怪異には、名前がある。
もっとも、名前が分かったところで、どうにかなるとは限らない。
犬だと分かったからといって、噛まれなくなるわけではないし、熊だと分かったからといって、遭遇したときの危険が減るわけでもない。
むしろ、正体を知ったせいで余計に怖くなることもある。
怪異の場合は、なおさらだ。
ただし、俺には一つだけ利点がある。
正体が分からなくても、殴ること自体はできるということだ。
それで解決するかどうかは、また別の話である。
利点なのかどうかは、千石さんに聞かないでおこう。
*
「それじゃあ、三崎さん。私の後ろを歩いてもらえますか?」
「……はい」
神社の境内から少し離れた、人通りのない道。
千石さんが先頭に立ち、その後ろを三崎さんが歩く。
俺は少し距離を取って、二人の様子を見ていた。
もちろん、散歩をしているわけではない。
怪異の観察である。
出現条件はすでに分かっている。
三崎さんが誰かの後ろを歩くと、あの黒い影が現れる。
今回確かめたいのは、そいつが何者なのかということだった。
「水月くん。何か見える?」
「今のところは何も」
「そう。じゃあ、もう少し歩いてみようか」
千石さんが歩き始める。
三崎さんも続いた。
数歩。
十歩。
そして。
「……あ」
三崎さんが声を漏らした。
俺にも見えた。
黒い影だった。
人間の形をしている。
頭があり、胴体があり、手足がある。
ただし、顔がない。
正確には、顔があるべき場所に何もない。
目も、鼻も、口もない。
真っ黒な人型が、三崎さんの背後に立っていた。
「……なるほど」
思わず呟く。
話に聞いていた通りの姿だ。
もっとも、事前に説明を受けていたからといって、気味が悪くなくなるわけではない。
あれは、見慣れたくない類いのものだった。
「千石さん、見えますか?」
「うん。見えてるよ」
「どうします?」
「もう少し様子を見たいかな」
「了解です」
俺は二人との距離を少し詰めた。
いざというとき、すぐに割って入れる位置だ。
黒い影は、ゆっくりと歩いていた。
三崎さんが一歩進む。
影も一歩進む。
ただし、その歩幅は同じではなかった。
三崎さんが進むたびに、影はほんの少しずつ距離を詰めてくる。
急いでいるようには見えない。
それなのに、確実に近づいていた。
足音はない。
息遣いもない。
ただ、黒い人型だけが、少しずつ距離を縮めてくる。
「……気持ち悪いですね」
「うん。でも、まだ襲ってくる様子は――」
千石さんが言い終える前に。
影が動いた。
それまでの緩慢な動きが嘘のように、三崎さんとの距離を一気に詰めた。
「ひっ……!」
三崎さんが悲鳴を上げる。
影が三崎さんの背後に迫った。
あと一歩。
黒い手が、三崎さんの肩に伸びる。
そして、その手が触れる寸前。
影は速度を落とすことなく、三崎さんの横へ回り込もうとした。
追いつくだけではない。
追い越そうとしている。
そのときの俺には、二つの違いなど分からなかった。
ただ、あれを先に行かせてはいけない気がした。
俺は地面を蹴った。
考えるより先に、身体が動いた。
まずは引き離す。
そう約束したことは、覚えている。
だが、影の腕が三崎さんの肩に届きそうになった瞬間、俺の拳はすでに動いていた。
影の横合いに飛び込み、その胴体に拳を叩き込む。
手応えはあった。
肉でも骨でもない。
分厚い布を殴ったような、妙に鈍い感触。
次の瞬間、影の身体が崩れた。
黒い煙のように散り、空気に溶けていく。
「……ふう」
着地して、息を吐く。
「三崎さん、大丈夫ですか?」
「……は、はい」
三崎さんは青ざめた顔で頷いた。
少なくとも、怪我はしていないようだった。
「千石さん、そちらは?」
「うん。大丈夫。ありがとう、水月くん」
「どういたしまして」
「でも、水月くん」
「はい」
「まずは引き離すって約束したよね?」
「……しましたね」
「どうして殴ったの?」
「間に合わないと思ったんです」
「……そっか」
「三崎さんを追い越そうとしてましたし。あれ以上近づけるのは危ないと判断しました」
「うん。その判断は間違ってなかったと思う」
「じゃあ、殴ったのも正解ですか?」
「そこは、まだ分からないかな」
なるほど。
どうやら、答案の採点は保留らしい。
怪異を殴った結果については、もう少し様子を見る必要があるということだろう。
「でも、次はできれば声をかけてほしいな」
「次がある前提なんですね」
「たぶん、あると思うよ」
嫌な予言である。
そして、残念ながら当たった。
黒い煙が、再び集まり始めたのだ。
散ったはずの影が、元の人型を取り戻していく。
「……復活するんですか」
「みたいだね」
「せっかく殴ったのに」
「殴ったからって、消えるとは限らないよ」
「世知辛いですね」
せっかく殴ったのだから、少しくらい成果として認めてほしい。
いや、そもそも成果とは何だ。
怪異を一度散らしたことか。
それとも、三崎さんを守ったことか。
後者なら、まだ胸を張れる。
前者については、どうやら再提出が必要らしい。
「三崎さん。今度は私より前を歩いてください」
千石さんが声をかけた。
三崎さんは慌てて俺たちの前へ出る。
すると。
黒い影が止まった。
こちらを追ってくることもなく、ただその場に立ち尽くしている。
やがて輪郭が薄れ、今度は静かに消えていった。
「……消えましたね」
「うん。聞いていた通りだね」
千石さんが頷く。
つまり、出現条件は間違っていない。
誰かの後ろを歩けば現れる。
前を歩けば消える。
ただし、殴ってもまた現れる。
ずいぶん面倒な相手だ。
「それで、何か分かりました?」
「うん。たぶん、正体は分かったと思う」
「本当ですか?」
「あの影、三崎さんを追いかけるだけじゃなくて、追い越そうとしたでしょう?」
「ええ」
「それに、誰かの後ろを歩いているときだけ現れる。そこまで条件が揃うなら、心当たりがあるの」
「何です?」
「後追い鬼、かな」
「後追い鬼?」
初めて聞く名前だった。
いや、俺が知らない怪異の名前など、いくらでもあるのだが。
「後追い鬼って、結局どういう怪異なんです?」
「罪悪感から逃れようとする人間の前に現れる、とされている怪異だよ」
「とされている?」
「うん。怪異について伝わっている話が、すべて正しいとは限らないから」
「なるほど」
「だから、今回のものが本当に後追い鬼なのかも、まだ確かめる必要はあるけどね」
「罪悪感がある人じゃなくて、逃れようとしている人なんですか?」
「うん。罪悪感を抱えているだけなら、まだ大丈夫。問題は、それを置き去りにしようとしたとき」
「置き去りに?」
「罪悪感って、置いていこうとしても、なかなか置いていけないものでしょう?」
「まあ、そうですね」
「だから、追いかけてくるの。逃げる人の、後ろから」
「……なるほど」
後ろめたいから、後ろから来る。
背を向けたから、背後に現れる。
逃げたつもりが、追われる羽目になる。
なるほど、後追い鬼。
名前だけなら、ずいぶん筋の通った怪異である。
もっとも、筋が通っているからといって、話が通じるとは限らない。
少なくとも、拳は通じても、解決には至らなかった。
「それで、後追い鬼に追いつかれたらどうなるんです?」
「逃げていたものに、追いつかれるんだよ」
「いや、それはそうでしょうけど」
「罪悪感を突きつけられるの。忘れていても、見ないふりをしていても、逃げていたことだけは思い知らされる」
「……それだけですか?」
「それだけ、って?」
「いや、てっきり食われるとか、呪い殺されるとか、そういう話かと」
「水月くん、怪異に何を期待してるの?」
「期待というか、危険度の確認ですよ。思い知らされるだけなら、わざわざ殴る必要もないでしょう?」
「そうだね。追いつかれるだけなら」
「……だけなら?」
「後追い鬼はね、追いついた後に、追い越そうとするの」
「追い越す?」
「うん。追い越されたら、今度は自分が後を追うことになる」
「何の後を?」
「自分が逃げていた罪悪感の後を」
「……それ、どうなるんです?」
「償わなきゃいけないって気持ちに囚われるの。何を償えばいいのか分からなくても、何かを償おうとして、追い続ける」
「……なるほど。思っていたより、ずっと厄介な怪異ですね」
「最初から厄介だって言ってるんだけど」
「殴っても戻ってくる時点で、十分厄介でしたね」
逃げていたものに追いつかれ。
追いつかれたものに追い越され。
今度は自分が、それを追いかける。
追う側と追われる側が入れ替わる。
なるほど、後追い鬼。
ただ追いかけてくるだけの鬼ではないらしい。
「……ということは、さっき俺が殴らなかったら」
「三崎さんが追い越されていたかもしれないね」
「危なかったじゃないですか」
「うん。だから、助かったよ」
「じゃあ、殴ったのは正解だったんですね」
「結果的にはね」
「結果的には」
「でも、次からはできれば、もう少し慎重にね」
褒められているのか、叱られているのか。
おそらく両方だろう。
「それで、どうすれば祓えるんです?」
「そこが問題なんだよね」
「問題?」
「後追い鬼は、逃げようとしている罪悪感に結びついているとされているの。だから、どうして現れたのかを調べないと、根本的な対処は難しいと思う」
「つまり、三崎さんが何から逃げているのか、ということですか」
「そういうこと。もし本当に後追い鬼なら、だけど」
千石さんは三崎さんに向き直った。
「三崎さん。何か心当たりはありませんか?」
「……心当たり?」
「誰かに申し訳ないと思っていることや、考えないようにしていることはありませんか?」
三崎さんは黙り込んだ。
しばらく考えてから、ゆっくりと首を横に振る。
「……分からないんです」
「分からない?」
「はい。誰かにひどいことをした覚えも、何かから逃げているつもりもありません」
その声には、困惑が滲んでいた。
俺には、三崎さんが嘘をついているようには見えなかった。
もちろん、俺の人を見る目がどれほど信用できるかは別問題だ。
千石さんも、すぐには何も言わなかった。
「……そうですか」
やがて、静かに頷いた。
「分かりました。今日はここまでにしましょう」
「でも、あれは……」
「大丈夫です。少なくとも、どういうときに現れるのかは分かっています。今は無理をしないでください」
三崎さんは不安そうだったが、それ以上は尋ねなかった。
千石さんが連絡先を確認し、今後の注意点を伝える。
誰かの後ろを歩かないこと。
もし現れたら、無理に逃げ続けず、安全を確保して連絡すること。
もちろん、それで完全に安全だと保証できるわけではない。
だが、今のところ、できることは限られていた。
俺は少し離れたところで、その様子を眺めていた。
後追い鬼。
罪悪感から逃れようとしている人間の前に現れるという怪異。
その正体には、心当たりがついた。
出現する条件も分かった。
なのに、どうして三崎さんの前に現れたのかが分からない。
罪悪感から逃げているはずなのに、本人にはその心当たりがない。
奇妙な話だった。
自分が何から逃げているのかも分からず、逃げ続けている。
そんなことが、あるのだろうか。
「水月くん」
千石さんに呼ばれた。
「はい?」
「少し調べたいことがあるから、また連絡するね」
「分かりました。俺は何をすれば?」
「今日はもう大丈夫。ありがとう」
「じゃあ、俺の仕事は終わりですか?」
「ううん。まだお願いすることはあると思う」
「そうですか」
どうやら、アルバイトは継続らしい。
喜ぶべきか、悲しむべきか。
報酬が増えるなら喜びたいところだが、仕事内容が増えるなら話は別である。
千石さんは少し考え込んでから、三崎さんの方を見た。
その視線には、何か引っかかるものがあるようだった。
俺も三崎さんを見る。
疲れ切った顔。
怯えた目。
何かに追われている人間の姿。
けれど。
この人は、本当に何かに追いかけられているのだろうか。
それとも。
何かを、置いてきてしまったのだろうか。