プロローグ:トロピカルランドの迷子と、小さくなった名探偵
「やれやれ、どうにも妙な場所に出たものだ。ここがヴァルハラだとしたら、ずいぶんと騒がしい趣味をしているね」
ボサボサの黒髪を無造作にかき上げながら、ヤン・ウェンリーは夜の遊園地の片隅で深いため息をついた。つい先刻まで、自分の部屋のソファで魔術師めいた惰眠を貪っていたはずなのだが、気がつけば見たこともない極東の島国の、しかもけばけばしいネオンが輝くテーマパークの茂みの中に立っていたのである。
手元には愛用のベレー帽があるだけで、同盟軍の軍服ではなく、どこかくたびれた灰色のジャケットとスラックスを身につけている。ポケットを探ると、幸いにもスキットルに入ったブランデーだけは残されていた。
「さて、不法侵入で憲兵に突き出される前に退散したいところだが……」
ヤンが茂みを抜けようとした、まさにその時だった。
ジェットコースターの鉄骨がそびえ立つ暗がりの中で、全身を黒い服で包んだ二人の男――銀髪の冷酷な目つきをした長身の男と、サングラスをかけた巨漢が、倒れ込んだ高校生の少年の口に、何やらカプセルのようなものを無理やり押し込んでいた。
「あばよ、名探偵」
銀髪の男――ジンが低く嗤い、ウォッカを連れて足早に闇の中へと消えていく。
残された少年は、地面を掻きむしりながら激しい苦悶の声を上げていた。次の瞬間、ヤンの目の前で、少年の骨格と筋肉が物理法則を無視したかのように収縮し、白い煙とともに小さな小学生ほどの体躯へと変貌を遂げたのである。
「……なるほど。私の知らない科学技術か、あるいはブランデーの飲み過ぎによる幻覚か。どちらにせよ、見なかったことにして立ち去ると、あとでひどく寝覚めが悪そうだ」
ヤンはぶつぶつと文句を言いながらも、ぶかぶかの学生服に埋もれて意識を失っている小さな少年をひょいと抱き上げた。少年のポケットから落ちた学生証には『帝丹高校二年・工藤新一』と記されている。
一時間後。意識を取り戻した工藤新一に道案内をさせ、米花町二丁目の阿笠博士の邸宅へと辿り着いたヤンは、リビングのソファに深く沈み込み、博士が淹れてくれた紅茶に自分のスキットルから惜しげもなくブランデーを注ぎ込んでいた。
「――というわけなんだ、博士! 俺、あの黒ずくめの男たちに、まだ人間には一度も使ったことがないっていう試作品の毒薬を飲まされて……!」
新一が必死の形相で事の顛末をまくし立てる。阿笠博士は目を丸くして震えていたが、ソファの向かいで紅茶のカップを傾けていたヤンは、まるでチェスの定石でも眺めるような退屈そうな瞳で口を開いた。
「毒薬、ね。だが君はこうして生きているし、思考能力も損なわれていない。もし彼らが単なる暴力団や暗殺ギルドなら、確実性の高い既存の神経毒か、あるいは消音器付きの拳銃を使ったはずだ。わざわざ『人間には未投与の試作品』を現場の実行犯が持ち歩き、口封じに使ったのには、二つの矛盾がある」
新一がハッとしてヤンを振り返った。
「二つの矛盾……?」
「ああ。第一に、あの銀髪の男は薬の効果を『死体から毒が検出されない完全犯罪用の毒薬』だと信じていた節がある。つまり、開発部門と実行部隊の間で、薬の真の目的――あるいは副作用に関する情報が意図的に遮断されているということだ。第二に、そんな高度な生化学の結晶を、一介の現場工作員が携行しているという点だよ」
ヤンはカップをソーサーに置き、膝の上で指を組んだ。
「これが意味するのは一つさ。連中は単なるマフィアじゃない。国家予算規模の研究施設を裏で維持できるほどの莫大な資本を持ち、少なくとも数十年単位で『人間の肉体そのものを変質させる研究』に固執している巨大シンジケートだ。そして組織のトップは、現場の殺し屋にすら真の目的を明かさないほどの極端な秘密主義者……おそらく、老いと死を極端に恐れる高齢の独裁者だろうね」
「なっ……!?」
新一は言葉を失った。たった一度、物陰からジンとウォッカのやり取りを垣間見ただけの男が、なぜそこまで組織の輪郭を正確に切り取れるのか。
「あんた、一体何者なんだ……? 警察の人間か? それとも探偵か?」
「いやいや、ただの失業中の歴史研究者だよ。ヤン・ウェンリーとでも呼んでくれ」
ヤンがおっとりと微笑んだ、その時だった。
ピンポーーーン!
静かな夜の邸宅に、けたたましく玄関のチャイムが鳴り響いた。続いて、開いていた玄関ドアの向こうから、聞き覚えのある少女の呼ぶ声が廊下に木霊する。
『博士ー! 新一がまだ帰ってこないんだけど、こっちに来てない!?』
「し、しまっ……蘭だ! 幼馴染の毛利蘭!」
新一が飛び上がり、ぶかぶかの服の裾を踏んで転びそうになった。
「博士、頼むから俺のこと絶対に言わないでくれよ! 俺が生きてるって奴らにバレたら、俺だけじゃなく周りの奴らまで消されちまう!」
パニックになって阿笠博士の作業机の下へ潜り込もうとする小さな名探偵を横目に、ヤンはソファから立ち上がり、壁一面に並んだ本棚の背表紙――『江戸川乱歩全集』と『アーサー・コナン・ドイル』の文字を指先でなぞった。
「客人に自分の正体を明かせないなら、亡命者には偽名が必要だね。……ふむ、江戸川コナンなんてのはどうかな。歴史上、こういう咄嗟の嘘は単純な組み合わせほど盲点になるものさ」
「え、江戸川……コナン……?」
新一が復唱した瞬間、リビングのドアが勢いよく開いた。
「博士ー! あれ、お客さん……?」
飛び込んできたのは、制服姿の女子高生・毛利蘭だった。彼女は部屋の中央に立つ見慣れないくたびれたジャケットの青年(ヤン)と、机の陰から恐る恐る顔を覗かせている眼鏡の小さな男の子に目を留めた。
「あら? 可愛い……! 博士の親戚の子?」
蘭がしゃがみ込み、目を輝かせて顔を覗き込んでくる。新一はヤンから授かったばかりの名前を、裏返った声で絞り出した。
「え、江戸川……コナン! ぼ、僕の名前は江戸川コナンだよ!」
「コナン君ね! 珍しいお名前」
蘭が屈託のない笑顔を浮かべ、それから博士に向き直ってため息をついた。
「もう新一のやつ、どこへ行っちゃったのかしら。……うちのお父さん、探偵事務所をやってるのにちっとも仕事が来なくて暇そうだから、新一にでも事件を回してもらおうと思ったのに」
蘭の視線が博士へ向いたその一瞬、ヤンは音もなくコナンの背後にしゃがみ込み、少年の耳元へ微かな吐息とともに言葉を滑り込ませた。
「(……いい隠れ蓑じゃないか、コナン君。奴らの情報を追うなら、警察の目が届きにくく、怪しい依頼が集まる民間の探偵事務所は最高の結節点だ。潜伏工作の定石だよ)」
コナンがハッと息を呑んでヤンを見上げる。ヤンは悪戯っぽく片目を瞑ってみせると、何食わぬ顔で立ち上がり、今度は蘭と博士に向けて人当たりのいい柔和な笑みを浮かべた。
「お嬢さん、お父上が探偵事務所を開業しておられるのですか。……博士、これはちょうどいいお話ではありませんか。失礼ながら、発明に没頭しがちな独身の博士がお一人でこの小さな坊やを預かるより、家庭のある探偵さんの事務所でお世話になる方が、防犯面でも情操教育の面でもよほど安心かと思いますがね」
「えっ……? お、お父さんの事務所でコナン君を?」
蘭が目を丸くする。ヤンの見事なアシストに、阿笠博士もポンと手を打って話を合わせた。
「そ、そうなんじゃよ蘭君! この子はワシの遠い親戚の子なんじゃが、両親が事故で急に入院してしまってのう……! ワシのような男所帯では手の回らんことも多い。君の家で預かってもらえたら、これほど心強いことはないんじゃが……!」
「まあ、そうだったんですか! いいわよ、うちもちょうど寂しかったし! お父さんには私から言っておくわ!」