ヤン・ウェンリー異世界見聞録   作:ヤソウェソソー

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プラン3.インデペンデンス・デイ

1996年7月2日、午後5時。

 

合衆国の首都ワシントンD.C.の上空は、真紅と黒が混ざり合った異様な黄昏に呑み込まれていた。

雲を切り裂いて大気圏内に突入してきたその物体は、直径およそ十五マイル——二十四キロメートルにも及ぶ、漆黒の巨大な円盤だった。質量にして何億トンとも知れぬ異星人の母艦(シティ・デストロイヤー)が、ホワイトハウスの真上に影を落とし、重低音の振動で地表の空気を震わせている。

 

ホワイトハウスの地下深く、大統領危機管理センター(PEOC)。

密閉された作戦室には、冷気と汗の匂い、そして人類史上かつてない絶対的な恐怖が充満していた。

 

「大統領、全米各都市の避難状況は絶望的です! 道路は完全に麻痺し、暴動が発生しています!」

「ニューヨーク、ロサンゼルス上空の円盤からも、一切の交信応答はありません!」

 

軍高官や通信兵が叫び合う中、統合参謀本部議長グレイ将軍が眉根を寄せ、モニターの前に立つトーマス・J・ホイットモア大統領に詰め寄っていた。

若き大統領の顔は、苦渋に歪んでいる。

 

「大統領、奴らに話し合う気などありません! 先制攻撃を許可してください!」

喚き立てたのは、アルバート・ニムジッキ国防長官だった。

「B-2爆撃機による戦術核の使用を直ちに承認すべきです! ワシントン上空の奴らを吹き飛ばさねば、この国が壊滅します!」

 

「待ってください! 核なんて撃っても無駄です!」

息を切らせて作戦室に飛び込んできたのは、チェス盤の入ったバッグを抱えた長身の男——MIT出身の天才通信技術者、デヴィッド・レヴィンソンだった。

「彼らの通信シグナルを解読しました! 奴らは我が国の衛星通信網を利用して、世界中の円盤に同期信号を送っているんです。これはカウントダウンです! あと三十分もすれば、全都市で一斉に攻撃が始まります!」

 

「何だと……!?」ホイットモアが息を呑んだ。

 

「だからこそ核だ!」ニムジッキが唾を飛ばす。「撃つなら今しかない!」

 

作戦室が怒号と狂気で破裂しようとした、その時だった。

 

「……あのう、国防長官閣下。そんなに興奮して大声を出すと、血管が切れてしまいますよ」

 

緊迫した空気をまるで針で突くような、間の抜けた、しかし不思議とよく通る声が響いた。

 

部屋の最前列でも、指揮卓の前でもない。

壁際の書類ラックの隣、スチール製の丸椅子に腰を下ろしていた東洋人の青年が、心底うんざりした顔で銀色のマグカップを見つめていた。

よれよれのフライトジャケットを羽織り、寝癖のついた黒髪をぽりぽりと掻いている。数日前、ペンタゴンの極東情勢分析室に「外部の嘱託歴史アナリスト」として身元不明のまま転がり込み、なぜか大統領の側近グループの末席に紛れ込んでいた男——ヤン・ウェンリーだった。

 

ニムジッキが血相を変えて振り返る。

「貴様、何者だ!? 今がどんな状況か分かっているのか! 人類の存亡がかかっているんだぞ!」

 

「ええ、見ての通り、窓の外にとんでもなく無骨で悪趣味な巨大フリスビーが浮かんでいますからね。盲人でもなければ理解できますよ」

ヤンはカップの液体に口をつけ、酷くまずそうに顔をしかめた。

「それにしても、この国の公務員の福利厚生はどうなっているんでしょう。インスタントの粉末をぬるま湯で溶かした泥水を紅茶と呼ぶのは、茶葉に一生を捧げた農民への冒涜です。せめてブランデーを角砂糖二個分垂らすのを許可してくれれば、私の脳細胞も少しは景気のいい働きを見せるんですが」

 

「ふざけるなッ! 警備兵、この不審者を外へ叩き出せ!」

 

「待て、ニムジッキ!」

ホイットモア大統領が鋭く制止した。元湾岸戦争の戦闘機パイロットである大統領の直感が、この怠惰な青年の眼の奥にある、異常なまでの静謐さを捉えていた。

「……ヤンと言ったな。君ならどうする? 核攻撃は有効だと思うか」

 

ヤンは困ったように眉を八の字にした。

 

「有効なわけがありませんよ、大統領。恒星間航行を可能にするほどの超テクノロジーを持つ種族が、核爆発の熱放射や衝撃波ごときを想定していないはずがない。彼らの周囲には強力な偏向シールドが展開されているはずです。自国の首都の上空で核を炸裂させれば、敵には傷一つ負わせられず、放射性降下物で自分たちの国民を全滅させるだけだ。自殺志願者のやることですよ」

 

ニムジッキがぐうの音も出ずに絶句する。

 

「だが、ヤン提督……いや、ヤン氏」

デヴィッドが進み出た。

「奴らはあと三十分で攻撃を開始する。シールドがあるなら、我々には成す術がないじゃないか!」

 

「そんなことはありませんよ、レヴィンソン君」

ヤンは立ち上がり、ゆっくりとホログラムの戦況マップへ歩み寄った。その瞬間、彼の纏う気配が、呑気な歴史オタクから、幾多の星辰を指揮してきた不敗の名将のものへと変貌した。

 

「敵の行動様式を、戦術ではなく軍事的な常識から観察してごらんなさい。私はね、あの巨大な円盤を見た時、心底呆れ果てたんですよ。……この異星人の艦隊司令官は、恐ろしく傲慢で、同時に救いようのない軍事音痴だ」

 

「軍事音痴……!? あの怪物が!?」グレイ将軍が驚愕の声を上げる。

 

「ええ」

ヤンは指を一本立て、淡々と、しかし恐ろしいほどの明晰さで盤面を解体し始めた。

 

「まず第一に。直径二十四キロメートルもの主力母艦を、なぜわざわざ大気圏内——重力ポテンシャルのどん底に降下させたんです? 宇宙空間の安全な軌道上から質量弾を落とすか、遠距離からビームを照射すれば、地球の原始的な軍隊など反撃すらできずに壊滅させられたはずだ。それをせず、わざわざ都市の真上に陣取ったのはなぜか? ……低劣な劇場型心理効果、つまり『恐怖による威圧』を誇示するためですよ」

 

ヤンの言葉に、作戦室の士官たちが息を呑む。

 

「そして第二に。あれほどの巨艦を地表数十メートルの高度で停止させているにもかかわらず、直掩戦闘機(護衛機)を一機も周囲に展開させていない。これは艦隊運動論の初歩すら無視した暴挙です。『我々は無敵だから護衛など不要だ』と思い上がっている証拠だ。専制君主や略奪者が最も隙を見せるのは、自らの圧倒的優位を信じて疑わない瞬間ですよ」

 

ヤンはデヴィッドのパソコンを指差した。

 

「そして最大の致命傷が、レヴィンソン君が発見した『同期信号』だ。……君、実に素晴らしい着眼点だよ」

 

「えっ……? あ、ありがとう……?」

突然褒められ、デヴィッドは目を白黒させた。

 

「彼らが地球の民間衛星通信網をハッキングして使っているということはね、大統領」

ヤンは黒板にチョークで数式を書くように、滑らかに続けた。

「彼らの円盤の通信アンテナは、地球の周波数帯とプロトコルを受信するために、防御シールドの特定の周波数帯、あるいは物理的なフィルターを常時開放しているということだ。もしシールドが完全な不可侵の壁であるなら、外部の電波を受信することも、仲間同士でタイミングを合わせることもできないはずですからね」

 

デヴィッドの瞳が、雷に打たれたように見開かれた。

「……そうだ! 完全なシールドなら、通信波すら遮断してしまう! 彼らは外部通信のポートを開けっ放しにしているんだ!」

 

「その通りです」

ヤンは悪戯っぽく笑った。

「敵は自分たちのシステムがあまりに高度であるため、地球のような未開な惑星のコンピュータから逆流攻撃(バックドア侵入)を受けるなど、夢にも思っていない。……レヴィンソン君。君の持っているコンピュータから、彼らが同期に使っている通信帯域へ、過負荷をもたらす無意味なダミーデータ——いや、彼らの処理系を混乱させる単純な論理矛盾のウイルスプログラムを送り込むことはできるかい?」

 

「できる……! できるぞ!」

デヴィッドは猛烈な勢いでキーボードを叩き始めた。

「彼らの同期信号のタイムコードに、意図的なミリ秒単位の『ズレ』と計算エラーを上書きするんだ! そうすれば、世界中の円盤のシールド制御システムに致命的なバグが発生する!」

 

「待て!」ニムジッキが口を挟む。「たとえシールドを一瞬狂わせたところで、あの巨大な装甲をどうやって破壊するんだ!? 戦闘機のミサイル数発で落ちるタマじゃないぞ!」

 

「壊す必要なんてありませんよ、長官閣下」

ヤンはため息をついた。

「敵に、自分自身の力で自滅してもらえばいい」

 

ヤンはホワイトハウス上空の円盤の透視図を指差した。

 

「先ほどのスキャンデータによれば、奴らは主砲(プライマリー・ウェポン)の発射口を中央に備えている。あと数分で、都市を一撃で焼き尽くすための莫大なプラズマエネルギーの充填がピークに達するはずだ。大気圏内でそれほどの高エネルギーを励起すれば、発射口の周囲には数千度の熱対流と、激しい電離プラズマの渦が発生する」

 

ヤンの瞳に、冷徹な光が宿る。

 

「敵が主砲ハッチを開放し、エネルギーを照射しようとしたその瞬間——レヴィンソン君のウイルスで、シールドの同期を狂わせ、同時に艦の磁気偏向フィールドを一瞬だけ逆位相でショートさせる。……どうなると思います?」

 

ホイットモア大統領が、息を呑んで呟いた。

「……行き場を失った莫大なプラズマエネルギーが、内部でショートするのか?」

 

「ご明察です、大統領」

ヤンは静かに頷いた。

「蓋をされた圧力鍋と同じですよ。主砲のエネルギーは外へ抜けず、すべて自らの艦内に逆流する。何万トンものプラズマが内部で誘爆し、反重力推進炉に引火するはずだ。……我々は一発の弾丸も撃つ必要はない。彼らが自分たちの引き金を引いた瞬間、自慢の超兵器が自らの頭上で爆発するのを見届けるだけでいい」

 

作戦室が、水を打ったように静まり返った。

誰もが息をすることすら忘れ、この東洋人の青年に見入っていた。

 

数万隻の星間艦隊を率い、要塞を落とし、専制帝国の猛攻を幾度となく退けてきた男。

彼にとって、この異星人の侵略劇は「終末の危機」などではなかった。ただの、戦術の初歩を忘れた傲慢な侵略者が犯した、お粗末な自滅劇の筋書きに過ぎなかったのだ。

 

「……信じられない」

グレイ将軍が震える声で言った。

「世界中の軍隊がパニックに陥り、何千万人もの死を覚悟していた作戦が……こんな、机の上の論理だけで……」

 

「大統領!」デヴィッドが叫んだ。「ウイルスプログラム、完成しました! 世界中の通信衛星を経由して、全球のシティ・デストロイヤーの同期コードへアップロードを開始します!」

 

「よし……!」ホイットモアは拳を固く握りしめた。「全軍に通達! 退避行動を直ちに停止し、防護姿勢をとれ! 攻撃は一切行わない!」

 

カウントダウンのタイマーが、ゼロへと向かっていく。

 

午後 5:29:40

 

ワシントンD.C.の上空。

静まり返った街を見下ろす巨大円盤の底面で、鈍い機械音が響いた。中央の巨大なハッチがゆっくりと開き、青白い発光現象が渦を巻き始める。地表の車が震え、木々が熱風に煽られる。主砲のエネルギー充填率は九十パーセント、九十五パーセント……。

 

「アップロード完了!」デヴィッドがエンターキーを叩きつけた。

 

午後 5:30:00

 

破滅の光が地上へ放たれるはずの、運命の瞬間。

 

円盤の中央ハッチから放たれたのは、地表を焼き尽くす光線ではなかった。

プスン、と気の抜けたような青いスパークが散った刹那——ハッチの内部で、制御を失った超高圧プラズマが激しく逆流した。

 

ドォォォォォォォッ!!!

 

巨大な爆縮音が大気を引き裂いた。

ウイルスの干渉によって磁気シールドが内部へと収束し、閉じ込められた主砲エネルギーが、円盤の心臓部である反重力ジェネレーターを直撃したのだ。

 

装甲の隙間という隙間から、目も眩むような純白の閃光が噴き出す。

二十四キロメートルの巨体が、まるで巨大な花火のように内側から破裂し、自重と爆発の連鎖に耐えきれず、天頂で粉々に四散していった。

 

モニターの通信兵が、狂喜の叫びを上げた。

「ロサンゼルス上空の円盤、内部爆発により消滅!」

「ニューヨーク、ロンドン、パリ、モスクワ……世界各都市の敵母艦、主砲点火と同時に全艦が自壊! 撃墜確認!!」

 

歓声。

爆発的な歓声が、地下作戦室を揺るがした。

将校たちが帽子を放り投げ、抱き合い、デヴィッドは父と抱き合って涙を流した。ワシントンも、ニューヨークも、ロサンゼルスも、ひとつのビルすら崩れることなく、何千万もの無辜の命が完全に救われたのだ。

 

ホイットモア大統領は、安堵のあまり机に手をつき、それからゆっくりと顔を上げた。

「……勝った。一人の犠牲者も出さずに……」

 

大統領は、部屋の隅へ歩み寄った。

そこでは、世界を救った最大の功労者が、再びスチール椅子に座り、心底面倒くさそうに首を回していた。

 

「ヤン提督……」

ホイットモアは胸に手を当て、国家元首として、そして一人の人間として、最大の敬意を込めて頭を下げた。

「言葉もない。貴方のその恐るべき知性がなければ、今頃人類は滅び、この国は焦土と化していた。合衆国政府は、貴方に最高の栄誉である名誉勲章を授与し、ペンタゴンの最高軍事顧問として招聘したい。望む地位も報酬も、すべて用意しよう」

 

その申し出を聞いた瞬間、ヤンはまるで猛毒の蛇でも見せられたかのように、露骨に嫌そうな顔をして両手を振った。

 

「とんでもない! 勘弁してください、大統領!」

 

ヤンは頭を抱え、深いため息をついた。

 

「最高顧問なんて肩書を背負わされたら、今度は月軌道にいるマザーシップの後始末やら、異星人の残骸処理の予算編成やらで、死ぬまで書類仕事に追われる羽目になる。他人に命令するのもされるのも大嫌いな私にとって、そんな生活は拷問以外の何物でもありませんよ」

 

ヤンは立ち上がると、空になった紙コップをゴミ箱に放り込み、悪戯っぽく肩をすくめた。

 

「敵の前衛がこれだけ鮮やかに自滅したんです。月軌道にいるマザーシップの連中も、今頃パニックになって逃げ帰る算段をしているはずですよ。残敵の掃討なら、現場の優秀なパイロットたちに任せれば十分です」

 

ヤンは作戦室の重い防爆ドアを指差し、呑気な笑顔を浮かべた。

 

「さて、大統領。街が吹き飛ばずに済んだということは、地上のバーやレストランも無事なはずですね。……私の命の恩人になってくれませんか? つまり、美味い紅茶と、とびきり強いブランデーを置いてある静かな店まで、大統領専用車で送っていただきたいんですがね」

 

トーマス・ホイットモア大統領は呆気にとられ、それから——今日一番の、心からの笑い声を上げた。

 

「……了解した、提督。世界一のブランデーを用意させよう」

 

世界が未曾有の独立記念日(インデペンデンス・デイ)の喜びに沸き立つ中、稀代の魔術師は、ただ一杯の温かい紅茶を求めて、悠然と青空の下へと歩み出ていった。

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