紅茶の香りの中に、安物のブランデーの芳醇で少しばかり刺々しい匂いが混じり合った瞬間、部屋の隅でキーボードを叩いていたワタリの眉がわずかにピクリと動いた。
「……また入れていらっしゃるのですか、ヤン顧問。アルコールは思考の精度を下げると、竜崎が申しておりましたが」
「やれやれ、これは紅茶の作法というやつだよ、ワタリさん。もっとも、私の養い子が淹れてくれる一杯には遠く及ばないけれどね」
都内のホテルの一室。遮光カーテンで外界の光を完全に遮断したその部屋には、青白いモニターの群れがいくつも浮かび上がっていた。夜神総一郎ら刑事たちが詰める正規の日本捜査本部とは別に、Lが極秘裏に設けた独立セーフハウス――後に『キラ事件』と呼ばれることになる未曾有の戦いの、真の最前線である。
ソファに深く、というより今にも滑り落ちそうなほどだらしなく背を預けている黒髪の青年は、ボサボサの髪をぽりぽりと掻きながら、湯気の立つティーカップを口に運んだ。インターポールの歴史編纂室とかいう誰も存在を知らないような閑職から、手違いとしか思えない人事異動で出向してきた男、ヤン・ウェンリー。
なぜ自分が宇宙暦八〇〇年代の激動の銀河から、西暦二〇〇〇年代の極東の島国に放り込まれているのか――その理由について考えるのを、ヤンは三日前に放棄していた。どれだけ思考を巡らせても、手元に材料がない以上は仮説すら立たない。ならば昼寝と読書、そして時折の給料泥棒に精を出すのが、善良なる小市民の務めというものだ。
だが、目の前に座る「世界一の名探偵」は、どうにも彼を放っておいてはくれないらしかった。
「ヤンさん。今の私の仮説、聞いていましたか?」
モニターの光を浴びて、目の下に濃い隈を作った青年――Lが、裸足の膝を抱えたまま首だけをぐるりと回した。その指先は角砂糖を三つまとめてつまんでおり、視線は鋭利な刃物のようにヤンの双眸を射抜いている。
「ああ、聞いていたとも。先週起きたFBI捜査官十二名の殉職から、キラがすでに日本の警察内部、それも極秘情報にアクセスできる人間に接触していたという推論だろう? 実に理に適っているよ。九十点といったところかな」
「……残りの十点は、どこで減点されたのでしょう」
Lの声の温度がわずかに下がった。自分の推理の完璧さには絶対の自信を持っている彼にとって、この昼行燈のような男からの「減点」は、プライドを逆撫でする以外の何物でもなかった。
ヤンはティーカップをソーサーに置くと、ため息まじりに足を組み直した。
「君はキラを『極めて優秀な頭脳を持つ犯罪者』としてプロファイリングしている。だから、彼がFBI捜査官を排除したのは『自己防衛のため』だと結論づけた。違うかい?」
「ええ。実際、捜査官たちは身元を割られ、全員が心臓麻痺で死亡しています。キラが追い詰められ、邪魔者を消したと見るのが自然です」
「そこが減点対象さ、L」
ヤンは人差し指を一本立てて、まるで士官学校の生徒に講義でもするかのように、ひどく億劫そうな口調で言った。
「歴史を紐解けば、絶対的な暴力を手に入れた独裁者や狂信者が最初にやることは決まっている。防衛じゃない、領域の誇示と挑発だ。考えてもみたまえ。キラの殺しの手段は、これまでのデータからして物理的な接触を一切必要としない。顔と名前さえ分かれば、地球の裏側からでも人を殺せる魔法のような力だ。そんな圧倒的な非対称兵器を持っている人間が、たかが十数人の尾行に怯えて防衛戦を張ると思うかい?」
Lの親指を噛む動きがピタリと止まった。
「……では、なぜキラはFBIを殺したのですか。放っておけば、いずれ捜査官たちはシロだと判断して引き上げたはずなのに」
「簡単なことさ。君を引っ張り出すためだよ」
部屋の空気が凍りついた。ワタリの手が止まり、Lの大きく見開かれた黒い瞳が、ヤンの緩みきった顔を凝視する。
「キラにとって、FBIなんてのは盤上の歩兵ですらない。彼はね、自分の力を証明するための『対等な敵』と、その勝利を喝采する『観客』を求めているんだ。かつて私がいた世界の言葉で言えば、ルドルフ・フォン・ゴールデンバウムのような選民思想の塊だね。自分が新世界の神であることを実感するためには、旧世界の象徴である『L』という最大の知性を、正面から叩き潰す必要がある。だから彼はわざと過剰な反撃をして見せた。『私はここにいる、さあもっと近くに寄ってこい』とね」
「……バカな」
Lは思わず呟いていた。
「わざわざ自分の包囲網を狭めるような真似を、あのキラがするとでも? 関東地区の警察関係者に情報が漏れていると私に気づかせることは、キラにとっても致命的なリスクのはずです」
「戦術的にはリスクだが、戦略的には唯一の必勝法だからさ」
ヤンはブランデーの瓶を手に取り、再び紅茶に注ぎ足した。琥珀色の液体が揺れる。
「いいかい、L。今の君とキラの戦いは、互いに姿の見えない暗闇の中での狙撃戦だ。だが、条件は圧倒的に君が不利だ。キラは君の『顔と名前』さえ知れば一瞬で勝てるが、君はキラの『顔と名前』を知ったところで、彼がこの超常的な殺人をどうやって行っているのかという物証を押さえなければ、法廷に引きずり出すことすらできない。つまり、勝利条件のハードルが最初から違うんだよ」
「……それは、分かっています」
「ならば、キラの立場になって考えてごらん。日本の警察データベースを覗ける立場にいながら、君の顔と名前だけはどこにも載っていない。どれだけ待っても、パソコンの画面の向こうにいる君を殺すことはできない。だったらどうする? 答えは一つだ。自分への疑惑をわざと適切な濃度で撒き散らし、君自身が直接、彼を調査するために目の前に現れるように誘導する。あるいは、彼自身が『優秀な協力者』として、この捜査本部に招き入れられるように仕向けるんだ」
背筋を、冷たい電流が駆け抜けたような感覚にLは襲われた。
これまでLは、自分が狩人であり、キラは巧妙に隠れる獲物だと認識していた。カメラを仕掛け、盗聴器を置き、対象を絞り込んでいくプロセスは、すべてLの主導権のもとで行われているはずだった。
だが、このヤン・ウェンリーという男が提示した絵図は、まったく逆だった。
網を張っているのはキラであり、Lは自らの推理力というエサに釣られて、一歩ずつ断頭台へと歩を進めているに過ぎないというのだ。
「……証拠は、あるのですか」
Lの声は、自分でも驚くほどかすれていた。
「証拠なんてものはないさ。私は探偵じゃなくて歴史家だからね。ただ、人間の行動様式というのは何千年経っても驚くほど変わらないものだよ。特に、自分の知性に絶対の自信を持っている若者というのはね」
ヤンはテーブルの上に無造作に放り出されていた捜査資料の束――警察関係者の家族リスト――から、迷いなく一枚の紙を抜き取った。そして、それをテーブルの上で滑らせ、Lの目の前に置いた。
そこに印刷されていた顔写真と名前を見た瞬間、Lの呼吸が止まった。
夜神月(やがみ・らいと)。
捜査本部長である夜神総一郎の長男であり、全国模試で常にトップを走る、眉目秀麗な十七歳の高校生。ヤンの指示により
「なぜ……彼なのですか。彼の部屋には死角なくカメラを設置しました。テレビのニュースで報道されている犯罪者が心臓麻痺を起こした時間も、彼は机に向かってひたすら受験勉強を続けていたのですよ。ポテトチップスを食べながら!」
「ああ、その映像なら私も後ろで見ていたよ。実に不自然で、見事な演技だったね」
ヤンはくすりと笑った。その笑みには悪意もなければ、真実を暴いたという高揚感すらなかった。ただ、チェスの盤面で相手が指した見え透いた罠を眺めるような、どこか寂しげな諦観があるだけだった。
「L、人間というのはね、本当に誰からも見られていないと確信している時、あんなに背筋を伸ばして勉強したりしないものさ。鼻をほじるか、あくびをするか、あるいは私のようにサボる口実を探す。彼のあの一分の隙もない『模範的な高校生の日常』は、部屋の中にカメラがあることを完全に把握した上で、君という観客に向けて上演された一人芝居だよ。そして、あの小さなポテトチップスの袋の中に、小型の液晶テレビと殺しの道具を仕込むくらいの芸当、彼なら朝飯前だろうさ」
「袋の中に……テレビ……!?」
Lの脳内で、これまで繋がらなかった無数のパズルが、凄まじい速度で音を立てて組み上がっていく。ドアノブに挟んだシャープペンシルの芯、絶妙な配置のゴミ箱、不自然なほど規則正しいゴミ捨てのタイミング。
自分は、あの少年の一挙手一投足を監視していたつもりで、その実、少年の掌の上で踊らされていた。もし今、この男が指摘しなければ、自分は数日後にカメラを撤去し、さらには夜神月のその異常なまでの優秀さに目をつけて、彼に直接接触するか、捜査への協力を要請していたかもしれない。
それはすなわち、Lの死を意味していた。
「あなたという人は……」
Lは震える指先を自分の膝に食い込ませた。これまで世界中のあらゆる難事件を解決し、いかなる凶悪犯の思考もすべて見透かしてきた天才が、生まれて初めて味わう感情だった。
恐怖ではない。戦慄だ。
目の前でブランデー入りの紅茶をすすっているこの男は、証拠もデータもほとんど見ずに、ただ「人間の本性」と「戦略の力学」というマクロな視点だけで、キラの正体も、トリックの本質も、さらには数手先の未来までをも完全に掌握している。しかも、それを誇示する様子すらなく、ただ早く仕事を終わらせて昼寝をしたいという動機だけで口にしているのだ。
「もし……もしあなたがキラだったら、私は今日を迎えることなく、とっくに死んでいたでしょうね」
Lが絞り出すように言うと、ヤンは心底嫌そうな顔をして両手を振った。
「よしてくれよ。新世界の神だの正義の執行者だの、そんな重労働は私の性に合わない。私はね、苦労せずに年金をもらって、美味しい紅茶を飲みながら一生を過ごすのが夢なんだ。誰かの命を奪って世界を良くしようだなんて、そんな傲慢な勤労意欲はこれっぽっちも持ち合わせていないさ」
「……では、どうすればいいのですか。あなたがそこまで見抜いているのなら、夜神月を逮捕し、キラの殺しの兵器を押さえる方法も分かっているのでしょう?」
Lは気づけば、椅子から身を乗り出していた。プライドも意地も消え失せ、ただ純粋に、この底知れぬ知性の海から紡ぎ出される「次の一手」を渇望していた。
ヤンは少しだけ困ったように眉を下げ、天井を見上げた。
「やれやれ、私は軍人じゃないんだと言いたいところだが……まあいいさ。彼が『Lを殺すために捜査本部に近づきたい』と願っているなら、その願いを叶えてやればいい。ただし、彼が最も望まない形でね」
「最も、望まない形……?」
「彼はおそらく、殺人を行うための何らかの『媒体』――たとえば日記帳やノートのようなもの――を物理的に所有している。そしてそれには、他人に触れられてはならないか、見られてはならない絶対的なルールがあるはずだ。ならば、彼の家の周囲に不審者の情報を流し、夜神総一郎氏に『家族の安全のため』と称して、息子を二十四時間体制で警察の保護下に置き、身ぐるみ剥がして清潔な保護室に隔離させるよう進言するといい」
ヤンの声は穏やかだったが、その内容は恐ろしいほど冷徹だった。
「容疑者として逮捕するんじゃない。『警察幹部の大切な家族をキラの魔の手から守る』という大義名分で、父親自身の愛情と正義感を使って、彼から一切の私物と自由を奪うんだ。親孝行で優等生の夜神月くんは、父親の涙ながらの配慮を拒絶することはできない。そして、彼が隔離されている間に、彼にしか知り得ないはずの情報を餌にして、もう一人の模倣犯なり協力者なりを炙り出す……あるいは、彼の部屋を徹底的に家宅捜索する。もちろん、
Lは息を呑んだ。
それは、夜神月が築き上げた「優等生であり、良き息子である」という最強の防壁を、そのまま彼自身を閉じ込める牢獄へと変える、悪魔的なまでの逆転の発想だった。暴力も、強権も使わない。ただ相手の立場と心理を逆手に取り、逃げ場を完全に塞いでいく。
「それをやれば……キラは……」
「自分の作った『完璧な息子』という仮面を自ら引き剥がして暴れるか、あるいは何もできずに詰むか、どちらかだね。どちらにせよ、神様の座からは引きずり下ろされることになる」
ヤンはカップの最後の一口を飲み干すと、ふあ、と大きなあくびをした。
「さて、私の本日の業務はここまでにしてもらえるかな、L。これ以上働くと、私の怠惰な魂が摩耗してしまうからね。あとは君とワタリさんで、いいようにやってくれたまえ」
そう言って立ち上がり、くたびれたジャケットを羽織って部屋の奥の仮眠室へと歩いていくヤンの背中を、Lはただ黙って見送ることしかできなかった。
モニターの無機質な光が、静まり返った部屋を照らしている。
「……ワタリ」
仮眠室のドアが閉まった後、Lはぽつりと呟いた。
「なんでしょう、L」
「この事件が終わったら……あの人を絶対に敵に回さないよう、世界中のあらゆる紅茶とブランデーを買い占めておいてください。もし彼が本気で世界を征服しようと思ったら、私を含めて、人類は三日で降伏することになります」
名探偵の小さな呟きは、どこからか聞こえてきたヤンの呑気な寝息によって、静かに掻き消されていった。