南国の眩い太陽が照りつける青い海を背に、巨大な豪華客船が投錨した。浮足立つ生徒たちを待ち受けていたのは、バカンスなどではなく、学校側が周到に用意した『無人島サバイバル特別試験』の通達であった。
各クラスに支給された『300Sポイント』を元手に、テントや食料、飲料水などの物資を購入して一週間を生き抜くこと。島内の『スポット』を占領してポイントを積み上げること。そして何より、各クラスが定めた『リーダー』を最終日まで隠し通し、他クラスのリーダーを的中させれば莫大なボーナスが入る――それが試験の骨子であった。
だが、白い砂浜に降り立った瞬間、ヤン・ウェンリーは支給された体操服の襟元をパタパタと扇ぎながら、心底うんざりしたように天を仰いだ。
「軍隊という組織が、どうしてわざわざ居心地の悪い野外で行軍演習なんかをやりたがるのか、僕には昔からさっぱり理解できなくてね。人間が何千年もかけて文明を築き、屋根と冷房のある部屋を作ったというのに、わざわざ原始時代に逆戻りすることはないじゃないか」
「文句を言わないの。少しはしゃっきりしなさい」
隣に立つ堀北鈴音が、額に滲む汗を拭いながら鋭い視線を飛ばしてくる。いつも以上に険のある声だった。ヤンは彼女の横顔をちらりと盗み見ると、眉をハの字に下げた。
「あのさ、俺たちは最初っから簡易トイレもシャワーもテントも、全部ちゃんとしたやつを買うべきだ! 300ポイントもあるんだからよ!」
「そうよ! 野宿なんて絶対に無理!」
池や山内、そして女子生徒たちが口々に快適さを求めて騒ぎ立てる。平田洋介が困り果てて堀北の方を見るが、堀北は腕を組んで冷淡に言い放った。
「馬鹿を言わないで。1ポイントでも多く残すことがクラス昇格への最短ルートよ。テントと最低限の水・食料以外、一切の出費は認めないわ」
たちまちベースキャンプ候補地の空気が凍りつく。一触即発の険悪なムードの中、平田が助けを求めるように、砂浜に座り込んでいたヤンを振り返った。
「あの、ヤンくんはどう思う? やっぱり、ポイントは極力使わない方がいいのかな……」
全員の視線がヤンに集まる。ヤンは立ち上がると、パンパンと体操服の砂を払い、困ったように頭を掻いた。
「いやあ、僕はどっちでもいいよ。ただね、戦史の観点から言うと、前線の兵士の衛生環境と睡眠の質をケチった軍隊は、戦闘が始まる前に疫病と内乱で自滅するのが相場なんだ。だから、女子用の簡易トイレと更衣室付きシャワー、それにしっかりした大型テントと、一週間分のまともな食料だけは最初に全部買っておいた方がいいと思うよ。それでだいたい140ポイントほど消えるけれどね」
「140ポイントも!? あなた、正気なの!?」
堀北が信じられないというように声を荒らげた。
「半分近くも最初に消費したら、他クラスに大きく水をあけられるわ! 途中で不測の事態が起きたらどうするのよ!」
「不測の事態が起きるのは、無理な節約をして兵士――クラスメイトの不満が爆発した時さ、堀北さん」
ヤンは森の奥を見やりながら、眠たげな黒い瞳をわずかに細めた。
「それにね、この試験のルールには奇妙な非対称性がある。最初に与えられる基礎ポイントは300だけど、最終日に他クラスのリーダーを一人的中させれば『プラス50ポイント』が入り、外せば『マイナス50ポイント』を失う。さらに自クラスのリーダーを隠し通せば『プラス50ポイント』のボーナスだ。つまり、ちまちまと水や食料を削って10ポイントや20ポイントを浮かせるより、最終日の情報戦で勝敗を決した方が遥かに収支が大きいんだよ」
ヤンは人差し指を一本立てて、周囲の生徒たちを見渡した。
「こういう消耗戦において一番やってはいけないのは、『中途半端に戦力を逐次投入して、全員を疲弊させた挙句に自滅すること』だ。だったら最初から140ポイントを『必要経費』として償却し、全員の士気と健康を最高潮に保ったまま、残りの160ポイントを死守する防衛戦に徹した方がずっと勝率は高い。……あ、ちなみにその140ポイントの予算の中に、僕が毎日飲むための紅茶の茶葉と固形燃料の分も、3ポイントほど計上させてもらえると嬉しいな」
「紅茶の分は却下よ!」と堀北が即座に噛み付いたが、女子生徒たちや須藤は「ヤンが言うなら間違いないぜ!」「トイレとシャワーがあるなら一週間耐えられる!」と一気に賛成へ傾いた。
こうしてDクラスは初日に思い切った出費を行い、森の開けた安全な平坦地に、清潔で快適なベースキャンプを設営することに成功した。
そして、その日の夕方。テントの設営が終わった直後、平田が専用の『リーダーカード』を取り出した。
「さて、リーダーを誰にするかだけど……」
ルール上、リーダーカードを持った生徒がクラスの全権を握り、島内のスポットを占領する。ただし、他クラスにリーダーの名前を知られれば50ポイントを減点され、かつ正当な理由のないリーダー変更は認められない。
「私がやるわ」
堀北が一歩前に出た。だが、その足元がわずかに揺らいだのを、ヤンは見逃さなかった。
「堀北さん、君にリーダーを任せるわけにはいかないな」
「……何よ。文句があるの?」
「文句じゃないよ。君、船に乗る前からずっと微熱があるだろう。船内の冷房と、この炎天下の急激な気温差で、体温調整が追いついていない。顔が赤くて呼吸が浅いよ」
堀北の表情が凍りついた。後ろに控えていた綾小路清隆も、ヤンの観察眼の鋭さに微かに目を瞠る。
「体調不良を押して前線指揮を執るのは美談にはなっても、組織にとってはリスクでしかないよ。だから、リーダーは僕が引き受ける」
「なっ……! ヤン、あなたが……!?」
平田や櫛田だけでなく、クラス中がどよめいた。常にサボることと昼寝のことしか考えていない男が、真っ先に責任の重い役職に名乗りを上げたのだ。
「ええ、僕がやるよ。スポットの占領なんて面倒なことは最初から一切しないから、僕が持っているのが一番安全さ。カードは僕のポケットにしまっておくよ」
ヤンは飄々とした手つきで端末に指紋を登録し、排出されたリーダーカードを自分の体操服の胸ポケットへと収めた。その無防備極まりない姿に、堀北は呆れ果てて言葉を失い、綾小路だけがその瞳の奥に宿る計算の深さを探るように見つめていた。
試験四日目。
ヤンの指揮――というか「何もしない指揮」のおかげで、Dクラスは奇妙な平穏を保っていた。
男子は須藤や池を中心に川で魚を獲り、女子は清潔なシャワーとトイレのおかげでストレスなく過ごしている。スポットの占領には一切手を出さず、ベースキャンプの防衛だけに徹する日々。ヤンは木陰の特等席に敷いたシートの上で、文庫本をめくりながらぬるい紅茶を啜っていた。
そこへ、突発的な事件が起きた。
森の茂みから、泥だらけで体操服を裂かれ、頬に痛々しい赤アザを作った一人の少女が倒れ込んできたのだ。
Cクラスの伊吹澪であった。
「きゃああっ!? だ、大丈夫!?」
櫛田や女子たちが駆け寄る。伊吹は肩を荒く上下させながら、憎悪を込めた声で吐き捨てた。
「……龍園に、殴られた。あいつのやり方に逆らったら……クラスから追い出されたのよ……!」
クラスメイトたちが同情の声を上げる中、堀北は冷徹に言い放った。
「他クラスの生徒を匿う余裕なんてないわ。追い出しなさい」
「でも堀北さん、この怪我を放っておくなんてできないよ!」
平田が必死に庇う。意見が真っ二つに割れる中、ヤンは本から顔を上げ、小さく溜息をついた。
「まあまあ、堀北さん。人道的な観点はさておき、戦場で行き倒れになった脱走兵を無碍に追い払うと、後でどこから恨みを買うか分からないよ。テントの隅を貸してあげるくらいは構わないじゃないか」
「ヤン、あなたまで……!」
堀北が睨みつけるが、ヤンはひらりと手を振って制した。
その日の夜。
全員が寝静まった深夜、ヤンはテントの外の焚き火の前に一人で座り、湯を沸かしていた。そこへ、足音を忍ばせて伊吹澪が近づいてくる。
「……あんた、Dクラスのヤン・ウェンリーね。昼間は助かったわ」
「いいよ、お互い様さ。無人島で女子一人を野宿させるほど、僕も鬼にはなりきれなくてね」
ヤンは人畜無害な笑みを浮かべ、胸ポケットからごそごそと何かを取り出した。
――金属光沢を放つ、『リーダーカード』であった。
ヤンはそれを手遊びのように指先で弄びながら、焚き火の光に透かして見せた。伊吹の瞳孔が、闇の中でカッと見開かれる。
「やれやれ、こんなプラスチックの板切れ一枚に、大の大人たちが大金を賭けているんだから滑稽な話だ。こんなもの、落としたら一発でアウトだというのにね」
ヤンはそうぼやくと、カードを無造作に胸ポケットへ戻し、立ち上がった。
「さて、僕はもう寝るよ。伊吹さんも、体調には気をつけてね」
ヤンがテントの中へ消えていく。残された伊吹澪は、暗闇の中で激しく呼吸を乱しながら、自分のポケットの奥に隠し持っていた無線機を握りしめていた。
そして運命の試験最終日――七日目の早朝。
前夜から吹き荒れた凄まじい暴風雨は未明にピークを迎え、島全体を叩きつけていた。泥水が流れ、木々が激しく軋む過酷な朝。
点呼のわずか三十分前、Dクラスの女子テントから悲鳴が上がった。
伊吹澪が、姿を消していたのだ。
「伊吹さんがいない! 荷物も全部なくなってるわ!」
「嘘だろ!? この嵐の中、どこへ行ったんだよ!」
騒然となるキャンプ地。堀北が青ざめた顔で周囲を見渡す中、ヤン・ウェンリーがテントからふらりと姿を現した。
その顔色は紙のように白く、唇は紫色に変色していた。全身が小刻みに震え、足元もおぼつかない。
「ヤ、ヤンくん!? どうしたの、その顔……!」
平田が慌てて駆け寄る。
「……いやあ、参ったな。昨晩の嵐でテントの隙間から雨水が入ってきてね。すっかり体が冷え切ってしまったみたいだ。激しい悪寒と高熱で、立っているのもやっとだよ」
ヤンは力なく苦笑いすると、テントの柱に寄りかかってズルズルと座り込んだ。そこへ、見回りに訪れた茶柱佐枝が険しい表情で足早に近づいてくる。
「どうした、ヤン。……ひどい熱だな」
茶柱がヤンの額に手を当てる。
「三十九度は超えているな。この嵐の中で放置すれば肺炎を起こしかねん。……ヤン、試験を中断し、医務室へリタイアするか? だが、お前がリタイアすればDクラスは『30ポイントのペナルティ』を受けるぞ」
「ちょ、ちょっと待ってください! ヤンはうちのリーダーなんですよ!? リーダーがリタイアしたらどうなるんですか!?」
須藤が悲鳴を上げる。
「規則に基づき、リーダーの権限は別人に委譲される。だが、ペナルティの30ポイントは免れん」
茶柱の冷徹な宣告に、クラス全員が絶望に包まれた。
だが、当のヤンは、震える手でポケットからリーダーカードを取り出すと、虚ろな、しかしどこか悪戯っぽく光る瞳で茶柱を見上げた。
「先生……ルールブックの第4項を、もう一度確認させてくれないかい。『リーダーが急病等で試験続行不可能と医師が判断した場合、速やかに代理のリーダーを選出すること』……この条項に、虚偽や不正の余地はないよね?」
「……ああ。体調不良によるリタイアとリーダー交代は、正当な権利だ」
「なら、僕はリタイアするよ。こんな寒くて濡れる場所には、一秒たりともいたくないからね」
ヤンはカードを差し出し、視線を背後に立っていた少年に向けた。
「綾小路くん」
「……何だ」
綾小路が無表情に応じる。
「このカード、君が受け取ってくれないかい。君は一度も目立った行動をしていないし、他クラスの誰も君の存在を警戒していない。平田くんや堀北さんが持てば敵の深読みに引っかかるけれど、君なら完璧な『ブラインド』になれる」
綾小路はヤンの瞳を静かに見つめ返した。
(……なるほどな。最初からこれが狙いだったのか)
綾小路の脳裏で、すべてのピースが恐ろしい精度で噛み合っていった。
伊吹が送り込まれてきた初日から、ヤンは彼女がCクラスのスパイであることを見抜いていた。だからこそ、わざと伊吹の目の前でリーダーカードを無防備に晒し、「Dクラスのリーダーはヤン・ウェンリーである」という絶対的な確証を龍園に掴ませたのだ。
伊吹は昨夜の嵐に乗じて逃亡し、すでに龍園と合流してその情報を報告しているはずだ。そして試験最終日の今朝、龍園も、彼と裏で結託しているAクラスの葛城も、確信を持って解答用紙に『ヤン・ウェンリー』と記入する。
だが――その最終点呼のわずか数十分前に、ヤンは極度の体調不良を理由に合法的にリタイアし、リーダーを完全に無名な綾小路へとすり替える。
敵の頭脳派たちがどれだけ深読みしようとも、「試験終了直前の三十分に、本物のリーダーが病気で交代した」という事実を察知することは絶対に不可能だ。
ペナルティの30ポイントをあらかじめ『撒き餌』として支払い、敵のAクラスとCクラスから誤答ペナルティとして各50ポイント、合計100ポイントを確実に毟り取る。その上、自クラスのリーダー防衛ボーナス50ポイントも手中に収める。
(敵に確たる情報を与えて安心させ、その情報そのものを最後の瞬間に無価値化する……退却戦に見せかけた、完璧な包囲滅尽の罠だ)
綾小路は無言のまま、ヤンから差し出されたリーダーカードを受け取った。
「……引き受けた」
「ありがとう。あとは頼んだよ、綾小路くん。僕は一足先に、船のふかふかのベッドへ帰還させてもらうからね」
ヤンは茶柱と救護スタッフに抱えられ、迎えのボートへと運ばれていった。その去り際の横顔は、高熱に苦しんでいるはずなのに、どこかやり切ったような晴れやかな笑みを浮かべていた。
数時間後。
すべての特別試験が終了し、生徒全員が収容された豪華客船の大ホールは、異様な熱気と静寂に包まれていた。
ステージ上のスクリーンに、各クラスの最終結果が映し出されていく。
ざわめきが、次第に悲鳴とどよめきへと変わっていった。
「な……何だと……!?」
Aクラスの陣営で、スキンヘッドの筋骨隆々たる少年、葛城康平が絶句して立ち尽くしていた。
Cクラスの列では、龍園翔が信じられないものを見るようにスクリーンを睨みつけ、荒々しく舌打ちを響かせた。
『リーダー的中テスト結果』
・Aクラス:Dクラスリーダー予想[ヤン・ウェンリー] ―― 【不正解】(マイナス50pt)
・Cクラス:Dクラスリーダー予想[ヤン・ウェンリー] ―― 【不正解】(マイナス50pt)
・Dクラス:リーダー防衛成功 ―― 【ボーナス獲得】(プラス50pt)
「嘘だろ……!? 伊吹があいつのカードを直接確認したんだぞ! なぜヤンがリーダーじゃないんだ!?」
Cクラスの生徒が取り乱して叫ぶ。
伊吹自身も、顔面を蒼白にして震えていた。彼女が見たものは紛れもない本物のカードだったのだ。それなのに、結果は不正解。
「……まさか、あの男」
葛城がギリと奥歯を噛み締めた。
「伊吹の潜入を察知した上で、わざと本物のカードを見せ、最後の最後でリタイアを口実にリーダーを変更したというのか……!? 自らの体調不良すら戦術に組み込むなど、正気の沙汰ではないぞ……!」
スクリーンに表示された総合順位。
初日に大量の生活費を使い、リタイア減点を出しながらも、他クラスの自爆とリーダー防衛ボーナスによって、Dクラスはなんと総合二位という、学園史上前代未聞のジャイアントキリングを成し遂げていたのである。
「うおおおおおっ!! 勝った、勝ったぞおおおっ!!」
須藤が飛び上がり、池や山内が抱き合って涙を流す。堀北は震える手で口元を押さえ、隣に立つ綾小路は、ただ静かにホールの出口を見つめていた。
その喧噪から遠く離れた、豪華客船の最上階ラウンジ。
シャワーを浴びて清潔な制服に着替え、解熱剤を飲んで一息ついたヤン・ウェンリーは、静まり返ったフロアのふかふかのソファに深く身を沈めていた。手元には、船内のカフェで注文した、湯気の上る熱いアッサムティーがある。
「ふう……やっぱり、紅茶は温かいに限るね」
ヤンが至福の吐息をついた、その時だった。
カツ、コツ、と静かな杖の音が絨毯の上に響いた。
「ごきげんよう、Dクラスの魔術師さん。素晴らしい手並みでしたわね」
銀髪を揺らし、ベレー帽を被った少女――坂柳有栖が、優雅な微笑みをたたえて歩み寄ってきた。先天的疾患のために無人島試験を免除され、最初からこの船上で待機していた彼女は、手元の端末で試験の全データを閲覧していたようだった。
「やあ、坂柳さん。病み上がりの哀れな敗残兵をからかいに来たのかい?」
「まさか。賞賛しに参りましたのよ」
坂柳はヤンの向かいの席に腰を下ろすと、紫の瞳を細めて愉悦に満ちた笑みを零した。
「伊吹さんを泳がせて偽りの確信を与え、最後の点呼の直前に自ら盤外へ退避してチェックメイトを外す……葛城くんも龍園くんも、あなたの掌の上で完璧に踊らされてしまいましたわね。まさか、自分の肉体すら囮の駒として使い捨てるとは思いませんでしたけれど」
「人聞きが悪いな」ヤンは苦笑いしながら紅茶のカップを持ち上げた。
「僕はただ、本当に雨に濡れて風邪を引いただけだよ。無理をして島に残るより、暖かいベッドで寝ていた方が体にいいからね。兵士の健康管理は指揮官の第一の責務さ」
「フフ、どこまでもご自分を小さく見せようとなさるのですね」
坂柳は杖の両手に顎を乗せ、獲物を品定めするような妖艶な光を瞳に宿した。
「ですが、これであなたの名前は学園中に轟いてしまいましたわ。Aクラスも、Bクラスの一之瀬さんも、そして恥をかかされた龍園くんも、二度とあなたをただの怠け者とは見てくれないでしょう。……もちろん、私を含めて、ですけれど」
「やれやれ……一番恐れていた事態だね」
ヤンは深く、心の底から哀愁を込めて溜息をついた。
「どうして優秀な人間というのは、他人が静かに引退して年金生活を送るのを邪魔したがるんだろう。僕はただ、平穏無事に卒業して、歴史の教科書でも読んで暮らしたいだけなのに」
「ふふ、覇道に引きずり込まれる天才の嘆き……とても心地よい響きですわ」
坂柳は立ち上がり、優雅に一礼して背を向けた。
「次の特別試験で、盤上でお会いできる日を楽しみにしておりますわね、ヤン・ウェンリーくん」
遠ざかっていく杖の音を聞きながら、ヤンはぬるくなった紅茶を一口啜り、自分の学生端末を眺めた。
『残高:97,800 Pt』
「……まあいいか。少なくとも、向こう三ヶ月分の最高級ダージリンの茶葉代は守り抜いたんだからね」
窓の外に広がる夕暮れの海を眺めながら、ヤン・ウェンリーは誰にも聞こえない声で小さく笑うと、今度こそ誰にも邪魔されない深い眠りへと落ちていくのだった。