バターの溶ける香ばしい匂いと、湯気を立てるアッサムティーの湯気が、阿笠邸のダイニングを満たしていた。
徹夜明け特有の重い疲労感を抱えたコナンと灰原の前で、ヤン・ウェンリーはトーストをサクッと齧り、満足そうに目を細めていた。
「うん、美味しいよ。徹夜の後に温かいパンが食べられるなんて、これ以上の贅沢はないね」
「呑気なもんね……」
灰原哀は両手でマグカップを包み込みながら、呆れたような、しかしどこか憑き物が落ちたような眼差しでヤンを見つめた。
「昨夜、あなたが引き金を引いたことで、東京の裏社会でどれだけの激震が走ったか分かってるの? 東都自動車のサーバーが保全されただけじゃないわ。組織が二十年かけて築き上げた数千億円規模の資金洗浄ルートが、今日一日で完全に凍結されるのよ」
「それは結構なことじゃないか」
ヤンは紅茶にスプーンでたっぷりと砂糖を入れながら、事も無げに言った。
「戦いにおいて最も有効な打撃は、敵の兵士を倒すことじゃない。兵士に給料を払い、弾薬を買い与えるための補給路を断つことだ。金が回らなくなれば、どれほど強大な軍隊でも足並みが乱れ、内部から不満が噴き出す。……もっとも、これで組織が壊滅するなんて甘い幻想は抱かない方がいいけれどね」
「……どういう意味だ、ヤンさん?」
コナンが身を乗り出した。目の前の男が描く「戦いの全体図」の続きを、どうしても知りたかった。
「簡単な算数だよ、工藤君。彼らにとって東都自動車は最大の動脈だったかもしれないが、心臓そのものじゃない。失った資金源を補うために、彼らはより強引で、より荒っぽい手段に手を染めるようになるだろう。だが――」
ヤンはカップを持ち上げ、湯気の向こうから少年探偵を見据えた。その黒い瞳には、冷徹なまでの洞察が宿っていた。
「少なくとも今、彼らの動きは『完全に麻痺』しているはずだ。なぜなら、彼らが昨夜味わったのは、資金の喪失という物理的な損害ではなく、『自慢の暗号通信網がアメリカに割られた』という心理的恐怖だからね」
「心理的恐怖……」
「そうさ。ジンという男は残忍だが、優秀な現場指揮官だ。優秀であればあるほど、味方の通信が敵の電子監視網に丸裸にされているかもしれないという状況下で、軽率に部隊を動かすはずがない。今頃、彼らはすべての通信プロトコルを破棄し、外部との接触を絶ち、組織内のエンジニアを総動員して暗号の総入れ替え作業に追われているはずだよ」
ヤンはスプーンをコトンと置いた。
「自分たちの通信がどこまで漏れていたのか。どの回線が安全で、どの端末が盗聴されているのか。それを一つずつ検証し終えるまで、彼らは新しい作戦はおろか、君たちの捜索やピスコへの報復に割くリソースすら凍結せざるを得ない。……つまりね、宮野君。君は当面の間、彼らの追手から『不可視の隠れ蓑』を手に入れたということさ」
灰原は目を見張り、小さく息を呑んだ。
ヤンが昨夜仕掛けた罠の真の目的――それは単に東都自動車のサーバーを守ることだけではなかったのだ。敵に「通信崩壊」の幻影を植え付けることで、組織の全戦力を内向きの防諜と再構築に縛り付け、自分たちへの追撃を物理的に封殺する。
そこまで計算して、あの偽パケットを放流したというのか。
「……信じられない男ね、本当に」
灰原がため息混じりに呟くと、ヤンは困ったように頭を掻いた。
「買い被りすぎだよ。私はただ、自分が巻き込まれて撃たれたり、朝食を食べ損ねたりするのが嫌だっただけさ。平和に紅茶を飲める環境を守るためなら、多少の知恵くらいは絞るよ」
同じ頃、赤坂の米国大使館の地下深く。
分厚い防音壁と電磁シールドに囲まれたFBIの作戦室で、赤井秀一は煙草を燻らせながら、液晶モニターに表示されたコードの羅列を凝視していた。
背後から、上肢を組んだジェイムズ・ブラックが静かに歩み寄ってくる。
「……昨夜の騒ぎの検証結果が出たよ、赤井君」
「どうだった、ジェイムズ」
「NSAが拾ったあの緊急パケット――送信元は都内大手プロバイダのバックボーンを経由していたが、高度な多段プロキシとダミーノードで偽装され、最終的な発信源は完全に消去されていた。そして何より奇妙なのは、そのデータ構造だ」
ジェイムズがプリントアウトされた解析リポートをデスクに置いた。
「使われていた暗号シグネチャは、確かに数年前に我々が組織の痕跡として記録したフォーマットと一致していた。だが……中身の暗号鍵の断片は、巧妙に作られた『偽物(ブラフ)』だったそうだ」
赤井は煙を吐き出し、翡翠色の瞳を微かに細めた。
「偽物だと?」
「ああ。極めて精巧に組織の通信を模倣してはいたが、あれは現場にいたジンの部隊が発信したものではない。何者かが意図的に、NSAの監視網が引っかかるようにネットの海へ放り込んだ『釣り餌』だ。そして、その餌に釣られた我々とCIAが東都自動車へ急行し、それを見たジンの部隊がパニックを起こして撤退した」
ジェイムズは深く息を吐き、困惑を隠せない様子で首を振った。
「結果として、東都自動車の裏帳簿は日本の警察に無傷で押収された。我々もCIAも、組織の壊滅作戦としては大きな果実を得たわけだが……まるで誰かの書いた台本通りに、完璧に躍らされたような不気味さが残る」
赤井はモニターから目を離さず、口元に冷たい、だがどこか愉悦を帯びた笑みを浮かべた。
「躍らされた、か。上等じゃないか」
「赤井君?」
「昨夜、ビルの屋上から見下ろした東都自動車の現場は、完璧なチェックメイトだった。日本の警察を動かせば大爆破テロにエスカレートし、放置すれば証拠は焼かれる。その盤面に対し、銃弾一発撃たずに、俺たちとCIAの存在そのものを『見えない盾』として配置し、ジンを無血で追い払ってみせた」
赤井は灰皿に煙草を押し付け、立ち上がった。
「組織を熟知し、アメリカの情報機関の動向を読み切り、都内のサイバー空間から戦況を完全にコントロールした黒幕がいる。……味方か敵かは知らんが、とんでもない策士がこの東京のどこかに潜んでいることだけは確かだ」
黒いニット帽を目深に被り直した赤井の双眸の奥で、猛獣のような鋭い光が静かに揺らめいていた。
昼下がり、米花町の阿笠邸。
身支度を整えたヤン・ウェンリーは、玄関先でベレー帽を軽く指先で直していた。
「本当にもう行くのか、ヤンさん?」
コナンが名残惜しそうに見上げる。その手には、昨夜ヤンが状況を整理するために使った、鉛筆書きのノートが握られていた。
「ああ。長居をすると、君たちの日常を壊してしまうからね。それに、あまり一箇所に留まっていると、軍の追っ手……いや、面倒な連中に見つかりそうだ」
ヤンは苦笑しながら、少年の前に屈み込んだ。
「工藤君。君は優れた頭脳と、強い正義感を持っている。それは探偵として最も尊い資質だ。だがね――」
ヤンはコナンの肩に、そっと手を置いた。
「正義という言葉はね、とても危険な刃物なんだ。誰もが自分なりの正義を信じていて、その正義のために人を殺し、戦争を始める。君が追っているあの黒い影たちも、彼らなりの歪んだ論理と都合で動いているに過ぎない」
「ヤンさん……」
「真実を暴くことは素晴らしい。だが、真実を暴くことと、人々を守ることは、時に矛盾する。君がこれから先、あの巨大な怪物と戦い続けるなら……『正しいこと』を貫くだけでなく、時に泥を被り、敵の心理を読み、無駄な血を流さずに勝つ方法を考えなさい。英雄になって死ぬことより、しぶとく生き残って、紅茶を美味しく飲める明日を迎えることの方が、何倍も価値があるんだからね」
その言葉は、数々の星間戦争を潜り抜け、民主主義の理想と現実の狭間で苦闘し続けた魔術師ならではの、重く、そして限りなく優しい遺訓だった。
コナンは姿勢を正し、力強く頷いた。
「……うん。絶対に忘れないよ」
「よろしい。じゃあ、阿笠博士、宮野君、ごちそうさまでした。美味しい紅茶をありがとう」
ヤンはひょいと手を挙げ、いつもの締まりのない、穏やかな笑顔を浮かべると、そのまま春の木漏れ日の中へと歩き出した。
ポケットに両手を突っ込み、少し猫背で、どこにでもいる冴えない歴史研究者のように歩いていくその背中を、コナンと灰原はいつまでも並んで見送っていた。
「……行っちゃったわね」
灰原が静かに呟く。
「ああ」
コナンは手の中のノートをぎゅっと握りしめ、青空を見上げた。
「でも、すげえよな。世界を揺るがすような大事件の裏で、あんな風に風みたいに現れて、誰も傷つけずに嵐を消し去っちまうなんてさ」
「ええ。まさに……不敗の魔術師、ね」
二人の少年の頭上を、穏やかな風が吹き抜けていく。
東京の巨大な闇の歯車は、確かに軋みを上げ、狂い始めていた。名もなき軍師が盤上に落とした一粒の小石が、やがて組織を呑み込む巨大な崩壊の始まりであることを、まだ誰も知る由はなかった。