ヤン・ウェンリー異世界見聞録   作:ヤソウェソソー

17 / 18
プラン6.ようこそ実力至上主義の教室へ

紅茶にブランデーを垂らすことができないという一点において、この『東京都高度育成高等学校』とやらは、自由惑星同盟の士官学校よりも遥かに野蛮な場所だとヤン・ウェンリーは結論づけていた。

 

もちろん、未成年なのだから当然なのだが、彼の精神年齢はすでに数多の星間戦争をくぐり抜けてきた退役提督(希望)のそれである。どうして自分が十六歳の少年の肉体に逆戻りし、宇宙船のブリュンヒルトやヒューベリオンではなく、極東の島国の真新しい教室で机に頬杖をついているのか――その歴史的かつ物理学的な因果関係については、考えるだけ無駄だと早々に諦めていた。

 

「……以上だ。質問がなければ、これでホームルームを終了する」

 

教壇の上で、茶柱佐枝と名乗った担任教師が冷ややかな視線で1年Dクラスの生徒たちを一瞥し、ヒールの音を響かせて教室を出ていく。

 

残された教室は、すぐさま解放感に満ちた喧噪に包まれた。無理もない。入学早々、生徒たちには毎月十万円相当として使える『十万プライベートポイント』が端末に支給され、校内の施設では何を買っても自由、髪型も服装も私語の制限もないと宣言されたのだ。まさに夢のような学園生活の幕開けに、誰もが浮足立っていた。

 

「やれやれ、あからさまな撒き餌だね」

 

窓際の後ろから二番目の席で、ヤンは揃いのブレザーの襟元を緩めながら、誰に聞かせるでもなく呟いた。くせのある黒髪を人差し指でくるくると弄び、眠たげな黒い瞳で自分の学生端末を見つめる。

 

『100,000 Pt』

 

その数字を見つめるヤンの横顔を、すぐ後ろの席からじっと観察している人物がいた。茶色の髪をした、どこにでもいそうな無表情な少年――綾小路清隆である。そしてヤンの隣の席では、長い黒髪を揺らした美少女、堀北鈴音が、周囲の浮かれたクラスメイトたちを軽蔑したような眼差しで切り捨てていた。

 

「撒き餌、とはどういう意味かしら」

 

堀北が、教科書の端を揃えながら冷淡な声で問いかけてきた。話しかけるつもりはなかったが、隣で妙に老成した溜息をつかれたのが気になったらしい。

 

「ああ、独り言だよ。気にしないでくれ」

 

ヤンは愛想よく、しかしどこか頼りなげな苦笑いを浮かべて手を振った。

 

「ただね、国家でも軍隊でも、あるいはこういう教育機関でも、最初に過分な恩恵を無条件で与える時は、必ず裏に『査定』があるものさ。外部との接触を一切断たれた閉鎖空間で、通貨の発行権を学校側が独占している。それなのにインフレ対策のルールすら説明されないとなれば、来月も同じ額が支給される保証はどこにもない。……まあ、僕としては美味しい紅茶の茶葉さえ買えれば、あとはどうでもいいんだけどね」

 

堀北の眉がピクリと動いた。後ろの席で聞き耳を立てていた綾小路の瞳にも、わずかな警戒の色が宿る。入学初日の、それも数分の説明だけで、この学校の根幹にある歪さをここまで正確に言語化してのけた生徒など、他にいるはずもなかった。

 

「ずいぶんと穿った見方をするのね。でも、一理あるわ。周囲の連中は、自分がどれだけ甘い蜜を吸わされているか気づいてもいないようだけれど」

 

「人間、信じたいものを信じる生き物だからね。特に、自分に都合のいい幻想ほど手放しにくい」

 

ヤンはふわあと大きな欠伸をひとつ噛み殺すと、机の上に突っ伏した。

 

「そういうわけで、僕は少し昼寝をするよ。もし先生が戻ってきたら起こしてくれないか。いや、やっぱり起こさなくていいかな……」

 

「自分で起きなさい」

 

ピシャリと言い放つ堀北の声を子守唄代わりに、ヤンはものの数十秒で規則正しい寝息を立て始めた。そのあまりに無防備で緊張感のない姿に、堀北は呆れ果てたように息を吐き、綾小路は静かに視線を窓の外へと逸らした。

 

一ヶ月後。五月一日の朝。

 

1年Dクラスは、ヤンの予言通り、パニックの渦中にあった。

 

振り込まれるはずの十万ポイントが、一ポイントたりとも支給されなかったのだ。それどころか、担任の茶柱から明かされた『Sシステム』の真実は、生徒たちの楽園幻想を木っ端微塵に打ち砕いた。遅刻・欠席・私語・居眠り――それらすべてが減点対象となり、Dクラスに与えられていた千のクラスポイントは、たった一ヶ月で『ゼロ』にまで落ち込んでいたのである。

 

「ふざけんなよ! そんなルール、最初に言えってんだ!」

 

赤髪の不良少年、須藤健が机を蹴り飛ばして怒鳴り散らす。教室中が責任のなすりつけ合いと絶望で沸き返る中、茶柱は氷の微笑を浮かべてクラス全員を見下ろしていた。

 

「言わなかったのではない。お前たちが気づかなかっただけだ。……もっとも、このクラスにも一人だけ、初日から全くポイントを使わず、授業中も減点されないギリギリのラインでサボり続けていた奇妙な生徒がいるようだがな」

 

茶柱の視線が、窓際へと向けられる。

 

そこではヤン・ウェンリーが、どこから持ち込んだのか、小さな保温ポットから湯気の立つ紅茶をティーカップに注いでいるところだった。教室の視線が一斉に自分に集まっていることに気づくと、ヤンはカップを持ったまま固まり、気まずそうに頬を掻いた。

 

「いやあ……授業中の飲食は減点対象だけど、今はまだホームルームが始まる前の休憩時間という解釈でいいんだよね、先生?」

 

「……ああ、構わん。時間内には片付けろよ、ヤン」

 

茶柱がわずかに口角を上げて去っていくと、クラスメイトたちが一斉にヤンの机を取り囲んだ。

 

「おいヤン! お前、本当にポイント使ってないのかよ!?」

「どうして分かったの!? ねえ、もしかして何か知ってたの!?」

 

平田洋介や櫛田桔梗をはじめとするクラスメイトたちの詰め寄りに、ヤンは心底面倒くさそうに眉を下げた。

 

「知っていたも何も、ただの経験則だよ。補給線が不透明な戦場では、手元の物資を限界まで温存するのが鉄則だからね。僕が先月使ったのは、特売のセイロンティーの茶葉代と、この安物のポット代で合計二千ポイントちょっとさ。残りの九万七千ポイントは手つかずだけど……あー、先に言っておくよ。誰にも貸すつもりはないからね。僕は今後三年間、このポイントをちびちび切り崩して、毎日平穏に紅茶を飲む生活を防衛しなきゃならないんだ」

 

「なっ……お前、クラスの仲間が困ってんのに、自分だけ良ければいいのかよ!」

 

須藤が胸倉を掴まんばかりの勢いで迫るが、ヤンはひらりと身をかわすことすらせず、座ったまま眠たげな目で須藤を見上げた。

 

「須藤くん、だっけ。君が怒る気持ちも分かるけどね、個人の資産を全体の無策の穴埋めに徴発し始めたら、その組織はもう終わりだよ。それに、今の僕たちが考えるべきは小銭の融通じゃない。どうすれば来月、学校という名の財務省からクラスポイントをむしり取れるか、だ」

 

「クラスポイントを、むしり取る……?」

 

隣の席の堀北が、鋭い声で反応した。

 

「そう。先生の話によれば、僕たちのクラスポイントは現在ゼロ。つまり、これ以上減ることはない。背水の陣というやつさ」

 

ヤンは紅茶を一口すすり、満足そうに目を細めた。

 

「守るべき領土(ポイント)がないということは、どれだけ無茶な機動戦を仕掛けてもマイナスにはならないという特権でもある。AクラスやBクラスの連中は、自分たちのポイントを守るために保守的にならざるを得ないけれど、僕たちは違う。ルールブックの空白地帯を突けば、意外と簡単にひっくり返せるんじゃないかな。……まあ、僕は何もしないけどね。平田くんや堀北さんが頑張ってくれれば、僕はその恩恵に預かるだけで十分だ」

 

「ふざけるな、ここまで言っておいて丸投げする気?」

 

「適材適所という言葉があってね。僕は実務や指導力にはからきし向いていないんだ。歴史の証明するところだよ」

 

心の底から本気で言っているらしいヤンの態度に、堀北はこめかみをヒクヒクと引きつらせた。

 

だが、その後ろで一部始終を見ていた綾小路だけは、ヤンの言葉の恐ろしさに気づいていた。クラス全員が『どうやって減点を防ぎ、テストで赤点を取らないか』という防御の思考に縛られているこの瞬間に、ヤンだけは最初から『他クラスおよび学校システムそのものへの攻勢』を視野に入れているのだ。

 

そのヤンの「攻勢」が、本人の意図せざる形で発動したのは、中間試験を二週間後に控えた五月中旬のことだった。

 

発端は、Cクラスの独裁者・龍園翔による露骨な挑発と罠だった。

 

バスケットボール部のレギュラー争いで焦っていた須藤が、Cクラスの生徒三人組に呼び出され、特別棟の階段裏で乱闘騒ぎを起こしたのだ。Cクラス側は一方的に殴られたと主張し、須藤の退学、あるいはDクラスからの多額の慰謝料(ポイント)を要求してきた。目撃者はおらず、特別棟のその区画には監視カメラもなかった。

 

放課後の教室で、その対策会議が開かれていた。

 

「俺はハメられたんだ! あいつらが先に突っかかってきたんだよ!」

「でも、証拠がない以上、このまま生徒会での審議になれば須藤くんが圧倒的に不利だわ……」

 

堀北や平田、櫛田たちが頭を抱える中、ヤンは相変わらず窓際で文庫本(図書館で借りてきた世界史の通史)をめくっていた。

 

そこへ、教室の扉が乱暴に開け放たれた。

 

「ククク……おいおい、ずいぶんとシケたツラしてじゃねえか、Dクラスのゴミども」

 

紫がかった長髪を揺らし、不敵な笑みを浮かべて入ってきたのは、Cクラスのリーダーである龍園翔だった。その後ろには、大柄なアルベルトと、怪我をして包帯を巻いたCクラスの生徒たちが控えている。

 

「龍園くん……! ここへ何の用だい?」

 

平田が前に出るが、龍園は鼻で笑ってそれを無視し、教室の中をぐるりと見渡した。その爬虫類のような冷酷な瞳が、窓際で本を読んでいるヤンに留まる。

 

「須藤の件、明日の審議で白黒つくが、今なら特別に『示談』にしてやってもいいぜ。そうだな……このクラスで一番ポイントを溜め込んでるっていう、そこのヤン・ウェンリー。てめえの持ってる九万ポイントと、クラス全員の残りカスを合わせた百万ポイントを俺に差し出せば、訴えを取り下げてやるよ」

 

教室が凍りついた。龍園は、Dクラスの内部情報――ヤンがポイントを温存していることまで、何らかのスパイを通じて把握していたのだ。

 

全員の視線がヤンに集まる。須藤ですら、自分のせいで他人のポイントが奪われることに気まずそうな顔をして口をつぐんだ。

 

ヤンはしおりを本に挟んでパタンと閉じると、やれやれと首を振りながら立ち上がった。

 

「龍園くん、だったかな。わざわざ足を運んでもらって悪いんだけど、その取引には応じられないな。さっきも言った通り、そのポイントは僕の向こう三年間の紅茶代なんだ。誰かにあげるわけにはいかないよ」

 

「あん? 状況が分かってねえのか、てめえ。須藤が退学になりゃ、Dクラスにはペナルティが課される。てめえらの将来のポイントは永遠にゼロのままだぞ」

 

龍園が一歩踏み出し、圧倒的な威圧感を放つ。普通の高校生なら足をすくませる場面だったが、帝国軍のラインハルト・フォン・ローエングラムや、血に飢えたブラックホールのような戦場を生き抜いてきたヤンにとって、不良少年の睨みなどそよ風にも等しかった。

 

「いや、状況が分かっていないのは君の方じゃないかな、龍園くん」

 

ヤンはポケットから自分の学生端末を取り出し、画面を龍園の方へと向けた。

 

「実はね、三日前に須藤くんが君たちのクラスの連中に体育館裏で挑発されているのを偶然見かけてね。『ああ、これは近いうちに監視カメラの死角で当たり屋みたいな事件を起こすつもりだな』と思ったから、ちょっとした保険を掛けておいたんだ」

 

「……保険だと?」

 

龍園の眉がピクリと動く。

 

「うん。君がCクラスを恐怖と暴力で完全に統制していることは、食堂での君たちの座り方や、クラスメイトが君を見る目を見れば一目で分かる。独裁体制というのはね、意思決定が速い反面、構成員の忠誠心が『恐怖』か『利益』にしか依存しないという構造的な欠陥があるんだ」

 

ヤンは黒髪をくしゃりと掻きながら、まるで歴史の講義でもするかのように淡々と語り始めた。

 

「だから僕は一昨日、Bクラスの一之瀬さんを通じて、君のクラスの『不満分子』十数人に、匿名のダミー契約を持ちかけたんだよ。『もし今週中にCクラスとDクラスの間で暴力沙汰の審議が起きた場合、Cクラス側の証言が嘘であると生徒会に内部告発すれば、一人あたり五万ポイントを支払う』という条件付きの先物契約さ」

 

「なっ……!?」

 

龍園の背後にいたCクラスの生徒たちの顔色が、一斉に蒼白になった。堀北も、綾小路も、息を呑んでヤンを見つめる。

 

「笑わせるんじゃねえ!」龍園が吠えた。「てめえの手元には九万ポイントしかねえんだろうが! 十数人に五万ずつ払えるわけがねえだろ、ハッタリも大概にしろ!」

 

「もちろん、僕一人の財布じゃ払えないさ。だから、その原資はBクラスに融資してもらったんだ。条件は『Cクラスが虚偽報告のペナルティで失うクラスポイントの半分に相当する額を、来月以降の僕たちの収益からBクラスへ譲渡する』というものでね。一之瀬さんは最初、他クラスを陥れるようなことはできないと渋っていたけれど、『これは無実の仲間を守るための防衛策であり、実際にCクラスが不正を働かなければ契約は発効しない』と説明したら、正義感から判を押してくれたよ」

 

ヤンの言葉に、龍園の顔から笑みが消え去った。

 

「そして、ここからが本題だ、龍園くん」

 

ヤンは眠たげな瞳を細め、その奥に底知れない智謀の光を宿して龍園を見据えた。

 

「実はその契約書には、もうひとつ特約がある。『内部告発は先着三名までを有効とし、四番目以降の者には一ポイントも支払われない。さらに、虚偽の暴行事件に加担した実行犯は、学校側から退学処分を受ける可能性が高い』という一文さ。……さて、今頃君のクラスはどうなっているかな? 君を恐れる気持ちと、五万ポイントへの欲、そして『他の誰かが先に裏切って、自分たちだけが退学のトカゲの尻尾切りにされるのではないか』という疑心暗鬼。囚人のジレンマというやつだね」

 

その瞬間、龍園や、背後に控えていたCクラスの「被害者」生徒たちの端末が一斉に着信音を鳴り響かせた。

 

生徒たちが震える手で端末を確認し、血の気を失った顔で龍園を振り返る。

 

実は、龍園による恐怖支配の下でいつか使い捨てにされると怯えていたCクラスの生徒の何人かは、万が一の保身のために、過去に龍園から指示されたハメ技の打ち合わせの会話をこそりと録音して隠し持っていたのだ。

 

「りゅ、龍園さん……! クラスの奴らが、生徒会室の前に集まって……! 自分がトカゲの尻尾切りにされるのを恐れた誰かが、保身のために隠し持ってた『須藤をハメる相談の録音データ』を生徒会長に提出するって騒ぎ始めてます……!」

 

「なんだと……!?」

 

「僕が撒いたのは、ただの『疑心暗鬼の種』だけだったんだけどね。自ら恐怖で縛り上げていた組織は、逃げ道を用意された瞬間に、保身に走った構成員自身の手で内側から崩壊するのさ」

 

ヤンは肩をすくめた。

 

「さて、どうする? このまま明日の審議に進むかい、龍園くん。もしそうなれば、須藤くんは無罪放免、君のクラスは虚偽申告で大ダメージを受け、君の独裁体制は完全に瓦解するわけだけど」

 

龍園はギリ、と奥歯を噛み締め、憎悪と戦慄が入り混じった目でヤンを睨みつけた。

 

「……てめえ、最初からこれが狙いか」

 

「まさか。僕はただ、須藤くんが退学になって僕の昼寝の時間が削られるのを防ぎたかっただけだよ。今ここで、君たちが『階段から自分で転んで怪我をしただけで、須藤くんは無関係だった』と生徒会に報告を取り下げるなら、僕はBクラスとの契約を即時破棄する。痛み分け、ということでどうかな?」

 

教室は、水を打ったように静まり返っていた。

 

監視カメラを探すでもなく、目撃者を必死に捏造するでもなく、ヤン・ウェンリーという男は、ただ椅子に座って紅茶を飲みながら、数枚の契約書と人間の心理だけでCクラスという「敵軍の編成」そのものを内側から爆破して見せたのだ。

 

龍園はギリ、と奥歯を噛み締め、憎悪と、それ以上の戦慄が入り混じった目でヤンを睨みつけた。

 

「……てめえ、最初からこれが狙いか。須藤の事件すら、俺の体制を崩すためのカウンターに使ったってわけかよ」

 

「まさか。僕はただ、須藤くんが退学になってクラスの雰囲気が悪くなると、僕の昼寝の時間が削られると思って対処しただけだよ」

 

ヤンは手元の端末を操作し、画面を龍園に見せた。

 

「今ここで、君たちが『階段から自分で転んで怪我をしただけで、須藤くんは無関係だった』と生徒会に報告を取り下げるなら、僕はBクラスとの契約を即時破棄する。そうすれば内部告発は無効になり、君のクラスのポイントも減らないし、僕も一ポイントも使わずに済む。痛み分け、ということでどうかな?」

 

「……クッ、ククク、ハハハハハッ!」

 

龍園は突然、天井を仰いで狂気じみた哄笑を上げた。そして、今まで誰にも向けたことのないような獰猛な笑みをヤンへと向ける。

 

「面白い! 面白いぜ、ヤン・ウェンリー! この学校に来て初めてだ、俺の喉元にここまで綺麗に刃物を突きつけてきた奴はよ! いいだろう、今回の件は引き下がってやる。だが覚えておけ、てめえのその腐った余裕ツラ、いつか必ず地面に這いつくばらせてやるからな!」

 

龍園は踵を返し、呆然とする部下たちを引き連れて嵐のように去っていった。

 

残されたDクラスの教室には、しばらくの間、誰も言葉を発することができないほどの沈黙が落ちていた。

 

「……お、おい、ヤン。俺、助かったのか……?」

 

須藤がおずおずと尋ねると、ヤンは「ああ、たぶんね。これからは少し短気を直すといいよ」と気の抜けた返事をして、再び椅子に腰を下ろした。

 

「信じられないわ……」

 

隣の席で、堀北鈴音が震える声で呟いた。彼女がどれだけ頭を悩ませても糸口すら見えなかった絶望的な状況を、この男は文字通り指先ひとつで、しかも自分たちのポイントを1ポイントも消費することなく解決してしまったのだ。

 

「あなた、一体何者なの? なぜそこまでの戦略眼を持っていて、このDクラスになんて配属されているのよ……!」

 

「何者って、ただのしがない歴史家志望さ。それに、面接の時に『校則や規律には一切縛られたくないし、できれば三年間ずっと寝て過ごしたい』って正直に答えたから、不良品としてDクラスに放り込まれたんじゃないかな。学校側の査定は実に正確だよ」

 

ヤンはポットに残っていた少しぬるくなった紅茶をカップに注ぎ、最後の一口を飲み干した。

 

「さて、これで中間試験までは静かになるといいんだけどね。……あ、堀北さん、ついでに頼みがあるんだけど、世界史以外の試験範囲のノート、あとで見せてくれないかな。数学の公式とか、もうすっかり忘れちゃっていてね」

 

「……それくらい、自分でやりなさいと言いたいところだけれど、今回の貸しにしておくわ」

 

堀北は深く、本当に深く溜息をつきながらも、その瞳には明確な敬意と警戒の色を浮かべていた。

 

そして、その後ろの席。

 

綾小路清隆は、文庫本を顔に乗せて再びうたた寝を始めたヤンの背中を、静かに見つめていた。

 

(ホワイトルームのどのカリキュラムとも違う。個人の戦闘力や学力の高さではなく、集団の力学と人間の弱さを知り尽くした者の戦い方だ……)

 

綾小路は机の下で、自分の拳をわずかに握りしめた。

 

この高度育成高等学校という箱庭に、規格外の「魔術師」が迷い込んでいる。もしも将来、自分が彼と敵対する日が来るとしたら――その時は、持てるすべての手札を切っても勝てる保証はないかもしれない。

 

そんな周囲の戦慄などどこ吹く風で、ヤン・ウェンリーは春の陽だまりの中、今度こそ誰にも邪魔されない穏やかな昼寝の世界へと落ちていくのだった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。