カフェの屋外席で、眉目秀麗な男女が向かい合って話していた。片や暗いジャケットをシャツの上に羽織り、片やシンプルな無地の、ウェディングドレスを思わせるワンピース。その裾を、風が支えるように揺らしている。
一つ話題が終わったのか、二人は笑い合い、男が新しく話を切り出した。
笑いの余韻が風に溶けていくのを待ってから、男はカップをソーサーに戻した。陶器の触れ合う小さな音が、通りのざわめきの中でやけに澄んで聞こえる。
「ところで」
切り出した声は、さっきまでの軽さを少しだけ手放していた。女が顔を上げる。無地のワンピースの裾が風にさらわれ、白い波のように揺れた。彼女はそれを押さえようともせず、ただ静かに男の目を見返す。
「前から訊こうと思っていたことがあるんだ。笑わずに聞いてくれるか」
「内容によるわ」
女は口元だけで笑って、頬にかかった髪を指で払った。男はジャケットの襟を無意識に正し、一拍置いてから言葉を選ぶように続けた。
「……君は、あの日のことをどこまで覚えている?」
風がふっと止んだ。テーブルの上のナプキンが、ぱたりと動きを失う。
「所で、君は言っていたよね。」
「なあに?」
「きっと、永遠を生きるカエルは寂しい事だろうと、けれど思うんだよ、だから世界は鶏を生み出したんだとさ、その鶏は朝を告げ、太陽として輝いている、厄災の杖でも傷つける事が精一杯の太陽をね?」
女は小さく首を傾げた。風が戻り、ワンピースの白がまた波打つ。
「……そんなこと、言ったかしら」
否定ではなかった。彼女の指先がカップの縁をなぞる。冷めかけた紅茶の水面に、空の色が揺れている。
「言ったよ。確かに言った」
男は目を細めた。笑っているようにも、遠くを見ているようにも見える。
「永遠を生きるカエルは、きっと寂しいだろうって。同じ池、同じ蓮の葉、同じ夜の合唱。季節が巡っても、自分だけが終わらない。……だから世界は、終わりを告げる者じゃなく、始まりを告げる者を作ったんだと思う。それが鶏だ」
「朝を呼ぶ鳥ね」
「そう。鳴けば夜が明ける。夜が明ければ、カエルの長い一日にも区切りがつく。『また明日』と言える相手がいるだけで、永遠は少しだけ優しくなる」
男はテーブルに片肘をつき、声を落とした。
「その鶏は、いつの間にか太陽そのものになった。誰かが傷つけようとしても、厄災の杖ですら、掠り傷を負わせるのが精一杯の太陽にね」
女はしばらく黙っていた。通りを自転車が過ぎ、ベルが一度だけ鳴る。それが合図だったかのように、彼女はふっと息をついて、静かに微笑んだ。
「ねえ。その話をするってことは、あなたは今、カエルの側なの? それとも」
指先がゆっくりと、男の胸元、ジャケットの合わせ目を指す。
「鶏を探しているの?」
男は答えず、ただカップを持ち上げた。けれどその目だけは、彼女から一度も逸れなかった。
「どうだろ、けれどさ今君がタンと振り下ろしたナイフはある種答えと言えるんじゃ無いかな?」
「えぇ、そうかもけれど、避けれたのに、みすみす手の風通しを良くした貴方にも責任はあってよ?」
「酷いなぁ、私の流れる血を見ても何も思わないの?」
「えぇ全く」
「はは、同じだ」
女はナイフの柄を握ったまま、テーブルに縫い止められた男の手を見下ろしていた。白い皿の縁に、赤い筋がゆっくりと伸びていく。隣の席の客は新聞から顔を上げない。まるでこの屋外席だけが、別の時間の中にあるようだった。
「はは、同じだ」
男はもう一度そう言って、刃を貫いたままの手をひらりと持ち上げようとし、やめた。肉が刃を咥えている。痛みよりも、彼女がどんな顔をするかに興味があるという目だった。
「同じって、何がかしら」
「君も、私も。血の色を見ても何も感じない。……いや、感じないふりが上手い、と言うべきかな」
「ふりじゃないわ」
女はナイフから手を離さず、ほんの少しだけ体重をかけた。男の眉がぴくりと動く。それでも口元の笑みは崩れない。
「ほら、答えが出た。永遠を生きるカエルは、傷つかないんじゃない。傷ついても、傷ついたと思えないんだ」
「それが寂しいのよね、あなたの言う」
「そう。だから鶏が要る」
男は無事な方の手でカップを取り、冷めた紅茶を一口飲んだ。手の甲から伝った血が、テーブルクロスに小さな花を咲かせる。
「朝を告げて、太陽になって、厄災の杖ですら掠り傷が精一杯の存在。……君のナイフが私の手を貫いた今、確かめたくなったんだ。君は鶏か、それともただの、よく切れる刃か」
女は答えなかった。代わりに、ゆっくりとナイフを引き抜いた。濡れた刃が陽光を弾き、一瞬だけ、彼女の顔に白い光の線を引く。
「次は、避けないで」
「避けたら、君は笑ってくれないだろう?」
風が吹いた。ワンピースの白がまた翻り、その裾に、一滴だけ赤が落ちた。
「ほら、けれども君にも血が流れてる涙は流れなくてもね」
「ふふ、お揃いね、左右逆だからペアルックじゃないのが残念ね、けれど見て、ほら私の手から溢れるルビーの様な鉄水を白い布を新鮮な赤に染めていく、時間が黒く濁るまで、」
「仕方がないね、酸素が逃げ血は色を失う、永遠なんて碌でもない」
「ふふ、違いないわね、ほら貴方に傷を付けたナイフが私の体内に、あなたの血が私に交じってるの」
「君は寝取られ趣味でもあるのかい?その理論で行くならば、私は鉄のナイフと浮気してるじゃないか」
「浮気、いいじゃない。鉄は私より先に、あなたの中を知ったのだもの」
女は左の掌を持ち上げた。男の傷と鏡写しの位置に、同じ穴が空いている。そこから溢れた赤が、手首を伝ってワンピースの袖口を染めていく。白が赤を吸い、赤は端から黒く濁っていった。彼女はそれを、花瓶の水位でも眺めるように見つめている。
「それに、あなたの血が混じっているなら、私は今、二人分の永遠を持っているわけでしょう? 重たいわね」
「重い方が、地に足がつくよ。君は放っておくと、風に乗ってどこかへ行ってしまいそうだ」
「あら、ひどい。今日はここに座って、あなたの手を刺しているのに」
「それが嬉しいんだ」
男は無事な方の手でナプキンを取り、彼女の掌にそっと巻きつけた。看病というより、贈り物を包むような手つきだった。白い布に、すぐ赤い丸が滲む。
「……ねえ。私たち、いつまでこれを続けるのかしら」
「飽きるまで、と言いたいところだが」
男は自分の手に刺さっていた跡を、親指でなぞった。血はもう止まりかけている。傷口の縁が、ゆっくりと、嫌になるほど丁寧に塞がり始めていた。
「困ったことに、傷のほうが先に飽きるらしい」
女も自分の掌を見た。ナプキンの下で、同じことが起きている。彼女は小さく息を吐き、それから、本当におかしそうに笑った。
「ほんと、碌でもないわね。永遠って」
「碌でもないが、おかげで君に何度でも刺される」
「次は、もう少し浅くするわ」
「いや、深くていい。浅いと、痛くないふりが下手になる」
二人の笑い声に、遠くで鳴いた鶏の声が重なった気がした。こんな街中で、こんな昼下がりに。男と女は同時に口を閉じ、同時に、音のした方を振り向いた。
「このまま西風の根元でも追ってみる?」
「いや、お断りだ西風の春風よりも、生ぬるく微妙に寒い風下の方がマシだ」
「きっと根元より先には巨人の足跡しか無いもの、ソレが賢明かしらね」
男は鶏の声がした方角から、ゆっくりと視線を外した。ナプキンを巻いた女の手を取り、立ち上がる気配のない椅子の背にもたれ直す。
「追えば、何か見つかるかもしれないわよ」
「見つかるさ。見つかるからお断りなんだ」
風は西から吹いていた。女のワンピースの裾が東へなびき、男のジャケットの襟だけが逆らうようにめくれる。春風のような暖かさはどこにもない。街路樹の影を抜けてきた空気は生ぬるく、そのくせ首筋にだけ、薄い冷たさを残していく。
「根元まで行った先に、巨人の足跡しかないとして」
男はカップの底に残った紅茶を揺らした。
「その足跡は、きっと一つじゃない。踏み出した跡と、踏み戻した跡が重なっている。巨人も迷ったんだよ。進むか、戻るかを」
「戻った巨人の足跡に、私たちが足を入れたら?」
「靴が泥だらけになる。それだけで済めば儲けものだ」
女はくすりと笑って、ナプキンの下の掌を握ったり開いたりした。傷はもう塞がっている。それでも布を外さないのは、彼がくれたものだからか、ただの気まぐれか、本人にもたぶん分かっていない。
「風下って、案外いいわよね。厄災の匂いも、朝の眩しさも、どちらも少し遅れて届くから」
「遅れて届くものは、たいてい薄まっている。薄まった世界で、濃い紅茶を飲む。永遠を生きるには、そのくらいの怠け方がちょうどいい」
「怠け者のカエルね」
「怠け者のカエルと、よく切れる刃だ」
男がそう言って片手を挙げると、店の奥から給仕が歩いてきた。彼は血の滲んだクロスにも、女の袖口の赤黒い染みにも、まるで気づかない顔で、微笑んで立ち止まる。
「同じものを、もう一杯ずつ。それと」
男は一拍置いて、通りの向こうをちらりと見た。
「卵料理があれば、一つ。……朝の分を、先に食べておきたい気分でね」
女が、堪えきれずに吹き出した。
「あら、警察官が来てるわよ、誰か通報したのね」
「厄介極まるな、この程度のじゃれ合いで、守護者を呼びつけるなんて」
「仕方のないことよ、血がいくらでも流れ続ける、私とは違うのよ、死を恐れ死後を恐れる彼らにとってはこの行為は、カップルの過激な修羅場かしら?」
「はあ変ないちゃいちゃは家でお願いします」
警官は手帳を開きかけて、そのまま閉じた。テーブルの血の花も、女の袖口の赤黒い染みも、ナプキンに滲んだ丸も、一通り視界に入れたはずなのに、彼の目は二人の顔だけを見ている。眉目秀麗な男女が、昼下がりのカフェで、どう見ても痴話喧嘩の延長をしている。それ以上の想像を、彼の常識が拒んでいた。
「通報があったんです。血が出てる人がいる、と」
「ええ、私です」
男が無事な方の手を、気軽に挙げた。
「手を滑らせましてね。彼女のナイフさばきがあまりに鮮やかで、つい見惚れて」
「見惚れて、で刺さらないでしょう、普通」
「普通はね」
女が悪びれもせず微笑んだ。ナプキンの巻かれた手を、わざとらしく胸の前で庇ってみせる。
「ごめんなさい、お巡りさん。私が悪いんです。彼が浮気をしたものですから」
「浮気」
「鉄のナイフと」
警官は一瞬、本当に困った顔をした。男が堪えきれず咳払いに見せかけて笑い、女は真面目な顔のまま続ける。
「冗談です。もうお互い、手当は済んでいますの」
「……済んでるなら、いいんですが。救急は」
「不要です」
二人の声が重なった。警官はもう一度だけ、男の手のナプキンを見る。その下に傷があるはずなのに、男は指を普通に曲げ伸ばししている。違和感が喉元までせり上がり、そして、風に流されて消えた。生ぬるい風下の空気が、彼の疑問を少しずつ薄めていく。
「あの。本当に、ほどほどにしてください。ここは公共の場ですから」
「ええ、次は家でやります」
「いや、家でもやらないでください」
警官は溜息をつき、軽く敬礼のような会釈をして踵を返した。その背中が人混みに紛れてから、女がぽつりと言う。
「守護者って、あんなものかしら」
「彼らは彼らで、よく働いているよ。見たくないものは、見ないで済むようにできている。それが優しさなのか、怠慢なのかは、君の判断に任せるが」
「どちらでもあるのでしょうね」
運ばれてきた二杯目の紅茶から、湯気が立ち上る。給仕が卵料理の皿を置いて去り、男はフォークを取ってから、ふと動きを止めた。
遠くで、また鶏が鳴いた。さっきより、少しだけ近い。
「じゃあ帰りましょう」
「そうだね。冷めないうちに、これだけ食べさせてくれ」
男は卵料理を一口だけ口に運び、満足そうに目を細めてフォークを置いた。女はもう立ち上がっていて、ワンピースの裾を指先で軽く払っている。赤黒い染みは、歩けば誰かの目に留まるだろうに、彼女は少しも気にしていなかった。
会計は男が済ませた。血の花が咲いたテーブルクロスを見て、給仕は一瞬だけ首を傾げ、それから何も見なかったような顔で「ありがとうございました」と頭を下げる。
通りに出ると、風はやはり西から吹いていた。二人は自然とその反対、風下のほうへ歩き出す。
「ねえ」
「なんだい」
「さっきの鶏、ついてきてるわよ」
男は振り返らなかった。ただ、歩幅をほんの少しだけ緩める。背後の街路樹の根元で、乾いた爪が石畳を叩く音が、一定の間隔で続いていた。立ち止まれば止まり、歩き出せば歩き出す。距離は、近づきもせず、離れもしない。
「家に着くまで、放っておこう」
「入れてあげるの?」
「それは、鳴き方次第かな」
男は無事な方の手を差し出した。女は一瞬だけ迷うようにそれを見て、ナプキンの巻かれた手を重ねる。同じ位置に、同じ傷の跡。左右は逆でも、重ねれば穴と穴が、ぴたりと合う。
「……あら、本当にペアルックね」
「重ねないと分からない、というのが奥ゆかしいだろう?」
二人の影が長く伸びる。その影の少し後ろに、小さな、もう一つの影が混じっていた。