水物語   作:壊れかけのスコップ

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第一章 とおるミラー① 後編

 怪異には、名前がある。

 もっとも、名前が分かったところで、どうにかなるとは限らない。

 犬だと分かったからといって、噛まれなくなるわけではないし、熊だと分かったからといって、遭遇したときの危険が減るわけでもない。

 むしろ、正体を知ったせいで余計に怖くなることもある。

 怪異の場合は、なおさらだ。

 

 ただし、俺には一つだけ利点がある。

 正体が分からなくても、殴ること自体はできるということだ。

 それで解決するかどうかは、また別の話である。

 利点なのかどうかは、千石さんに聞かないでおこう。

 

     *

 

「それじゃあ、三崎さん。私の後ろを歩いてもらえますか?」

 

「……はい」

 

 神社の境内から少し離れた、人通りのない道。

 千石さんが先頭に立ち、その後ろを三崎さんが歩く。

 俺は少し距離を取って、二人の様子を見ていた。

 

 もちろん、散歩をしているわけではない。

 怪異の観察である。

 

 出現条件はすでに分かっている。

 三崎さんが誰かの後ろを歩くと、あの黒い影が現れる。

 今回確かめたいのは、そいつが何者なのかということだった。

 

「水月くん。何か見える?」

 

「今のところは何も」

 

「そう。じゃあ、もう少し歩いてみようか」

 

 千石さんが歩き始める。

 三崎さんも続いた。

 

 数歩。

 十歩。

 そして。

 

「……あ」

 

 三崎さんが声を漏らした。

 俺にも見えた。

 

 黒い影だった。

 人間の形をしている。

 頭があり、胴体があり、手足がある。

 

 ただし、顔がない。

 正確には、顔があるべき場所に何もない。

 目も、鼻も、口もない。

 真っ黒な人型が、三崎さんの背後に立っていた。

 

「……なるほど」

 

 思わず呟く。

 話に聞いていた通りの姿だ。

 もっとも、事前に説明を受けていたからといって、気味が悪くなくなるわけではない。

 あれは、見慣れたくない類いのものだった。

 

「千石さん、見えますか?」

 

「うん。見えてるよ」

 

「どうします?」

 

「もう少し様子を見たいかな」

 

「了解です」

 

 俺は二人との距離を少し詰めた。

 いざというとき、すぐに割って入れる位置だ。

 

 黒い影は、ゆっくりと歩いていた。

 三崎さんが一歩進む。

 影も一歩進む。

 ただし、その歩幅は同じではなかった。

 三崎さんが進むたびに、影はほんの少しずつ距離を詰めてくる。

 急いでいるようには見えない。

 それなのに、確実に近づいていた。

 

 足音はない。

 息遣いもない。

 ただ、黒い人型だけが、少しずつ距離を縮めてくる。

 

「……気持ち悪いですね」

 

「うん。でも、まだ襲ってくる様子は――」

 

 千石さんが言い終える前に。

 

 影が動いた。

 それまでの緩慢な動きが嘘のように、三崎さんとの距離を一気に詰めた。

 

「ひっ……!」

 

 三崎さんが悲鳴を上げる。

 影が三崎さんの背後に迫った。

 

 あと一歩。

 黒い手が、三崎さんの肩に伸びる。

 そして、その手が触れる寸前。

 影は速度を落とすことなく、三崎さんの横へ回り込もうとした。

 

 追いつくだけではない。

 追い越そうとしている。

 そのときの俺には、二つの違いなど分からなかった。

 ただ、あれを先に行かせてはいけない気がした。

 

 俺は地面を蹴った。

 考えるより先に、身体が動いた。

 

 まずは引き離す。

 そう約束したことは、覚えている。

 だが、影の腕が三崎さんの肩に届きそうになった瞬間、俺の拳はすでに動いていた。

 

 影の横合いに飛び込み、その胴体に拳を叩き込む。

 

 手応えはあった。

 肉でも骨でもない。

 分厚い布を殴ったような、妙に鈍い感触。

 

 次の瞬間、影の身体が崩れた。

 黒い煙のように散り、空気に溶けていく。

 

「……ふう」

 

 着地して、息を吐く。

 

「三崎さん、大丈夫ですか?」

 

「……は、はい」

 

 三崎さんは青ざめた顔で頷いた。

 少なくとも、怪我はしていないようだった。

 

「千石さん、そちらは?」

 

「うん。大丈夫。ありがとう、水月くん」

 

「どういたしまして」

 

「でも、水月くん」

 

「はい」

 

「まずは引き離すって約束したよね?」

 

「……しましたね」

 

「どうして殴ったの?」

 

「間に合わないと思ったんです」

 

「……そっか」

 

「三崎さんを追い越そうとしてましたし。あれ以上近づけるのは危ないと判断しました」

 

「うん。その判断は間違ってなかったと思う」

 

「じゃあ、殴ったのも正解ですか?」

 

「そこは、まだ分からないかな」

 

 なるほど。

 どうやら、答案の採点は保留らしい。

 怪異を殴った結果については、もう少し様子を見る必要があるということだろう。

 

「でも、次はできれば声をかけてほしいな」

 

「次がある前提なんですね」

 

「たぶん、あると思うよ」

 

 嫌な予言である。

 そして、残念ながら当たった。

 

 黒い煙が、再び集まり始めたのだ。

 散ったはずの影が、元の人型を取り戻していく。

 

「……復活するんですか」

 

「みたいだね」

 

「せっかく殴ったのに」

 

「殴ったからって、消えるとは限らないよ」

 

「世知辛いですね」

 

 せっかく殴ったのだから、少しくらい成果として認めてほしい。

 

 いや、そもそも成果とは何だ。

 怪異を一度散らしたことか。

 それとも、三崎さんを守ったことか。

 後者なら、まだ胸を張れる。

 前者については、どうやら再提出が必要らしい。

 

「三崎さん。今度は私より前を歩いてください」

 

 千石さんが声をかけた。

 三崎さんは慌てて俺たちの前へ出る。

 

 すると。

 黒い影が止まった。

 こちらを追ってくることもなく、ただその場に立ち尽くしている。

 

 やがて輪郭が薄れ、今度は静かに消えていった。

 

「……消えましたね」

 

「うん。聞いていた通りだね」

 

 千石さんが頷く。

 

 つまり、出現条件は間違っていない。

 誰かの後ろを歩けば現れる。

 前を歩けば消える。

 ただし、殴ってもまた現れる。

 ずいぶん面倒な相手だ。

 

「それで、何か分かりました?」

 

「うん。たぶん、正体は分かったと思う」

 

「本当ですか?」

 

「あの影、三崎さんを追いかけるだけじゃなくて、追い越そうとしたでしょう?」

 

「ええ」

 

「それに、誰かの後ろを歩いているときだけ現れる。そこまで条件が揃うなら、心当たりがあるの」

 

「何です?」

 

「後追い鬼、かな」

 

「後追い鬼?」

 

 初めて聞く名前だった。

 いや、俺が知らない怪異の名前など、いくらでもあるのだが。

 

「後追い鬼って、結局どういう怪異なんです?」

 

「罪悪感から逃れようとする人間の前に現れる、とされている怪異だよ」

 

「とされている?」

 

「うん。怪異について伝わっている話が、すべて正しいとは限らないから」

 

「なるほど」

 

「だから、今回のものが本当に後追い鬼なのかも、まだ確かめる必要はあるけどね」

 

「罪悪感がある人じゃなくて、逃れようとしている人なんですか?」

 

「うん。罪悪感を抱えているだけなら、まだ大丈夫。問題は、それを置き去りにしようとしたとき」

 

「置き去りに?」

 

「罪悪感って、置いていこうとしても、なかなか置いていけないものでしょう?」

 

「まあ、そうですね」

 

「だから、追いかけてくるの。逃げる人の、後ろから」

 

「……なるほど」

 

 後ろめたいから、後ろから来る。

 背を向けたから、背後に現れる。

 逃げたつもりが、追われる羽目になる。

 なるほど、後追い鬼。

 名前だけなら、ずいぶん筋の通った怪異である。

 

 もっとも、筋が通っているからといって、話が通じるとは限らない。

 少なくとも、拳は通じても、解決には至らなかった。

 

「それで、後追い鬼に追いつかれたらどうなるんです?」

 

「逃げていたものに、追いつかれるんだよ」

 

「いや、それはそうでしょうけど」

 

「罪悪感を突きつけられるの。忘れていても、見ないふりをしていても、逃げていたことだけは思い知らされる」

 

「……それだけですか?」

 

「それだけ、って?」

 

「いや、てっきり食われるとか、呪い殺されるとか、そういう話かと」

 

「水月くん、怪異に何を期待してるの?」

 

「期待というか、危険度の確認ですよ。思い知らされるだけなら、わざわざ殴る必要もないでしょう?」

 

「そうだね。追いつかれるだけなら」

 

「……だけなら?」

 

「後追い鬼はね、追いついた後に、追い越そうとするの」

 

「追い越す?」

 

「うん。追い越されたら、今度は自分が後を追うことになる」

 

「何の後を?」

 

「自分が逃げていた罪悪感の後を」

 

「……それ、どうなるんです?」

 

「償わなきゃいけないって気持ちに囚われるの。何を償えばいいのか分からなくても、何かを償おうとして、追い続ける」

 

「……なるほど。思っていたより、ずっと厄介な怪異ですね」

 

「最初から厄介だって言ってるんだけど」

 

「殴っても戻ってくる時点で、十分厄介でしたね」

 

 逃げていたものに追いつかれ。

 追いつかれたものに追い越され。

 今度は自分が、それを追いかける。

 

 追う側と追われる側が入れ替わる。

 なるほど、後追い鬼。

 ただ追いかけてくるだけの鬼ではないらしい。

 

「……ということは、さっき俺が殴らなかったら」

 

「三崎さんが追い越されていたかもしれないね」

 

「危なかったじゃないですか」

 

「うん。だから、助かったよ」

 

「じゃあ、殴ったのは正解だったんですね」

 

「結果的にはね」

 

「結果的には」

 

「でも、次からはできれば、もう少し慎重にね」

 

 褒められているのか、叱られているのか。

 おそらく両方だろう。

 

「それで、どうすれば祓えるんです?」

 

「そこが問題なんだよね」

 

「問題?」

 

「後追い鬼は、逃げようとしている罪悪感に結びついているとされているの。だから、どうして現れたのかを調べないと、根本的な対処は難しいと思う」

 

「つまり、三崎さんが何から逃げているのか、ということですか」

 

「そういうこと。もし本当に後追い鬼なら、だけど」

 

 千石さんは三崎さんに向き直った。

 

「三崎さん。何か心当たりはありませんか?」

 

「……心当たり?」

 

「誰かに申し訳ないと思っていることや、考えないようにしていることはありませんか?」

 

 三崎さんは黙り込んだ。

 しばらく考えてから、ゆっくりと首を横に振る。

 

「……分からないんです」

 

「分からない?」

 

「はい。誰かにひどいことをした覚えも、何かから逃げているつもりもありません」

 

 その声には、困惑が滲んでいた。

 俺には、三崎さんが嘘をついているようには見えなかった。

 

 もちろん、俺の人を見る目がどれほど信用できるかは別問題だ。

 千石さんも、すぐには何も言わなかった。

 

「……そうですか」

 

 やがて、静かに頷いた。

 

「分かりました。今日はここまでにしましょう」

 

「でも、あれは……」

 

「大丈夫です。少なくとも、どういうときに現れるのかは分かっています。今は無理をしないでください」

 

 三崎さんは不安そうだったが、それ以上は尋ねなかった。

 千石さんが連絡先を確認し、今後の注意点を伝える。

 

 誰かの後ろを歩かないこと。

 もし現れたら、無理に逃げ続けず、安全を確保して連絡すること。

 

 もちろん、それで完全に安全だと保証できるわけではない。

 だが、今のところ、できることは限られていた。

 

 俺は少し離れたところで、その様子を眺めていた。

 

 後追い鬼。

 罪悪感から逃れようとしている人間の前に現れるという怪異。

 

 その正体には、心当たりがついた。

 出現する条件も分かった。

 なのに、どうして三崎さんの前に現れたのかが分からない。

 罪悪感から逃げているはずなのに、本人にはその心当たりがない。

 

 奇妙な話だった。

 自分が何から逃げているのかも分からず、逃げ続けている。

 そんなことが、あるのだろうか。

 

「水月くん」

 

 千石さんに呼ばれた。

 

「はい?」

 

「少し調べたいことがあるから、また連絡するね」

 

「分かりました。俺は何をすれば?」

 

「今日はもう大丈夫。ありがとう」

 

「じゃあ、俺の仕事は終わりですか?」

 

「ううん。まだお願いすることはあると思う」

 

「そうですか」

 

 どうやら、アルバイトは継続らしい。

 喜ぶべきか、悲しむべきか。

 報酬が増えるなら喜びたいところだが、仕事内容が増えるなら話は別である。

 

 千石さんは少し考え込んでから、三崎さんの方を見た。

 その視線には、何か引っかかるものがあるようだった。

 

 俺も三崎さんを見る。

 疲れ切った顔。

 怯えた目。

 何かに追われている人間の姿。

 

 けれど。

 この人は、本当に何かに追いかけられているのだろうか。

 

 それとも。

 何かを、置いてきてしまったのだろうか。

 

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