閑話① 人間強度
人間関係というものは、面倒くさい。
誤解しないでほしいのだが、俺は別に人間嫌いではない。
友達だっているし、クラスメイトとも普通に話す。必要があれば協力もするし、頼まれた仕事はきちんとこなす。
ただ、積極的に人間関係を増やしたいとは思わないだけだ。
人間関係が増えるということは、義理が増えるということである。
義理が増えれば、頼み事が増える。
頼み事が増えれば、断る手間が増える。
つまり、人間関係とは、増やせば増やすほど維持費がかかるものなのだ。
もちろん、友人を金銭的負債と同列に扱うつもりはない。
ただし、我が家の姉に限って言えば、実際に金銭的負債である。
主にドーナツ代として。
「阿良々木先輩」
そんなことを考えていると、背後から声をかけられた。
振り返る。
忍野扇がいた。
しまった。
人間関係の維持費について考えていたら、維持するだけで面倒な人間が現れてしまった。
「こんにちは、先輩」
「こんにちは。じゃあな」
「挨拶が早いですね。別れの挨拶まで一息じゃないですか」
「効率的だろ」
「効率を追求するなら、最初から挨拶しない方がよかったのでは?」
「確かに」
「納得しないでくださいよ」
扇はにこりと笑った。
相変わらず、何を考えているのか分からない顔だった。
「ところで先輩。人間強度という言葉をご存じですか?」
「人間強度?」
「ええ。人間としての強さです」
「腕力とか?」
「違います」
「精神力?」
「それも少し違います」
「じゃあ、何だよ」
「友達を作ると下がるものです」
「…………」
俺は扇を見た。
扇は笑っていた。
「何それ」
「人間強度です」
「いや、説明を繰り返すな。何で友達を作ると下がるんだよ」
「友達がいると、人間は弱くなるからですよ」
「どういう理屈?」
「誰かを頼ってしまうでしょう? 誰かに甘えてしまうでしょう? 一人で生きられなくなるでしょう?」
「……なるほど」
「おや。納得しましたか?」
「いや、考えてた」
「何を?」
「その理屈だと、臥煙さんってどのくらい弱いんだろうなって」
扇は一瞬だけ目を丸くした。
それから、ひどく楽しそうに笑った。
「……臥煙伊豆湖さんですか?」
「あの人、知り合いがやたら多いだろ」
「そうですね」
「怪異の専門家から警察関係者まで、どこにでも顔が利くし」
「ええ」
「友達かどうかは知らないけど、あれだけ人間関係があったら、人間強度なんて残ってないんじゃないか?」
「なるほど。そういう解釈もあるんですね」
「下手すると絹ごし豆腐だぞ」
「絹ごし豆腐」
「箸で持ち上げたら崩れるくらい」
「随分と柔らかいですね」
「それなのに、あの人は俺の知る限り、相当厄介な人間なんだよな」
臥煙伊豆湖。
何でも知っているお姉さん。
あの人を弱い人間だと言い切れる人間がいるなら、ぜひ紹介してほしい。
その勇気を称えたい。
俺は遠くから見守るけど。
「それにさ」
「はい?」
「友達がいると弱くなるって、そもそもおかしくないか?」
「どうしてです?」
「助けてもらえるなら、その分できることが増えるだろ」
「一人でできることは減るかもしれませんよ」
「別に減らないだろ。友達ができたからって、昨日までできた逆上がりができなくなるわけじゃないんだし」
「例えが小学生ですね」
「高校生が小学生を馬鹿にするなよ」
「僕は馬鹿にしていませんよ」
「今しただろ」
扇は肩をすくめた。
「ですが先輩。あなたは友達を増やしたがらないと聞きました」
「誰から聞いたんだよ」
「風の噂です」
「その風、個人情報を運びすぎだろ」
「友達を作ると弱くなるという考え方に、共感する部分があるんじゃありませんか?」
「全然」
「おや」
「俺が人間関係を増やしたくないのは、単に面倒だからだよ」
「面倒?」
「人付き合いが増えると、付き合いで出かけたり、頼み事をされたりするだろ。仲良くなれば、困ってるときに無視もしづらいし」
「つまり、他人に関わることで自由が減ると」
「まあ、そういうこと」
「それは、人間強度が下がるという話と似ていませんか?」
「似てないだろ」
「そうでしょうか」
「俺は弱くなりたくないから友達を作らないんじゃない。面倒を増やしたくないから、無闇に増やさないだけだ」
友達ができること自体は、悪いことではない。
楽しいことだってある。
困ったときに助けてもらえるのはありがたいし、逆に助けることだってある。
ただ、そういう関係を無制限に増やすほど、俺は社交的でも勤勉でもない。
「そもそもさ」
「はい」
「友達を作らない理由に、人間強度なんて大層な名前をつける必要あるか?」
「……と、言いますと?」
「友達がいないだけなら、別にいないでいいじゃん」
「…………」
「それを『俺は人間としての強さを保つために孤独を選んでいる』とか言い出したら、何かちょっと……」
「ちょっと?」
「格好つけすぎじゃないか?」
扇は黙った。
珍しい。
こいつが黙るなんて、明日は雪でも降るのだろうか。
もっとも、その沈黙は長く続かなかった。
扇は口元に手を当て、何かを堪えるように笑っていた。
……何だろう。
俺は別に、面白いことを言ったつもりはないのだが。
「というか、友達がいないことに理由をつけたいだけに聞こえる」
「……なるほど」
「誰が考えたんだよ、そんな理屈」
扇は、ゆっくりと笑った。
「さあ。誰でしょうね」
「知らないのかよ」
「でも、先輩ならきっと、その人と話が合うと思いますよ」
「絶対合わないだろ」
「そうですか?」
「そんな面倒くさい理屈を考える奴とは、友達になりたくない」
「それは残念です」
扇は実に楽しそうだった。
何が楽しいのかは分からない。
いや。
俺が知らない何かを知っていて、それを教えずに笑っている。
そういう顔だった。
「それでは先輩。また明日」
「明日は会わなくていいぞ」
「冷たいですね」
「人間強度が下がるからな」
「ふふっ。気に入ったんじゃないですか」
「皮肉だよ」
扇は笑いながら去っていった。
俺はその背中を見送る。
人間強度。
実にくだらない理屈だった。
少なくとも、俺はそう思った。
まさか、その日の夕食で、あんなことになるとは知らずに。
*
我が家の夕食は、基本的に賑やかだ。
父さんは仕事から帰ってくると、今日あったことを話したがる。
母さんはそれを適当にあしらいながら、必要なところだけ聞いている。
姉ちゃんは食卓でドーナツを食べようとして、母さんに止められる。
そして俺は、できるだけ平穏に夕食を終えたいと思っている。
この願いが叶ったことは、あまりない。
「水月。今日は学校で何かあったか?」
父さんが聞いてきた。
「別に」
「別にってことはないだろ。友達と何か話したとか」
「話したけど」
「どんな話?」
「人間強度」
父さんの箸が止まった。
ほんの一瞬だった。
だが、止まった。
「……何?」
「人間強度」
「……へえ」
父さんは不自然な笑顔を浮かべた。
どうした。
何で急に笑顔が下手になった。
「懐かしい言葉ね」
母さんが言った。
父さんの肩が跳ねた。
「ひ、ひたぎ?」
「どうしたの、暦。何か心当たりでもあるの?」
「いや、別に……」
「そう。ならよかったわ」
よくなさそうだった。
母さんの声が、妙に優しい。
こういうときの母さんは、だいたい何かを企んでいる。
「水月。その人間強度というのは、どういう話だったの?」
「友達を作ると人間として弱くなるんだってさ」
父さんが咳き込んだ。
「父さん?」
「いや、何でもない!」
「大丈夫?」
「大丈夫だ! 続けてくれ!」
何でそんなに必死なんだ。
「友達がいると誰かを頼るようになるから、一人で生きる強さが失われる、みたいな理屈らしい」
「……そうか」
「馬鹿馬鹿しいと思わない?」
父さんが固まった。
母さんは味噌汁を一口飲んだ。
「そうね。随分と若々しい考え方だと思うわ」
「若々しいというか、痛々しいというか」
「水月!」
父さんが叫んだ。
「何?」
「いや、その……人の考え方を、そんなふうに言うものじゃないぞ」
「え、でも父さんだって変だと思うだろ?」
「それは……」
父さんは母さんを見た。
母さんは微笑んでいた。
「どうしたの、暦。あなたの意見を聞かれているのよ」
「……そうだな」
「そうよね」
「……友達を作ることが、人間としての弱さにつながるとは限らないと思う」
「随分と慎重な言い方ね」
「ひたぎ!」
何だろう。
父さんが追い詰められている。
しかし、誰に追い詰められているのか分からない。
母さんは普通に会話しているだけだ。
少なくとも、表面上は。
「でもさ」
俺は続けた。
「一番おかしいのは、友達がいないことに理由をつけてるみたいなところだと思うんだよ」
「…………」
「友達がいないなら、いないでいいじゃん。わざわざ『人間としての強さを保つため』とか言わなくても」
父さんの表情が消えた。
姉ちゃんが、口元を押さえた。
肩が震えている。
一方、母さんは何事もなかったかのように味噌汁を飲んでいた。
ただ、その口元がほんの少しだけ緩んでいるのを、俺は見逃さなかった。
……何だろう。
俺の知らないところで、何か面白いことが起きているらしい。
「忍」
父さんが低い声で言った。
「何じゃ、お前様よ」
「笑うな」
「笑ってなどおらぬぞ」
「笑ってるだろ!」
「くくっ……いや、失敬」
完全に笑っていた。
「でも、誰が考えたんだろうな」
俺は首を傾げた。
「相当なひねくれ者だよな」
「水月」
母さんが言った。
「その考え方をしていた人は、もしかすると、とても繊細だったのかもしれないわ」
「繊細?」
「そう。人とのつながりで傷つくことが怖かったのかもしれないし、誰かを失うことが怖かったのかもしれない」
「……なるほど」
それなら、少しは理解できる。
友達ができれば、失う可能性も生まれる。
誰かを大切に思えば、その人が傷ついたとき、自分も傷つく。
それは確かに、弱くなることなのかもしれない。
「でも」
母さんは続けた。
「だからといって、友達を作らない自分を正当化するために、もっともらしい理屈を並べるのは、少し格好悪いわね」
「ひたぎぃ!」
父さんが悲鳴を上げた。
俺は驚いた。
「父さん、どうしたの?」
「何でもない!」
「何でもない人間の声量じゃなかったけど」
「本当に何でもない!」
姉ちゃんがとうとう吹き出した。
「かっかっかっ! いやはや、愉快じゃのう!」
「忍! お前も知ってるだろ!」
「何をじゃ?」
「何をって……!」
「わしにはさっぱり分からぬ。のう、水月」
「俺も分からん」
「そうじゃろう、そうじゃろう」
姉ちゃんは実に楽しそうだった。
俺は少し考えた。
ここまで露骨に動揺されれば、普通は気づくのかもしれない。
しかし、まさか自分の父親が「人間強度」などという単語を真顔で使っていたとは、息子として想像したくなかったのである。
いや。
正確には、想像できなかった。
あの父さんが。
友達を作ると弱くなる、などと。
……待てよ。
そう考えると、逆にあり得る気がしてきた。
俺は、ある可能性に思い至った。
「……父さん」
「な、何だ?」
「もしかして」
「…………」
「その人間強度って、父さんの知り合いが言ってたの?」
父さんは沈黙した。
母さんが微笑んだ。
「知り合いどころじゃないわよ」
「ひたぎ!」
「とても身近な人よ」
「やめてくれ!」
俺は父さんを見た。
父さんは俺から目を逸らした。
まさか。
「……父さん?」
「…………」
「父さんが言ってたの?」
「…………」
「友達を作ると人間強度が下がるって?」
長い沈黙。
やがて父さんは、小さく頷いた。
「……昔な」
俺は黙った。
父さんも黙った。
母さんは微笑んでいた。
姉ちゃんは笑っていた。
「…………」
「…………」
「……父さん」
「何だ」
「友達、いなかったの?」
「いたよ!」
即答だった。
「いたんだよ! ただ、あの頃は色々と考えていてだな!」
「じゃあ何でそんなこと言ってたんだよ」
「若かったんだよ!」
「今も若いだろ」
「そういう意味じゃなくて!」
父さんは頭を抱えた。
母さんは実に満足そうだった。
「でも暦。あなた、昔は本当にそう言っていたじゃない」
「もういいだろ、その話は!」
「友達を作ると人間強度が下がる」
「やめろ!」
「だから友達はいらない」
「ひたぎ!」
「素敵な思想ね」
「絶対そう思ってないだろ!」
俺は父さんを見た。
この人は、怪異に関わる仕事をしている。
人を助けるために無茶をする。
母さんに怒られる。
姉ちゃんにからかわれる。
俺に小言を言う。
そんな父さんにも、若い頃があったのだ。
いや、当たり前なのだが。
その若い頃が、思った以上に恥ずかしい。
「……父さん」
「もう何も言うな、水月」
「一つだけ」
「何だよ」
「今は友達、いるよな?」
父さんは顔を上げた。
「……いるよ」
「じゃあ、人間強度は下がったのか?」
父さんは少し考えた。
さっきまでの慌てた様子が、少しだけ消えた。
「……どうだろうな」
「分からないの?」
「昔より弱くなったところは、あると思う」
意外な答えだった。
「お前や、ひたぎや、忍がいるからな」
「わしもか」
「当たり前だろ」
父さんは笑った。
「大切なものが増えれば、失うのが怖くなる。誰かが傷つけば、自分も傷つく。そういう意味では、確かに弱くなったのかもしれない」
「……ふうん」
「でもな」
父さんは続けた。
「その代わり、一人じゃできなかったことも、たくさんできるようになった」
母さんが静かに聞いていた。
「だから、今はあの頃の考え方が正しかったとは思わない」
「……なるほど」
少しだけ、納得した。
人間関係は面倒だ。
増えれば増えるほど、責任も増える。
だけど、その分だけ、できることも増える。
どちらが正しいという話ではないのだろう。
少なくとも、俺にとっては。
「まあ、それでも」
俺は言った。
「人間強度って名前は、やっぱりちょっと格好つけすぎだと思うけど」
「水月!」
父さんが再び頭を抱えた。
姉ちゃんが笑い転げた。
母さんはとうとう声を出して笑った。
「ふふっ……そうね。そこは否定できないわ」
「ひたぎまで!」
食卓が笑い声に包まれる。
父さんだけが笑っていなかった。
いや。
しばらくすると、父さんも苦笑いを浮かべた。
「……まったく。誰に似たんだ、お前は」
「父さんじゃないことを祈ってる」
「ひどいな!」
「母さんに似たんじゃない?」
「それはそれで納得できるのが腹立つ!」
姉ちゃんがドーナツを取り出した。
「ところで水月」
「何?」
「わしは、お前との関係で人間強度が下がったとは思わぬぞ」
「そうなの?」
「うむ。むしろ、毎日が楽しくなった」
少し意外だった。
姉ちゃんが、そんなことを言うとは。
「……そっか」
「じゃから、明日はドーナツを買ってこい」
「前言撤回していい?」
「駄目じゃ」
「俺の財布の強度は確実に下がってるんだけど」
「財布強度じゃの」
「新しい概念を作るな」
姉ちゃんは満足そうに笑った。
父さんも笑った。
母さんは呆れたように、それでも楽しそうに食卓を見渡していた。
俺は思う。
人間強度が下がるのかどうかは知らない。
だが、人間関係が増えることで、面倒事が増えるのは確かだ。
そして、その面倒事が、必ずしも嫌なものばかりではないことも。
まあ。
だからといって、積極的に増やそうとは思わないけれど。
少なくとも、今の俺には。
この食卓だけでも、十分に賑やかすぎるのだから。