午前一時四十五分、港区。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返った東都自動車本社ビルは、深夜の冷気に包まれていた。正面玄関の自動ドアは施錠され、ロビーの照明は非常用を残して落とされている。地下のサーバー室へと続く通路には、東京地検特捜部が貼っていった白地に赤字の「差押・封印」テープが無言で貼り巡らされ、ビル警備員室の奥で仮眠を取る初老の警備員と、巡回パトカーがたまに前を通り過ぎるだけの、完全な静寂だった。
だが、その静けさは、幾重にも折り重なった殺意によって極限まで張り詰めていた。
ビルの向かいに立つ雑居ビルの屋上。吹き付ける夜風の中、黒いニット帽を被った男――赤井秀一は、冷たいアスファルトに身を伏せていた。
アキュラシー・インターナショナルL96A1の銃身は、月光を反射しないよう入念にマット処理されている。スコープのサーマル暗視フィルター越しに見下ろす視界の中で、赤井の翡翠色の瞳がわずかに眇められた。
「……ネズミが群がってきたか」
赤井の視界の端、東都自動車の通用口から五十メートルほど離れたコインパーキングに、清掃会社のロゴをあしらった一台のライトバンが滑り込んでいた。一見すれば深夜のビルメンテナンス業者だが、サスペンションの沈み込みが重い。車内に防弾プレートと高度な電子機材を詰め込んでいる証拠だ。さらにその奥、搬入口を見下ろす別のビルの踊り場には、民間人を装った不審な影が一人、微動だにせず息を潜めている。
(あいつらは……ラングレー(CIA)の連中か)
本国のNSAから『組織の極秘暗号パケット』が転送されてきた瞬間、大使館経由でいち早く動いたのは自分たちFBIだけではなかった。手柄を焦ったCIAの現地工作班もまた、裏帳簿のデータチップを真っ先に奪取すべく、独自に現場を取り囲んでいたのだ。
互いに名乗り合うこともしない。だが、同じ軍事教練を受けたプロ同士、暗闇の中に漂う特有の緊張感で、そこに「同業者」がいることなど一目で分かっていた。
(主権侵害の縄張り争いなど、どうでもいい……)
赤井は引き金に添えた人差し指に、静かに力を込めた。自分の狙いはただ一つ。この場所に必ず現れるはずの、黒塗りのポルシェに乗った銀髪の男――ジンだ。
その時だった。
午前一時五十二分。本社ビルの裏手、電算センターの吸排気ダクトが並ぶ薄暗い路地に、一台の黒いステーションワゴンが音もなく滑り込んできた。
ナンバープレートは泥で汚され、ヘッドライトを消したまま停車する。中から降り立ったのは、つなぎの作業服を着込み、工具箱を抱えた二人の男。一見すれば深夜の設備点検員だが、その工具箱の中身は、鉄骨すら瞬時に融解させる軍用のテルミット焼夷弾だった。
ジンの差し向けた、証拠隠滅の物理破壊班だ。
彼らは手慣れた手つきで通用口の電子ロックにハッキングツールを繋ぎ、侵入の秒読みを開始しようとした。
――その瞬間、作業員の耳元に装着された極小インカムから、鋭いノイズが走った。
『……待て。作業を中断しろ』
車内に残っていた監視役の男から、喉を締め上げられたような声が飛んだ。
『どうした、時間がねえぞ』
『広域電波スキャナーを見ろ。……周波数が跳ね上がっている。警察無線じゃない。暗号化された極短波のバースト通信だ。……それも、米軍規格のミルスペック暗号だぞ』
作業員の手がピタリと止まった。
二人が咄嗟に視線を走らせると、路地の角、コインパーキングの影に停まる清掃バンのフロントガラスの奥で、暗視ゴーグルの対物レンズが冷たく光を反射したのが見えた。
さらに、彼らの本能が最悪の警報を鳴らした。
首筋にチリチリと焼き付くような、研ぎ澄まされた強烈な殺気。見上げれば、対岸の高層ビルの屋上――完全な漆黒の闇の中から、何者かが自分たちの眉間をスコープで捉えている気配がした。
『ば、馬鹿な……! なぜこんな所に、他国の特殊部隊が待ち伏せている!?』
『通用口だけじゃない。搬入口も、地下駐車場のスロープも……プロの監視スクリーンで完全に包囲されている! 一歩でも敷居を跨げば、四方から蜂の巣にされるぞ!』
作業員の背筋を、氷のような汗が伝った。
日本の警察ではない。彼らが対峙しているのは、自分たちと同じ暗闇に生きる、国家規模の『殺人機械たち』だった。
無線が、現場から三キロ離れた首都高の非常駐車帯へと繋がれる。
黒のポルシェ356Aの車内で、助手席のウォッカが端末を凝視しながら青ざめていた。
「ア、アニキ! 現場の突入班から緊急コードです! 東都自動車の周辺に、正体不明の武装部隊が網を張って待ち構えていると……! 警察の姿はありませんが、明らかに軍の訓練を受けた連中です!」
運転席で煙草を咥えていたジンの細い目が、冷酷な凶芒を帯びた。
「……何だと?」
「信じられませんぜ……! ガサ入れが入ったばかりの民間ビルに、なぜ他国のプロが先回りしてやがるんですかい!? 昼間のチクリ屋が警察に垂れ流したにしては、相手が違いすぎる……!」
ウォッカの動揺をよそに、ジンの頭の中で、戦慄すべきパズルのピースが組み上がっていた。
警察ではない。他国の情報機関が、ピンポイントでこの日、この時刻、東都自動車のサーバー室という標的に向けて、完璧な迎撃包囲網を敷いている。
――なぜだ?
この時刻に地下サーバーを物理焼却するという作戦は、三十分前、組織の専用暗号回線を使ってごく限られた実動部隊にのみ下したばかりの命令だ。警察の盗聴や、外部の探偵ごときが嗅ぎつけられるはずがない。
それが、完全に読まれていた。
(……外部のチクリ屋だと? 違う……!)
ジンの脳裏に、かつてない冷たい戦慄が走った。
(俺たちの独自暗号回線が……アメリカの電子監視網(エシュロン)に割られていたのか……!?)
組織が誇る、世界各国の警察組織を翻弄してきたはずの鉄壁のセキュリティ。それが、アメリカ国家安全保障局の巨大な耳の前に、完全に丸裸にされていたとしたら――。
今、この瞬間も、自分たちが交わしている無線すら、衛星経由で盗聴され、居場所を逆探知されているのではないか。
「ア、アニキ……!? どうしますかい! 突入班を強行させやすか? それとも外からロケット弾を――」
「黙れ、ウォッカ!!」
ジンの怒号が車内に響いた。その声には、冷徹な殺人鬼には似つかわしくない、危機管理のプロとしての焦燥が滲んでいた。
「全回線を今すぐ切れ! 突入班に即時退却を命じろ! 証拠の焼却など後回しだ……全端末のメモリを破棄し、指定のセーフハウスへ潜伏しろ!」
「えっ……し、しかし、サーバーの裏帳簿が警察に解析されたら……!」
「通信が割られている以上、動けば動くほど首を絞められるだけだ。これ以上の交信は自殺行為だぞ……! 逃げるぞ、ウォッカ!」
ポルシェのエンジンが猛烈な咆哮を上げ、タイヤを軋ませながら夜のハイウェイへと滑り出していった。
東都自動車の裏路地でも、作業服の男たちが転がるようにワゴン車へと飛び乗り、ヘッドライトも点けずに猛スピードで闇の中へと逃走していった。
雑居ビルの屋上。
スコープ越しに、標的の車両が蜘蛛の子を散らすように撤退していくのを見届けた赤井秀一は、静かに引き金から指を離した。
「……逃げたか」
煙草の灰を指先ではじき落としながら、赤井は眉をひそめた。
ジンの慎重さは知っている。だが、これほど見事な引き際の良さは何だ。まるで、この現場に自分たちが待ち構えていることそのものに恐怖したかのような――。
(NSAの警報パケット……現場に殺到した俺たちとCIA……そして、罠を察知して尻尾を巻いた組織……)
赤井は夜空を見上げ、フッと自嘲気味に笑った。
「……誰だ? 俺たちをここまで綺麗に踊らせた手品師は」
長距離ライフルを手際よく解体し、ガンケースへと収めながら、赤井の眼差しは底知れぬ深みをたたえていた。
同じ頃、米花町の阿笠邸。
居間のモニターには、東都自動車周辺の警察無線と、東京消防庁の出動ステータスがリアルタイムで表示されていた。
時計の針は、午前二時十五分を指している。
「……静かすぎる」
コナンは額に汗を滲ませながら、画面を凝視していた。
東都自動車の電算センターで火災が起きたという報せもなければ、ビル周辺で銃撃戦が起きたという警察無線の交信も一切ない。深夜の港区は、不気味なほどの静寂に包まれていた。
「おい、ヤンさん……! 本当に奴らは来たのか!? 焼夷弾でサーバーが燃やされたら、通信が途絶するはずだぞ! もしかして、作戦は失敗したんじゃ――」
焦燥に駆られて振り返ったコナンに対し、ソファーに深く腰掛けたヤン・ウェンリーは、温かい紅茶を静かにすすり、穏やかに目を細めた。
「何事も起きないことこそが、作戦が完璧だった証拠だよ、工藤君」
「え……?」
「火の手も上がらず、銃声も響かず、パトカーのサイレンすら鳴っていない。それはつまりね、ジンの差し向けた部隊が、現場に足を踏み入れることすらできずに逃げ去ったということさ」
ヤンはカップをソーサーに置き、悪戯っぽく笑った。
「プロの工作員というのはね、自分の腕に自信がある者ほど、暗闇に潜む『同業者の罠』に敏感なものだよ。彼らは現場を取り囲む彼らの気配を肌で察知し、自分たちの暗号が筒抜けになっていたと錯覚して、肝を冷やして退却したのさ。……これで、地下サーバーのデータは無傷で夜を越えた」
「じゃあ……本当に……?」
灰原哀が、信じられないものを見るような目でヤンを見つめていた。
あの冷酷無比なジンを。組織の障害をすべて力ずくで排除してきたあの男を、銃弾一発撃ち合うこともなく、ただ情報の配置と心理誘導だけで完全に追い払ってみせたのだ。
やがて、窓の外が白み始めた。
阿笠邸のテレビ画面が、朝のニュース速報を映し出す。
画面の中では、昨日に引き続き、東京地検特捜部の捜査官たちと警視庁のサイバー犯罪捜査官たちが、東都自動車本社ビルへと堂々と入っていく姿が中継されていた。
『――特捜部は本日未明より、東都自動車本社に対する本格的な捜査を開始しました。関係者によりますと、押収されたデータには、逮捕された桝山会長による巨額の不正蓄財と、複数のダミー会社を経由した不透明な資金洗浄の記録が、良好な状態で保全されている模様です――』
「……データが、無事に警察の手に渡ったんだな」
コナンは画面を見つめたまま、呆然と呟いた。
ピスコの身柄に続き、組織の資金源となっていた東都自動車の裏帳簿までもが、完全に司法の白日の下に晒された。組織は、数十年にわたって築き上げてきた巨大な資金パイプを、完全に断ち切られたのだ。
「さて」
ヤンはベレー帽を手に取り、ソファーからよっこらしょと腰を上げた。
「私の役目はここまでかな。……徹夜の頭には、甘いミルクティーと熱いトーストが必要だ。阿笠博士、台所をお借りしてもいいかい?」
「あ、ああ……! もちろんじゃとも!」
博士が慌てて立ち上がる中、コナンはのんびりと伸びをするヤンの背中を、畏怖の念を込めて見つめていた。
(ヤン・ウェンリー……。この人は、いったい何者なんだ……?)
武力を持たず、正義を振りかざすこともなく、ただ盤上の駒の心理を冷徹に読み切って、世界規模の巨大組織を手玉に取ってみせた男。
少年探偵の瞳には、目の前にいる冴えない青年が、かつて見たどんな名探偵やスパイよりも巨大で、底の知れない怪術士のように映っていた。