忘れ物には、種類がある。
傘を忘れる。
財布を忘れる。
宿題を忘れる。
最後の一つについては、忘れたことにしている場合も多いだろうが、教師の側にとっては大した違いではないらしい。
忘れたものは、忘れたもの。
忘れた理由など、考慮されない。
実に公平な制度である。
もっとも、傘や財布なら探せば見つかることもあるし、宿題ならやり直せばいい。
では、記憶はどうだろう。
記憶を忘れた場合、どこを探せばいいのか。
忘れたことさえ忘れてしまった場合、そもそも何を探せばいいのか。
落とし物として交番に届けられるわけでもない。
仮に届けられたとして、父さんの仕事が増えるだけである。
記憶の落とし主を探す警察官。
なかなか面白い話ではあるが、当事者にとっては笑い事ではないだろう。
特に、その記憶が。
自分から捨てたものだったとしたら。
*
千石さんから連絡が来たのは、翌日の放課後だった。
『水月くん。今日、時間ある?』
「ありますけど。何か分かったんですか?」
『うん。三崎さんのことで、少し』
「少し、ですか」
『……かなり、かもしれない』
千石さんにしては珍しい言い直しだった。
どうやら、事態はそれなりに進展したらしい。
「分かりました。どこに行けばいいです?」
『私の仕事場に来てもらえるかな』
「漫画の方ですか?」
『うん。資料を広げているから、その方が説明しやすいと思う』
「了解です」
通話を切る。
千石さんの仕事場。
つまり、漫画家としての仕事場である。
千石撫子さんは、怪異の専門家であると同時に、現役の漫画家でもある。
正確には、漫画家が本業で、怪異の方が副業なのかもしれない。
もっとも、どちらが本業なのかを本人に聞いたことはない。
俺の場合、怪異退治がアルバイトなので、そのあたりの職業意識について語る資格はなさそうだった。
*
「お邪魔します」
「いらっしゃい、水月くん」
千石さんの仕事場は、相変わらず紙が多かった。
原稿用紙。
資料の束。
付箋の貼られた本。
壁際には、完成した原稿が整理されている。
机の上には描きかけの漫画。
それらを見ていると、怪異の調査をしているというより、締め切りに追われているように見える。
実際、締め切りにも追われているのだろう。
千石さんは、追いかけられることに縁があるらしい。
後追い鬼にまで追いかけられたら、さすがに気の毒だ。
「お茶でいい?」
「ありがとうございます」
「ちょっと待っててね」
千石さんが台所へ向かう。
俺は机の端に置かれた原稿を眺めた。
もちろん、勝手に触ったりはしない。
千石さんの漫画制作を手伝うことは、以前から何度かあった。
背景を描いたり、仕上げを手伝ったり。
千石さんの絵柄に合わせることにも、今ではそれなりに慣れている。
もっとも、描きかけの原稿を勝手に触るほど、俺は命知らずではない。
怪異に殴りかかるのと、締め切り前の漫画家の原稿に手を出すのとでは、後者の方がよほど勇気を必要とする。
少なくとも、俺にとっては。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
湯呑みを受け取る。
千石さんは向かいに座り、資料の束を広げた。
「それで、三崎さんの件なんだけど」
「はい」
「昨日、もう一度話を聞いてみたの」
「何か思い出したんですか?」
「ううん。本人は、何も」
「……本人は?」
千石さんが頷く。
「三崎さんの周りの人に、話を聞かせてもらったんだ」
「なるほど」
本人が覚えていないなら、周囲に聞く。
言われてみれば当然の方法だった。
ただ、怪異の専門家にとっては、そういう当たり前の方法こそ重要なのかもしれない。
俺だったら、どうしただろう。
……たぶん、千石さんに相談していた。
我ながら、実に合理的な判断である。
適材適所。
専門家が隣にいるのに、自分だけで解決しようとする必要はない。
「三崎さんには、昔、とても仲のいい友達がいたんだって」
「友達ですか」
「うん。学生の頃からの付き合いで、社会人になってからも、よく一緒に出かけていたそうなの」
「今は?」
千石さんは、一瞬だけ言葉を選ぶように間を置いた。
「亡くなっているの」
「……そうですか」
「山での事故だったそうだよ」
山。
事故。
その二つの言葉が並ぶだけで、何となく嫌な予感がする。
「登山中に、足を滑らせて転落したんだって」
「三崎さんも一緒だったんですか?」
「うん。二人で登っていたそうなの」
「……それで、三崎さんが責任を感じている?」
「そういう可能性はあると思う。でもね、水月くん」
「はい」
「事故について調べた限りでは、三崎さんに落ち度はなかったみたい」
「落ち度がない?」
「うん。危険な場所に誘導したわけでも、無理をさせたわけでもない。事故の後も、すぐに救助を呼んでいる」
「じゃあ、完全に事故だったと」
「少なくとも、確認できた範囲ではね」
俺は湯呑みに口をつけた。
少し熱かった。
「でも、後悔することはあるでしょうね」
「そうだね。責任がなくても、後悔することはあると思う」
「助けられなかった、って」
「うん。ただ、三崎さん自身がどう感じていたのかは、まだ分からないけどね」
千石さんは静かに頷いた。
事故に責任がなかったからといって、後悔までなくなるわけではない。
もっと早く気づいていれば。
別の道を選んでいれば。
あの日、山に行かなければ。
そういう考えは、きっといくらでも浮かぶ。
もっとも、俺は三崎さんではない。
本人が何を思ったのかは、本人にしか分からない。
「それで、その友達のことを三崎さんに聞いたんですか?」
「うん。名前を伝えてみたんだけど」
「何て?」
「……知らない、って」
「知らない?」
「うん。学生の頃から一緒にいた友達なのに、名前を聞いても、何も思い出せなかったの」
「……なるほど」
「それでね、写真も見せてみたんだ」
「写真を?」
「うん。二人で写っている写真」
「それで、どうなったんです?」
「……泣き出しちゃったの」
俺は思わず、湯呑みを置いた。
「……泣いたんですか?」
「うん。本人も驚いてた。誰なのか分からないのに、どうして涙が出るのか分からないって」
「写真を見ても、誰なのか分からなかったんですか?」
「うん。何も思い出せなかったみたい」
千石さんは、資料の中から別の写真を取り出した。
そこには、三崎さんと、もう一人の男性が写っていた。
二人とも笑っている。
どこかへ出かけたときの写真だろうか。
特別なことをしているわけではない。
ただ、隣に並んで笑っているだけだ。
「一緒に旅行した記録もあるし、周りの人も二人が仲良かったことを覚えてる。でも、三崎さん本人だけが、その人を覚えていないの」
「事故のショックで記憶が飛んだとか」
「そういう可能性も考えたけど、事故の前から続いていた付き合いまで、きれいに抜けているみたい」
「……なるほど」
普通の物忘れではない。
忘れたのは事故だけではなく、友人そのもの。
まるで、最初から存在しなかったかのように。
それなのに。
写真を見た途端、涙が出た。
奇妙な話だった。
顔を知らない。
名前を知らない。
思い出もない。
それなのに、悲しい。
記憶がないのに、感情だけが残っている。
「……忘れたことを忘れている、ですか」
「え?」
「いえ。昨日、変な奴に言われたことを思い出しただけです」
扇の顔が脳裏に浮かんだ。
あいつの言葉が、こんなところで役に立つとは。
できれば一生役に立ってほしくなかったのだが。
「それで、千石さん。これは怪異の仕業なんですか?」
「その可能性は高いと思う」
「記憶を消す怪異?」
「うん。ただ、誰かに奪われたのか、自分から手放したのかで、話が変わってくるんだよね」
「自分から?」
千石さんは、資料の中から一枚の紙を取り出した。
そこには、古い鏡の絵が描かれていた。
丸い鏡。
装飾のない、簡素な形。
その周囲に、何かの文字が記されている。
「ワスレカガミ」
「……忘れ鏡?」
「そう。忘れたい記憶を、忘れさせてくれる神様」
「ずいぶん便利な神様ですね」
「便利かどうかは、お願いする人によると思う」
「それもそうですね」
千石さんは鏡の絵を指で示した。
「伝承では、ワスレカガミは願った人の記憶を消してくれるとされているの。でも、何でも消してくれるわけじゃないみたい」
「条件があるんですか?」
「うん。本人が心から忘れたいと願っていること。それから、決められた手順でお願いすること」
「代償とかは?」
「少なくとも、何かを奪うために記憶を消す神様ではないみたい。ただ、願いを叶えた結果が、願った人の望んだ通りになるとは限らないんだって」
「良心的なんだか、不親切なんだか」
「神様だからね。人間と同じ考え方をしているとは限らないよ」
「それもそうですね」
神様に願いを叶えてもらったからといって、幸せになれるとは限らない。
怪異絡みでは、よくある話だ。
「じゃあ、三崎さんは、その神様にお願いしたと?」
「まだ断定はできない。でも、調べてみる価値はあると思う」
「なるほど」
俺は鏡の絵を見た。
記憶を消す神様。
もし三崎さんが、自分から友達の記憶を消したのだとしたら。
後追い鬼が現れた理由も、少し見えてくる。
事故から逃げたのではない。
事故の記憶から逃げた。
いや。
友達を失った悲しみから、逃げたのかもしれない。
「……でも、それって罪なんですかね」
気づけば、口に出していた。
千石さんが顔を上げる。
「何が?」
「忘れようとしたことです」
俺は続けた。
「友達が事故で死んで、自分にはどうしようもなくて。それがつらかったから、忘れたいと思った」
「うん」
「それって、そんなに悪いことなんですか?」
千石さんはすぐには答えなかった。
少し考えてから、静かに言った。
「私は、悪いことだとは思わないよ」
「……そうですか」
「つらいことを忘れたいと思うのは、自然なことだから」
「ですよね」
「でもね、水月くん」
「はい」
「悪いことじゃなくても、後悔することはあると思う」
俺は黙った。
「忘れたかったのは、つらい記憶だったのかもしれない。でも、その人と過ごした楽しい時間まで、なくなってしまったとしたら」
「……ああ」
「それを後悔することも、あるんじゃないかな」
なるほど。
悲しみを忘れるために、喜びまで忘れてしまった。
苦しみを捨てるために、大切なものまで捨ててしまった。
そして。
捨てたことさえ、覚えていない。
もし、そういうことが起きたのなら。
「……厄介ですね」
「うん」
「忘れたことを後悔しても、何を忘れたのか分からない」
「そうだね」
「後悔している理由も分からない」
「うん」
俺は腕を組んだ。
後追い鬼。
罪悪感から逃げる人間を追いかけるとされる怪異。
もし三崎さんが、友達の記憶を消したことに罪悪感を抱いているのなら。
本人がそれを忘れていても、怪異は追いかけてくるのかもしれない。
理屈としては通る。
ただし。
「……千石さん」
「何?」
「三崎さんは、何を償えばいいんでしょうね」
千石さんは、答えなかった。
いや。
答えられなかったのかもしれない。
友達を死なせた責任はない。
もし、自分の意思で記憶を消したのだとしても。
それは、苦しみから逃れるために選んだことなのかもしれない。
それを罪と呼ぶのなら。
誰が、その罪を裁くのだろう。
*
「そういえば、もう一つ気になることがあるんだ」
千石さんが言った。
「まだあるんですか」
「うん。三崎さんの部屋に、見覚えのないものがあったらしくて」
「見覚えのないもの?」
「小さな木の置物なんだけど」
千石さんはスマートフォンを取り出し、写真を見せてくれた。
木彫りの山だった。
手のひらに乗るくらいの大きさ。
山の頂上には、二人の人間が立っている。
ずいぶん素朴な造りで、細かい表情までは分からない。
「……お土産ですかね」
「そう見えるよね」
「どこかの山に登った記念とか」
「うん。でも、三崎さんは、こんなものを買った覚えがないって」
「友達からもらったとか?」
「それも分からないみたい」
俺は写真を眺めた。
二人の人間。
山の頂上。
仲良く並んで立っている。
それだけの置物だった。
「……亡くなった友達との思い出の品ですか?」
「最初はそう思ったんだけど」
「違うんですか?」
「少し変なの」
千石さんは写真を拡大した。
木の表面に、細い線が走っている。
彫刻の跡にも見える。
だが、何となく不自然だった。
「三崎さんが昨日、仕事から帰ったら、机の上に置いてあったんだって」
「誰かが置いたんですか?」
「分からない。でも、前の日まではなかったって言ってた」
「家族とか、知り合いが持ってきた可能性は?」
「それも確認したみたい。でも、心当たりはないそうなの」
「……なるほど」
つまり、出所不明の置物が、いつの間にか部屋に現れたということだ。
普通なら、まず不法侵入を疑うところである。
怪異の専門家に相談している時点で、普通の話ではなくなっているが。
「それで、これがどうしたんです?」
「三崎さんが触ったとき、少しだけ景色が見えたらしいの」
「景色?」
「山の頂上。青い空。それから、隣に誰かがいた気がしたって」
「……誰か?」
「うん。でも、顔も名前も思い出せなかった」
俺は写真を見直した。
山の頂上に立つ二人。
一人は三崎さん。
もう一人は、亡くなった友達。
そう考えるのが自然だろう。
「これ、記憶が戻ってきてるんですか?」
「分からない。でも、少なくとも、何かが残っているんだと思う」
「何か?」
「忘れたくなかったもの、かな」
千石さんは、そう言った。
忘れたかった記憶。
忘れたくなかった記憶。
同じ人間との思い出なのに、そんなふうに分けられるものなのだろうか。
いや。
分けられなかったからこそ、こうなっているのかもしれない。
「……それ、危険なんですか?」
「今のところ、害は確認できていないよ」
「じゃあ、下手に触らない方がよさそうですね」
「うん。少なくとも、正体が分かるまでは」
「了解です。壊した方がいいときは呼んでください」
「できれば、壊さずに済ませたいな」
「俺もです。壊した後に請求書が届くのは嫌なので」
「……そういう理由なんだ」
何とも言えない顔をされた。
いや、もちろん、請求書だけが理由ではない。
何かを壊すのは簡単だ。
少なくとも、俺にとっては。
だが、壊したものを元に戻すのは難しい。
怪異ならともかく、人の持ち物ならなおさらだ。
ましてや、それが誰かの大切なものだった場合。
弁償すれば済むという話でもないだろう。
「それで、これからどうするんです?」
「まずは、ワスレカガミについてもう少し調べる。それから、この置物が何なのかも」
「俺は?」
「水月くんには、また三崎さんのところに一緒に来てほしいな」
「護衛ですか?」
「うん。後追い鬼が、また現れるかもしれないから」
「分かりました」
俺は頷いた。
少なくとも、やることは明確だった。
三崎さんを守る。
後追い鬼が現れたら、追い越されないようにする。
必要なら殴る。
ただし、できればその前に別の手段を考える。
実に分かりやすい。
……最後の一つが増えたせいで、少々面倒にはなったが。
もっとも、今回の事件そのものは、少しも分かりやすくなかった。
*
仕事場を出る頃には、日が傾き始めていた。
夕焼けの中を歩きながら、俺は考えていた。
三崎さんには、仲のいい友達がいた。
その友達は、事故で亡くなった。
三崎さんには責任がなかった。
それでも、つらかったのかもしれない。
つらくて、悲しくて、耐えられなくて。
忘れることを選んだ。
もし、そうなのだとしたら。
俺は、その選択を責められない。
覚えていることが、必ずしも正しいわけではない。
忘れることが、必ずしも間違っているわけでもない。
ただ。
あの木彫りの山が、どうにも気になった。
二人で登った山。
二人で見た景色。
二人で過ごした時間。
忘れたかったのは、友達が死んだことだったのかもしれない。
けれど、忘れてしまったのは。
友達が生きていたことまで、だったのだろうか。
俺は空を見上げた。
夕焼けが、少しずつ薄くなっていた。
忘れたくないものまで忘れてしまった人間に。
忘れたことを思い出させるのは、救いなのだろうか。
それとも。
もう一度、同じ苦しみを与えるだけなのだろうか。
答えは出なかった。
ただ一つ、分かったことがある。
忘れ形見という言葉がある。
亡くなった人が、後に残したもの。
その人を思い出すためのもの。
だが、もし。
思い出すべき相手を、忘れてしまったとしたら。
それは、誰の忘れ形見になるのだろう。