水物語   作:壊れかけのスコップ

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第一章 エピローグ

 父親の背中を見て育つ、という言葉がある。

 子供は親の姿を見て、物事を覚えていくものらしい。

 歩き方。

 話し方。

 考え方。

 そして、場合によっては、生き方まで。

 

 なるほど。

 そういう意味では、俺も父さんの背中を見て育ったと言えるのだろう。

 俺が覚えている父さんの背中は、だいたい誰かを助けるために走っているか、母さんに叱られて縮こまっているかのどちらかである。

 前者はともかく、後者まで受け継ぎたくはない。

 

 もっとも、前者についても、俺には少々難しい。

 父さんは、困っている人間を見つけると放っておけない。

 俺は、困っている人間を見つけても、基本的には放っておく。

 

 冷たいと思われるかもしれない。

 だが、困っていることと、助けを求めていることは、必ずしも同じではない。

 

 余計なお世話という言葉がある。

 余計な親切という言葉もある。

 どちらも、やっている本人は親切のつもりなのだから、なかなか厄介だ。

 

 それに。

 他人の問題に首を突っ込むのは、単純に面倒くさい。

 ……今の一言で、それまでの理屈が台無しになった気がする。

 

 まあ、いい。

 事実なのだから仕方がない。

 

 父さんの背中を見て育った俺は、同時に、母さんの言葉を聞いて育った。

 

『助けたいと思うのは、あなたの勝手よ。でも、助けられたいかどうかは、相手が決めることだわ』

 

 そして、母さんはこうも言った。

 

『困っている人を見つけるたびに首を突っ込むのは、あなたのお父さんだけで十分。あの人一人でも、私の心臓には悪かったのだから』

 

 なるほど。

 俺が父さんと同じ道を歩まないのは、教育の成果なのかもしれない。

 もっとも、単純に面倒くさいという理由もあるのだが。

 

 ただし。

 助けてほしいと言われたなら、話は別だ。

 そのときは、できる範囲で手を貸す。

 引き受けた以上は、途中で投げ出すつもりもない。

 

 もちろん、何でも引き受けるわけではないが。

 俺にだって、できないことはある。

 それを無視して突っ走るのは、父さん一人で十分だ。

 

 ……いや。

 一人でも多いかもしれない。

 

 もっとも。

 父さんがどうしてそこまでして人を助けようとするのか。

 俺は、本当のところを知らない。

 知っているつもりになっているだけなのかもしれない。

 

 父さんにも、父さんなりの理由があるのだろう。

 ただ、それを聞いたところで、俺が同じ生き方を選ぶとは限らない。

 親子だからといって、答えまで同じである必要はないのだから。

 

     *

 

「水月くん、そこの背景、お願いできる?」

 

「了解です」

 

 千石さんの仕事場。

 俺は今、漫画制作の手伝いをしていた。

 

 後追い鬼の事件が終わってから、数日が経っている。

 三崎さんからは、その後、怪異を見たという連絡はない。

 ひとまず、今回のアルバイトは無事終了。

 そう思っていたのだが。

 どういうわけか、俺はまだ働いていた。

 

 もっとも、今度の相手は怪異ではない。

 原稿用紙である。

 そして、こちらの方が、ある意味では手強い。

 

 怪異なら、多少力を込めても問題ない。

 しかし原稿は、力を込めすぎれば破れるし、線を間違えれば修正が必要になる。

 つまり、原稿の方が怪異より繊細なのだ。

 当たり前の話である。

 

 俺はペンを手に取り、下描きに沿って線を引いていく。

 

 細い線。

 均一な間隔。

 建物の窓枠。

 道路の白線。

 遠景の街並み。

 一本ずつ、丁寧に描き込んでいく。

 

「……うん。相変わらず上手だね」

 

 隣から、千石さんが覗き込んできた。

 

「ありがとうございます」

 

「線も安定してるし、細かいところもきれい。水月くん、本当に手先が器用だよね」

 

「まあ、こういう作業は嫌いじゃないですから」

 

「最初はちょっと意外だったけど」

 

「……やっぱり、そう思います?」

 

「うん。だって水月くん、怪異を見つけるとすぐ殴ろうとするでしょう?」

 

「人聞きが悪いですね」

 

「違うの?」

 

「……否定しきれないのが腹立たしいです」

 

 千石さんは、くすくす笑った。

 失礼な話である。

 

 確かに俺は、怪異相手に拳を振るうことが多い。

 だが、拳を振るうことと、手先が不器用なことは、まったく別の問題だ。

 むしろ、正確に拳を当てるには、細かい力加減が必要なのである。

 

 もっとも。

 この理屈を千石さんに説明したところで、殴ることの正当化だと思われるだけだろう。

 実際、半分くらいは正当化なのだが。

 

「水月くん、こっちの人物も描いてみる?」

 

「いいんですか?」

 

「うん。前に見せてもらった絵、上手だったから」

 

「じゃあ、やってみます」

 

 千石さんから渡されたのは、背景に小さく描かれる通行人の下描きだった。

 俺は資料を確認し、ペンを走らせる。

 

 髪の流れ。

 服のしわ。

 身体の重心。

 遠近感に合わせて、線を整理する。

 千石さんの絵柄から浮かないよう、線の強弱も調整した。

 

「……あ、いいね」

 

「こんな感じですか?」

 

「うん。自然だし、ちゃんと私の絵に合わせてくれてる」

 

「勝手に絵柄を変えたら、アシスタントの意味がないですからね」

 

「ふふ。そういうところ、真面目だよね」

 

「俺はいつでも真面目ですよ」

 

「……うん?」

 

「何ですか、その間は」

 

「何でもないよ」

 

 絶対に何でもなくない。

 だが、追及したところで、ろくな答えは返ってこないだろう。

 俺は黙って作業を続けた。

 

 怪異相手なら、ここで一発殴っているところだ。

 もちろん、千石さんを殴るわけではない。

 そもそも人間相手に拳を振るう趣味はないし、そんなことをすれば母さんに何を言われるか分かったものではない。

 

 俺は平和主義者なのである。

 ただし、平和を守る手段については、多少の議論の余地がある。

 

     *

 

「へえ」

 

 背後から、声がした。

 

「お兄ちゃん、絵が上手なんだね」

 

 振り返る。

 斧乃木余接さんが立っていた。

 

「……余接さん。いつからいたんです?」

 

「今来たところだよ」

 

「そうですか。千石さんに用事ですか?」

 

「うん。でも、面白いものが見られたね」

 

「面白いもの?」

 

「お兄ちゃんが漫画を描いてるところ」

 

「……そんなに意外ですか?」

 

「うん。お兄ちゃんの手って、もっと殴ることに特化してると思ってたから」

 

「俺の手を何だと思ってるんですか」

 

「鈍器」

 

「人体の一部です」

 

「兼用できるんだね」

 

「できません。いや、できるかもしれませんけど、そういう話じゃなくて」

 

 千石さんが、隣で小さく笑った。

 

「水月くん、絵も上手だし、細かい作業も得意なんだよ」

 

「なるほど。じゃあ、力加減が苦手なわけじゃないんだね」

 

 余接さんが、俺の描いた原稿に目を落とした。

 

「当たり前でしょう。細かい作業は昔から得意ですよ」

 

「じゃあ、怪異を殴るのは趣味?」

 

「違います」

 

「特技?」

 

「……否定しづらい聞き方をしないでください」

 

「じゃあ、職業?」

 

「アルバイトです」

 

「認めたね」

 

「しまった」

 

 余接さんは、無表情のまま頷いた。

 千石さんは、とうとう声を出して笑った。

 

 まったく。

 絵が上手いというだけで、ここまで言われるとは思わなかった。

 手先が器用なのと、拳が出やすいのは、別問題なのである。

 問題は、その二つが同じ手に備わっていることなのかもしれないが。

 

     *

 

「ところで、お兄ちゃん」

 

「はい?」

 

「撫子お姉ちゃんから、事件が終わったって聞いたよ」

 

「ええ。無事に終わりました」

 

「後追い鬼、だったっけ」

 

「そうです」

 

「どんな怪異だったの?」

 

「……詳しくは聞いてなかったんですか?」

 

「うん。終わったってことしか聞いてないよ」

 

「なるほど」

 

 俺はペンを置いた。

 どうやら、説明が必要らしい。

 

「簡単に言うと、罪悪感から逃げようとする人間を追いかける怪異です」

 

「へえ」

 

「ただ、今回の依頼人は、その罪悪感の原因を覚えてなかったんですよ」

 

「覚えてなかった?」

 

「はい。正確には、何かから逃げていたのかどうかも、最初は分からなかったんですけどね」

 

 俺は、三崎さんのことを話した。

 仲のよかった友達がいたこと。

 その友達が、山での事故で亡くなったこと。

 三崎さん自身に事故の責任はなかったこと。

 それでも、悲しみに耐えられず、ワスレカガミという神様に記憶を消してもらった可能性があること。

 そして、友達との思い出まで忘れてしまったこと。

 

 ただし、最後まで確かめられなかったこともある。

 三崎さんが、本当にワスレカガミに願ったのか。

 願ったのだとしたら、何を忘れようとしたのか。

 後追い鬼が現れた理由が、その選択と直接結びついていたのか。

 どれも、推測の域を出なかった。

 

 余接さんは、黙って聞いていた。

 

「……なるほど」

 

 話し終えると、余接さんは頷いた。

 

「それで、記憶は戻したの?」

 

「いいえ」

 

「戻せなかった?」

 

「戻す方法はあるかもしれないと分かったんです。でも、本人が望まなかったんですよ」

 

「……へえ」

 

「だから、記憶はそのままにして、後追い鬼だけを消しました」

 

「どうやって?」

 

「千石さんが描いた鏡を使って、後追い鬼に追いかける目的を忘れさせたんです」

 

「なるほど。忘却には忘却を、か」

 

「そういうことです」

 

 余接さんは、少し考えるように首を傾げた。

 

「それで、お兄ちゃんは何をしたの?」

 

「後追い鬼を押さえてました」

 

「それだけ?」

 

「それだけです」

 

「殴らずに?」

 

「殴らずに」

 

「……本当に?」

 

「本当です」

 

「へえ。おめでとう。人類の進歩だね」

 

「俺個人の進歩を人類全体に広げないでください」

 

「お兄ちゃんも人類の一員なんだから、間違いじゃないよ」

 

「その分類にも少々議論の余地がありますけどね」

 

「じゃあ、半人類の進歩?」

 

「余計にややこしくしないでください」

 

 千石さんが、再び笑った。

 余接さんは、相変わらず無表情だった。

 

「でも、意外だね」

 

「何がです?」

 

「お兄ちゃんが、殴らずに済ませたこと」

 

「俺だって、殴らずに済むなら殴りませんよ」

 

「そうなんだ」

 

「そうなんです」

 

「じゃあ、今まで殴ってたのは?」

 

「……その方が早かったので」

 

「なるほど。効率重視なんだね」

 

「否定はしません」

 

「お兄ちゃんのお父さんとは、少し違うね」

 

 俺は黙った。

 余接さんは、相変わらず無表情だった。

 

「……それ、どういう意味です?」

 

「そのままの意味だよ」

 

「絶対に違うでしょう」

 

「そうかな」

 

 余接さんは、少しだけ首を傾げた。

 

「お兄ちゃんのお父さんなら、どうしただろうね」

 

 出た。

 父さんの話である。

 

     *

 

 俺の周囲には、父さんを知っている人間が多い。

 そして、そのほとんどが、何かにつけて父さんと俺を比較したがる。

 

 親子なのだから似ているところはあるだろう。

 

 だが、俺は父さんの再放送ではない。

 続編でもない。

 スピンオフというのも、何だか違う。

 強いて言えば、別作品である。

 ジャンルが同じとは限らない。

 

「父さんなら、ですか」

 

「うん」

 

「……さあ」

 

 俺は肩をすくめた。

 

「分かりませんよ。父さんじゃないんで」

 

「そうだね」

 

 余接さんは頷いた。

 

「お兄ちゃんは、阿良々木暦じゃない」

 

「当たり前でしょう」

 

「でも、阿良々木暦の息子だ」

 

「それも当たり前です」

 

「当たり前のことを、わざわざ確認してるんだよ」

 

「何のために?」

 

「さあ」

 

 余接さんは首を傾げた。

 

「僕にも分からない」

 

「分からないなら、やめません?」

 

「やめないよ」

 

 面倒な人だ。

 いや、人ではないのだが。

 

「お兄ちゃんのお父さんはね」

 

 余接さんが続けた。

 

「人を助けることに、ずいぶん熱心だったんだよ」

 

「知ってます」

 

「自分が傷ついても、助けようとすることがあった」

 

「……そうですか」

 

「相手が望んでいるかどうかを、確かめる前に動くこともあったね」

 

「いかにも父さんらしいですね」

 

「でも、いつもそうだったわけじゃないよ」

 

「……へえ」

 

 少し意外だった。

 余接さんは、こちらを見た。

 

「お兄ちゃんのお父さんだって、何でも解決できたわけじゃない。助けようとして、うまくいかなかったこともある」

 

「でしょうね」

 

「それに、助けるって言葉で片づけられないことも、いろいろあったから」

 

「……なるほど」

 

 俺は黙った。

 

 父さんの昔の話は、いろいろ聞いている。

 八九寺さんから。

 余接さんから。

 それから、何でも知っているあの人からも。

 

 ただし、話す人によって印象が違う。

 英雄のように語られることもあれば、馬鹿のように語られることもある。

 たぶん、どちらも間違っていないのだろう。

 

 そして。

 そのどちらでもない父さんを、俺は知っている。

 

 休日に寝坊する父さん。

 母さんに買い物を頼まれる父さん。

 姉ちゃんのドーナツを間違えて食べて、ひどい目に遭う父さん。

 少なくとも、俺にとっての父さんは、誰かを助けるだけの人間ではない。

 

「お兄ちゃんは、今回の依頼人を助けたんだよね」

 

「まあ、そうですね」

 

「でも、記憶は戻さなかった」

 

「本人が嫌だって言いましたから」

 

「どうして?」

 

「……どうしてって」

 

 俺は少し考えた。

 

「戻したくないって言ってる人に、無理やり思い出させる理由がないでしょう」

 

「なるほど」

 

 余接さんが頷いた。

 

「じゃあ、もし記憶を戻さないことで、その人がもっと苦しむと分かっていたら?」

 

「……難しいことを聞きますね」

 

「そうかな」

 

「そうですよ」

 

 俺は腕を組んだ。

 

「まず、そんなことが分かるのかって話ですけど」

 

「うん」

 

「仮に分かったとしても、だからって勝手に記憶を戻していいとは思いません」

 

「どうして?」

 

「その苦しみを引き受けるのは、俺じゃないからです」

 

 余接さんは、何も言わなかった。

 

「俺が正しいと思っても、実際に苦しむのは本人でしょう。だったら、少なくとも本人に選ばせるべきだと思います」

 

「……なるほどね」

 

「もちろん、危険が迫っているなら話は別ですけど」

 

「たとえば?」

 

「後追い鬼に追い越されそうになっていたら、本人の許可を待たずに止めますよ」

 

「殴って?」

 

「必要なら」

 

「やっぱり殴るんだ」

 

「そこは譲れません」

 

 余接さんは、少しだけ首を傾げた。

 

「じゃあ、お兄ちゃんは、何もしないわけじゃないんだね」

 

「当たり前でしょう」

 

「相手が選ぶために、邪魔なものをどけることはする」

 

「……まあ、そういうことになるんですかね」

 

「それで、何を選ぶかは相手に任せる」

 

「はい」

 

「なるほど」

 

 余接さんは頷いた。

 

「それは、お父さんと違うところもあるし、似ているところもあるね」

 

「……似てますか?」

 

「うん」

 

「どこが?」

 

「放っておけなかったところ」

 

 俺は言葉に詰まった。

 

「……いや、仕事でしたから」

 

「そうだね」

 

「報酬も出ますし」

 

「うん」

 

「だから、別に放っておけなかったわけじゃ……」

 

「そういうことにしておこうか」

 

「何ですか、その言い方」

 

「別に」

 

 余接さんは無表情だった。

 実に腹立たしい無表情である。

 

 もっとも。

 父さんに似ていると言われること自体が、嫌なわけではない。

 

 ただ。

 同じだと思われるのは、少し違う。

 

 父さんならどうしたのか。

 それは、父さんにしか分からない。

 

 そして。

 俺がどうするかは、俺が決めることだ。

 

     *

 

「でも、水月くんらしいと思うよ」

 

 千石さんが言った。

 

「……何がです?」

 

「三崎さんの選択を尊重したこと」

 

「そうですかね」

 

「うん」

 

 千石さんは微笑んだ。

 

「水月くん、最初に後追い鬼と会ったときのこと、覚えてる?」

 

「……もちろんです」

 

「私が、できれば引き離してほしいってお願いしたよね」

 

「しましたね」

 

「でも、殴っちゃった」

 

「……その節は、どうも」

 

「責めてるわけじゃないよ」

 

 千石さんは首を横に振った。

 

「危ないと思ったから、そうしたんでしょう?」

 

「まあ、そうですね」

 

「うん。それが間違いだったとは思わない。でも、今回は違ったよね」

 

「……そうですね」

 

「殴らずに守る方法を、一緒に考えてくれた」

 

「千石さんが考えた方法ですけどね」

 

「でも、実際にやってくれたのは水月くんだよ」

 

 俺は黙った。

 

 確かに、今回は殴らなかった。

 殴らずに、後追い鬼を止めた。

 そして、三崎さんを守ることができた。

 

「水月くんは、何でも殴って解決したいわけじゃないんだと思う」

 

「……そうですか?」

 

「うん。今まで、それ以外の方法をあまり選んでこなかっただけなんじゃないかな」

 

「……なるほど」

 

「だから、今回みたいに別の方法があるなら、それを選べるんだよね」

 

 千石さんは、そう言って笑った。

 俺は少し考えた。

 

 殴ることは、得意だ。

 たぶん、普通の高校生よりは、ずっと。

 

 だが。

 得意だからといって、それしかできないわけではない。

 それは、確かにそうなのだろう。

 

「……ありがとうございます」

 

「どういたしまして」

 

「でも、次も殴らないとは限りませんよ」

 

「うん。そこは状況次第だね」

 

「珍しく理解が早いですね」

 

「水月くん」

 

「はい」

 

「そういうことを言うと、次のお願いが厳しくなるかもしれないよ?」

 

「……失言でした」

 

 千石さんが笑った。

 俺も、少しだけ笑った。

 余接さんは、相変わらず無表情だった。

 

「ところで、お兄ちゃん」

 

「はい?」

 

「お兄ちゃんは、人を助けることについて、どう考えてるの?」

 

「……また難しい質問ですね」

 

「簡単な質問だよ」

 

「簡単なら、自分で答えてください」

 

「僕は聞いてる側だからね」

 

 理不尽である。

 もっとも、余接さんの質問に答える義務はない。

 ないのだが。

 少しだけ、考えてみることにした。

 

「……助けてくれって言われたら、できる範囲では助けますよ」

 

「言われなかったら?」

 

「基本的には何もしません。面倒ですし」

 

「お父さんとは違うね」

 

「でしょうね。俺は父さんほど勤勉じゃないんで」

 

「勤勉というより、お節介だったと思うけど」

 

「それは息子の口からは言いづらいですね」

 

 千石さんが、小さく笑った。

 

「でも、今回の依頼人は、助けてほしいって言ったんだよね」

 

「はい」

 

「それで、お兄ちゃんは助けた」

 

「そうですね」

 

「でも、記憶は戻さなかった」

 

「本人が望まなかったんですから」

 

「……なるほど」

 

 余接さんは頷いた。

 

「お兄ちゃんは、相手が求めていることだけをするんだね」

 

「そういうわけでもないですよ」

 

「違うの?」

 

「求められたことが、できない場合もありますから」

 

「うん」

 

「それに、頼まれたことが全部正しいとも限りませんし」

 

「へえ」

 

「だから、何でも引き受けるわけじゃないです」

 

 俺は肩をすくめた。

 

「ただ、今回みたいに、本人が嫌だって言ってることを無理やりするつもりはありません」

 

「……なるほどね」

 

 余接さんは、少しだけ首を傾げた。

 

「お兄ちゃんは、そういう考えなんだね」

 

「今のところは」

 

「今のところ?」

 

「将来、考えが変わるかもしれませんし」

 

「へえ」

 

「高校生ですからね。人生経験が足りないんですよ」

 

「自覚があるんだ」

 

「ありますよ」

 

 俺は肩をすくめた。

 

「自覚がないよりは、ましでしょう」

 

 余接さんは、少しだけ首を傾げた。

 

「……そうかもしれないね」

 

     *

 

 母さんに、昔言われたことがある。

 

『助けたいと思うのは、あなたの勝手よ。でも、助けられたいかどうかは、相手が決めることだわ』

 

 その言葉は、今でも覚えている。

 

 誰かを助けるということは、その人の人生に関わるということだ。

 そして、関わった以上、何かが変わる。

 良い方向に変わるかもしれない。

 悪い方向に変わるかもしれない。

 どちらになるかは、分からない。

 

 だからといって、何もしない方がいいとは限らない。

 

 ただ。

 自分が正しいと思ったことを、相手にも正しいと思わせる必要はない。

 少なくとも、俺はそう考えている。

 

 父さんがどう考えているのかは、知らない。

 

 いや。

 たぶん、少しは知っている。

 

 それでも、同じようにはできない。

 父さんのように、誰かのために自分を傷つけ続けることも。

 誰かの人生を、勝手に背負い込むことも。

 俺には、できそうにない。

 

 もっとも、父さんだって、好き好んで傷ついていたわけではないのだろう。

 そこまでしなければ助けられないと思ったから、そうしたのかもしれない。

 あるいは、そうする以外の方法を知らなかったのかもしれない。

 それを、俺が簡単に否定するつもりはない。

 

 ただ。

 同じ方法を選ぶつもりもない。

 

 俺は俺のやり方で、誰かを助けたいと思う。

 助けを求められたときに。

 できる範囲で。

 できる方法で。

 そして、できれば。

 殴らずに。

 

 ……いや。

 最後の一つについては、まだ努力目標ということにしておこう。

 

     *

 

「さて」

 

 千石さんが立ち上がった。

 

「そろそろ作業に戻ろうか」

 

「了解です」

 

 俺はペンを手に取った。

 

 描きかけの背景。

 細かい線。

 まだ完成していない原稿。

 作業は、もう少し続きそうだった。

 

「……お兄ちゃん」

 

 余接さんが、こちらを見ていた。

 

「何です?」

 

「本当に、絵が上手なんだね」

 

「さっきも言いましたよね、それ」

 

「うん。でも、見てると不思議でさ」

 

「何がです?」

 

「怪異を殴る手と、漫画を描く手が、同じなんだなって」

 

「……まあ、そうですね」

 

 俺は自分の手を見た。

 指先には、少しだけインクがついている。

 怪異を殴ったときには、こんなものはつかない。

 代わりに、別のものがつくことはあるが。

 

「でも、別に不思議じゃないでしょう」

 

「そうかな」

 

「同じ手でも、何をするかは自分で決められるんですから」

 

 余接さんは、黙った。

 千石さんも、少しだけこちらを見た。

 俺はペンを動かし始めた。

 

 細い線を一本。

 その隣に、もう一本。

 線と線が重なり、形になる。

 形が重なり、景色になる。

 

 たった一本の線でも、引く場所を間違えれば、絵は変わってしまう。

 だから、慎重に描く。

 

 どこに線を引くか。

 どこには引かないか。

 それを決めるのは、描いている自分だ。

 

 ……もっとも。

 漫画の場合、最終的に決めるのは千石さんなのだが。

 アシスタントに、そこまでの決定権はない。

 

「水月くん、そこの線、もう少し細くできる?」

 

「はい」

 

 俺はペンを持ち直した。

 力を抜き、線を引く。

 今度は、ちょうどいい太さになった。

 

「うん。ありがとう」

 

「どういたしまして」

 

 千石さんが微笑んだ。

 余接さんは、何も言わなかった。

 俺は、そのまま作業を続けた。

 

     *

 

 今回の事件は、終わった。

 後追い鬼は消えた。

 三崎さんは、記憶を戻さないことを選んだ。

 忘れ形見は、まだ残っている。

 

 忘れたものは、戻らなかった。

 それでも、三崎さんは、これからも生きていく。

 忘れたまま。

 忘れたことを知ったまま。

 そして、いつか。

 もう一度、思い出したいと願う日が来るかもしれない。

 来ないかもしれない。

 

 それは、俺には分からない。

 千石さんにも、分からないだろう。

 もちろん、三崎さん本人にだって、今は分からないはずだ。

 

 ただ。

 そのときに、どうするか。

 それを決めるのは、三崎さん自身だ。

 俺たちではない。

 

 今回、俺たちがしたことは、三崎さんの代わりに答えを出すことではなかった。

 答えを出すための時間を、少しだけ取り戻した。

 それだけだ。

 

 それで十分なのかどうかは、分からない。

 もっとできることがあったのかもしれない。

 もっといい方法があったのかもしれない。

 

 それでも。

 少なくとも、俺は今回の結果を後悔していない。

 

 父さんなら、違う答えを出したかもしれない。

 母さんなら、また別のことを言ったかもしれない。

 姉ちゃんなら、そもそも話の途中でドーナツを要求するかもしれない。

 

 それでも。

 俺は、俺の答えを出す。

 

 父親のようには、なれない。

 なるつもりもない。

 

 ただ。

 父さんの息子であることまで、否定するつもりはなかった。

 それもまた、俺の一部なのだから。

 

 忘れることも。

 覚えていることも。

 選ぶことも。

 選ばないことも。

 全部ひっくるめて、人間なのだろう。

 

 ……まあ。

 俺が完全な人間かどうかについては、少々議論の余地があるのだが。

 それは、また別の話である。

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