【20話まで投稿予約済み】明治時代をチャッピーと共に成り上がれ!   作:ヅダスキー3世

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第七話 (英語をペラペラ話せるわけじゃ)ないです。

 

「明日、一緒に来てもらえないかい?」

 

 六月三日の朝、高瀬たかせさんは昨日の手紙を畳みながら言った。

 手紙は英語だった。器の見本を六月四日の午後二時に見せられるので、来られるか知らせてほしいという用件で、昨日のうちに日本語へまとめて渡してある。

 約束の十五銭も、その場でもらえた。松葉屋へ戻って夜の給金五銭を受け取り、今朝の所持金は六十八銭になっている。

 次の仕事がないか立ち寄ったところへ、思いがけない誘いだった。

 

「一緒にって、見本を見に行くんですか?」

「そう、品物の話も聞きたいと言ってただろう?向こうで何か書いてもらったとき、その場で読める人がいると助かるんだ」

 

 高瀬さんは手紙の端を揃え、少し声を落とす。

 

「今回はね、買い違えたら、ちょっとした大赤字になるかもしれないからさ」

「そんなに高いものなんですか?」

「英国の茶の器だよ。得意先の大店のお大尽に、客へ出すものを揃えてくれと頼まれてね。まずは試しに二組、現物を見たいそうだ。気に入れば、さらに一箱」

「じゃあ、売る先は決まってるんですね?」

「頼まれたのは品物を探すところまでさ。見れば必ず買うとは言われてない。安くない器を抱えてから、気に入らないと言われちゃ困るだろう?」

 

 欲しいと言われたから仕入れればいい、というものでもないらしい。

 高瀬さんは手紙を指で叩いた。

 

「だから、まず二組で確かめる。値も数も紙に残したいんだ」

 

 仕入れの場へ連れていってもらえる。どんな品をいくらで買うのか、自分の目で見られるのだ。

 それで、向こうでは誰と話すんだろう。

 

「相手の方は、日本語も話されるんですか?」

「挨拶やちょっとしたことならね。俺もいつもは品物と数字を見ながら話してるよ。細かい用は、日本人の手代を通したりしてさ」

「明日もその方に?」

「見本を出すブラウンさんと話すことになるね。今度の手紙も、その人からだ」

 

 名前は昨日、高瀬さんに読みを確かめた。署名のBrownと並べて書き留めたばかりだ。

 手紙は黙って待ってくれる。生きている相手は、俺が一行読み終わるまで黙っているとは限らない。

 

「あの、俺、外国語は紙なら時間をもらって読めますけど」

「うん?」

「普通にしゃべれるわけじゃないんです」

 

 声が裏返り、帳場にいたお春おはるさんまでこちらを見る。

 もう少し静かに言えばよかった。

 

「バーッと早口で話されたら、分からないことが多いと思います。聞かれたことへ、すぐ外国語で答えるのも難しいです」

「そうか、読むのとは違うんだね」

「はい、ただ、紙にでも書いてもらえれば、確かめる手伝いはできます」

 

 何でも聞き取れるような顔で行く方が、きっと困る。俺も高瀬さんも、向こうの人も。

 高瀬さんは少し考え、手紙を帳面の上へ置いた。

 

「じゃあ、初めからそう頼もう。明日は見本と値を確かめるだけだ。急いで大きな注文を決めるつもりはないよ」

「それなら、俺も行ってみたいです」

「同行して、帰ってから分かったことを紙にまとめる。そこまでで四十銭*1でどうだい?紙を受け取ったら払う」

 

 四十銭。

 頭の中では、さっきまで英語の心配をしていた。その脇へ銀貨が四枚並び、行きたい気持ちがぐっと強くなる。

 

「お願いします。松葉屋の方も、明日の時間を相談してきます」

「頼むよ。返事は今日、俺が先方の手代に伝えてくる」

 

 お春さんも一緒だと聞いて安心した直後、英語に詰まるところも見られるのだと気づく。

 いや、そこで格好をつけると、もっとひどいことになる。

 

◇ ◇ ◇

 

 松葉屋へ戻り、徳蔵とくぞうさんに明日の用件を話すと、昼の片付けを済ませてからなら行っていいと言ってもらえた。

 夕方の支度には戻る。長引きそうなら、清書だけでも翌朝にしてもらう。その約束を高瀬屋へも伝えておく。

 

「今度は外人さんと話すのか?」

「書いてもらったものを読む方が中心です。話すのは、あんまり」

「困ったら、分からんと口に出してくれ。初日の飯のお代わりのときみたいにな」

「お代わりですか?」

「どの客の椀か分からなくなって、聞いてただろう。あれでよかったんだ」

 

 そんなところまで覚えられている。

 俺が苦笑すると、おせいさんは洗い終わった椀を重ねながら、今は間違えずに持っていくじゃないかと言ってくれた。

 英語もいつか慣れるだろうか。少なくとも、明日までには無理だ。

 

 その日の昼の片付けを終えてから、俺は筆と紙を扱う店に寄った。

 店の人に、仕事の書付を作りたいと伝える。並んだ筆はどれも似て見えたが、太さと値段を聞き、細かい字も書けるものを一本選んだ。

 筆が三銭。小さな硯が四銭。墨が三銭で、半紙二十枚が二銭。

 全部で十二銭*2だった。

 

「こちらをください」

 

 十銭銀貨と一銭銅貨二枚を置く。

 紙の上に硯を重ねないように包んでもらい、両手で受け取った。帰り道では、袋も欲しいと思う。

 それでも、今は筆があるだけで嬉しい。

 人の店で道具を借りなくても、寝る前に字を書ける。見せたいことがあれば、紙にして持っていけるのだ。

 

 夜の給金を受け取った後、新しい硯に少し水を落として墨をすった。

 買い物で六十八銭が五十六銭になり、今夜の五銭を足して六十一銭。道具を揃えても、それだけ残る。

 乾かしておいた借り物の手拭いは、おせいさんへ礼を言って返してある。筆を持つ前に指を拭いたのは、昨日買った自分の手拭いだった。

 

 紙の端に、明日のための短い言葉を書こうとする。

 けれど、何から覚えればいいんだろう。

 俺は筆を置いてスマホを出し、今日決まった仕事を入力した。

 

京介きょうすけ 明日の午後、高瀬さんとお春さんと、英語を話すブラウンさんの所へ器の見本を見に行くことになった。俺は英語の聞き取りも会話も苦手で、それは高瀬さんにも伝えたよ。書いてもらった内容を読み、帰って紙にまとめるところまでで四十銭。チャッピーに声を聞いてもらえば、その場でも話せるかな?まず何を言えるようにしておけばいい?

 

ChatGPT 6 Astra(極高)

 

 聞こえた声を送ってくれれば、訳す手伝いはできるよ。ただ、訳を確認してから京介が返事をする間は必要だから、短く区切って話してもらおう。聞き取れなかった部分は、そのまま確かめればいい。

 

 まずは、この三つが使えるね。

 

 “Please speak slowly.”――ゆっくり話してください。

 “Please write it down.”――それを書いてください。

 “One moment, please.”――少し待ってください。

 

 品物を見ながらなら、数字と短い言葉でも確認できる。値段は「何をいくつ買う場合の額か」まで書いてもらうといいよ。内容を高瀬さんへ伝えて、買うかどうか決めてもらおう。


 

 読めば、どれも難しい文ではない。

 ゆっくり読み上げてもらい、聞いた音を小声で繰り返す。二つ目で舌がもつれ、もう一度最初からやり直した。

 言える気がしてから画面を伏せると、今度は次の言葉が出てこない。

 俺は紙に三つの文を書き写した。つながった洒落た字は書けないので、一文字ずつ離す。

 文字の下には、短い日本語も添えた。

 

京介 これ、相手の前で紙を見ながら言ってもいいかな?さっきから練習してるんだけど、見ないと言葉が出てこない。

 

ChatGPT 6 Astra(極高)

 

 もちろん。覚えたかどうかの試験じゃないからね。言葉に詰まったら、その文を相手に見せてもいい。明日は三つとも言おうとするより、困ったときに必要な一つを使えれば十分だよ。

 


 

 試験じゃない。そう言われると、少し肩の力が抜ける。

 俺はすぐ見つかるよう、待ってもらう文の横へ丸を付けた。

 

 何も持たずに行くよりは、ずっといい。

 乾いたのを確かめて折り、上着の内側へ入れた。

 

◇ ◇ ◇

 

 六月四日、昼の仕事を終えて高瀬屋に着くと、台の上から二つのコップがなくなっていた。

 借りていた見本は、今朝、高瀬さんが返してきたという。二十個の注文は客の返事待ちで、借りる期限だけを延ばすことはしなかったそうだ。

 俺は筆記具の包みを見せ、今日は自分のものを持ってきたと伝える。

 

「おや、揃えたのかい?」

「はい、昨日買いました」

「なら、帰ったらそれで書いてもらおう」

 

 硯と墨は店に置かせてもらい、筆と紙を上着へ入れる。

 

 高瀬さんが店の者へ留守の用を言い残し、三人で外へ出る。

 先方へは昨日のうちに返事が届いている。俺は上着の内側の紙に触れ、高瀬さんについていった。

 

 居留地の商館に入ると、木箱の積まれた壁の前に、広い台があった。

 知らない言葉の書かれた札と、布を掛けた品物。どこへ目を向ければいいか迷っていると、奥から背の高い男の人が出てくる。

 高瀬さんが名を呼び、相手も笑って「タカセサン」と返す。

 この人がブラウンさんらしい。

 

 紹介されて頭を下げ、どうにか名前を言った。

 ブラウンさんは俺の洋服へ一度目を向け、それから英語で何かを尋ねてくる。

 最後が質問らしいことだけは分かった。

 何となく、笑って頷きそうになる。

 

「あ、ええと……」

 

 危ない。

 何を聞かれたのかも分からないのに、はいと言うところだった。

 俺は昨夜の三行を頭の中で探す。

 

「プリーズ、スピーク、スローリー」

 

 ブラウンさんは頷き、今度は一語ずつ区切るように話してくれた。

 英語を話すのか、と聞かれているらしい。

 リトル、と答え、親指と人差し指の間を狭くする。ついでに、紙なら読めると言おうとして、また止まる。

 お春さんが横から、持っていた手紙を台へ置いてくれた。

 俺はその紙を指し、読める、でも話すのは少し、と知っている単語を並べる。

 ブラウンさんは「ああ」と声を出し、台の端にあった紙をこちらへ寄せた。

 どうやら伝わったらしい。それだけで喉が渇く。

 

 布が取られると、取っ手の付いた白いカップと受皿が現れた。

 金色の縁も花の絵もない。それでも、食堂の湯呑より薄い口に窓の光が乗り、取っ手の細さが目を引く。高瀬さんとお春さんが手に取り、俺は台の脇へ少し下がってスマホを出した。

 ブラウンさんの説明を聞いて、日本語にしてほしい。そう打ち込んでから音声を送れるようにする。

 

 説明の途中で、ドズン、という音が聞こえた。

 ダースのことだろうか。十二、だったはずだ。

 チャッピーの声が耳に届く。

 

『カップと受皿を一組にして、一箱に十二組入っていると説明しています』

 

 十二組なら、品物は二十四個。

 俺は高瀬さんへ伝えようとする。その間にもブラウンさんは次の説明へ進み、今度は値段らしい数字が続いた。

 高瀬さんからは、一箱買う場合かと聞かれる。

 返事をしようとすると、チャッピーの訳が重なった。

 頭の中で、日本語と英語と自分の言いたいことがぶつかる。

 

「ワン、モーメント、プリーズ」

 

 俺は手を少し上げる。

 ブラウンさんが口を閉じ、高瀬さんもこちらを見た。

 こんなふうに止めるだけで、胸がどきどきする。けれど、止まってもらわなければ何も追いつかない。

 

「すみません。一つずつ確かめます。箱には、カップと受皿で十二組入っているそうです。値段も書いてもらいます」

「頼むよ。あと、見本に二組だけ買えるかも聞いてもらおうか?」

 

 昨日書いた三行の紙を出す。

 二つ目を見ながら口にすると、ブラウンさんは笑うでもなく筆記具を取り、数字と短い言葉を書いてくれた。

 

値段の書付

 

3 yen 50 senper pair
42 yenper case of twelve pairs

 

 二人が品物を見ている間に、手前へ寄せた紙を撮る。スマホを腰の前へ下げ、翻訳を頼む文を打ち込んだ。

 

京介 この値段の紙を日本語にして。一組はカップ一個と受皿一枚で、箱には十二組と説明された。高瀬さんは、見本として二組だけ買えるかも知りたい。【写真を添付】

 

ChatGPT 6 Astra(極高)

 

 写真には、次のように書かれているよ。

 

 3 yen 50 sen per pair――一組三円五十銭。*3

 42 yen per case of twelve pairs――十二組入り一箱で四十二円。

 

 一箱でも一組当たり三円五十銭。二組なら七円だね。ただし、二組だけ売ってもらえるかは、この紙には書かれていない。

 

 “Can we buy two pairs today?”で、「今日、二組買えますか?」と聞けるよ。


 

 画面を読んでいる間に、お春さんがカップを受皿に載せた。

 高瀬さんは箱の中を見せてもらっている。

 顔を上げて二つの値段を伝えると、高瀬さんは小さく頷く。

 

「一組三円五十銭で、一箱なら四十二円だね。今日は二組でいい。売ってもらえるか聞いてくれないか?」

 

 一組だけで、俺の今の手持ちの何倍もする。見本という言葉に、少し気を抜いていた。

 

 俺は文を小声で一度確かめてから、ブラウンさんに尋ねた。

 ツー、ペアーズ。最後の方が怪しかったので、カップと受皿を指して二本の指を立てる。

 ブラウンさんは二組を台へ並べ、さっきの紙へ書き足した。

2 pairs — 7 yen.

 読める。今度の数字は、自分でもすぐ分かる。

 

「二組で七円です」

「じゃあ、それをもらおう」

 

 今度はお春さんが、一つのカップを台へ置き直す。

 底へ指を添えて、わずかに傾けるような動きを二度繰り返した。

 

「お父さん、こちらだけ少しがたつきます」

「ああ、見せてごらん」

 

 高瀬さんが同じように触り、ブラウンさんへ手招きする。

 カップの底と台を交互に指して、もう一度揺らすと、相手もすぐに頷いた。別のものを箱から出し、同じ場所へ置いてくれる。

 ここには長い英語が要らなかった。

 俺は入れ替えたカップを見て、お春さんが何を確かめていたのかようやく分かる。

 

 高瀬さんは七円を払い、受取の書付をもらった。

 受け取った紙にも、二組で七円とある。同じ品の十二組入りがもう一箱あることも確かめた。買うとしても、客の返事をもらってからだ。取り置きは頼まない。

 書付の七円を指で追い、ようやく息をつけた。

 

 包み終えた品を受け取り、俺は深く頭を下げる。

 最後の「サンキュー」は、今までで一番すんなり口から出た。

 

◇ ◇ ◇

 

「肩が上がってますよ」

 

 道に出たところで言われ、俺はお春さんを見る。

 高瀬さんはもう一軒、近くの取引先へ寄ってから戻るという。俺たちは先に店へ帰り、今日の紙をまとめることになった。

 両腕には二組の器の包みがある。

 言われて力を抜くと、首の後ろが少し痛かった。

 

「ずっと、こうなってました?」

「お話が始まってから、だんだん」

「そんなに分かりましたか?」

「はい、紙を出してからは少し下がりました」

 

 そこまで見られていたのか。

 俺は包みを持ち直し、息を吐く。店に入る前より、外の風がずっと涼しく感じる。

 

「読めたら、もう少し話せるかと思ってたんです。自分でも……」

「違うんですね」

「全然違いました。途中から、何を先に言えばいいか分からなくなって」

「でも、待ってもらえましたね」

「はい、そこは言ってよかったです」

 

 黙って頷いていたら、数も値も曖昧なまま帰ったかもしれない。

 

「お春さんは、ああいう所でも落ち着いてますね。カップのことも、すぐ分かって」

「器を見ている間は、まだいいんです」

「ほかは?」

「一人で品を納めに行くと、お父さんならもっと安くするだろうって言われることがあります」

 

 彼女は笑ったが、口元だけの笑い方だった。

 値段を聞いて持っていったのに、その場で下げろと言われる。断れば気を悪くされそうで、だからといって勝手に引けば父親に説明できない。

 そんなときは、返事をする前に一度、数え終わった品を見直すのだという。

 

「急いで答えると、つい謝ってしまうから。値段は父に確かめてありますと言うんです」

「それでも、言われませんか?」

「言われますよ。ですから、次から父に行ってもらうこともあります」

 

 何でもその場で上手に片付けているわけではないんだ。

 そう思うと、隣を歩く人が少し近くなる。俺よりずっと若いのに、商売では頼ってばかりいた。

 

「俺も次から書いてあることは先に紙にして持っていきます。お客さんの前で考え込むのは減らしたいので」

「そのときは、器の名前を先に聞いてくださいね」

「お願いします。今日は、底のがたつきまで見ていませんでした」

「あれは、使うときに困りますから」

 

 荷車が来て、二人で道の端へ寄る。

 通り過ぎるのを待って歩き出したところで、お春さんが俺の包みを見た。

 

「お国でも、こういう器を使うんですか?」

「ええ、ありますよ。俺の家のは、もっと全然安物でしたけど」

「どの辺りなんですか?」

 

 反射的に、元の町の名前が出そうになる。

 今ここで言っても、同じ景色のある場所にはならない。駅も道も、俺が住んでいた部屋も。

 俺が答えられずにいると、お春さんは少し顔を上げた。

 

「帰りたくなりませんか?」

 

 なる。

 今朝も、歯を磨くものを探しかけた。慣れたつもりになっていても、寝起きの頭はまだ向こうにいる。

 けれど、何に乗れば帰れるのかさえ分からない。

 

「帰りたい場所は、あります」

 

 それだけ答えた。

 お春さんは前を向き、しばらく黙って歩く。

 片方の包みが傾きかけ、俺は腕を少し寄せた。

 

「じゃあ、帰るときは教えてくださいね」

「はい」

「急に来なくなったら、仕事のことも分からなくなりますから」

 

 頷いてから、俺は彼女の横顔を見る。

 何と言えばいいか迷っているうちに、今度はこちらを向かれた。

 

「先に、今日の紙を仕上げないと」

「そうですね、夕方には松葉屋ですし」

 

 歩く速さを少し上げる。

 ずっとここにいます、とは言えなかった。帰れるなら帰りたい。その気持ちは変わっていない。

 それでも今日の俺には、一緒に品物を持って帰る相手がいる。

 店に着くまでは、せめてこの包みをぶつけないように運ぼう。

 

◇ ◇ ◇

 

 自分の筆は、借りていたものより少し細かった。

 墨を含ませすぎて最初の一字が太くなり、俺は紙の端で穂先を整える。

 買った品は二組、支払った代金は七円。同じ品を追加で十二組仕入れるなら四十二円。ただし、その一箱の注文も取り置きもしていない。

 書付と見比べながら清書し、品名と数はお春さんにも見てもらった。

 

 高瀬さんが戻る頃には、墨も乾いていた。

 紙を渡すと、持ち帰った受取の書付と並べて確かめ、帳場から銭を出してくれる。

 十銭銀貨が四枚。

 

「約束の四十銭だよ。ご苦労さん」

「ありがとうございます」

 

 今度は、受け取っていいのかとは聞かなかった。

 詰まったし、お春さんにも助けてもらった。それでも、今日頼まれたことは、この紙にして渡せている。

 俺は四枚を確かめ、包みに入れる。

 六十一銭に四十銭。

 

 一円と、一銭。

 

 頭の中でもう一度足してから、顔が熱くなる。

 筆も紙も買ったのに、それでも一円を越えた。

 何も買えずに歩いていた俺が、今は道具を持ち、銭を残して帰れる。

 

「もう少し、しゃべれるようにはしたいですけど」

「そうだね。けど、今日みたいに書いてもらえば済む用もある」

「はい、今度から最初にそれを言います。手紙を読む仕事と、会ってお話しする仕事は、別に相談させてください」

「分かったよ」

 

 高瀬さんは二組の器へ目を向ける。

 俺もつられて見る。二組で七円。書付の十五銭に今日の四十銭まで払って、いくら残るんだろう。

 

「お客さんには、いくらで売るんですか?」

「一組五円で話してある。二組なら十円。今日の七円との差は三円だから、お前さんへの払いを引いても残るよ。客が買ってくれればね」

「それで、気に入ればもう一箱」

「十二組なら売値は六十円、仕入れが四十二円で差は十八円。運ぶ手間もあるし、割ればその分は減る。それでも、まとまればいい商いになる」

 

 十四組をいきなり揃えたら、仕入れだけで四十九円になる。客の返事を聞く前に、そこまでの金は出さない。まず二組という話の重さが、ようやく分かってきた。

 

「四十銭を惜しんで、違う数を頼んだり、値を聞き違えたりしちゃたまらない。今日はちゃんと紙を残してもらえたし、それでいいんだよ」

 

 俺は紙の切れ端に、客に品と数を確かめる、と書き留める。

 チャッピーが教えてくれた品物探しの話に、今日見た白い器が重なった。

 品物がどこにあり、誰がいくつ欲しがっているのか。両方を聞いて回る仕事なら、俺も少しずつ入っていけるかもしれない。

 

「また仕入れの話があれば、是非聞かせてください。手紙の方も、続けてお願いします」

「それなら、明日の朝にでも来てくれるかい?店を開く客の件で、見てもらいたいものがあるんだ」

「はい、朝の片付けが済んだら伺います」

 

 帰り道は、道具の包みが行きより軽く感じる。

 松葉屋の夕方の支度にも間に合い、その晩の給金を受け取ると、手持ちは一円六銭になった。

 片付けの後、筵の脇で銭を数え直す。硯を置き、乾いた紙を広げようとしたところで、おせいさんが通るので膝の上へ戻した。

 邪魔だと言われたわけじゃない。それでも、店の板の間を俺一人で使えるわけではなかった。

 いつか、自分の部屋で仕事をしたい。

 そのための銭が、少しずつ手元に残り始めている。

 俺はスマホを取り出した。

 

京介 今日の仕事、書いてもらったら何とかなったよ。四十銭をもらって、買い物と今夜の給金まで入れて一円六銭になった。これからもっと稼いで、長屋でも借りたい。紙を広げたままにしておける自分の部屋が欲しいんだ。でも俺、この時代の戸籍がないよね。身元を証明する物もないし。大日本帝国憲法では、こういう人ってどうなるの?

 

ChatGPT 6 Astra(極高)

 

 一円を越えたんだね。自分の部屋と仕事場を持つのは、次に稼ぐ目標になると思う。

 

 ただ、大日本帝国憲法が公布されるのは明治22年、1889年。今いる明治8年には、まだないんだ。住まいや身元については、この時点の布告や地域の取扱いを確かめる必要があるよ。*4

 


 

 まだないのか。

 明治なら、最初からあの憲法があると思っていた。その頃には俺も四十近い。

 

京介 憲法ってそんなに後なんだ。じゃあ、戸籍はもうあるの?俺の名前がどこにもなかったら、国から見れば透明人間みたいなものじゃない?それでも部屋って借りられる?

 

ChatGPT 6 Astra(極高)

 

 戸籍の制度はもうあるよ。明治4年に戸籍法が出て、翌5年に全国的な戸籍が作られている。*5

 

 でも、戸籍に記録がないから、何の決まりにも関係しなくなるわけではない。借りられるかは、家主が身元をどう確かめるか、紹介してくれる人がいるかなども含めて聞く必要がある。本籍を離れて暮らす人を扱う「寄留」という仕組みもあるけれど、元の戸籍を示せない京介がどう手続きするかは、別に確かめないといけないね。*6

 


 

 名前だけなら書ける。二十五歳だとも言える。しかし、それより前の俺を知る人は、この町には一人もいない。

 部屋の空きが見つかれば済む話ではなさそうだ。

 

京介 元の住所を言っても、俺が住んでたことは確かめようがないもんな。徳蔵さんに聞くなら、何から聞けばいい?いきなり保証人になってくださいっていうのも違う気がする。

 

ChatGPT 6 Astra(極高)

 

 まずは「いずれ部屋を借りたいので、家賃と、身元について何が必要か知りたい」と相談してみよう。紹介や保証をお願いするのは、その内容が分かってからでいい。

 

 故郷から身元の書付を取り寄せられない事情も、伝えられる範囲で話そう。徳蔵さんが家主に紹介してくれても、それだけで戸籍の問題まで解決したとは考えず、届出の相談先も確かめていこう。

 


 

 今夜いきなり店を出るわけじゃないのだから、稼ぎながら確かめる時間はある。

 指を止めかけて、もう一つ思いつく。

 

京介 あと、税金は?翻訳で稼いだ分にも所得税ってかかるの?今は手持ちを全部数えて喜んでるけど、後で払う分も残しておかないとまずいよね。

 

ChatGPT 6 Astra(極高)

 

 その心配は、商売を続けるなら確かめておきたいね。所得税の導入は明治20年、1887年なので、今はまだないよ。ただし、それで税金や地域の負担が全部ないという意味にはならない。仕事の種類や場所で取扱いが違うから、京介の翻訳仕事に何がかかるかは、明治8年の横浜の取扱いを確認しよう。*7

 

 今からできるのは、いつ、誰から、何の仕事でいくら受け取り、道具などにいくら使ったかを残すこと。税額の確認にも、仕事でいくら残るかを見るのにも使えるよ。

 


 

 高瀬さんなら、店を続けるのにどんな払いがあるか知っているはずだ。次に手紙の話が済んだら聞いてみよう。

 俺は紙の端に、今日受け取った四十銭と五銭を書き分ける。

 

京介 四十銭の仕事が月に五件あれば二円か。もっと取れたら部屋にも近づくよね。家賃だけ分かれば、月に何件やればいいか出せる?

 

ChatGPT 6 Astra(極高)

 

 家賃に加えて、食事、灯り、寝具などの費用も必要だね。今の三食と寝床は、松葉屋で働く条件に含まれている。外に住んでも仕事を続けるのか、その場合も食事を出してもらえるのかで変わるよ。

 

 必要な額が分かったら、暮らしに使う分と、次の仕事に残す分を合わせて目標にしよう。月五件というのは、これから確かめる仕事の見込み。まず高瀬さんに、どれくらいの頻度で手紙が来るかも聞いてみるといいね。

 


 

 五件。十件。

 紙に書いてみると、欲しい金額から仕事の数を考えられる。飯と寝床の値も聞けば、もっとはっきりするだろう。

 俺はスマホをしまい、帳面を閉じかけていた徳蔵さんに声をかけた。

 

「今、少し聞いてもいいですか?」

「どうした?」

「もっと仕事を取れるようになったら、自分で部屋を借りたいんです。長屋の一部屋でもいいので。そういう所の家賃とか、借りるのに何が要るか、ご存じですか?」

「部屋か。もう出ていくのか?」

「いえ、今すぐじゃないです。ここの仕事も続けたいです。ただ、先にどれくらい要るか知って、銭を貯めたくて」

 

 徳蔵さんは俺の脇へ広げた紙に目をやる。

 

「書き物をする場所も欲しくなったか?」

「はい、あと……俺、訳あって故郷から身元の書付を取り寄せられないんです。そういう人でも借りられるのか、聞きたくて」

「そいつは、どこでもいいとは言えんな。空きがあるかも含めて、知ってる家主に話を聞いてみる。店を出る話は、それからにしてくれ」

「ありがとうございます。飯のことも、また相談させてください」

「ああ、まず明日の仕事を済ませてこい」

 

 俺は頭を下げ、筵の脇へ戻った。

 借りる部屋も家賃も、まだ決まっていない。けれど、金が貯まるまで考えずに待つ必要はなかったのだ。

 洗っておいた筆の穂先を揃え、明日使う紙を数枚選ぶ。英語の三行を書いた紙も、端を伸ばして重ねた。

 次の手紙は、読む前に仕事の中身と値段を聞こう。

 いつか自分の部屋で、この包みを開く。そのためにも、明日また一つ稼いでくる。

 

*1:
同行とその場の書面の読解、質問の補助、日本語での清書を含む一件40銭は、本作の個別契約として設定した額。当時の平均通訳料ではない。京介の現金日給5銭の8日分に当たるが、飯と寝床付きの下働きとは条件が異なる。前話の書簡読解15銭とは別の仕事。第3・6話と同じ米価比較では、40÷7.3×1.5×449.2≒3,692円で、令和2年(2020年)の約3,700円相当。明治8年の東京正米相場1升7.3銭、1升約1.5kg、2020年の東京の米小売価格10kg4,492円を用いた粗い比較で、現代の通訳料への換算ではない。数値の掲載資料:https://coin-walk.site/J077c.htm

*2:
筆1本3銭、硯1面4銭、墨1挺3銭、半紙20枚2銭は、作中の店と品に設定した個別価格。1875年横浜の同品・同品質の実売価格を直接確認した数字ではない。

*3:
仕入値一組3円50銭、売値5円は本作の個別設定で、1875年横浜の実売価格を確認した数字ではない。給与との比較例として、同年10月24日に定められた巡査の月俸は等級により4〜7円、三等巡査は5円。作中の売値5円がその一か月分に当たる。全国の平均月収ではなく、物語の6月より後の同年の規定を用いた比較。アジア歴史資料センター「邏卒巡査と改め等級月俸被定」Ref.C07040037500(https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/C07040037500)、長柄町『続長柄町史』「警察制度のはじまり」(https://adeac.jp/nagara-town/texthtml/d100015/mp200010-100015/ht080100)参照。英国側の参考資料はUK Belleek Collectors Group Newsletter 31/2(2010年7月)の1875年価格表と器種の解説(https://www.belleek.org.uk/belleek/31-2/Newsletter%2031-2%20web.pdf)。英国価格から日本の売価を直接算出したものではない。

*4:
大日本帝国憲法は1889年2月11日公布、1890年11月29日施行。作中の1875年には未成立。国立公文書館「1889年2月11日 大日本帝国憲法発布の日」参照。https://www.archives.go.jp/hub/meiji/meiji02.html

*5:
国立公文書館「戸籍法が制定される」は、1871年の戸籍法制定と翌年の壬申戸籍編製を解説する。https://www.archives.go.jp/ayumi/kobetsu/m04_1871_02.html

*6:
明治4年の戸籍法と同年の寄留関係布告は、日本法令索引〔明治前期編〕「戸籍法ヲ定ム」「寄留旅行ノ者ニ鑑札交付ヲ須ヒス」参照。https://dajokan.ndl.go.jp/simple/detail?current=-1&lawId=00003734 https://dajokan.ndl.go.jp/simple/detail?current=-1&lawId=00003929 後年の寄留法を1875年へ遡らせず、本籍を示せない京介の届出や借家の可否は本話では未確定とする。

*7:
所得税は1887年に導入。国税庁・税務大学校「所得税の導入」参照。https://www.nta.go.jp/about/organization/ntc/sozei/shiryou/library/06.htm 1875年6月の横浜で京介の翻訳業にかかる税目・税額は本話では未確定。同年9月の国税・府県税の区分や、1878年の地方税規則を前倒しして適用しない。これらの経緯は同「営業税の登場」参照。https://www.nta.go.jp/about/organization/ntc/sozei/tokubetsu/h17shiryoukan/02.htm




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