その日の深夜。
米花町の阿笠邸の地下工房には、昼間の事件現場とは質の異なる、張り詰めた緊張感が漂っていた。
作業台の中央には、静岡から持ち帰られた一枚の3.5インチフロッピーディスク。その周囲には、阿笠博士が即席で組み上げた異様な外観のコンピュータ基盤が鎮座していた。市販のデスクトップPCからケースを取り去り、マザーボードが剥き出しにされた状態で、無数のプローブ(計測用端子)とリボンケーブルがロジックアナライザやオシロスコープへと伸びている。
「……始める前に、一つだけ言っておくわ」
灰原哀が、基盤の青白いパイロットランプを見つめながら、硬い声で口を開いた。その瞳には、かつて同じ組織に身を置いていた者特有の、底知れぬ恐怖が宿っていた。
「組織のソフトウェア開発部門を甘く見ないで。あそこにいるプログラマーたちは、世界中の諜報機関や大企業のセキュリティを破ってきた化け物揃いよ。……私の姉が持ち出したこのディスク、ただデータを保存しただけの代物じゃない」
コナンが眉をひそめて身を乗り出した。
「どういうことだ、灰原?」
「APTX4869の薬品構造式や研究ログは、組織の専用アルゴリズムで多重に暗号化されているわ。ディスクを直接バイナリエディタで覗いても、ランダムなノイズデータしか見えない。閲覧するには、ディスク内の復号プログラムを起動してパスワードを入力し、メインメモリ(RAM)上に平文を展開させるしかないの」
灰原は小さく息を吸い、ヤンを鋭く見つめた。
「そして、その復号ルーチンの末尾には、必ず『闇の男爵(ナイトバロン)』が結合されている。……もしフロッピーの書き込み禁止タブ(ライトプロテクト)を爪で折っていれば、プログラムは『外部の人間が解析しようとしている』と即座に検知する。正規の組織の専用端末が持つマザーボードのハードウェアIDやドングルと一致しなければ、画面に警告を出す暇すら与えず、復号したメモリ領域を瞬時にゼロで上書き(ワイプ)し、ハードディスクのブートセクタを破壊してCPUにリセット命令を叩き込むのよ」
「な……っ!?」
コナンが息を呑んだ。
「ライトプロテクトをかけてても無駄なのか!? メモリスイープと強制シャットダウンで、一瞬でデータを道連れにして自爆するってことかよ!」
「ええ。相手が法執行機関であれ裏切り者であれ、ディスクを読み込ませた瞬間、証拠は絶対に手に入らない。それが組織の防諜仕様よ。……OSのプログラムである以上、ソフトウェアのレイヤーで自爆命令を回避することなんて、原理的に不可能なの」
絶望的な事実を突きつける灰原。
だが、作業台の端でスツールに腰掛け、ブランデー入りの紅茶を静かにすすっていたヤン・ウェンリーは、眉一つ動かさずにふうと湯気を吹き払った。
「宮野君の言う通りだね。敵のプログラマーは極めて優秀で、論理的だ。外部からの解析をソフトウェア的に防ぐ手段としては、ほぼ完璧な設計と言っていい」
ヤンはカップをソーサーに置き、阿笠博士が配線を施したマザーボードを指差した。
「だがね、工藤君、宮野君。どんなに凶悪で完璧なプログラムであっても、それが動くためには『物理的な電子回路』と『時間』を必要とする。……これだけは、どれほど優れた天才プログラマーであっても決して超えられない物理法則の壁だ」
「物理法則の壁……?」
「ああ。敵の自爆プログラムがメモリを破壊するのはいつだい? パスワードが照合され、暗号化されていた薬品データがメモリ(DRAM)上に平文として解凍・展開された『直後』だね。そして、その展開されたデータを抹消する自爆コードがCPUの演算装置(ALU)に読み込まれ、実行されるまでには、わずか数クロック――時間に直せばコンマ数ミリ秒の『隙間』が必ず生じる」
ヤンはベレー帽を脱いで膝の上に置き、阿笠博士に向かって穏やかに微笑んだ。
「そこで、阿笠博士の職人技の出番というわけさ」
阿笠博士が分厚い胸をポンと叩き、テスターを置いて得意げに説明を引き継いだ。
「ヤン君に言われてのう、このマザーボードの『心臓』に少しばかり細工をしたんじゃよ。CPUのクロックジェネレータ(水晶発振器)から伸びるCLK信号の銅箔パターンを物理的に切断して、ワシ特製の高速ロジック回路を割り込ませてある」
コナンが目を丸くした。
「クロック信号を切断……!? まさか……」
「そう。CPUというものは、水晶発振器から送られてくる規則正しい電気のパルス(拍動)に合わせてしか命令を実行できん。パスワードを入力してデータがメモリ上に展開された瞬間、この高速トリガ回路がバスの電圧変化を感知し、CPUへのクロック供給だけを電気的に強制遮断(ゲート)するんじゃ」
灰原が息を呑み、作業台に両手をついた。
「CPUを……物理的にフリーズさせるの!? でも、そんなことをしたらDRAMのデータだって……!」
「そこが博士の腕の見せ所だよ」とヤンが引き取る。
「揮発性メモリであるDRAMは、定期的なリフレッシュ信号(再充電)が途絶えれば数秒で電荷が抜けてデータが消滅する。だから博士には、CPUを完全停止させつつ、チップセットのメモリコントローラと電源ラインだけを独立させて、DRAMのリフレッシュサイクルだけを生かしたまま維持するバイパス回路を組んでもらった」
ヤンは立ち上がり、静かにオシロスコープの画面を指差した。
「敵が用意した土俵――つまり、プログラムが用意したルールの範囲内で知恵比べをする必要はないんだよ。暗号を解かせるだけ解かせ、メモリの上にデータが綺麗に並んだ瞬間、コンピュータ内部の『時間そのもの』を物理的に凍結させてしまうのさ。自爆プログラムは、自分自身が実行されるための次の1クロックを永遠に待たされることになる」
「……っ!!」
灰原は全身の粟立ちを抑えられなかった。
ソフトウェアの論理パズルを、ハードウェアの電気信号という一段下の物理層から力技でねじ伏せる。戦争において、敵の精鋭部隊を戦術で迎え撃つのではなく、敵の補給路と呼吸そのものを断ち切って窒息させる――まさにヤン・ウェンリーという軍事戦略家の思考そのものだった。
「さあ、宮野君。ライトプロテクトは解除したままでいい。パスワードを入力したまえ」
ヤンの促しに、灰原は震える指先をキーボードに乗せた。
フロッピーがドライブに吸い込まれ、アクセスランプが激しく明滅する。
画面にコマンドプロンプトが立ち上がり、プログラマの悪意に満ちた入力プロンプトが点滅した。
灰原は迷いを振り切るように、キーを叩き込んだ。
『S H E L L』――Enter。
カタカタカタカタ……ッ!!
フロッピーの磁気ヘッドが激しく駆動し、暗号化されたバイナリ列がメインメモリへと流し込まれていく。オシロスコープの波形が激しく乱高下し、メモリバスへのデータ展開がピークに達した。
次の瞬間――
パチッ。
阿笠博士が構えていた高速トリガのスイッチが作動した。
画面のカーソルの点滅が、ピタリと停止した。
ハードディスクのアクセス音も、CPUファンの微妙な回転変化も、すべてがまるで写真のように静止した。警告ダイアログも、ナイトバロンのアイコンすら現れない。自爆プログラムは、自分が起動するための電気信号(クロック)を奪われ、文字通り時を止められたのだ。
「クロック停止成功! DRAMのリフレッシュ電圧、正常値を維持しておるぞ!」
阿笠博士が叫ぶ。
「今だ、外部ROMライターの解析スキャナをDRAMバスに直結したまえ」
ヤンの冷静な指示のもと、阿笠博士が並列接続されたサブコンピュータから、通電を維持されたままのDRAMチップのアドレス空間を直接スキャン(DMAダンプ)し始めた。
サブモニタの進捗バーが、0%から急速に伸びていく。
10%……40%……80%……
『DUMP COMPLETE. 16MB RAW DATA CAPTURED.』
「……取れた」
コナンが掠れた声で呟いた。
阿笠博士がサブモニタ上で、吸い出したメモリダンプのテキストセグメントを逆アセンブルし、文字列(Strings)を抽出する。
そこには、ナイトバロンの自爆コードに消し去られるはずだった、APTX4869の完全な化学構造式、合成プロトコル、そして細胞死(アポトーシス)の誘導実験に関する詳細なログが、1バイトの欠損もなく鮮明に表示されていた。
「嘘……信じられない……」
灰原は目を見張り、モニターに映る両親と自分の研究の結晶に触れようとするかのように、指先を震わせた。
「あの組織のセキュリティを……完全に無力化して、データを無傷で奪取した……」
「相手のルールに付き合わなければ、負けることはないのさ」
ヤンは安堵したように息を吐き、冷めかけた紅茶を一口すすった。
「さて、阿笠博士。薬のデータは宮野君に預けるとして、そのダンプデータの中から、薬品の調達伝票や外部との通信ログのテキストだけをフィルタリングして抽出してくれないかい?」
「おお、任せときなさい!」
博士がキーボードを叩き、不要なシステムコードを弾いていく。やがて、画面の片隅に、組織が研究資材を極秘裏に購入していたダミー会社のリストと、定期的な資金決済のログがリストアップされた。
その文字列を追っていたコナンの瞳が、ある一点で凍りついた。
「……待て、これ……!」
コナンが指差した行には、他とは異なる特殊な決済承認コードと、国内の特定口座へ向けた巨額の資金フローが記されていた。
『資材供給・資金洗浄中継ノード:東都自動車』
『承認アカウント:M. KENZO』
「東都自動車……M. KENZO……」
コナンが息を詰まらせ、呟いた。
「東都自動車の会長……枡山憲三……! 経済界のフィクサーとも噂される、あの男か!?」
「知っているのかい、工藤君」
「ああ……財界の重鎮で、政界にも太いパイプを持ってる超大物だ。烏丸グループが解体された後、一代で今の自動車帝国を築き上げた怪物だよ。まさか、あの男が組織の人間だったのか……!?」
「幹部というよりは、組織の『財布』であり、物資調達の生命線を握る兵站担当だろうね」
ヤンはテーブルの上の経済新聞を指先でトントンと叩いた。
「新聞の予定欄を見てごらん。明後日、杯戸シティホテルで映画監督・酒巻昭氏を偲ぶ追悼会が開かれる。発起人の筆頭に、その枡山憲三氏の名前があるね。そしてもう一つ――警察庁の知人……いや、以前の事件の新聞記事の文脈から読み取れるが、この会には組織に睨まれていたある政治家も出席する手筈になっている」
コナンと灰原の顔色が変わった。
「組織が動く……! 口封じの暗殺か!」
「おそらくね。枡山氏が自ら動くのか、あるいは現場の実行犯――ジンたちを手引きするのかは分からないが、いずれにせよ、敵の重要な補給ノード(拠点)が自ら警備の薄い民間のセレモニーに姿を現す」
ヤンは静かに立ち上がり、黒いベレー帽を被り直した。その瞳には、かつて数百万の将兵を前に戦況をチェス盤のように見据えていた、冷徹無比な名将の光が宿っていた。
「敵の兵站の要(かなめ)が、のこのこと戦場の外へ出てきてくれるんだ。これほど都合のいい機会を逃す手はない。……工藤君、宮野君。潜伏のフェーズはこれで終わりだ。明後日の夜、杯戸シティホテルで、連中の『財布』を一つ、確実に押収(チェックメイト)させてもらうよ」