初夏の光が柔らかく降り注ぐシカゴ川のほとり。水面を滑る遊覧船のエンジン音と、カフェのテラスを渡る心地よい風が、数日前までの鉄格子と硝煙の記憶を幻のように遠ざけていた。
煉瓦造りの瀟洒なカフェの丸テーブルには、湯気を立てる大きな陶器のティーポットと、琥珀色の芳醇な香りを放つヘネシーのボトル。
ヤン・ウェンリーは満足そうに目を細めると、周囲の目を気にする風もなく、ショットグラスに並々と注いだブランデーをティーカップへ勢いよく注ぎ込んだ。その比率は、世間一般の常識に照らせば「紅茶風味の温かいブランデー」と呼ぶのが正確だった。
「……ふう。やはり、これだな。人間が文明という厄介な代物を何千年も維持してきた真の理由は、核兵器や高層ビルを作るためではなく、上等な茶葉と良質な蒸留酒を味わうためだと確信するよ」
心底から幸福そうにため息をつくヤン。
その向かいには、仕立ての良いカジュアルなジャケットを着崩したリンカーン・バローズと、鋭い青い瞳を静かに和ませたマイケル・スコフィールドが座っていた。
少し離れたテラスの柵沿いでは、リンカーンの息子LJが、ベロニカ・ドノバンに買ってもらった焼きたてのプレッツェルを頬張りながら、川を行く船を屈託のない笑顔で指差している。命を狙われ、全米を逃げ回っていた少年が取り戻した、当たり前の日常の光景だった。
「……信じられねえな」
リンカーンが太い両手でマグカップを包み込み、低く呟いた。
「数日前まで、俺はあの陰気な独房で電気椅子の冷たさを想像してたんだぜ。それが今じゃ、無罪が確定して、息子と一緒にシカゴの風に吹かれてる。……ヤン、あんたがいなけりゃ、俺の命どころか、LJもベロニカも確実に消されてた」
「礼を言われる筋合いのものではありませんよ、バローズ氏」
ヤンは照れ隠しのように手を振った。
「私はただ、無実の市民が国家権力の都合のいい生贄にされるのが、歴史家としても一市民としても我慢ならなかっただけです。それに……君の弟君が立てていた脱獄計画に巻き込まれて、真夜中に有刺鉄線をよじ登り、冷たい下水を泳ぐ羽目にならずに済んだ。私自身の安眠のためでもあったんですから」
マイケルが、口元に微かな苦笑を浮かべた。
「あんたの言った通りだったよ、ヤン。俺の計画は、壁のコンクリートを何パスカルの圧力で砕くか、配管の直径が何インチかという『戦術』にとらわれすぎていた。外に出た後の世界で、俺たちがどうやって生き延びるかという『戦略』が完全に抜け落ちていたんだ」
マイケルはコーヒーに口をつけ、ふと真剣な眼差しでヤンを見つめた。
「だが、今でも信じられないんだ。あんたは刑務所の図書室から一歩も出ず、新聞の切り抜きと俺の記憶にあったデータだけで、どうしてあそこまで完璧にステッドマンの潜伏先を特定できた?」
「難しいことじゃありませんよ、スコフィールド君」
ヤンはカップをソーサーに置き、指を一本立てた。
「どんな巨大な権力機構も、それを動かしているのはごく平凡な肉体を持った人間です。神や悪魔じゃない。そして人間である以上、生きるためには外部からの補給——兵站(ロジスティクス)が絶対に必要になる。テレンス・ステッドマンがインスリンを必要とする重度の糖尿病患者であると聞いた時点で、彼が隠れられる場所の選択肢は極端に狭まるのさ」
ヤンは淡々と、しかし恐るべき合理性で紐解いていく。
「都市部の大病院では偽名を使っても顔が割れるリスクがある。逆に、あまりに隔絶された未開地では、厳格な温度管理が必要なインスリン製剤の定期調達が難しい。人里離れつつも、適度な規模の個人薬局が存在し、なおかつプライバシーが守られる寒冷な高級別荘地……君が集めていたダミー企業の不動産リストと照合すれば、モンタナ州ブラックフット以外の答えはあり得なかった。真理というものは、いつだって複雑な計算の果てではなく、当たり前の事実を消去法で削ぎ落とした最後に残るものだよ」
マイケルは深く息を吐き出し、首を横に振った。
「潜在的抑制機能不全(LLI)を持つ俺の脳でも、そんな視点は持てなかった。……あんたの頭の中には、一体どんな世界地図が広がっているんだ」
「世界地図というよりは、人類の愚行の目録ですね」
ヤンは苦笑した。
「独裁者や腐敗した権力者が悪巧みを働く時、手口のパターンなんて古代ローマの昔から数えるほどしかありませんよ。彼らはいつだって自分たちを全能だと信じ込み、その傲慢さゆえに、一番足元にある初歩的な兵站の綻びを見落とすんです」
「……なあ、ヤン」
リンカーンが身を乗り出し、声を潜めた。
「副大統領のレイノルズは辞任に追い込まれ、ステッドマンの身柄は連邦最高裁が抑えた。だが……あの影で糸を引いていた『組織(カンパニー)』の連中は、本当にこのまま引き下がると思うか? 奴らが報復に動く可能性は……」
その問いに、ヤンは実につまらなそうに肩をすくめた。
「引き下がるも何も、彼らにはもう誰かを狙う余裕なんてありませんよ」
「なぜそう言い切れる?」
「秘密結社や影の権力というものはね、暗闇の中に潜んでいるからこそ無敵に見えるんです」
ヤンはカップを指先で回しながら、冷徹な現実を語った。
「白日の下に晒され、メディアのカメラと連邦議会の公聴会、国税庁の監査官の群れに囲まれた瞬間、彼らの『全能の神話』は音を立てて崩れ去る。今頃カンパニーの幹部連中は、自分の名前が記載された帳簿をシュレッダーにかけるのに必死で、互いに責任をなすりつけ合い、裏切り者を警戒して身を潜めているはずです。強欲で結びついた人間ほど、保身に回った時の結束力は脆いものですよ」
ヤンの言葉を裏付けるように、テラスの向こうのニューススタンドには、『エコフィールド事件:副大統領派閥の資金管理会社にFBIが一斉家宅捜索』『疑惑の投資会社幹部、相次いで国外逃亡か』という見出しが躍っていた。
「それに、フォックスリバーの友人たちも、それぞれの場所でうまくやっているようですしね」
ヤンが何気なく付け加えた。
「ジョン・アブルッチは、シカゴ港の不正帳簿を連邦検察に引き渡したことで、今や厳重な保護下で司法取引の協議に入っている。裏切り者たちに命を狙われる心配もなく、安全な連邦刑務所で悠々自浄作用を待っているはずだ。ポープ所長も、政治的圧力に屈せず司法省の突入を毅然と受け入れた『正義の官僚』として、司法界から称賛を集めている。……あのタージ・マハルの模型も、奥さんと無事に完成させたことでしょう」
刑務所の中の人間関係すら、すべてがヤンの描いた安全な配置のまま、誰一人命を落とすことなく収束していた。
マイケルは、改めてこの男の恐ろしさを噛み締めていた。
暴力も、銃火器も、暗号化された設計図すら使わず、ただ人間の欲望と恐怖、そして組織の力学をわずかに傾けただけで、国家規模の陰謀を自重崩壊させたのだ。
「……それで、ヤン。あんたはこれからどうするんだ?」
リンカーンが尋ねた。
「俺とマイケルには、不当勾留と冤罪に対する国家からの巨額の補償金が支払われる。ベロニカが手続きを済ませてくれた。LJを連れて、海の見える静かな街で小さな修理工場でも開くつもりだ。……あんたの分の分け前も、マイケルがちゃんと管理してるぜ」
マイケルが上着の内ポケットから、一枚の銀行小切手を取り出してテーブルに置いた。
そこに印字された数字は、贅沢を極めない限り、一般市民が生涯を遊んで暮らすのに余りある金額だった。
「あんたの身元については、ベロニカの事務所を通じて正規の市民権と社会保障番号(SSN)を取得できるよう手を打った。不当な拘束への協力者として、連邦政府からも公式な謝礼が出ている。……あんたほどの頭脳があれば、ペンタゴンでも大学の教授職でも、望むポストをいくらでも手に入れられるはずだが」
マイケルの提案を聞いた瞬間、ヤンはまるで劇薬でも突きつけられたかのように、露骨に嫌そうな顔をして身を引いた。
「冗談じゃない! 教授職だの政府の顧問だの、そんな重たい看板を背負わされたら、今度は官僚の会議と書類仕事の山で圧死してしまう。私はね、暴力や陰謀が大嫌いですが、それと同じくらい残業と責任という言葉が大嫌いなんですよ」
ヤンは慌てて両手を振ると、テーブルの小切手をそっと指先で引き寄せた。
「私の夢は、極めて慎ましく、ささやかなものです。古本屋の近くに日当たりのいい小さなアパートを借りて、朝は目覚まし時計をかけずに起きる。昼には美味しい紅茶を淹れて、ブランデーを少し垂らし、誰にも邪魔されずに歴史書を読む。……この小切手があれば、どうやらその念願の『年金生活』が前倒しで実現できそうだ」
心底から安堵したようなヤンの顔を見て、リンカーンが堪えきれずに大笑いした。
「がははっ! 最高だな! 世界を救った大天才の夢が、ただのぐうたら生活とは恐れ入ったぜ!」
「笑い事じゃありませんよ」
ヤンは頭をぽりぽりと掻き、悪戯っぽく微笑んだ。
「人間が余計な野心や使命感を持たず、ただ美味い酒を飲んで昼寝をすることに満足していれば、戦争も陰謀もこの世から半分は消滅するんですから」
からりと晴れ渡ったシカゴの青空の下、三人は笑い合い、それぞれのグラスを掲げた。
冷たい鉄格子の世界を頭脳一つで解体した稀代の知性は、ようやく手に入れた「退屈で、平和で、誰も死なない日常」の温もりを、ブランデーの染み渡る喉の奥に、静かに噛み締めていた。