ヤン・ウェンリー異世界見聞録   作:ヤソウェソソー

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プラン4. プリズン・ブレイク

フォックスリバー重警備刑務所の図書室には、古びた紙の匂いと、換気扇の鈍い回転音が漂っていた。

 

白髪の模範囚チャールズ・ウェストモアランドが飼い猫のマリリンの喉を撫でる傍らで、黒髪の青年が机いっぱいに新聞を広げていた。手元にあるのは『シカゴ・トリビューン』と地方経済紙のバックナンバー、そして薄汚れたプラスチックのカップだ。

 

「……やはり、ぬるいな。おまけに茶葉の質も褒められたものじゃない。せめてブランデーを角砂糖一個分でも垂らせれば、この世の不条理を呪わずに済むんだが」

 

ヤン・ウェンリーは小さくあくびを噛み殺し、頭をぽりぽりと掻いた。

なぜ宇宙歴の銀河から、西暦二千年代初頭と呼ばれる未開な惑星の重警備刑務所へと放り込まれたのか。身元不明の浮浪者として官憲の厄介になり、官僚機構のたらい回しの末にこの施設へと送られて二週間。ヤンが切実に願っているのは、年金の受給資格と、良質なアッサムティー、そして邪魔されない昼寝の時間だけだった。

 

だが、この陰気な図書室の空気を裂くように、足音が近づいてきた。

 

マイケル・スコフィールド。

冷徹なまでに理知的な青い瞳を持つその男は、自ら銀行強盗を働き、実兄リンカーン・バローズの死刑執行を阻むために潜入してきた天才建築設計技師だ。彼は手にした一冊の歴史書を戻すふりをしながら、ヤンの向かいの椅子を静かに引いた。

 

ここ数日、マイケルはこの東洋人の観察を続けていた。

ヤンは何の派閥にも属さず、白人グループのティーバッグにも、マフィアのジョン・アブルッチにも関わらない。だが、図書室でヤンが閲覧している書類の性質——シカゴ港湾の荷動き統計、地方の企業破綻告知、そして司法省の内部規程——それらをつなぎ合わせる視線の鋭さに、マイケルの本能が警鐘を鳴らしていた。

 

「隣、いいかい」

 

「どうぞ。もっとも、ここには気の利いた茶菓子もありませんがね」

ヤンは視線を新聞の経済面から上げず、気のない声で応じた。

 

「あんた、熱心に新聞を読んでいるな。外の経済動向に興味があるのか?」

 

「いいえ。歴史の縮図を眺めているだけですよ。人間という生き物は、何千年も同じ過ちと欲望を繰り返しているという実証をね」

ヤンは新聞を折り畳むと、マイケルを正面から見据えた。その瞳には、先ほどまでの眠たげな光は微塵もなかった。

「ところで、スコフィールド君。君の靴底のゴムの減り方と、中庭を測るように歩く歩幅の規則性から察するに……君、この頑丈な箱から兄さんを連れて逃げ出す気だね?」

 

マイケルの心臓が、激しく跳ね上がった。

全身の筋肉が一瞬にして硬直する。誰にも悟られぬよう偽装した歩行。靴の摩耗。それだけで、自分の意図を?

 

「……何の話だか分からないな」

 

「とぼけなくていい。ついでに言うなら、君が時折医務室の排水溝に落とす視線、刑務作業で執拗に壁の強度を調べている仕草、そして何より——」

ヤンはマイケルのシャツの袖口から微かに覗くタトゥーを指差した。

「その幾何学模様。あれは悪魔の顔や聖母マリアを描いたものじゃないね。縮尺と配管ルートを巧みに擬態させた、この施設の構造計算図だ」

 

マイケルの背筋を、氷のような戦慄が駆け抜けた。

潜在的抑制機能不全(LLI)という特異な脳の特性を持ち、あらゆる物体を設計図のように知覚できるマイケルが、数ヶ月の歳月をかけて彫り込んだ絶対の秘密。それを、言葉を交わして数分の男が、薄紙を剥ぐように看破したのだ。

 

「……あんたは何者だ? 『組織(カンパニー)』の回し者か? リンカーンを殺すために送り込まれたのか!?」

マイケルの瞳に殺気じみた警戒が宿る。だが、ヤンは心底困ったように両手を広げた。

 

「滅相もない。私は暴力も陰謀も大嫌いな、しがない歴史研究家に過ぎないよ。ただね、スコフィールド君。君のその計画——戦術としては極めて精緻で美しいが、戦略としては救いようのない下策だ」

 

「下策だと?」マイケルは低く唸った。

 

「ああ、下策さ。大戦術家が陥りがちな典型的な過ちだ」

ヤンは静かに、だが絶対的な説得力をもって言葉を紡ぎ始めた。

「君は『刑務所の外に出ること』ばかりに脳の容量を割いている。だが、外に出てどうする? この広大な合衆国全土に指名手配され、警察、FBI、そして君の兄さんを冤罪に陥れた黒幕の私設暗殺部隊に追われることになる。敵の制空権と情報網のど真ん中に、丸腰で飛び出すようなものだ」

 

「兄の死刑執行までは、あと数日しかないんだ! 法的な手段はすべて握り潰された! 俺たちには壁を越える道しか残されていない!」

 

「だからそれが、敵の誘導に乗っかっている証拠だと言っているのさ」

ヤンはため息をついた。

「敵が最も望んでいるのは何だと思う? リンカーン・バローズが『脱獄囚』として射殺されることだよ。そうすれば、裁判のやり直しを求める声も、証拠の不備を糾弾する声も、すべて永遠に闇に葬ることができる。君の脱獄計画はね、黒幕にとって願ってもない『合法的処刑の口実』をプレゼントしているに過ぎないんだ」

 

マイケルの頭部を、鈍器で殴られたような衝撃が走った。

言われてみればその通りだ。脱獄すれば、リンカーンは永久に「凶悪な逃亡犯」となり、正当な法的手続きによる名誉回復の道は断たれる。

だが、他に対処法があるというのか? 副大統領や巨大企業が結託した国家規模の陰謀を前に、刑務所の囚人に何ができるというのか。

 

「……なら、あんたならどうする?」

マイケルは震える声で問いかけた。挑発ではない。目の前の男が放つ、底知れない知略の重圧に屈した故の問いだった。

 

ヤンは悪戯っぽく口元を歪めた。

 

「戦争において最も愚かなのは、敵の強固な陣地に正面から突撃することだ。敵が巨大な権力構造であるなら、その構造自体の自重で押し潰してやればいい。壁を越える必要なんてない。向こうから平謝りで、正門の扉を開けさせるのさ」

 

「……そんなことが、可能だとでも?」

 

「可能にするために、まず君の頭の中にある情報を提供してもらおうか」

ヤンは机の上のメモ用紙を引き寄せ、鉛筆を指先で回した。

「君はここに入る前、兄さんの事件に関する公判記録、警察の調書、監視カメラの映像データ、関係者の経歴を徹底的に調べ上げたはずだ。そのすべてを、私に話しなさい」

 

マイケルは躊躇した。だが、ヤンの底知れぬ瞳に圧され、記憶の抽斗を開いた。

類稀なる記憶力を持つマイケルの口から、膨大なデータが吐き出されていく。

被害者とされるテレンス・ステッドマンの会社『エコフィールド社』の不自然な資金の流れ。連邦政府から環境技術開発のために注入されていた数億ドルの助成金。リンカーンが現場の地下駐車場に呼び出された経緯。そして、決定的な証拠とされた監視カメラの映像のコマ送りデータ——。

 

ヤンは時折頷きながら、手元の紙に幾何学的な図形と矢印を走り書きしていった。

話が終わった時、ヤンはふっと鼻で笑った。

 

「やはりね。あまりにお粗末な茶番劇だ」

 

「茶番……?」

 

「第一に、その監視カメラの映像だ」

ヤンは鉛筆の先で、駐車場における光源の角度を素早く描いた。

「リンカーン氏が銃を構えたとされる瞬間、背後の街灯と車両のヘッドライトの位置関係から計算すると、地面に落ちる影の角度が完全に破綻している。光速は不変ですが、幾何学の法則を無視して影が歪むことはあり得ない。この映像は、別撮りしたリンカーン氏の全身データを粗雑にはめ込んだデジタル合成だ。三流のプロパガンダ写真と何も変わらない」

 

マイケルの目が丸くなった。自分も違和感は抱いていたが、ヤンは一瞬でそれを「物理的・数学的な偽造の証明」として言語化してみせたのだ。

 

「そして第二に。彼らが隠蔽したがっているのは、殺人ではなく巨額の国家資金の横領だ」

ヤンは机に広げていた『シカゴ・トリビューン』の金融面を指差した。

「エコフィールド社の助成金が消えた時期と、現職のキャロライン・レイノルズ副大統領の選挙対策ファンドの資金移動の時期が、綺麗に符合している。彼らは数億ドルをマネーロンダリングするために、ステッドマンという男の存在そのものを社会的に消す必要があったのさ。……つまり、ステッドマンは死んでなどいない。彼は今もどこかで生きているよ」

 

「生きている……!? だが、死体も確認され、埋葬されたんだぞ!」

 

「権力者が自白を恐れる証人を消すなら、本物の死体に偽装するほうが遥かに確実だ。もし本当にステッドマンを殺す気なら、リンカーン氏のような無関係な人間に罪を着せるなどという、リスクの塊のような遠回りを誰がするものですか。彼が生きていなければ、スイス口座に隠された裏金を動かすこともできない」

 

ヤンは淡々と、しかし恐るべき精度で論理の鎖を繋げていった。

 

「問題は、彼がどこに隠されているかだ。……スコフィールド君、君が調べたカンパニー関連のダミー企業リストの中に、ここ数年で取得された人里離れた不動産物件はなかったかい?」

 

「……いくつかあった。ニューヨークのセーフハウス、フロリダの別荘、そしてモンタナ州ブラックフットの邸宅だ」

 

「モンタナだね」ヤンは即断した。

 

「なぜモンタナだと断言できる?」

 

「兵站(ロジスティクス)ですよ」

ヤンは指を一本立てた。

「人間が生きて潜伏する以上、必ず外部からの補給線が必要になる。ステッドマンが世間に顔を知られた有名人であるなら、人口密度の高い都市部やリゾート地では目撃されるリスクが高すぎる。外部との接触を物理的に遮断できる寒冷地が最適だ。そして——君の記憶にあるステッドマンの医療情報の中に、何か特記事項はなかったかい?」

 

マイケルはハッとして記憶を辿った。

「……ステッドマンは、重度のインスリン依存性糖尿病を患っていた。慈善財団の設立理由もそれだったはずだ」

 

「決まりだな」ヤンは悪戯っぽく笑った。

「インスリン製剤は要冷蔵であり、定期的な調達が絶対に途切れてはならない薬品だ。モンタナ州ブラックフットの周辺にある個人薬局の調剤記録を照合すれば、偽名で定期購入されている高純度インスリンの宛先が必ず浮上する。人間はどれほど強大な権力に守られていようと、自らの肉体の弱点という『補給の紐』からは逃れられないのさ」

 

マイケルは言葉を失っていた。

自分は刑務所の壁の厚さや警備兵の交代時間を秒単位で計算していた。だが、この男は権力構造の資金の流れ、影の幾何学、そして『生きるための補給線』から、国家の最高機密である男の潜伏先を、図書室の机の上だけで完全に割り出してしまったのだ。

 

「……化け物か、あんたは」

 

「買い被らないでくれ。歴史を学べば、兵站の途絶と偽造工作のパターンなど、何千年も前から擦り切れるほど記録されている」

ヤンは立ち上がると、メモを小さく折り畳んでマイケルの手に握らせた。

「君の弁護士——ベロニカ・ドノバン女史だったね。彼女にこのメモを渡しなさい。外部で無駄に走り回る必要はない。この住所の薬局と、司法省の信頼できる監察部門に焦点を絞って証拠を突きつけるだけでいい」

 

ヤンの盤面の支配は、それだけに留まらなかった。

彼は自ら激しく動くことは一切なく、ただ刑務所内の人間関係の「力学」を最小限の力で操作していった。

 

まず、刑務所を牛耳るマフィアのボス、ジョン・アブルッチ。

ヤンは運動場で彼に接触した際、図書室で読み込んだ新聞の地方訃報欄と経済記事の切り抜きを差し出した。

「アブルッチ君。シカゴ港湾の第4埠頭のコンテナ取扱量が不自然に急減し、君の息のかかった運送会社の役員が相次いで事故死している。君のファミリーの幹部ファルゾーニは、君を切り捨てて新しい代理人を立てる気だよ。脱獄の飛行機を手配するどころではないはずだ」

アブルッチは顔面を蒼白にした。ヤンは新聞の断片的な数字から、マフィア内部で進行していたクーデターを完全に読み切っていたのだ。

「私のアドバイス通りに、港湾利権に関する帳簿のコピーを検察の信頼できる部署へ匿名で流したまえ。組織は内紛で大混乱に陥り、君を消すどころではなくなる。君は刑務所の中で『最も安全な司法取引の重要証人』として保護されることになるよ」

冷血なマフィアのボスが、ヤンの前で冷汗を流し、従順な生徒のように頷いた。

 

さらにヤンは、ヘンリー・ポープ所長をも手玉に取った。

マイケルが所長室で作製を手伝っていたタージ・マハル模型の修復を通じ、ヤンはマイケルに特定の台詞を囁かせた。合衆国司法省の内部監察規定、死刑執行における手続き上の瑕疵に対する所長個人の民事責任——官僚心理のツボを突かれたポープ所長は、自らの正義感と保身の双方から、「バローズの処刑に不自然な圧力がかかっている」という疑念を深め、刑務所内の防壁として機能し始めた。

 

そして、運命の死刑執行前夜。

 

マイケルが準備していた、医務室の格子を腐食させて脱獄を決行するはずの夜が訪れた。

だが、脱獄のサイレンは鳴らなかった。

 

フォックスリバーの静寂を破ったのは、上空を旋回する複数機のヘリコプターの爆音と、けたたましいサイレンを鳴らして突入してきた司法省とFBI本部直属の特別捜査班だった。

 

ベロニカが提示したインスリン調達ルートの証拠により、モンタナ州ブラックフットの豪邸でテレンス・ステッドマン本人が生きて拘束されたのだ。さらに監視カメラ映像の偽造解析、エコフィールド社の横領資金の流れがメディアへ一斉にリークされたことで、キャロライン・レイノルズ副大統領派閥に対する家宅捜索令状が緊急発付された。

 

死刑執行用の電気椅子の直前で、リンカーン・バローズの拘束具が外された。

「リンカーン・バローズ。合衆国最高裁の命令により、死刑執行は無期限停止、ならびに即時釈放の手続きが取られます」

 

呆然と立ち尽くすリンカーン。

そして鉄格子の間からその光景を見つめていたマイケル・スコフィールドは、全身を震わせていた。

 

血を一滴も流さず。

刑務所の壁に指一本触れることなく。

ただ図書室の片隅で新聞をめくり、鉛筆を走らせただけで、合衆国政府の巨悪を叩き潰し、死刑台から兄を救い出した。

 

これが、ヤン・ウェンリーという男の「戦い」だった。

 

翌朝、雲一つない青空の下、フォックスリバーの重厚な正門が開かれた。

リンカーンとマイケルは、完全な無罪放免として、堂々と正面玄関から足を踏み出した。迎えに来たベロニカ、そして息子のLJと抱き合い、兄弟は奇跡のような自由に涙を流した。

 

マイケルはふと足を止め、振り返った。

釈放の手続きを終え、よれよれの私服に着替えたヤンが、眩しそうに朝日に目を細めながら歩み出てくるところだった。不法滞在の容疑など、国家を揺るがす大事件を解決した功績の前には完全に吹き飛んでいた。

 

マイケルはヤンに歩み寄り、深々と頭を下げた。天才と呼ばれた青年の瞳には、純粋な敬畏と、底知れぬ恐怖が入り混じっていた。

 

「……あんたは一体、何者なんだ。神なのか、それとも悪魔なのか」

 

ヤンはベレー帽をかぶり直すような仕草をしてから、自分が帽子を持っていないことに気づいて苦笑した。

 

「どちらでもないよ。私はただ、歴史を少し知っているだけの怠け者さ。独裁者や権力者がどれほど強大に見えても、彼らが築く陰謀の城は、いつだってごく平凡な人間の欲と怠惰の歪みで脆くなっている。少し突いてやれば、自重で崩れるのは当たり前なんだよ」

 

ヤンは大きく伸びをして、澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

 

「さて、スコフィールド君。君の兄さんの無罪も証明されたことだし、私はようやく人心地つけそうだ。……ところで、街に出たら、どこか美味い紅茶を飲ませてくれる店を知らないかい? できれば、とびきり上等のブランデーを置いてある店がいいんだがね」

 

歴史上最も恐るべき「魔術師」は、春の陽気のような呑気な笑みを浮かべ、自由になった兄弟を連れて、のんびりと歩き出した。

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