ヤン・ウェンリー異世界見聞録   作:ヤソウェソソー

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プラン1.DEATH NOTE-③

夜神月を「保護」という名の隔離施設に閉じ込め、その勉強机から一冊の黒いノート――『DEATH NOTE』を押収してから、わずか四日後のことだった。事件はこれで幕引きになるかと思われた矢先、民放の『さくらTV』に送りつけられた一本のビデオテープが、事態を最悪の方向へと急転させた。

 

『指定の日時にこのテープを生放送しなければ、局員を皆殺しにする』という脅迫状とともに局へ持ち込まれたその映像を、死の恐怖にパニックを起こしたテレビ局幹部は、特番としてそのまま全国放送で流してしまったのだ。放送を力づくで止めようと局の玄関へ突入した警察官は、監視カメラ越しに顔を見られただけで即死し、生放送中にキラ批判を口にしたコメンテーターも次々と心臓麻痺で息絶えていく。

 

そして、恐怖に凍りつく日本中のお茶の間へ向けて、モニターの中のビデオからは、ボイスチェンジャーで加工された無邪気な声が流れていた。

『キラ様、あ・た・し、ずっとあなたを探していました。私たちは同じ力を持った仲間です。どうか私を見つけて、お互いの“秘密の日記”を見せ合いっこしましょう!』

 

「……名前を知らずに、顔を見ただけで殺している、だと……?」

セーフハウスのメインモニターの前で、Lは親指の爪を血が滲むほど強く噛み締めながら、呻くような声を漏らした。

「ククク……やれやれ、本当に出ちまったか。こりゃあ驚いたね」

 

部屋の隅のソファで、ワタリが用意した高級リンゴを丸かじりしながら、異形の怪物――死神リュークが面白そうに肩を揺らした。押収されたノートに触れたことで、このセーフハウスにいる人間にはすでに彼の姿が見えている。

 

「リューク。テレビのキラが言っている内容は、あなたとは別の死神が人間界にいて、別のノートを誰かに渡しているという意味ですね?」

「そういうこった。しかも、顔を見ただけで殺してるってことは、あいつは自分の残りの寿命の半分と引き換えに『死神の目』を取引したってわけだ。人間の顔を見るだけで、頭の上に名前と寿命が浮かんで見える便利な目玉さ。ライトのやつは自分の寿命が惜しくて絶対に取引しなかったが、あの『第二のキラ』はよっぽど思い切りがいいらしい」

「顔を見るだけで名前が分かる目……!」

 

Lの顔から血の気が引いた。

これまでのキラ対策はすべて「本名を隠すこと」を前提に成り立っていた。偽名を使い、顔を出さずに指揮を執ることで安全を確保してきたが、もしこの『第二のキラ』に直接顔を見られれば、偽名など何の意味も成さない。一瞬で殺される。

「ワタリ、直ちにさくらTVのテープの回収と、発送経路の洗い出しを! それから、私たちが『第一のキラ』になりすまして返答のビデオを作成し、さくらTVに持ち込ませて放送させます。第二のキラを特定の場所へ誘き出して包囲・拘束するしかありません!」

 

Lが高速でキーボードを叩き始めた、その時だった。

 

「やめておきたまえよ、L。そんなことをしたら、君は三日どころか三十分後に死ぬことになる」

 

部屋の奥から、相変わらず寝癖のついた頭を掻きなが

ら、ヤン・ウェンリーがブランデー入りの紅茶を片手に歩み寄ってきた。

「なぜですか、ヤンさん! このまま放置すれば、第二のキラは本物のキラを探して街中を彷徨い、さらに多くの犠牲者を出します。偽のメッセージで罠にハメて逮捕するのが最善の手のはずです!」

 

「相手が『人間だけ』ならね」

 

ヤンはモニターの横に立つと、電源を切った画面に映る自分のだらしない顔を眺めながら、静かに言った。

「いいかい、L。まずは敵の性格をプロファイリングしてみよう。第一のキラである夜神月くんは、プライドが高く計算高い独裁者タイプだった。だから彼は『死神の目』なんていう寿命を削る取引はしなかったし、自分の安全を最優先に動いた。ところが、今回の第二のキラはどうだい? ただ『本物のキラに会いたい』というだけの理由で、自分の寿命を半分も投げ出し、こんな稚拙で目立ちすぎる脅迫特番をやってのけた」

「……ええ。極めて短絡的で、感情的な人物です。おそらく若い女性でしょう」

「その通り。彼女は世界を征服したいわけでも、新世界の神になりたいわけでもない。おそらく、自分の大切な人を殺した犯人をキラが裁いてくれたとか、そういう個人的な感謝から、キラに対して熱烈な恋愛感情に近い憧れを抱いているに過ぎないんだ。つまり、戦略的にはただの『恋する暴走機関車』さ」

 

ヤンはそこで一息つき、後ろでリンゴをかじっているリュークの方をチラリと見た。

「そこで問題になるのが、彼女の背後にいる『二人目の死神』の存在だよ。ねえリューク、死神というのはみんな君みたいに、人間がどうなろうと知ったこっちゃないという傍観者ばかりなのかい? それとも、中にはそんな危なっかしい人間の女の子に情が移って、親身に世話を焼いてやるようなお人好しの死神もいたりするのかな?」

リュークのリンゴをかじる動きがピタリと止まった。その黄色い眼球が、ぎょろりとヤンに向けられる。

「……お前、なんでそんなことが分かるんだ? まるで見てきたみてえな口ぶりだな」

「やっぱりね」

ヤンは苦笑して肩をすくめた。

「あんなに無防備で計画性のない女の子が、今まで警察に尻尾も掴まれずにテレビ局を脅迫できたんだ。後ろで誰かがアドバイスしているか、あるいは彼女にノートを渡した死神自身が、彼女にかなり好意的だと考えるのが自然だからね」

リュークは「ククク」と喉を鳴らした。

「ご名答だぜ、ヤン。もしもう一冊のノートが人間界にあるとしたら、それを持ってるのはレムって死神だ。あいつは俺と違って真面目なやつでな、特定の人間を気に入っちまうと、命がけで守ろうとする妙な癖がある」

「命がけで……守る……?」

Lが訝しげに眉をひそめた。

「どういう意味ですか、リューク。死神は不死身ではないのですか?」

「死神にもたった一つだけ、確実に死ぬ方法があるのさ」

 

リュークに代わって、ヤンが押収されたノートの裏表紙を指差しながら答えた。

「ここにあるルールから推測するに、死神は本来、人間の寿命を奪う存在だ。ならばその逆――『好意を持った人間の寿命を延ばすために、その人間を殺そうとする敵を死神自身がノートで殺した場合』、死神のレゾンデートル(存在理由)に反して死ぬんじゃないかい? どうだろう、リューク」

「……お前、本当に人間かよ。俺ですらそのルールを知ってる死神は少ないってのに、推論だけでそこまで辿り着くかね」

リュークが心底呆れたように首を振った。

その瞬間、Lの全身に鳥肌が立った。

「ま、待ってください……! ということは、もし私たちが第二のキラを罠にかけて逮捕し、死刑にしようとすれば……」

「彼女を愛している死神レムは、迷わず自分の命と引き換えに、彼女を脅かす君の名前をノートに書いて殺すだろうね」

 

ヤンの穏やかな声が、死刑宣告のように部屋に響いた。

「死神は壁をすり抜けるし、銃弾も効かないし、最初から『死神の目』を持っている。つまり、私たちがどれだけ厳重な警備を敷いて少女を逮捕したところで、その瞬間、透明な死神がこの部屋にふわりと入ってきて、君と私の名前をノートにサラサラと書いて終わりさ。これは捜査じゃないよ、L。絶対的な核抑止力を持った守護神との戦争なんだ」

 

Lは椅子の上で完全に凍りついた。

もしヤンの言う通りにせず、Lの計画通りに偽のメッセージで第二のキラを誘き出して逮捕していたら――その瞬間に、Lは理由も分からないまま心臓麻痺で死んでいたのだ。夜神月の時といい、今回といい、自分の「名探偵としてのセオリー」が、ことごとく自分の首を絞める自殺行為になっていたという事実に、Lは眩暈すら覚えた。

 

「……では、どうすればいいのですか、ヤンさん。逮捕もできない、脅迫もできない、近づくことすら死を意味する相手に……どうやって勝てばいいのですか!」

「簡単なことさ、L。武力で勝てない相手には、外交交渉をするんだよ」

 

ヤンはティーカップを置くと、珍しく少しだけ真面目な目をして言った。

「敵の戦争目的を考えてごらん。少女の目的は『憧れのキラ様と結ばれること』。そして死神レムの目的は『少女が誰にも殺されず、安全で幸せな一生を送ること』だ。気づかないかい? 少女がキラの共犯者としてノートを持ち続けることは、実は死神レムにとって最も避けたい悪夢なんだよ。もし第一のキラである夜神月くんと彼女が出会っていたら、月くんは間違いなく彼女を便利な駒として使い潰し、用済みになれば殺していただろうからね」

「……! つまり、死神レムと私たちの利害は……」

「そう、完全に一致しているのさ。私たちは少女にノートを手放してほしいし、死神レムも少女に危険なノートを手放して普通の幸せを掴んでほしいと願っている。ならば、罠を張る必要なんてない。正面からテーブルに着いて、死神と平和条約を結べばいいだけのことだよ」

「ですが、どうやって死神レムと接触するのですか?」

Lが眉をひそめた。

「さくらTVの電波を使って呼び出しますか? しかし、公共の電波でこのセーフハウスの場所を明かすわけにはいきません。そんなことをすれば、マスコミや野次馬、キラ信奉者がこのホテルに殺到して、私たちの拠点は一瞬でパンクします」

「当たり前じゃないか。敵にこちらの本陣の住所を教えてやる軍人がどこにいるんだい」

ヤンは呆れたように肩をすくめると、ソファでリンゴを放り投げて遊んでいる死神へと視線を向けた。

「公共の電波で流すのはね、暴走している女の子をその場にじっと留まらせるための『お留守番の命令』だけでいい。本命の連絡ルートは別にある。……ねえ、リューク」

「あ? 俺か?」

「死神同士なら、近くにいればお互いの気配や居場所がなんとなく分かるんじゃないかい?」

リュークはぎょろりとした目を瞬かせ、ニヤリと口を裂いた。

「ま、東京じゅうを探し回る人間の警察官よりは、よっぽど早く見つけられるぜ。死神の放つ特有の気配ってのがあるからな」

「結構。ならば君に、我が陣営の特使を務めてもらおう。レムのところへ飛んでいって、『君とミサさんの命を救うための平和条約を結びたい男がいる。話を聞く気があるなら、人間には見えない姿のまま、この部屋へ来てほしい』と伝えてきてくれないか」

「おいおい、俺は死神だぜ? なんで人間の使いっ走りなんかしなきゃならねえんだよ」

リュークがつまらなそうにそっぽを向くと、ヤンは事も無げにワタリを振り返った。

「ワタリさん。確か倉庫に、一口で果汁が溢れるような青森県産の最高級蜜入りリンゴが、木箱で三箱ほど届いていたね」

「はい。いつでも提供できるよう、完璧な温度管理で冷やしてございます」

「だそうだ。リューク、交渉成立かい?」

「……お前、本当に人間のくせに死神の使い方がえげつねえな!」

 

リュークは歓喜の声を上げて天井へと飛び上がると、黒い翼を広げてコンクリートの壁をすり抜け、夜の帳の中へと消えていった。

 

それからわずか三十分後。

さくらTVでは、警察と局員の間で極秘裏に差し替えられた『第一のキラからの返答』という短い静止画が、テロップとともに全国へ流されていた。

『第二のキラへ。君の熱意は届いている。だが現在、私の周辺には厳重な警戒が敷かれている。君が外を出歩けば、その姿から私の居場所まで割り出されかねない。愛する者を危険に晒したくなければ、指定の合図があるまで、自室から一歩も出ずに待機していなさい』

熱烈な信奉者である海砂を自宅に釘付けにするための、完璧な足止め。

そして、その放送が流れていたまさにその瞬間、セーフハウスの室内の気温が、スッと数度下がった。

部屋の奥のコンクリート壁が水面のように波打ち、そこから巨大な白い影が音もなく染み出してくる。

骨と繃帯を思わせる異形の体躯――二人目の死神、レムだった。その後ろでは、リンゴを両手に抱えたリュークが「へへっ、連れてきたぜ」と呑気に笑っている。

Lの息が止まり、全身が硬直した。

死神には銃弾も手錠も通用しない。相手がその気になれば、自分の本名をノートに書かれるだけで即死する。生まれて初めて味わう「絶対的な死」の威圧感に、名探偵の額を冷たい汗が伝った。

「……お前たちが、リュークの言っていた人間か」

レムの低く冷徹な声が、室内に響いた。その単眼が、Lとヤンを射抜くように見下ろしている。

「私はミサを守るためなら、今ここでお前たち全員を殺すことも厭わない。……なぜ私を呼んだ。何を企んでいる」

 

殺気が部屋の空気を物理的に押し潰す。

だが、その凍りつくような沈黙の中で、ヤン・ウェンリーだけはソファから立ち上がりもせず、手元の紙コップを軽く掲げてみせた。

「やあ、いらっしゃい、レムさん。夜更けにわざわざ呼び立ててしまって恐縮だよ。リュークから話は聞いていると思うけれど、私たちは君とも、君の大切なミサさんとも戦うつもりはないんだ」

「口先だけの言葉など信じん」

レムの白い手元に、黒いノートが音もなく具現化した。Lの心臓が跳ね上がる。

しかし、ヤンは全く動じることなく、手元のリモコンでテーブルの上のモニターを点灯させた。そこに映し出されたのは、警察の特別保護室で毛布を被り、誰にも見られていないと思い込んで憎悪の目をギラつかせている夜神月の姿だった。

「まずはそれを見てくれたまえ、レムさん。それが君の大切なお嬢さんが憧れている『第一のキラ』――夜神月くんの本当の姿だよ」

レムの視線がモニターに向けられた。

「彼はね、非常に優秀だが、他者を自分の野望のための駒としか見られないタイプの青年だ。私たちはすでに彼のノートを押収し、彼を無力化した。もし私たちが彼を止めていなければ、彼はミサさんの好意と『死神の目』を徹底的に利用し、用済みになれば躊躇なく彼女を殺していただろう。……君も、薄々はそれに気づいていたんじゃないかい?」

レムは黙り込んだ。死神である彼女には、人間の醜い打算も、ミサの危うさも痛いほど分かっていたからだ。

「……そうだとしても、ミサはあの男に惚れ込んでいる。お前たちがミサを法で裁こうとするなら、私はお前たちを殺すだけだ」

「そんなことをすれば、ミサさんの寿命を延ばすことになって君自身が砂になって消えてしまう。お嬢さんを悲しませるだけさ」

ヤンは優しく諭すように言った。

「だからね、レムさん。誰も死なず、誰も不幸にならない最高の手品を提案しようじゃないか。……ノートの所有権を放棄すれば、ノートに関する一切の記憶が消滅する。そうだろう?」

「……ああ。それがどうした」

「ミサさんにノートの所有権を放棄させ、そのノートを私たちに預けてほしいんだ。記憶を失った彼女は、自分が人を殺したこともすべて忘れて、ただの無邪気な女の子に戻る。私たちはね、記憶も凶器も失った女の子を今さら逮捕したり処罰するつもりは毛頭ないよ。法律や刑罰というのは未来の犯罪を防ぐためにあるのであって、復讐のためにあるわけじゃないからね。……そうだよね、L?」

ヤンに急に話を振られ、Lは「えっ、あ、ええ、もちろんです」と裏返った声で頷いた。

「だが……」

レムはまだ警戒を解かなかった。

「ミサはキラに心底惚れ込んでいる。私がただ『ノートを捨てろ』と言っても、あの子は絶対に聞き入れない」

「そこなんだよ、レムさん」

 

ヤンはテーブルの上から、一枚の写真と、自分が書いたメモを取り出して差し出した。

写真に写っているのは、爽やかで知的な笑顔を浮かべる高校生の夜神月――ノートを拾う前の、どこにでもいる善良な優等生だった頃の姿だ。

「まず、この写真をミサさんに見せて、『これが本物のキラ、夜神月くんだ』と教えてあげるといい。これだけハンサムな青年だ、彼女は一目で彼の顔と名前に恋をするだろう。個人の恋愛感情なら、ノートの記憶が消えても失われないからね」

「……そして?」

「その上で、このメモの通りに彼女に伝えてほしい。『月くんは今、警察に捕まって絶体絶命の危機にある。彼を救い出し、二人で普通の恋人同士として幸せに暮らすための唯一の方法は、二人が同時にノートの所有権を放棄して、キラとしての記憶をすべて消すことだ。それが月くん自身の最後の願いだ』とね」

 

レムの両目が、大きく見開かれた。

「ミサさんは恋に生きる女の子だ。『愛する月くんの命を救うために、二人で神の力を捨ててただの人間に戻る』なんていうロマンチックな悲恋のシナリオを渡されれば、喜んでノートの所有権を放棄するさ」

ヤンはさらに、決定的な一言を付け加えた。

「そしてね、レムさん。もっと素晴らしいことに、私たちがこれから保護室にいる夜神月くんにもノートの所有権を放棄させれば、彼自身も『キラという怪物』だった記憶をすべて失い、この写真の通りの誠実で優しい青年へと戻るんだ。記憶を失った二人が、普通の大学生と女の子として出会えば、彼はもう彼女を利用したり殺したりはしない。君が命を捨てることもなく、彼女は憧れの青年と安全な日常を過ごすことができる。どうだい? これ以上に平和的な解決策があるかい?」

 

部屋の中は、時計の秒針が刻む音だけが響く静寂に包まれた。

死神のルールと、人間の心理と、さらには記憶喪失後の人格変化までも完全に計算に入れ、一滴の血も流さず、一人の逮捕者も出さず、セーフハウスの安全を完全に守ったまま、死神にすら感謝されながら世界に平和を取り戻す――。

「……人間よ」

長い沈黙の末、レムが震えるような声でヤンに問いかけた。

「お前は……本当に、ミサに危害を加えないと誓うか。あの子の幸せを、奪わないと誓うか」

「私の年金受給権に懸けて誓うよ、レムさん。私はね、若い男女がくだらない権力闘争なんかやめて、平和にデートでもしてくれる世界が一番好きなんだ」

ヤンがふわりと微笑むと、レムはしばらくその瞳をじっと見つめていたが、やがて深く頭を下げた。

「……分かった。お前を信じよう、ヤン・ウェンリー。ミサを説得し、明日、あの子が所有権を放棄したノートをここへ持ってくる」

そう言い残し、レムの白い巨体は再び壁の向こうへと静かに消えていった。

 

 

翌日。都内の警察施設にある、窓一つない「特別保護室」。

ベッドの上で膝を抱え、血の滲む唇を噛み締めていた夜神月は、電子ロックの解除音とともに顔を上げた。

現れたのは、くたびれたスーツを着て、ボサボサの黒髪を揺らす青年――ヤン・ウェンリーだった。片手には紙コップ、もう片方の脇には茶色い封筒を抱え、その後ろには死神リュークがふわふわと漂っている。

ヤンはパイプ椅子を引きずって腰を下ろすと、封筒から月の腕時計と、漆黒の『DEATH NOTE』を取り出してテーブルに並べた。

「ッ……!!」

月の喉がひきつり、優等生の仮面が砕け散った。

「お前だ……! Lの後ろで糸を引いていたのは、お前だな! なぜ、父さんを使って僕からすべてを奪うような真似ができたんだ!!」

憎悪に目を血走らせる月に対し、ヤンは穏やかな瞳で見つめ返した。

「なぜと言われてもね、君の行動が歴史の教科書に載っている独裁者の典型そのものだったからさ。君はLとの一対一の頭脳戦を望んだが、生憎と私はチェス盤をひっくり返して駒を没収する方が好きな性分でね」

「お前たちに僕の何が分かる! この世界は腐っているんだ! 毎日くだらない犯罪者が善良な人間を殺し、法も警察もそれを止められない! だから僕が、自分の手を汚して悪を裁き、新世界の神になろうとしたんじゃないか! 僕こそが正義だ!!」

若き天才の悲痛な叫びを、ヤンは紅茶を一口すすっただけで、静かに受け止めた。

「やれやれ。新世界の神、ね。月くん、君の言う『腐敗した世界を浄化し、悪人のいない理想郷を作る』というスローガンはね、人類の歴史の中で何十人もの独裁者がまったく同じ言葉で叫んできたものだよ」

ヤンの声は静かだったが、鉛のような重みがあった。

「一人の人間の正義感に社会の生殺与奪を委ねる体制を、歴史学では神政とは言わない。ただの専制政治と呼ぶんだ。君はすでに、自分を捕まえようとした無実の捜査官たちを殺した。自分が神だと信じ込んだ人間は、必ず『自分に逆らう者はすべて悪だ』という論理に行き着く。そして何より、君はいずれ老いて必ず死ぬ。絶対者が死んだ瞬間、抑圧されていた暴力が一気に噴き出し、人類史上最悪の権力闘争が始まるんだ。君が作ろうとしていたのは恒久的な平和なんかじゃない。時限爆弾付きの巨大な監獄に過ぎないんだよ」

「っ……、あ……!」

ヤンの言葉には、何千年の人類の愚行を見つめてきた観察者だけが持つ揺るぎない事実の重みがあった。自分の理想が陳腐な独裁者の妄想として解体され、月のプライドは根底から粉砕された。

「……じゃあ、どうしろと言うんだ……! 僕を死刑にすればいいじゃないか!」

「それを決めるのは君自身だよ」

ヤンはノートを少しだけ月の方へ押しやった。

「このまま裁かれて、君を信じる夜神総一郎氏の人生を終わらせるか。それとも今ここで、私に向かって『このノートの所有権を放棄する』と宣言するかだ」

「……所有権を、放棄……?」

「放棄すれば、君の中からノートに関する一切の記憶が消える。自分がキラであったことも忘れ、父親を尊敬する真面目な夜神月に戻るんだ。君は明日から家に帰り、大学受験を続け、好きな人生を歩めばいい。今回の件は『キラによる嫌がらせを警察が防いだ』として処理する。ノートはリュークとレムが死神界へ持ち帰り、二度と落とさないと約束してくれた」

月は信じられないものを見るように目を見開いた。

「なぜ僕を罰しない!? そんなことをして、お前たちに何の得があるんだ!!」

「夜神総一郎という善良な父親が泣かずに済むことと、私の昼寝の時間が増えることくらいかな」

 

ヤンは立ち上がり、静かに言った。

「絶対的な権力は、どんなに善良な魂をも腐らせる猛毒だ。毒に侵された患者に必要なのは、処刑台じゃなくて解毒剤なんだよ。さあ、選びたまえ、月くん。新世界の神という妄想を守るために家族を道連れにするか。それとも神様には死んでもらい、ただの人間として生き延びるか」

月はベッドの上で拳を握り締め、ぽたぽたと涙を落とした。

力でも、知略でも、人間としての器の大きさでも、勝てなかった。最初からこの怠惰な青年の掌の上だった。そして脳裏をよぎったのは、「お前は私の自慢の息子だ」と涙を浮かべた父の顔だった。

「…………くそっ……!」

月は顔を覆い、嗚咽を漏らしながら絞り出した。

「僕の……僕の負けだ……。このノートの所有権を……放棄、する……っ」

その瞬間、月の張り詰めた緊張がぷつりと消えた。

肩から力が抜け、顔を上げた少年の瞳は、かつての澄み切った色を取り戻していた。

「……え? あれ……? 僕、どうして泣いているんだろう……?」

「やあ、目が覚めたかい、月くん。少し悪い夢を見ていたようだけれど、もう全部終わったよ。さあ、廊下でお父さんが待っている」

ヤンが扉を開けると、そこには心配そうに駆け寄ってくる総一郎の姿があった。「月!」「父さん!」と抱き合う親子を背に、ヤンはそっとその場を離れた。

 

それから廊下の薄暗がりの中、二冊の黒いノート――月が使っていたものと、昨夜レムから預かったミサのノート――をごわごわした手で抱え込んだリュークが、退屈そうに黄色い目を瞬かせて待っていた。

「さて、リューク。約束通り、その二冊は死神界の一番奥深くにでも持ち帰ってもらおうか。……念のために言っておくが、もう二度と人間界にノートを『落としたり』しないことだね」

「あ? 脅しのつもりかよ、ヤン・ウェンリー。俺は死神だぜ、人間のお前に脅される筋合いはねえな」

「脅しじゃない、忠告さ」

ヤンはポケットに手を突っ込み、やれやれと首を振った。

「君の目的は『退屈しのぎ』だったはずだ。だが覚えておきたまえよ。君がどれほど強力な殺人の道具を人間界にばら撒こうと、人間は愚行を繰り返す一方で、それを収拾する知恵も持ち合わせている。君が何冊ノートを落とそうが、私は何度でも一週間で回収して、君が期待する血みどろのショーをただの退屈な喜劇に変えてみせるよ。……死神にとって一番耐え難いのは、期待した見世物がちっとも盛り上がらないことなんじゃないかい?」

リュークはぎょろりとした目をヤンに向け、やがて、心底うんざりしたように長い息を吐き出した。

『ケッ……違えねえ。お前みたいなのが一人いるだけで、どんな大掛かりなデスゲームもただのお茶会で終わっちまう。面白がるどころか、あくびが出るぜ』

リュークは二冊のノートをしっかりと脇に挟み直すと、黒い翼を大きく広げた。

『安心しな。この二冊は俺が責任持って持ち帰るし、二度と人間界に落としたりもしねえよ。お前みたいな退屈の権化がいる世界なんぞ、もう二度とごめんだからな!』

吐き捨てるようにそう言い残すと、異形の死神はコンクリートの天井をすり抜け、冬の夜空の彼方へと静かに消え去っていった。

 

 

それから数ヶ月が過ぎた、四月のうららかな春の日。

東応大学へ首席合格を果たした夜神月は、満開の桜並木が続くキャンパスを、新しいスーツ姿で歩いていた。あの一夜の騒動以来、かつて抱えていた息苦しいほどの焦燥感が綺麗に消え去り、月の心は驚くほど軽やかだった。

 

「――あのっ! ちょっと待ってください!」

 

不意に背後から明るい声が響き、月が振り返ると、そこには春らしいワンピースを着た金髪の少女――弥海砂が息を切らして立っていた。

彼女もまたノートの記憶を失っていたが、部屋に残されていた高校生の月の写真を見るたび、胸を満たす温かい安心感の理由を確かめたくて、ずっと彼を探していたのだ。

「やっぱり! 夜神月くんですよね! 今日が初めてだけど……ミサには分かるの。月くんは、ミサがずっと探してた運命の人だって! ねえ、あそこのカフェでお茶しましょうよ!」

「えっ、運命の人って……ちょ、ちょっと待ってくれよ……!」

グイグイと腕を引っ張る海砂に、秀才はタジタジになりながらも、苦笑して頷いていた。桜の花びらが舞う中、楽しそうに歩く二人の姿が、春の陽だまりの中へと溶け込んでいく。

 

そのキャンパスから少し離れたオープンカフェのテラス席。

ブランデーを垂らした紅茶をすするヤンと、サングラスをかけてイチゴパフェを突くLが、その様子を眺めていた。

「……本当に、あれでよかったのでしょうか、ヤンさん」

「見てごらんよ、L。かつて新世界の神になると豪語していた独裁者が、今じゃ一人の女の子に手綱を握られて荷物持ちまでさせられている。彼のようなプライドの高い男にとっては、どんな監獄よりタチの悪い終身刑かもしれないよ」

Lはくすりと小さく笑みを漏らした。

「違いないですね。あの女性を論理的に説得するのは、私とチェスを指すより遥かに骨が折れそうです」

「世界というのはね、英雄や神様がいなくても、案外うまく回っていくものさ」

 

ヤンは満足そうに立ち上がろうとしたが、そのジャケットの裾を、Lの指がガッシリと掴んだ。

「……どこへ行くつもりですか、ヤン顧問」

「どこって、自分の部屋に帰って昼寝を……」

「ダメです」

Lは足元から分厚いアタッシュケースを持ち上げ、テーブルの上に置いた。

「キラ事件が短期間で片付いたおかげで、スケジュールが空いてしまいました。この中には世界中の未解決事件ファイルが約三千件入っています。ワタリに命じて、最高級のダージリンと五十年物のブランデーを一生分、ホテルの倉庫に搬入させました。インターポールへの終身出向手続きも完了しています」

Lは悪戯っぽく笑みを浮かべた。

「さあ、まずはファイルの一番上、ヨーロッパのクーデター計画の阻止から始めましょうか。人が死ぬ前に喜劇として幕を引いてあげないと、ですからね」

 

春の風が吹き抜け、書類がパラパラとめくれる。

不敗の魔術師は天を仰ぎ、今日一番の深い溜息をついた。

「……やれやれ。これだから、勤勉で有能な上司というのは困るんだよ……」

平和を取り戻した東京の空の下に、ヤン・ウェンリーの情けないぼやき声が、いつまでも静かに響いていた。

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