十月下旬の杯戸町。夕暮れの空は鉛色に濁り、冷え切った大気からは、季節外れの湿った初雪が舞い散り始めていた。
杯戸シティホテル本館の正面ロータリーには、各界のVIPを乗せた黒塗りのハイヤーが絶え間なく滑り込み、エントランスの大理石の床を踏み荒らしていく。
正装した毛利小五郎と蘭の後ろについて、ネクタイを直しながら自動ドアをくぐった江戸川コナンは、受付で記帳を済ませ、返礼品として手渡された正方形の小箱を受け取った。
箱の中身は、深みのある「紫色のシルクハンカチ」。
胸ポケットに忍ばせた阿笠博士特製の小型イヤホンから、微かなノイズとともに、聴き慣れた穏やかな声が鼓膜へ届いた。
『――工藤君、聞こえるかい。無事に潜入できたようだね』
東京・米花町の阿笠邸。地下工房のスピーカーの前で、温かいアッサムティーにスキットルのブランデーを静かに落としながら、ヤン・ウェンリーは手元のホテル見取り図とタイマーを見つめていた。
「ああ、よく聞こえるぜ、ヤンさん」
コナンは受付の雑踏に紛れ、メガネのフレームに仕込まれた超小型マイクへ小声で囁いた。
「受付で記念品のハンカチを受け取った。色は……あんたの読み通り、全員同じ『紫』だ」
『符号したね。暗がりの中で発砲炎(マズルフラッシュ)を隠し、かつ衣服への硝煙反応の付着を防ぐための遮蔽布。そして、会場にいる全員が同一のものを持っていれば、万一手荷物検査になっても凶器の覆いとして特定されにくい。実に合理的で、同時に極めて古典的な工作員の手口だ』
通信の向こうで、カチャリとカップがソーサーに触れる音がした。
『さて、公権力側の配置(デプロイ)状況を報告しよう。午後五時四十分、予定通り特捜部、警備部警護課、公安企画課の三者へ暗号化通報が到達した。現在、ホテルの正面・裏口のすべての避難経路、ならびにメインバンケット「孔雀の間」の周囲のサービス通路に、私服捜査員が合計二十四名、要人警護のSPが四名配置されている。……彼らはまだ半信半疑だが、「現職代議士の暗殺計画と拳銃所持」という具体的すぎる情報に縛られ、現場から一歩も引けない状態だ』
「完璧な包囲網だな。……こっちも会場に入った。ターゲットと実行犯を探す」
コナンは蘭の背後に隠れながら、華やかなシャンデリアの光が降り注ぐ「孔雀の間」へ足を踏み入れた。
会場内には、映画監督・酒巻昭の死を悼む数百人の映画関係者、財界人、マスコミがひしめいていた。
立食パーティーの喧騒の中、コナンは鋭い視線を走らせ、すぐに目当ての人物たちを捉えた。
中央の特大シャンデリアの真下。ビュッフェ台の脇で、落ち着かない様子で赤ワインのグラスを弄んでいる太った男――贈賄疑惑で検察から追われている渦中の代議士、呑口重彦だ。
そして、その呑口に背後から近づき、親しげに肩を叩いた白髪の老紳士。
胸ポケットに紫のチーフを覗かせた、東都自動車会長・枡山憲三(ピスコ)だった。
「……見つけたぜ、ヤンさん。枡山が呑口に接触した。何か耳打ちして、中央の特大シャンデリアの真下……スポットライトが床の絨毯の楕円模様を照らしている位置に、呑口を立たせた」
『枡山の動作はどうだい? 特に、衣服のシルエットと手の位置だ』
「待てよ……」
コナンは子供の背丈を活かして二人の斜め後方へ回り込み、枡山のダブルのスーツを注視した。
「……右の上着の内ポケットだ。上等な仕立てのスーツなのに、右胸のあたりだけ重みで不自然に生地が垂れ下がってる。それに、さっきから枡山は右腕をほとんど胴体から離さず、肘で内ポケットの膨らみを外から抑えるように歩いてる……。中に拳銃のような、ある程度まとまった重さの金属が入ってるのは間違いねえ!」
『プロの所作だね。凶器は確実に彼の体内ポケットにある。……これで、警察が突入した際の「現行犯性の担保」は完了した』
ヤンの声は、まるで遠い戦史の注釈を読むように冷徹だった。
『時計を見たまえ、工藤君。現在、午後六時二十四分。式次第によれば、六時三十分ちょうどに酒巻監督のスライドフィルム上映が始まり、会場の全照明が完全暗転する。……残り五分。キルゾーンをクリアにしなさい』
「了解だ!」
コナンは視線を会場の壁際へ向けた。そこでは、無料の高級ワインをこれ幸いと立て続けに煽り、すでに顔を赤くしている毛利小五郎が、映画プロデューサー相手に大声で管を巻いていた。
(悪いな、おじさん……! 一肌脱いでもらうぜ!)
コナンは小走りで小五郎の元へ向かうと、足元に落ちていたオードブル用の紙ナプキンを爪先で器用に滑らせ、小五郎の革靴の踵に引っ掛けた。
「おじさーん! 蘭姉ちゃんが呼んでるよ!」
「あぁん? 蘭が……うわっ、ととと!?」
千鳥足の小五郎がバランスを崩し、手にした赤ワインのグラスを大きく前へと投げ出すように前のめりに倒れ込んだ。
その進行方向の先には――シャンデリアの真下で手帳を開いていた呑口代議士がいた。
バシャァッ!!
「うわあああっ!? つ、冷てえええっ!!」
深い紫がかった赤ワインが、呑口の高級仕立ての白シャツとグレーのスーツの胸元へ、派手な染みを作って飛び散った。
「な、何をしやがるんだ貴様はァッ!!」
「ひ、ひえぇっ! す、すんません先生! 足が滑っちまって……!」
「無礼者め! 離せ、触るな! 誰か、洗面所はどこだ! 服を拭くタオルを持ってこい!!」
激怒した呑口は、小五郎の手を乱暴に振り払い、スタッフに案内されて足早に出入口の化粧室へと退避していった。
シャンデリアの直下――キルゾーンは、暗転の四分前にして、完全な空白となった。
斜め後方でそれを見ていた枡山憲三(ピスコ)の表情が、驚愕と苛立ちで微かに引き攣ったのを、コナンは見逃さなかった。
『司会者よりご案内いたします。まもなく、酒巻昭監督の生前の未公開ダイジェストフィルムを上映いたします。場内が暗くなりますので、足元にご注意ください――』
午後六時三十分。
司会のアナウンスが響き渡ると同時に、孔雀の間の天井に灯っていた豪奢なシャンデリアの明かりが、スーッと絞られるように消えていった。
会場は、前方のスクリーンから漏れる微かな光を残し、完全な暗闇へと沈んだ。
(……くそっ、呑口の野郎め、どこへ消えおった!)
闇の中、枡山憲三は奥歯をギリと噛み締めながら、右手を上着の内ポケットへと滑り込ませていた。
指先に触れる、冷たく無機質な鋼鉄の感触。ワルサーPPKに装着された円筒形の消音器。左手には、記念品の紫のシルクハンカチを握り締めている。
指定したスポットライトの直下へ視線を凝らすが、そこに呑口の太った影はない。
(戻ってこない……! だが、あのお方からの命令は絶対だ。このスライド上映の暗闇を逃せば、奴は明日の朝には特捜部に連行され、組織の秘密を吐き出してしまう……!)
ピスコの額から、焦燥の汗が滲み出る。
闇に目を慣らし、暗殺のチャンスを再構築しようと周囲を見渡した、まさにその刹那だった。
カチリ。
静まり返った会場に、何かが接続される無機質なリレー音が響いた。
次の瞬間――
パァァァァァッ!!
上映開始からわずか三十秒。スライドフィルムの投影機が強制遮断され、天井に張り巡らされた予備電源のハロゲン投光器と、メインシャンデリアの全照明が一斉に、暴力的な光量をもって点灯したのである。
「な……ッ!?」
突然の閃光に、会場の数百人の招待客が一斉に目を細め、悲鳴のようなざわめきが上がった。
「電気がついたぞ!?」
「フィルムの事故か?」
混乱する群衆の中央で、枡山憲三の全身の血が、一瞬で凍りついた。
点灯と同時に、孔雀の間の四方の非常扉とメインエントランスが乱暴に蹴破られ、耳元に無線機を装着したスーツ姿の男たち――十数名の私服警察官と、東京地検特捜部の係官たちが、怒涛の勢いで雪崩れ込んできたのだ。
「動くなァッ!! 警視庁だ!!」
広間を切り裂くような怒号。
招待客たちが恐慌をきたして後退する中、捜査員の群れを割って堂々と歩み出てきたのは、茶色いトレンチコートに身を包んだ警視庁捜査一課の目暮十三警部、そして捜査二課の知能犯担当の警部補たちだった。
目暮警部の鋭利な眼光が、中央で硬直している白髪の老人を真っ向から射抜いた。
「そこまでだ、東都自動車会長・枡山憲三氏!」
「な……な、何の真似ですか警部さん! 私が誰だか分かって――」
「枡山憲三! あなたに対し、銃砲刀剣類所持等取締法違反、ならびに刑法第百九十九条・殺人予備の疑いにより、刑事訴訟法第二百十二条に基づく緊急逮捕状を執行する!」
「ば、馬鹿なことを言うな! 殺人予備だと!? 私が何を――」
「右手を上着から離すな!!」
目暮の背後から飛び出した二名の屈強な私服刑事が、枡山の両腕を瞬時に背後へ捻り上げ、壁際へ押し倒すように拘束した。
老獪な工作員といえど、七十を超えた肉体では、鍛え抜かれた若い警察官二名の制圧を解くことなど不可能だった。
「ポケットを探れ!」
特捜部の係官が叫び、刑事が枡山の上着の内ポケットに手を差し入れた。
引き出されたのは――黒光りする消音器付きの小型自動拳銃、そして銃口に巻き付けるために用意されていた、記念品の紫のハンカチだった。
「拳銃を確認! 薬室に初弾装填済み、セーフティが解除されています!」
「紫のハンカチの内側から、微小な金属粉とオイル反応を検出!」
鑑識官の声が、静まり返った孔雀の間に響き渡る。
「……あ、あ……」
枡山憲三の口から、掠れた空気の音が漏れた。
手荷物検査のない民間のパーティー。暗転を利用した完全な偽装事故。完璧だったはずの計画の、そのすべてのピースが――凶器の隠し場所から、暗殺の動機、手元に用意した目眩ましのハンカチに至るまで、完全に先回りされ、白日の下に晒されていた。
群衆の最後列。
壁際に佇む、紫のイブニングドレスを着た金髪の美女――クリス・ヴィンヤード(ベルモット)は、手にしたワイングラスを指先で弄びながら、冷徹な青い瞳の奥に、かつてない戦慄の炎を灯していた。
(ピスコが引き金を引く直前に、完璧なタイミングで警察が踏み込んだ……。偶然? いいえ、あり得ない。キルゾーンから呑口を遠ざけたあのワインの事故から、照明の強制点灯まで……すべてが秒単位で計算された、完璧な『伏撃(アンブッシュ)』だわ)
ベルモットの冷ややかな視線が、群衆の足元、平然とした顔で警察の動きを見守っている眼鏡の少年――江戸川コナンをかすめ、そして虚空へと向けられた。
(シルバーブレッド……あなた一人の知恵じゃないわね。あなたの背後に、一体『誰』がいるの……?)
ホテルの外では、湿った雪がアスファルトを白く染め上げていた。
正面エントランスから百メートルほど離れた、街灯の届かない暗がりの側道。
アイドリング音を低く響かせる黒塗りのクラシックカー――ポルシェ356Aの車内。
助手席のジンは、黒いフェルト帽の鍔の下から、ホテルの正面玄関を埋め尽くす無数の赤色灯の光の明滅を、氷のように冷たい目で見つめていた。
車載の警察無線傍受機から、緊迫した通信がダッシュボードに響く。
『――本部より各局。杯戸シティホテル会場内にて、重要参考人・枡山憲三の身柄を確保。所持品からサイレンサー付き拳銃を押収した。直ちに身柄を本部警備特捜室へ護送せよ――』
「な、なんだってェ!?」
運転席のウォッカが、信じられないものを見る目でハンドルを叩いた。
「ピスコの旦那が……パクられちまっただと!? 兄貴、どうしますかい! 護送車を待ち伏せして、旦那を奪還しますか!?」
「莫迦か、貴様は」
ジンの声は、雪の夜気よりも冷たかった。
彼は咥えていた煙草をシガーライターに押し付け、短く吐き捨てた。
「ホテルの周囲を見ろ。所轄のパトカーだけではない。機動隊の輸送車、公安の覆面パトカー、鑑識のバンまで、あらかじめ包囲陣を敷いていたかのように展開している。……突っ込めば蜂の巣にされるだけだ」
「し、しかし! ピスコの旦那が警察に割られたら、あのお方の情報や、組織の資金ルートが……!」
「言ったはずだ。組織の秘密を漏らす前に、あのお方の手で消すのが掟だとな」
ジンは懐から取り出した携帯電話のテンキーを、手袋をはめた指先で躊躇なく叩いた。
「だが、身柄を公権力のど真ん中に抑えられた以上、現場での処分は不可能だ。……直ちに『クリーンアップ班』へ連絡しろ。東都自動車の本社サーバー、枡山の私邸の地下金庫、そして彼が管理していた国内三十カ所のダミー会社の口座を、今夜未明までにすべて消滅させろ」
「へ、へい……!」
「それと、ベルモットに伝えろ。ピスコの回収は中止だ。ネズミの臭いを消しながら、単独で脱出しろと」
ジンは通話を切ると、冷酷な瞳を細め、バックミラー越しに杯戸シティホテルの巨大なシルエットを睨みつけた。
ジンの研ぎ澄まされた直感が、これまでの敵――FBIやCIAといった諜報機関の動きとは根本的に異なる、「異質な知性」の存在を警告していた。
(何者だ……? 呑口の暗殺計画を知り、ピスコの懐の凶器を特定し、国家の警察機構を丸ごとチェスの駒のように動かして我々の退路を塞いだ黒幕は……。警察内部の人間か? それとも、組織の深部に潜む『ネズミ』の仕業か……?)
「……行け、ウォッカ。ここはお払い箱だ」
「へい!」
ポルシェ356Aは、静かに雪を踏みしめ、漆黒の夜の闇の中へと滑るように姿を消していった。
現場の混乱から抜け出し、ホテルの非常階段の踊り場に立ったコナンは、冷たい夜風を吸い込みながらイヤホンを押さえた。
「……ヤンさん、聞こえるか」
『ああ。よくやったね、工藤君。怪我はないかい?』
阿笠邸の地下工房から返ってきたのは、普段と何一つ変わらない、あくび混じりの呑気な声だった。
「ああ、かすり傷一つねえよ。目暮警部たちがピスコを完全に現行犯逮捕した。上着のポケットからサイレンサー付き拳銃と、紫のハンカチが押収されたよ。……外に待機してたジンのポルシェも、手出しできずに逃げていった」
『そうかい。血を見ることもなく、誰も死なずに終わったのなら、作戦としては上出来だ』
ヤンはカップに残った紅茶を飲み干したようだった。
『だが、名探偵君。安心するのはまだ早いよ。本当の戦いは、敵の駒を盤上から一つ取り除いた、まさに今この瞬間から始まるんだ』
コナンが表情を引き締めた。
「ピスコの自供と、組織の『損切り』だな?」
『そうだ。ピスコは今、警察という巨大な檻の中に保護された。そして外にいるジンたちは、彼が口を開く前に、彼に関わるすべての資金ルートと関係者を消し去ろうと狂奔する。……そして、その粛清の嵐は、組織の内部に潜入している他国のスパイたちにも容赦なく降りかかるはずだ』
ヤンの声に、かつて数多の星間会戦を生き抜いた不敗の知将の、静かで深い重みが宿った。
『味方のスパイが誰であるかを暴く必要はない。だが、敵が動揺し、警察が証拠を固めようとしているこの数日間の空白こそが、盤面の主導権を完全にこちらへ引き寄せる最大の好機(チャンス)だ。……体を冷やさないうちに、気をつけて帰っておいで。宮野君が、君のために温かいココアを用意して待っているよ』
「……ああ!」
コナンは小さく笑い、イヤホンの通信を切った。
見上げた杯戸町の冬空には、降りしきる粉雪の向こうに、厚い雲を突き破るように冷たい星の光が瞬いていた。
国家の公権力を動かし、暴力を使わずに巨大な闇の巨頭を圧殺した、完全なる無血の勝利。
しかし、その勝利が引き金となって、東京の地下に潜むすべての情報機関と黒の組織を巻き込む、真の「情報大戦」の幕が、今まさに静かに上がろうとしていた。