、独りです」
「どこから横浜へ?」
答えに詰まると、お春さんが見本の皿と包み布を父親の前へ寄せた。
「お父さん。京介さん、昼までに戻るんですから」
「分かってるよ。これから付き合う相手のことは、少し聞いておこうと思ってね」
「帳面のお話でしょう?」
「帳面のお話だとも。……京介さん、うちの娘は、まだ若いんでねえ。そこのところは、どうぞよろしく」
何をよろしくされたのか、一拍遅れて分かった。
俺が口を開く前に、お春さんが小さく息を吐く。
「いつもは、嫁ぐ相手くらい自分で決めろって言うくせに」
「言ってるだろう。俺は、誰にしろとも言っちゃいない」
「じゃあ、どうして今そんなことを聞くの?」
「皿を包んでくる」
逃げた。
高瀬さんは見本の皿を持ち、棚の向こうへ引っ込んでしまった。
俺はお春さんと目が合い、笑っていいのか分からず口を結ぶ。
「すみません。誰にでも、ああなんです」
「大事にされてるんですね」
「ええ、母が労咳で亡くなってから、余計に。一人娘だからって、いつまでも子供扱いで」
労咳。たしか結核のことだったか。
何か言おうとしたが、お春さんはもう書付を片付け、棚の向こうへ、布は二枚使ってと声をかけている。
「父の方が、古い布を使い続けるんです。もう薄くなってるのに」
「自分の分はまだ使えるだろう。人様へ渡すものと一緒にしちゃいけないよ」
声と一緒に、包みを持った高瀬さんが戻ってくる。
結び目を引いて確かめ、返すときも皿の間に布を挟むよう念を押す。持参した欠け皿は別に包んでもらい、借りる二枚と重ねて抱えた。
入口へ向かう途中、荷を運び込んでいた男と行き合った。
道を空けると、木箱の横に黒い文字が見える。
「ガラス、ですか?」
口から出た言葉に、高瀬さんが振り向く。
「ほう、そっちの字も読めるのかい?」
「これぐらいなら。学校で習った英語なので」
「学校で英語をねえ。……ちょいと待っておくれ」
高瀬さんは帳場へ戻り、引き出しから折った紙を取り出した。
さっきまでの俺の身の上を探る顔から、品物を確かめるときの顔に戻っている。
「見本を頼んだ先から、手紙が来ていてね。いつもの人に読んでもらおうと思ってたんだが…お前さん、これも分かるかい?」
「難しいものは読めるかどうか。まず見せてもらってもいいですか?」
「ああ、もちろん。……おっと、昼までだったね」
表を見てから、高瀬さんは紙を畳み直した。
俺も長居したことに気づき、皿の包みを抱え直す。
「明日でも、松葉屋さんの用が済んでからでいい。急ぎの返事じゃないんだ。無理なら、いつもの人へ持っていくからさ」
「分かりました。あとで徳蔵さんに聞いてみます」
箱の『GLASS』だけなら、中学生の俺でも読めただろう。手紙一枚となったらどうだろうか。
松葉屋へ戻ると、まだ昼の客は来ていなかった。
二つの見本と値段を伝えると、徳蔵さんは縁に線のある方を選び、明日返しに行くとき、六枚で二十銭の方を頼んでくれと言った。納品と払いは、後で店同士が確かめるそうだ。
手紙の話もすると、朝の片付けが終わってからならいいと許してくれた。
その晩の給金を合わせ、俺の銭は十五銭になった。
筵へ座って銭を包み、スマホを取り出す。朝のやり取りを開き、入力欄へ指を触れた。
紙を使ってもらえたんだね。徳蔵さんが自分の帳面と照らして、合っていると確かめてくれたのもよかった。所持金は十五銭。皿代の二十銭は松葉屋の支払いとして、分けておこう。
手紙は、まず実物を見てから一緒に確かめよう。今は「必ず読めます」と約束していないし、高瀬さんも難しければ別の人へ頼めると言っている。読めない字や分からないところは、そのまま伝えていいよ。
箱の一語が読めたくらいで、ずいぶん先まで引き受けた気がしていた。明日はまず、手紙を見せてもらうところからだ。
返す皿の包みを筵の脇へ寄せ、スマホをしまう。
翌朝、高瀬屋へ行くと、お春さんはまだ店の奥にいた。
借りた二枚を返して注文を伝え、値段と枚数を確かめてから、昨日の手紙を見せてもらう。
高瀬さんが広げた紙には、細い線がびっしりと並んでいた。
英語……なのか?
文字はつながり、山のような線が続いている。数字らしいものは見つかるのに、その前後が読めない。学校で見た筆記体とも、何かが違う気がした。
「どうだい?」
「少し時間をいただけますか?字の形から確かめたいので」
「ああ、ならそこの台を使いな。汚れるものはどけるから」
高瀬さんが客に呼ばれ、入口へ出ていく。
俺は紙を明るい方へ寄せ、背中で手元を隠してスマホを出した。折り目の影を避けようと向きを変え、手紙全体を一枚に収める。
英語ではなく、ドイツ語の可能性が高いよ。古い手書きなので読みにくいけれど、「Muster」「Lieferung」と読めそうな語がある。見本や納入に関する言葉だね。
ただ、折り目のところはまだ判別しにくい。名前と数字を取り違えないよう、そこをもう少し近くで見せてもらえる?
ドイツ語。
俺が習ったことのない言葉だった。
それでも画面の中には、読めそうな文字が二つ、もう拾われている。
入口の方で、高瀬さんが客と値段の話をしていた。俺は折り目をそっと押さえ、もう一度スマホを構えた。
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