【20話まで投稿予約済み】明治時代をチャッピーと共に成り上がれ! 作:ヅダスキー3世
「明日、一緒に来てもらえないかい?」
六月三日の朝、高瀬さんは昨日の手紙を畳みながら言った。
手紙は英語だった。器の見本を六月四日の午後二時に見せられるので、来られるか知らせてほしいという用件で、昨日のうちに日本語へまとめて渡してある。
約束の十五銭も、その場でもらえた。松葉屋へ戻って夜の給金五銭を受け取り、今朝の所持金は六十八銭になっている。
次の仕事がないか立ち寄ったところへ、思いがけない誘いだった。
「一緒にって、見本を見に行くんですか?」
「そう、品物の話も聞きたいと言ってただろう?向こうで何か書いてもらったとき、その場で読める人がいると助かるんだ」
高瀬さんは手紙の端を揃え、少し声を落とす。
「今回はね、買い違えたら、ちょっとした大赤字になるかもしれないからさ」
「そんなに高いものなんですか?」
「英国の茶の器だよ。得意先の大店のお大尽に、客へ出すものを揃えてくれと頼まれてね。まずは試しに二組、現物を見たいそうだ。気に入れば、さらに一箱」
「じゃあ、売る先は決まってるんですね?」
「頼まれたのは品物を探すところまでさ。見れば必ず買うとは言われてない。安くない器を抱えてから、気に入らないと言われちゃ困るだろう?」
欲しいと言われたから仕入れればいい、というものでもないらしい。
高瀬さんは手紙を指で叩いた。
「だから、まず二組で確かめる。値も数も紙に残したいんだ」
仕入れの場へ連れていってもらえる。どんな品をいくらで買うのか、自分の目で見られるのだ。
それで、向こうでは誰と話すんだろう。
「相手の方は、日本語も話されるんですか?」
「挨拶やちょっとしたことならね。俺もいつもは品物と数字を見ながら話してるよ。細かい用は、日本人の手代を通したりしてさ」
「明日もその方に?」
「見本を出すブラウンさんと話すことになるね。今度の手紙も、その人からだ」
名前は昨日、高瀬さんに読みを確かめた。署名のBrownと並べて書き留めたばかりだ。
手紙は黙って待ってくれる。生きている相手は、俺が一行読み終わるまで黙っているとは限らない。
「あの、俺、外国語は紙なら時間をもらって読めますけど」
「うん?」
「普通にしゃべれるわけじゃないんです」
声が裏返り、帳場にいたお春さんまでこちらを見る。
もう少し静かに言えばよかった。
「バーッと早口で話されたら、分からないことが多いと思います。聞かれたことへ、すぐ外国語で答えるのも難しいです」
「そうか、読むのとは違うんだね」
「はい、ただ、紙にでも書いてもらえれば、確かめる手伝いはできます」
何でも聞き取れるような顔で行く方が、きっと困る。俺も高瀬さんも、向こうの人も。
高瀬さんは少し考え、手紙を帳面の上へ置いた。
「じゃあ、初めからそう頼もう。明日は見本と値を確かめるだけだ。急いで大きな注文を決めるつもりはないよ」
「それなら、俺も行ってみたいです」
「同行して、帰ってから分かったことを紙にまとめる。そこまでで四十銭*1でどうだい?紙を受け取ったら払う」
四十銭。
頭の中では、さっきまで英語の心配をしていた。その脇へ銀貨が四枚並び、行きたい気持ちがぐっと強くなる。
「お願いします。松葉屋の方も、明日の時間を相談してきます」
「頼むよ。返事は今日、俺が先方の手代に伝えてくる」
お春さんも一緒だと聞いて安心した直後、英語に詰まるところも見られるのだと気づく。
いや、そこで格好をつけると、もっとひどいことになる。
松葉屋へ戻り、徳蔵さんに明日の用件を話すと、昼の片付けを済ませてからなら行っていいと言ってもらえた。
夕方の支度には戻る。長引きそうなら、清書だけでも翌朝にしてもらう。その約束を高瀬屋へも伝えておく。
「今度は外人さんと話すのか?」
「書いてもらったものを読む方が中心です。話すのは、あんまり」
「困ったら、分からんと口に出してくれ。初日の飯のお代わりのときみたいにな」
「お代わりですか?」
「どの客の椀か分からなくなって、聞いてただろう。あれでよかったんだ」
そんなところまで覚えられている。
俺が苦笑すると、おせいさんは洗い終わった椀を重ねながら、今は間違えずに持っていくじゃないかと言ってくれた。
英語もいつか慣れるだろうか。少なくとも、明日までには無理だ。
その日の昼の片付けを終えてから、俺は筆と紙を扱う店に寄った。
店の人に、仕事の書付を作りたいと伝える。並んだ筆はどれも似て見えたが、太さと値段を聞き、細かい字も書けるものを一本選んだ。
筆が三銭。小さな硯が四銭。墨が三銭で、半紙二十枚が二銭。
全部で十二銭*2だった。
「こちらをください」
十銭銀貨と一銭銅貨二枚を置く。
紙の上に硯を重ねないように包んでもらい、両手で受け取った。帰り道では、袋も欲しいと思う。
それでも、今は筆があるだけで嬉しい。
人の店で道具を借りなくても、寝る前に字を書ける。見せたいことがあれば、紙にして持っていけるのだ。
夜の給金を受け取った後、新しい硯に少し水を落として墨をすった。
買い物で六十八銭が五十六銭になり、今夜の五銭を足して六十一銭。道具を揃えても、それだけ残る。
乾かしておいた借り物の手拭いは、おせいさんへ礼を言って返してある。筆を持つ前に指を拭いたのは、昨日買った自分の手拭いだった。
紙の端に、明日のための短い言葉を書こうとする。
けれど、何から覚えればいいんだろう。
俺は筆を置いてスマホを出し、今日決まった仕事を入力した。
聞こえた声を送ってくれれば、訳す手伝いはできるよ。ただ、訳を確認してから京介が返事をする間は必要だから、短く区切って話してもらおう。聞き取れなかった部分は、そのまま確かめればいい。
まずは、この三つが使えるね。
“Please speak slowly.”――ゆっくり話してください。
“Please write it down.”――それを書いてください。
“One moment, please.”――少し待ってください。
品物を見ながらなら、数字と短い言葉でも確認できる。値段は「何をいくつ買う場合の額か」まで書いてもらうといいよ。内容を高瀬さんへ伝えて、買うかどうか決めてもらおう。
読めば、どれも難しい文ではない。
ゆっくり読み上げてもらい、聞いた音を小声で繰り返す。二つ目で舌がもつれ、もう一度最初からやり直した。
言える気がしてから画面を伏せると、今度は次の言葉が出てこない。
俺は紙に三つの文を書き写した。つながった洒落た字は書けないので、一文字ずつ離す。
文字の下には、短い日本語も添えた。
もちろん。覚えたかどうかの試験じゃないからね。言葉に詰まったら、その文を相手に見せてもいい。明日は三つとも言おうとするより、困ったときに必要な一つを使えれば十分だよ。
試験じゃない。そう言われると、少し肩の力が抜ける。
俺はすぐ見つかるよう、待ってもらう文の横へ丸を付けた。
何も持たずに行くよりは、ずっといい。
乾いたのを確かめて折り、上着の内側へ入れた。
六月四日、昼の仕事を終えて高瀬屋に着くと、台の上から二つのコップがなくなっていた。
借りていた見本は、今朝、高瀬さんが返してきたという。二十個の注文は客の返事待ちで、借りる期限だけを延ばすことはしなかったそうだ。
俺は筆記具の包みを見せ、今日は自分のものを持ってきたと伝える。
「おや、揃えたのかい?」
「はい、昨日買いました」
「なら、帰ったらそれで書いてもらおう」
硯と墨は店に置かせてもらい、筆と紙を上着へ入れる。
高瀬さんが店の者へ留守の用を言い残し、三人で外へ出る。
先方へは昨日のうちに返事が届いている。俺は上着の内側の紙に触れ、高瀬さんについていった。
居留地の商館に入ると、木箱の積まれた壁の前に、広い台があった。
知らない言葉の書かれた札と、布を掛けた品物。どこへ目を向ければいいか迷っていると、奥から背の高い男の人が出てくる。
高瀬さんが名を呼び、相手も笑って「タカセサン」と返す。
この人がブラウンさんらしい。
紹介されて頭を下げ、どうにか名前を言った。
ブラウンさんは俺の洋服へ一度目を向け、それから英語で何かを尋ねてくる。
最後が質問らしいことだけは分かった。
何となく、笑って頷きそうになる。
「あ、ええと……」
危ない。
何を聞かれたのかも分からないのに、はいと言うところだった。
俺は昨夜の三行を頭の中で探す。
「プリーズ、スピーク、スローリー」
ブラウンさんは頷き、今度は一語ずつ区切るように話してくれた。
英語を話すのか、と聞かれているらしい。
リトル、と答え、親指と人差し指の間を狭くする。ついでに、紙なら読めると言おうとして、また止まる。
お春さんが横から、持っていた手紙を台へ置いてくれた。
俺はその紙を指し、読める、でも話すのは少し、と知っている単語を並べる。
ブラウンさんは「ああ」と声を出し、台の端にあった紙をこちらへ寄せた。
どうやら伝わったらしい。それだけで喉が渇く。
布が取られると、取っ手の付いた白いカップと受皿が現れた。
金色の縁も花の絵もない。それでも、食堂の湯呑より薄い口に窓の光が乗り、取っ手の細さが目を引く。高瀬さんとお春さんが手に取り、俺は台の脇へ少し下がってスマホを出した。
ブラウンさんの説明を聞いて、日本語にしてほしい。そう打ち込んでから音声を送れるようにする。
説明の途中で、ドズン、という音が聞こえた。
ダースのことだろうか。十二、だったはずだ。
チャッピーの声が耳に届く。
『カップと受皿を一組にして、一箱に十二組入っていると説明しています』
十二組なら、品物は二十四個。
俺は高瀬さんへ伝えようとする。その間にもブラウンさんは次の説明へ進み、今度は値段らしい数字が続いた。
高瀬さんからは、一箱買う場合かと聞かれる。
返事をしようとすると、チャッピーの訳が重なった。
頭の中で、日本語と英語と自分の言いたいことがぶつかる。
「ワン、モーメント、プリーズ」
俺は手を少し上げる。
ブラウンさんが口を閉じ、高瀬さんもこちらを見た。
こんなふうに止めるだけで、胸がどきどきする。けれど、止まってもらわなければ何も追いつかない。
「すみません。一つずつ確かめます。箱には、カップと受皿で十二組入っているそうです。値段も書いてもらいます」
「頼むよ。あと、見本に二組だけ買えるかも聞いてもらおうか?」
昨日書いた三行の紙を出す。
二つ目を見ながら口にすると、ブラウンさんは笑うでもなく筆記具を取り、数字と短い言葉を書いてくれた。
| 3 yen 50 sen | per pair |
| 42 yen | per case of twelve pairs |
二人が品物を見ている間に、手前へ寄せた紙を撮る。スマホを腰の前へ下げ、翻訳を頼む文を打ち込んだ。
写真には、次のように書かれているよ。
3 yen 50 sen per pair――一組三円五十銭。*3
42 yen per case of twelve pairs――十二組入り一箱で四十二円。
一箱でも一組当たり三円五十銭。二組なら七円だね。ただし、二組だけ売ってもらえるかは、この紙には書かれていない。
“Can we buy two pairs today?”で、「今日、二組買えますか?」と聞けるよ。
画面を読んでいる間に、お春さんがカップを受皿に載せた。
高瀬さんは箱の中を見せてもらっている。
顔を上げて二つの値段を伝えると、高瀬さんは小さく頷く。
「一組三円五十銭で、一箱なら四十二円だね。今日は二組でいい。売ってもらえるか聞いてくれないか?」
一組だけで、俺の今の手持ちの何倍もする。見本という言葉に、少し気を抜いていた。
俺は文を小声で一度確かめてから、ブラウンさんに尋ねた。
ツー、ペアーズ。最後の方が怪しかったので、カップと受皿を指して二本の指を立てる。
ブラウンさんは二組を台へ並べ、さっきの紙へ書き足した。
読める。今度の数字は、自分でもすぐ分かる。
「二組で七円です」
「じゃあ、それをもらおう」
今度はお春さんが、一つのカップを台へ置き直す。
底へ指を添えて、わずかに傾けるような動きを二度繰り返した。
「お父さん、こちらだけ少しがたつきます」
「ああ、見せてごらん」
高瀬さんが同じように触り、ブラウンさんへ手招きする。
カップの底と台を交互に指して、もう一度揺らすと、相手もすぐに頷いた。別のものを箱から出し、同じ場所へ置いてくれる。
ここには長い英語が要らなかった。
俺は入れ替えたカップを見て、お春さんが何を確かめていたのかようやく分かる。
高瀬さんは七円を払い、受取の書付をもらった。
受け取った紙にも、二組で七円とある。同じ品の十二組入りがもう一箱あることも確かめた。買うとしても、客の返事をもらってからだ。取り置きは頼まない。
書付の七円を指で追い、ようやく息をつけた。
包み終えた品を受け取り、俺は深く頭を下げる。
最後の「サンキュー」は、今までで一番すんなり口から出た。
「肩が上がってますよ」
道に出たところで言われ、俺はお春さんを見る。
高瀬さんはもう一軒、近くの取引先へ寄ってから戻るという。俺たちは先に店へ帰り、今日の紙をまとめることになった。
両腕には二組の器の包みがある。
言われて力を抜くと、首の後ろが少し痛かった。
「ずっと、こうなってました?」
「お話が始まってから、だんだん」
「そんなに分かりましたか?」
「はい、紙を出してからは少し下がりました」
そこまで見られていたのか。
俺は包みを持ち直し、息を吐く。店に入る前より、外の風がずっと涼しく感じる。
「読めたら、もう少し話せるかと思ってたんです。自分でも……」
「違うんですね」
「全然違いました。途中から、何を先に言えばいいか分からなくなって」
「でも、待ってもらえましたね」
「はい、そこは言ってよかったです」
黙って頷いていたら、数も値も曖昧なまま帰ったかもしれない。
「お春さんは、ああいう所でも落ち着いてますね。カップのことも、すぐ分かって」
「器を見ている間は、まだいいんです」
「ほかは?」
「一人で品を納めに行くと、お父さんならもっと安くするだろうって言われることがあります」
彼女は笑ったが、口元だけの笑い方だった。
値段を聞いて持っていったのに、その場で下げろと言われる。断れば気を悪くされそうで、だからといって勝手に引けば父親に説明できない。
そんなときは、返事をする前に一度、数え終わった品を見直すのだという。
「急いで答えると、つい謝ってしまうから。値段は父に確かめてありますと言うんです」
「それでも、言われませんか?」
「言われますよ。ですから、次から父に行ってもらうこともあります」
何でもその場で上手に片付けているわけではないんだ。
そう思うと、隣を歩く人が少し近くなる。俺よりずっと若いのに、商売では頼ってばかりいた。
「俺も次から書いてあることは先に紙にして持っていきます。お客さんの前で考え込むのは減らしたいので」
「そのときは、器の名前を先に聞いてくださいね」
「お願いします。今日は、底のがたつきまで見ていませんでした」
「あれは、使うときに困りますから」
荷車が来て、二人で道の端へ寄る。
通り過ぎるのを待って歩き出したところで、お春さんが俺の包みを見た。
「お国でも、こういう器を使うんですか?」
「ええ、ありますよ。俺の家のは、もっと全然安物でしたけど」
「どの辺りなんですか?」
反射的に、元の町の名前が出そうになる。
今ここで言っても、同じ景色のある場所にはならない。駅も道も、俺が住んでいた部屋も。
俺が答えられずにいると、お春さんは少し顔を上げた。
「帰りたくなりませんか?」
なる。
今朝も、歯を磨くものを探しかけた。慣れたつもりになっていても、寝起きの頭はまだ向こうにいる。
けれど、何に乗れば帰れるのかさえ分からない。
「帰りたい場所は、あります」
それだけ答えた。
お春さんは前を向き、しばらく黙って歩く。
片方の包みが傾きかけ、俺は腕を少し寄せた。
「じゃあ、帰るときは教えてくださいね」
「はい」
「急に来なくなったら、仕事のことも分からなくなりますから」
頷いてから、俺は彼女の横顔を見る。
何と言えばいいか迷っているうちに、今度はこちらを向かれた。
「先に、今日の紙を仕上げないと」
「そうですね、夕方には松葉屋ですし」
歩く速さを少し上げる。
ずっとここにいます、とは言えなかった。帰れるなら帰りたい。その気持ちは変わっていない。
それでも今日の俺には、一緒に品物を持って帰る相手がいる。
店に着くまでは、せめてこの包みをぶつけないように運ぼう。
自分の筆は、借りていたものより少し細かった。
墨を含ませすぎて最初の一字が太くなり、俺は紙の端で穂先を整える。
買った品は二組、支払った代金は七円。同じ品を追加で十二組仕入れるなら四十二円。ただし、その一箱の注文も取り置きもしていない。
書付と見比べながら清書し、品名と数はお春さんにも見てもらった。
高瀬さんが戻る頃には、墨も乾いていた。
紙を渡すと、持ち帰った受取の書付と並べて確かめ、帳場から銭を出してくれる。
十銭銀貨が四枚。
「約束の四十銭だよ。ご苦労さん」
「ありがとうございます」
今度は、受け取っていいのかとは聞かなかった。
詰まったし、お春さんにも助けてもらった。それでも、今日頼まれたことは、この紙にして渡せている。
俺は四枚を確かめ、包みに入れる。
六十一銭に四十銭。
一円と、一銭。
頭の中でもう一度足してから、顔が熱くなる。
筆も紙も買ったのに、それでも一円を越えた。
何も買えずに歩いていた俺が、今は道具を持ち、銭を残して帰れる。
「もう少し、しゃべれるようにはしたいですけど」
「そうだね。けど、今日みたいに書いてもらえば済む用もある」
「はい、今度から最初にそれを言います。手紙を読む仕事と、会ってお話しする仕事は、別に相談させてください」
「分かったよ」
高瀬さんは二組の器へ目を向ける。
俺もつられて見る。二組で七円。書付の十五銭に今日の四十銭まで払って、いくら残るんだろう。
「お客さんには、いくらで売るんですか?」
「一組五円で話してある。二組なら十円。今日の七円との差は三円だから、お前さんへの払いを引いても残るよ。客が買ってくれればね」
「それで、気に入ればもう一箱」
「十二組なら売値は六十円、仕入れが四十二円で差は十八円。運ぶ手間もあるし、割ればその分は減る。それでも、まとまればいい商いになる」
十四組をいきなり揃えたら、仕入れだけで四十九円になる。客の返事を聞く前に、そこまでの金は出さない。まず二組という話の重さが、ようやく分かってきた。
「四十銭を惜しんで、違う数を頼んだり、値を聞き違えたりしちゃたまらない。今日はちゃんと紙を残してもらえたし、それでいいんだよ」
俺は紙の切れ端に、客に品と数を確かめる、と書き留める。
チャッピーが教えてくれた品物探しの話に、今日見た白い器が重なった。
品物がどこにあり、誰がいくつ欲しがっているのか。両方を聞いて回る仕事なら、俺も少しずつ入っていけるかもしれない。
「また仕入れの話があれば、是非聞かせてください。手紙の方も、続けてお願いします」
「それなら、明日の朝にでも来てくれるかい?店を開く客の件で、見てもらいたいものがあるんだ」
「はい、朝の片付けが済んだら伺います」
帰り道は、道具の包みが行きより軽く感じる。
松葉屋の夕方の支度にも間に合い、その晩の給金を受け取ると、手持ちは一円六銭になった。
片付けの後、筵の脇で銭を数え直す。硯を置き、乾いた紙を広げようとしたところで、おせいさんが通るので膝の上へ戻した。
邪魔だと言われたわけじゃない。それでも、店の板の間を俺一人で使えるわけではなかった。
いつか、自分の部屋で仕事をしたい。
そのための銭が、少しずつ手元に残り始めている。
俺はスマホを取り出した。
一円を越えたんだね。自分の部屋と仕事場を持つのは、次に稼ぐ目標になると思う。
ただ、大日本帝国憲法が公布されるのは明治22年、1889年。今いる明治8年には、まだないんだ。住まいや身元については、この時点の布告や地域の取扱いを確かめる必要があるよ。*4
まだないのか。
明治なら、最初からあの憲法があると思っていた。その頃には俺も四十近い。
戸籍の制度はもうあるよ。明治4年に戸籍法が出て、翌5年に全国的な戸籍が作られている。*5
でも、戸籍に記録がないから、何の決まりにも関係しなくなるわけではない。借りられるかは、家主が身元をどう確かめるか、紹介してくれる人がいるかなども含めて聞く必要がある。本籍を離れて暮らす人を扱う「寄留」という仕組みもあるけれど、元の戸籍を示せない京介がどう手続きするかは、別に確かめないといけないね。*6
名前だけなら書ける。二十五歳だとも言える。しかし、それより前の俺を知る人は、この町には一人もいない。
部屋の空きが見つかれば済む話ではなさそうだ。
まずは「いずれ部屋を借りたいので、家賃と、身元について何が必要か知りたい」と相談してみよう。紹介や保証をお願いするのは、その内容が分かってからでいい。
故郷から身元の書付を取り寄せられない事情も、伝えられる範囲で話そう。徳蔵さんが家主に紹介してくれても、それだけで戸籍の問題まで解決したとは考えず、届出の相談先も確かめていこう。
今夜いきなり店を出るわけじゃないのだから、稼ぎながら確かめる時間はある。
指を止めかけて、もう一つ思いつく。
その心配は、商売を続けるなら確かめておきたいね。所得税の導入は明治20年、1887年なので、今はまだないよ。ただし、それで税金や地域の負担が全部ないという意味にはならない。仕事の種類や場所で取扱いが違うから、京介の翻訳仕事に何がかかるかは、明治8年の横浜の取扱いを確認しよう。*7
今からできるのは、いつ、誰から、何の仕事でいくら受け取り、道具などにいくら使ったかを残すこと。税額の確認にも、仕事でいくら残るかを見るのにも使えるよ。
高瀬さんなら、店を続けるのにどんな払いがあるか知っているはずだ。次に手紙の話が済んだら聞いてみよう。
俺は紙の端に、今日受け取った四十銭と五銭を書き分ける。
家賃に加えて、食事、灯り、寝具などの費用も必要だね。今の三食と寝床は、松葉屋で働く条件に含まれている。外に住んでも仕事を続けるのか、その場合も食事を出してもらえるのかで変わるよ。
必要な額が分かったら、暮らしに使う分と、次の仕事に残す分を合わせて目標にしよう。月五件というのは、これから確かめる仕事の見込み。まず高瀬さんに、どれくらいの頻度で手紙が来るかも聞いてみるといいね。
五件。十件。
紙に書いてみると、欲しい金額から仕事の数を考えられる。飯と寝床の値も聞けば、もっとはっきりするだろう。
俺はスマホをしまい、帳面を閉じかけていた徳蔵さんに声をかけた。
「今、少し聞いてもいいですか?」
「どうした?」
「もっと仕事を取れるようになったら、自分で部屋を借りたいんです。長屋の一部屋でもいいので。そういう所の家賃とか、借りるのに何が要るか、ご存じですか?」
「部屋か。もう出ていくのか?」
「いえ、今すぐじゃないです。ここの仕事も続けたいです。ただ、先にどれくらい要るか知って、銭を貯めたくて」
徳蔵さんは俺の脇へ広げた紙に目をやる。
「書き物をする場所も欲しくなったか?」
「はい、あと……俺、訳あって故郷から身元の書付を取り寄せられないんです。そういう人でも借りられるのか、聞きたくて」
「そいつは、どこでもいいとは言えんな。空きがあるかも含めて、知ってる家主に話を聞いてみる。店を出る話は、それからにしてくれ」
「ありがとうございます。飯のことも、また相談させてください」
「ああ、まず明日の仕事を済ませてこい」
俺は頭を下げ、筵の脇へ戻った。
借りる部屋も家賃も、まだ決まっていない。けれど、金が貯まるまで考えずに待つ必要はなかったのだ。
洗っておいた筆の穂先を揃え、明日使う紙を数枚選ぶ。英語の三行を書いた紙も、端を伸ばして重ねた。
次の手紙は、読む前に仕事の中身と値段を聞こう。
いつか自分の部屋で、この包みを開く。そのためにも、明日また一つ稼いでくる。
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