翌朝の阿笠邸のダイニングには、香ばしいトーストの匂いと、ヤン・ウェンリーが淹れたアールグレイの湯気が漂っていた。
テーブルの上には、灰原哀が一晩かけて書き殴った数枚のレポート用紙が広げられている。組織が秘密裏に接触していた製薬会社、化学薬品の横流しルート、そして研究員たちの間で囁かれていた噂話の数々――。
その中の一行を指先でなぞりながら、灰原はコーヒーカップを持つ手を微かに震わせた。
「……私の姉、宮野明美が亡くなる前、奇妙なことを言っていたの。大学時代の恩師である静岡の南洋大学教授・広田正巳先生のところに、旅行の写真を収めたフロッピーディスクを送った、と」
「旅行の写真?」
身を乗り出したのは、帝丹小学校の黄色い通学帽を傍らに置いたコナンだった。
「ええ。姉は写真が好きだったから、一見すれば単なる思い出の記録に見える。けれど、姉は私が組織を抜け出したがっていることを知っていた。もし万が一のことがあった時のために、私が以前、研究室から持ち出して姉に預けていた『APTX4869の薬品データ』を、そのフロッピーの中に潜ませて偽装したんじゃないかしら」
「な、なんだって……!?」
コナンが弾かれたように立ち上がった。
「そのフロッピーがありゃ、お前が元の体に戻る解毒薬を作れるかもしれないし、奴らがその薬で何を企んでるのかも丸裸にできるじゃねえか! 博士、すぐに静岡へ行こう! 広田教授の家だ!」
「おお、そうじゃな! ワシのビートルを出そう!」
色めき立つ少年探偵と老発明家。しかし、トーストにたっぷりとイチゴジャムを塗っていたヤンは、パンを口に運ぶ手を止め、呆れたように細い目を向けた。
「待ちなさい、工藤君。朝食の最中に席を立つのはマナー違反だよ。それに……重要情報の保全手順としては、君たちの動きはあまりに無防備すぎる」
「無防備だと? 一刻を争うんだぞ! 奴らが先にそのフロッピーに気づいたらどうすんだ!」
「相手が先に気づくことを恐れるなら、なおさらだよ」
ヤンは紅茶を一口すすり、指を二本立てた。
「いいかい。君の姉上――宮野明美君が機転の利く女性だったとしても、彼女は本職の情報将校ではない。組織の監視下にある人間が、郵便という極めて追跡されやすい民間インフラを使って民間人の大学教授にフロッピーを送ったんだ。これには二つの重大なリスクが伴う」
灰原が息を呑み、ヤンの言葉を待つ。
「第一に、受け取った広田教授本人の安全だ。もし組織が明美君の交友関係を洗っていれば、その教授の自宅はすでに監視対象になっているか、最悪の場合、強盗や事故に見せかけて口封じをされている可能性がある」
「っ……!」
「そして第二に、データそのものに仕掛けられた防壁だ」
ヤンは灰原の青ざめた顔をじっと見つめた。
「宮野君、君が所属していた研究開発部門のメインフレームは、外部への情報流出を防ぐセキュリティがかけられていただろう? 君がフロッピーにデータを複製した際、組織の防諜部門が仕掛けた自己防衛プログラム――いわゆる論理爆弾(トロイの木馬)が、自動的に紛れ込んでいる可能性を考えたことはあるかい?」
灰原の瞳が、恐怖に大きく見開かれた。
「……ナイトバロン」
絞り出すような彼女の声に、コナンが眉をひそめた。
「ナイトバロン……? 親父の小説に出てくる、あの闇の男爵か?」
「ええ。組織のコンピュータウイルスよ。組織外の非認可端末で不正にデータを読み込もうとすると、画面にあの仮面の怪盗が現れて、ディスクやハードディスクの内容をウイルスごと完全に上書き・初期化して消滅させる……。姉のフロッピーに、その防衛プログラムが組み込まれていたとしたら……」
「持ち帰って阿笠博士のパソコンに無防備に挿した瞬間、すべてが水泡に帰すところだったね」
ヤンは事も無げに言って、残りのトーストを平らげた。
「敵の機密を回収する際は、回収後の『フォレンジック(鑑識・解析)』の環境保全まで計算に入れるのが情報戦の基礎だよ。……さて、私は静岡までの長距離ドライブなどという腰痛を誘発する拷問には付き合わない。博士の工房にある使っていない旧型のパソコンを一台借りて、外部のモデムや電話回線から完全に物理遮断した『エアギャップ環境』を作っておくよ。君たちは教授の家へ行き、そのフロッピーを無事に回収してきなさい」
「ヤンさんは……来ないのか?」
コナンの問いに、ヤンは心底当然だという顔でベレー帽を被り直した。
「行かないよ。往復で半日以上車に揺られるなんて、私の寿命が三日縮んでしまう。現場へ行くのは、現場が生きがいの名探偵君、君の仕事だ。連絡用のトランシーバーだけ持っていきたまえよ」
数時間後。静岡県にある広田教授の自宅に到着したコナンたちを待っていたのは、ヤンの不吉な予言の「半分」が的中した光景だった。
広田教授は、自宅の研究室で無残な撲殺死体となって倒れていたのである。
部屋は荒らされ、電話の留守番電話のテープは引き出され、現場に居合わせた教え子たちが疑われる中で、静岡県警の横溝参悟警部が頭を抱えていた。
「くそっ、ヤンさんの言った通りになっちまった……!」
廊下の陰で、コナンは阿笠博士の小型無線機を耳に当て、焦燥の声を押し殺して通信を開いた。
「ヤンさん、聞こえるか! 広田教授が殺されてた! 部屋中が物色されてて、フロッピーがどこにあるか分からねえ! まさか、本当に組織の奴らが……!」
『やれやれ、通信機の向こうで大声を出すのは勘弁してほしいね。……今、博士の工房でとても美味しいスコーンが焼き上がったところなんだ』
東京の阿笠邸のソファから返ってきたのは、拍子抜けするほど呑気な、ブランデー入りの紅茶をすする音交じりの声だった。
『落ち着いて状況を報告したまえ、工藤君。部屋が荒らされている手口はプロのものかい? 弾痕はあるか? 毒物は検出されたか?』
「い、いや……凶器は部屋にあった重量のある置物だ。プロの暗殺者っていうより、突発的な犯行に見える。容疑者は三人……教授を訪ねてきた教え子たちだ。モデルの白倉という男、保険会社勤務の女、それに大学院生の男だ。被害者の手元には、チェスの白のナイトの駒が転がっていて……」
コナンが現場の状況、留守番電話の録音テープ、そして部屋に残されたチェスの駒(白のナイト)のダイイングメッセージを一気に説明した。
通信の向こうで、数秒の沈黙が流れた。
チェスの定石を盤上で動かすように、ヤンが小さく指を鳴らす音が聞こえた。
『……痴話喧嘩だね』
「は?」
『組織の犯行じゃないよ。もしプロがフロッピーを探して教授を殺したなら、部屋をそんな雑にひっくり返して重要な証拠品であるフロッピーを残したりはしない。犯人はその白倉というモデルの男だ。チェスの白のナイト――「ホワイト・ナイト」、つまり白倉のイニシャルを指しているのもそうだが、留守番電話のテープが引き出されていたんだろう?』
「あ、ああ……白倉が自分の声を消すためにテープを奪おうとしたのか?」
『逆だよ、工藤君。彼は「留守電に自分のメッセージを残した」というアリバイを作りたかったのさ。教授の留守番電話機には、外部から電話をかけて暗証番号のプッシュ信号(トーン信号)を入力すると、録音されたメッセージを遠隔再生できる機能がついていただろう? 彼はあらかじめ教授の留守電にメッセージを吹き込んでおき、犯行後に外の公衆電話からそのリモート再生を作動させて、周囲に「さっき教授と電話で話した」という偽のアリバイを偽装しようとしたのさ。部屋の鍵が内側からかかっていた密室トリックも、テープの巻き戻し機能とドアの隙間を利用した初歩的な物理細工だ』
「な……っ!?」
受話器を握るコナンの全身に、鳥肌が立った。
自分なら現場の糸口を一つずつ検証し、指紋やトリックの物理的な矛盾を突き止めてようやく辿り着く結論を、現場の空気を一切吸っていない男が、電話越しの数言の状況説明だけで、まるで最初から犯行現場の天井から見下ろしていたかのように看破してしまったのだ。
『名探偵君、そんな三流の犯罪者の相手で時間を浪費している暇はないよ。横溝警部に白倉の車の捜索令状を取らせるか、緊急避難としてトランクを開けさせなさい。彼が自分の都合で持ち去ったフロッピーの山の中に、君たちが探している「明美君のフロッピー」が紛れ込んでいるはずだ。……さあ、早く片付けて帰っておいで。冷めないうちにスコーンを分けてあげるから』
通信が一方的に切られた。
コナンは茫然と無線機を見つめ、それから口元を引き結んだ。
「……敵わねえな、本当によ」
その後の展開は、ヤンの指摘通りの完全なワンサイドゲームだった。コナンは小五郎の声を借りるまでもなく、横溝警部に白倉の車の捜索を促し、トランクから盗み出されたフロッピーの束と凶器の指紋を暴き立て、事件をわずか十五分で解決に導いたのである。