人生には、選択肢がある。
右へ行くか、左へ行くか。
進むか、戻るか。
やるか、やらないか。
殴るか、殴らないか。
最後の選択肢については、もう少し慎重になれと千石さんに言われている。
もっとも、殴らなかった結果、誰かが怪異に襲われたら、それはそれで困る。
殴って怒られるか。
殴らずに後悔するか。
実に理不尽な二択である。
いや、そもそも二択にしているのが間違いなのだろう。
千石さんが言いたいのは、殴る以外の選択肢を増やせということなのだから。
分かっている。
分かってはいるのだ。
ただ、選択肢というものは、選べる状況になって初めて意味を持つ。
選べない選択肢は、選択肢ではない。
そして。
一度選ばなかった道を、もう一度選べるとは限らない。
それが人生というものらしい。
高校生の俺が人生を語るのもどうかと思うが、人生経験が豊富な姉ちゃんに聞いたところで、参考になる答えが返ってくるとは思えない。
何しろ、あの人の人生は長すぎる。
長すぎて、もはや人生というより歴史である。
歴史の教科書に載っていないのが不思議なくらいだ。
もっとも、載っていたら載っていたで、本人は肖像画の出来に文句をつけるだろう。
そんなことを考えながら、俺は千石さんと一緒に、三崎さんの家へ向かっていた。
*
「それで、ワスレカガミについて何か分かったんですか?」
「うん。少しだけ」
隣を歩く千石さんが頷いた。
「ワスレカガミは、忘れたい記憶を消してくれる神様なんだけど、消した記憶を戻す方法も伝わっているみたいなの」
「……戻せるんですか?」
「必ず、というわけじゃないけどね」
「条件がある?」
「うん。最初にお願いした本人が、もう一度、決められた手順でお願いする必要があるの」
「つまり、本人が望めば戻せるかもしれないと」
「そういうこと。ただ、神様が応じてくれるとは限らないけどね」
俺は少し考えた。
「……ずいぶん融通の利く神様ですね」
「そうかな?」
「だって、忘れさせてくださいって頼んだら忘れさせてくれて、やっぱり思い出したいって頼んだら戻してくれるかもしれないんでしょう?」
「お願いを聞いてくれるとは限らないよ」
「それでも、やり直す機会はあるわけですよね」
「うん」
「神様にしては、良心的じゃないですか」
千石さんは、少しだけ笑った。
「神様だからって、意地悪とは限らないよ」
「それはそうですけど」
「人間の願いを叶えることが、必ずしも人間を幸せにすることとは限らないしね」
「……なるほど」
願いを叶えることと、救うことは違う。
仮に三崎さんがワスレカガミに記憶を消してもらっていたとしても、それで苦しみのすべてが消えたとは限らない。
そして、後追い鬼が現れた理由も、まだ分かっていない。
記憶を消したことと、追われるようになったこと。
二つの出来事は、つながっているのだろうか。
「それで、儀式って何をするんです?」
「鏡を使うの」
「鏡」
「うん。ワスレカガミにお願いするときと同じように、決められた場所で鏡に向かって祈るんだって」
「場所も決まってるんですか?」
「そう。だから、まずは三崎さんがどこでお願いしたのかを調べる必要があるんだけど」
「本人は覚えてないんですよね」
「うん。そこが難しいところかな」
記憶を消した場所を思い出せない。
記憶を消したこと自体、覚えていない。
なかなか手の込んだ仕組みである。
いや、仕組んだのは神様ではなく、三崎さん自身なのかもしれない。
「じゃあ、場所が分からなかったら?」
「別の方法も考えるけど、まずは本人に確認してみようと思って」
「場所をですか?」
「それもあるけど、もっと大事なこと」
「……ああ」
なるほど。
そもそも、三崎さんが記憶を取り戻したいと思っているかどうか。
そこを確かめる必要があるわけだ。
「分かりました」
俺は頷いた。
今回の俺の仕事は、護衛である。
後追い鬼が現れた場合、三崎さんを守る。
それ以外は、千石さんに任せる。
役割分担というものは大事だ。
俺が儀式の手順を考え始めたら、最終的に鏡を殴る方法に行き着きそうなので、なおさらである。
*
三崎さんの家は、住宅街の一角にあるマンションだった。
玄関のチャイムを鳴らすと、少し間を置いて扉が開いた。
「……千石さん。阿良々木さん」
「こんにちは、三崎さん」
「どうも」
三崎さんの顔色は、相変わらず良くなかった。
目の下には隈があり、頬も少しこけている。
ただ、最初に会ったときよりは、いくらか落ち着いて見えた。
後追い鬼の出現条件が分かったことで、多少は安心できたのかもしれない。
「どうぞ、入ってください」
案内された部屋は、きれいに片づいていた。
いや。
きれいすぎる、と言うべきか。
生活感がないわけではない。
ただ、物の置き方が妙に整っている。
何かを探した後のようにも見えた。
そして、テーブルの上には。
「あ」
見覚えのあるものが置かれていた。
木彫りの山。
頂上に立つ、二人の人間。
千石さんが写真で見せてくれた、あの置物だった。
「それ、例の」
「はい」
三崎さんが頷く。
「昨日から、ずっと気になっていて」
「何か変化はありましたか?」
千石さんが尋ねる。
「……触れると、時々、景色が浮かぶんです」
「景色?」
「はい。山の上から見下ろした景色です。空が青くて、風が強くて……」
三崎さんは置物を見つめた。
「そのとき、誰かの顔や名前を思い出したりは?」
「いいえ。でも、隣に誰かがいたような気がするんです」
「その人と何をしたのかは?」
「……分かりません。ただ、楽しいんです」
その言葉が、妙に印象に残った。
「楽しい?」
「はい。景色が浮かぶと、何だか……嬉しくなるんです」
三崎さんは困ったように笑った。
「おかしいですよね。誰と一緒にいたのかも分からないのに」
「おかしくないと思いますよ」
千石さんが答えた。
「楽しかったことを、全部忘れてしまうとは限らないですから」
「……そうなんでしょうか」
「少なくとも、三崎さんはそう感じているんですよね」
「はい」
千石さんは静かに頷いた。
俺は木彫りの山を眺めた。
忘れ形見。
亡くなった人が残したもの。
ただし、この置物は普通の遺品ではない。
いつの間にか現れた、怪異らしいものだ。
記憶そのものが閉じ込められているわけではないのだろう。
それでも、忘れたくなかった何かが、形になっている。
そう考えると、少し不思議だった。
もし、ワスレカガミが関わっているのだとしたら。
忘れたい記憶は消えた。
けれど、忘れたくなかった気持ちは残った。
そして、その気持ちが、形になった。
そんなことも、あるのかもしれない。
もっとも、今のところは想像でしかない。
俺は怪異の専門家ではないのだから。
人間というものは、ずいぶん器用なのか、不器用なのか。
どちらなのだろう。
*
「三崎さん。今日は、少し大事なお話があります」
千石さんが切り出した。
三崎さんは顔を上げる。
「……何でしょうか」
「以前、三崎さんには、とても仲のいいお友達がいたそうです」
「……はい」
千石さんから、すでに聞いているのだろう。
三崎さんは驚かなかった。
ただ、表情が少し曇った。
「写真も見せてもらいました。でも、やっぱり……思い出せなくて」
「そうですよね」
「その人が亡くなったことも、聞きました」
「はい」
「……不思議なんです」
三崎さんは、膝の上で手を握った。
「知らない人のはずなのに、亡くなったと聞くと、胸が苦しくなるんです」
誰なのか分からない。
何をしていたのか分からない。
それでも、悲しい。
記憶をなくしても、感情はなくならない。
昨日、千石さんから聞いた話が、目の前で確かめられているようだった。
「三崎さん」
千石さんが、ゆっくりと言った。
「もしかすると、三崎さんは、その人のことを自分から忘れようとしたのかもしれません」
「……自分から?」
「はい」
三崎さんは、目を見開いた。
「どうして、そんなことを……」
「つらかったから、かもしれません」
「……つらかった」
「大切な人を失うのは、つらいことですから」
三崎さんは黙った。
しばらくして、ぽつりと言った。
「……そうかもしれません」
その声は、ひどく小さかった。
「覚えていないのに、こんなに苦しいんです。覚えていたら、もっと苦しかったのかもしれない」
俺は何も言わなかった。
言えることがなかった。
俺には、三崎さんの記憶を消すことはできない。
戻すこともできない。
ましてや、苦しみの大きさを測ることもできない。
千石さんは、少し間を置いてから続けた。
「記憶を消す神様がいるんです」
「……神様?」
「ワスレカガミ、という名前です」
三崎さんは首を傾げた。
「聞いたことがありません」
「そうですよね。もしお願いしていたとしても、そのことを覚えていない可能性がありますから」
「……そんな」
「ただ、記憶を戻す方法が伝わっているんです」
千石さんは、持ってきた資料をテーブルに置いた。
古い鏡の絵。
儀式について記された文章。
そして、いくつかの注意事項。
「……戻せるんですか?」
「必ずとは言えません。最初にお願いした場所を見つける必要がありますし、神様が応じてくれるかどうかも分かりません」
「……そうですか」
「でも、調べてみることはできます」
三崎さんは、資料に目を落とした。
「場所が見つかれば、思い出せるかもしれないんですね」
「はい。ただ、その前に三崎さんの気持ちを確認したかったんです」
「……僕の、気持ち」
「もし、記憶を取り戻す方法が見つかったら。三崎さんは、どうしたいですか?」
三崎さんは、しばらく黙っていた。
俺も、千石さんも、何も言わなかった。
選ぶのは、三崎さんだからだ。
失った記憶を、取り戻す方法を探すか。
それとも、今のままでいるか。
どちらが正しいのかは、俺には分からない。
そして、たぶん。
千石さんにも、分からないのだろう。
*
「……一つ、聞いてもいいですか」
三崎さんが口を開いた。
「はい」
「もし、記憶が戻ったら」
言葉が途切れる。
三崎さんは、木彫りの山を見つめた。
「その人が亡くなったことも、思い出すんですよね」
「……そうなる可能性は高いと思います」
「事故のことも」
「はい」
「……そのときの気持ちも?」
千石さんは、すぐには答えなかった。
「記憶と感情は、必ずしも同じものではありません。でも、思い出すことで、つらい気持ちが戻ってくる可能性はあります」
「……そうですか」
三崎さんは目を閉じた。
長い沈黙だった。
時計の針が進む音だけが、部屋に響いていた。
やがて。
「……怖いです」
三崎さんは、そう言った。
「怖い?」
「はい」
その声は震えていた。
「今でも、こんなに苦しいんです。何も覚えていないのに、苦しくて、悲しくて……」
三崎さんは胸元を押さえた。
「思い出したら、どうなるのか分からない」
俺は、黙って聞いていた。
「もし、自分から忘れたのだとしたら」
三崎さんは続けた。
「それだけ、耐えられなかったんだと思うんです」
「……はい」
「だったら、もう一度思い出しても、同じことになるんじゃないでしょうか」
千石さんは、静かに頷いた。
「そうかもしれません」
「……また、忘れたくなるかもしれない」
「はい」
「だったら……」
三崎さんは、ゆっくりと顔を上げた。
「思い出さないままで、いたいです」
その言葉は、小さかった。
けれど、はっきりしていた。
千石さんは、何も言わなかった。
俺も、何も言わなかった。
しばらくして、千石さんが頷いた。
「分かりました」
「……いいんですか?」
「もちろんです」
「でも、せっかく調べてもらったのに」
「調べたからといって、必ず記憶を戻さなきゃいけないわけじゃありません」
千石さんは、穏やかに微笑んだ。
「選ぶのは、三崎さんですから」
三崎さんは、少しだけ目を伏せた。
「……ありがとうございます」
俺は、そのやり取りを見ていた。
記憶を戻さない。
それが、三崎さんの選択だった。
忘れたままでいることを、選んだ。
いや。
正確には。
思い出すという選択肢を、選ばなかった。
それだけのことだ。
選ばなかったからといって、間違いとは限らない。
選んだからといって、正解とも限らない。
人生というものは、ずいぶん面倒にできている。
*
「……ただ、一つだけ問題があります」
千石さんが言った。
三崎さんの表情が強張る。
「問題?」
「後追い鬼のことです」
そうだった。
記憶を戻さないことを選んだからといって、後追い鬼が消えるわけではない。
罪悪感から逃げようとしている人間を追いかけるとされる怪異。
逃げた理由を忘れていても、追いかけてくる。
そして、追い越されれば、今度は自分が罪悪感を追いかけることになる。
「……やっぱり、思い出さないと駄目なんでしょうか」
三崎さんが尋ねた。
千石さんは首を横に振った。
「いいえ。別の方法を考えます」
「別の方法?」
「はい。記憶を戻さなくても、後追い鬼をどうにかできる方法を」
俺は千石さんを見た。
「……あるんですか?」
「まだ、考えているところだけど」
「なるほど」
つまり、現時点ではないらしい。
いや、千石さんがそう言うなら、何か考えがあるのだろう。
少なくとも、俺が考えるよりはずっといい。
「水月くんにも、もう少し協力してほしいな」
「もちろんです」
「ありがとう」
「ただし、危なくなったら、力ずくでも止めますよ」
「……うん。そこは、状況を見てね」
「善処します」
「本当に?」
「できる限り」
千石さんは苦笑した。
三崎さんも、少しだけ笑った。
それが、今日初めて見た三崎さんの笑顔だった。
*
帰り道。
俺は千石さんと並んで歩いていた。
「……千石さん」
「何?」
「三崎さんの選択、どう思います?」
「記憶を戻さないっていうこと?」
「はい」
千石さんは少し考えた。
「私は、尊重したいと思うよ」
「……そうですか」
「水月くんは?」
「俺も、そう思います」
即答だった。
千石さんが少し驚いたようにこちらを見る。
「迷わないんだね」
「だって、本人が嫌だって言ってるんですよ」
「うん」
「無理やり思い出させる理由なんて、ないでしょう」
母さんなら、きっとこう言う。
助けたいと思うのは、こちらの勝手。
助けられたいかどうかは、相手が決めること。
昔から何度も聞かされてきた言葉だった。
そして、今回ばかりは、その意味がよく分かる。
もっとも、母さんが実際に言うときは、もう少し容赦のない表現になるのだが。
あの人の言葉は、内容より先に精神的なダメージが届くことがある。
「それに」
「それに?」
「思い出したからって、友達が生き返るわけじゃないですし」
言ってから、少しだけ後悔した。
ずいぶん冷たい言い方だったかもしれない。
だが、千石さんは怒らなかった。
「……うん」
ただ、頷いた。
「そうだね」
しばらく、二人で歩いた。
夕方の風が、少し冷たかった。
「でも、水月くん」
「はい?」
「忘れたままでいることと、忘れたことがなかったことになるのは、違うんだよ」
「……そうですね」
「三崎さんが記憶を戻さなくても、あの人と過ごした時間が消えるわけじゃない」
「はい」
「だから、どうすればいいのか、もう少し考えてみたいの」
千石さんは、前を向いた。
「記憶を戻さずに、後追い鬼だけをどうにかする方法を」
俺は頷いた。
「分かりました」
「ありがとう」
「……でも、千石さん」
「何?」
「もし、どうにもならなかったら?」
千石さんは、少しだけ笑った。
「そのときは、水月くんの力を借りることになるかもしれないね」
「力、ですか」
「うん。今度は、壊すためじゃなくて、止めるために」
「……止めるだけなら、何とかなると思います」
「期待してるよ」
「期待されると、失敗できなくなるんですけど」
「水月くんなら大丈夫」
根拠のある信頼なのか、単なる無茶振りなのか。
できれば前者であってほしい。
「前に殴ったときは、すぐに元に戻りましたからね」
「うん。だから、今度は散らさずに止めておきたいの」
「……動きを止めるだけ、ですか」
「そう。私が何かできるように」
「分かりました。そっちの方が、案外難しいんですけどね」
相手が怪異なら、力加減を間違えても大抵は何とかなる。
いや、何とかならない場合もあるのだが。
少なくとも、俺自身が怪我をすることはあまり気にしなくていい。
だが、相手を壊さずに押さえ込むとなると、話は別だ。
強すぎれば壊してしまう。
弱すぎれば逃げられる。
殴るより、よほど面倒である。
もっとも。
面倒だからといって、できないわけではない。
そう信じたいところだった。
*
選ばなかった道がある。
選べなかった道もある。
選んだ道を、後悔することもある。
選ばなかった道を、後悔することもある。
どちらを選んでも、後悔することはある。
だからといって、選ぶ意味がなくなるわけではない。
少なくとも。
自分の代わりに誰かが選んでくれたからといって、後悔まで引き受けてくれるわけではないのだから。
けれど。
選ばなかったことまで、誰かに決められる必要はない。
三崎さんは、記憶を戻さないことを選んだ。
それが正しいかどうかは、分からない。
いつか後悔するかもしれない。
あるいは、後悔しないかもしれない。
ただ。
少なくとも、今は。
その選択を、誰かが否定する必要はないだろう。
俺はそう思った。
そして。
後追い鬼が、そんな人間の選択を尊重してくれるほど、物分かりのいい怪異でないことも。
よく分かっていた。