怪異は殴れる。
少なくとも、殴れる怪異は存在する。
もちろん、すべての怪異が殴れるわけではないし、殴ったところでどうにもならない怪異もいる。
というか、そちらの方が多いらしい。
殴れることと、殴って解決することは別問題なのだ。
それくらいは俺にも分かる。
俺は別に、学習能力がないわけではない。
ただ、拳が先に出るだけだ。
我ながら弁護になっていない。
さて。
そんな俺、阿良々木水月が怪異に関わるようになった経緯については、いずれ話す機会もあるだろう。
今のところ、知っておいてもらいたいことは一つだけだ。
俺は怪異退治を生業にしているわけではない。
あくまでアルバイトである。
危険手当がつくこともある、少々変わった仕事だ。
ただし、危険手当がつくかどうかは、だいたい危険な目に遭った後で決まる。
労働環境としては、あまりよろしくない。
そんな仕事の依頼が来たのは、放課後のことだった。
スマートフォンが震えた。
画面に表示された名前を見て、俺は少しだけ身構える。
臥煙伊豆湖。
怪異に関わる人間なら、知らない方が幸せかもしれない名前である。
少なくとも、俺はこの人から電話がかかってきて、ろくでもない話以外を聞いた記憶がない。
「もしもし」
『やあ、水月くん。元気にしてる?』
「今のところは」
『いい返事だね』
「この電話が終わった後も元気でいられる保証はありませんけど」
『あはは。相変わらずだ』
電話の向こうで、臥煙さんが楽しそうに笑った。
『早速だけど、アルバイトをお願いしたいんだ』
「仕事内容によります」
『おや、報酬じゃなくて?』
「仕事内容を聞かずに報酬の話をするほど、俺も命知らずじゃありません」
『成長したねえ』
「過去の俺を何だと思ってるんですか」
『拳で物事を解決しようとする元気な少年』
「現在進行形で否定しづらいですね」
実際、否定できない。
だから困る。
『今回は、少し力仕事が必要になるかもしれなくてね』
「力仕事ですか」
『うん。水月くんの判断力より、腕っぷしを頼りにしている』
「もう少し言い方がありません?」
『腕っぷしを大いに頼りにしている』
「程度の問題じゃないんですよ」
とはいえ、俺が呼ばれる理由としては分かりやすい。
怪異についての知識なら、俺より詳しい人間はいくらでもいる。
だが、そういう人たちが必ずしも怪異を殴れるとは限らない。
俺の場合は、その逆だ。
殴れる。
知っているかどうかは別として。
「それで、具体的には何をするんです?」
『怪異に追いかけられているという相談があってね。撫子ちゃんが調べているんだけど、護衛が必要になりそうなんだ』
「護衛ですか」
『うん。万が一のとき、依頼人を守ってほしい』
「……相手の正体は?」
『まだ分からない。だからこそ、水月くんにお願いしたいんだよ』
「なるほど。危険度は未知数、と」
『そういうこと』
「ちなみに、依頼人は?」
『三崎透さん。詳しい事情は本人から聞いてほしいな』
「俺が話を聞くだけで済む仕事なら、千石さん一人で十分でしょうに」
『だから、済まないかもしれないって話さ』
「嫌な言い方ですね」
『私は何でも知っている』
「だったら相手の正体も教えてくださいよ」
『知っていることと、教えることは別問題だからね』
「便利な言葉だなあ」
実に便利だ。
便利すぎて、できれば俺も使ってみたい。
もっとも、俺が同じことを言ったところで、ただの知ったかぶりになるだけだろう。
「それで、報酬は?」
『一件ごとの支払い。いつも通りだよ。危険の程度によっては上乗せも考える』
「分かりました。引き受けます」
『即決だね』
「姉ちゃんにドーナツをねだられてまして」
『ああ、忍ちゃんか』
「一度買って帰ったら、次から当然のように要求されるようになりました」
『懐かれてるねえ』
「財布に懐かれてる気がするんですけど」
我が家には姉がいる。
忍野忍。
血のつながらない義理の姉であり、見た目は小さな女の子であり、実際には俺よりはるかに長く生きている吸血鬼である。
そして、ドーナツを食べる。
ものすごく食べる。
あの人の胃袋に底があるのかどうか、俺はいまだに知らない。
少なくとも、財布の方には底がある。
『忍ちゃんにもよろしくね』
「よろしく伝えるついでに、ドーナツの購入費用を請求してもいいですか?」
『それは水月くんの家庭内の問題だからねえ』
「怪異より手強い問題なんですけど」
『頑張って』
他人事である。
実際、他人事なのだが。
『それじゃ、八九寺ちゃんの神社に向かってくれるかな。撫子ちゃんが待ってるよ』
「了解です」
『あ、それと』
「まだ何か?」
『今回は、できれば殴る前に考えてね』
「努力します」
『その返事が一番不安なんだよねえ』
電話が切れた。
失礼な話である。
俺だって、考えてから殴ることくらいはできる。
考えている間に相手が襲ってこなければ、の話だが。
スマートフォンを鞄にしまい、帰宅する生徒たちの流れに混ざる。
校門を出るころには、頭の中で今日の予定を組み直していた。
帰りに買い物を頼まれていたような気もするが、たぶん気のせいだろう。
いや、気のせいであってほしい。
母さんからの買い物を忘れた場合、怪異より恐ろしいものが待っている可能性がある。
念のため、スマートフォンを確認する。
メッセージは来ていなかった。
よし。
少なくとも、現時点では無罪である。
もっとも、我が家の裁判制度に推定無罪という概念が採用されているかどうかは怪しい。
父さんに聞いてみたいところだ。
警察官としてではなく、家庭内での被告人経験者として。
*
八九寺さんの神社に着くと、千石さんはすでに待っていた。
「水月くん。お疲れさま」
「お疲れさまです、千石さん」
千石撫子。
千石さんは漫画家だ。
それも、きちんと作品を発表している、職業としての漫画家である。
ついでに言えば、怪異にも詳しい。
漫画家と怪異。
普通なら接点のなさそうな組み合わせだが、千石さんにとっては、どちらも日常の一部らしい。
俺としては、漫画の締め切りと怪異退治のどちらが大変なのか、一度聞いてみたいところだ。
ただ、締め切り前の千石さんを見る限り、答えは聞かない方がいい気もする。
俺と千石さんは、怪異絡みのアルバイトで何度も組んでいる。
調べるのは千石さん、身体を張るのは俺、という役割分担が定着している。
たまに漫画の仕事を手伝うこともある。
意外に思われるかもしれないが、俺はこう見えて絵が得意だ。
こう見えて、と言っても、今の俺がどう見えているかは知らない。
少なくとも、怪異を殴ることが特技だと知られた後では、絵を描くのが趣味だと言っても、あまり信じてもらえない。
失礼な話である。
拳を握るのが得意だからといって、ペンを握るのが苦手とは限らない。
千石さんの絵柄に合わせて描くのも、慣れればそれほど難しくはなかった。
むしろ難しいのは、漫画家本人のこだわりを理解することだ。
背景の窓枠が一ミリずれているとか、登場人物の視線がほんの少し違うとか。
俺には同じに見える線でも、千石さんには違って見えるらしい。
まあ、怪異に詳しい人間が、怪異以外のものを見る目まで鋭いのは、別に不思議なことではない。
もっとも、締め切りが近づくにつれて、その目が鋭いどころではなくなっていくのは、少々恐ろしいが。
「臥煙さんから話は聞いた?」
「怪異に追いかけられている人の護衛だと聞いてます」
「うん。大体合ってるよ」
「あと、殴る前に考えろと」
「それは大事だね」
「千石さんまで」
「だって、水月くん、考える前に動いちゃうことがあるでしょう?」
「動いた後にはちゃんと考えてますよ」
「順番が逆なんだよ」
正論である。
正論はときどき暴力より痛い。
「でも、今日は本当に気をつけてね」
千石さんの声が少し真面目になった。
「まだ、相手が何なのか分かっていないから」
「怪異なのは確かなんですか?」
「可能性は高いと思う。でも、実際に見てみないと」
「なるほど」
千石さんは、分からないことを分からないと言う。
当たり前のことのようだが、怪異に関わる人間の中では意外と珍しい。
『私は何でも知っている』と言い切る人が身近にいるせいかもしれない。
もっとも、あの人の場合、本当に何でも知っていそうなのが困りものだ。
「それで、今回の依頼人は?」
「こちらの方だよ」
千石さんが隣を示した。
そこには、一人の男性が座っていた。
三十代くらいだろうか。
痩せた顔に、深い隈。
服装はきちんとしているのに、ひどく疲れて見える。
眠れていない人間の顔だった。
「三崎透さん。今回の相談者だよ」
「阿良々木水月です。よろしくお願いします」
「……三崎です。よろしくお願いします」
三崎さんは小さく頭を下げた。
声にも力がない。
こちらを見る目は、俺と千石さんの間を何度か行き来した。
まあ、無理もない。
怪異の相談に来て、対応するのが漫画家と高校生なのだ。
俺が逆の立場でも、少しは不安になると思う。
「その……阿良々木さんは」
「水月でいいですよ」
「ええと、水月さんは、こういうことに詳しいんですか?」
「詳しいのは千石さんです。俺は手伝いで」
「そう、ですか」
あまり安心した様子ではなかった。
仕方がない。
ここで「怪異なら殴れます」と自己紹介したところで、安心してもらえる気はしない。
むしろ、相談先を間違えたと思われる可能性が高い。
「大丈夫ですよ、三崎さん」
千石さんが穏やかに言った。
「水月くんは、いざというとき頼りになりますから」
「……はい」
「ただし、ちょっと手が早いけど」
「余計な一言を付け足さないでください」
俺の信用が、紹介されるたびに減っていく。
できれば初期値くらいは残してほしい。
「それで、何があったんです?」
俺が尋ねると、三崎さんは少し迷ってから口を開いた。
「……追いかけられるんです」
「誰に?」
「分からないんです」
「分からない?」
「顔が、見えなくて」
三崎さんは膝の上で手を握りしめた。
「黒い、人の形をしたものなんです。でも、顔がなくて……。振り返ると、後ろにいるんです」
「人間ではないんですね?」
「……分かりません。でも、普通の人間じゃないと思います」
「どうしてです?」
「気づくと、いるんです。足音もなくて。さっきまで誰もいなかった場所に」
声がかすかに震えていた。
「最初は、疲れているだけだと思いました。見間違いか、何かだと」
「でも、違った」
「……はい。何度も見るようになって、それで……」
三崎さんは言葉を切った。
俺は急かさず、続きを待つ。
怪異に関する相談では、本人の話を聞くことが大切だと千石さんに教わった。
もっとも、話を聞くのが得意かどうかは別問題である。
聞いているつもりでも、肝心なところを聞き逃すことがある。
そういうときは、だいたい千石さんに指摘される。
「いつも現れるわけじゃないんですよね?」
千石さんが確認した。
「……はい」
「水月くん。そこが今回の大事なところなの」
「出現する条件があるんですね」
「うん。三崎さんが、誰かの後ろを歩いているときだけ現れるの」
「誰かの後ろ?」
「一人で歩いているときは出ない。誰かと一緒でも、三崎さんが前を歩いていれば出ないんだって」
なるほど。
妙に細かい条件である。
「それは、どうやって分かったんです?」
「最初は偶然でした。誰かの後ろを歩いているときだけ、あれが現れることに気づいて……」
「それで?」
「試しに前を歩いてみたんです。そうしたら、見えなくなって」
「なるほど。自分で確かめたわけですね」
「……はい。何度か試しました。でも、毎回同じでした」
「じゃあ、ずっと先頭を歩いていればいいんじゃないですか?」
言ってから、三崎さんの顔を見た。
あまりいい質問ではなかったらしい。
「……そうしていたんです。最初は」
三崎さんが答える。
「でも、いつもそうできるわけじゃありません。仕事でも、街でも……誰かの後ろを歩くことはありますから」
そりゃそうだ。
人間、常に先頭を歩けるわけではない。
人生の話ならともかく、歩道の話である。
「それに……」
三崎さんの声が震えた。
「あれは、追いかけてくるんです」
「追いかけてくる?」
「はい。最初はずっと後ろにいるんです。でも、歩いていると、少しずつ距離を詰めてきて……」
三崎さんは膝の上で両手を握りしめた。
「振り返ると、さっきより近くにいるんです。何度もそういうことがあって……」
「追いつかれたことは?」
「……ありません。でも、いつか追いつかれるんじゃないかって」
三崎さんは、それ以上言葉を続けられなかった。
俺は千石さんを見た。
千石さんも、こちらを見ていた。
「……それは、あまりよくないですね」
俺が言うと、千石さんは小さく頷いた。
「うん。放っておくのは危ないと思う」
三崎さんの顔色が、さらに悪くなる。
しまった。
本人の前で言うことではなかったかもしれない。
「でも、だからこそ調べるんですよ」
慌てて付け加える。
「何が起きているか分かれば、対処の仕方も考えられますから」
「……はい」
今度は、ほんの少しだけ表情が和らいだ。
千石さんがこちらを見ている。
何だろう。
珍しく褒められる流れだろうか。
「水月くん」
「はい」
「今みたいに、最初からそう言ってあげてね」
「すみません」
やはり褒められなかった。
「それじゃ、実際に確認してみようと思うの」
千石さんが言った。
「出現条件の確認ですか?」
「ううん。条件はもう分かってる。知りたいのは、出てくるものの正体」
「なるほど」
「ただし、無理はしないよ。まずは私が前を歩いて、三崎さんに後ろを歩いてもらう。水月くんは少し離れて、二人の様子を見ていて」
「俺が後ろからついていくわけですね」
「うん。何かあったら、すぐ動ける距離でお願い」
「了解です」
「それから、あの黒いものが三崎さんに触れそうになったら、その時点で止めてほしいの」
「殴ってもいいですか?」
「できれば、まず引き離してほしいかな」
「努力します」
「……そこは約束してほしいんだけど」
「分かりました。まずは引き離します」
千石さんは小さく頷いた。
「三崎さんも、無理はしなくていいですからね」
千石さんが声をかける。
「危険だと判断したら、すぐに中止します。何かおかしいと思ったら、すぐに教えてください」
「……分かりました」
三崎さんは緊張した面持ちで頷いた。
俺たちは立ち上がり、神社の外へ向かう。
日が傾き始めていた。
境内から続く道には、長い影が落ちている。
俺の影。
千石さんの影。
三崎さんの影。
当然ながら、どれも自分の足元から伸びている。
当たり前のことだ。
当たり前のことなのに。
俺は、三崎さんの後ろを何度も振り返ってしまった。
まだ、何もいない。
少なくとも、今は。
誰かの後ろを歩くと現れる、顔のない黒い影。
そいつが何者なのか、これから確かめることになる。
ただ、一つ気になることがあった。
もし、あの影が本当に三崎さんを追いかけているのだとしたら。
どうして、三崎さんが誰かの後ろを歩いているときだけなのだろう。
追いかけるなら、一人のときでも構わないはずだ。
むしろ、その方が都合がいいだろう。
なのに、そうしない。
まるで。
三崎さんが誰かの後ろにいること自体に、意味があるかのようだった。