忘れるという行為には、少々不思議なところがある。
忘れようと思っているうちは、忘れられない。
忘れたかどうかを確かめようとすると、思い出してしまう。
つまり、忘れたことを確認できた時点で、忘れることには失敗している。
何とも不便な仕組みである。
もっとも、忘れたことさえ忘れてしまえば、そんな問題は起こらない。
忘れたことを忘れたのだから、忘れたかどうかを気にする必要もない。
実に完璧な忘却だ。
完璧すぎて、何を忘れたのか分からないことを除けば。
さて。
今回の依頼人である三崎透さんは、ある人間のことを忘れていた。
その人間が死んだことも。
その人間と過ごした時間も。
そして、おそらく。
忘れようとしたことさえ。
忘れていた。
にもかかわらず、後追い鬼は三崎さんを追い続けている。
本人が忘れても、怪異は忘れない。
何とも律儀な話である。
できれば、その律儀さを別のところで発揮してほしかった。
たとえば、俺の宿題を代わりに提出するとか。
いや。
宿題を提出する怪異というのも、相当怖いか。
提出期限を過ぎても、どこまでも追いかけてくる。
……それはもう、怪異というより教師である。
*
「鏡を作ろうと思うの」
千石さんは、そう言った。
場所は、いつもの仕事場。
机の上には、原稿用紙と資料が広がっている。
そして、その中央には。
一枚の白い紙が置かれていた。
「……鏡ですか?」
「うん」
「買ってくるんじゃ駄目なんです?」
「普通の鏡じゃ、意味がないから」
「なるほど」
それはそうだろう。
普通の鏡で怪異が祓えるなら、世の中の洗面所はもっと安全な場所になっているはずだ。
「ワスレカガミの鏡を、再現してみようと思うんだ」
「……再現?」
「うん。完全なものは無理だけど、機能の一部だけなら、できるかもしれない」
千石さんは、机の上の紙を指差した。
「水月くん、私が描いたものを実体化できることは知ってるよね」
「はい。何度か見てますし」
「でも、何でも作れるわけじゃないの」
「そうなんですか?」
「うん。描いたものの性質や、元になったものの力によって、できることが変わるんだ」
「たとえば?」
「普通の道具なら、比較的簡単。でも、人間の心を直接変えたり、強い怪異そのものを作り出したりするのは難しいかな」
「……なるほど」
つまり、万能ではないということだ。
いや、万能だったら、それはそれで困る。
千石さんが漫画を描くだけで何でも解決できるなら、俺のアルバイトがなくなってしまう。
失業問題である。
「今回作るのは、ワスレカガミそのものじゃないよ」
「じゃあ、何を?」
「伝承にある『忘れさせる』という働きを、一部分だけ再現したもの」
「……記憶を消す鏡ですか?」
「ううん。人間の記憶を消せるほどのものじゃないの。そもそも、私が勝手にそんな力を作り出せるわけでもないし」
「じゃあ、何を忘れさせるんです?」
「後追い鬼の、追いかける目的」
「……目的?」
「うん。後追い鬼は、罪悪感から逃げようとする人を追いかける怪異だと考えられているでしょう?」
「はい」
「でも、後追い鬼自身が、相手の罪を知っているわけじゃないと思うの」
「……どういうことです?」
「三崎さんが何を忘れたのか、誰を忘れたのか。そういう具体的なことを知っているわけじゃない。ただ、逃げている人を追いかける。それが、後追い鬼の性質なんだと思う」
「なるほど」
つまり、後追い鬼は三崎さんの事情など知らない。
ただ、逃げているから追いかける。
追いかけるから、後追い鬼。
実に単純な怪異である。
単純だからこそ、厄介なのだろうが。
「後追い鬼には、人間みたいな記憶はないのかもしれない」
「じゃあ、何を忘れさせるんです?」
「追いかける、という目的そのもの」
「……目的そのものを、忘れる?」
「うん。後追い鬼は、逃げている人を追いかける怪異でしょう? その役割を忘れてしまったら、どうなると思う?」
「追いかけなくなる?」
「それだけじゃないかもしれない。追いかけることによって成立している怪異なら、その目的を失った時点で、存在できなくなる可能性があるの」
俺は少し考えた。
追いかけることしか知らない怪異。
追いかけるために存在している怪異。
その怪異が、追いかけることを忘れる。
なるほど。
それは、確かに致命的かもしれない。
「……それで消えるんですか?」
「可能性はあると思う」
「可能性」
「うん。確実とは言えないけどね」
千石さんは、少しだけ申し訳なさそうに笑った。
「でも、三崎さんの記憶を戻さずに済む方法としては、試す価値があると思う」
「……そうですね」
俺は頷いた。
三崎さんは、記憶を戻さないことを選んだ。
それを尊重するなら、別の方法を探すしかない。
そして、千石さんはその方法を見つけようとしている。
「ちなみに、そんなに都合よく効くものなんですか?」
「分からないよ。だから、試してみる必要があるの」
「なるほど。実験ですね」
「うん。ただ、失敗したときのことも考えておかないと」
「俺の出番ですか」
「そういうこと」
実験に失敗した場合の安全装置。
何とも頼もしい役割である。
安全装置が人間であることを除けば。
いや、俺が完全な人間かどうかについては、少々議論の余地があるのだが。
「俺は何をすれば?」
「後追い鬼を、鏡の前に留めておいてほしいの」
「……留める?」
「うん。鏡が働くまで、逃がさないように」
「殴ってもいいんですか?」
「できれば、殴らないでほしいかな」
「……難易度が上がりましたね」
「水月くんなら、できると思うよ」
千石さんは、あっさりと言った。
期待されるのはありがたい。
ただし、期待される内容が自分の得意分野から外れている場合は、少々困る。
殴るなと言われて、怪異をどうにかする。
それは、俺にとってはなかなか高度な注文だった。
「……分かりました」
俺は頷いた。
「やってみます」
「ありがとう」
千石さんは微笑んだ。
そして、白い紙に向かってペンを走らせ始めた。
*
鏡の制作は、思っていたよりも手間がかかった。
千石さんは、資料を確認しながら、何度も線を引き直している。
普通の漫画原稿なら、ここまで慎重になることはないだろう。
いや。
締め切り直前の原稿なら、別の意味で慎重になるかもしれない。
「水月くん、悪いんだけど、そこの資料を取ってもらえる?」
「これですか?」
「うん。それから、鏡の縁の模様を少し描き足してもらってもいい?」
「俺が描いても大丈夫なんです?」
「形を整えるだけなら大丈夫。肝心なところは私が描くから」
「了解です」
俺はペンを受け取り、鏡の縁に細い線を加えた。
絵を描くこと自体は、嫌いではない。
むしろ、得意な方だ。
千石さんの漫画制作を手伝うこともあるし、絵柄を合わせることにも慣れている。
ただし、描いたものが怪異退治の道具になるという経験は、さすがに初めてだった。
「……こんな感じでどうです?」
「うん。いいと思う」
「よかったです」
「やっぱり、水月くんは器用だね」
「ありがとうございます」
「もう少し手伝ってもらおうかな」
「……それ、今日のアルバイト代に含まれます?」
「含まれると思うよ」
「なら、喜んで」
労働には対価が必要である。
特に、怪異関係の労働には。
何しろ、労働災害の種類が多すぎる。
一般的な保険で対応できるのか、甚だ疑問だ。
鏡が完成したのは、それからしばらく経ってからだった。
紙の上に描かれたのは、丸い鏡。
装飾の少ない、古い形のものだった。
千石さんは、最後の線を引き終えると、ペンを置いた。
「……できた」
「お疲れさまです」
「ありがとう」
千石さんは、額に浮かんだ汗を拭った。
「でも、これは一度しか使えないと思う」
「一度だけ?」
「うん。元になった力が強すぎるから、長くは保たないはず」
「……失敗したら?」
「そのときは、別の方法を考えるしかないかな」
「なるほど」
一度きりの勝負。
失敗したら、また最初から。
なかなか緊張感のある話になってきた。
千石さんは、描いた鏡に手をかざした。
すると。
紙の上の線が、ゆっくりと浮かび上がった。
黒い線が立体になり、形を作る。
やがて、そこには一枚の鏡が現れていた。
「……相変わらず、すごいですね」
「ありがとう。でも、今回はちゃんと働くかどうか、まだ分からないから」
「見た目は普通の鏡ですね」
「うん。見た目はね」
俺は鏡を覗き込んだ。
自分の顔が映っている。
特に変わったところはない。
目が二つ。
鼻が一つ。
口が一つ。
いつも通りの顔だ。
「……俺が覗いても大丈夫なんです?」
「大丈夫。人間の記憶に働きかけるほどの力はないから」
「なるほど」
安心した。
うっかり自分の名前を忘れたら、学校で困るところだった。
もっとも、阿良々木という苗字を忘れられたら、それはそれで便利かもしれない。
父さんの知り合いに会うたびに、妙な反応をされることもなくなるだろう。
「それに、鏡として働くのは、力を使っている間だけだよ」
「普段は普通の鏡なんですか?」
「うん。力を使うと、怪異だけを映すようになるはず」
「……はず」
「まだ試してないからね」
「そうでした」
何とも頼りない話である。
もっとも、未知の怪異を相手にしている以上、確実な方法など最初から存在しないのだろう。
「じゃあ、三崎さんに連絡するね」
「はい」
千石さんはスマートフォンを手に取った。
俺は、机の上の鏡を眺めた。
忘れさせる鏡。
記憶を消す神様の、機能だけを真似たもの。
何とも皮肉な話である。
忘れることで生まれた問題を、忘れさせることで解決しようとしているのだから。
忘却には、忘却を。
毒をもって毒を制す。
いや。
今回の場合は、忘れたものをもって忘れたものを制す、だろうか。
言っていて、何が何だか分からなくなってきた。
俺の頭まで忘却される前に、考えるのはやめておこう。
*
後追い鬼を呼び出す場所には、前回と同じ、人通りのない道を選んだ。
千石さん。
三崎さん。
そして、俺。
三人が揃っている。
千石さんの手には、あの鏡があった。
「三崎さん。準備はいいですか?」
「……はい」
三崎さんの声は、少し震えていた。
無理もない。
前回は、後追い鬼に追い越されそうになったのだ。
もう一度、あれと向き合うのは怖いだろう。
「念のため、もう一度確認させてください」
千石さんが言った。
「今回使う鏡は、三崎さんの記憶を戻すためのものではありません。後追い鬼だけに働きかけるつもりです」
「……僕の記憶は、そのままなんですね」
「はい。ただ、初めて使うものなので、絶対に何も起こらないとは言い切れません」
三崎さんは少し考えてから、頷いた。
「……それでも、お願いします」
「分かりました」
千石さんは、静かに頷いた。
俺も、三崎さんの方を向いた。
「大丈夫ですよ」
俺は言った。
「今度は、追い越させませんから」
三崎さんがこちらを見る。
「……ありがとうございます」
「いえ。仕事ですから」
そう答えると、三崎さんは少しだけ笑った。
俺も笑い返す。
安心してもらえたなら、何よりだ。
もっとも、俺自身はそこまで安心していない。
今回は、殴らずに止めろと言われているのだ。
難易度が高い。
「それじゃあ、始めようか」
千石さんが言った。
三崎さんが頷く。
前回と同じように、千石さんが先頭に立ち、三崎さんがその後ろを歩く。
俺は、二人の横を少し離れて歩いた。
数歩。
十歩。
そして。
黒い影が現れた。
顔のない人型。
真っ黒な身体。
三崎さんの背後に、ぴたりと張りつくように立っている。
「……来ましたね」
「うん」
千石さんが頷いた。
「水月くん、お願い」
「了解です」
俺は影に近づいた。
後追い鬼は、こちらを見ない。
いや、顔がないのだから、見ているかどうかも分からない。
ただ、三崎さんの後ろを歩き続けている。
俺は影と三崎さんの間に入った。
影が、俺の脇を抜けようとした。
俺は腕を伸ばし、その肩をつかむ。
手応えはあった。
ただし、人間の肩とはまるで違う。
握った場所から形が崩れ、指の間を黒い煙が流れていく。
普通の人間なら、つかむことすらできないかもしれない。
だが、幸いというべきか、俺の身体は普通ではない。
怪異に触れることくらいはできる。
問題は、触れたままにしておく方だった。
「……おっと」
影は、少しだけ動きを止めた。
そして、今度は横へ回り込もうとする。
俺も横へ動く。
影が右へ。
俺も右へ。
影が左へ。
俺も左へ。
「……何だこれ」
思わず呟いた。
怪異相手に、通せんぼをしている。
それも、かなり真剣に。
俺の戦闘経験の中でも、なかなか珍しい状況だった。
影が、急に速度を上げた。
「っと!」
俺は踏み込み、影の肩をつかみ直した。
黒い身体が、指の間で形を変える。
つかんでいるはずなのに、つかみきれない。
煙を握っているようなものだ。
「千石さん!」
「もう少しだけ!」
背後から声がする。
千石さんは、鏡を構えていた。
鏡面には、黒い影が映っている。
ただし。
俺の姿は、映っていなかった。
「……千石さん。俺、映ってないんですけど」
「怪異だけを映すように描いたからね」
「なるほど」
そういうことらしい。
吸血鬼の血がどうこうという話ではなかったようだ。
少しだけ安心した。
鏡に映らないというのは、日常生活では意外と不便なのである。
もっとも、今はそんなことを気にしている場合ではない。
影が、さらに強く動いた。
俺の腕を振りほどこうとする。
黒い身体が伸び、縮み、形を変える。
殴れば、簡単に散らせるだろう。
前回と同じように。
だが。
それでは、また戻ってくる。
殴っても、終わらない。
それは、もう分かっている。
「……悪いな」
俺は影に向かって言った。
「今日は、殴らないことにしてるんだ」
返事はなかった。
当然である。
顔もなければ、口もないのだから。
俺は影を押さえ込んだ。
逃げようとする身体を、無理やりその場に留める。
力を込めすぎれば、また散らしてしまうかもしれない。
弱すぎれば、すり抜けられる。
実に面倒な加減だった。
殴る方が、よほど簡単だ。
「水月くん!」
千石さんの声がした。
「そのまま!」
「了解!」
鏡が、光った。
いや。
光ったというより、鏡面が白く濁った。
黒い影が映っていたはずの場所が、ゆっくりと白くなっていく。
影が、動きを止めた。
「……?」
俺は思わず、手元を見た。
後追い鬼の身体が、揺れている。
何かを探すように。
何かを確かめるように。
そして。
ゆっくりと、三崎さんの方を向いた。
顔はない。
目もない。
それでも、何となく分かった。
こいつは、迷っている。
何を追いかけていたのか。
なぜ追いかけていたのか。
それが、分からなくなっているのだ。
「……千石さん」
「うん」
千石さんは、鏡を構えたまま頷いた。
「もう少し」
影の輪郭が、薄くなっていく。
黒い身体が、少しずつ透けていく。
俺は、つかんでいた腕を緩めた。
もう、逃げようとはしていなかった。
ただ、そこに立っている。
何のために存在しているのか、分からなくなった怪異が。
何をすればいいのかも分からずに。
立ち尽くしている。
「……後追い鬼」
俺は、名前を呼んだ。
もちろん、返事はない。
それでも、何となく呼びたくなった。
追いかけるために生まれた怪異。
追いかけることしか知らない怪異。
その怪異が、追いかける理由を忘れてしまった。
ならば。
もう、後追い鬼ではないのかもしれない。
影の身体が、崩れ始めた。
今度は、拳で散らしたときとは違う。
黒い煙になって広がるのではなく、輪郭そのものが消えていく。
頭が。
肩が。
腕が。
胴体が。
足が。
少しずつ、薄くなっていく。
そして。
最後には、何も残らなかった。
「……消えましたね」
俺は呟いた。
千石さんが、鏡を下ろした。
「うん」
「前みたいに、戻ってきたりしませんか?」
「少し待ってみよう」
俺たちは、その場でしばらく待った。
前回、拳で散らしたときは、すぐに黒い煙が集まり始めた。
だが、今回は違った。
何も現れない。
黒い影も、気配も。
「……今のところ、戻ってこないね」
「成功ですか?」
「少なくとも、あの後追い鬼は消えたと思う」
「……よかった」
俺は息を吐いた。
気づけば、肩に力が入っていた。
殴らない戦いというものは、どうにも疲れる。
殴る戦いも疲れるが、疲れ方が違う。
精神的な意味で。
そのとき。
千石さんの手の中で、鏡に細いひびが入った。
「あ」
小さな音がした。
ひびは鏡面全体に広がり、やがて鏡そのものが、紙のように薄くなっていく。
そして。
何も残さず、消えてしまった。
「……鏡も消えましたね」
「うん。やっぱり、一度きりだったみたい」
「便利な道具だったんですけどね」
「便利すぎるものは、長持ちしないのかもしれないね」
「……世知辛いですね」
怪異退治にも、使い捨てという概念があるらしい。
環境問題が心配である。
*
「……終わったんですか?」
三崎さんが尋ねた。
千石さんが頷く。
「はい。後追い鬼は、もう現れないと思います」
「……本当に?」
「絶対とは言えません。でも、少なくとも、今までと同じ形で追いかけられることはないはずです」
三崎さんは、しばらく黙っていた。
そして。
「……ありがとうございます」
深く頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました」
「いえ」
千石さんが微笑む。
「無事に終わって、よかったです」
俺も頷いた。
「これで、安心して歩けますね」
「……はい」
三崎さんは、少しだけ笑った。
その顔には、まだ疲れが残っている。
目の下の隈も、消えていない。
それでも。
最初に会ったときよりは、ずっと穏やかな表情だった。
「……あの」
三崎さんが、千石さんに声をかけた。
「はい?」
「一つ、聞いてもいいですか」
「もちろんです」
三崎さんは、少し迷ってから言った。
「……これで、全部終わったんでしょうか」
千石さんは、すぐには答えなかった。
俺も、黙っていた。
後追い鬼は消えた。
追いかけられることは、なくなった。
だが。
三崎さんが忘れた記憶は、戻っていない。
亡くなった友達のことも。
その人と過ごした時間も。
忘れようとした理由も。
何一つ、思い出していない。
「……後追い鬼のことは、終わりました」
千石さんが、静かに言った。
「でも、それ以外のことは、三崎さん自身が決めていくことになると思います」
「……そうですか」
「はい」
三崎さんは、ゆっくりと頷いた。
「……分かりました」
それ以上、何も聞かなかった。
千石さんも、何も言わなかった。
俺も、何も言わなかった。
忘れたことを、思い出すか。
忘れたままでいるか。
それは、三崎さんが選ぶことだ。
俺たちが決めることではない。
*
帰り道。
千石さんと並んで歩きながら、俺は尋ねた。
「……千石さん」
「何?」
「後追い鬼って、消えたんですよね」
「うん」
「でも、三崎さんの罪悪感は、消えてないんですよね」
「……そうだね。少なくとも、残っている可能性はあると思う」
「じゃあ、また別の怪異が出てきたりしないんですか?」
千石さんは、少し考えた。
「可能性がないとは言えないよ」
「……そうですか」
「でも、それは三崎さんだけの話じゃないから」
「どういうことです?」
「誰だって、何かを後悔することはあるでしょう?」
「まあ、そうですね」
「何かを忘れたいと思うことも、あると思う」
「はい」
「だからって、必ず怪異に取り憑かれるわけじゃないよ」
「……なるほど」
俺は頷いた。
確かに、そうだ。
罪悪感がある人間が、全員後追い鬼に追われるわけではない。
忘れたいことがある人間が、全員怪異に取り憑かれるわけでもない。
人間は、忘れる。
人間は、後悔する。
それでも、普通に生きている。
いや。
普通に生きているからこそ、忘れたり、後悔したりするのかもしれない。
「……それにしても」
俺は呟いた。
「何?」
「今回、結局一度も殴りませんでしたね」
「……今日の話?」
「はい」
「そうだね」
「珍しいですね」
「珍しいって、自分で言うことかな」
「実際、珍しいですし」
千石さんは、少しだけ笑った。
「でも、ちゃんと守れたでしょう?」
「……そうですね」
「それでいいんじゃないかな」
俺は少し考えた。
殴らずに守る。
そんな方法も、あるらしい。
いや。
当然あるのだろう。
ただ、俺があまり選んでこなかっただけで。
「……今度から、少し考えてみます」
「うん」
「殴る前に」
「うん」
「……殴った後でも、間に合いますかね」
「間に合わないと思うな」
「ですよね」
俺は肩をすくめた。
難しいものだ。
人生も。
怪異退治も。
選択肢が多い方がいいとは限らない。
だが、選択肢が一つしかないよりは、きっといい。
*
後追い鬼は、追いかける理由を忘れて消えた。
三崎さんは、忘れたまま生きていく。
怪異は、役割を失えば存在できない。
けれど、人間は違う。
何かを忘れても。
大切なものを失っても。
それでも、生きていくことはできる。
もちろん、それが幸せなのかどうかは分からない。
本人にだって、分からないかもしれない。
ただ。
俺は今日、怪異を殴らなかった。
それでも、誰かを守ることができた。
そのことだけは。
忘れないでおこうと思う。