水物語   作:壊れかけのスコップ

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第一章 とおるミラー③

 忘れ物には、種類がある。

 傘を忘れる。

 財布を忘れる。

 宿題を忘れる。

 最後の一つについては、忘れたことにしている場合も多いだろうが、教師の側にとっては大した違いではないらしい。

 

 忘れたものは、忘れたもの。

 忘れた理由など、考慮されない。

 実に公平な制度である。

 

 もっとも、傘や財布なら探せば見つかることもあるし、宿題ならやり直せばいい。

 

 では、記憶はどうだろう。

 記憶を忘れた場合、どこを探せばいいのか。

 忘れたことさえ忘れてしまった場合、そもそも何を探せばいいのか。

 

 落とし物として交番に届けられるわけでもない。

 仮に届けられたとして、父さんの仕事が増えるだけである。

 

 記憶の落とし主を探す警察官。

 なかなか面白い話ではあるが、当事者にとっては笑い事ではないだろう。

 

 特に、その記憶が。

 自分から捨てたものだったとしたら。

 

     *

 

 千石さんから連絡が来たのは、翌日の放課後だった。

 

『水月くん。今日、時間ある?』

 

「ありますけど。何か分かったんですか?」

 

『うん。三崎さんのことで、少し』

 

「少し、ですか」

 

『……かなり、かもしれない』

 

 千石さんにしては珍しい言い直しだった。

 どうやら、事態はそれなりに進展したらしい。

 

「分かりました。どこに行けばいいです?」

 

『私の仕事場に来てもらえるかな』

 

「漫画の方ですか?」

 

『うん。資料を広げているから、その方が説明しやすいと思う』

 

「了解です」

 

 通話を切る。

 

 千石さんの仕事場。

 つまり、漫画家としての仕事場である。

 

 千石撫子さんは、怪異の専門家であると同時に、現役の漫画家でもある。

 正確には、漫画家が本業で、怪異の方が副業なのかもしれない。

 もっとも、どちらが本業なのかを本人に聞いたことはない。

 俺の場合、怪異退治がアルバイトなので、そのあたりの職業意識について語る資格はなさそうだった。

 

     *

 

「お邪魔します」

 

「いらっしゃい、水月くん」

 

 千石さんの仕事場は、相変わらず紙が多かった。

 原稿用紙。

 資料の束。

 付箋の貼られた本。

 壁際には、完成した原稿が整理されている。

 机の上には描きかけの漫画。

 

 それらを見ていると、怪異の調査をしているというより、締め切りに追われているように見える。

 

 実際、締め切りにも追われているのだろう。

 千石さんは、追いかけられることに縁があるらしい。

 後追い鬼にまで追いかけられたら、さすがに気の毒だ。

 

「お茶でいい?」

 

「ありがとうございます」

 

「ちょっと待っててね」

 

 千石さんが台所へ向かう。

 俺は机の端に置かれた原稿を眺めた。

 もちろん、勝手に触ったりはしない。

 

 千石さんの漫画制作を手伝うことは、以前から何度かあった。

 背景を描いたり、仕上げを手伝ったり。

 千石さんの絵柄に合わせることにも、今ではそれなりに慣れている。

 

 もっとも、描きかけの原稿を勝手に触るほど、俺は命知らずではない。

 怪異に殴りかかるのと、締め切り前の漫画家の原稿に手を出すのとでは、後者の方がよほど勇気を必要とする。

 少なくとも、俺にとっては。

 

「はい、どうぞ」

 

「ありがとうございます」

 

 湯呑みを受け取る。

 千石さんは向かいに座り、資料の束を広げた。

 

「それで、三崎さんの件なんだけど」

 

「はい」

 

「昨日、もう一度話を聞いてみたの」

 

「何か思い出したんですか?」

 

「ううん。本人は、何も」

 

「……本人は?」

 

 千石さんが頷く。

 

「三崎さんの周りの人に、話を聞かせてもらったんだ」

 

「なるほど」

 

 本人が覚えていないなら、周囲に聞く。

 言われてみれば当然の方法だった。

 ただ、怪異の専門家にとっては、そういう当たり前の方法こそ重要なのかもしれない。

 

 俺だったら、どうしただろう。

 ……たぶん、千石さんに相談していた。

 我ながら、実に合理的な判断である。

 

 適材適所。

 専門家が隣にいるのに、自分だけで解決しようとする必要はない。

 

「三崎さんには、昔、とても仲のいい友達がいたんだって」

 

「友達ですか」

 

「うん。学生の頃からの付き合いで、社会人になってからも、よく一緒に出かけていたそうなの」

 

「今は?」

 

 千石さんは、一瞬だけ言葉を選ぶように間を置いた。

 

「亡くなっているの」

 

「……そうですか」

 

「山での事故だったそうだよ」

 

 山。

 事故。

 その二つの言葉が並ぶだけで、何となく嫌な予感がする。

 

「登山中に、足を滑らせて転落したんだって」

 

「三崎さんも一緒だったんですか?」

 

「うん。二人で登っていたそうなの」

 

「……それで、三崎さんが責任を感じている?」

 

「そういう可能性はあると思う。でもね、水月くん」

 

「はい」

 

「事故について調べた限りでは、三崎さんに落ち度はなかったみたい」

 

「落ち度がない?」

 

「うん。危険な場所に誘導したわけでも、無理をさせたわけでもない。事故の後も、すぐに救助を呼んでいる」

 

「じゃあ、完全に事故だったと」

 

「少なくとも、確認できた範囲ではね」

 

 俺は湯呑みに口をつけた。

 少し熱かった。

 

「でも、後悔することはあるでしょうね」

 

「そうだね。責任がなくても、後悔することはあると思う」

 

「助けられなかった、って」

 

「うん。ただ、三崎さん自身がどう感じていたのかは、まだ分からないけどね」

 

 千石さんは静かに頷いた。

 

 事故に責任がなかったからといって、後悔までなくなるわけではない。

 もっと早く気づいていれば。

 別の道を選んでいれば。

 あの日、山に行かなければ。

 そういう考えは、きっといくらでも浮かぶ。

 

 もっとも、俺は三崎さんではない。

 本人が何を思ったのかは、本人にしか分からない。

 

「それで、その友達のことを三崎さんに聞いたんですか?」

 

「うん。名前を伝えてみたんだけど」

 

「何て?」

 

「……知らない、って」

 

「知らない?」

 

「うん。学生の頃から一緒にいた友達なのに、名前を聞いても、何も思い出せなかったの」

 

「……なるほど」

 

「それでね、写真も見せてみたんだ」

 

「写真を?」

 

「うん。二人で写っている写真」

 

「それで、どうなったんです?」

 

「……泣き出しちゃったの」

 

 俺は思わず、湯呑みを置いた。

 

「……泣いたんですか?」

 

「うん。本人も驚いてた。誰なのか分からないのに、どうして涙が出るのか分からないって」

 

「写真を見ても、誰なのか分からなかったんですか?」

 

「うん。何も思い出せなかったみたい」

 

 千石さんは、資料の中から別の写真を取り出した。

 そこには、三崎さんと、もう一人の男性が写っていた。

 

 二人とも笑っている。

 どこかへ出かけたときの写真だろうか。

 特別なことをしているわけではない。

 ただ、隣に並んで笑っているだけだ。

 

「一緒に旅行した記録もあるし、周りの人も二人が仲良かったことを覚えてる。でも、三崎さん本人だけが、その人を覚えていないの」

 

「事故のショックで記憶が飛んだとか」

 

「そういう可能性も考えたけど、事故の前から続いていた付き合いまで、きれいに抜けているみたい」

 

「……なるほど」

 

 普通の物忘れではない。

 忘れたのは事故だけではなく、友人そのもの。

 まるで、最初から存在しなかったかのように。

 

 それなのに。

 写真を見た途端、涙が出た。

 

 奇妙な話だった。

 顔を知らない。

 名前を知らない。

 思い出もない。

 それなのに、悲しい。

 

 記憶がないのに、感情だけが残っている。

 

「……忘れたことを忘れている、ですか」

 

「え?」

 

「いえ。昨日、変な奴に言われたことを思い出しただけです」

 

 扇の顔が脳裏に浮かんだ。

 あいつの言葉が、こんなところで役に立つとは。

 できれば一生役に立ってほしくなかったのだが。

 

「それで、千石さん。これは怪異の仕業なんですか?」

 

「その可能性は高いと思う」

 

「記憶を消す怪異?」

 

「うん。ただ、誰かに奪われたのか、自分から手放したのかで、話が変わってくるんだよね」

 

「自分から?」

 

 千石さんは、資料の中から一枚の紙を取り出した。

 そこには、古い鏡の絵が描かれていた。

 丸い鏡。

 装飾のない、簡素な形。

 その周囲に、何かの文字が記されている。

 

「ワスレカガミ」

 

「……忘れ鏡?」

 

「そう。忘れたい記憶を、忘れさせてくれる神様」

 

「ずいぶん便利な神様ですね」

 

「便利かどうかは、お願いする人によると思う」

 

「それもそうですね」

 

 千石さんは鏡の絵を指で示した。

 

「伝承では、ワスレカガミは願った人の記憶を消してくれるとされているの。でも、何でも消してくれるわけじゃないみたい」

 

「条件があるんですか?」

 

「うん。本人が心から忘れたいと願っていること。それから、決められた手順でお願いすること」

 

「代償とかは?」

 

「少なくとも、何かを奪うために記憶を消す神様ではないみたい。ただ、願いを叶えた結果が、願った人の望んだ通りになるとは限らないんだって」

 

「良心的なんだか、不親切なんだか」

 

「神様だからね。人間と同じ考え方をしているとは限らないよ」

 

「それもそうですね」

 

 神様に願いを叶えてもらったからといって、幸せになれるとは限らない。

 怪異絡みでは、よくある話だ。

 

「じゃあ、三崎さんは、その神様にお願いしたと?」

 

「まだ断定はできない。でも、調べてみる価値はあると思う」

 

「なるほど」

 

 俺は鏡の絵を見た。

 

 記憶を消す神様。

 もし三崎さんが、自分から友達の記憶を消したのだとしたら。

 後追い鬼が現れた理由も、少し見えてくる。

 

 事故から逃げたのではない。

 事故の記憶から逃げた。

 

 いや。

 友達を失った悲しみから、逃げたのかもしれない。

 

「……でも、それって罪なんですかね」

 

 気づけば、口に出していた。

 千石さんが顔を上げる。

 

「何が?」

 

「忘れようとしたことです」

 

 俺は続けた。

 

「友達が事故で死んで、自分にはどうしようもなくて。それがつらかったから、忘れたいと思った」

 

「うん」

 

「それって、そんなに悪いことなんですか?」

 

 千石さんはすぐには答えなかった。

 少し考えてから、静かに言った。

 

「私は、悪いことだとは思わないよ」

 

「……そうですか」

 

「つらいことを忘れたいと思うのは、自然なことだから」

 

「ですよね」

 

「でもね、水月くん」

 

「はい」

 

「悪いことじゃなくても、後悔することはあると思う」

 

 俺は黙った。

 

「忘れたかったのは、つらい記憶だったのかもしれない。でも、その人と過ごした楽しい時間まで、なくなってしまったとしたら」

 

「……ああ」

 

「それを後悔することも、あるんじゃないかな」

 

 なるほど。

 

 悲しみを忘れるために、喜びまで忘れてしまった。

 苦しみを捨てるために、大切なものまで捨ててしまった。

 

 そして。

 捨てたことさえ、覚えていない。

 

 もし、そういうことが起きたのなら。

 

「……厄介ですね」

 

「うん」

 

「忘れたことを後悔しても、何を忘れたのか分からない」

 

「そうだね」

 

「後悔している理由も分からない」

 

「うん」

 

 俺は腕を組んだ。

 

 後追い鬼。

 罪悪感から逃げる人間を追いかけるとされる怪異。

 もし三崎さんが、友達の記憶を消したことに罪悪感を抱いているのなら。

 本人がそれを忘れていても、怪異は追いかけてくるのかもしれない。

 

 理屈としては通る。

 ただし。

 

「……千石さん」

 

「何?」

 

「三崎さんは、何を償えばいいんでしょうね」

 

 千石さんは、答えなかった。

 

 いや。

 答えられなかったのかもしれない。

 

 友達を死なせた責任はない。

 もし、自分の意思で記憶を消したのだとしても。

 それは、苦しみから逃れるために選んだことなのかもしれない。

 

 それを罪と呼ぶのなら。

 誰が、その罪を裁くのだろう。

 

     *

 

「そういえば、もう一つ気になることがあるんだ」

 

 千石さんが言った。

 

「まだあるんですか」

 

「うん。三崎さんの部屋に、見覚えのないものがあったらしくて」

 

「見覚えのないもの?」

 

「小さな木の置物なんだけど」

 

 千石さんはスマートフォンを取り出し、写真を見せてくれた。

 木彫りの山だった。

 手のひらに乗るくらいの大きさ。

 山の頂上には、二人の人間が立っている。

 ずいぶん素朴な造りで、細かい表情までは分からない。

 

「……お土産ですかね」

 

「そう見えるよね」

 

「どこかの山に登った記念とか」

 

「うん。でも、三崎さんは、こんなものを買った覚えがないって」

 

「友達からもらったとか?」

 

「それも分からないみたい」

 

 俺は写真を眺めた。

 

 二人の人間。

 山の頂上。

 仲良く並んで立っている。

 それだけの置物だった。

 

「……亡くなった友達との思い出の品ですか?」

 

「最初はそう思ったんだけど」

 

「違うんですか?」

 

「少し変なの」

 

 千石さんは写真を拡大した。

 木の表面に、細い線が走っている。

 彫刻の跡にも見える。

 だが、何となく不自然だった。

 

「三崎さんが昨日、仕事から帰ったら、机の上に置いてあったんだって」

 

「誰かが置いたんですか?」

 

「分からない。でも、前の日まではなかったって言ってた」

 

「家族とか、知り合いが持ってきた可能性は?」

 

「それも確認したみたい。でも、心当たりはないそうなの」

 

「……なるほど」

 

 つまり、出所不明の置物が、いつの間にか部屋に現れたということだ。

 普通なら、まず不法侵入を疑うところである。

 怪異の専門家に相談している時点で、普通の話ではなくなっているが。

 

「それで、これがどうしたんです?」

 

「三崎さんが触ったとき、少しだけ景色が見えたらしいの」

 

「景色?」

 

「山の頂上。青い空。それから、隣に誰かがいた気がしたって」

 

「……誰か?」

 

「うん。でも、顔も名前も思い出せなかった」

 

 俺は写真を見直した。

 山の頂上に立つ二人。

 一人は三崎さん。

 もう一人は、亡くなった友達。

 そう考えるのが自然だろう。

 

「これ、記憶が戻ってきてるんですか?」

 

「分からない。でも、少なくとも、何かが残っているんだと思う」

 

「何か?」

 

「忘れたくなかったもの、かな」

 

 千石さんは、そう言った。

 

 忘れたかった記憶。

 忘れたくなかった記憶。

 同じ人間との思い出なのに、そんなふうに分けられるものなのだろうか。

 

 いや。

 分けられなかったからこそ、こうなっているのかもしれない。

 

「……それ、危険なんですか?」

 

「今のところ、害は確認できていないよ」

 

「じゃあ、下手に触らない方がよさそうですね」

 

「うん。少なくとも、正体が分かるまでは」

 

「了解です。壊した方がいいときは呼んでください」

 

「できれば、壊さずに済ませたいな」

 

「俺もです。壊した後に請求書が届くのは嫌なので」

 

「……そういう理由なんだ」

 

 何とも言えない顔をされた。

 いや、もちろん、請求書だけが理由ではない。

 

 何かを壊すのは簡単だ。

 少なくとも、俺にとっては。

 

 だが、壊したものを元に戻すのは難しい。

 怪異ならともかく、人の持ち物ならなおさらだ。

 

 ましてや、それが誰かの大切なものだった場合。

 弁償すれば済むという話でもないだろう。

 

「それで、これからどうするんです?」

 

「まずは、ワスレカガミについてもう少し調べる。それから、この置物が何なのかも」

 

「俺は?」

 

「水月くんには、また三崎さんのところに一緒に来てほしいな」

 

「護衛ですか?」

 

「うん。後追い鬼が、また現れるかもしれないから」

 

「分かりました」

 

 俺は頷いた。

 少なくとも、やることは明確だった。

 

 三崎さんを守る。

 後追い鬼が現れたら、追い越されないようにする。

 必要なら殴る。

 ただし、できればその前に別の手段を考える。

 

 実に分かりやすい。

 ……最後の一つが増えたせいで、少々面倒にはなったが。

 

 もっとも、今回の事件そのものは、少しも分かりやすくなかった。

 

     *

 

 仕事場を出る頃には、日が傾き始めていた。

 夕焼けの中を歩きながら、俺は考えていた。

 

 三崎さんには、仲のいい友達がいた。

 その友達は、事故で亡くなった。

 三崎さんには責任がなかった。

 それでも、つらかったのかもしれない。

 つらくて、悲しくて、耐えられなくて。

 忘れることを選んだ。

 

 もし、そうなのだとしたら。

 俺は、その選択を責められない。

 

 覚えていることが、必ずしも正しいわけではない。

 忘れることが、必ずしも間違っているわけでもない。

 

 ただ。

 あの木彫りの山が、どうにも気になった。

 

 二人で登った山。

 二人で見た景色。

 二人で過ごした時間。

 

 忘れたかったのは、友達が死んだことだったのかもしれない。

 けれど、忘れてしまったのは。

 友達が生きていたことまで、だったのだろうか。

 

 俺は空を見上げた。

 夕焼けが、少しずつ薄くなっていた。

 

 忘れたくないものまで忘れてしまった人間に。

 忘れたことを思い出させるのは、救いなのだろうか。

 

 それとも。

 もう一度、同じ苦しみを与えるだけなのだろうか。

 

 答えは出なかった。

 ただ一つ、分かったことがある。

 

 忘れ形見という言葉がある。

 亡くなった人が、後に残したもの。

 その人を思い出すためのもの。

 

 だが、もし。

 思い出すべき相手を、忘れてしまったとしたら。

 それは、誰の忘れ形見になるのだろう。

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