――燃え盛る炎を飛び越えて、ここまでおいでよ――
月に魅了された観客は、それぞれの余韻に浸りながら家路につく。
私は客席から一歩も動くことができないままでいた。
何だ、最後の曲は。
背筋が凍りついたまま動けない。ステージ上にはもはや誰も居ないのに、まだあの瞳に縛りつけられているようだ。
「モーカちゃーん」
隣から伝わる声に気づいた。
「あ」
「大丈夫?名残惜しい?」
既に周囲から人が居なくなっていた。係の人が退場を促している。
ずっと気にしていてくれたのか、本人が余韻に浸っていたのか。とにかく、マキちゃんは私が気づくまでずっと隣に居てくれたらしい。
「あっ」
呪縛が解けた。体は動くようになった。
「そろそろ出よう?怒られちゃう」
「は、はい。すみません……」
申し訳ない。そそくさと出て行きたかったけど、遥か先に構えたステージから見られているような気がして、足取りが重い。
睨み返す勇気もない。多大なるこの敗北感を、私は甘んじて受け入れなければならない。
外に出てスタジアムの階段を下りる。マキちゃんは興奮冷めやらぬ表情でライブを振り返る。
「全部知らない曲だったよね!?ねー!ゆかりんさあ、昔『全曲未発表曲でやらないと、会場に居るみんながフェアな状態にならない』とかわけわかんないこと言ってたんだよー!それ思い出しちゃった!変なとこ平等主義者でさー、それを実際にやっちゃうところがゆかりんだよね~~~~」
肩身が狭い。心細い。
「多分25曲だったよね?全部だよ全部!曲名も知らないから誰もノれないって!ていうか曲の終わりがわかんないから曲数すらちゃんとわかんない!休憩もなかったし!あっはっはっはっはっ」
毎曲会場がどよめいていたのは、そういう理由だったのか。
「なのに醒めてない!お客さん好き勝手コールしてて、めっちゃ楽しそうにしてたもんね!そんなライブある?ゆかりんだけでしょあんなのできるの。これもう1日やるんでしょ?また全部別の曲だったりして~あっはっはっはっはっ」
やばい。マキちゃんのテンションについていけない。楽しそうにしなきゃ……。
「印象に残ってる曲とかある?私はねー『どうして人は誰も~』ってやつ。多分7曲目のバラード。あれはちょっとねー泣いちゃったよ」
「私は、最後の曲ですかね……」
最後の曲以外思い出せない程度に、私の脳裏から離れてくれない。
「最後のやつ~?いつにも増して幻想的だったよね~。"月"があんな風に語りかけてくるとドキッとするよね~」
そう。間違いなく語りかけてきた。
私に。
あれはどう考えても私への挑戦。
このライブを通して私に言いたかったことと、その後逃げ帰る今の私の様子を歌った曲……。
「うわ」
会場を離れたい気持ちがはやってしまったのか、赤信号の横断歩道で一歩踏み出しかけてしまった。慌てて戻る。
「あの雰囲気の曲を最後に持ってくるところがちょっと面白いよね。この夜道にぴったりって感じ。ステージの上にちょうど月が出てたのも良かったよね~。絶対暦計算してたでしょあれ」
「そうですね……」
――何も持たず、誰にもならないで、ここまでおいでよ――
またあの曲が降ってくる。胸を締めつけられる。
"何も持たず"、"誰にもならないで"、"ここまでおいでよ"?
貴方は沢山のものを持っているというのに?
私にないものを振りかざして、切り刻んできているというのに?
勝てるわけがないじゃないか。
マキちゃんを笑顔にできるだけのものを何一つ持たない私が、貴方たちの縁にどうやって勝てというのか。
不可能であることを知っていてあざ笑うかのように、薄ら笑いを浮かべて遠くから私を見下ろす。
私がそこに辿り着けないと知っていて。
「おー、何かゆかりんからメッセージ来たよ。どうだったー?って」
不思議な間が流れる。
……え?どうって、私に聞いてますか?
「えっ、と、胸がいっぱいです……」
「あはははは、じゃあそう返しとこー」
受け取った、貴方のメッセージは。十二分に。それだけ返しておく。それ以上返せない。
マキちゃんの無邪気な顔を見る。やっぱりあの人じゃないと、こんな顔にはならない。
いっそ忘れてしまったら楽なのだろうか。時間に任せて忘れてもらえば良いのだろうか。
お友達というものは、こんなにつらいものなのだろうか。
いや――。
このまま尻尾を巻いて逃げるわけにはいかない。
あの高いステージから挑発されて、おめおめと引き下がってしまいたくない。
私だってマキちゃんのお友達だ。見方を変えれば、貴方に負けないくらいずっと長い間お友達だった。
……そんなわけないか。
しかし今、マキちゃんが私の隣で笑っていることは何にも代えられない。
マキちゃんだって期待してくれているはずなんだ。
貴方が持っていないものが、確かにここにある。
手が触れる。スマホでやり取りしているお友達の注意を引きたくなった。
いつか辿り着いてみせる。同じ舞台で勝負してみせる。
薄い雲が月を覆っていた。