「戦術レベルでの勝利が、戦略レベルでの怠惰を保証してくれるとは限らない……か。やれやれ、どの世界に行っても真理というのは残酷だね」
中間試験を一週間後に控えた放課後の図書室で、ヤン・ウェンリーは分厚い数学の参考書を前に、世界の終わりを迎えたような溜息をついた。
向かいの席では、堀北鈴音がシャープペンシルを走らせる手を止め、氷のような視線でヤンを射抜いている。さらにその隣では、綾小路清隆が我関せずといった様子でページをめくっており、少し離れたテーブルでは平田洋介と櫛田桔梗が、須藤をはじめとする赤点候補のクラスメイトたちに必死で公式を教えていた。
「つべこべ言わずに手を動かしなさい。世界史の模擬テストで満点を取る頭があるのに、どうして二次関数のグラフひとつ描くのに三十分も唸っているのよ」
「いやあ、堀北さん。歴史というのはね、人間の欲望や愚かさが引き起こすものだから、だいたいの流れは予想がつくんだ。でも、この放物線とやらには感情もなければ補給線の概念もない。実に非人間的で、理解に苦しむと思わないかい?」
「思わないわ。いいからその問三を解きなさい。今回の試験、一教科でも赤点を取れば即退学なのよ。あなたのその緩みきった頬を見ていると、こちらまで不安になるわ」
堀北の容赦ない追及に、ヤンはくせのある黒髪を掻きむしりながら、しぶしぶペンを握った。
自由惑星同盟の士官学校時代もそうだった。戦史や戦略シミュレーションの講義だけは飛び抜けた成績を収めたものの、物理や機関工学、さらには射撃や格闘といった実技科目は、常に除籍を免れる最低ラインを綱渡りするように通過してきたのだ。必要のない努力は極力しないという彼の人生哲学は、十六歳の高校生に若返った今も健在である。
すると、向こうのテーブルから須藤の苛立った怒鳴り声が上がった。
「だから分からねえっつってんだろ! こんなサインだのコサインだの、将来バスケやるのに何の役に立つんだよ!」
「まあまあ須藤くん、落ち着いて。ここを乗り切らないと、せっかくの部活も続けられなくなっちゃうよ」
なだめる平田の手を振り払い、須藤は教材を鞄に乱暴に詰め込んで立ち上がった。それに釣られるように、池や山内といった他の赤点候補たちも「俺たちも帰るわ」「こんなの無理だって」と次々に席を立ってしまう。
「待ちなさい、あなたたち……!」
堀北が立ち上がって制止しようとするが、須藤は舌打ちをして図書室の出口へと向かってしまった。
「……放っておきなさい、平田くん。自分が沈む船に乗っていることすら理解できない連中を、無理に引き上げる必要はないわ。彼らが退学になれば、クラス全体の足枷が外れてむしろ好都合よ」
吐き捨てるように言う堀北に、平田は悲痛な面持ちで俯いた。綾小路は静かにヤンの反応を窺っている。
ヤンはペンを机の上に転がすと、椅子に深く背をもたせかけ、天井を見上げた。
「堀北さんの言うことにも一理あるけどね、残念ながら今回の試験で須藤くんたちに退学されると、僕の老後……じゃないや、高校生活の資金計画が狂うんだ」
「資金計画?」
「そう。茶柱先生は『赤点者は退学になる』とは言ったけれど、同時に『退学者が出た場合のペナルティ』については明言を避けた。この学校の性格からして、自主退学ならともかく、試験による除籍者を出したクラスには、少なくとも百ポイント以上のクラスポイント減点、あるいはそれに準ずる負債が課されると見るべきだ。せっかく来月、健全な防衛体制を整えてクラスポイントを獲得しても、退学者のペナルティで相殺されたらたまらないからね」
ヤンはひらりと学生端末を持ち上げ、画面をタップした。
「それにね、堀北さん。練度の低い新兵にいきなり高度な戦術機動を教え込もうとしても、士気が崩壊して脱走兵が出るだけさ。彼らに必要なのは、完璧な理解じゃない。『最低限生き残るためのマニュアル』だよ」
「マニュアル……? 試験範囲は全教科、かなりの広さよ。今から山を張るなんて博打にもならないわ」
「博打はしないさ。僕が嫌いな言葉のトップスリーに『ギャンブル』と『不敗』と『残業』が入っているからね」
ヤンは立ち上がると、近くにいた櫛田桔梗に声をかけた。
「櫛田さん、ちょっと頼みがあるんだけど。君のその広い交友関係を使って、二年と三年の先輩たちのうち、特に『去年DクラスとCクラスにいた生徒』から、去年の1学期中間試験の答案用紙を買い取ってくれないかな。予算は一万ポイント。僕のポケットマネーから出すよ」
「えっ? か、過去問ですか? でも、先輩たちがそんなもの取ってあるかどうかも分かりませんし、一万ポイントじゃ足りないんじゃ……」
櫛田が戸惑いを見せると、後ろで聞いていた綾小路が控えめに口を開いた。
「実は俺も、先輩から過去問を買えないか探ってみたんだけど……Dクラスの三年生から、五万ポイントなら売ってもいいとふっかけられて、手が出なかったんだ」
「ほら見なさい」堀北が腕を組む。「そもそも、去年の問題が今年も出るとは限らないわ。一万ポイントなんてドブに捨てるようなものよ」
「いや、問題そのものには一ポイントの価値もないよ。僕が欲しいのは『教師陣の採点傾向』と『学校側の出題システム』のデータさ」
ヤンは黒板の前に立つ教官のような手つきで、人差し指を一本立てた。
「だから櫛田さん、Dクラスの先輩から買う必要はないよ。僕が先日パイプを作ったBクラスの一之瀬さんに連絡を取って、『Bクラスの二年・三年の先輩から、去年の問題と答案を五千ポイントでレンタルさせてほしい』と頼んでみてくれ。あわせて、残りの五千ポイントで『今年の一年生の全教科の担当教師のリストと、去年の担当教師のリスト』を誰かから入手してほしいんだ」
「……担当教師のリスト?」
綾小路の目がわずかに細められた。
「そう。どんな巨大で精緻な官僚機構も、実際に現場を回しているのは生身の人間だ。そして人間というのは、基本的に面倒くさがりな生き物なのさ。特に教師という職業は、授業のほかに部活の顧問や雑務を抱えている。毎年ゼロから全く新しい試験問題を作成するなんて、よほどマゾヒスティックな情熱家でもなければやりたがらない」
ヤンはくしゃりと笑みを浮かべた。
「もし去年と今年の担当教師が同じ教科があれば、過去のデータを少し改変しただけの問題が出る確率は八割を超える。そして、もし担当教師が変わっている教科があれば、そこだけは前任者との差別化を図るために全く新しい問題――ただし、平均点を下げすぎて自分の評価に傷がつかないよう、教科書の例題通りの極めてオーソドックスな問題が出題されるはずだ」
図書室の一角が静まり返った。
「……たしかに、一理あるわね」堀北が悔しそうに唇を噛む。「でも、もしBクラスがその情報を渋ったらどうするの? 彼らだってライバルよ」
「渋らないさ。Bクラスにとって現在の最大の脅威は、暴力と謀略を厭わないCクラスの龍園くんだ。僕たちDクラスがここで退学者を出して自滅すれば、Cクラスが相対的に浮上する。一之瀬さんなら、Dクラスに恩を売りつつCクラスを牽制できるこの取引に、喜んで乗ってくるはずだよ。……ね、櫛田さん、お願いできるかい?」
「う、うん! なんだか凄いことになってきたけど、私、一之瀬さんに掛け合ってみるね!」
櫛田が弾かれたように図書室を飛び出していく。
残されたヤンは、ふわあと本日何度目かの欠伸をすると、自分の鞄を肩にかけた。
「じゃあ、データが集まるのは明日だろうから、今日の勉強会はこれでお開きにしよう。僕は寮に帰って紅茶を淹れるよ」
「ちょっと待ちなさい! あなた自身の数学の勉強はどうするのよ!」
「ああ、数学の担当教師が去年と同じなら過去問のパターンを丸暗記するし、違うなら教科書の例題だけやってあとは捨てるよ。四十点取れれば赤点にはならないんだ、百点を取る必要なんてどこにもないからね」
ひらひらと手を振って去っていくヤンの背中を、堀北は頭を抱えながら見送り、綾小路は「……徹底しているな」と小さく呟いた。
翌日、ヤンの予測は寸分の狂いもなく的中した。
一之瀬帆波の協力によって集められたデータによれば、英語・数学・国語の三教科は去年と全く同じ教師が担当しており、過去三年間の問題を見比べると、数字や単語を入れ替えただけの酷似した出題パターンが使い回されていることが判明したのだ。
ヤンはその日の放課後、わずか二時間で「ここだけ暗記すれば絶対に四十点取れる要点シート」を作成し、平田を通じて須藤たちに配布した。分厚い教科書ではなく、ペラペラの紙三枚に圧縮された攻略法を見て、須藤たちも「これなら俺でもいけるかもな!」と目の色を変えて暗記に没頭し始めた。
そして迎えた中間試験当日。
ヤンは宣言通り、世界史だけを二十分で満点解答し、残りの時間は答案用紙の裏で自分の将来の年金生活のシミュレーションをしながら、他の教科をすべて五十五点から六十点の間で着地させるという曲芸のような省エネ受験をやってのけた。
だが、本当の波乱は、試験結果が貼り出された放課後に待っていた。
「……おい、嘘だろ」
掲示板の前で、須藤健の顔から血の気が引いていた。
張り出された成績表。池も山内も、ヤンの作成したシートのおかげで全教科五十点以上をマークし、見事に赤点を回避していた。ヤン自身も世界史の百点を除けば、見事なまでに平均的な点数が並んでいる。
しかし、須藤の『英語』の欄にだけ、無慈悲な数字が印字されていたのだ。
『39点』
今回の試験の合格ラインは、クラス平均点の半分――すなわち『40点』であった。たった一点。その一点が足りないために、須藤の名前には退学を意味する赤い線が引かれていた。
「くそっ……! 最後の単語のスペル、一個書き間違えたやつだ……!」
須藤が頭を抱えてその場にうずくまる。平田や櫛田が言葉を失い、堀北も厳しい表情で唇を噛み締めた。
そこへ、カツカツとヒールの音を響かせて茶柱佐枝がやってきた。
「残念だったな、須藤。ルールはルールだ。今日中に退学届にサインしてもらうぞ」
冷酷に言い放つ茶柱の前に、すっと一人の少年が歩み出た。綾小路ではない。ポケットに片手を突っ込み、もう片方の手で眠そうに目元を擦っているヤン・ウェンリーだった。
「先生、ちょっと質問があるんだけど、いいかな」
「なんだ、ヤン。お前がポイントを払って須藤の点数を買い取る気か? 言っておくが、プライベートポイントで試験の点数を買えるというルールは存在するが、今のDクラスでそれを買うには十万ポイントでは足りんぞ」
茶柱の言葉に、周囲の生徒たちが「点数を買えるのか!?」とざわめく。後ろにいた綾小路も、自分が堀北を誘導して使おうとしていた切り札を茶柱の方から明かされたことに、わずかに目を見開いた。
しかし、ヤンは首を横に振った。
「まさか。何度も言っているけれど、僕のポイントは僕の紅茶代だよ。他人の英語の一点のために拠出するつもりは毛頭ないさ。……僕が聞きたいのはね、この学校における『平均点』の算出定義についてなんだ」
「平均点の定義だと?」
茶柱が眉をひそめる。
「うん。今回の英語の合格ラインは、クラス平均点である『79.2点』の半分、小数点以下を四捨五入した『40点』とされているよね。だからこそ、39点の須藤くんは赤点になった」
ヤンは掲示板の自分の名前の欄――『英語:58点』と書かれた部分を指差した。
「ところで先生、僕の英語の答案、長文読解の問四がバツになっていたんだけど、あれは採点ミスじゃないかな」
「採点ミスなどない。お前の解答は、本文の主旨を要約する問題で、指定された単語数の上限を二語オーバーしていた。だからゼロ点だ」
「やっぱりね。でも先生、あの設問の注意書きには『三十語程度で記述せよ』と書いてあっただけで、『三十語以内で記述せよ』とは書かれていなかったよ」
茶柱の表情がピクリと固まった。
「一般的に、公文書や試験規定において『程度』という表記を用いる場合、プラスマイナス一割の範囲は許容誤差として認められるのが通例だ。三十語のプラス一割なら三十三語まで有効になる。僕の解答は三十二語。文法的にも内容的にも完璧だったはずだけど、これをゼロ点にするというのは、採点基準の恣意的な運用にあたらないかい?」
「……それは、担当教師の裁量だ」
「もちろん、普段の小テストなら教師の裁量で構わないさ。でもね、今回は『一人の生徒の退学』と『クラスポイントの増減』という、学校システムの根幹に関わる重大な査定がかかっている。もし僕がこの答案を持って生徒会、および学校の理事会に『採点基準の不当性に関する異議申し立て』を行ったら、どうなるかな? 少なくとも、正式な審議が終わるまで須藤くんの退学処分は凍結されるし、英語の担当教師は自分の作った設問の不備を審査委員会で追及されることになる」
ヤンは困ったように眉を下げ、茶柱に向かって小声で付け加えた。
「官僚機構というのはね、先生。自分たちの作った書類の不備を公式の場で指摘されることを、何よりも嫌うものなんだ。現場の教師としては、たかが数点のことで理事会に始末書を書かされるくらいなら、こっそり採点を見直して丸にしておいた方が、お互い平和だと思わないかい?」
茶柱は、目の前の気怠げな少年を、まるで底知れぬ深淵を覗き込むかのような目で見つめた。
「……仮にお前のその設問が正解になり、英語の点数が8点上がったとしよう。だが、それで得をするのはお前だけだ。須藤の点数は39点のままだぞ。それどころか、お前の点数が上がればクラスの平均点も『79.4点』に上がる。どのみち須藤は赤点だ」
「あ、いや、そこなんだよ、先生」
ヤンは黒髪を指でくるくると弄びながら、あっけらかんと言った。
「僕の英語の答案、もし再採点してもらうなら、ついでに問一のリスニングのマークシートも確認してほしいんだ。あそこ、僕が消しゴムで消した跡が薄く残っていて、機械が誤読して正解にしちゃっている可能性があると思ってね。人間の目で見れば『二重マーク』で不正解になるはずだから、マイナス12点。さっきのプラス8点と合わせると、僕の英語の点数は差し引き4点下がって『54点』になる」
堀北が、ハッと息を呑んだ。綾小路の瞳が、驚愕に揺れる。
「……お前の点数が下がれば、クラスの平均点も下がる、と?」
「そう。それだけじゃないよ。さっき平田くんと櫛田さんにも確認してもらったんだけど、彼ら二人も、自分の答案の『二重マークによる機械の誤採点(ということにできる微妙な消し跡)』をそれぞれ20点分ずつ見つけてくれてね。僕たち三人が揃って『良心の呵責に耐えかねて自己申告し、正当に減点してもらう』と、クラスの合計点は44点下がる。四十人で割れば、クラス平均点は『78.1点』だ」
――試験前日の夜――ケヤキモールのベンチにて
『――というわけで、平田くん、櫛田さん。君たちにちょっとした「保険の作業」をお願いしたいんだ』
アイスティーを飲みながら、ヤンは平田洋介と櫛田桔梗に向かって静かにそう切り出していた。二人は怪訝そうな顔を返している。
『保険の作業、ですか……?』
『うん。もし明日の中間試験で、須藤くんがどうしてもあと一点足りなくて赤点になりそうな場合の、ね』
ヤンは自分の学生端末をトントンと指で叩いた。
『この学校の採点システムは完全な機械採点だ。そして人間が書くマークシートというものは、どれほど丁寧に消しゴムで消したつもりでも、光学的文字読取装置の感度によっては「二重マーク」や「不鮮明な解答」として微小なエラー判定を拾うことがある』
『まさか……ヤンくん、それを利用する気?』
『さすが櫛田さん、飲み込みが早い。明日、英語の試験の中にね、僕と平田くん、そして櫛田さんの三人は、すでに自信を持って解き終えたマークシートの適当な問題を選び、消しゴムで「わざと薄く消し跡を残した状態の二重マーク」をつくるんだ』
『そんなことしたら、普通にエラーになって点数が下がるだけじゃん……!』
『そう、エラーになって点数が下がる。僕なら二十点分くらい、意図的に減点されるような曖昧なマークを作るのは造作もないよ。もちろん、試験が終わった直後の時点では、僕たちの点数は普通に高得点だ。だけど、もし採点結果が発表された時に須藤くんがあと一歩で赤点になりそうだったら――その瞬間に僕たちは立ち上がるのさ』
ヤンは紅茶のグラスを置き、二人に微笑みかけた。
『「先生、僕たち三人、試験中にマークシートの記入ミスに気づいてしまいました。良心の呵責に耐えかねるので、正当に再採点して減点してください」ってね。生徒からの自主的な申告と機械の誤読の再確認となれば、学校側も無視できない。結果として、僕たちの点数はそれぞれ二十点ずつ下がり、クラス全体の平均点がガクッと落ちる』
『平均点が下がれば……英語の赤点ラインそのものが下がる……!』
『暴力や脅しじゃなく、学校のシステム上の「規定の隙間」と「人間の良心(に仮託した自己申告)」を利用して、ルール通りにシステムをハックする。これが、一番血が流れなくて、一番確実な防衛戦術さ』
その圧倒的な先読み能力と、クラスメイトの誰も傷つけずに全員を救うための周到な準備の前に、平田と櫛田は顔を見合わせ、やがて頷くしかなかったのである――。
ヤンの唇が、わずかに弧を描いた。
「78.1点の半分は、39.05点。小数点以下を四捨五入すれば、合格ラインは『39点』に引き下がる。……ほら、一ポイントも使わずに、須藤くんが合格ラインに乗ったよ」
静寂。
掲示板の前を取り囲んでいたDクラスの生徒たちは、狐につままれたような顔でヤンを見つめていた。
自分たちの点数を「あえて下げる」ことでクラス平均点を意図的に引き下げ、赤点ラインそのものを須藤の点数まで掘り下げる。しかもそれを、試験中にあらかじめ「いざという時にどちらにも解釈できる微妙なマークの消し跡」と「設問の不備を突ける記述解答」を自分の答案に仕込んでおくことで、一円のコストも払わずに実現してみせたのだ。
「……お前たちは、最初から試験中にそれを仕込んでいたというのか?」
茶柱の声が、かすかに震えていた。
「まさか。平田くんと櫛田さんには、試験の直前に『もし須藤くんがギリギリで落ちそうになった時の保険として、余裕がある教科で二十点分くらい、消しゴムで中途半端に消したマークを作っておいてくれ』と頼んでおいただけさ。使わずに済めばそのまま高得点だし、必要なら自己申告して平均点を下げるバラスト(重り)にできる。……で、どうかな先生。このまま理事会を巻き込んで公式な再採点手続きに入るかい? それとも、現場の穏便な処理として、今のうちに掲示板の数値を書き換えておくかい?」
茶柱佐枝は、長い時間ヤン・ウェンリーの瞳を見つめ返した。
やがて彼女は、ふっと自嘲するように息を吐き出し、肩の力を抜いた。
「……呆れた男だ。過去問の傾向を見抜いただけでなく、採点システムの盲点と教師の心理まで利用して、退学者の救済コストすら踏み倒すとはな。いいだろう、英語の教師には私から話を通しておく。須藤の赤点はなしだ」
「おおおっ!! マジかよ!! 助かったぜヤン、平田、櫛田ァ!!」
須藤が歓喜の雄叫びを上げ、池や山内と抱き合って飛び跳ねる。クラス中が安堵と歓声に包まれる中、堀北鈴音はヤンに歩み寄り、呆れと畏怖が混ざり合った声で囁いた。
「あなたという人は……本当に底が見えないわね。平均点を下げて合格ラインを操作するなんて、ルールブックの精神を真っ向から嘲笑うようなやり方よ」
「褒めないでくれよ、堀北さん。ルールというのはね、権力者が下々の者を縛るために作るものだけど、同時に権力者自身もそのルールに縛られるという諸刃の剣なんだ。民主主義でも専制主義でも、法律の条文を一番よく読み込んでいる人間が、最後に甘い汁を吸えるようにできているのさ」
ヤンは肩をすくめると、騒ぐクラスメイトたちの輪からそっと抜け出した。
「さて、これで本当に中間試験は終わりだ。僕はケヤキモールのカフェで、少し高いダージリンでも飲んで帰るよ」
夕暮れの光が差し込むケヤキモールのオープンカフェ。
ヤン・ウェンリーが念願のダージリンティーを一口すすり、至福の溜息をついた、まさにその時だった。
コツ、コツ、と乾いた杖の音が近づいてくる。
「ごきげんよう。少し、お邪魔してもよろしくて?」
鈴を転がすような、それでいてどこか絶対者の響きを帯びた声だった。
ヤンがカップを持ったまま顔を上げると、そこには銀色がかった美しい髪を揺らし、ベレー帽を被った小柄な少女が立っていた。杖に体重を預けながら、お人形のように整った顔立ちに優雅な微笑みを浮かべている。その後ろには、護衛のように数人の生徒が控えていた。
「やあ、ごきげんよう。席なら空いているけれど……君は、Aクラスの坂柳有栖さん、だっけ?」
「あら、私の名前をご存知でしたのね。光栄ですわ、Dクラスの『魔術師』さん」
坂柳は周囲の生徒を手で下がらせると、ヤンの向かいの席に腰を下ろした。
「どうして僕の名前や、そんな大袈裟な呼び名を?」
「一之瀬さんから少しお話を伺いましたの。Cクラスの龍園くんを、指先ひとつで手玉に取った面白い方がDクラスにいると。それに先ほど、職員室の方でもちょっとした騒ぎになっていましたわよ。答案の再採点規定を突いて、赤点基準そのものを書き換えてしまった生徒がいる、とね」
坂柳は杖に両手を重ね、宝石のような紫の瞳でヤンをじっと見つめた。
「フフ、正直に申し上げますと、退屈していましたの。この学校の生徒も、教師も、誰もが与えられた盤面の上で駒を動かすことしか考えていない。けれど、あなたは違う。あなたは盤面そのものをひっくり返し、ルールを作った側の人間を盤上に引きずり出して戦わせる……まるで、幾千もの戦場をくぐり抜けてきた老練な司令官のような手口ですわね」
普通の高校生なら、そのすべてを見透かすような眼差しに気圧されていただろう。
しかし、ヤンはただ眠たげに目を瞬かせると、テーブルの上のシュガーポットを坂柳の方へと押しやった。
「買いかぶりだよ、坂柳さん。僕はただの怠け者さ。正面からぶつかり合うと体力もポイントも消耗するから、なるべく戦わずに済む抜け道を探しているだけでね。司令官なんて柄じゃない、一介の年金受給希望者だよ」
「年金受給希望者、ですか。高校生のお口から出るとは思えない単語ですわね」
坂柳はクスクスと上品に喉を鳴らして笑った。
「ですが、残念なお知らせがございますわ、ヤン・ウェンリーくん。あなたがどれだけ平穏な隠居生活を望もうと、この学校はそれを許してはくれません。もうすぐ夏休みがやってきますけれど……そこで行われる『特別試験』は、今回のような書類上のトリックだけでは決して乗り切れない、本格的なサバイバルになりますから」
「特別試験、ね……」
ヤンの眉が、今日一番の角度でハの字に下がった。
「その時、あなたがAクラスの私とどう戦うのか……今から楽しみで仕方ありませんわ。どうかそれまで、誰にも退学させられずに生き残っていてくださいね」
坂柳は立ち上がり、優雅に一礼すると、再びコツコツと杖の音を響かせて去っていった。
残されたヤンは、すっかり適温になったダージリンティーを眺めながら、深く、実に深くため息をついた。
「やれやれ……皇帝陛下(ラインハルト)みたいな目をしたお嬢さんだな。どの世界に行っても、才能のある人間というのはどうしてこうも他人の昼寝を邪魔したがるんだろうね」
遠くの植え込みの陰から、その二人の邂逅を静かに見つめていた綾小路清隆の存在にも気づかないふりをして、ヤン・ウェンリーは残りの紅茶をゆっくりと飲み干すのだった。