夏休み。高校3年生のわたしに夏休みはない。
今のところは大学に進学する予定だ。今日も受験勉強に多くの時間を費やしている。
スマホにメッセージが届く。父からだ。店に来ない?だって。
貴方の娘は勉強中――、いや、このメッセージを見た時点で勉強中とは言えない。そしてこの昼下がり、わたしの集中力が切れていることもバレバレなのだ。
「気分転換にお呼ばれするかー」
歩いて店に向かう。外の日差しが強い。公園で遊ぶような子どもも居ない。
店は夏休みだからといって繁盛するわけではない。ただの喫茶店なので、メインターゲットは学生ではないのだ。
今日は平日だし、呼ばれる理由はなさそうなんだけど。
裏で準備をしてホールに入る。店内を見渡すとお客さんは1人。父と顔を合わせる。父は何やら得意げな顔をしている。
なるほど。あの常連ちゃんだ。以前わたしのライブ動画を店内で鳴らしてからも、度々お越しくださっている。
よほどこの店を気に入っていただいたのだろうか、ありがたい話だ。
ちらっと横から顔を覗いてみる。メモ帳を開きペンを握り、真っ直ぐ前を見ながらめちゃくちゃ怪訝な顔をしている。頭の中で世の摂理でも説いているのだろうか。
「こんにちはー」
「あっ、こんにちは!」
声を掛けてみたら笑ってくれた。可愛らしい女の子である。同世代か年下か、しかしうちの高校生ではない気がする。何処に住んでいるのだろう。
他にお客さんも居ないし、父が呼んだわけだし、ちょっと座ってみるか。
「こっち座っても良いですかー?」
「へっ?あ、はい」
おっと、距離感は測っていけ。相手は多分シャイな人だ。いや、もはや手遅れか?
「ちょっとだけお話ししませんか?お時間ありますか?」
「あっ、大丈夫ですよ。はい」
「いつもお越しくださってありがとうございますー」
「いえいえ、えっと、いつも楽しませていただいております……」
「どちらからお越しくださってるんですか?」
「あーえっと、近所に住んでまして」
近所で見たことあったっけ?狭い街ということもあり、大体近所の人の顔は知っているつもりだ。
「そうなんですか。もしかして最近こちらに来られました?」
「あっ、そうですね。少し前にここに引っ越してきまして」
「そうだったんですねー。私も近所に住んでるんですよ」
「そうなんですね」
ははーん、なるほど。……しかしまともに喋ると随分と声が良いな。独特な波長を持っている。
「実は私も、生まれはこの街でして」
「ええっ!?」
ん!?地元がこの街!?
「十数年振りに戻ってきたんです」
「凄いですねー!そんなこともあるんですね。ご家族のお仕事の都合とかですか?」
「そうですね。イギリスから戻ってきまして」
「イギリス!そういうことですかー。じゃあ、帰る時はまたこの街!って感じだったんですかねー」
「そうだと思います」
帰国子女ってやつ?日本語ペラペラだけど。もしかして年上なのかな?
「小さい頃にここに住んでらっしゃったってことですよね。じゃあこの辺りの景色って見覚えあったりするんです?」
「そうですね……。正直あんまり覚えてないんですけど」
そういうのってどれくらい覚えてるものなんだろう。小さい頃のこの辺の風景ってどんなのだったっけ。
「でも、そこの公園で遊んでた記憶はあります」
――――!!!!
物思いに耽りかけたわたしは、一気に現実に引き戻された。そこの公園!?
となると本当に近所の人だし、……えっ!?
「確か友達と遊んでて……。どんな子だったかは覚えてないんですけど……」
友、達……!!??
視界が切り替わる。そこの公園で遊んでいた頃のわたしだ。幼かったわたし。懐かしい記憶。
そこに居たのは、手を繋いで遊んでいたのは、そうだ。え、信じられない。
でもそうだ。この声、この顔。あの笑顔。思い出した。
貴方はまさか、昔わたしと一緒に遊んでた、あの友達……!?
「実は、引っ越す前にその子に挨拶できなかったのが心残りなんですよね。引っ越すっていうこともよくわかってなかったんで……」
そうだ。そうだ。あの子だ。急に会えなくなって寂しかったあの子。
毎日のように遊んでたのに、風のように消え去ってしまったあの子。
駄々をこねて母と夜までずっと公園で待ってたあの子だ。
手を繋いでぐるぐる回って、抱き合って、笑い合って、歌い合ったあの子が今、目の前に帰ってきてくれた……?
公園で一人歌っていたあの子を、初めて見かけた時に受けた衝撃。
突然来なくなって、毎日のようにブランコに座ってぐずるわたしを、突き放すわけでもなく、ずっと傍に居てくれた母との思い出。
忘れかけていたあの頃の記憶の全てが、溢れ出すように蘇る。
「できることなら、またこの街で逢って昔のことを謝りたいんですよね」
あの日の友達が言葉を繋ぐ。謝る。謝りたい?
それ、わたしだよ。覚えてるかな?謝る必要なんてないよ。
そう言ってしまおうかと思った。
……良いのか?それは伝えて良いことなのか?
相手はわたしのことを覚えていない。まだ思い出せてもいないわけで、わたしですらまともに覚えていなかったようなことだ。
あの日の出来事をその程度に、朧げに覚えている状態。
それは罪悪感によるものか?いや、どちらかと言うと、
ここでわたしが伝えたとしよう。彼女の性格と状況を合わせて鑑みるに、その言葉通り、彼女は間違いなくわたしに謝る。
そして言葉以上に、相当な罪悪感が襲いかかり、謝り倒すだろう。
本当にあの日の友達が存在していたことを喜ぶよりも、怖くなるからだ。自分よりも強く会いたがっていた人が居たという事実が。
自分よりも長い間待っている人が本当に居たということを、知ってしまう。
自分が思っている以上に、無言の別れが相手の人生に影響を与えてしまっていた可能性を排除できなくなるのだ。
つまり、あの良き日の淡い思い出を、
するとどうなる?
恐らく、罪悪感に苛まれた彼女は、ひたすらわたしに気を遣い、そのうちわたしを避けるようになるだろう。
関係が繋がったとしても、それは決してフラットなものにはならない。
また会えなくなるかもしれない――――。
嫌だ。そんなのは嫌だ。
もう少し貴方のことが知りたい。今以上の関係で居たい。せめてあの日の関係に戻りたい。
わたしは謝って欲しいわけじゃない。過去を取り戻したいわけじゃない。
それよりも、今ここでまた逢えたことの方が大切だから。
貴方もそうであって欲しい。
「まあ顔もわからないので無理なんですけど……」
彼女は気まずそうに笑う。これ以上彼女の顔を濁らせたくない。
『……逢えるよ』
「えっ?」
わたしは咄嗟に、あの日の母の言葉を口走った。また逢えるよ、と何度もなだめてくれたものだ。
言葉を続ける。
「無理に探さなくても、"この街に帰ってきてくれた"っていうことだけで――」
泣いていたあの頃のわたしと決別する。
「とっても喜んでると思います。そのお友達」
彼女は驚いたような表情を見せた。何処まで伝わってくれただろうか。
ちゃんと逢えたよ。だからもう探さなくて良いんだよ。
伝わってくれなくても良い。
……自分勝手な選択かもしれない。彼女は今のわたしと友達になりたいわけではないかもしれない。
でもこれが、今のわたしが伝えられる精一杯の言葉だ。
「あ、ありがとうございます……」
彼女は何とも言えない顔をしている。
「わたし、弦巻マキって言います。この店の名前と同じなんです」
「弦巻さん。私は宮舞モカと言います」
「宮舞さん。素敵なお名前ですね。今後ともよろしくお願いします」
「はい。よろしくお願いします」
席を立つ。父は微笑んでいる。
……知ってて呼んだな?お父さん。
確かに父と一緒に公園に行った日もあった。覚えててくれたんだ。大人の記憶力を侮っていた。
宮舞さんは空を見ている。少し気まずい。嫌われていないことを願いたい。
記憶を反芻する。宮舞さんは歌が上手だった。いつも飛びきりの笑顔で歌っていた。何を歌っていたのかはわからない。
謎の虫眼鏡を振り回しながら、恐らく頭に浮かんだ言葉をそのまま歌に乗せていた。
公園中に響き渡っていたその微笑ましい声に、わたしは惚れてしまった。憧れだった。一緒に歌ってみたかった。
それから自然と一緒に遊ぶようになっていた。短い期間だったが、本当に楽しい日々だったことを思い出す。
そういえば、ギターリフを褒めてくれたな。音楽やってたりするのかな。
宮舞さんが立ち上がる。帰るようだ。
父に目をやる。父は頷く。
「宮舞さん、途中まで一緒に帰りませんか?」
「あ、はい。良いですよ」
「方向どっちですか?」
「こっちですね」
夕焼けが小さな街を染める。
「宮舞さんって高校生ですか?」
「今高2です。弦巻さんは?」
「高3なんですー。ずっと受験勉強ですねー」
「ああ……大変ですね」
年下だった。確かにあの日の友達は小さかった。お互い大きくなった。
公園が見えてくる。寂れた公園が、今は不思議と輝いて見えるようだ。
ちょっと話を振ってみよう。公園を指差してみる。
「さっき言ってた公園って、この公園ですよね?」
「はい、そうですね」
「あの、覚えてる位置に立ってみてもらえませんか?」
「え?はい」
急な提案に困惑しつつも、宮舞さんは従ってくれた。
公園内へ駆け入る姿を目で追う。暑いのに身震いしてしまうような感覚に陥る。
宮舞さんはジャングルジムの前で立ち止まり、こちらに振り返った。
そしてピースサインを向け、照れ笑いしている。
「あはははは……」
そうだ。あのジャングルジムの前で、貴方は毎日歌っていた。その場所はさながら、貴方だけのライブステージだった。
あの日の姿と重なる。わたしの目には涙が溢れた。
「――――おかえり」
紫色の空は、優しくわたしたちを包んでいた。