放課後。
教室を出て、帰ろうとしたところで声をかけられた。
「阿良々木先輩」
振り返る。
忍野扇がいた。
こいつについて説明するのは、少々難しい。
まず、同じ学校に通っている生徒である。
少なくとも、学校の廊下で会う以上、そういうことになっている。
名前は忍野扇。
性別は、会う日による。
学年も、会う日による。
あるときは俺の先輩で、あるときは後輩。
男子生徒だったはずが、いつの間にか女子生徒になっていることもある。
そのたびに本人は、最初からそうだったような顔をしている。
学生証という便利な文明の利器を確認させてもらいたいところだが、こいつの場合、見せられたところで信用できる気がしない。
そして、何より厄介なのが、その性格である。
人の話を聞いているようで、聞いていない。
質問しているようで、答えを求めていない。
こちらが触れられたくないところを、実に楽しそうにつついてくる。
要するに、俺が知る限り、最も関わりたくない人間の一人である。
問題は、俺がどれだけ関わりたくなくても、向こうから関わってくることだ。
怪異より厄介かもしれない。
少なくとも、怪異なら殴れる。
「お前、今日は後輩なのか」
「おや、変なことを言いますね。僕は最初から阿良々木先輩の後輩ですよ」
「先週は俺の先輩だっただろ」
「そんなこともありましたっけ?」
「あったよ。しかもお前、先輩面して俺に説教までしてきたぞ」
「それはそれは。きっとためになるお話だったんでしょうね」
「お前の話がためになったことなんて一度もない」
「ひどいですねえ。僕はいつだって、阿良々木先輩のためを思っているのに」
それが一番信用できない。
こいつが俺のためを思って何かをしているなら、俺はまず自分の身の安全を確認する必要がある。
「ところで先輩。昨日は何をしていたんです?」
「何って、普通に過ごしてたけど」
「普通、ですか。ずいぶん便利な言葉ですね」
「便利だから使ってるんだよ」
「普通というのは、何も起こらなかったという意味ですか? それとも、何か起こったけれど、先輩にとっては普通だったという意味ですか?」
「お前は日常会話にまで定義を求めるのか」
「言葉の意味を確かめるのは大事なことですよ」
「じゃあ、まずお前の学年の意味を確かめさせろ」
「僕は後輩ですよ?」
「そうだったな。今日はな」
扇はにこにこと笑っている。
こいつの笑顔は、何というか、笑顔であること以外の情報を与えてくれない。
楽しそうなのに、何を楽しんでいるのか分からない。
いや。
俺が困っているのを楽しんでいる可能性は高い。
だとすれば、実に分かりやすい笑顔なのかもしれなかった。
「それで、昨日は何か面白いことでも?」
「別に」
「本当に?」
「本当に」
「怪しいですねえ」
「お前に怪しまれる筋合いはない」
昨日の出来事を思い返す。
臥煙さんからアルバイトの依頼が来た。
千石さんと合流した。
三崎さんという依頼人に会った。
そして、後追い鬼を殴った。
なるほど。
普通の一日である。
俺にとっては。
「まあ、ちょっとしたアルバイトはしてたけどな」
「へえ。アルバイトですか」
「そうだよ」
「それはそれは。お疲れさまでした」
「どうも」
「ところで先輩。人間は、忘れたいことを忘れられると思いますか?」
唐突だった。
いや、こいつの話題転換が唐突でなかったことなど、ほとんどないのだが。
「何だよ、急に」
「ちょっとした疑問です」
「忘れたいこと?」
「ええ。恥ずかしかったことでも、悲しかったことでも、取り返しのつかない失敗でも構いません。人間は、自分の意思でそれを忘れることができるのでしょうか」
「できるんじゃないか?」
「おや。ずいぶん簡単に答えますね」
「時間が経てば忘れることもあるだろ」
「それは、忘れようとして忘れたわけではありませんよね」
「細かいな」
「大事な違いですよ」
扇は人差し指を立てた。
「忘れることと、忘れようとすることは違います。忘れた結果と、忘れるための行為は、同じではありません」
「それで?」
「忘れようとするということは、忘れたい何かがあるということです」
「当たり前だろ」
「では、忘れた後はどうでしょう?」
「どうって?」
「忘れたいと思っていたことを忘れてしまったら、自分が忘れようとしていたことまで、忘れてしまうのでしょうか」
俺は少し考えた。
「……忘れたなら、そうなるんじゃないか?」
「なるほど。では、忘れたことを忘れた人は、自分が何かを忘れていると気づけるんでしょうか」
「お前、さっきから『忘れる』って何回言った?」
「忘れました」
「便利だな、その答え」
「先輩も使ってみてはいかがです?」
「お前との会話を忘れるのに使いたい」
「ひどいですねえ」
ひどいのはどっちだ。
もっとも、扇の言うことには一応、筋が通っている。
忘れたことを覚えているなら、それは何かを忘れたという自覚があるということだ。
しかし、忘れたこと自体を忘れてしまったら。
本人にとっては、最初から何もなかったのと変わらない。
「……でも、それがどうしたんだ?」
「どうもしませんよ。ただ、気になっただけです」
「お前がただ気になっただけで話しかけてくるとは思えないんだが」
「僕はそんなに信用がないんですか?」
「ないな」
「即答ですね」
「自信を持って答えられる数少ない質問だからな」
扇は肩をすくめた。
「ところで先輩。忘れてしまえば、責任もなくなると思いますか?」
「……は?」
「たとえば、誰かを傷つけたとします。でも、そのことをすっかり忘れてしまった。そうしたら、その人はもう、誰かを傷つけた人ではなくなるのでしょうか」
「なるわけないだろ」
「どうしてです?」
「本人が覚えていようがいまいが、やったことは変わらないからだよ」
「では、本人が覚えていない罪を、本人に償わせることはできるのでしょうか」
「それは……」
答えかけて、口を閉じた。
難しい問題だった。
やったことが消えるわけではない。
だが、何をしたのか分からない人間に、何を償わせればいいのか。
俺が答えを出せるような話ではない。
「……法律の話なら、父さんに聞け」
「僕は法律の話をしているつもりはありませんけど」
「知ってるよ。話を逸らしたんだ」
「おや。随分と正直ですね」
「お前相手に下手な言い訳をしたところで、面倒が増えるだけだからな」
「なるほど。賢明な判断です」
「褒められてる気がしないんだが」
「褒めていますよ。僕は何も知りませんから」
出た。
こいつの、最も信用できない台詞の一つである。
何も知らないと言いながら、こちらの知らない事情まで見透かしているような顔をする。
父さんが昔、扇とどういう関係だったのかは詳しく知らない。
ただ、少なくとも愉快な思い出ばかりではなかっただろうということは、想像がつく。
「お前さ」
「はい?」
「本当に何も知らないなら、どうしてそんなに楽しそうなんだ?」
「先輩とお話しできて嬉しいからですよ」
「そうか」
「はい」
俺は扇の顔をじっと見た。
「……何です、その視線は」
「いや、怪異だったら殴ってるところだなと思って」
「ひどいですねえ。僕、何かしました?」
「何もしてないなら、なおさら腹が立つ」
「理不尽ですよ」
「安心しろ。お前を殴るつもりはない」
「当然です」
「こんな気持ちになるのはお前だけだから」
「それ、安心するところですか?」
「こんな気持ちになるのはお前だけだから」
「二回言わないでください!」
珍しく、扇の声が大きくなった。
少しだけ溜飲が下がる。
なるほど。
こいつとの会話にも、多少は得るものがあるらしい。
「じゃあな、扇。俺は帰る」
「ええ。またお話ししましょう、阿良々木先輩」
「できれば遠慮したい」
「遠慮しないでくださいよ」
「遠慮じゃなくて拒否だ」
俺は背を向けた。
廊下を歩き出す。
その背中に、扇の声が届いた。
「先輩」
「まだ何かあるのか?」
「忘れたことを忘れてしまった人は、自分が何から逃げているのか、分かるんでしょうかね」
足が止まった。
振り返る。
扇は、相変わらず笑っていた。
「……どういう意味だ?」
「さあ。どういう意味でしょう」
「お前な」
「それでは、また」
そう言って、扇は歩き去っていった。
呼び止める気にはならなかった。
というより、呼び止めたところで、まともな答えが返ってくる気がしなかった。
俺はその場に立ったまま、昨日の出来事を思い返していた。
後追い鬼。
罪悪感から逃れようとしている人間の前に現れるとされる怪異。
なのに、三崎さんには心当たりがない。
もし。
もしも、三崎さんが何かを忘れているのだとしたら。
それも、ただ忘れたのではなく。
忘れようとして、忘れてしまったのだとしたら。
「……いや」
考えすぎだろう。
扇の言葉に意味を見出そうとするのは危険だ。
あいつは、意味ありげなことを言うのが得意なのだ。
意味があるとは限らない。
もっとも。
意味がないとも限らないのが、厄介なところだった。
*
校門を出ようとしたところで、スマートフォンが震えた。
画面に表示された名前は、千石撫子。
昨日は臥煙さん。
今日は千石さん。
どうやら俺の放課後は、怪異関係者に予約されているらしい。
「もしもし、千石さん」
『水月くん。今、大丈夫?』
「はい。ちょうど帰るところです」
『よかった。昨日の件で、少し分かったことがあって』
「後追い鬼ですか?」
『うん』
俺は校門の脇に移動した。
「三崎さんが何から逃げているのか、分かったんですか?」
『まだ、そこまでは』
「そうですか」
『でも、ちょっと気になることがあるの』
「気になること?」
『昨日の聞き取りを整理して、三崎さんにも少し確認してみたんだけど』
「何か分かったんですか?」
『後追い鬼が現れ始めた時期を、はっきり覚えていないみたいなの』
「最初に見た日くらいは覚えていそうですけどね」
『うん。でも、いつからなのか考えても、どうしても思い出せないんだって』
「それは……」
『怪異に遭った日を正確に覚えていないだけなら、珍しくないと思う。でも、今回は少し気になるの』
「後追い鬼の性質を考えると、ですか?」
『うん』
罪悪感から逃れようとしている人間の前に現れる。
逃げた後から追ってくるから、後追い鬼。
ならば、三崎さんは何かから逃げたのかもしれない。
ところが、本人には逃げた覚えがない。
「……千石さん」
『何?』
「三崎さんが、自分のしたことを忘れている可能性はありませんか?」
電話の向こうで、少し沈黙があった。
『どうしてそう思ったの?』
「今日、学校で変な奴に会いまして」
『変な人?』
「ええ。とびきり変な奴です」
『……水月くんがそこまで言うなら、相当だね』
「俺を何だと思ってるんですか」
『ごめんごめん。それで、その人が?』
「忘れたことを忘れてしまった人は、自分が何から逃げているのか分かるんだろうかって」
『……忘れたことを、忘れる』
千石さんが、その言葉を繰り返した。
『なるほど』
「何か心当たりが?」
『まだ分からない。でも、調べる方向は少し見えたかもしれない』
「方向?」
『怪異の原因を探すなら、普通は何があったのかを聞くでしょう?』
「そうですね」
『でも、本人がその出来事を覚えていないなら、聞いても答えられないよね』
「ええ」
『だから、三崎さんの覚えていることだけじゃなくて、覚えていないことも調べる必要があるのかもしれない』
覚えていないことを調べる。
言うのは簡単だが、実際にはどうすればいいのだろう。
忘れ物なら、最後に置いた場所を探せばいい。
なくした財布なら、立ち寄った店を思い出せばいい。
だが、なくしたのが記憶だったら。
どこに置いてきたのかも分からない。
そもそも、何をなくしたのかさえ分からない。
「……厄介ですね」
『うん。厄介だね』
「俺の出番はあります?」
『今のところ、殴って解決できる問題じゃなさそうかな』
「残念です」
『残念がらないで』
「いや、仕事がないと報酬が」
『ちゃんと協力してもらってる分は考えるから』
「さすが千石さん。話が分かる」
『水月くんって、そういうところは現実的だよね』
「ドーナツは現実にお金がかかりますから」
怪異は殴れても、値上がりしたドーナツの値札は殴れない。
世の中には、拳で解決できない問題が多すぎる。
『とりあえず、三崎さんにはもう一度話を聞いてみるね』
「俺も行きましょうか?」
『今日は大丈夫。もう少し調べてから、またお願いすると思う』
「分かりました」
『ありがとう、水月くん』
電話が切れた。
俺はスマートフォンをしまい、帰路についた。
忘れたことを忘れる。
扇の言葉が、頭の中に残っていた。
あいつの言うことを真面目に考えるのは、正直なところ癪に障る。
だが、今回ばかりは無視できなかった。
後追い鬼は、罪悪感から逃げる人間を追いかける。
ならば、逃げている本人が、逃げた理由を忘れてしまったらどうなるのか。
逃げる理由がなくなれば、追いかける理由もなくなるのだろうか。
少なくとも、三崎さんの様子を見る限り、そうではないらしい。
逃げた理由を忘れても。
逃げたという事実まで、消えるわけではない。
もっとも、三崎さんが本当に何かから逃げたのかどうかも、まだ分からない。
今のところ、分かっているのは一つだけだ。
何かが、あの人を追いかけている。
それだけだった。
俺は足を止めた。
ふと、昨日の三崎さんの顔が浮かんだ。
疲れ切った顔。
怯えた目。
何かに追われ続けている人間の姿。
あの人は、何を忘れたのだろう。
そして。
何を忘れたことさえ、忘れてしまったのだろう。